午後の授業も終わり、いつもならすぐに帰るけれど昼休みに唯織から、放課後に用があるから待っていて欲しいと言われたので待つことにする。正直、あまり良い予感はしない。

「おまたせ。遅くなってごめん」

 アトリエに行くのは人目につきにくい真夜中にするべきかと考えているとようやく唯織が教室に来る。

「生徒会おつかれ。それで僕に用があるんでしょ」
「うん……ちょっと相談があってさ。生徒会室に来てくれない?」

 唯織はぎこちない曖昧な表情を作る。

「わかった」

 きっと予感は的中する。大方の様相は付いていた。

 唯織は生徒会の副会長なので色々と行事になると忙しくなる。そんな彼女がこの時期に僕に声を掛けてきたということはあれしかない。

 生徒会室に行くとホワイトボードに様々な単語が並べられ『彫刻』『銅像』『巨大絵画』『壁画』『貼り絵』『切り絵』など、多岐にわたる。さらにコの字型に並べられた長机の上には数枚の写真が並べられていた。

 さっきまで議論をしていたのが伺える。

「予餞会の事なんだけどさ」

 やっぱりそうか。思わず小さいため息が出る。

 この高校では毎年、卒業する三年に向けて作品を送るという行事がある。高校を卒業すると町を出て行く人が多いからだ。ほとんどの生徒が大学進学である昨今、交通の便も良くないここから大学に通う意味ははっきりいってない。大学進学を希望する生徒は町を出ていきそれっきり帰ってこない。

 農業だって盛んにおこなわれているわけでもないこの町では、たいした就職先がないからだ。
 
 そこで最後の思い出作りと称して予餞会が開かれている。

 ただ、普通の予餞会は学期末なのだが、これもこの町特有で学期末に催すとすでに町を出てしまった人は参加が難しくなるので、毎年冬になる前の秋頃、今の時期に予餞会を行なう。

「今年は校舎の高さと同じくらいの貼り絵を制作することで決まったんだけど……」

 唯織は間を開けて、こちらの様子を伺う。

「ごめん。無理だよ」

 唯織の言葉を最後まで聞く必要はない。切り絵の下絵を描いてほしいということだろうが、僕が関われば面倒なことになるのは目に見えている。最悪な場合、予餞会を台無しにしかねない。

「少しは考えてよ」
「僕が描く絵がどんなか忘れてる?」

 僕が描くのはこの町が破壊されている絵だけだ。

 それ以外は描く気がない。

「でも昔は」
「絵なんて誰も描ける。僕である必要はないと思うよ」
「皆もそう言ってたけど、私は朱鳥しかいないと思ってる」

 唯織は確信をもって断言する。

 皆が反対するのもわかる。いまや予餞会は学校だけの行事ではなく町の行事となっている。そんな大事な行事に僕が表立って出るわけにはいかない。

「思うのは勝手だけど、実際出来ないから」

 事実、三階建ての校舎と同じ大きさの絵の下絵なんて想像ができない。

「結論は今じゃなくて良いから」
「だから」
「ちゃんと」

 唯織は声を張り上げてじっと僕を見つめる。

「ちゃんと考えてから結論を出して」
「……わかった」

 結論なんて初めから決まっているけれど、今の唯織は断る選択肢をさせてくれそうにない。昼に僕を呼び出した時からそのつもりだったのだろう。
 面倒な事になった。僕には他にやらなければならない事があるというのに。

「とりあえず、資料は用意したから」

 唯織は机に並べられた写真をかき集めて僕に渡す。

「過去十年分。予餞会で制作した作品の写真」
「参考にするよ」

 アイディアを考える時、他人の作品を見すぎるのはあまり良くない。見すぎるとその作品に寄せてしまうからだ。それに僕は初めから結論を決めている。こんなことをしても何も変わらない。

「それじゃあ、片付けて帰ろうか」

 唯織は残念な表情を欠片も見せずホワイトボードの文字を消していく。本当はやり場のない不満で一杯なのではないだろうか。その不満は僕が首を縦に振ればたちまち解消することだろう。けれど、僕は二度も同じ過ちを犯したくない。

 片付けを終えて生徒会室を出る。

 唯織は生徒会室の鍵を返しに行くので駐輪場で落ち合うことにした。

 昇降口の手前まで来て足を止める。昇降口には館山が待ち伏せしていた。僕じゃない他の誰かの可能性を考えたかったが、僕の下駄箱の前なのでその望みは薄い。今日は会わないと思っていたのに。

「おせーな。何してたんだよ」

 苛立ちを露にしてこちらを威嚇する。

「約束してたっけ?」
「別にしてねえけど」

 相変わらず理不尽だ。館山の表情にはいつもよりも疲れが滲み出ているためか、目つきが余計にきつくなっている。

「用があるんじゃなかったの?」
「お前、今朝の件と関係あんのか?」

 前置きなしの質問に心臓が跳ね上がる。

「無いけど……どうしてそんな質問するの?」
「近くでお前に似てる奴を見たって先輩が言っててな」

 館山は悪い噂の絶えない先輩とよくつるんでいる。かなり注意していたつもりだったのに見られていたのか。

「確かに近くに行ったけどそれは大きな音がしたから様子を見に行っただけだよ」

 目を逸らさないようにすれば大丈夫。自分に何度も言い聞かせる。
 
 心臓が痛いほどに弾む。
 
 あそこから出て行く場面を見られたわけではないのだからこの嘘がばれることはない。

「だよな。お前があんなこと出来るわけないよな」
「そうだよ。風車の爆破なんて僕には」

 きつい視線が鋭利な刃物のように鋭くなる。

「どうしたの?」
「別に……他に誰か見てたりしないのか?」
「誰も見てないよ」

 なんだか尋問でも受けているような気分になる。

「誰がやったのかわかったらすぐに伝えろ」
「うん。」
「先輩たちがぶっ殺してやるって息巻いてたからな」

 その言葉を聞いて背筋が凍る。

「やっぱりあの場所って」
「先輩たちのお気に入りだよ。それを誰かが壊しやがった」

 でもあの所にそれらしき痕跡はなかった気がする。たむろしていたのならゴミくらい落ちていそうなものだけれど。

「まあいいや。わかったら伝えろとは言ったが、無理に首を突っ込むなよ」

 こんな危ないことに首を突っ込みたくはなかったが、僕はこの件に関して当事者だ。用心した方がいいだろう。それを早くキサさんにも伝えないと。

 それにしてもどうして館山は僕にあんなことを聞いたのだろう。あやしいと思うなら黙って後をつけるなりすればいいのに。

「ん? あれは館山? またなんかされたの?」
「なにもされてないよ。ちょっと話をしただけ」
「なんであいつは朱鳥ばっかり構うんだろう」

 それはきっと僕が館山を傷つけたからだ。館山が今のようになったのは僕が起因していることを唯織は知らない。

 館山も幼い頃はあのアトリエで開かれていた絵画教室に通っていた。
 館山があそこに来なくなったのは僕の絵がコンクールで入賞してからすぐの事だ。

 僕の絵を見て館山は絵を描くことを辞めてしまった。

 全方位に喧嘩を売っているような背中に僕は心の中で謝ることしかできなていない。

『お前の所為で絵が嫌になった』

 言葉が頭の中でこだまする言葉を振り切るように、大きく息を吐いた。

 本当は今すぐにでもキサさんのところへ行きたいのだけれど、館山達に疑われている間は迂闊な行動は控えた方がいいだろう。

 それに僕にはやらなくてはいけない事がある。

 生活費を家に納めなければならず、これをしないと僕は家を追い出されてしまう。この年でホームレスは笑えない。

 母は自分で稼いだお金は自分の事にしか使わない。

 自転車を大河の家に届けるとその足でアルバイトをしているお店に向かう。

 しばらく歩いて寂れた駅舎の前まで来る。この駅舎に電車が来ることはもうない。僕が生まれたころに廃線となったらしい。その為、入り口には立ち入り禁止の看板が立ち、もちろん駅員も居ない。
 
 夕日を浴びる駅舎は終焉の匂いを漂わせていた。

 唯織に聞いたことがあるが、都会の駅というのは路線が何本も通って、平日でも人が祭りの時のように行き交っているらしい。僕が以前住んでいた街ではそういった光景は見られなかった。

 そんな駅前にある道の駅『亀井』と看板を掲げた店の裏口に回る。ここが僕の仕事場だ。この町にはコンビニのように便利なものはないが、街道沿いに道の駅がある。道の駅といえども商店が一つあるだけで、利用する人は地元の人のみだ。色々な物を置いているわけではないが、食料品ならばここで揃えられる。きっとこの町と心中することになるのだろう。

「おはようございます。裕司さん」
「おはよう。今日もこれよろしくね」

 裕司さんはこの店の経営者だ。店の名前が入ったエプロンをした裕司さんは相変わらず気さくで、物腰が柔らかく、昔の母ならともかく今の母にはもったいない相手だ。裕司さんと母が結婚したら僕は『亀井朱鳥』になるわけだが、想像してもいまいちピンとこない。

「終わったから上がって良いからね」
「ありがとうございます」

 届いたばかりでカゴ台車数台に乗せられたままになっている商品を眺める。
届いた商品を荷台から下して、仕分けするのが僕の仕事だ。この町には自力で店まで来られない世帯も多い。その世帯の為に始めた宅配の仕分けをする。

 人手不足でこの作業を一人でしなくてはならなのは大変だが、一人の方が気楽なのでレジ対応よりも数倍ましだった。

 筋肉痛の身体では思うようにいかず時間を食ってしまい、ようやく台車から荷物を下し終える頃には、窓から覗く景色は夕焼けから夜に変わっていた。

 時計の無い倉庫では時間の感覚が麻痺してしまう。

 休むことなく裕司さんから預かったリストを見て今日も苦労しそうだと辟易する。

 ここで働き始めて一年半。リストが増え続けている。この町の人口は減っていく一方なので、それだけ店に来る人が減って宅配を選択しているという事だ。

「こういう変化には対応できるんだな」
「どういう変化かな?」

 独り言に返答が帰って来てハッとする。振り返るが誰も居ない。

「こっちだよ」

 一つしかない窓、そこにキサさんは肘をついて立っていた。

 どうしてだろう。この人の顔を見ると何故か重荷が取れたように心が軽くなる。笑顔なんて見せたら、またからかわれるので思わず零れそうになる笑顔をぐっと堪える。

「肉体労働なんて精が出るね」
「キサさんどうしてこんなところに。それよりそこの窓開くんですね」
「そうみたいだね」

 随分不用心なことだ。今日はちゃんと閉めて帰ろう。

「ところで、それいつ終わる?」
「当分終わりませんよ」
「え? まだ終わらないの? もう待ちくたびれたよ」

 一体いつから僕の事を見ていたのだろう。

 キサさんは僕よりもずっと年上のはずなのに子供の用に駄々をこねる。綺麗な顔をしてそんなことをするのだからアンバランスでおかしくなる。

「もしかして僕を迎えに来たんですか?」
「そうだよ。だって私は君と契約したからね」
「その事なんですけど」

 館山の事を詳しく話す。その間、キサさんは心底つまらなそうにその話を聞いていた。

「じゃあやめる?」

 やめたくない。けれどキサさんを危険な目に合わせるくらいならその選択も。

「ごめんね。いじわるなこと聞いたね」

 何かを察したのかキサさんは心苦しい表情で謝ると、窓枠を飛び越えて中に入って来る。

「え? ちょっと」
「窓越しに話していたら見られる確率が上がるでしょ」
「そうですけど、だからって中に入るのは」

 こんなことがばれたらさすがの裕司さんも怒るだろう。裕司さんとの関係は母と直結するので余計なトラブルは避けたい。

「まあ、大丈夫だよ。誰かが来たらちゃんと隠れるからさ」

 キサさんは適当な段ボールを見つけると頭から被って中に隠れる。確かにこれならばれないかもしれないが。なんだかおかしくなって笑ってしまう。

「なに? バカにしてる?」
「してないです」
「本当かな。いい大人がアホみたいなことしてとか思ってるんじゃないのかな」

 尚もごちゃごちゃと文句を言っているキサさんを無視して仕事を再開する。

 リストを見て商品を集めると専用の段ボールに梱包していく。正直、一人だと気が遠くなる作業だ。その間、キサさんは倉庫内を歩き回る僕をつまらなそうにじっと目で追っていた。

「ねえ。この仕事楽しい?」
「楽しそうに見えましたか?」
「ぜんぜん」

 身体を動かしている方も退屈なのだ、見ている方はもっと退屈なはずだ。

「退屈しのぎに君の事を聞かせてよ」
「僕の事ですか?」

 聞くべきはこの町の事で、僕の事なんて聞いて何の意味があるのか。

「私は朱鳥くんの事が知りたい。興味がある」

 興味があるの言葉の真意は単純にそのままの意味なのだろうが、言う相手によっては勘違いされそうなので控えた方がいい。この人はこういうところがある。

「つまらないですよ。僕の事なんて」
「それを決めるのは私。さあ、話してごらん」

 抵抗しても無駄だというように立ち上がって胸を張る。
いつものコートで厚着をしているから気づかなかったが、結構胸があるんだな。丁度手にしている梨と見比べても遜色ない。

「梨を両手に抱えて何をしてるの?」
「何でもないです」

 慌てて止まっていた手を動かす。変な事を考えてしまった自分が恥ずかしい。キサさんといると、普段している俯瞰して周りを見るイメージから離れてしまう。

「それで君の話を聞かせてよ」
「そうしたら私のおっぱいがどれくらいか教えてあげる」
「は?」

 驚きのあまり躓いて商品を詰めた段ボールを落としそうになる。商品を傷めたりしたら買い切りなので死活問題だ。

「さっきのそういう意味でしょ」

 キサさんは梨を持つジェスチャーをして自分の胸にあてがう。

「君は嘘が下手だからすぐにわかるよ」
「…………」

 本当の事なので否定できず、上手い言い訳も思いつかない。言い訳をすればするほどドツボに嵌りそうだ。
 倉庫は外気と変わらず、気温が低いはずなのに僕の身体は火照っていた。

「さあ、私のおっぱいと引き換えってことで聞かせてよ。鳥海朱鳥の事を」
「別にキサさんの……と引き換えにする必要ないですから」

 乱れた気持ちを落ち着かせるために、僕は自分の生い立ちについて滔々と話す。

 幼い時に引っ越してきたこと、絵を描くのが好きだったこと、幸せだったこと、父親の事件のこと。

 手を動かしながらキサさんに背を向けているので表情は伺えないが、面白そうにしていないのはわかる。

「これが僕です。笑えないですよね」

 直ぐに返答はなかった。

 手を止めて返答を待つ。後ろで衣擦れの音はするので居ることは確かだ。コツ、コツ、と足音が少しずつ近づいて来る。
振り向こうと思ったが、背中に体重を預けられて振り向けなくなる。

「確かに笑えないね」

 背中全体が暖かくなるにつれて、キサさんが寄りかかっているのだとわかった。青果の匂いに紛れて、甘く清らかな匂いが漂う。

「笑えなくなるよね」

 噛みしめるように呟く言葉が耳のすぐ隣で聞こえて吐息がくすぐったい。預けられた体の重みはしっかりと背中に感じられた。浮世離れしていたキサさんが少しだけこちら側に来たように感じる。

「て、ことでご褒美」

 鉛ように重く冷たくなった空気を跳ね除けるかの如くキサさんは僕に抱き着く。背中に感じる柔らかい感触。クッションなんかでは比べようのない柔らかさ。それでいて形ははっきりと伝わって、梨ではあり得ないそれに身体が委縮する。

「いい大人が何やってるんですか」
「大人の余裕って奴さ。ほれ、感想は?」
「ノーコメントで」

 回された腕を解いて密着した身体を離す。

「大好評と」

 誰もそんなこと言ってない。

 さっきまで鎮座していた重たい空気は埃のように舞ってしまう。この人は簡単に物事を軽くしてしまう。

「もう、そこで大人しくて下さい」
「はいはーい」

 キサさんの匂いが鼻から離れてくれない。そんな所為もあっていつもよりも終わるのが遅くなってしまった。

「終わりましたよ」
「よし! じゃあ出発だ」
「何処にです?」
「夜の散歩だよ」
「だからそれはさっきも言った通り」
「こそこそしたって変わらないよ。それに見せつけてやれば良いじゃん」
「何を?」
「美女との夜デートをさ」

 屈託のない無垢な笑顔に見惚れる。きっと今を精一杯生きているから出来る表情なのだろう。今の僕には出来そうにない。その内、出来るようになるのだろうか。例えばこの町を爆破した後とかに。

「それで私の物は梨と比べてどうだった?」
「……ノーコメントで」

 今日はいいようにやられたい放題だ。

 外に出るとリアカーに寄りかかったキサさんは遠いどこかを見つめるような表情で空を見上げていた。

「何を見てるんですか?」
 
 つられて僕も見てみたが特別綺麗な空というわけではなく、店の明かりもあって星はあまり見えない。

「雲を見てる」
「雲?」

 どこを見ても雲はなく、黒い海の様な空だけだ。

「今日は星が見えないでしょ。そういう時は雲に覆われている事が殆どなんだよ」

 僕が想像していた雲とは別の雲をキサさんは見ていた。

「地上の光が届かないずっと高くに雲はある」

 遠くを見つめるキサさんが足元しか見ていない僕には、はるか遠くの人に感じる。

 じっと何もない虚空を見つめて雲を想像しようとするが、どうしても白く綿の様な雲が浮かび出てしまう。僕はまだこの人には近づけそうにない。

「行こうか。見ないものを見ようとすると肝心なものを見落とすよ」

 難しい顔をする僕を励ますように明るく言うキサさんには見ない雲が見ている。

 それが今の僕たちの差なのだと思い知らされる。

「ところでこのリアカーは?」
「道具だよ。これからどんどん仕掛けていくから」

 リアカーにはプラスチックのボックスが大量に積まれている。ボックスの中には何に使うのか不明は機器や、様々な色の小さな球が詰め込まれた容器があった。

「これって何ですか?」
「爆弾んだよ」

 触れようとした手が止まり、一歩下がる。

「大丈夫、簡単に爆発するもんじゃないから」

 物怖じする僕とは対照的にキサさんは笑顔でリアカーを引く。
 ただ後ろをついて歩くだけで、何かが変わるわけがない。

「僕が引きます」
「いいの? 結構重いよ?」
「大丈夫です。まだ若いですから」
「私をおばさん呼ばわりすると後で痛い目見るよ」

 別にキサさんをおばさん呼ばわりしたつもりはなかったが、僕は直ぐに痛い目を見ることになった。
 このリアカー尋常じゃない重さがある。坂の多いこの町の道には相性が最悪だった。ついでに筋肉痛ということもあってすぐにペースが落ちる。

「若造。ペースが落ちてるぞ」
「ならキサさんは自分の足で歩いてください」
「私はおばさんだから疲れちゃった」
「いつまで根に持っているんですか」

 リアカー自身も苦しいのか車輪部分がキュルキュルと変な音を立てている。こんなものを軽々と持って来たキサさんは、さすが爆破の専門家と言ったところだろうか。

「はいストーップ」

 止められてたのは点々と住宅が建つ場所。

「まだまだ、いけますよ」
「全然いけそうにない声だよ。まあ安心してよ。交代しようってわけじゃないから。とりあえず朱鳥くんはここで休憩。ここからは私の出番だから」

 どうやら作業が始まるらしい。

 キサさんはコートを脱ぐと下に着ているハイネックニットの腕をまくる。身体にフィットしたニットでボディラインが強調され、必然的に胸も強調される。あれが先ほどの僕の背中に当たっていたのかと想像してしまい目のやり場に困ってしまう。

「意外とスケベ―だね」

 キサさんはニヤッとした笑みを浮かべる。僕が何を想像していたのか気づかれてしまう。

「違いますから。キサさんのスタイルが良すぎるだけですから。誰だって見とれますから。キサさんはスタイルいいですし、自分が思っている以上に綺麗ですから、ちゃんと自覚をもって行動をした方がいいと思いますよ」
「……うん。そうだね。気を付ける」

 キサさんは機器の入ったボックスを持ってそそくさと住宅の方へ向かってしまう。
 
 とりあえず誤魔化せただろうか。

 ここからは本当に僕の出番はないので、邪魔が入らないように周りを警戒する。
 
 夜といってもまだ深くはない。車はほとんど通らないが、まだ電気のついている家が多数ある。夜にリアカーを引いている男女なんて誰が見ても不審に思うだろう。見られないようにしないと。

「おまたせ」

 大して時間をかけずにキサさんは戻ってくる。

「あれってどうなってるんですか?」

 住宅の庭には筒状の何かが隠すように設置されていた。確認できるのは一つだが、仕掛けた場所はいくつもある。

「それは企業秘密」

 キサさんは細く長い人差し指を口に当てて微笑む。そうした仕草は僕の心をかき乱すけれど、どういうわけか悪い感じはしない。

 それ以降もキサさんの指示で何件か回った。その間、僕たちは他愛のない話をした。

 学校では生徒数が減少して二クラスしかない事。町の人たちはショッピングモール建設に反対している事。こんな町でもインターネットが通っている事。色々な話をしたが、どれもキサさんの質問に僕が応えるというものだった。

 時間はあっという間に過ぎて良く。肉体労働も全く苦ではなかった。
リアカーに積んでいた爆弾を全て仕掛け終えてアトリエに舵を切る。今日だけでは全てを破壊するには到底足りない。もっと多くの爆弾が必要になる。

「全てセットするにはかなり時間がかかりそうですね」
「そうだね。それまでに騒ぎになると少し面倒だな」
「その辺は心配ないですよ」

 この町の人間は仲間意識は人一倍強いくせに他人にあまり興味がない。父の件もあって騒ぎ立てるのを嫌う傾向にあった。今朝の風車の一件もそうだ。普通なら警察を呼ぶなりしてちゃんと捜査してもらうはずだ。

「みんな自分を出すことに憶病になっているのさ」

 僕の言葉の意図を汲んだキサさんは、道の脇に朽ちてた大きな彫刻のようなものを眺めながらつぶやく。
 彫刻はよく見るとうっすら『ようこそ 芸術の街へ』と書かれていた。

「それはここに置いといて」

 アトリエへ続く道の手前、以前は駐車場として使われていたに空き地にリアカーを置く。

 空になっている今なら上のアトリエまで引けるだろうが、荷物を積んだ状態でこの急な坂を下るのは危険だ。少し面倒だが一つ一つ積み荷を運ぶしかない。落として暴発なんていう大惨事になりかねない。

 今日、僕がした事と言えばリアカーを引いただけ。直接的な事は何も出来ていない。こんなことで変われるのだろうか。

「僕にも何かやれることありませんか? 荷物を積む作業とか」
「あれを積むのは昼間だよ。その間、君は学校でしょ。学生なんだからしっかり勉強しないと駄目だよ。君はちゃんと私の役に立っているから何も心配いらない」

 あっさりと僕の焦りを見抜かれて諭されてしまう。

「君が原案をだして私が実行する。そういう契約でしょ」
「そうでしたね。でもなんで」

 僕なのか? その質問をかき消して、改造された三台の原付バイクがけたたましい音を立てて僕らを囲む。それぞれの原付に二人乗りの計六人。
 それぞれ三方向から原付のライトがこちらを照らし視界を白く包む。

「もしかしてお友達?」

 耳元で囁かれる。

 それは冗談でもきつい、と視線だけで答える。口に出したらただでは済まされそうにない。

「俺たちはごく普通の高校生でして、あんたに話があって来たんだよ」

 僕たちの高校に通う一つ上の先輩たち。

 代表格の先輩は金色の髪に耳には無数のピアスをして、腰パンスタイルで履いたズボンは裾がぼろぼろになっている。剃り過ぎた眉毛はもはやないと言って良い程に薄く、何をしでかすかわからない雰囲気を醸していた。その隣にはいつもと同じ不機嫌な顔でこの状況を見つめる館山がいる。

「どう見ても普通じゃないでしょ。君たち。一昔前の不良だよね」
「あぁ?」

 キサさんの軽口に空気が凍り付く。足が竦んで逃げ出したい気持ちを抑え込み対峙する。
 いざとなったらキサさんを守らないといけない。対峙してるこの人は気に入らなければ女でも容赦しない人間だ。

「それで話って何かな?」
「今朝の風車の爆発。と言えばわかるか?」
「さあ? なんの事?」
「へえ。とぼけるんだ。俺たちあんたがあそこから出て来るの見ちゃってるんだけど。それでも言い逃れする気?」

 血の気が引いて身体が震える。僕が隠そうとしていたことは既にばれていた。館山と目が合って思わず逸らす。

「なんだ。それなら最初から言ってよ。誤魔化そうとして損した」
「舐めたこと言ってんじゃねーぞ!」

 周りのピリピリした空気と混ざることなくキサさんは独特の空気を醸す。それが癪に障るようで後ろにいた男が棒のような物を地面に叩きつけた。金属音が辺りに響きそれが金属バットだと知らせる。

 脅しのつもりなのだろう。だけど、キサさんは全く動じた素振りを見せない。

「俺たちの場所。吹っ飛ばした罪。償ってもらおうか」

 不気味な笑みを浮かべて近づいてくる相手に、キサさんは一切動じず不敵な笑みで返す。見ているこっちがハラハラする。全員に掛かられたら助けられる自信がない。

「償うってどうやって?」
「それは……そうだな」

 先輩が目配せをすると囲んでいた他の先輩たちがじりじりと距離を縮めて来る。

「こいつ結構いい顔してんじゃん」
「身体の方もよさそうだぜ」

 下種な笑みを浮かべて嘗め回すようにキサさんを見る。足の底から虫が這いあがってくるような気持ち悪さを覚える。

 そこへ偶然にも車のヘッドライトが近づいてきた。
男六人が男女を囲んでいるこの状況は誰が見たって異常だ。近づいてきた車はそれに気づいて速度を落とすが、運転手は僕と目が合うとスピードを速めて走り去ってしまった。

 何度となく経験した落胆。さらに期待してしまった自分への失望。
僕はこの期に及んでもこの町の人を頼ろうとしてしまった。
深い穴に沈み込むように自分の事などうでもよくなる。

「逃げてください」
「逃げる必要はないよ。それに私が逃げたら君はどうするのさ」
「大丈夫ですよ。痛いのは慣れてますから」

 心が冷たくなって言葉が軽くなる。

「ねえ。こいつ何? 邪魔なんだけど」
「邪魔なのは先輩たちですよ」

 とりあえず、代表格の先輩を挑発すれば他の先輩も僕を標的にする。その間にキサさんには逃げてもらえばいい。僕はもうどうなっても構わないのだから。

「鳥海、お前は下がってろ」

 館山が苛立った声で怒鳴る。それでも今の僕には何も響かない。

「駄目。館山くん。こいつはもうやるって決めたから」
「話が違うんじゃないですか。やるのはあの女だけだって」
「挑発する方が悪いっしょ。それにこいつ犯罪者の息子じゃん。ぼこっても何も文句ねーだろ」

 先輩はポケットからメリケンサックを取り出して指にはめる。

 そうだ。僕は犯罪者の息子だ。それでいい。そうやって言ってくれた方が気分は楽になる。

「女が逃げねーように見張ってろ。俺はこつやるから」

 恐怖を与えるようにゆっくりと間合いを縮めてくる。後方で砂利と金属バッドが擦れる音が苛立ちを募らせる。こんなことに巻き込んでしまったのは僕だ。僕と関わらなければキサさんはこんな目に合わずに済んだ。僕はまた浅はかな行動で人を傷つけてしまう。

 肺に上手く空気が入らないのかだんだんと息苦しくなる。

 もうどうでもいい。この町も、自分も、何もかも。

「みんな吹き飛んでしまえ」

 誰が呟いたのか。それとも自分が呟いたのか。

 その言葉を合図に、先輩の後ろに止まっていた原付バイクが轟音を響かせて打ち上げ花火のように舞い上がる。やがて重力に負けたそれは大きな炎の鉄塊となって落下した。地面に叩きつけられた鉄塊は雷が落ちたような音を立てて破片を撒き散らす。

 飛び散る破片を気にすることなく、その場の全員が燃え上がる炎を注視していた。

 何が起こったのか。全員がその問いを頭に浮かべる。その答えを知っている人間は一人だけいた。

「はいはーい。ここに注目」

 緊張感のない弛緩した声が星の輝かない夜にこだまする。キサさんは道化師のようにゆらゆらと回転しながら燃え上がる炎の前に躍り出る。誰もそれをとめる者はいない。

「これなんでしょうか?」

 キサさんが構えていたのは一台のスマートフォン。僕はその正体を知っている。

「は? スマホだろ」
「残念。不正解」

 画面に触れるともう一台の原付バイクが先ほどと同じ末路を辿る。二度目となると恐怖心が芽生えてきたのか他の先輩たちは爆発に戦き、落ちて来る鉄塊から身を守ろうと頭を抱えて蹲る。

「な、なんだよ。それ。爆弾か?」
「ぶっぶー、不正解」

 もう一度、画面に触れて残りの一台も華麗に吹き飛んだ。とんだ原付バイクが代表格の先輩の傍に落ちて先輩は尻もちをつく。炎に照らされた顔は恐怖の色に染まっていた。

 もはやここはキサさんの独壇場と化していた。誰も彼女を抑え込める人はない。

「次は誰が吹き飛ぶのかな?」
「は? お前、俺たちに」
「仕掛けたよ。君たちが大口空けて見上げてる間にさ」

 いたずらな笑顔を見せて背中を指さす。先輩の背中には言う通りピンポン玉ほどの大きさの玉が張り付けられていた。

「無理やり剥がしたら爆発するからね」
「う、うそだ。そんなことしたら。お、おまえ、人殺しに」
「君は殺す気だったよね?」

 投げつけられた一言に聞いているだけの僕ですが凍り付く。

「嘘だと思うなら私を襲って起爆装置を奪ってみなよ。その前に押しちゃうけどね。でもさすがに六人でかかって来られたら面倒だから」

 それまでへらへらとその場に似つかわしくない笑みを浮かべていたキサさんは、冷徹な表情に変えてスマホを操作する。

「ちょっと減らすね」
「え?」

 先輩たちの一人から『ピ、ピ、ピ』と機械音が鳴り始め恐怖を煽るように少しずつ感覚が短くなっていく。

「やだ、やだああああああああああ」

 恐怖に耐えられなくなった先輩はその場から逃げ出した。
 姿が見えなくなったところで破裂音がして先輩の断末魔の様な絶叫が響く。

 これが決め手だった。

「悪かった。ゆるしてくれ」

 ぎりぎりで耐えていたものが決壊するように代表格の先輩は戦意を喪失してその場から逃げ出す。他の先輩たちも後を追うように逃げて行った。どうやら勝負はついたらしい。

 情けない足取りで逃げていく先輩たちを見送る。

「本当に殺したんですか?」
「そんなわけないじゃん。鉛筆ト弾を少し加工しただけだよ。真っ赤な血塗りの。ちなみにあれは私から一定の距離離れると爆発する仕組みだから」

 遠くの方で破裂音が四発聞こえた気がするが、気の所為にしておく。

 その場に残されたのは僕とキサさんと館山の三人。館山は先輩たちと違って恐怖を感じていない様子で平然とした顔で状況を見つめていた。

「悪かった。面倒なことに巻き込んで」

 館山にしては珍しくしおらしい態度だった。
「別に無事だったからいいよ」
「鳥海、お前は望んだことをしてるのか?」

 問われている事の真意はよくわからなかったが僕は黙って頷く。

「そうか」

 館山はキサさんを睨み付けるが、十秒ほどそうして何も言わずに去って行った。
「正直にならないと伝わらない事だってあるのにね」

 館山の背中を見ながらキサさんは溜息をもらす。

「何か知ってるんですか?」
「私の口からは言えないよ」

 それは知っているという事か。キサさんの口からは言えないのは理解しているが、すっきりとはいかずもやもやする。

「それにしても派手にやりましたね」

 空爆されたような惨状の辺りからは焦げた臭いが充満している。
「こんなのは不本意だよ。芸術的じゃない」

 確かに燃える原付バイクは廃棄物と化して利用価値はなさそうだ。

「そういえばいつバイクに爆弾を仕掛けたんですか?」
「最初から仕掛けてあったよ。彼らがいずれ私のところに来るのはわかっていたから。実際に仕掛けたのは彼だけど」
「館山が? いったい何のために?」
「そういう事は本人から直接聞きだした方が良いよ。それよりも」
「いたっ! なんで?」

 突然、額に痛烈な痛みが走る。非難の視線を向けると、それ以上にキサさんが非難の視線を向けていた。

「どうにでもなれって思ってたでしょ」

 額の痛みとは違う痛みが心に刺さる。

「約束してほしい。もうそういう事はしないって」
「……わかりました」
「よし。それから」

 コートを被せる様にして僕を胸に抱き寄せる。

「キサさん?」
「守ろうとしてくれてありがとう」

 胸の奥から聞こえる早くせわしない鼓動が僕を落ち着かせる。

 ゴムが焦げるような刺激臭がする辺りとは裏腹に、キサさんの胸の中は甘く清らかな匂いで包まれていた。

 この人は僕が守ろうとしなくても自分で何とかしてしまう。僕はまだまだ未熟だ。

自分の非力を痛感しながらも、この人を守れるくらい強くなろうと前向きなことを考えていた。





 
 あれから一週間。先輩たちの報復は無かった。あれだけ恐怖を植え付けられたら二度と関わり合いたくなくなるのもわかる。館山も僕に突っかかる機会がめっきり減っていた。館山とキサさんに何かしらの関係がある事は間違いない。それも仕掛ける爆弾を渡せるほどの関係。信頼していないと出来る事じゃない。
 
 二人の関係を考える時、何かが引っかかるようなやもやした気持ちになる。

「おはよう。朱鳥。傷はだいぶ良くなったな」
「うん。おかげさまで」

 教室で考え事をしていると大河が前の席に座る。

「何か用か?」
「ちょっとある噂を小耳挟んでさ」
「噂?」

 僕に何でわざわざ噂話をしに来るんだろう。

「最近、三年の先輩たちが大人しくなったらしい」
「そうなんだ。大人しくなったって具体的には?」

 内心穏やかではないが、ここは詳しく聞いておいた方が良さそうだ。先輩たちがよからぬことを吹聴している可能性だってあるし。

「改造した原付バイクも処分したみたいで、受験に向けて真面目に勉強しだしたらしい。これを機に関係を断つとか言ってる先輩もいるみたいだし」
「そうなんだ……」
「それに峠の方で誰かに襲われたらしくて血だらけで帰って来たって話でさ。何かに憑りつかれてるとの噂もある」

 事実に尾ひれがついているが大方間違っていない。

「本当か知らないが、館山が父親の力を使って黙らせたって話もあるしな」

 大河は声のトーン二段階下げて窓際に座る館山に聞こえないように話す。館山の父親はこの町の権力者なのでそっちの噂の方が事実なのかもしれない。

 館山は机に伏して眠っている。こうしてみると僕なんかよりも館山の方が孤立して見えるから不思議だ。彼には父親の力を得ようと近寄ってくる人間は多いはずなのに。

「噂は所詮噂だよ。現実は受験勉強に専念したいだけかもしれないし」
「夢がないな。久しぶりに面白い事が起こりそうなのにさ。峠の幽霊とかそそられるだろ」

 娯楽施設の乏しいこの町では噂話や怪談は格好の娯楽だ。噂の正体を調べようとするやつが現れると面倒になりかねない。

「夜に出歩くとかしない方が良いよ。また熊に間違われるかもしれないし」
「それは嫌だな」
「今度は本当に猟銃で撃たれるかもね」

 夜のランニングをしていた大河が熊と間違えられた事件を思い出す。熊が物凄い速さで走って行ったとか、熊が人を襲って洋服を着ているとか、大騒ぎだった。その熊が大河の服を着ているって聞いた時に大河を知っている僕達は直ぐに間違われていると気づいたが、大人たちは右往左往するばかりか、猟友会への連絡もしようとしていた。

「あの話は俺にとって黒歴史だ。で、話は逸れたが三年といえば」
「予餞会の件だろ。やらないよ」

 取り留めのない話を取っ掛かりにして本題に入ろうとするのは大河の癖だ。三年の話が出てきたところで薄々気が付いていた。

「まだ何も言ってないだろ」
「大方、唯織に説得するように頼まれたんだろ」
「正解だよ。唯織はお前しかいないって今も熱弁して他の委員を説得してる」
「悪いけど、その努力は無駄だよ」

 唯織には申し訳ないが、いくら頼まれてもこれだけは引き受けられない。引き受ければ唯織や大河に迷惑がかかる。子供の僕らはあの事件の事を忘れているが、大人たちは今も昨日の事のように覚えている人もいる。

「お前なら絶対にいい絵を描いてくれると思ったんだけどな」

 それについては過大評価も甚だしい。大河には僕が描いている絵を見せたことはあの日から一度もない。唯織からいったいどんなふうに聞いているのだろう。

 僕の世界は僕一人で完結している。誰かに描いた絵を見てもらいたいとか、評価されたいとか、そんな風に思ったことは一度もない。

「まだ日にち的には余裕があるし、これから毎日説得しにくるよ」
「まるでストーカーだな」
「家にまで押しかけてやろうか?」
「熊が家に入って来たって通報する」
「それは勘弁してくれ」
「じゃあ来ないでくれ」

 そんな冗談を言い合っている内に予鈴が鳴り教師がやって来る。

 正直に言ってこの話はもうしたくない。これ以上、頼まれたら仕方なく引き受けてしまいそうになる。

 調子に乗ってはいけない、と自分に言い聞かせる。周りからのバッシング、マスコミからの好奇の視線、無遠慮に向けられるマイク。あの時の事は忘れられない。今度は同じことがあったら誰を不幸に陥れてしまうのだろう。

 ふと、キサさんの顔が浮かぶ。あの人に迷惑をかけるようなことはあってはならない。

 意識を飛ばして考え事をしていると、クラスメイトが僕の方を見ているのに気づく。その視線は僕の背後に注がれていた。その視線を追って背後を振り返る。

「館山?」

 鋭く切れ長の目の下には薄っすらとくまが出来ている。

「昼、ちょっと面貸せ」

 それだけ言ってさっさと自分の席に戻る。何かされるのかと身構えたが杞憂であった。その後は何事もなくホームルームは終わり授業が始まる。いつも通りの退屈な授業風景だが、昼に何をされるのか気が気でなく心中は穏やかではなかった。


 長く間延びしたような授業の時間が終わり昼休みがやって来る。館山は僕が行くよりも先に席を立ってこちらに来ていた。

「ついてこい」

 それだけ言って教室を出て行く。口数は少ないが、今日はいつも以上に少ない。
 
 購買によってパンを四つ買い、屋上へ向かう。その間、僕は従者のように黙って付き従っていた。

 屋上に着くと高く上った太陽が容赦なく光を降り注ぎ視界を白く染める。照りつける光に目がしくしくと痛むが、肌を焦がす程の力はなく、僅かに吹く風が火照った身体を冷やしてくれる。昼食を取るには格好の場所だ。

「やるよ。どうせ昼買う金もねーんだろ」

 無愛想に投げ渡された菓子パン二つとお茶のペットボトルを落としそうになりながらもなんとか受け取る。組み合わせは微妙だが、頂けるのなら文句は言えない。

「ありがとう」

 昼の空腹を水道水で満たしていた僕としてはありがたい事だけれど、何か見返りを求められるのではとハラハラする。だが、館山は何も要求することなくフェンスに寄りかかってパンを齧る。屋上は座る場所なんてなくて僕も一人分の間をあけて同じようにフェンスに寄りかかってパンを齧った。絡みつくような甘さが口に広がる。パンに板チョコの挟まった菓子パン。館山は意外と甘党なのかもしれない。

「予餞会。断んのか?」
「……断るよ。僕が出しゃばっても気分悪いでしょ」

 館山は何も言わない。言葉に迷っているのか、虚空を見つめたまま黙っている。

「唯織や大河はやれって言うけどさ。他の皆は反対だと思うんだ。この前の先輩も言ってたでしょ。犯罪者の息子って。あれは当たらずとも遠からずだと思う。同じことを思っている人は他にもいるはずだから、僕が変に前に出たら予餞会自体が台無しになりかねないよ」

 つらつらと言い訳を並べる僕の言葉を館山は否定しない。ただし肯定もせず、ただ聞いているだけ。それだけの事が僕にとっては楽だった。
この思いは唯織や大河には吐露できない。

 それから暫く、会話がなく無言で菓子パンを頬張る時間が続く。男二人が屋上で菓子パンを食う光景を、俯瞰して想像すると何だか笑ってしまう。

 館山は菓子パン二つを軽々たいらげてから砂糖たっぷりのコーヒーを一口飲む。血液にまで砂糖が混ざりそうなほどの糖分を摂取している。眼下に見える民家を見下ろしながら、ここからが本題というように短く息をついた。パンを持つ手に緊張が走る。

「あの人、何者なんだ?」
「キサさんのこと?」

 館山は否定も肯定もしない。

「アトリエの家主だって言ってたけど、それ以外は知らない」

 ミグラトーレであることは隠しておこう。館山が言いふらすとは思わないがどこから情報が洩れるかわからない。だが、ミグラトーレであることの情報を除けば僕が知っている事はそれだけだった。「キサ」という名も苗字なのか名前なのかわからない。本名ですらないのかもしれない。

「何も知らないのに一緒にいるのかよ」

 乾いた笑いを浮かべられてむっとする。

「そういう館山はどうなの」
「俺も知らねえ。名前も今知った」

 少しほっとした自分に驚く。何を心配しているのだろう。キサさんが誰と仲良くなろうと勝手だというのに。嫉妬していたとでもいうのだろうか。

「何も知らないのに爆弾仕掛けたんだ」

 さっきの仕返しをする。むっとした表情をする館山だが、怒るような事はしない。

「あの人はいきなり俺のところに来て爆弾を仕掛けろって渡してきたんだ」

 爆弾を片手に飄々しているキサさんの姿が想像できる。あの人はいつだって突然やって来てかき乱す。

「それを信じたの?」
「信じるわけねえだろ。だけど目が本気だったし、そのまま放置するわけにもいかねえから。とりあえず付けただけだ。それに言う通りにすれば望みが叶うって言ってきたし」

 こんなに館山が話すことは珍しい。表情は険しいままだが、意外と機嫌が良いのかもしれない。

「望みって何?」
「言うわけねえだろ。バカが」

 それだけ言って館山は校舎に入って行った。

 館山の望み。それって先輩たちを懲らしめる事なのか。それとも他の事なのか。本人が話してくれないのならわかるはずがない。
二つ目の菓子パンはねじりパンにシュガーパウダーをふんだんにまぶしてあった。一口齧れば執拗な甘さ襲い掛かる。

「朱鳥っ!」

 誰から館山と一緒だと聞いたのだろう。慌てた様子で大河が屋上へやって来る。

「何かされなかったか?」
「大丈夫。何もない」

 それどころか昼食をおごられてしまった。向こうが勝手にやったのだから気にする必要はないのに、借りが出来てしまったように感じて気持ちが落ち着かない。思えば僕は館山に借りを作ってばかりだ。先日だって館山がキサさんの言う通りにしなければ、僕はこうして今ものうのうと生きていないのだし。

「そうか。こんなところで何を話してたんだ?」
「ただの世間話」
「お前ら二人に会話が成立すんのか?」

 悪気がないのはわかっているが、それはどっちにも失礼な言い方だと思う。

「……館山って最近変わった様子とかある?」
「無いな。いつもと変わらず周りを威嚇して周囲はハラハラしてる」
「そうだよな」

 たった一回、昼食をおごられただけなのに僕の館山に対する見方は少し変わっていた。館山は甘党で、口下手で、聞き上手。意味のない情報だけがその場に残る。

「やっぱり何かされたのか?」
「だからされてないって」

 今感じたことは心の内に留めておこう。わざわざ人目のつかないところで話したのだから、館山だって他人に知られるのは本意ではないはずだ。
 放課後はいつも通りバイトをする。週四回のバイトも慣れてしまえば部活の様なものでたいしたことはない。それにバイトの後は必ずキサさんが迎えに来て待ってくれている。僕たちが爆弾を仕掛けるのは決まってバイトの後であった。
 
 重たい荷物を積んだリアカーをわざわざここまで持ってくるのは人目に付きそうだし、肉体的な苦労も絶えないだろう。
 
 それに僕は一度、母の食事の準備の為に帰らなくてはならないので二度手間なのだ。キサさんにはアトリエで待ってもらって、僕が迎えに行く。その方が効率的にいい。それを何度言ってもキサさんは散歩のついでだからと、気に留めていない。

 もしかしてアトリエに来てほしくない理由があるのだろうか。勝手に使っていたことを僕はまだ謝っていない事に気づく。今更だけどきちんと謝ろう。

 そんな事を考えながら、今日もいつも通り荷下ろしをしていると、見覚えのない荷物が目に付く。よく見ると籠台車丸まる一つ、その荷物が積まれている。

 無地の段ボールにきっちり梱包されたそれは、持ち上げるとずっしりと引っ張られるような重みがある。箱には取扱注意のラベルが張られている。

「裕司さん。すみません。これって」
「あーごめんね。これは僕の個人的な荷物だから開けなくて良いよ」

 箱を受け取った裕司さんは台車ごとに慌てて外へ運んでいく。

 店の備品とも考えたが個人的な荷物と言っていたしそれはないだろう。しかしあの重さは尋常ではない。そんなものを個人で何に使うのだろう。

 気にしても仕方がない。一緒に住んでいるのだから、個人的な荷物ならいつかわかることだろう。

 台車を運び終えた裕司さんは額の汗を拭いながら戻って来る。

「今後もああした荷物があったら教えて。僕が受け取るから」
「わかりました」

 今後も来る可能性があるのか。いったい何が入っているのか。

「そういえば、夜に不審者が出るって話だけど聞いてる?」
「不審者ですか?」

 内心気が気でないけれど、それを表に出さないようにする。

「一昨日の夜にフードを目深に被った男が何かぶつぶつと呟いて女性に近づいてくる事件が起こったんだよ」

 自分たちでなくて良かったと安堵する一方で、不審者と活動時間が重なっている事が気にかかる。出会う運命は避けて通りたい。

「心当たりでもあるのか?」
「ないです。その話もう少し詳しく聞いて良いですか?」

 少し不審に思われただろうかと危惧したが、裕司さんは探りを入れる表所を見せることなく続ける。

「事の発端は一週間くらい前かな。長浜さんの奥さんが、男に人を探しているって尋ねられてね。特徴を聞くと気味が悪い程に詳しく答えたらしいんだ。身長や体重の具体的な数字、髪長さ、瞳の大きさ、性格、癖、さらには匂いに至るまで」

 まるでストーカーだ。だが、この町には無縁のように思える。

「その男が不審者ですか?」
「そう。長浜さんが他の人たちにその男には近寄らないようにと伝えたそうだけど、それが仇になって夜に現れるようになったらしい」

 町の外から来た人間を簡単に受け入れないこの町の風習が、防犯の役に立つどころか不審者を生んでしまった。本当に碌なことがない。

「駐在さんには伝えたんですか?」
「知っているよ。だけど、実害があるわけじゃないし、あの人は面倒事を嫌うからね」

 今の駐在は殆ど仕事をしない事で有名だ。先日の風車の爆破や原付バイクの爆破も大事にならないのはそれが影響している。

「外見的な特徴とかは」
「たしか、度が強い眼鏡を掛けて右の頬に大きなほくろがあるって言っていたよ」
「ありがとうございます」
「帰りとか気を付けるようにね。本当は朱鳥くんを送っていきたいけれど、それをするとね」

 裕司さんは全てを言わず、苦笑いを浮かべる。その先の言葉はわかっている。母が良い顔をしないのだ。こんな事には慣れてしまったので今更傷つきはしない。

「大丈夫ですよ。不審者も高校生の男を襲おうなんてしないでしょうし」
「そうかもしれないが、油断は禁物だよ」

 小さい子供に言い聞かせるようにして裕司さんは店内に戻っていく。

 母に気に入られたいからとか、僅かな邪推すら入り込む隙が無いくらいに裕司さんは僕の事を本気で心配してくれている。それが僕にとっては少し重荷に感じてしまう。いっそのこと僕なんてどっかに放り出して捨ててしまって良いのに。

 不良先輩の後は不審者か。この町は何も変わらず退屈そうに見えて、危険な匂いだけは充満している。仕掛けられている爆弾もその一つだ。


 バイト後、影で隠れているキサさんと合流する。

 僕が指示される通りリアカーで爆弾を運び、キサさんはそこで爆弾を仕掛ける。その間、僕は見張りに徹する。話し合って決めたわけではないけれど自然とそういう形になっていた。実際にどんな風に爆弾が仕掛けられているのか僕は知らない。

 日が経つにつれて、慣れてきたのかスムーズに作業は進む。その反面、キサさんが荷物に紛れて荷台に乗っている時間は増えた。狭い町と言っても歩き続けるのには体力が必要だ。僕は日々の移動が徒歩なので一般の人よりかは足腰が鍛えられている。大河に比べればたいしたことないレベルだけれど。

「飲みますか? 水ですけど」
「ありがとう。だけど、大丈夫だよ」

 大丈夫。キサさんは直ぐにその言葉を使う。実際、大丈夫でなかったことはないから本当に大丈夫なのだろうが、頼られていないように感じて心に隙間風が吹くような気持になる。

 今日最後の家。普段通り、僕は警戒を怠らない。

 そこで飼われている柴犬と睨みあいをしている。目を逸らしたら吠えられるからだ。キサさんが戻ってくるまで、一瞬も気が抜ける状況ではなかった。
愛玩用だけでなく防犯としての役割も期待されているはずの柴犬は僕にはきっちりと仕事をこなす一方、キサさんの侵入は容易に許し、さらには頬の肉をもしゃもしゃとされて尻尾を千切れるくらいに振っていた。

 きっと昼間に手懐けたのだろう。ここの犬は僕以外の人になら誰にでも懐く。

「大人しくて良い子だね。ばいばい。また来るから」

 柴犬は気持ちよさそうに頬をもしゃもしゃされている。僕を見るその視線は勝ち誇って見えた。

 別に僕は頬をもしゃもしゃされたいわけじゃない。

「今日は終了。おうちに帰ろうか」

 キサさんは少し疲れた顔で笑う。ちゃんとご飯を食べていないのだろうか。荷台に乗った彼女は糸が切れた操り人形のように力なく座り込む。

「どうした? ほれほれ。運転手さん早く出してください」
「はい」

 何を聞いてもきっと大丈夫と言われてしまう。

 引いているリアカーには荷物を載せているような重みを感じられない。

「明日は休みますか?」

 思わず聞いてしまう。帰ってくる言葉なんてわかりきっているのに。

「大丈夫。明日もどんどん仕掛けるよ」

 答えは予想通り『大丈夫』であり、決意表明をするように宣言する。しかし、その声には出会った時のような張りはなく疲れが混ざっている。

「ちゃんと寝ていますか?」
「寝てるよ」
「どれくらい?」
「三時間くらい。私にはこれくらいで十分なんだよ」

 言い訳のように言葉を付け加える。どんなにショートスリパーの人間であっても、それは十分に寝ているとは言えない。

「ちゃんと食べていますか?」
「食べてるよ……」
「何を?」

 続かない言葉を促すように聞き返す。

「……シリアルバー」
「ちゃんと食べてないじゃないですか」
「もう、うるさい。君は私のお母さんか」
「僕はキサさんの協力者ですよ」

 後頭部をチョップして抗議するキサさんに冷静に答えを返す。街灯の下で足を止めて振り返ると、明りに照らされた顔をしっかりと見るために顔を寄せる。

「え? なに?」
「やっぱり。無理してますよね」

 少しやつれて唇も僅かにひび割れている。ちゃんと栄養を摂取していない証拠だ。目も充血していて、さらに頬が少し赤い。

「ちょっと失礼します」
「ええっ!」

 額に手を当てて熱を測る。幸いな事に熱はなさそうだ。それなのに先ほどよりも顔が赤くなっている。

「キサさん?」

 うるうると湿った瞳は僕を捉えて離さない。はにかんだように唇をゆがめ、茹でられたように真っ赤になったところで、その変化の原因に気づいてしまう。

「もしかして」
「ない! 全くない!」

 僕の手を弾くと慌てふためいてこっちに背を向けてしまったが、耳まで真っ赤になっているので誤魔化しきれていない。こんな風になるキサさんは新鮮だった。

 いつもの仕返しをもっとしたかったが、へそを曲げられて倍返しされても面倒なので仕方なくリアカーを引くことを再開する。

 虫の声と蛙の声が合唱する田園地帯を歩く。周りのやかましさが沈黙をいい具合に埋めてくれる。

「疲れているのは君の言う通りだよ」

 暫くして気分の落ち着いたキサさんは、ぽつりと負けを認めるように呟く。

「やっぱり明日は休みましょう。それに不審者が出てるって話ですし。体力が万全じゃない時に出くわすのはまずいです」
「不審者……か」

 リアカーからキサさんの緊張が伝わって来る。

「男らしいです」
「ほかに情報は?」

 僕は裕司さんから聞いたことをそのまま話す。

「そう……気を付けるよ」

 明らかに何か知っているような態度は気になるが、キサさんは自分については何も話さないので追及する気にはなれなかった。聞いたところでまた大丈夫とはぐらかされてしまう。

「では明日はごはんを作りますよ」

 自分で話を逸らす。あのままだと会話の糸を暗い空気に持っていかれて迷子になりそうだった。

「ホント! 助かるよ」

 それにキサさんはオーバーなリアクションで乗っかる。

「リクエストはありますか?」
「ハンバーグが良いかな」
「子供っぽいですね」
「君の好みに合わせただけだよ。ちゃんとした食べ物は久しぶりだな」

 拗ねたように唇を尖らせる態度はいつものキサさんだった。背後ではしゃぐ音がしてリアカーが揺れる。ハンバーグでここまで喜ぶなんて本当に子供みたいだ。

「いま子供だなって思ったでしょ」
「思ってませんよ」

 虫と蛙の声が彩る夜にこの人の喜ぶ声は一層綺麗に聞こえる。荷台の軽さを感じながら少しは役に立てているだろうか思案する。

「フライドポテトとかあると最高だね。でもジャーマンポテトも捨てがたい」

 尚も続くリクエストを聴きながら遠くで犬の吠える声が聞こえたような気がした。


 翌日、つつがなくバイトは終わり倉庫を後にする。

「お疲れ様」

 キサさんはいつもと変わらぬ様子で買い物袋を両手にぶら下げていた。二人で食べるには少し多いように思えるが、食材は余っても後に使用すればいい。

「自宅で待っててもらって良かったんですけど」

 誰かに見られたら直ぐに良からぬ噂になる。

 僕たちの目的の為には目立つことはしない方がいいのではないだろうか。

「私がいると邪魔?」
「別に……」

 その聞き方はずるい。

「僕は噂にならないか心配しているんです」
「その辺は平気でしょ。いつもはリアカー引いてるし」

 言われてみればそうだ。リアカーを引いた男女なんて目立つに決まっているが今のところそれらが噂になっていることはない。

「だからさ」

 いたずらスイッチが入ったキサさんは僕の腕に絡みつく。甘い清らかな香りが漂い距離の近さを実感させる。

「なんだか新婚の気分になるね」
「なりませんし、こんなところ見られたら色々と面倒です」

 胸が高鳴ってそれどころではない。

「良いじゃん。美人な彼女って事にすれば」
「嘘は直ぐにばれますよ」
「美人は否定しないんだ」

 いたずらな笑みを浮かべて満足な表情を見せる。

「本当に美人なんだから否定する意味もないでしょ」
「うん。まあそうだね」

 視線を泳がせてくすぐったい表情をする。だんだんと対処の仕方に気づいてきた。

「ところで君は変なところを気にするね。高校生が彼女の一人や二人、普通なのでは?」
「そりゃしますよ。ここは娯楽がないですから、ちょっとした変化には敏感です。それに目立ったっていい事は一つもないですから」

 出る杭は打たれる。打たれるだけならまだましだ。出過ぎた杭は抜かれてしまうのがこの町の風習だ。

「ま、その気持ちはわからないわけでもない。だけど……」

 ふっと風が通り過ぎるくらいの僅かな間、キサさんの表情が曇る。

「一人でいるのは不安なのさ」
「え?」
「なーんてね」

 すぐにいつもの明るい表情に戻して買い物袋を振り回しながら先を歩く。
 
 すっかり忘れていたが、キサさんはあのミグラトーレである。常に作品や動向に注目を集める、本来なら僕なんかが関わることの出来ない別世界の人間だ。常に周囲から関心を向けられることが、どれだけ精神に負担をかけているのか、僕の想像なんかでは足らない。

「キサさん」
「ん?」

 子供のように首を傾けて振り向く彼女を僕は何も知らない。知っているのは出会ってからの僅かな期間だけの彼女だけ。
無邪気で、からかいたがりで、そのくせ責められると弱くて、爆弾魔で、芸術家。

 ころころと変える表情の下に隠した本音を僕は知らない。

「何でもないです」
「なに? 気になる」

 あなたの事がもっと知りたいです。

 危うく口からこぼれてしまいそうになる言葉を飲み込む。

 きっとこれを言ってしまったら僕たちの関係は少し変わってしまう。そしてその変化が致命的になってしまう。本能的に僕はそれを悟っていた。

 僕の絵を現実に起こしてくれる存在。

「ハンバーグ、大きいのが一つか、小さいのが複数か、どっちが良いかなと」
「……大きいのがいいかな」

 聞きたいことはそんなことではないとキサさんも悟っているけれど、追及してこようとはしてこなかった。

 これでいい。僕らは近づきすぎてはいけない。

 爆薬と一緒で、僕らは近づきすぎると爆発してしまう。

 アトリエの隣に立つ家に初めて立ち入る。そこは長い間放置されていたためか、生活感を感じることは出来ず、リビングにはくびれたソファーに年季の入った机があるだけ。

 ガス、電気、水道、ライフラインも問題なく人が住める環境が整っているにも関わらず、そこには人が暮らしている息吹が感じられない。

 キッチンには食器や調理器具が一式揃えられており、使われなくなってしばらく経つ家電も一つ一つ動作確認が必要であったが、どれも久しぶりの労働に文句ひとつ言わずに動いてくれた。

 正直なところ、何も調理器具がないことも想定していただけに拍子抜けだった。

「君はいいお嫁さんになるよ」
「僕は男ですけどね」
「細かいことはいいんだよ。君は料理がうまい。それが事実」

 空になった食器を片付けながら適当に聞き流す。

 作った料理を残さずに食べてもらえるのは正直嬉しい。
 
 母はなにかと文句を付けて僕の料理を全て食べることはしない。その癖、作らなければ激怒するのだから手に負えない。

「片付けは私がやるから、水に漬けといて」

 くたびれたソファーで横になったキサさんの頬はほんのりと赤く心地よさそうだ。

 傍には空になったビールが二本、三本目も空になりかけている。あの苦い飲み物の何が美味しいのか僕にはわからない。大人になったらわかるのだろうか。

 お酒が飲めるということはキサさんも大人だ。当たり前の事実に少し残念な気持ちになるのは何故だろう。

 あまりお酒には良いイメージがない。母は酔うと暴力的になるし、それに醜悪を詰め込んで煮詰めたようなあの臭いが嫌いだ。

 キサさんからもあの醜悪な臭いがするのだろうか。想像なんてしたくないけれど、こういう時だけ僕の頭は良く働く。

「やめましょう」

 四本目に手を伸ばしたキサさんに控えめに言ったつもりだったが、思いの外言葉がきつくなってしまった。

「飲み過ぎですよ」

 声が震える。

「うん。そうだね」

 キサさんはまだ正常な判断ができるようで、伸ばしていた手を引っ込めた。

 胃の中に鉛の様なものが落ちてきた気がして吐き気がする。流しの水が流れるのをじっと見つめて気分を落ち着かせている

「大人は嫌い?」
「急に何ですか?」
「私を見る目がね」

 ゆっくりと立ち上がってミネラルウォーターのボトルを袋から取り出す。一思いに半分ほど口に流し込んでから、核心を突いてくる。

「敵を見ている目をしていたよ」

 そんなことないです。と否定できるのほどの根拠がない。確かに僕はキサさんに何か失望に似た感情を抱いていた。

「気づいていないかもしれないけれど、大人に対している時の君は目の色が変わる」

 周りにいる大人の殆どが僕の事をよく思っていない。だから僕もそんな人たちに隙を見せるわけにはいかない。そうした感情が目に現れてしまっていた。

「すみません」

 思わず謝るが、何に謝っているのかわからない。

「謝る必要ないよ。これは君に対して大人が取った行動の裏返しなんだ」

 キサさんは僕の謝罪に悲痛な表情を浮かべる。

「大丈夫。君がそうなったのは大人たちの所為だ。変わろうなんて思う必要はないよ。大丈夫だから」

 必要以上に大丈夫を繰りえしてキサさんは僕に諭すように言う。

 そんな風に甘やかすから僕はその背中に寄りかかってしまう。

「母がスナックで仕事をしているんですけど、深く酔ってしまうと僕に暴力を振るうんです。酔ってますし、容赦ない時も結構あります。だけど僕はもうこの年ですし反撃だってできるんですけど……」

 言葉が見つからない。何を伝えたくて、僕はこんな話をしているのだろ。

「反撃したら終わりですから。そんなことしたら、あの頃の母は二度と戻って来ませんし、きっと裕司さんと再婚したら変わるかもしれないですから」

 僕の家庭の話なんて、何も知らないキサさんにしても意味がない。

 それなのに僕は誰に伝えるわけでもなく言葉を零した。

「僕はあの頃の母に戻ってほしいんです」

 つらつらと言い訳を並べる自分が嫌いだ。全てを壊したと思っていながら、昔に戻りたいと思っている自分が嫌いだ。

 こんな自分ごと全て破壊してしまいたい。

「すみません。いきなり」

 開けたままだった蛇口を閉める。急に室内が静かになり居心地の悪さを感じた。キサさんは黙ったまま手にした水を見つめている。

「ごめんね。私のミスだ。もっと君の事を調べるべきだった。私が他の大人と同じに見えてしまった?」
「……別に」

 否定しようとしても言葉が出てこない。キサさんを他の大人と同等にして距離を置こうとしたのは事実なのだから。

「嫌な事でもあったんですか?」

 話を逸らすよために話題を変える。
大人が酒を飲むとき、それはどんな時なのだろう。単純に嗜好品として嗜む場合もあるだろう。それ以外の事で考えられることは、気分を逸らしたい時だ。

「鋭いね。まあこっちにも色々あるのさ」

 やっぱりキサさんは話してくれない。少し愚痴を聞くくらいなら僕にだって出来るというのに。

「それよりも。さっきの話、君の家も対象になるけど」

 キサさんは誤魔化すように話を戻す。露骨なやりかたに不満がないわけではないが、僕にはまだその価値がないのだと自分に言い聞かせる。

「今なら止められるよ」
「冗談を言わないでください。酔ってるんですか?」

 ここで僕がやめると言ってもキサさん何も言わずに許してくれる。だけど、今の僕に必要なのはそんな優しさじゃない。

「やり抜きますよ。何があっても」

 優しさを振りほどく様に首を振る。残っている全ての可能性を吹き飛ばしてしまわないと僕は前に進めない。

「……わかった」
「じゃあ僕はこれで」

 これ以上ここに居ても重い空気にするだけで忍びなかった。

 帰路につきながらさっきの言葉にどんな意図があったのか考える。僕が止めると言ってしまったら、計画はそこで終了してしまう。本当は爆破したくなのだろうか。僕はキサさんが爆弾を仕掛ける理由を知らない。

 その事が僕の心に引っかき傷をつける。

 今朝は早くに目が覚めたがアトリエに行く気になれず、無為に時間が過ぎるのを待った。

 窓を開けると秋の匂いは薄くなり、厳しい寒さの気配が漂っている。

 折れ曲がった風車を眺めながら、頭の中でアトリエを爆破しようとするがうまくいかない。今の僕には木造のアトリエすら破壊することが出来ないでいる。

 押入れの奥にしまったマフラーを取り出す。わずかに漂う甘く清らかな香りが僕の胸を締め付ける。

 今頃はあのくたびれたソファーで寝ているのだろうか。

「ねえ……」

 扉越しに声を掛けられて慌ててマフラーをしまう。

「何?」

 扉を開けると母が不機嫌な表情で立っていた。

「最近何かあった?」
「何もないよ」
「そう……」

 キサさんとのことがばれたのかと思ったけれど、特に確信があったわけではないようで目で中の様子を伺うとそのまま下へと降りて行った。
 
 僕は逃げ出すように鞄をひったくるようにもって家を出た。

 今日も爆弾が仕掛けられているとは思えないほどに平凡な時間は過ぎ、昼休みを迎えて美術室に向かう。

 床や壁、机に沁み込んだ絵の具の匂いが心地よい。

 美術雑誌が収められている棚の前に立つ。一年前まであった書店が閉店してからはこの棚が更新されることはなくなった。

 思わず手に取るのはやはりミグラトーレが乗っている雑誌。

 ミグラトーレは何者なのかという記事を読みながら僕は優越感に浸っていた。僕だけが知っているミグラトーレの正体。この記事に書いてあることは殆どが出鱈目だ。ライターの憶測と希望が随所に垣間見える。
でも、と考える。

 僕の知っているミグラトーレは本当のミグラトーレなのか。

 キサさんが本当の事を語ってくれない以上、僕にはその判断を下すことは出来ない。

「朱鳥いる?」

 息を切らして唯織が入って来る。

「なに? 予餞会の事は説得しても無駄だよ」
「そのことなんだけさ……」

 唯織は言いづらそうに視線を落とす。後ろには大河が付き添うように立っていた。

「言いにくいなら俺が言うぞ」
「大河は黙ってて」

 気遣う大河の言葉を無下に断って中に入る。

「座って」

 扉を閉めて適当な椅子を持ってくると座るように要求する。
 
 僕が大人しくそこへ座ると、二人は面接官のように僕の対面に座った。

「下絵の件だけど、他の子に決まった」

 唯織は苦虫を噛みしめるかのような表情で告げる。

「そう。よかったね」
「よくないよ。絶対に私は朱鳥の方がいいと思ってる」
「仕方ないよ。周りを説得しきれなかった俺たちの力不足だ」

 今にも泣きだしそうな表情で悔しがる唯織を大河がフォローする。

「でもあんな根も葉もない噂流されて悔しいじゃん」
「噂?」
「朱鳥が変な奴とつるんでいるって噂が流れたんだ。直ぐにそれが嘘だってわかったんだけど、その所為で他の生徒会役員は慎重になって、先生にもそういう意見が出たんだ」

 トラブルの種は積んでしまおうという考えなのだろう。それは正しい。噂の出どころは不明だけれど、その噂はあながち間違えというわけではない。

「決まった以上はその子の事ちゃんとフォローしてあげた方がいいよ。僕の事は気にしなくていいから。こもとから断るつもりだったし」

 僕は二人を置いて美術室を出る。

 これで心置きなくキサさんとの作業に専念できる。

 他の人に決まれば吹っ切れると思っていたけれど、消化不良を起こしたように後ろめいた気持ちが残っていた。


 家に帰ると母の玄関に靴がまだあった。いつもなら出勤している時間のはずで、何か嫌な予感がする。体調を崩して寝込んでいるのだろうか。思い返せば今朝も様子がおかしかった。

 常備薬は足りるか、栄養の取れる食事は何か。そんな事を考えながら居間に上がると母は机の滲みをじっと見つめるようにして正座していた。母からは悲壮感が漂い、傍に空になった大量の酒の缶と、白いマフラーが転がっていた。

 白いマフラーを見て動けなくなる。

「朱鳥」

 母の口から僕の名前が出るのを久しぶりに聞く。

「あなたも私を捨てるの?」

 普段は突き刺すような視線を向ける母は、穏やかで慈しみのある瞳で僕を見る。

「捨てる? なんのこと?」
「これ。女のでしょ?」

 母は床に置かれたマフラーを掴むと、ゆっくりとした所作で立ち上がりおぼつかない足で近づいて来る。

「この女と私を置いて出ていく気なんでしょ」
「落ち着いてよ。誰がそんな事」

 迫ってくる母に言いようのない恐怖を抱く。

「あの人もそうだった! 他所で女を作って私を捨てた。こんな狭くて息苦しいところに置き去りにしたのよ! 私だって頑張っていたのに。ずっと信じていたのに。あの人のしていることは町の為になる。あの人は誠実で詐欺師なんかじゃない。それなのにあの人は、あの人は」

 父がここを出て行った理由、それは誰にもわからない。他に女が出てきたというのは噂の一つでしかない。しかし、母はそれを信じている。父を悪者にすることで崩れそうな精神を保っているのだ。そして、その矛先は僕にも向けられる。

「あんたの所為なのよ。あんたが調子に乗って目立つから」

 僕の肩を掴む母の力は女性のそれとは思えないほどに強く、爪が食い込んで簡単に逃げ出せない。

「テレビが来て、周りのみんなが迷惑して、あの人の計画も邪魔した。あんたが居なければあの人が出て行くことはなかったのよ!」
「……ごめんなさい」

 支離滅裂で根拠のない主張だけれど否定をすれば殴られる。いつしか僕はそれを受け入れていた。

「そんなことしたあんたが私を置いて出て行くの?」
「違うよ。誤解だから」

 肩に食い込んだ手をそっと外して説得する。

「大丈夫。僕はこの町を出て行かないよ。高校を卒業したら裕司さんのところに就職して働くから」
「本当に?」
「本当だよ。僕が働けば生活は楽になるし、そうすれば母さんは無理してスナックで働く必要ない。裕司さんとも一緒にいられる」

 取り乱していた母は落ち着きを取り戻して僕から手を離す。

「ええ、そうね。それがいいわ」

 聞き取れないほどの声でぶつぶつと呟いていた母は、居間の床に座り込んでやがて眠ってしまう。

 家の電話で裕司さんに母の事を伝えてから夕食の支度をする。食べてもらえるかわからない食事の支度は憂鬱で、昨日を思い出すと胸に殴られたような痛みが走る。

 煮込んだ醤油の匂いや、水の流れる音、全てが空しくて機械になったように手を動かした。

 支度を終える頃に裕司さんが家に到着する。

「今は落ち着いて眠っています」
「ありがとう。大丈夫かい?」
「大丈夫です。怪我はしてませんから」

 両肩のずきずきとした痛みは感じない事にする。僕を傷つけたと知ったら裕司さんは今度こそ母を諦めてしまうかもしれない。

「僕が心配しているのは気持ちの方だよ」

 神妙な面持ちで様子を伺う裕司さんにいつもの作り笑いを見せる。

「平気ですから。それより僕を正式に雇ってもらえませんか?」
「それは朱鳥くんの本意か?」

 優しい声の中に厳しさを垣間見る。

「お母さんの為というなら僕は賛成できない」

 優しさの中に見せる厳しさは父親のような存在を感じさせる。

「わかりました」

 僕の浅はかな考えを見透かされたように感じて、同じ空間にいるのが恥ずかしくなる。

「ちょっと出ます。ごはん温めればすぐに食べられますので」

 それだけ言うと逃げ出すように僕は家を出た。