あれから一週間。先輩たちの報復は無かった。あれだけ恐怖を植え付けられたら二度と関わり合いたくなくなるのもわかる。館山も僕に突っかかる機会がめっきり減っていた。館山とキサさんに何かしらの関係がある事は間違いない。それも仕掛ける爆弾を渡せるほどの関係。信頼していないと出来る事じゃない。
二人の関係を考える時、何かが引っかかるようなやもやした気持ちになる。
「おはよう。朱鳥。傷はだいぶ良くなったな」
「うん。おかげさまで」
教室で考え事をしていると大河が前の席に座る。
「何か用か?」
「ちょっとある噂を小耳挟んでさ」
「噂?」
僕に何でわざわざ噂話をしに来るんだろう。
「最近、三年の先輩たちが大人しくなったらしい」
「そうなんだ。大人しくなったって具体的には?」
内心穏やかではないが、ここは詳しく聞いておいた方が良さそうだ。先輩たちがよからぬことを吹聴している可能性だってあるし。
「改造した原付バイクも処分したみたいで、受験に向けて真面目に勉強しだしたらしい。これを機に関係を断つとか言ってる先輩もいるみたいだし」
「そうなんだ……」
「それに峠の方で誰かに襲われたらしくて血だらけで帰って来たって話でさ。何かに憑りつかれてるとの噂もある」
事実に尾ひれがついているが大方間違っていない。
「本当か知らないが、館山が父親の力を使って黙らせたって話もあるしな」
大河は声のトーン二段階下げて窓際に座る館山に聞こえないように話す。館山の父親はこの町の権力者なのでそっちの噂の方が事実なのかもしれない。
館山は机に伏して眠っている。こうしてみると僕なんかよりも館山の方が孤立して見えるから不思議だ。彼には父親の力を得ようと近寄ってくる人間は多いはずなのに。
「噂は所詮噂だよ。現実は受験勉強に専念したいだけかもしれないし」
「夢がないな。久しぶりに面白い事が起こりそうなのにさ。峠の幽霊とかそそられるだろ」
娯楽施設の乏しいこの町では噂話や怪談は格好の娯楽だ。噂の正体を調べようとするやつが現れると面倒になりかねない。
「夜に出歩くとかしない方が良いよ。また熊に間違われるかもしれないし」
「それは嫌だな」
「今度は本当に猟銃で撃たれるかもね」
夜のランニングをしていた大河が熊と間違えられた事件を思い出す。熊が物凄い速さで走って行ったとか、熊が人を襲って洋服を着ているとか、大騒ぎだった。その熊が大河の服を着ているって聞いた時に大河を知っている僕達は直ぐに間違われていると気づいたが、大人たちは右往左往するばかりか、猟友会への連絡もしようとしていた。
「あの話は俺にとって黒歴史だ。で、話は逸れたが三年といえば」
「予餞会の件だろ。やらないよ」
取り留めのない話を取っ掛かりにして本題に入ろうとするのは大河の癖だ。三年の話が出てきたところで薄々気が付いていた。
「まだ何も言ってないだろ」
「大方、唯織に説得するように頼まれたんだろ」
「正解だよ。唯織はお前しかいないって今も熱弁して他の委員を説得してる」
「悪いけど、その努力は無駄だよ」
唯織には申し訳ないが、いくら頼まれてもこれだけは引き受けられない。引き受ければ唯織や大河に迷惑がかかる。子供の僕らはあの事件の事を忘れているが、大人たちは今も昨日の事のように覚えている人もいる。
「お前なら絶対にいい絵を描いてくれると思ったんだけどな」
それについては過大評価も甚だしい。大河には僕が描いている絵を見せたことはあの日から一度もない。唯織からいったいどんなふうに聞いているのだろう。
僕の世界は僕一人で完結している。誰かに描いた絵を見てもらいたいとか、評価されたいとか、そんな風に思ったことは一度もない。
「まだ日にち的には余裕があるし、これから毎日説得しにくるよ」
「まるでストーカーだな」
「家にまで押しかけてやろうか?」
「熊が家に入って来たって通報する」
「それは勘弁してくれ」
「じゃあ来ないでくれ」
そんな冗談を言い合っている内に予鈴が鳴り教師がやって来る。
正直に言ってこの話はもうしたくない。これ以上、頼まれたら仕方なく引き受けてしまいそうになる。
調子に乗ってはいけない、と自分に言い聞かせる。周りからのバッシング、マスコミからの好奇の視線、無遠慮に向けられるマイク。あの時の事は忘れられない。今度は同じことがあったら誰を不幸に陥れてしまうのだろう。
ふと、キサさんの顔が浮かぶ。あの人に迷惑をかけるようなことはあってはならない。
意識を飛ばして考え事をしていると、クラスメイトが僕の方を見ているのに気づく。その視線は僕の背後に注がれていた。その視線を追って背後を振り返る。
「館山?」
鋭く切れ長の目の下には薄っすらとくまが出来ている。
「昼、ちょっと面貸せ」
それだけ言ってさっさと自分の席に戻る。何かされるのかと身構えたが杞憂であった。その後は何事もなくホームルームは終わり授業が始まる。いつも通りの退屈な授業風景だが、昼に何をされるのか気が気でなく心中は穏やかではなかった。
長く間延びしたような授業の時間が終わり昼休みがやって来る。館山は僕が行くよりも先に席を立ってこちらに来ていた。
「ついてこい」
それだけ言って教室を出て行く。口数は少ないが、今日はいつも以上に少ない。
購買によってパンを四つ買い、屋上へ向かう。その間、僕は従者のように黙って付き従っていた。
屋上に着くと高く上った太陽が容赦なく光を降り注ぎ視界を白く染める。照りつける光に目がしくしくと痛むが、肌を焦がす程の力はなく、僅かに吹く風が火照った身体を冷やしてくれる。昼食を取るには格好の場所だ。
「やるよ。どうせ昼買う金もねーんだろ」
無愛想に投げ渡された菓子パン二つとお茶のペットボトルを落としそうになりながらもなんとか受け取る。組み合わせは微妙だが、頂けるのなら文句は言えない。
「ありがとう」
昼の空腹を水道水で満たしていた僕としてはありがたい事だけれど、何か見返りを求められるのではとハラハラする。だが、館山は何も要求することなくフェンスに寄りかかってパンを齧る。屋上は座る場所なんてなくて僕も一人分の間をあけて同じようにフェンスに寄りかかってパンを齧った。絡みつくような甘さが口に広がる。パンに板チョコの挟まった菓子パン。館山は意外と甘党なのかもしれない。
「予餞会。断んのか?」
「……断るよ。僕が出しゃばっても気分悪いでしょ」
館山は何も言わない。言葉に迷っているのか、虚空を見つめたまま黙っている。
「唯織や大河はやれって言うけどさ。他の皆は反対だと思うんだ。この前の先輩も言ってたでしょ。犯罪者の息子って。あれは当たらずとも遠からずだと思う。同じことを思っている人は他にもいるはずだから、僕が変に前に出たら予餞会自体が台無しになりかねないよ」
つらつらと言い訳を並べる僕の言葉を館山は否定しない。ただし肯定もせず、ただ聞いているだけ。それだけの事が僕にとっては楽だった。
この思いは唯織や大河には吐露できない。
それから暫く、会話がなく無言で菓子パンを頬張る時間が続く。男二人が屋上で菓子パンを食う光景を、俯瞰して想像すると何だか笑ってしまう。
館山は菓子パン二つを軽々たいらげてから砂糖たっぷりのコーヒーを一口飲む。血液にまで砂糖が混ざりそうなほどの糖分を摂取している。眼下に見える民家を見下ろしながら、ここからが本題というように短く息をついた。パンを持つ手に緊張が走る。
「あの人、何者なんだ?」
「キサさんのこと?」
館山は否定も肯定もしない。
「アトリエの家主だって言ってたけど、それ以外は知らない」
ミグラトーレであることは隠しておこう。館山が言いふらすとは思わないがどこから情報が洩れるかわからない。だが、ミグラトーレであることの情報を除けば僕が知っている事はそれだけだった。「キサ」という名も苗字なのか名前なのかわからない。本名ですらないのかもしれない。
「何も知らないのに一緒にいるのかよ」
乾いた笑いを浮かべられてむっとする。
「そういう館山はどうなの」
「俺も知らねえ。名前も今知った」
少しほっとした自分に驚く。何を心配しているのだろう。キサさんが誰と仲良くなろうと勝手だというのに。嫉妬していたとでもいうのだろうか。
「何も知らないのに爆弾仕掛けたんだ」
さっきの仕返しをする。むっとした表情をする館山だが、怒るような事はしない。
「あの人はいきなり俺のところに来て爆弾を仕掛けろって渡してきたんだ」
爆弾を片手に飄々しているキサさんの姿が想像できる。あの人はいつだって突然やって来てかき乱す。
「それを信じたの?」
「信じるわけねえだろ。だけど目が本気だったし、そのまま放置するわけにもいかねえから。とりあえず付けただけだ。それに言う通りにすれば望みが叶うって言ってきたし」
こんなに館山が話すことは珍しい。表情は険しいままだが、意外と機嫌が良いのかもしれない。
「望みって何?」
「言うわけねえだろ。バカが」
それだけ言って館山は校舎に入って行った。
館山の望み。それって先輩たちを懲らしめる事なのか。それとも他の事なのか。本人が話してくれないのならわかるはずがない。
二つ目の菓子パンはねじりパンにシュガーパウダーをふんだんにまぶしてあった。一口齧れば執拗な甘さ襲い掛かる。
「朱鳥っ!」
誰から館山と一緒だと聞いたのだろう。慌てた様子で大河が屋上へやって来る。
「何かされなかったか?」
「大丈夫。何もない」
それどころか昼食をおごられてしまった。向こうが勝手にやったのだから気にする必要はないのに、借りが出来てしまったように感じて気持ちが落ち着かない。思えば僕は館山に借りを作ってばかりだ。先日だって館山がキサさんの言う通りにしなければ、僕はこうして今ものうのうと生きていないのだし。
「そうか。こんなところで何を話してたんだ?」
「ただの世間話」
「お前ら二人に会話が成立すんのか?」
悪気がないのはわかっているが、それはどっちにも失礼な言い方だと思う。
「……館山って最近変わった様子とかある?」
「無いな。いつもと変わらず周りを威嚇して周囲はハラハラしてる」
「そうだよな」
たった一回、昼食をおごられただけなのに僕の館山に対する見方は少し変わっていた。館山は甘党で、口下手で、聞き上手。意味のない情報だけがその場に残る。
「やっぱり何かされたのか?」
「だからされてないって」
今感じたことは心の内に留めておこう。わざわざ人目のつかないところで話したのだから、館山だって他人に知られるのは本意ではないはずだ。