これから話すのは、以前に知り合った、とある大企業の会社社長の話だ。
半年ほど前のこと。その日、たまたま立ち寄った飲み屋で隣り合わせの席になったという、ただそれだけの間柄。
だが、何となく話しているうちに、互いに妙に意気投合して、気付けば店を数件ハシゴして飲み明かすという、馬鹿馬鹿しいことまでやっていた。
そうして、しこたまへべれけになったこちらを、彼は楽しい酒を飲めたから、という理由だけで、丁寧に自宅へ送り届けてくれたのである。
こちらとしては恐縮しきりだが、以来、一緒に飲もうという誘いが入るようになった。
もっとも、彼の素性を知ったのは、更に後日ではあったが。
彼──仮に、S氏としておこう。
S氏は既に五〇半ばを過ぎ、そろそろ老齢期に差し掛かろうという年齢である。だが、威風堂々の雰囲気をたたえる恵まれた体躯と姿勢の良さは、彼をもうひとまわりは若く見せていた。
いや、若さを感じさせる理由はそれだけではない。先見の明を持ち、機を見るに敏く、失敗を恐れない挑戦者の精神と、これと決めたことはやり抜くという強い信念の持ち主で、さまざまな事業を興し成功を収めてきたという自信にあふれていた。
私生活においても、それは例外ではないらしい。先頃、S氏よりふたまわりは若い奥方が、待望の子供を懐妊したと聞き及ぶ。下世話な話ではあるが、つまり、そちらもお盛んということだ。
朗らかで人好きのする性格であるところも、おそらくはその人生の成功の一助なのだろう。
初対面の自分から見てすら一目でわかるほどの、「これぞまさに成功者」という雰囲気が、S氏にはあった。
東北のとある田舎の出身で、両親は地付きの土豪の流れを汲むという、裕福な家庭に生まれた彼は、東京の大学に入学したのを期に、実家を手放したという。
手放した。そう、「手放した」と彼は言った。
つまり、彼の実家は、その時点で既に彼の持ち家だったというのだ。
御両親は? と訊くと、高校卒業を目の前にした頃、ふたりそろって交通事故で亡くなっている、とのこと。
若くして両親を亡くしながらも、それにくじけることなく努力を重ね、大成する道を歩み続けてきた成功者──なるほど、これは確かに日本人好きのする立身出世の物語だった。
そんな、出来過ぎなほどドラマチックな身の上話に、お若いうちから苦労なさったんですね、と少々の野次馬根性も含めて言葉を返す。
それに対するS氏の返事は、全く軽かった。
いやぁ、それが別段苦労した覚えはなくてねぇ。屈託なく笑いながらの言葉には、実際、困難や苦労をにおわせる暗い陰など、かけらも窺えない。
しかし、言葉の途切れ際、S氏が「本当は、両親以外に姉もいたんだけどね」と、そのときだけは静かに肩を落とすような物言いで呟いた。
両親についてを話すときの軽い調子とはうってかわって、過ぎ去りし遠い日を思い出すような哀切の表情に、こちらの野次馬根性が刺激されないはずもない。
へぇ、お姉さんが?
逸る気を抑え、呟きの先を促したこちらの言葉に、「今の僕があるのは、姉のおかげなんだ」と、彼は自分の身の上話をぽつりぽつりと語り出した。
僕の生まれた町はね、かろうじて町の体裁を保っていると言っても過言ではないような、さびれた過疎の町なんだ。
だけど、土豪上がりの名士だった僕の家だけは、その町の寂れ具合とは反対にそこそこ裕福でね。
奇妙なことに……なんて僕が言うのもあれだけど、実際奇妙なことに、そんな寂れた土地であるにもかかわらず、古い因習やしきたりのある家にありがちな、血族ばかりのしがらみや婚姻に陥ることもなく、なぜか代々安泰に続いてきたんだよ、僕の家は。
子供のうちはそれを特に不思議に思うこともなく、それこそ何の不自由もなく育ってきたけれど、小学校の高学年になる頃には、やっぱり何となく奇妙な感じを覚えていてね。
あぁ、その辺はまぁおいておこう。今は、姉の話だったね。
あれは、僕が小学校を、姉も中学を卒業する年だった。
姉は、大層美人だった。そして、とても優しくて、とても聡明だった。あぁ、これは身内の贔屓目でも何でもない。まだほんのガキだった僕にすら、完璧の意味が理解できてしまうほどだったんだ。
僕のことを、頭がいいとか人格者だとか無責任にほめそやす人は多いけどね、僕なんて姉に比べたら月とスッポン、今になっても、姉にはとても及ばないと思ってるよ。
けれど、そんなに出来た姉は、高校へは行かなかった。いや、行くことはなかったんだ。
何故かって? あぁ、まさにその「何故」についてを、僕は君に話そうと思う。
あれは、姉が中学を卒業する年の、秋の頃。家の敷地の片隅にある倉を取り壊そう、という話が出たんだ。
そこそこ裕福とは言うものの、もう町自体の活気もないし、この土地にいても将来的にはあまり明るくないだろうってのも目に見えていたからね。両親も、そろそろ家やら土地やら整理して引っ越しでも、と考えたんだろう。
実際、僕も姉も年が明ければ進学するわけだから、タイミングとしても悪くなかったし。
ところが、取り壊すために倉の中をあらためたところで、急に取りやめになったんだ。
どうやら、倉の中から古い書き付けが出てきて、「倉を壊してはならない」みたいなことが書いてあったらしい。
多分、古い家によくある、家の起源とかそういうたぐいを書いたものだと思うんだけど、僕にはさっぱりわからないものだった。
そもそも、家の起源なんて興味もなかったし、新しい生活への期待が盛り上がりかけていたところに水を差された感じがして、むしろ恨みがましく思っていたよ。
それにね、それが見つかってからというもの、両親の言動が何だかおかしくなり始めたんだ。
取り壊しをやめた倉を、今度は必死になってきれいにしはじめた。
倉の中に部屋を作るように畳を敷いて、更に神棚みたいなものをこしらえて、朝夕、その神棚に酒をお供えするよう、姉に言いつけた。
それも、「今後、倉に入るのは姉だけ」という条件付きで。
まぁ、その程度なら古めかしい家とかなら、ままある話かもしれない。でも、其処からがまた変なんだ。
さっきも言ったとおり、姉はとても賢かった。あんなに賢いのだから、当然それなりに学力の高い都会の学校に行くものだと思っていた。引っ越しの話もあったしね。
なのに、それが始まってから、両親は進学どころか、家からすら滅多に出さなくなった。学校は、重病で療養しているとかいう理由で休学させた。
姉の様子もだんだんおかしくなっていった。といっても、両親のようなわけのわからない突飛なものじゃなく、むしろ何か諦めたような、覚悟したような、そういう感じだった。
そんなある日、姉が僕を呼んで、こっそり言ったんだ。年が明けたら、輿入れするんだと。
輿入れなんて耳慣れない言葉、小学生の僕には、当然ながら全くピンとこなくてね。ちんぷんかんぷんの頭で、「輿入れって何?」と姉に尋ねたんだ。
そのときの姉は、少し考えた顔をして、それから、結婚みたいなもの、と優しく笑いながら教えてくれた。
僕は、そりゃもうびっくりしたさ。
だいたい、姉は法律で定められた結婚可能な年齢になっていないどころか、まだ中学を卒業すらしていないわけで、それがどんなにおかしなことか、小学生の僕だってわかったさ。
姉が言うには、両親はそれをとても望んでいるという。でも、急にそんなことを言われても、まるで意味がわからないよね。
だけどそのときの僕は、実はそれ以上に、「いったい何処の誰が姉と結婚するのか」ということで、頭がいっぱいになっていた。
あぁ、そうだね、うん。これは少し恥ずかしい話になるんだけど、僕にとって姉は、女性の理想像そのものなんだ。勿論、当時はそんな自覚は全くなかったけれど、今思えばもう、多分その頃からずっと、確かにそうだったんだよ。
でも、僕のその疑問には、何故か明確な答えが返ってこなかった。
曖昧な笑顔を浮かべた姉は、そのときはただ、「とても貴い方のもとへゆくのよ」とだけ言ったんだ。
何処の誰なのか、どんな相手なのか、全く何もわからない。だから僕は、姉が結婚する相手を見定めてやろうと勝手に決心して、学校にいるとき以外の時間を全て姉のそばで過ごすようになった。
そうやって姉の周りを見張って、べったりくっついて離れない――まるで赤ちゃん返りの幼児みたいな行動だったね。だけど、そのときの僕は本気も本気で、必死に姉にへばりついていたんだ。
でも、その機会はなかなか訪れなかった。
もしかしたら僕が学校に行っている間に会っているんじゃ、なんて疑いもちらっとありはしたけれど、姉が嘘をつくような人間でないことだけは全く信じていたから、それはないな、とその都度思い直したよ。
先にも言ったとおり、姉はとても賢く聡明な人だったからね。わざわざ嘘をつく必要がないというか、まぁつまり、嘘をつかねばならないような失態をする人ではなかったってことさ。
姉も、僕のそういうところは、よくわかっていたんだと思う。
だから、「そのときが来たら必ず教えてあげる」と、僕に約束してくれた。
どうやら、僕には相手を内緒にしておくよう、両親に言い含められていたようなんだ。でも、姉は最初からそれを守る気はなかったらしい。
とはいえ、今となってはもう、それすら確かめられないけどね。
で、それからまた少し過ぎた頃。何せ、もう四十年以上前のことだからね、何月何日とか、詳しい日付はすっかり忘れてしまったけど、確か、年が明けて、そろそろ節分を迎える辺り、だったと思う。
ただ、朝からずいぶんと雪が降っていたことだけは、はっきり覚えているよ。
その数日前に、姉の着る花嫁衣装が届いていた。
打掛、引き摺り、綿帽子。帯に足袋、扇子や筥迫にいたるまで、その日降った雪のように真っ白な婚礼支度だった。
倉の神棚の前に置かれたそれは、子供の目にも一目でわかる上等なもので、これに袖を通した姉はさぞや美しいに違いないと、見ているだけでも容易に想像できたよ。
万が一にも汚したりしてはいけないから、と、いっそう厳しく倉に行かないよう、両親から言われた。でも、この頃にはもう、姉は食事や風呂以外のときはほとんど倉で暮らしているような状態だったから、僕は両親の目を盗んでは姉に会いにいっていた。
倉の奥には入れてもらえなかったけれど、倉の戸口の敷居に座り込んで入り浸る、そんな感じでね。
でも、このときになってもまだ、当の相手とやらには会えずじまいになっていた。
だから、姉がこのまま、未だに何処の誰ともわからない相手のところへ行ってしまうのだと思うと、とにかく悔しくて悲しくて。
僕も春には小学校を卒業するような年だったのに、毎日姉と顔を合わせてべそべそと、泣きごとを言っては困らせていた。
姉は僕にはいっとう甘かったから、そんな僕をいつも慰めてくれていたのだけど、ある日、ついに根負けしたようにこう言ったんだ。
今夜、お迎えが来るの。大事な内緒ごとを話すような仕種で、姉はこうも言葉を続けた。
そのときなら顔も見られるでしょうから、こっそりのぞきにいらっしゃい。本当はだめなのだけれど、あなたなら許してあげる。お父さんやお母さんに知られないよう、こっそりね。
以前に約束してくれた手前、きっと姉も僕に申し訳なく思ってくれていたんだろう。
勿論、輿入れが覆るようなことはもう絶対にないのだろうけど、あまりにしょげかえる僕を不憫がって、慰めるようにそう言ってくれたんだ。
とはいえ、あまりに急な話じゃないか。そもそも姉の花嫁衣装以外の準備は何もされていなかったから、まさかもう相手が迎えに来ることになっているなんて思いもしなくて、僕はひどく動揺してしまってね。
そのときだって、絶対に顔を見てやる、という思いは勿論あった。
ただ、いざそうしろと言われると、変な気まずさみたいな気持ちがちくちくと僕の中に生まれてしまって、腰が引けてきてね。そのときは姉の言葉にうなずきはしたものの、うろたえたまま自分の部屋に帰ったんだ。
夜になるまで、そりゃぐるぐると思い悩んださ。でも、気持ちはいろいろと混乱していたけど、結局、やっぱり相手を一目くらいは見ておかなければ、と思い直してね。
やっと気持ちを奮い立たせた僕は、日付が変わるくらいの頃を見計らって、寝たふりから起き出し、姉に言われたとおり、そうっと倉に足を向けたんだ。
寒かったよ。雪もそれなりに積もっていたから、何より足が冷えた。
勿論、倉の中なら火鉢も置かれていたけれど、こっそり見に行くことになっていた手前、僕はその暖かさには与れないわけだから、寝間着の上から掻い巻きを着込んで、靴下の重ねばきまでして行った。
雪の夜だったからっていうのもあるだろうけど、そこまでしても空気はまだ寒くて、冷たい空気が鼻の奥から目までしみて、いっそ痛いくらいだったよ。
倉の戸口まで来てみれば、僕が身体を滑り込ませられるほどの隙間が開いている。姉が開けておいてくれたのだと、すぐにわかった。
すかさず入り込んだ僕は、倉の隅の長持や箪笥がおいてある場所に隠れて、息をひそめて身体をちぢこまらせた。
それからようやく、僕はそっと姉のいる辺りを窺った。
ともる灯りは小さくて、倉の中はそれ相応に薄暗いのに、真っ白な花嫁衣装を着た姉だけは、みょうにはっきり浮かび上がって見えるんだ。
まず、姉の顔が目に入った。真っ白な花嫁衣装をまとって、戸口の方に向き合う形で、慎ましやかに座っている。
思っていたとおり、いや、思っていたよりももっとずっと、姉は美しかった。
もとから色白だった姉の肌にうっすらとはかれたおしろいと、ぽってりとひかれた口の紅の、目にも鮮やかな対比。ややうつむき加減に面伏せる顔に、ゆらゆら落ちる灯りの陰影が作る、憂い顔のようななまめかしさ。
美しかった。本当に美しかったんだ。
いっそ、姉が既にこの世のものではないような、そんな気さえする光景だったね。
僕が我を忘れて姉に見とれていると、やがて、倉の戸口を大きく開ける音がした。
姉が戸口を見やる仕種をしたから、僕もそっちを見ようとしたんだけど、僕のいるところからでは見えなくて、仕方なく、せめて音だけでもと耳をすました。
続いて戸口を閉める音、それから、ずざ、と何かを引きずるような音が聞こえてくる。
ずざ、ずざ、と響く音は妙に規則正しく、これはおそらく足音だろう、と僕は思った。
なおも聞き耳をたてていると、不意に、聞いたことのない声がした。
そなたがこのしろか
その声は、何というか、とても言い表しがたいんだが、たとえるなら、まるで「水の流れるような声」だった。
周りがしんとしていたからか、妙にはっきりと耳に入ってきた。
今も正直、あれをどう表現すべきなのかわからない。それくらい、不思議な、奇妙な声だったんだ。
僕は戸惑いながらそれを聞いた。それでもとにかくわかったのは、「相手」がもう其処にいる、ということだった。
だが、肝心かなめの相手が見えない。
ちょうど見えないところに立っているだろうかと考えて、僕は、隙間からあれこれと角度を変えてのぞき込んで、相手の姿を探した。
するとようやく、見えるぎりぎりまで角度を平たくしたところからのぞき込む位置に、姉の衣装とは別の白い着物が見えたんだ。
よくよく見れば、かみしもみたいな形の、ぴんと折り目の付いた男着物で、それを、まっすぐな姿勢でかっちりと着こんだ男が立っていた。
僕から見えるのは背の側だった。ぬぅっと高い背で、畳の上に渦を巻くほど長い白い髪をしていた。
だが、それ以上に僕の目を釘付けにしたのは、その頭に生えた、大きな鹿の角のようなものだった。
そうなんだ。角だ、角が生えていたんだよ、その相手には。
驚いて声を上げそうになった僕を、わずかに顔を伏せていた姉が、綿帽子の中から、視線だけを上向けるようにして見た。
とっさに、僕は自分の口を押さえて声を我慢した。
声をあげてはだめ。僕を見る姉の視線は、間違いなくそう言っていたんだ。
そうして、僕が声を抑えたのを確認した姉は、僕から視線をはずし、そのまま、相手に向けて深々と三ツ指をついて、こう言ったんだ。
わがいえもりたるさかえのたつかみ
このしろたるくちなしをささげます
これをあらたなくちありとなさしめ
とくのぞみをおききとどけください
声は大きくないのに、全くよどみなく朗々と、さながら、言上するような声だった。
いや、それは実際、言上そのものだったんだけどね。
その姉の声に、相手はあの水のような声で、こう答えたんだ。
あいわかった
こたびもてなれをみのうちにむかえ
わがしょうのにょいほうじゅとせん
当時の僕には、どちらの言葉の意味もちんぷんかんぷんだったけど、それが何かの約束事と、その取り交わしについての言葉だということだけは、なんとなくわかったんだ。
今はもう、全部意味もわかるよ。わからざるを得なくなった、とも言えるのかもしれないけれど。
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、相手はすうっと立ち上がって、いや、立ち上がるというか、伸び上がったように見えたというのが正しいかな。
着ていた着物からずるりと何かが伸びた。それは、大人の腕でもひと抱えはありそうな白い丸太、いや、真っ白なうろこの生えた蛇の腹だった。
ずざ、ずざ、と響くあの音は、蛇のうろこが動いて、地面を這いずる音だったんだ。
音の間も延々と、蛇の腹は伸び続けた。人の形を残したままの上半身から伸びているそれは、やがてとうとう、倉の中で三巻きもとぐろをまくほどになっていた。
もう、どう見ても人じゃなかった。角を見たときにそうなんじゃないかと思いはしたけど、もう何処をどう見ても、あれは人なんかじゃなかったよ。
最初こそ蛇かと思ったけれど、頭とおぼしき場所には、さっき見た鹿みたいな角がやっぱり生えていた。
あれに似た形を、僕はひとつしか知らないね。
竜だよ。あれは誰が何と言おうと、竜だった。
まことかほうなるおぼしめし
このしろたるくちなしのしし
ごぞんぶんにおめしください
竜を見上げる姉が、晴れやかな顔でそう言った。この世の幸を一身に受けるような、満ち足りた顔をしていた。
あんな姉の顔を見たのは、あのときが初めてだった。初めてで、最後だった。
姉の言葉が終わるか否かのところで、ずざざっと、それまでよりもはっきりと、勢いよく音がした。雪が屋根から落ちるような音にも聞こえた。
姉の体に、竜が長い身体をねじねじと絡みつける。うろこが動いて、まるで果物の皮でもむくように、姉の花嫁衣装をはぎとっていく。
姉が、竜に手を伸ばした。竜の、男の上半身を残した部分が、頭を下げるように降りてきて、姉の手を取った。
打ち掛けをはぎとられて、乳房まで露わになった姉の首を、竜が舐めた。綿帽子をこそげ取り、燃え立つようにわななく姉の口を、竜が吸った。
嫌がっているような様子は、全くなかった。むしろ、姉は恍惚とした顔で、体を竜に絡みつかれされるがまま、いっそそれを心から望んでいるとでもいうような顔をしていたよ。
竜の手が、姉の乳房をなぶった。体の肉付きは薄いが、年相応に膨らんでいた乳房はゴムまりみたいにたわんで、さくらんぼの種みたいな乳首は目に見えるほど尖って、そこをいじくられるたびに姉の背が反り返るのが見えた。
まだ大人になりきっていない姉の体が、まるで成熟した女のように歓喜にのたうつのを、僕は、ただ見ていた。
着ていた花嫁衣装のほとんどがはぎ取られて、姉の股間のうっすら黒い下生えまで見えるようになってくると、僕の中に、ぞっとするのと同時に、体がかっとなる感覚があったんだ。
それはほら、まぁ、男ならわかるだろう?
とんでもないと思うかい? だけど僕だってまだガキだった。精通したのだって、ついこないだみたいなものだったわけで、そういう意味では全く慣れていなかったんだから。
竜が、自分の体の先端の、琉金みたいな優雅なひれのついた尾を持ち上げ、姉の脚の間に割って入った。吊り上げるように片足を開かせ、尾の先で、姉の小さな赤い割れ目を、くすぐるように撫でつけるように、起用に動かす。
その都度、姉の口から、甘ったるい叫びのような声がもれた。
やがて、じゅくじゅくとかすかな水の音が聞こえ始める頃には、すっかり濡れしたたった内股の肉が、灯りを照り返すほどになっていた。
そうして、竜が、姉の腰を掴んだ。
からみつく竜の胴に支えられ、姉の体がめいっぱいに開かれる。口にさしたあの紅のように赤い割れ目が、僕のところからでもはっきり見えるような格好でさらけ出された。
竜が、蛇の腹を折り曲げるように体をくねらせる。出てきたのは、人のそれよりも猛々しく勃起した逸物だ。あまりに隆々と立派で、神々しさを感じるほどだったよ。
竜はそれを、姉の割れ目に一息に挿し込んだ。姉の口から、叫び声が上がった。びくびくと体が揺れた。
その、刺し殺された魚のような動きで、姉が破瓜したのがわかったよ。
竜はそれを確かめるかのように、一度ぬるんと自分の逸物を引き抜いた。うっすら赤いものがにじんでいる姉の割れ目をべろりと舐めて、その赤色に満足したように、再び姉に逸物を挿し込んだ。
ぐぷぐぷと音がするほど姉の中を掻き回す竜の様子は、まるで糸車が回るようだった。
姉は、竜の逸物に突き上げられるたび、痙き攣れたような声をあげている。
もっと、もっと。そう竜に懇願する姉の声は、倉の中いっぱいに響いて、僕の頭の中にまでしみこんで、とうとう我慢ができなくなった。
僕は寝間着の中に手を突っ込んだ。改めて言うまでもないかもだが、もうその時点で、僕の逸物もガチガチに勃起していたよ。
目の前で竜に犯されている姉を見ながら、姉に突っ込んでいるのが竜ではなくて僕であるような錯覚さえ覚えながら、夢中でしごいた。
激しい突き入れで悶え続けていた姉の腰が、不規則にふるえ始めるのが見えた。ああ、ああ、と、ひっきりなしに声をあげる姉の足先がぴんっと伸びて、それからくったりとしなだれた。いったのだ。
僕はといえば、情けないことに、姉が達するより先に自分のものをぶちまけていた。ところがそれでも僕の興奮は止まらなくて、ひたすら手を動かしていた。
そのまま二度目の射精をしたところで、僕は不意に我に返った。
自分のやっていることもだったが、それよりもそのとき目に入ってきた光景に、ぎょっとした。
竜が、ばっくりと口を開いていた。人の形をしていた頭がぐにょんと伸びて、そのままこう、横に裂けるように開いていくんだ。
開いた口は、でかいなんてものじゃなかった。人間の肩幅よりもっと広く裂けていた。
裂けた竜の口の中は、姉の口の紅と同じ色をしていた。
気をやってぐったりしていた姉が、それを見て一瞬目を見開いて、でもすぐ、うっとりと笑ったんだ。
くちなしを
くちありに
なさしめませ
なさしめませ
歌でも歌うように言いながら、竜に最初に手を伸ばしたときと同じように、手を伸ばして。
ばくん。
竜の口が、ひとたび閉じた。
姉の手と、肩と、頭が、消えた。
そして、ふたたび開いて閉じ。
乳房と、へそが、消えた。
みたび開いて閉じたときには。
腰と、爪先が、消えた。
そのあとは、何かを咀嚼する竜の姿と、ばりばりと、ぬちゃぬちゃと、およそ想像などできない音だけがあった。
僕は、何が起こったのか把握できなかった。今みたものを整理しようとしても、頭の中がまっしろになって、何も考えることができなくなっていた。
むしろ、考えてはいけない、理解してはいけないと、自分の頭の中を必死にまっしろにしていたのかもしれないと、今になってから思うけれど、まぁそのときは、多分それで正しかったんだ、僕の反応は。
やがて、竜が咀嚼をやめた。そして、それまで口の中にあったものを、べえっと吐き出した。
吐き出されたのは、人の頭より大きめな、まっしろな珠だった。
くちありとなりしくちなしよ
ながのぞみぞんぶんにもうせ
竜が水の流れるような声でそう言った瞬間、そのまっしろの珠の真ん中に、まるで口の紅を引くような具合で、赤くぽってりとした線が現れた。
そして浮かび上がると同時に、ぱっと開いて、あろうことか、声を発したんだ。
わがのぞみ
いえはさかえどちはとじよ
おとのゆきみち
ただやすらかに
それは確かに、姉の声だったよ。
とくききとどけた。姉の声の響きが消えた頃、竜がそう言った。
そして、竜はその白い珠を拾ってしっかり手の中に握りしめ、ぐるぐると倉の中に浮き上がり、ぐるりと僕の方を向いたんだ。
くちなしのおとよ
やくじょうにより
なのせいはゆるす
竜と目が合ってしまった僕は、殺されると思って身を縮こまらせた。だけど、竜はただそれだけを言うと、そのままぱっと消えてしまった。
もう、其処には何もなかった。竜も姉も、なーんにもね。
気付けば僕は、古ぼけた倉の中で、寒さと、寒さでないものとで、がたがたと震えていたんだ。
何が起こったのか、わからなかったよ。本当にね。
でも、本当にわけがわからなくなったのは、夜が明けてからだったんだ。
朝になって、倉から出てくるところを親に発見され、夜更かししたことをしこたま叱られた。
この寒い中、よく凍え死ななかったと、安堵された。
今日は学校を休んでいいから、早く暖まって、朝食をとりなさい。息子の、少し度を超した「いたずら」を、それでも両親は許してくれた。
だがおかしかった。両親の口から、姉の話が、一言も出てこないんだ。
あわてて僕が姉のことを尋ねると、不思議そうな顔をした。いつもと違うところで寝ていたせいで、変な夢でも見ていたんだろうと、僕の話を取り合ってもくれなかった。
僕は、思いつく限りのすべての人に、姉のことを尋ねた。近所の、学校の、何処の誰に尋ねても、誰も姉のことを知らない。あとあとになってから、戸籍も調べたけど、それすら何も残ってなかった。
結局、残っていたのは、僕の中の姉の記憶と、姉の姿にもよおして汚れた下着だけさ。
姉は、あの雪の夜、竜に食われて、珠になって、そのまま竜と一緒にこの世から消えてしまったんだ。
姉にまつわる話は、そんな感じだよ。
話し終えたS氏は、聞いてくれた礼だと言って、酒を奢ってくれた。
要するに、生娘が何かの人身御供になることで、家の繁栄を図ろうとするという、民話などによくあるあれだろう。
要素としてはもう少しオカルトチックな感もあるが、都市伝説的なものと考えるにはちょっと古くささがあるし、面白おかしい全くのホラ話というにも、微妙に中途半端なところが先に立って、正直、聞いていても少々鼻白んでしまう感が拭えない。
とはいえ、この場限りの与太としてなら、それなりに酒の肴にはなりそうだ。特に、竜との会話に出てきた「くちなし」とか「くちあり」とか、何処か謎かけのような響きのある言葉は、なかなか面白いと思う。
あれらがどういう意味の言葉なのか、S氏に尋ねてみた。すると、姉は女ですからね、とだけ返される。ますます謎かけっぽくなってきた。
あれこれと想像を巡らせていると、不意に、S氏の携帯端末がサイレントで鳴った。画面をちらりと見たS氏の表情が、笑う形に動く。
御細君からですか。冷やかすように言えば、「えぇ、今日は愛人と水入らずで過ごしているようです」とすました顔で言うものだから、いっそこっちの方が驚いた。
確か今、S氏の奥方は妊娠中のはずだ。
そんな身重の身で愛人と逢い引きしているというのも驚くが、それよりも、それを寛容に受け流しているS氏にこそ驚かされる。
妻の浮気を見張ってほくそ笑んでいる、という感じでもない。本当に、全く何でもないこと、という態度で朗らかに笑っていた。
あぁ、僕はいわゆる、性的不能ってやつでね。
こちらが目を白黒させていると、いたずらの種明かしをするような態でS氏が言った。
曰く、奥方の腹の中にいるのはS氏の子供ではなく愛人の子供であるということ。S氏が性的不能であることは、結婚の際に最初に提示してあるということ。子供が欲しいのであれば、愛人との間に子供を作ることも許可しているが、あくまでもS氏の家を継ぐ子供として育てること。
つまり仮面家族か。こちらのもらした呟きに、S氏は少しだけ心外そうな顔をした。
妻は僕が選びに選んだ、僕の家名を背負うにふさわしい女性なんだ。だから僕は、妻を心底から愛しているよ。
高らかに言い放ったS氏の言葉は、自信と希望に満ちていた。
だがそれと同時に、理解できた。S氏は、「望み」を叶えようとしているのだ。
いえはさかえどちはとじよ──「家」の名だけ残して血は途絶えろ、という「姉」の末期の望み。
S氏の両親は、事故であっさりと死んだ。おそらくだが、即死かそれに近い状態だったはずだ。温情ある死で、無駄に苦しむことのないように。
S氏は、性的不能で血を残せない。だが、それだけだ。それ以外のあらゆる幸福と安寧が、「姉」によって約束されているのだ。
そんな大スキャンダルになりそうなネタ、話していいんですか。そう問いかけると、S氏はやはり何の心配もしていない、という顔で、こう言った。
どんなに悪いことであっても、僕の不利や不幸には転ばないんだ。姉がそう望んで、そうなるようにしたからね。
楽しそうな、嬉しそうな、これ以上なく明るい顔だった。
後日、S氏の奥方が無事に赤ん坊を出産したというニュースを見た。彼にとっては待望の「跡継ぎ」である。
実はあれから、S氏のあの話を、こっそり三文雑誌に売り込みに行くつもりでいた。
何せ、世に名高い「成功者」のゴシップだ。たとえ与太でも、面白おかしく料理できそうなネタなら、連中の食いつきも悪くない。
ほどほどいい小銭稼ぎにでもなるだろう、そんな気楽な気持ちで編集者と待ち合わせた。
それがまさか、相手と顔を合わせた瞬間に双方もろとも車に突っ込まれ、どちらも全治に三か月以上はかかるだろう重傷を負うなんて、思いもしなかった。
命に別状がないのは幸いだったが、医者からは、多少の後遺症の残る可能性も捨てきれないとは言われている。おかげで、こうしてぼんやりベッドの上で絶対安静、テレビだけが退屈しのぎの友になるという日々だ。
テレビの中で、S氏が奥方と並んで喜びを露わにしていた。仕事に子育てに、今以上に意欲的になるだろうと語っていた。
ろくに動けない体で、ぼんやりとテレビの画面を眺めながら、けれど、わかったことがある。
S氏が自分のようなうらぶれた相手と酒を飲む機会は、きっともう、金輪際ないだろう。たとえ彼が許したとしても、彼の姉が許さないに違いない。
楽しい酒だったのに、と身から出た錆の結果を惜しく思いながら、けれど、命はもっと惜しいのだった。
半年ほど前のこと。その日、たまたま立ち寄った飲み屋で隣り合わせの席になったという、ただそれだけの間柄。
だが、何となく話しているうちに、互いに妙に意気投合して、気付けば店を数件ハシゴして飲み明かすという、馬鹿馬鹿しいことまでやっていた。
そうして、しこたまへべれけになったこちらを、彼は楽しい酒を飲めたから、という理由だけで、丁寧に自宅へ送り届けてくれたのである。
こちらとしては恐縮しきりだが、以来、一緒に飲もうという誘いが入るようになった。
もっとも、彼の素性を知ったのは、更に後日ではあったが。
彼──仮に、S氏としておこう。
S氏は既に五〇半ばを過ぎ、そろそろ老齢期に差し掛かろうという年齢である。だが、威風堂々の雰囲気をたたえる恵まれた体躯と姿勢の良さは、彼をもうひとまわりは若く見せていた。
いや、若さを感じさせる理由はそれだけではない。先見の明を持ち、機を見るに敏く、失敗を恐れない挑戦者の精神と、これと決めたことはやり抜くという強い信念の持ち主で、さまざまな事業を興し成功を収めてきたという自信にあふれていた。
私生活においても、それは例外ではないらしい。先頃、S氏よりふたまわりは若い奥方が、待望の子供を懐妊したと聞き及ぶ。下世話な話ではあるが、つまり、そちらもお盛んということだ。
朗らかで人好きのする性格であるところも、おそらくはその人生の成功の一助なのだろう。
初対面の自分から見てすら一目でわかるほどの、「これぞまさに成功者」という雰囲気が、S氏にはあった。
東北のとある田舎の出身で、両親は地付きの土豪の流れを汲むという、裕福な家庭に生まれた彼は、東京の大学に入学したのを期に、実家を手放したという。
手放した。そう、「手放した」と彼は言った。
つまり、彼の実家は、その時点で既に彼の持ち家だったというのだ。
御両親は? と訊くと、高校卒業を目の前にした頃、ふたりそろって交通事故で亡くなっている、とのこと。
若くして両親を亡くしながらも、それにくじけることなく努力を重ね、大成する道を歩み続けてきた成功者──なるほど、これは確かに日本人好きのする立身出世の物語だった。
そんな、出来過ぎなほどドラマチックな身の上話に、お若いうちから苦労なさったんですね、と少々の野次馬根性も含めて言葉を返す。
それに対するS氏の返事は、全く軽かった。
いやぁ、それが別段苦労した覚えはなくてねぇ。屈託なく笑いながらの言葉には、実際、困難や苦労をにおわせる暗い陰など、かけらも窺えない。
しかし、言葉の途切れ際、S氏が「本当は、両親以外に姉もいたんだけどね」と、そのときだけは静かに肩を落とすような物言いで呟いた。
両親についてを話すときの軽い調子とはうってかわって、過ぎ去りし遠い日を思い出すような哀切の表情に、こちらの野次馬根性が刺激されないはずもない。
へぇ、お姉さんが?
逸る気を抑え、呟きの先を促したこちらの言葉に、「今の僕があるのは、姉のおかげなんだ」と、彼は自分の身の上話をぽつりぽつりと語り出した。
僕の生まれた町はね、かろうじて町の体裁を保っていると言っても過言ではないような、さびれた過疎の町なんだ。
だけど、土豪上がりの名士だった僕の家だけは、その町の寂れ具合とは反対にそこそこ裕福でね。
奇妙なことに……なんて僕が言うのもあれだけど、実際奇妙なことに、そんな寂れた土地であるにもかかわらず、古い因習やしきたりのある家にありがちな、血族ばかりのしがらみや婚姻に陥ることもなく、なぜか代々安泰に続いてきたんだよ、僕の家は。
子供のうちはそれを特に不思議に思うこともなく、それこそ何の不自由もなく育ってきたけれど、小学校の高学年になる頃には、やっぱり何となく奇妙な感じを覚えていてね。
あぁ、その辺はまぁおいておこう。今は、姉の話だったね。
あれは、僕が小学校を、姉も中学を卒業する年だった。
姉は、大層美人だった。そして、とても優しくて、とても聡明だった。あぁ、これは身内の贔屓目でも何でもない。まだほんのガキだった僕にすら、完璧の意味が理解できてしまうほどだったんだ。
僕のことを、頭がいいとか人格者だとか無責任にほめそやす人は多いけどね、僕なんて姉に比べたら月とスッポン、今になっても、姉にはとても及ばないと思ってるよ。
けれど、そんなに出来た姉は、高校へは行かなかった。いや、行くことはなかったんだ。
何故かって? あぁ、まさにその「何故」についてを、僕は君に話そうと思う。
あれは、姉が中学を卒業する年の、秋の頃。家の敷地の片隅にある倉を取り壊そう、という話が出たんだ。
そこそこ裕福とは言うものの、もう町自体の活気もないし、この土地にいても将来的にはあまり明るくないだろうってのも目に見えていたからね。両親も、そろそろ家やら土地やら整理して引っ越しでも、と考えたんだろう。
実際、僕も姉も年が明ければ進学するわけだから、タイミングとしても悪くなかったし。
ところが、取り壊すために倉の中をあらためたところで、急に取りやめになったんだ。
どうやら、倉の中から古い書き付けが出てきて、「倉を壊してはならない」みたいなことが書いてあったらしい。
多分、古い家によくある、家の起源とかそういうたぐいを書いたものだと思うんだけど、僕にはさっぱりわからないものだった。
そもそも、家の起源なんて興味もなかったし、新しい生活への期待が盛り上がりかけていたところに水を差された感じがして、むしろ恨みがましく思っていたよ。
それにね、それが見つかってからというもの、両親の言動が何だかおかしくなり始めたんだ。
取り壊しをやめた倉を、今度は必死になってきれいにしはじめた。
倉の中に部屋を作るように畳を敷いて、更に神棚みたいなものをこしらえて、朝夕、その神棚に酒をお供えするよう、姉に言いつけた。
それも、「今後、倉に入るのは姉だけ」という条件付きで。
まぁ、その程度なら古めかしい家とかなら、ままある話かもしれない。でも、其処からがまた変なんだ。
さっきも言ったとおり、姉はとても賢かった。あんなに賢いのだから、当然それなりに学力の高い都会の学校に行くものだと思っていた。引っ越しの話もあったしね。
なのに、それが始まってから、両親は進学どころか、家からすら滅多に出さなくなった。学校は、重病で療養しているとかいう理由で休学させた。
姉の様子もだんだんおかしくなっていった。といっても、両親のようなわけのわからない突飛なものじゃなく、むしろ何か諦めたような、覚悟したような、そういう感じだった。
そんなある日、姉が僕を呼んで、こっそり言ったんだ。年が明けたら、輿入れするんだと。
輿入れなんて耳慣れない言葉、小学生の僕には、当然ながら全くピンとこなくてね。ちんぷんかんぷんの頭で、「輿入れって何?」と姉に尋ねたんだ。
そのときの姉は、少し考えた顔をして、それから、結婚みたいなもの、と優しく笑いながら教えてくれた。
僕は、そりゃもうびっくりしたさ。
だいたい、姉は法律で定められた結婚可能な年齢になっていないどころか、まだ中学を卒業すらしていないわけで、それがどんなにおかしなことか、小学生の僕だってわかったさ。
姉が言うには、両親はそれをとても望んでいるという。でも、急にそんなことを言われても、まるで意味がわからないよね。
だけどそのときの僕は、実はそれ以上に、「いったい何処の誰が姉と結婚するのか」ということで、頭がいっぱいになっていた。
あぁ、そうだね、うん。これは少し恥ずかしい話になるんだけど、僕にとって姉は、女性の理想像そのものなんだ。勿論、当時はそんな自覚は全くなかったけれど、今思えばもう、多分その頃からずっと、確かにそうだったんだよ。
でも、僕のその疑問には、何故か明確な答えが返ってこなかった。
曖昧な笑顔を浮かべた姉は、そのときはただ、「とても貴い方のもとへゆくのよ」とだけ言ったんだ。
何処の誰なのか、どんな相手なのか、全く何もわからない。だから僕は、姉が結婚する相手を見定めてやろうと勝手に決心して、学校にいるとき以外の時間を全て姉のそばで過ごすようになった。
そうやって姉の周りを見張って、べったりくっついて離れない――まるで赤ちゃん返りの幼児みたいな行動だったね。だけど、そのときの僕は本気も本気で、必死に姉にへばりついていたんだ。
でも、その機会はなかなか訪れなかった。
もしかしたら僕が学校に行っている間に会っているんじゃ、なんて疑いもちらっとありはしたけれど、姉が嘘をつくような人間でないことだけは全く信じていたから、それはないな、とその都度思い直したよ。
先にも言ったとおり、姉はとても賢く聡明な人だったからね。わざわざ嘘をつく必要がないというか、まぁつまり、嘘をつかねばならないような失態をする人ではなかったってことさ。
姉も、僕のそういうところは、よくわかっていたんだと思う。
だから、「そのときが来たら必ず教えてあげる」と、僕に約束してくれた。
どうやら、僕には相手を内緒にしておくよう、両親に言い含められていたようなんだ。でも、姉は最初からそれを守る気はなかったらしい。
とはいえ、今となってはもう、それすら確かめられないけどね。
で、それからまた少し過ぎた頃。何せ、もう四十年以上前のことだからね、何月何日とか、詳しい日付はすっかり忘れてしまったけど、確か、年が明けて、そろそろ節分を迎える辺り、だったと思う。
ただ、朝からずいぶんと雪が降っていたことだけは、はっきり覚えているよ。
その数日前に、姉の着る花嫁衣装が届いていた。
打掛、引き摺り、綿帽子。帯に足袋、扇子や筥迫にいたるまで、その日降った雪のように真っ白な婚礼支度だった。
倉の神棚の前に置かれたそれは、子供の目にも一目でわかる上等なもので、これに袖を通した姉はさぞや美しいに違いないと、見ているだけでも容易に想像できたよ。
万が一にも汚したりしてはいけないから、と、いっそう厳しく倉に行かないよう、両親から言われた。でも、この頃にはもう、姉は食事や風呂以外のときはほとんど倉で暮らしているような状態だったから、僕は両親の目を盗んでは姉に会いにいっていた。
倉の奥には入れてもらえなかったけれど、倉の戸口の敷居に座り込んで入り浸る、そんな感じでね。
でも、このときになってもまだ、当の相手とやらには会えずじまいになっていた。
だから、姉がこのまま、未だに何処の誰ともわからない相手のところへ行ってしまうのだと思うと、とにかく悔しくて悲しくて。
僕も春には小学校を卒業するような年だったのに、毎日姉と顔を合わせてべそべそと、泣きごとを言っては困らせていた。
姉は僕にはいっとう甘かったから、そんな僕をいつも慰めてくれていたのだけど、ある日、ついに根負けしたようにこう言ったんだ。
今夜、お迎えが来るの。大事な内緒ごとを話すような仕種で、姉はこうも言葉を続けた。
そのときなら顔も見られるでしょうから、こっそりのぞきにいらっしゃい。本当はだめなのだけれど、あなたなら許してあげる。お父さんやお母さんに知られないよう、こっそりね。
以前に約束してくれた手前、きっと姉も僕に申し訳なく思ってくれていたんだろう。
勿論、輿入れが覆るようなことはもう絶対にないのだろうけど、あまりにしょげかえる僕を不憫がって、慰めるようにそう言ってくれたんだ。
とはいえ、あまりに急な話じゃないか。そもそも姉の花嫁衣装以外の準備は何もされていなかったから、まさかもう相手が迎えに来ることになっているなんて思いもしなくて、僕はひどく動揺してしまってね。
そのときだって、絶対に顔を見てやる、という思いは勿論あった。
ただ、いざそうしろと言われると、変な気まずさみたいな気持ちがちくちくと僕の中に生まれてしまって、腰が引けてきてね。そのときは姉の言葉にうなずきはしたものの、うろたえたまま自分の部屋に帰ったんだ。
夜になるまで、そりゃぐるぐると思い悩んださ。でも、気持ちはいろいろと混乱していたけど、結局、やっぱり相手を一目くらいは見ておかなければ、と思い直してね。
やっと気持ちを奮い立たせた僕は、日付が変わるくらいの頃を見計らって、寝たふりから起き出し、姉に言われたとおり、そうっと倉に足を向けたんだ。
寒かったよ。雪もそれなりに積もっていたから、何より足が冷えた。
勿論、倉の中なら火鉢も置かれていたけれど、こっそり見に行くことになっていた手前、僕はその暖かさには与れないわけだから、寝間着の上から掻い巻きを着込んで、靴下の重ねばきまでして行った。
雪の夜だったからっていうのもあるだろうけど、そこまでしても空気はまだ寒くて、冷たい空気が鼻の奥から目までしみて、いっそ痛いくらいだったよ。
倉の戸口まで来てみれば、僕が身体を滑り込ませられるほどの隙間が開いている。姉が開けておいてくれたのだと、すぐにわかった。
すかさず入り込んだ僕は、倉の隅の長持や箪笥がおいてある場所に隠れて、息をひそめて身体をちぢこまらせた。
それからようやく、僕はそっと姉のいる辺りを窺った。
ともる灯りは小さくて、倉の中はそれ相応に薄暗いのに、真っ白な花嫁衣装を着た姉だけは、みょうにはっきり浮かび上がって見えるんだ。
まず、姉の顔が目に入った。真っ白な花嫁衣装をまとって、戸口の方に向き合う形で、慎ましやかに座っている。
思っていたとおり、いや、思っていたよりももっとずっと、姉は美しかった。
もとから色白だった姉の肌にうっすらとはかれたおしろいと、ぽってりとひかれた口の紅の、目にも鮮やかな対比。ややうつむき加減に面伏せる顔に、ゆらゆら落ちる灯りの陰影が作る、憂い顔のようななまめかしさ。
美しかった。本当に美しかったんだ。
いっそ、姉が既にこの世のものではないような、そんな気さえする光景だったね。
僕が我を忘れて姉に見とれていると、やがて、倉の戸口を大きく開ける音がした。
姉が戸口を見やる仕種をしたから、僕もそっちを見ようとしたんだけど、僕のいるところからでは見えなくて、仕方なく、せめて音だけでもと耳をすました。
続いて戸口を閉める音、それから、ずざ、と何かを引きずるような音が聞こえてくる。
ずざ、ずざ、と響く音は妙に規則正しく、これはおそらく足音だろう、と僕は思った。
なおも聞き耳をたてていると、不意に、聞いたことのない声がした。
そなたがこのしろか
その声は、何というか、とても言い表しがたいんだが、たとえるなら、まるで「水の流れるような声」だった。
周りがしんとしていたからか、妙にはっきりと耳に入ってきた。
今も正直、あれをどう表現すべきなのかわからない。それくらい、不思議な、奇妙な声だったんだ。
僕は戸惑いながらそれを聞いた。それでもとにかくわかったのは、「相手」がもう其処にいる、ということだった。
だが、肝心かなめの相手が見えない。
ちょうど見えないところに立っているだろうかと考えて、僕は、隙間からあれこれと角度を変えてのぞき込んで、相手の姿を探した。
するとようやく、見えるぎりぎりまで角度を平たくしたところからのぞき込む位置に、姉の衣装とは別の白い着物が見えたんだ。
よくよく見れば、かみしもみたいな形の、ぴんと折り目の付いた男着物で、それを、まっすぐな姿勢でかっちりと着こんだ男が立っていた。
僕から見えるのは背の側だった。ぬぅっと高い背で、畳の上に渦を巻くほど長い白い髪をしていた。
だが、それ以上に僕の目を釘付けにしたのは、その頭に生えた、大きな鹿の角のようなものだった。
そうなんだ。角だ、角が生えていたんだよ、その相手には。
驚いて声を上げそうになった僕を、わずかに顔を伏せていた姉が、綿帽子の中から、視線だけを上向けるようにして見た。
とっさに、僕は自分の口を押さえて声を我慢した。
声をあげてはだめ。僕を見る姉の視線は、間違いなくそう言っていたんだ。
そうして、僕が声を抑えたのを確認した姉は、僕から視線をはずし、そのまま、相手に向けて深々と三ツ指をついて、こう言ったんだ。
わがいえもりたるさかえのたつかみ
このしろたるくちなしをささげます
これをあらたなくちありとなさしめ
とくのぞみをおききとどけください
声は大きくないのに、全くよどみなく朗々と、さながら、言上するような声だった。
いや、それは実際、言上そのものだったんだけどね。
その姉の声に、相手はあの水のような声で、こう答えたんだ。
あいわかった
こたびもてなれをみのうちにむかえ
わがしょうのにょいほうじゅとせん
当時の僕には、どちらの言葉の意味もちんぷんかんぷんだったけど、それが何かの約束事と、その取り交わしについての言葉だということだけは、なんとなくわかったんだ。
今はもう、全部意味もわかるよ。わからざるを得なくなった、とも言えるのかもしれないけれど。
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、相手はすうっと立ち上がって、いや、立ち上がるというか、伸び上がったように見えたというのが正しいかな。
着ていた着物からずるりと何かが伸びた。それは、大人の腕でもひと抱えはありそうな白い丸太、いや、真っ白なうろこの生えた蛇の腹だった。
ずざ、ずざ、と響くあの音は、蛇のうろこが動いて、地面を這いずる音だったんだ。
音の間も延々と、蛇の腹は伸び続けた。人の形を残したままの上半身から伸びているそれは、やがてとうとう、倉の中で三巻きもとぐろをまくほどになっていた。
もう、どう見ても人じゃなかった。角を見たときにそうなんじゃないかと思いはしたけど、もう何処をどう見ても、あれは人なんかじゃなかったよ。
最初こそ蛇かと思ったけれど、頭とおぼしき場所には、さっき見た鹿みたいな角がやっぱり生えていた。
あれに似た形を、僕はひとつしか知らないね。
竜だよ。あれは誰が何と言おうと、竜だった。
まことかほうなるおぼしめし
このしろたるくちなしのしし
ごぞんぶんにおめしください
竜を見上げる姉が、晴れやかな顔でそう言った。この世の幸を一身に受けるような、満ち足りた顔をしていた。
あんな姉の顔を見たのは、あのときが初めてだった。初めてで、最後だった。
姉の言葉が終わるか否かのところで、ずざざっと、それまでよりもはっきりと、勢いよく音がした。雪が屋根から落ちるような音にも聞こえた。
姉の体に、竜が長い身体をねじねじと絡みつける。うろこが動いて、まるで果物の皮でもむくように、姉の花嫁衣装をはぎとっていく。
姉が、竜に手を伸ばした。竜の、男の上半身を残した部分が、頭を下げるように降りてきて、姉の手を取った。
打ち掛けをはぎとられて、乳房まで露わになった姉の首を、竜が舐めた。綿帽子をこそげ取り、燃え立つようにわななく姉の口を、竜が吸った。
嫌がっているような様子は、全くなかった。むしろ、姉は恍惚とした顔で、体を竜に絡みつかれされるがまま、いっそそれを心から望んでいるとでもいうような顔をしていたよ。
竜の手が、姉の乳房をなぶった。体の肉付きは薄いが、年相応に膨らんでいた乳房はゴムまりみたいにたわんで、さくらんぼの種みたいな乳首は目に見えるほど尖って、そこをいじくられるたびに姉の背が反り返るのが見えた。
まだ大人になりきっていない姉の体が、まるで成熟した女のように歓喜にのたうつのを、僕は、ただ見ていた。
着ていた花嫁衣装のほとんどがはぎ取られて、姉の股間のうっすら黒い下生えまで見えるようになってくると、僕の中に、ぞっとするのと同時に、体がかっとなる感覚があったんだ。
それはほら、まぁ、男ならわかるだろう?
とんでもないと思うかい? だけど僕だってまだガキだった。精通したのだって、ついこないだみたいなものだったわけで、そういう意味では全く慣れていなかったんだから。
竜が、自分の体の先端の、琉金みたいな優雅なひれのついた尾を持ち上げ、姉の脚の間に割って入った。吊り上げるように片足を開かせ、尾の先で、姉の小さな赤い割れ目を、くすぐるように撫でつけるように、起用に動かす。
その都度、姉の口から、甘ったるい叫びのような声がもれた。
やがて、じゅくじゅくとかすかな水の音が聞こえ始める頃には、すっかり濡れしたたった内股の肉が、灯りを照り返すほどになっていた。
そうして、竜が、姉の腰を掴んだ。
からみつく竜の胴に支えられ、姉の体がめいっぱいに開かれる。口にさしたあの紅のように赤い割れ目が、僕のところからでもはっきり見えるような格好でさらけ出された。
竜が、蛇の腹を折り曲げるように体をくねらせる。出てきたのは、人のそれよりも猛々しく勃起した逸物だ。あまりに隆々と立派で、神々しさを感じるほどだったよ。
竜はそれを、姉の割れ目に一息に挿し込んだ。姉の口から、叫び声が上がった。びくびくと体が揺れた。
その、刺し殺された魚のような動きで、姉が破瓜したのがわかったよ。
竜はそれを確かめるかのように、一度ぬるんと自分の逸物を引き抜いた。うっすら赤いものがにじんでいる姉の割れ目をべろりと舐めて、その赤色に満足したように、再び姉に逸物を挿し込んだ。
ぐぷぐぷと音がするほど姉の中を掻き回す竜の様子は、まるで糸車が回るようだった。
姉は、竜の逸物に突き上げられるたび、痙き攣れたような声をあげている。
もっと、もっと。そう竜に懇願する姉の声は、倉の中いっぱいに響いて、僕の頭の中にまでしみこんで、とうとう我慢ができなくなった。
僕は寝間着の中に手を突っ込んだ。改めて言うまでもないかもだが、もうその時点で、僕の逸物もガチガチに勃起していたよ。
目の前で竜に犯されている姉を見ながら、姉に突っ込んでいるのが竜ではなくて僕であるような錯覚さえ覚えながら、夢中でしごいた。
激しい突き入れで悶え続けていた姉の腰が、不規則にふるえ始めるのが見えた。ああ、ああ、と、ひっきりなしに声をあげる姉の足先がぴんっと伸びて、それからくったりとしなだれた。いったのだ。
僕はといえば、情けないことに、姉が達するより先に自分のものをぶちまけていた。ところがそれでも僕の興奮は止まらなくて、ひたすら手を動かしていた。
そのまま二度目の射精をしたところで、僕は不意に我に返った。
自分のやっていることもだったが、それよりもそのとき目に入ってきた光景に、ぎょっとした。
竜が、ばっくりと口を開いていた。人の形をしていた頭がぐにょんと伸びて、そのままこう、横に裂けるように開いていくんだ。
開いた口は、でかいなんてものじゃなかった。人間の肩幅よりもっと広く裂けていた。
裂けた竜の口の中は、姉の口の紅と同じ色をしていた。
気をやってぐったりしていた姉が、それを見て一瞬目を見開いて、でもすぐ、うっとりと笑ったんだ。
くちなしを
くちありに
なさしめませ
なさしめませ
歌でも歌うように言いながら、竜に最初に手を伸ばしたときと同じように、手を伸ばして。
ばくん。
竜の口が、ひとたび閉じた。
姉の手と、肩と、頭が、消えた。
そして、ふたたび開いて閉じ。
乳房と、へそが、消えた。
みたび開いて閉じたときには。
腰と、爪先が、消えた。
そのあとは、何かを咀嚼する竜の姿と、ばりばりと、ぬちゃぬちゃと、およそ想像などできない音だけがあった。
僕は、何が起こったのか把握できなかった。今みたものを整理しようとしても、頭の中がまっしろになって、何も考えることができなくなっていた。
むしろ、考えてはいけない、理解してはいけないと、自分の頭の中を必死にまっしろにしていたのかもしれないと、今になってから思うけれど、まぁそのときは、多分それで正しかったんだ、僕の反応は。
やがて、竜が咀嚼をやめた。そして、それまで口の中にあったものを、べえっと吐き出した。
吐き出されたのは、人の頭より大きめな、まっしろな珠だった。
くちありとなりしくちなしよ
ながのぞみぞんぶんにもうせ
竜が水の流れるような声でそう言った瞬間、そのまっしろの珠の真ん中に、まるで口の紅を引くような具合で、赤くぽってりとした線が現れた。
そして浮かび上がると同時に、ぱっと開いて、あろうことか、声を発したんだ。
わがのぞみ
いえはさかえどちはとじよ
おとのゆきみち
ただやすらかに
それは確かに、姉の声だったよ。
とくききとどけた。姉の声の響きが消えた頃、竜がそう言った。
そして、竜はその白い珠を拾ってしっかり手の中に握りしめ、ぐるぐると倉の中に浮き上がり、ぐるりと僕の方を向いたんだ。
くちなしのおとよ
やくじょうにより
なのせいはゆるす
竜と目が合ってしまった僕は、殺されると思って身を縮こまらせた。だけど、竜はただそれだけを言うと、そのままぱっと消えてしまった。
もう、其処には何もなかった。竜も姉も、なーんにもね。
気付けば僕は、古ぼけた倉の中で、寒さと、寒さでないものとで、がたがたと震えていたんだ。
何が起こったのか、わからなかったよ。本当にね。
でも、本当にわけがわからなくなったのは、夜が明けてからだったんだ。
朝になって、倉から出てくるところを親に発見され、夜更かししたことをしこたま叱られた。
この寒い中、よく凍え死ななかったと、安堵された。
今日は学校を休んでいいから、早く暖まって、朝食をとりなさい。息子の、少し度を超した「いたずら」を、それでも両親は許してくれた。
だがおかしかった。両親の口から、姉の話が、一言も出てこないんだ。
あわてて僕が姉のことを尋ねると、不思議そうな顔をした。いつもと違うところで寝ていたせいで、変な夢でも見ていたんだろうと、僕の話を取り合ってもくれなかった。
僕は、思いつく限りのすべての人に、姉のことを尋ねた。近所の、学校の、何処の誰に尋ねても、誰も姉のことを知らない。あとあとになってから、戸籍も調べたけど、それすら何も残ってなかった。
結局、残っていたのは、僕の中の姉の記憶と、姉の姿にもよおして汚れた下着だけさ。
姉は、あの雪の夜、竜に食われて、珠になって、そのまま竜と一緒にこの世から消えてしまったんだ。
姉にまつわる話は、そんな感じだよ。
話し終えたS氏は、聞いてくれた礼だと言って、酒を奢ってくれた。
要するに、生娘が何かの人身御供になることで、家の繁栄を図ろうとするという、民話などによくあるあれだろう。
要素としてはもう少しオカルトチックな感もあるが、都市伝説的なものと考えるにはちょっと古くささがあるし、面白おかしい全くのホラ話というにも、微妙に中途半端なところが先に立って、正直、聞いていても少々鼻白んでしまう感が拭えない。
とはいえ、この場限りの与太としてなら、それなりに酒の肴にはなりそうだ。特に、竜との会話に出てきた「くちなし」とか「くちあり」とか、何処か謎かけのような響きのある言葉は、なかなか面白いと思う。
あれらがどういう意味の言葉なのか、S氏に尋ねてみた。すると、姉は女ですからね、とだけ返される。ますます謎かけっぽくなってきた。
あれこれと想像を巡らせていると、不意に、S氏の携帯端末がサイレントで鳴った。画面をちらりと見たS氏の表情が、笑う形に動く。
御細君からですか。冷やかすように言えば、「えぇ、今日は愛人と水入らずで過ごしているようです」とすました顔で言うものだから、いっそこっちの方が驚いた。
確か今、S氏の奥方は妊娠中のはずだ。
そんな身重の身で愛人と逢い引きしているというのも驚くが、それよりも、それを寛容に受け流しているS氏にこそ驚かされる。
妻の浮気を見張ってほくそ笑んでいる、という感じでもない。本当に、全く何でもないこと、という態度で朗らかに笑っていた。
あぁ、僕はいわゆる、性的不能ってやつでね。
こちらが目を白黒させていると、いたずらの種明かしをするような態でS氏が言った。
曰く、奥方の腹の中にいるのはS氏の子供ではなく愛人の子供であるということ。S氏が性的不能であることは、結婚の際に最初に提示してあるということ。子供が欲しいのであれば、愛人との間に子供を作ることも許可しているが、あくまでもS氏の家を継ぐ子供として育てること。
つまり仮面家族か。こちらのもらした呟きに、S氏は少しだけ心外そうな顔をした。
妻は僕が選びに選んだ、僕の家名を背負うにふさわしい女性なんだ。だから僕は、妻を心底から愛しているよ。
高らかに言い放ったS氏の言葉は、自信と希望に満ちていた。
だがそれと同時に、理解できた。S氏は、「望み」を叶えようとしているのだ。
いえはさかえどちはとじよ──「家」の名だけ残して血は途絶えろ、という「姉」の末期の望み。
S氏の両親は、事故であっさりと死んだ。おそらくだが、即死かそれに近い状態だったはずだ。温情ある死で、無駄に苦しむことのないように。
S氏は、性的不能で血を残せない。だが、それだけだ。それ以外のあらゆる幸福と安寧が、「姉」によって約束されているのだ。
そんな大スキャンダルになりそうなネタ、話していいんですか。そう問いかけると、S氏はやはり何の心配もしていない、という顔で、こう言った。
どんなに悪いことであっても、僕の不利や不幸には転ばないんだ。姉がそう望んで、そうなるようにしたからね。
楽しそうな、嬉しそうな、これ以上なく明るい顔だった。
後日、S氏の奥方が無事に赤ん坊を出産したというニュースを見た。彼にとっては待望の「跡継ぎ」である。
実はあれから、S氏のあの話を、こっそり三文雑誌に売り込みに行くつもりでいた。
何せ、世に名高い「成功者」のゴシップだ。たとえ与太でも、面白おかしく料理できそうなネタなら、連中の食いつきも悪くない。
ほどほどいい小銭稼ぎにでもなるだろう、そんな気楽な気持ちで編集者と待ち合わせた。
それがまさか、相手と顔を合わせた瞬間に双方もろとも車に突っ込まれ、どちらも全治に三か月以上はかかるだろう重傷を負うなんて、思いもしなかった。
命に別状がないのは幸いだったが、医者からは、多少の後遺症の残る可能性も捨てきれないとは言われている。おかげで、こうしてぼんやりベッドの上で絶対安静、テレビだけが退屈しのぎの友になるという日々だ。
テレビの中で、S氏が奥方と並んで喜びを露わにしていた。仕事に子育てに、今以上に意欲的になるだろうと語っていた。
ろくに動けない体で、ぼんやりとテレビの画面を眺めながら、けれど、わかったことがある。
S氏が自分のようなうらぶれた相手と酒を飲む機会は、きっともう、金輪際ないだろう。たとえ彼が許したとしても、彼の姉が許さないに違いない。
楽しい酒だったのに、と身から出た錆の結果を惜しく思いながら、けれど、命はもっと惜しいのだった。