家に帰ると母の玄関に靴がまだあった。いつもなら出勤している時間のはずで、何か嫌な予感がする。体調を崩して寝込んでいるのだろうか。思い返せば今朝も様子がおかしかった。
常備薬は足りるか、栄養の取れる食事は何か。そんな事を考えながら居間に上がると母は机の滲みをじっと見つめるようにして正座していた。母からは悲壮感が漂い、傍に空になった大量の酒の缶と、白いマフラーが転がっていた。
白いマフラーを見て動けなくなる。
「朱鳥」
母の口から僕の名前が出るのを久しぶりに聞く。
「あなたも私を捨てるの?」
普段は突き刺すような視線を向ける母は、穏やかで慈しみのある瞳で僕を見る。
「捨てる? なんのこと?」
「これ。女のでしょ?」
母は床に置かれたマフラーを掴むと、ゆっくりとした所作で立ち上がりおぼつかない足で近づいて来る。
「この女と私を置いて出ていく気なんでしょ」
「落ち着いてよ。誰がそんな事」
迫ってくる母に言いようのない恐怖を抱く。
「あの人もそうだった! 他所で女を作って私を捨てた。こんな狭くて息苦しいところに置き去りにしたのよ! 私だって頑張っていたのに。ずっと信じていたのに。あの人のしていることは町の為になる。あの人は誠実で詐欺師なんかじゃない。それなのにあの人は、あの人は」
父がここを出て行った理由、それは誰にもわからない。他に女が出てきたというのは噂の一つでしかない。しかし、母はそれを信じている。父を悪者にすることで崩れそうな精神を保っているのだ。そして、その矛先は僕にも向けられる。
「あんたの所為なのよ。あんたが調子に乗って目立つから」
僕の肩を掴む母の力は女性のそれとは思えないほどに強く、爪が食い込んで簡単に逃げ出せない。
「テレビが来て、周りのみんなが迷惑して、あの人の計画も邪魔した。あんたが居なければあの人が出て行くことはなかったのよ!」
「……ごめんなさい」
支離滅裂で根拠のない主張だけれど否定をすれば殴られる。いつしか僕はそれを受け入れていた。
「そんなことしたあんたが私を置いて出て行くの?」
「違うよ。誤解だから」
肩に食い込んだ手をそっと外して説得する。
「大丈夫。僕はこの町を出て行かないよ。高校を卒業したら裕司さんのところに就職して働くから」
「本当に?」
「本当だよ。僕が働けば生活は楽になるし、そうすれば母さんは無理してスナックで働く必要ない。裕司さんとも一緒にいられる」
取り乱していた母は落ち着きを取り戻して僕から手を離す。
「ええ、そうね。それがいいわ」
聞き取れないほどの声でぶつぶつと呟いていた母は、居間の床に座り込んでやがて眠ってしまう。
家の電話で裕司さんに母の事を伝えてから夕食の支度をする。食べてもらえるかわからない食事の支度は憂鬱で、昨日を思い出すと胸に殴られたような痛みが走る。
煮込んだ醤油の匂いや、水の流れる音、全てが空しくて機械になったように手を動かした。
支度を終える頃に裕司さんが家に到着する。
「今は落ち着いて眠っています」
「ありがとう。大丈夫かい?」
「大丈夫です。怪我はしてませんから」
両肩のずきずきとした痛みは感じない事にする。僕を傷つけたと知ったら裕司さんは今度こそ母を諦めてしまうかもしれない。
「僕が心配しているのは気持ちの方だよ」
神妙な面持ちで様子を伺う裕司さんにいつもの作り笑いを見せる。
「平気ですから。それより僕を正式に雇ってもらえませんか?」
「それは朱鳥くんの本意か?」
優しい声の中に厳しさを垣間見る。
「お母さんの為というなら僕は賛成できない」
優しさの中に見せる厳しさは父親のような存在を感じさせる。
「わかりました」
僕の浅はかな考えを見透かされたように感じて、同じ空間にいるのが恥ずかしくなる。
「ちょっと出ます。ごはん温めればすぐに食べられますので」
それだけ言うと逃げ出すように僕は家を出た。
常備薬は足りるか、栄養の取れる食事は何か。そんな事を考えながら居間に上がると母は机の滲みをじっと見つめるようにして正座していた。母からは悲壮感が漂い、傍に空になった大量の酒の缶と、白いマフラーが転がっていた。
白いマフラーを見て動けなくなる。
「朱鳥」
母の口から僕の名前が出るのを久しぶりに聞く。
「あなたも私を捨てるの?」
普段は突き刺すような視線を向ける母は、穏やかで慈しみのある瞳で僕を見る。
「捨てる? なんのこと?」
「これ。女のでしょ?」
母は床に置かれたマフラーを掴むと、ゆっくりとした所作で立ち上がりおぼつかない足で近づいて来る。
「この女と私を置いて出ていく気なんでしょ」
「落ち着いてよ。誰がそんな事」
迫ってくる母に言いようのない恐怖を抱く。
「あの人もそうだった! 他所で女を作って私を捨てた。こんな狭くて息苦しいところに置き去りにしたのよ! 私だって頑張っていたのに。ずっと信じていたのに。あの人のしていることは町の為になる。あの人は誠実で詐欺師なんかじゃない。それなのにあの人は、あの人は」
父がここを出て行った理由、それは誰にもわからない。他に女が出てきたというのは噂の一つでしかない。しかし、母はそれを信じている。父を悪者にすることで崩れそうな精神を保っているのだ。そして、その矛先は僕にも向けられる。
「あんたの所為なのよ。あんたが調子に乗って目立つから」
僕の肩を掴む母の力は女性のそれとは思えないほどに強く、爪が食い込んで簡単に逃げ出せない。
「テレビが来て、周りのみんなが迷惑して、あの人の計画も邪魔した。あんたが居なければあの人が出て行くことはなかったのよ!」
「……ごめんなさい」
支離滅裂で根拠のない主張だけれど否定をすれば殴られる。いつしか僕はそれを受け入れていた。
「そんなことしたあんたが私を置いて出て行くの?」
「違うよ。誤解だから」
肩に食い込んだ手をそっと外して説得する。
「大丈夫。僕はこの町を出て行かないよ。高校を卒業したら裕司さんのところに就職して働くから」
「本当に?」
「本当だよ。僕が働けば生活は楽になるし、そうすれば母さんは無理してスナックで働く必要ない。裕司さんとも一緒にいられる」
取り乱していた母は落ち着きを取り戻して僕から手を離す。
「ええ、そうね。それがいいわ」
聞き取れないほどの声でぶつぶつと呟いていた母は、居間の床に座り込んでやがて眠ってしまう。
家の電話で裕司さんに母の事を伝えてから夕食の支度をする。食べてもらえるかわからない食事の支度は憂鬱で、昨日を思い出すと胸に殴られたような痛みが走る。
煮込んだ醤油の匂いや、水の流れる音、全てが空しくて機械になったように手を動かした。
支度を終える頃に裕司さんが家に到着する。
「今は落ち着いて眠っています」
「ありがとう。大丈夫かい?」
「大丈夫です。怪我はしてませんから」
両肩のずきずきとした痛みは感じない事にする。僕を傷つけたと知ったら裕司さんは今度こそ母を諦めてしまうかもしれない。
「僕が心配しているのは気持ちの方だよ」
神妙な面持ちで様子を伺う裕司さんにいつもの作り笑いを見せる。
「平気ですから。それより僕を正式に雇ってもらえませんか?」
「それは朱鳥くんの本意か?」
優しい声の中に厳しさを垣間見る。
「お母さんの為というなら僕は賛成できない」
優しさの中に見せる厳しさは父親のような存在を感じさせる。
「わかりました」
僕の浅はかな考えを見透かされたように感じて、同じ空間にいるのが恥ずかしくなる。
「ちょっと出ます。ごはん温めればすぐに食べられますので」
それだけ言うと逃げ出すように僕は家を出た。