翌日、つつがなくバイトは終わり倉庫を後にする。

「お疲れ様」

 キサさんはいつもと変わらぬ様子で買い物袋を両手にぶら下げていた。二人で食べるには少し多いように思えるが、食材は余っても後に使用すればいい。

「自宅で待っててもらって良かったんですけど」

 誰かに見られたら直ぐに良からぬ噂になる。

 僕たちの目的の為には目立つことはしない方がいいのではないだろうか。

「私がいると邪魔?」
「別に……」

 その聞き方はずるい。

「僕は噂にならないか心配しているんです」
「その辺は平気でしょ。いつもはリアカー引いてるし」

 言われてみればそうだ。リアカーを引いた男女なんて目立つに決まっているが今のところそれらが噂になっていることはない。

「だからさ」

 いたずらスイッチが入ったキサさんは僕の腕に絡みつく。甘い清らかな香りが漂い距離の近さを実感させる。

「なんだか新婚の気分になるね」
「なりませんし、こんなところ見られたら色々と面倒です」

 胸が高鳴ってそれどころではない。

「良いじゃん。美人な彼女って事にすれば」
「嘘は直ぐにばれますよ」
「美人は否定しないんだ」

 いたずらな笑みを浮かべて満足な表情を見せる。

「本当に美人なんだから否定する意味もないでしょ」
「うん。まあそうだね」

 視線を泳がせてくすぐったい表情をする。だんだんと対処の仕方に気づいてきた。

「ところで君は変なところを気にするね。高校生が彼女の一人や二人、普通なのでは?」
「そりゃしますよ。ここは娯楽がないですから、ちょっとした変化には敏感です。それに目立ったっていい事は一つもないですから」

 出る杭は打たれる。打たれるだけならまだましだ。出過ぎた杭は抜かれてしまうのがこの町の風習だ。

「ま、その気持ちはわからないわけでもない。だけど……」

 ふっと風が通り過ぎるくらいの僅かな間、キサさんの表情が曇る。

「一人でいるのは不安なのさ」
「え?」
「なーんてね」

 すぐにいつもの明るい表情に戻して買い物袋を振り回しながら先を歩く。
 
 すっかり忘れていたが、キサさんはあのミグラトーレである。常に作品や動向に注目を集める、本来なら僕なんかが関わることの出来ない別世界の人間だ。常に周囲から関心を向けられることが、どれだけ精神に負担をかけているのか、僕の想像なんかでは足らない。

「キサさん」
「ん?」

 子供のように首を傾けて振り向く彼女を僕は何も知らない。知っているのは出会ってからの僅かな期間だけの彼女だけ。
無邪気で、からかいたがりで、そのくせ責められると弱くて、爆弾魔で、芸術家。

 ころころと変える表情の下に隠した本音を僕は知らない。

「何でもないです」
「なに? 気になる」

 あなたの事がもっと知りたいです。

 危うく口からこぼれてしまいそうになる言葉を飲み込む。

 きっとこれを言ってしまったら僕たちの関係は少し変わってしまう。そしてその変化が致命的になってしまう。本能的に僕はそれを悟っていた。

 僕の絵を現実に起こしてくれる存在。

「ハンバーグ、大きいのが一つか、小さいのが複数か、どっちが良いかなと」
「……大きいのがいいかな」

 聞きたいことはそんなことではないとキサさんも悟っているけれど、追及してこようとはしてこなかった。

 これでいい。僕らは近づきすぎてはいけない。

 爆薬と一緒で、僕らは近づきすぎると爆発してしまう。

 アトリエの隣に立つ家に初めて立ち入る。そこは長い間放置されていたためか、生活感を感じることは出来ず、リビングにはくびれたソファーに年季の入った机があるだけ。

 ガス、電気、水道、ライフラインも問題なく人が住める環境が整っているにも関わらず、そこには人が暮らしている息吹が感じられない。

 キッチンには食器や調理器具が一式揃えられており、使われなくなってしばらく経つ家電も一つ一つ動作確認が必要であったが、どれも久しぶりの労働に文句ひとつ言わずに動いてくれた。

 正直なところ、何も調理器具がないことも想定していただけに拍子抜けだった。

「君はいいお嫁さんになるよ」
「僕は男ですけどね」
「細かいことはいいんだよ。君は料理がうまい。それが事実」

 空になった食器を片付けながら適当に聞き流す。

 作った料理を残さずに食べてもらえるのは正直嬉しい。
 
 母はなにかと文句を付けて僕の料理を全て食べることはしない。その癖、作らなければ激怒するのだから手に負えない。

「片付けは私がやるから、水に漬けといて」

 くたびれたソファーで横になったキサさんの頬はほんのりと赤く心地よさそうだ。

 傍には空になったビールが二本、三本目も空になりかけている。あの苦い飲み物の何が美味しいのか僕にはわからない。大人になったらわかるのだろうか。

 お酒が飲めるということはキサさんも大人だ。当たり前の事実に少し残念な気持ちになるのは何故だろう。

 あまりお酒には良いイメージがない。母は酔うと暴力的になるし、それに醜悪を詰め込んで煮詰めたようなあの臭いが嫌いだ。

 キサさんからもあの醜悪な臭いがするのだろうか。想像なんてしたくないけれど、こういう時だけ僕の頭は良く働く。

「やめましょう」

 四本目に手を伸ばしたキサさんに控えめに言ったつもりだったが、思いの外言葉がきつくなってしまった。

「飲み過ぎですよ」

 声が震える。

「うん。そうだね」

 キサさんはまだ正常な判断ができるようで、伸ばしていた手を引っ込めた。

 胃の中に鉛の様なものが落ちてきた気がして吐き気がする。流しの水が流れるのをじっと見つめて気分を落ち着かせている

「大人は嫌い?」
「急に何ですか?」
「私を見る目がね」

 ゆっくりと立ち上がってミネラルウォーターのボトルを袋から取り出す。一思いに半分ほど口に流し込んでから、核心を突いてくる。

「敵を見ている目をしていたよ」

 そんなことないです。と否定できるのほどの根拠がない。確かに僕はキサさんに何か失望に似た感情を抱いていた。

「気づいていないかもしれないけれど、大人に対している時の君は目の色が変わる」

 周りにいる大人の殆どが僕の事をよく思っていない。だから僕もそんな人たちに隙を見せるわけにはいかない。そうした感情が目に現れてしまっていた。

「すみません」

 思わず謝るが、何に謝っているのかわからない。

「謝る必要ないよ。これは君に対して大人が取った行動の裏返しなんだ」

 キサさんは僕の謝罪に悲痛な表情を浮かべる。

「大丈夫。君がそうなったのは大人たちの所為だ。変わろうなんて思う必要はないよ。大丈夫だから」

 必要以上に大丈夫を繰りえしてキサさんは僕に諭すように言う。

 そんな風に甘やかすから僕はその背中に寄りかかってしまう。

「母がスナックで仕事をしているんですけど、深く酔ってしまうと僕に暴力を振るうんです。酔ってますし、容赦ない時も結構あります。だけど僕はもうこの年ですし反撃だってできるんですけど……」

 言葉が見つからない。何を伝えたくて、僕はこんな話をしているのだろ。

「反撃したら終わりですから。そんなことしたら、あの頃の母は二度と戻って来ませんし、きっと裕司さんと再婚したら変わるかもしれないですから」

 僕の家庭の話なんて、何も知らないキサさんにしても意味がない。

 それなのに僕は誰に伝えるわけでもなく言葉を零した。

「僕はあの頃の母に戻ってほしいんです」

 つらつらと言い訳を並べる自分が嫌いだ。全てを壊したと思っていながら、昔に戻りたいと思っている自分が嫌いだ。

 こんな自分ごと全て破壊してしまいたい。

「すみません。いきなり」

 開けたままだった蛇口を閉める。急に室内が静かになり居心地の悪さを感じた。キサさんは黙ったまま手にした水を見つめている。

「ごめんね。私のミスだ。もっと君の事を調べるべきだった。私が他の大人と同じに見えてしまった?」
「……別に」

 否定しようとしても言葉が出てこない。キサさんを他の大人と同等にして距離を置こうとしたのは事実なのだから。

「嫌な事でもあったんですか?」

 話を逸らすよために話題を変える。
大人が酒を飲むとき、それはどんな時なのだろう。単純に嗜好品として嗜む場合もあるだろう。それ以外の事で考えられることは、気分を逸らしたい時だ。

「鋭いね。まあこっちにも色々あるのさ」

 やっぱりキサさんは話してくれない。少し愚痴を聞くくらいなら僕にだって出来るというのに。

「それよりも。さっきの話、君の家も対象になるけど」

 キサさんは誤魔化すように話を戻す。露骨なやりかたに不満がないわけではないが、僕にはまだその価値がないのだと自分に言い聞かせる。

「今なら止められるよ」
「冗談を言わないでください。酔ってるんですか?」

 ここで僕がやめると言ってもキサさん何も言わずに許してくれる。だけど、今の僕に必要なのはそんな優しさじゃない。

「やり抜きますよ。何があっても」

 優しさを振りほどく様に首を振る。残っている全ての可能性を吹き飛ばしてしまわないと僕は前に進めない。

「……わかった」
「じゃあ僕はこれで」

 これ以上ここに居ても重い空気にするだけで忍びなかった。

 帰路につきながらさっきの言葉にどんな意図があったのか考える。僕が止めると言ってしまったら、計画はそこで終了してしまう。本当は爆破したくなのだろうか。僕はキサさんが爆弾を仕掛ける理由を知らない。

 その事が僕の心に引っかき傷をつける。

 今朝は早くに目が覚めたがアトリエに行く気になれず、無為に時間が過ぎるのを待った。

 窓を開けると秋の匂いは薄くなり、厳しい寒さの気配が漂っている。

 折れ曲がった風車を眺めながら、頭の中でアトリエを爆破しようとするがうまくいかない。今の僕には木造のアトリエすら破壊することが出来ないでいる。

 押入れの奥にしまったマフラーを取り出す。わずかに漂う甘く清らかな香りが僕の胸を締め付ける。

 今頃はあのくたびれたソファーで寝ているのだろうか。

「ねえ……」

 扉越しに声を掛けられて慌ててマフラーをしまう。

「何?」

 扉を開けると母が不機嫌な表情で立っていた。

「最近何かあった?」
「何もないよ」
「そう……」

 キサさんとのことがばれたのかと思ったけれど、特に確信があったわけではないようで目で中の様子を伺うとそのまま下へと降りて行った。
 
 僕は逃げ出すように鞄をひったくるようにもって家を出た。

 今日も爆弾が仕掛けられているとは思えないほどに平凡な時間は過ぎ、昼休みを迎えて美術室に向かう。

 床や壁、机に沁み込んだ絵の具の匂いが心地よい。

 美術雑誌が収められている棚の前に立つ。一年前まであった書店が閉店してからはこの棚が更新されることはなくなった。

 思わず手に取るのはやはりミグラトーレが乗っている雑誌。

 ミグラトーレは何者なのかという記事を読みながら僕は優越感に浸っていた。僕だけが知っているミグラトーレの正体。この記事に書いてあることは殆どが出鱈目だ。ライターの憶測と希望が随所に垣間見える。
でも、と考える。

 僕の知っているミグラトーレは本当のミグラトーレなのか。

 キサさんが本当の事を語ってくれない以上、僕にはその判断を下すことは出来ない。

「朱鳥いる?」

 息を切らして唯織が入って来る。

「なに? 予餞会の事は説得しても無駄だよ」
「そのことなんだけさ……」

 唯織は言いづらそうに視線を落とす。後ろには大河が付き添うように立っていた。

「言いにくいなら俺が言うぞ」
「大河は黙ってて」

 気遣う大河の言葉を無下に断って中に入る。

「座って」

 扉を閉めて適当な椅子を持ってくると座るように要求する。
 
 僕が大人しくそこへ座ると、二人は面接官のように僕の対面に座った。

「下絵の件だけど、他の子に決まった」

 唯織は苦虫を噛みしめるかのような表情で告げる。

「そう。よかったね」
「よくないよ。絶対に私は朱鳥の方がいいと思ってる」
「仕方ないよ。周りを説得しきれなかった俺たちの力不足だ」

 今にも泣きだしそうな表情で悔しがる唯織を大河がフォローする。

「でもあんな根も葉もない噂流されて悔しいじゃん」
「噂?」
「朱鳥が変な奴とつるんでいるって噂が流れたんだ。直ぐにそれが嘘だってわかったんだけど、その所為で他の生徒会役員は慎重になって、先生にもそういう意見が出たんだ」

 トラブルの種は積んでしまおうという考えなのだろう。それは正しい。噂の出どころは不明だけれど、その噂はあながち間違えというわけではない。

「決まった以上はその子の事ちゃんとフォローしてあげた方がいいよ。僕の事は気にしなくていいから。こもとから断るつもりだったし」

 僕は二人を置いて美術室を出る。

 これで心置きなくキサさんとの作業に専念できる。

 他の人に決まれば吹っ切れると思っていたけれど、消化不良を起こしたように後ろめいた気持ちが残っていた。


 家に帰ると母の玄関に靴がまだあった。いつもなら出勤している時間のはずで、何か嫌な予感がする。体調を崩して寝込んでいるのだろうか。思い返せば今朝も様子がおかしかった。

 常備薬は足りるか、栄養の取れる食事は何か。そんな事を考えながら居間に上がると母は机の滲みをじっと見つめるようにして正座していた。母からは悲壮感が漂い、傍に空になった大量の酒の缶と、白いマフラーが転がっていた。

 白いマフラーを見て動けなくなる。

「朱鳥」

 母の口から僕の名前が出るのを久しぶりに聞く。

「あなたも私を捨てるの?」

 普段は突き刺すような視線を向ける母は、穏やかで慈しみのある瞳で僕を見る。

「捨てる? なんのこと?」
「これ。女のでしょ?」

 母は床に置かれたマフラーを掴むと、ゆっくりとした所作で立ち上がりおぼつかない足で近づいて来る。

「この女と私を置いて出ていく気なんでしょ」
「落ち着いてよ。誰がそんな事」

 迫ってくる母に言いようのない恐怖を抱く。

「あの人もそうだった! 他所で女を作って私を捨てた。こんな狭くて息苦しいところに置き去りにしたのよ! 私だって頑張っていたのに。ずっと信じていたのに。あの人のしていることは町の為になる。あの人は誠実で詐欺師なんかじゃない。それなのにあの人は、あの人は」

 父がここを出て行った理由、それは誰にもわからない。他に女が出てきたというのは噂の一つでしかない。しかし、母はそれを信じている。父を悪者にすることで崩れそうな精神を保っているのだ。そして、その矛先は僕にも向けられる。

「あんたの所為なのよ。あんたが調子に乗って目立つから」

 僕の肩を掴む母の力は女性のそれとは思えないほどに強く、爪が食い込んで簡単に逃げ出せない。

「テレビが来て、周りのみんなが迷惑して、あの人の計画も邪魔した。あんたが居なければあの人が出て行くことはなかったのよ!」
「……ごめんなさい」

 支離滅裂で根拠のない主張だけれど否定をすれば殴られる。いつしか僕はそれを受け入れていた。

「そんなことしたあんたが私を置いて出て行くの?」
「違うよ。誤解だから」

 肩に食い込んだ手をそっと外して説得する。

「大丈夫。僕はこの町を出て行かないよ。高校を卒業したら裕司さんのところに就職して働くから」
「本当に?」
「本当だよ。僕が働けば生活は楽になるし、そうすれば母さんは無理してスナックで働く必要ない。裕司さんとも一緒にいられる」

 取り乱していた母は落ち着きを取り戻して僕から手を離す。

「ええ、そうね。それがいいわ」

 聞き取れないほどの声でぶつぶつと呟いていた母は、居間の床に座り込んでやがて眠ってしまう。

 家の電話で裕司さんに母の事を伝えてから夕食の支度をする。食べてもらえるかわからない食事の支度は憂鬱で、昨日を思い出すと胸に殴られたような痛みが走る。

 煮込んだ醤油の匂いや、水の流れる音、全てが空しくて機械になったように手を動かした。

 支度を終える頃に裕司さんが家に到着する。

「今は落ち着いて眠っています」
「ありがとう。大丈夫かい?」
「大丈夫です。怪我はしてませんから」

 両肩のずきずきとした痛みは感じない事にする。僕を傷つけたと知ったら裕司さんは今度こそ母を諦めてしまうかもしれない。

「僕が心配しているのは気持ちの方だよ」

 神妙な面持ちで様子を伺う裕司さんにいつもの作り笑いを見せる。

「平気ですから。それより僕を正式に雇ってもらえませんか?」
「それは朱鳥くんの本意か?」

 優しい声の中に厳しさを垣間見る。

「お母さんの為というなら僕は賛成できない」

 優しさの中に見せる厳しさは父親のような存在を感じさせる。

「わかりました」

 僕の浅はかな考えを見透かされたように感じて、同じ空間にいるのが恥ずかしくなる。

「ちょっと出ます。ごはん温めればすぐに食べられますので」

 それだけ言うと逃げ出すように僕は家を出た。

 気分が沈んだ時に行ける場所は限られている。

 アトリエに歩みを向けて、今日のバイトは休みであることをキサさんに伝えていない事に気づく。もしかしたらバイト先の方へ行ってしまっているかもしれない。
 
 生まれて初めてスマホが欲しいと思う。こういう時に連絡が出来ないのは不便だ。

 申し訳ないと思いながらも、アトリエに向けられている歩みを変えられなかった。

 頭に浮かんでしまった衝動を外に吐き出さなくてはならない。描かなければ窒息してしまう。脅迫観念が実際に僕の首を絞めて息苦しくさせる。

 鍵が掛かっているかもと思ったけれど、アトリエのドアはあの日と変わらず開いていた。

 丘の上にあるここは町を一望できる。日が傾き朱に染まった町を見下ろして渡り鳥が飛んでいく。渡り鳥の白い身体も今は朱に染まっていた。まるで爆弾が投下されて炎上しているように見える。実際、そうだったとしたら僕はどうするのだろう。慌てて火を消しに行くのか、それとも笑って「ざまあみろ」と呟くのか。

 スケッチブックをイーゼルに立て掛けて思案する。

 今日は何を壊そうか。

 この町の壊せそうなものは既に少なくとも三回は壊している。

 目を閉じると先ほどの風景が浮かび上がる。

 一羽の渡鳥によって引き起こされる惨劇。渡鳥が落とした爆弾は容赦なく町を破壊していく。

 構想が決まってしまえばあとは簡単だ。頭の中に出来上がっている絵を写していけばいい。

 時間を忘れて鉛筆を走らせていく。

 白い紙に引かれていく線は、燃え上がる炎となり、武骨な爆弾となり、廃墟となる。

「随分と乱暴な描き方だね」

 最後に渡鳥を描こうたところで声を掛けられる。今の僕を止められるのは、この声しかない。

「キサさん。どうしてここへ?」

 バイト先に言ってから戻って来るには少し早い。

「ある人から君がここに居ると連絡を貰ったから」

 ある人ってもしかして館山だろうか。

 キサさんは僕の肩を掴んでスケッチブックの方に向かせると、鉛筆をとって書き込んでいく。

「ここのタッチが甘い。それからこっちも構図が歪だ。バランスが取れていない」

 不意に始まった駄目だし。冷静になってみて見ればその通りだった。その後も背後からの的確な指摘に僕は成す術もない。

 久しぶりに美術の授業を受けているようだった。

「ただ、感情は伝わって来る。粗削りだけど、これはいい作品になるよ」

 酷評されて終わりだと思っていただけに、多数ある修正の箇所が希望の粒のように見える。絵に色を付けてみたいと久しぶりに思うが、そうした思いをすぐに打ち消す。

「この絵はこれで終わりです。ただのストレス発散ですから」

 誤魔化すようにスケッチブックを閉じる。

「そういえば、君の描く絵は全て中途半端に終わっているよね?」
「僕は絵を描いちゃいけないんです」
「どういう意味?」
「以前、家族については話しましたよね。あの原因を作ったのは僕なんです。僕の描いた絵がメディアに取り上げられて目立ってしまったから」

 キサさんは理解しかねるのか、表情からは困惑が伺える。

「母がよく言うんですよ。『あんたが余計なことしなければ』て。僕が何処にでもいる普通の子だったらこんなことにはならなかったんだと思います。中途半端に才能があるから痛い目をみるたんです」
日が暮れて薄暗くなったアトリエで沈黙の帳が下りる。

「それでも君は絵を描くべきだ」

 沈黙を切り裂いてキサさんの声が届く。

 自分の実力は自分が一番理解している。キサさんに認められたからといって浮かれるほど僕は単純じゃない。

「話聞いてましたか。僕は」
「才能なんて関係ないよ。君は絵を描くことから逃げている」

 混じりけの無いガラスの様な言葉が容赦なく突きつけられる。

「だから予餞会の下絵も描こうとしない」

 キサさんがどうしてそれを知っているのか、それも気になるが今はそういう話をしていたわけじゃない。僕が絵を描いていけない理由を話していたはずだ。

「問題をすり替えないでください」
「私はすり替えてなんていないよ。すり替えているのは君の方さ」

 キサさんはアトリエの照明を付けて覚悟を決めたように僕と対峙する。炯々とした眼光は一人の人間というよりも、芸術家としての威圧を感じさせる。

「絵を描いてはいけない理由。そんなものはこの世界には存在しない。あるとすれば描かない理由だけだ」

 天啓のように、清々しく、まっすぐな瞳で、一滴の汚れもなく言い切る。

「受け入れるだけが事の解決策ではないよ。向けられている言葉に何の根拠もないことくらい気づいているだろ。制限や言い訳を並べて完成させることを拒んでいる。一方的に協力を仰いでおいて申し訳ないが、そんな人間に私の芸術の手伝いを任せるわけにはいかない」

 他所から来た正論が、凝り固まった曲論を打ち砕く。それはまさに破壊と行為と言っても差し支えなかった。

 ただし、そんな簡単に受け入れられるのならここまでこじらせてなんていない。

「この町で頭一つ抜け出ることが、キサさんどういう事なのかわからないですよね。それに僕は所詮、少し絵がうまいだけのただの人だ。それも過去の話、子供の時の才能なんて既に枯渇してる。下絵を描いても全然だめだったら、期待を裏切ってまた皆から白い目で見られて、今度こそ唯織や大河も離れていく」

 やらない理由を言い訳のように述べていくうちに、自分でも誤魔化していた本当の自分が見えて来る。

 絵を描くのが怖いんじゃない。認めて貰えない事が怖いのだ。

「キサさんにはわからないと思います。こんな気持ち」
「私が初めから認められていたと思ってる?」

 嫉妬に似た薄汚い吐露に対する純粋な質問だった。

 僕はキサさんの事は何も知らない。それなのに僕は彼女が何も苦労をしないでここまできてのだと決めつけていた。

「わからないですよ。何も言ってくれないですから」

 思ったことがそのまま口に出てしまう。絵に昇華していたストレスが吐き出しきれていなかった。こうなってしまうと自分でも止められない。

「僕ってそんなに頼りないですか? 確かに身体は大きくないですし、力も強くない。別に僕じゃなくても良いんじゃないですか? 言う通りにしてくれる人なら、館山だって僕の代わりになりますよ」

 ありったけの八つ当たりをかましても、キサさんは僅かに表情を歪めただけで、炯々とした眼光は曇ることがない。僕の言葉など彼女にとっては小石程度でしかないのだ。

「今日はもう帰って頭を冷やすといい」

 そう言いながらアトリエの扉を開ける。暗に帰れと言っているに等しい。あれだけ言葉をぶつけても話してくれない。

 目も合わせることもできず、飛び出すようにアトリエを出て行く。

 後ろで響く扉の閉じる音が関係の終わりをしめしているようで、僕は早々に自責の念に駆られていた。

 向こうが言っていたことはすべて本当だ。一方の僕は図星を突かれてむきになって、相手が傷つく言葉を並べただけだ。

 風が批判するように吹き込んで枯草を当て付けて来た。
 家に到着する。どのルートを辿って家までたどり着いたのか覚えていない。居間の窓から明かりが漏れていた。
 
 今日は裕司さんも居るので殴られることはないだろうが、僕を見て母が不機嫌になるのは目に見ている。二人の時間を邪魔してはいけない。

 ドアノブに掛けられた手を離して行く当てもなく歩き始める。

 行ける場所なんてなく、爆弾を仕掛けるために歩いた道をなぞるように歩く。まだ早い時間なので、他の家の窓からも明かりが漏れている。家に帰れるようになるまであと数時間はかかりそうだ。

 遠くから車のヘッドライトがこちらに近寄って来る。反射的に隠れると車はとある民家の近くに止まった。

 フードを目深に被った男が下りてくる。

 不審者は民家の何かを調べる。それはキサさんが仕掛けた爆弾だった。

「キサ……やっと見つけたよ」

 男は口角を不気味に釣り上げて笑う。それは獲物を捕らえた獣がするような笑いに見えた。そうした表情から相手の性格の異常さが伝わってくる。

 男は車に乗り込むとアトリエの方へ車を走らせた。

 胸騒ぎがして急いでその後を追うようにして走る。

 僕の知らない、キサさんの黒い何かが忍び寄っているような気がした。


 アトリエの手前にある駐車場には先ほどの車が止まっていた。

 やっぱり聞き間違いではなかったらしい。あの不審者はキサさんの名前を呟いていた。噂が本当なら相当な執着心をキサさんに持っている。

 あの男がストーカーだとして、あのキサさんがストーカーの被害に遭うのが想像できない。先輩たちにしたように、飄々とした態度で爆弾を仕込んで撃退してしまいそうだ。

 アトリエへ着く前に武器になりそうな木の棒を適当に拾う。

 閉じられていたはずの扉は明けられたままになっていた。

 切れかけの蛍光灯を見た時のような嫌な予感がする。

 足音を立てないように警戒しながら近づき、アトリエの前に差し掛かったところで、自分の直感が正しかったのだと判断した。

 中からキサさんの悲鳴が漏れ聞こえる。

「嫌だ! 来ないで!」

 いつも冷静でどんな状況でも飄々よしていたキサさんが、こんな声を上げるのを聞いたことがない。

「これ以上近寄らないで!」

 悲鳴の後に、なにかを床にばら撒く音がする。中で何が起こっているのか確認すると、先ほどの男がキサさんを壁へと追いやるように迫っていた。

 こちらからは男の後ろ姿しか見えないけれど、キサさんの恐怖に染まった表情をみるに状況は切迫している。

 こんな状況だというのに僕は足が竦んでいうことを聞かない。息の仕方も忘れてしまって、どんなに空気を吸い込んでも息苦しさから解放されなかった。

「こんなところまで君を迎えに来たのにその態度はないだろ。落ち着いて話をしよう」

 わざと子供をあやすような言い方をする男の声が室内から聞こえる。男は靴で床を鳴らしながらゆっくりと近づいていく。

「早く帰って。あなたと話すことなんて何もない」
「キサが居なくなって俺は心配していたんだ。どうして何も言ってくれなかったのさ。君を一番知っているのは俺だ。その証拠に君の居場所を突き止めただろ」
「ねぇ……お願い。帰って……こっちに来ないで」

 単純で悲痛な声に、僕は心臓を掴まれたようになる。

「帰る? もちろん帰るよ。君を連れてね。こんな辺鄙な田舎町で何をやっているのさ。君は世界をまたにかけるアーティストだ。民家にあんな仕掛けをして、新しい芸術のつもりなのかもしれないが、あんなもの君には似合わない」
「もう嫌なの。あなたの言う通りにはならない」
「そうじゃないだろ。君に相応しいのは破壊だよ。破壊っ!」

 男は手にしていたガラスのコップを地面に叩き付ける。
「破壊こそ君のアイデンティティだろう」

 キサさんは短い悲鳴を上げて蹲る。

「お前は俺の言う通りに壊せばいいんだよ」

 僕の足は相変わらず震えて言うことを聞いてくれない。

 動け! 動けよ! 頼むから動いてくれ。

 何度も拳で震える足を叩くが効果はない。

「ん? なんだ、この絵は」

 男が僕の置いていったスケッチブックに気づいたのだろう。ページをゆったりとめくりながら、気味の悪い笑い声をあげる。

「素晴らしい。これだ。これだよ。これこそ君らしい。利用価値がなく朽ちていくしかない田舎町を爆破で一掃してしまう。良いね。君の芸術の効果もあって過疎化の町は大盛り上がり。しかし、そこにはもう町はない。全て手遅れ。これほどセンセーショナルでインパクトのある事はない。傑作だよ。やはり君は天才だ……ただ」

 興奮気味に語っていた声のトーンが落ちる。

「これは君の絵ではないね」
「いやっ!」

 男はキサさんとの距離を一思いに詰め寄ると拳を握り容赦なく振り下ろす。

「これを描いたのはあいつだろ! 俺は知っているぞ。この町の男子高校生。君はこの町に来てからそいつと一緒に行動している。もしかしてあんな子供に唆されたのか? そうだよな。君は不安になるとすぐ人に頼りたがる。俺にだって何度、縋ってきたことか」
「違う。私はあなたに縋った事なんて一度も」
「口答えしていいなんて誰が言った!」

 再び鈍い音とがして、呻くような悲鳴が上がる。

「君に必要なのは俺だろうが! 誰が表舞台にだしてやったと思ってる。俺が居なければお前はただの自称芸術家だ。それを俺がプロデュースしてやったんだろうが! なに勝手に居なくなってんだ! ふざけんな! お前は破壊だけやってりゃいいだよ! そうすれば俺が売れるように幾らでも情報を後付けしてやるよ。ああ! 聞いてんのか! 返事くらいしたらどうだ!」

 鈍い音がする度に上がる悲鳴は弱々しくなり、僕の心も同じように打ちのめされていく。

 キサさんが不自由なく一流の階段を上がって行ったと決めつけていた。天才の彼女に非才の僕の気持ちなんてわかりはしない。勝手に作り上げたイメージを押し付けて、現実を受け止められない。

 あの人はこうだから、自分はこうだから。勝手に型に当てはめて、否定されたら相手を傷つける。僕がやった事と、あの男がやっている事に大差はない。
僕には才能がないからと諦めて。また傷つけてるからと逃げ出して。それを指摘されたら突き放す言葉を投げつけて。

 最低だ。こんな自分は壊してしまいたい。

 震える足に落ちていた小枝を突き刺す。腿から激しい痛みが広がり、それと併せて激情も開放する。

「勝手に……」

 キサさんの髪を握って押さえつけているあいつは僕だ。

「決めつけるな!」

 木の棒で後頭部を思いきり殴る。衝撃が手を伝わり痺れると同時に木の棒が二つに割れる。男は前のめりに倒れて壁に頭を打ち付け、その衝撃でキサさんの髪を掴んでいた手が離れる。

「いっつー。てめえ」

 男は血走った目でこちらを睨みつけると、落ちていたガラス片を握って振り回す。

 今の一撃で終わらせるつもりだった僕には男の反撃を受け止めるだけの余裕はなかった。腿に小枝を刺した影響もあり避ける動作が遅れる。

 男が振り回すガラス片はナイフのように照明を不気味に反射させる。それを避けようとするが足がもつれ尻から倒れこんでしまった。

 左腕に冷たい物を押し付けられたような感覚が走り、遅れて焼けるような痛みが広がる。腕を切られたと気づいた時には左手の感覚が痛覚に支配され、糸が切れたように力が抜けてしまう。

「くそがっ」

 男も直にガラス片を握った所為で痛みに耐えかねてガラス片を手放す。それと同時に赤いインクが飛び散るように鮮血が床に垂れた。

「朱鳥くん逃げて!」

 その隙をついてキサさんは男の後ろから縋るようにしてつかみかかり動きを制止させようとする。

「そんなにこいつが大事なのか!」

 しかし男はキサさん簡単に振り払うとそのまま踏みつけ、暴言を浴びせる。

「俺がいなきゃ! 何もできなかったくせに! 調子に乗るなよ!」
「キサさんから離れろ」

 その場に落ちている物を手当たり次第に投げつける。
すぐに立ち上がろうとするが、足がつったような感覚になり思たように動かせない。奮い立たせる為に腿に小枝を指した弊害がここに来て露呈していた。

「ガキは黙ってろ!」

 羽虫を振り払うような男の回し蹴りが腹部にめり込む。

 腹から競り上がる胃液を何とか飲み込んだが、前のめりになって怯んだ僕は続けざまに男の反撃を許してしまい、再び床に倒されてしまう。

「強がってんなよ! 何が勝手に決めつけるなだ」

 男は一言の度に蹲る僕を蹴り上げる。

「あいつは、弱くて! 臆病で! 泣き虫で! 一人じゃ何もできない! 駄目人間なんだよ!」

 痛みは限界を超えて完全に麻痺している。今は何処を蹴られているのかはっきりとせず、朦朧としていく意識の中で怒りの炎だけが燃え上がっていく。

 男の足が見える向こう側でケトルを抱えたキサさんが、怯えの影を落とした表情でこちらに向かって来ているのが見えた。

 逃げてください。そう言おうとしてもうまく喉が震えない。そんなことをしたらまたキサさんが標的にされてしまう。

「その子から離れて」

 キサさんがケトルのお湯を男にぶちまけた。

 頭から熱湯を浴びた男は引き裂かれるような声を上げてもがき苦しむ。

「きさーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 猛獣のようにキサさんに襲い掛かろうとする男の足を無我夢中で残った力を振り絞って掴む。前のめりに倒れ込む男に馬乗りになり、近くにあったスツールを振り下ろした。

「あんた何様だよ」

 振り下ろすと溜まった感情が押し出され、歯止めが利かなくなる。

 弱くて! 臆病で! 泣き虫で! 一人じゃ何もできない駄目人間!

「何もわかってないじゃないか」

 男六人に囲われたって飄々とした態度で、甘くて清らかな匂いがして、優しくて、いたずら好きで、からかうくせに反撃されると激弱で、耳まで真っ赤にして、料理が苦手で、だけど美味しそうに食べてくれて、こんな僕に才能があると言ってくれる。

「あんたにこの人の何がわかるって言うんだ!」

 キサさんを傷つける人間なんていらない。

 消えてしまえ。壊れてしまえ。
 消してやる。壊してやる。

「朱鳥!」

 凛として透き通る声が僕を現実に引き戻す。

 何度も叩きつけてひしゃげてしまったスツールは男の目の前で止まっている。

「それ以上は死んじゃう」

 正気に戻って馬乗りになっている相手を見下ろす。

 男は泡を吹いて痙攣しており、意識を完全に失っていた。自分がしでかした現実が恐ろしくて、男から出来るだけ距離を取ろうと立ち上がる。

 背中に壁が当たり、ずり落ちるように床に座る。

 ふと、スツールの脚を握ったままだったことに気が付くが、離そうとしても手が張り付いたように固まってしまい解けない。

「ゆっくりで大丈夫だから」

 優しく包み込むような声で焦る僕の手を握る。キサさんの体温は思ったよりも冷たくて焼けるような痛みが全身を駆けている状況では心地よかった。
キサさんの顔は頬が少し腫れていて笑顔が歪になっている。自分の未熟さを突きつけられたようで、解けかけていた指がまたきつく締められる。

「すみません。助けに来るのが遅れて」
「そんな事気にしなくて平気だよ。それにちゃんと助けてくれたじゃん」

 優しさが今の僕には毒のように滲みる。

「違うんです。僕、足が竦んじゃって。飛び出したきっかけも助けようと思ったわけじゃなくて」
「それでも良いんだよ」

 以前、してくれたようにキサさんは僕を胸に引き寄せる。

「今日はどうにでもなれって思わなかったでしょ」

 甘く清らかな匂いが僕を素直にさせてくれる。

「思わなかったです」
「よしよし。約束を守って偉いね」

 頭を撫でられるのはいつ以来だろうか。言いようのない安心感に包まれてそのまま眠ってしまいそうになる。

 遠くの方でパトカーのサイレンの音がする。

「後始末をしなくちゃだね」

 そっと僕から離れようとするキサさんを、今度は僕の胸に引き寄せる。握られていた手はいつの間にか解けていた。

「少しだけ。このままでいいですか?」
「……しょうがないな」

 言葉ではそういってもまったく抵抗しない。

「意外と逞しいね」
「キサさん一人ならちゃんと守れますよ」
「ボロボロのくせによく言うよ」

 耳を赤くしたキサさんは咽るような声を漏らす。小刻みな震えが胸から伝わって来る。

「ありがとう。君が居てよかった」

 縮まった距離を実感して僕は調子に乗ってしまう。

「こんな時に言うことじゃないかもしれないですけど」
「なに?」
「もっと知りたいです。キサさんのこと」

 キサさんは僕の胸の中で何も答えなかった。ただ、震える身体が少しだけ縦に動いたような気がした。

 それからは淡々と事が進んでいった。
 
 状況からみて僕が捕まるかと思ったけれど、事情を把握していたらしい警察は気絶している男を容赦なく連行して、僕らは救急車で隣街の病院へ搬送された。

 キサさんの怪我は大したことなく軽い打撲で済んだ。僕の方も左腕は数針縫ったけれど、その他は打撲で済んだ。肋骨位折れていそうだったが、上手く防御出来ていたらしい。怪我をしないように身を守る方法はここ数年で身についている。これは母のおかげと言えば聞こえはいいだろうか。

 治療の後は事情を聞かれた。

 僕はありのままの事を答える。知らない男が暴力を振るっていたので対抗したと。

 過剰防衛になるのかもしれないと思ったけれど、その心配はないと言われて安心する。捕まってしまったら爆破の続きが行えない。

 これだけ大事になったらばれてしまうだろうか。少なからず、あの男は気が付いていた。他の人が気付くのも時間の問題だろう。

 僕よりも長い時間、話を聞かれていたキサさんも今日は家に帰っていいとのことであった。

 駐在のパトカー車でアトリエまで送られる。

「本当は親に連絡するのが決まりなんだけどね~」

 面倒事を嫌う駐在さんはこれ以上こちらの事情に踏み込んでこようとはしなかった。

「わがままを聞いていただいてありがとうございます」
「ちゃんとあなたが家まで送り届けてね」

 去って行くパトカーのテールランプを眺めながらキサさんは呟く。

「それで問題なかったよね」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ帰ろうか」
「はい」

 僕達はそれぞれ、違う方向へ足を踏み出す。

「こらこら。そっちじゃないでしょ」

 襟を掴まれて首が締まる。

「なにするんですか?」
「いやいや、なに一人で帰ろうとしているの」
「なら送ってくださいよ。駐在さんにも言われたじゃないですか」
「じゃあ君を送った後、私は一人で帰れと?」

 そこまで考えていなかった。僕の家に泊めるのは論外だし、かといって一人で帰らせるのはあんなことがあった後では気が引ける。そうなると選択肢は一つ。

「ね。泊まっていきなよ」

 先ほどまで凄惨な事件に巻き込まれていたとは思えないほど清々しい笑顔を向けられる。

「それに駐在さんは今日中に送れとは言ってないから」
「屁理屈ですね」
「頓智が働くと言ってほしいね」

 仕方ないとはいえ、キサさんとあの質素な家で二人きり。何も起こらない事はわかっていても緊張してしまう。一晩を共にするということは、一緒にご飯を食べる事とは全く異なる。

「スケベエだな」

 僕の思考をよんだキサさんは薄ら笑みを浮かべる。

「違いますから」

 慌てて否定すると、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「ほら、行くよ。知りたいんでしょ。私の事」

 月が雲の切れ間から顔をだして神秘的に辺りを照らす。

渡会杞紗(わたらいきさ)のことをさ」

 これが僕が初めて彼女の事を知った瞬間であり、憧れ以外の感情を抱いていることを自覚した瞬間でもあった。


 案の定、布団はなく僕らはくたびれたソファーで寄り添って一枚の毛布を分け合う。

 息遣いが聞こえそうなほどに近い距離に高鳴る心臓の音が聞こえていないか心配だった。聞かれてしまったらまたからかわれてしまう。

 不意に肩が触れて身体が跳ねる。

「ごめん。痛かったかい?」
「平気です。怪我したのは反対側なので」

 用意された二つのコップから立ち上る湯気を目で追いながら気分を鎮める。

「こうしていると安心するよ」

 思わず零れてしまったのだろう。顔を覗き込むとハッとした顔をして頬を赤くする。
「電気消そうか」

 キサさんは今のことを無かったことにして、常夜灯の明かりだけを残して照明を落とす。

「それじゃあ私の身の上話を始めようか。なにから知りたい?」

 知りたいとは言ったけれど、具体的に僕はキサさんの何を知りたいのだろう。年齢、出身、家族構成、いざ、何でも聞けるとなるとどうでもいい事しか思いつかない。

「悩んでるなら。まずは君がボコボコにした彼のことから」
「あの人の話は良いです」

 忌々しい顔を思い出して左腕の傷が疼く。

「まあまあ、ミグラトーレの私を語る上で重要な人だからさ」

 重要な人。そんな些細な言葉ですら嫉妬の対象になってしまう。

「あの人は私の元協力者なんだ。だから君が想像しているような関係はないから。安心して。私はまだ誰にも汚されていないよ」
「そんなこと想像してませんから」

 あの人が恋人だったと想像したりしていないけれど、それを聞いてどこか安心してしまうのは事実だった。

「彼とはミグラトーレの最初の作品から関係しているんだ」
「平和像破壊ですね」

 ミグラトーレ最初期にして表舞台に躍り出るきっかけになった作品。

 ある日、平和の象徴として造られた像が心臓部分に穴をあけられて破壊される事件が発生した。当初は愉快犯の犯行とされていたそれは、平和像を建てた当時の首相と平和基金団体との裏金が発覚したことにより、大きく風向きを変える。

 像の破壊は事件を暗喩する意味を込められたものではないかと世間で騒がれるようになり、そこからはウイルスが感染していくようにミグラトーレを称賛する声が上がった。

「よく勉強しているね。実の話、あれは単なる偶然なんだよ。作品が認められなくて焦ってた私は注目されることをしてやろうと平和像を壊しただけなんだ。それをたまたま見ていた記者の彼が政治と絡めて拡散した」
「衝撃の事実ですね」
「ごめんね。イメージ崩しちゃって。若気の至りだよ。結果的に私のしたことは器物破損だから」

 薄暗い部屋でもはっきりとわかるほどにキサさんの表情は暗い。

「それから彼は私に裏で汚い事をしている人間の情報を流すようになり、私はそれを利用して作品を作り上げていった。本当は芸術的な意味なんて殆どないに等しかった。周りが勝手にイメージを付け加えているだけ。当の本人は世間では認められていない、壊すのが得意なだけの芸術家」

 吐き捨てるように言って、コップに口を衝ける。

「僕はビルを壊して作った鉄骨のアートが好きです」
「ありがとう。あれは私が勝手に制作した作品だから」

 暗い表情が一転して朗らかに照れくさそうにほほ笑む。

 励まそうとかそんなおこがましいことをしようと思ったわけじゃない。ただ、好きなものを好きだと言ったに過ぎない。それでもこうして思いを伝えるだけで変えられることもある。

「でも世間が望んでいることはそれじゃない」

 再び表情を暗くしたキサさんは諦めの混じった声で呟く。

「私は世間なんて気にしないで自分のやりたいことを表現したい」

 キサさんの言う通り、マスコミが取り上げて、世間が騒ぐミグラトーレの作品は政治関係や風刺を題材にしたものが多い。

「あれは私の作品じゃないから、もうやめるって彼に言ったの。けれど彼は認めなかった。彼は私の作品をお金稼ぎの道具としか見ていなかった。その事実を知って私は完全に距離を置いたの。それから彼は私に付き纏うようになった」
「そうなんですか」

 キサさんを表舞台に出してくれたことは感謝するが、結局、あいつは自分勝手な都合を押し付けているだけだった。

 こうなったのも自業自得じゃないか。もう一発くらい殴っておけばよかった。

 やりすぎたと罪悪感を抱いていた自分が馬鹿らしくなる。

「もう少し彼に興味を持ってあげても良いんじゃない? 一応、ミグラトーレの生みの親みたいなものだし」
「嫌です。あんな奴が居なくてもキサさんはきっと有名になれましたから」
「今日はやけに素直に気持ちをぶつけて来るね」

 キサさんはくすぐったそうに身をよじる。触れあっている個所が、そこに新たな生命が生まれたように熱を帯びている。

「でもね。やっぱりミグラトーレの存在は大きいの。私の名前で作品を出しても世の中は受け止めてくれなかった」

 まるで夢に破れて打ちひしがれたように溜息をつく。

「ごめんね。夢を壊すような事になって。ここに来てから頑張って良いお姉さんを演じてきたけど、実際の私は情けなくて、認知度の低い芸術家なの。幻滅した?」
「幻滅なんてしてないです。僕の中では今でも憧れの存在で、大切な人ですから」
「ありがとう」
「お世辞じゃないですよ」
「わかってる」

 気休めとしか捉えてもらえていない。僕はミグラトーレとしてではなく、今のキサさんも含めてそう思っている。

「本当ですからね」
「しつこいね。だったら表現してみせてよ。芸術家らしく」

 僕はまだ芸術家ではないが、そう言われてしまうと何かしなくてはならない。

 ただ、何もないここではできることは限られていて、暫く逡巡した結果、触れ合っている方の手を握ることにする。

「…………」
「…………」

 つないだ手は見る見るうちに温まって行きお互いの体温と混ざり合う。

「誰にも渡したくない程、大切です」
「今日の君は本当に直球ばかり投げて来るね」

 キサさんの言う通り、僕は変な熱に侵されているように思った言葉を口にしてしまう。この熱の正体はきっとひどいことを言ってしまった罪悪感であり、離れて欲しくないと思うわがままなのだろう。

「今日はすみませんでした。何も知らないのに知ったようなこと言って」
「ちゃんと話さなかった私も悪いから。私も怖かったんだよ。本当の事を言って幻滅されてしまうのが」

 僕が素直に何でも話すのは、キサさんの影響だろう。向こうが心を開いてくれたその分だけ僕も心を開くことが出来る。

「こんな風に接することが出来るのは君だけだから」

 それまでの事が清算されてしまうくらいにその言葉は響いた。言葉の真意を確かめる為にキサさん顔を見る。

「なし。今の発言はなしで」

 キサさんはいつものいたずらな笑みを浮かべていなかった。片方の手で顔を覆って、僕から顔をそむけてしまう。握っている手から汗が滲んでくる。今が攻め時である。

「キサさん。一つお願い良いですか?」
「何?」
「名前で呼んでください。僕の事」

 思い切って距離を詰めてみる。今ならばそれが許されるような気がしていた。

「気が向いたら呼ぶよ」
「自分は下の名前で呼ばせていたのに」
「大人をからかうな」

 辛抱ならなかったのか、キサさんは僕から手をはなして立ち上がる。
「トイレに行ってくる。ちょっと時間かかるから、あ、あす、朱鳥くんは先に寝てて」

 きっと顔は湯気が出るくらい真っ赤なのだろう。

 汗が滲んだ掌は外気に触れてすぐに冷たくなっていく。ぬくもりを逃さないように右手に残るキサさんの感触を握り返した。

 この関係はいつまでも続くわけではない。けれど、今だけは胸に沸いたこの感情を大切にしまっていきたかった。

 喜びとは異なる、異質で暖かい感情の正体を僕はまだ知らない。






 目が覚めると僕はくたびれたソファーで一人だった。
 
 朝日が窓から差し込んで僕を容赦なく照らし、寝返りを打つと左腕に痛みが走る。ずきんとした痛みで昨日の事が夢ではなかったと実感する。感覚が次第に目覚めてきて、焦げた臭いが鼻を突いた。

「目が覚めたね。もうすぐ朝食が出来るよ」

 出来るお姉さんの振る舞いでキサさんは、レタスに目玉焼き、ウィンナー、サンドイッチを盛りつけたモーニングプレートをテーブに置く。一度、失敗しているようでキサさんの方は黒くなった目玉焼きがレタスで隠すように盛りつけられていた。

「やればできるんですね」
「これくらいは当たり前でしょ。私は料理が出来ないんじゃなくて、しないだけだから」

 得意い気になって僕の隣に腰を下ろす。

 ハンバーグの食材を買った時に一緒に朝食用の食材も買っておいて正解だった。またシリアルバーだけで済まされていたら、説教をしていただろう。

「それ食べたら家まで送るよ」
「ありがとうございます」

 目玉焼きの白身を一口。特別な味付けをしているわけではない。それなのに美味しいと感じてしまうのは何故だろう。サンドイッチもハムとレタスを挟んだだけなのに、自分で作るよりも美味しい。

「感想は?」
「普通です」
「そこはお世辞でも美味しいって言えばいいのに」

 美味しいなんて言えば調子に乗りそうだし、悔しいから言ってやらない。きっとこんな意地は簡単にばれてしまっているだろう。

「それを食べ終えたら送るよ」
「はい」

穏やかな時間。こんなのは初めてかもしれない。

「どうしたの? 急に手を止めて。何か苦手な物あった?」
「いえ、こんな風に朝を迎えたのはいつ以来だろうって」
「私もそうだね。朝がこんなに穏やかだったなんて忘れていたよ」

 隣に誰かが居るという事が僕を落ち着かせることなんて一生ないと思っていた。

 きっとそれはキサさんも同じではないか。

 同じであってほしいと思ってしまう。