「いやー、あの出会いは忘れられねえなあ。退屈な毎日を送るオレにきっかけをくれたあのお方のことは」
「聞いてないから。ま、そのお方とやらもどーせ美少女で、きっかけも下心満載なんでしょ?」
「美少女かどうかは関係ないだろ。まあ、かわいかったけどさ」
「美少女はホントかいっ。え~、冗談のつもりで言ったけどさ、大地って女子にトキメクようなタイプじゃないでしょ? 数学バカってイメージが先行してるんですけど?」
「私たちにはトキメかないもんね。なんだか意外」
 オレをなんだと思ってるんだよ……、と大地は嘆いたが、
「中二の夏休みの前に校外学習で来させられてさ、この街に住むその先輩の話を聞く機会があったんだよ。街での生活や取り組み、目標なんかを聞いて、その人が眩しく見えてな」
「へえ、それがきっかけで。大地くんは研究者になりたいの?」
「いや。とにかく面白そうな勉強をしに来ただけだよ。今はこの街で過ごしながら勉強して、研究部で活動して、それから具体的な将来を決めるつもりでいる」
「研究施設が豊富で白衣着た連中がウロチョロしてるけど、街が掲げる研究者育成ってのは一部の人間にしか関係のないハナシだし。私だって研究者になる気はないわ」
 三人は私立桜鈴館高校“研究部”のメンバーであり、各自興味のある分野や顧問から与えられたテーマを基に日々研究に取り組んでいるが、だからといって部員皆が研究者を志望しているわけではない。おおよそが趣味目的に活動しているだけだ。
「街の外にいた時は特別な街だと思ってたけど、研究施設とガキの多さ以外は案外普通の街だよな。《NETdivAR(ネットダイバー)》みたいな技術が溢れてるわけじゃないし。あ、言っとくけど未来都市に来てよかったとは思ってるからな? 勉強で困ることは何一つないし、退屈もないし」
 が、九人いる研究部では珍しい研究者志望のあおいは、むぅ~と反論の姿勢で、
「もう、萎えること言わないでよぉ。私は研究者になりたいのに」
「海外に科学技術が並ばれた、研究者が足りないって、メディアは毎日のように嘆いてるわ。未来都市は何やってるんだと。そんな情勢(いま)だからこそ、あおいのヤル気がこの国の科学を変えてくれるって」
「ま、オレ様の頭脳でも素晴らしい研究者になれるだろうけど」
「ムカツク自画自賛だけど、反論に困るのが余計に腹立たしいわね……」
 窓に預けた頭を起こし、ジト目で大地を睨んだレミだが、
「そういえば大地、アンタが《パラレルレンズ》持ってなかった?」
「あのメガネだっけ? そうだった。返してねーな」
 大地はスクールバッグの中からメガネケースを取り出し、レミに返す前にメガネを掛け、
「もうちょい遊ばせてくれ。寮に近づいたら返すからよ」
「ふーん、そんなにARに興味持っちゃった? でもバスでそれを掛けても何も変わんないでしょ。ネットワークが普及してる街とはいえ、ARのデータを仕込む必要があるし」
「たしかに、何も変わらんな。……そりゃあそうか。データなんて“未来人の落とし物”の中身を知ってないと作れないし」
 やれやれと肩をすくめて、大地は外の景色に視線をよこした。天高くそびえる記念碑の塔が再び視界を掠める。
 だが、その時のこと。

 〝変化〟は何の前触れもなく起きた。

「…………ッ!?」
 突如、車内が暗みに支配されたのだ。まるで真夜中を走るバスのごとく。
「な、なんだ!? ……おい、オカシイだろ?」
 気づいた変化は車内だけではない。大地は引き寄せられるように窓へ視線を向け、
(ビッ、ビル……? ちょ……、ここ、未来都市……だろ?)
 本来ならば平坦な街並みが地上に広がるはずなのに、逆に刺々しく、天を突くように建ち連なるビル群が目に飛び込んだのだ。大都会という表現を超え、SFの世界へと紛れ込んだ錯覚と、連なる巨象を前にした時のような威圧感で脳が揺さぶられる。煌びやかな無数のガラス窓がラメのように、ギラギラと光を反射していた。
(オレ、幻覚でも見てるのか? いや、まさしくこれが《NETdivAR(ネットダイバー)》の世界なのか!?)
 瞳が闇に慣れたところで窓から視線を移し、外からの光で淡く照らされる車内に再び目を配らせる。驚くことに、一日を伴にしたレミやあおい、それ以外の乗客の姿が確認できなかった。ただ一人、大地だけが寂しく座る格好となったバス内部。
 ――――否、座るのは大地一人ではなかった。
(あれは……人? 髪が長い……女か?)
 大地から見て通路を隔てた二席前に座っている一人の形姿。ただし伺えたのは背面と、ピンクが褪せたようなストレートの銀髪のみ。
 声をかけようと大地は身体(からだ)を傾げた。しかし呼びかけを予測していたと言わんばかりに、彼女はタイミングよく振り向き、
『――――拡張世界(コンプレックスフィールド)にようこそ』
 花模様を刺繍した白銀のベネチアンマスクに覆われ、隠される容貌。《パラレルレンズ》のフレームに搭載された小型スピーカーから、少女の声が大地の耳に触れる。
「なっ、おい――――」
 大地は前のめりに踏み入れ、仮面(マスク)の少女に手を伸ばそうとした。けれども――――、
「――大地くんっ、大丈夫!?」
「……ッ!?」
 聞き慣れた声で脳が揺さぶられ、あの妖精のような少女に占有されていた思考がリセットされる。すぐに声の方に向けば、
「ど、どうしちゃったの? 急にうろたえて……」
 車窓から望む夕日を背景に、夕暮れにも似た憂いのある色を顔に滲ませたあおいが、心配そうに大地を見ていた。
「なになに、幻覚でも見ちゃった? あいにくメガネに幻覚作用はございませんけど?」
 何をやってるんだか、とでも言いたげにぼやくレミ。
 額に涌く冷や汗を袖で拭った大地は、今度こそ《パラレルレンズ》を外して、
「……今、見たんだ。いきなり真っ暗になって、ビルに囲まれて……。そんで銀髪の女が『拡張世界(コンプレックスフィールド)にようこそ』ってオレに言ったんだよ……」
「ハァ? 本気で心配になるんだけど……、病院寄ってく?」
「レミちゃん、私たちは何もなかったよね? 今は夕暮れだし、高いビルも周りには……」
「いや、マジだって! しっかりこの目で――……。いや、証明はできねえな。スマン、今言ったことは忘れてくれ」
 数学のように完璧に、理論づくめで証明できる話ではない、そう踏んだ大地。
(信じられるわけないよな。なんたってオレが一番信じられねえ思いしてるんだし。本当にあれは……ただの幻覚だったのか?)

       2

 シンポジウムのあった土曜日から三日後の火曜日。
 ぬぅおーッと伸びをして、大地は凝り固まった肩の筋肉をほぐし、
「あー、先が見えねーッ!」
 放課後、研究部の第二部室で彼は数冊の専門書と格闘していた。同級生の男子二人とで三人共用の部室だが、大地以外の二人は外出中のため、今は一人で部室に篭っている。
 未来都市内すべての学校が一堂に会す学園祭が二週間前の9月中旬に開かれ、その場で入学から半年間の成果を発表し、いったんは自身の研究にケリを付けたはよいが、
「逢坂大地、新たなる挑戦。あ~全然浮かばねぇ。宇宙飛行プロジェクトの研究と並行できそうなのはないのか? やっぱ面白そうなヤツがいいなー」
 壁際のシンプルデスクの上には量子力学、偏微分方程式、流体力学、ベクトル解析の参考書が、ページが開かれたまま雑多に置かれている。
(あおいはコレやってみたら? なんて言ったけど)
 本の中から『よくわかる量子の世界』という題目の本を手に取り、『水素原子中の電子をポテンシャルとするシュレーディンガー方程式の解法』なるページにザッと目を通すが、
(あんまり物理に偏りすぎてもなぁ。かといって数学チックになりすぎると難しいし……)
 オレンジ髪の頭を抱えた大地は唸りを上げる。
「ま、リフレッシュしようじゃないか。散歩だ散歩!」
 絡まった頭で思考を続けていても成果は出ない。経験からそれを知る大地は立ち上がり、真っ赤なシャツの上から紺のブレザーを羽織ると廊下に出て、
(部員のトコに遊び行こっかなー? さーて、どうすっかなー)
 大地の通う桜鈴館高校は一〇階建てのビル構造になっており、研究部には共用の部室のほか、五階、六階それぞれに二部屋ずつ部室が与えられていて、大地ら一年生組は五階、レミ、あおいら二年生組は六階の部屋が割り当てられている。
「ま、外の空気でも吸いに行こ」
 というわけで下の階に向かったら、たまたますれ違った女子生徒のペアが「うわ、なにあの服装……」「ちょ、聞こえるって」と囁き合っているので、大地がぎこちなく振り返ると、
「キャッ」
 二人はビクリと反応し、逃げるようにそそくさと立ち去る。
「………………」
 ゲンナリと肩をすくめた大地。足を止めて己の服装を見やり、
(そんなに奇抜か!? 普通にカッコイイだろ! ボタンは全部はめてるし、ベルトだってヘソで巻いてるし、校則は守ってるだろうが! こんなの単なるオシャレだろうに!)
 ワックスで整えたオレンジ髪を黒いヘアバンドで立たせた髪型。首元から覗く真っ赤なシャツ、両手首にはめられたシルバーのブレスレット、黒いベルトを彩る髑髏柄の金属アクセサリ。
「あいにく男どもには好評なんだよなあ。ふふ、女にはわからんでケッコウ」
 頭の後ろで手を組み、周りの評価など気にせず楽観的に先を行く大地。校舎の裏にある公園に赴いた。木々の中にベンチが設置されている程度の簡素な造りではあるが、緑生い茂る景観のよいこの場所は、彼お気に入りのスポットでもあった。
「ん、あおいか?」
 見知った女子高生がしゃがんで、楽しそうに猫とじゃれあっている。
「大地くん、こんにちは」
 おっとりした性格を表したような、柔らかな瞳を大地に向けたのは部の先輩のあおい。ブレザーの上に白衣を羽織り、野良と思われる茶の毛色をした猫の背を優しく撫でる。
「あ、こらっ」
 肩から胸元に掛かる細束の髪に猫パンチ。カントリースタイルの紺髪が揺れ動く。
「ハハッ、好かれてるんだな。あおいも気分転換か?」
「うん、なに研究しようか迷っちゃって。その様子だと、大地くんもそうみたい」
 あおいは無垢な笑みをニコッと見せる。美少女と呼んでも差し支えのない顔立ちから放たれる仕草に、天使の生まれ変わりか、と我にもなく大地は錯覚した。
 座らない? という先輩の進言に甘え、大地は彼女とともにベンチへ腰を下ろす。
「にゃあ~、ごろごろ~。ふふ、気持ちいい?」
 猫を仰向けでベンチに転がせ、その柔らかな腹部を撫でるあおい。時には頭を撫で、時には肉球をつまむ。
「本当に動物が好きなんだな」
「うん、大好き。特にこの猫さんとは友達なんだ。ここに来るとよく遊ぶよ」
 するとあおいは猫の胴体を抱え、自身の膝に尻を乗せ、
「……くんくん、ん……いい匂いする……んっ」
 猫の肉球に顔を近づけ、くんくんと念入りに匂いを嗅ぐ。
「…………」
 その行動に頬を引きつらせる後輩に、先輩はキラキラと勝手に瞳を輝かせ、
「猫背の由来は知ってる? 猫は肉食動物だから、背骨が内臓を支える必要がないから柔軟に動けるんだよ? それに頭骸骨は十一種類の骨で組み立てられてるのは知ってた? あと尻尾なんだけど、実は固体によって骨の数が違うんだよ? それでね、前脚は――……」
「わかったわかった、猫の骨格はじゅーぶんわかったからっ」
 と、訊いてもいないのにズラズラと解説を並べるあおいを、大地は両手で制した。
(さすがは静かなる狂った科学者(サイレントマッドサイエンティスト)と呼ばれるだけあるぜ……。普段は控えめなクセして、理科や科学に関しては異様に興味を示すんだよな、この人)
 気を取り直すように、大地はゴホンと咳払いを済ませ、
「それでさ、例の研究は進んでるか? こっちは全然。正直オレ、知識がないんだよな」
「知識って、宇宙の?」