【第03章 『夢月れいかは成敗する』 - 02】
学生食堂、通称学食。大学や専門学校なんかにある食堂をそう呼ぶらしい。食堂のある高校もたくさんあるらしいけど、私が通っているところにはなくて、ちょっぴり憧れていた。
ここ、幾瀬川大学の学食は、門から入ってすぐのところにある建物の一階部分にあり、さっき近くを通った時にはあまり気にしていなかったが、外側がガラス張りになっていて、そこそこおしゃれな外見をしていた。
恐らく、友達のいない前園さんは、普段は学食を使わないのだろう。今も、二台置かれた食券機の前で、山ほどあるメニューをじっと睨みつけている。
「……れいかはどれがいい?」
「ぜひ前園さんと同じものでお願いします!」
「……むぅ」
前園さんって、意外と優柔不断なのかな?
そのまましばらく食券機を睨みつけていた前園さんは、後ろに並んでいた女の人に「まだですか?」と催促され、慌てて食券機のボタンを連打した。
前園さんは出てきた二枚の食券をまじまじと眺めると、「はい」と一枚を私に手渡した。
「……スペシャル丼って書いてますけど……なんですか、これ?」
「……わからん」
わからんのかぁ……。
「前園さんって、もしかして学食来るの初めてなんですか?」
「……まさか」
そう言った前園さんは、食券機のとなりに貼り出されていた『はじめての方へ~学食の利用方法~』をチラチラと盗み見ていた。
◇ ◇ ◇
「すごいな……」
「えぇ……。さすがはスペシャル丼……」
隣同士に座った私と前園さんの前には、一つずつ丼鉢が置かれている。そしてそこには、ご飯の上に、からあげ、トンカツ、まぐろの刺身、うどんが詰め込まれていて、さらにマヨネーズがふんだんにかけられていた。
「見てください前園さん! ここにのってるのうどんですよ、うどん! 下にご飯があるのに!」
「らしいな……。ここまでTPOをわきまえないうどんを俺は初めて見た……」
「時代が時代なら料理人が斬り捨てられても不思議ではありませんね」
「そう考えるといい時代になったもんだ」
「……あっ! まぐろのお刺身が揚げたてのトンカツの熱でシーチキンに変わろうとしてますよ!」
「くっ! こいつ、時間制限付きだったか! よし! 刺身が完全にシーチキンになる前に急いで食え!」
「了解です!」
そうやってスペシャル丼をガツガツとかっこむと、口の中には驚くほどマヨネーズの味が広がった。というか、マヨネーズの味しかしなかった。これをおいしいというかどうかははなはだ疑問である。
その途中で、先に半分ほどスペシャル丼を食べ終えた前園さんが「あっ!」と声を上げた。
「前園さん? どうかしましたか?」
「……ご飯の中にも……うどんが」
「……さすがはスペシャル丼。やってくれますね」
そのサービス精神旺盛過ぎて胃が持たれそうになる昼食を食べ終えた頃には、私も前園さんも、何故か食べる前よりげっそりしていた。
「前園さん……ごちそうさまです。スペシャル丼……おいしかったです」
「無理するな……。俺も同じものを食ったんだ。これがどういう味だったかはわかる」
「…………うどんはやっぱり丼にはなれませんでしたね」
「だな……。これを考案した奴は香川の人に土下座するべきだ」
「私が香川県民なら許しませんけどね」
「つーか、お前、半分以上残してるじゃねぇか」
「ごちそうさまです。女子高生の食べ残しでよければどうぞ」
「いるか!」
その後、お腹の中で未だに存在感を放ち続けるスペシャル丼が消化されていくのを待ちながら、ズズズとコップの水をすすっていると、私たちの対面の席に一人の男性が座った。
やや太目なその男性は、何故かにたにたと笑っている。
「よぉ、作家先生」
そう呼ばれた前園さんは、あからさまに不機嫌そうに顔を歪めた。
「何しに来たんだ、鈴木」
どうやら相手の名前は鈴木というらしい。もしかしたらこの人が、前園さんが言っていた話し相手だろうか? だとすれば、前園さんがどうして『約束の矛先』の続きを書こうとしないのか知っているかもしれない。
鈴木さんは汗っかきなのか、じっとりと額に脂汗を滲ませている。
「何しに来たはないだろう。俺たちクリエイター仲間じゃないか」
クリエイター仲間? さっき前園さんのことを作家先生って言ってたし、もしかして……。
「あの、もしかして鈴木さんも作家さんなんですか?」
「ん? まぁね。サークルではそこそこ一目置かれてるよ。この前俺が批評してやった後輩は、某大手出版社の新人賞で最終選考まで残ってたし」
「……?」
それはその後輩の人がすごいというだけでは……?
「ところで、君は? 前園の彼女……じゃないよな?」
前園さん、やっぱりそういうのに縁遠いのかな……。
この人に、私がもうじき死ぬとか言ってもめんどくさいだけだし、ここは適当に……。
「私は前園さんの遠い親戚で、夢月れいかと言います。今度この大学を受験しようと思って、見学に来ました」
そう言った瞬間、鈴木さんは興奮気味に目をカッと見開いた。
「うそっ!? じゃあJK!?」
「……ま、まぁ、そうですね」
「すげぇ! 生JK!」
女子高生なんてそこら中にいるのに、何がそんなにすごいんだろう……。
私の気持ちを代弁するように、前園さんが言葉をはさんだ。
「そんなに興奮するな、鈴木。おかしな奴だと思われるぞ」
鈴木さんは「興奮なんてしてないし!」と、これまた興奮気味に吠えると、自分をなだめるように手に持っていた水をごくりと飲み込んだ。
「俺はさぁ、れいかちゃん――」
下の名前……しかもちゃん付けで呼ばれるのか……。
「――最近、某大手出版社の編集者とよく飲み会に行くんだけどさぁ。業界の裏話とか聞かせてくれて、すっごいためになるよ。よかったら今度、れいかちゃんも一緒に行かない?」
「飲み会に、ですか……? いや、私は未成年ですし……」
「大丈夫大丈夫! 酒とか飲まなくても全然平気だから!」
高校生を飲み会に誘ったりするのって普通なのかな……? よくわかんないけど……。というか、どうして私が鈴木さんと一緒に飲み会に行かなくちゃいけないの?
「俺さぁ、その編集者に才能あるって言われててぇ」
「へぇ。鈴木さんはどんな小説を書いてるんですか?」
「……ん? いや、まぁ、普通のやつ」
「普通のやつ、ですか?」
「……それはまぁ、さすがに言えないかな。軽々しく小説の内容を他人に話してパクられても困るし」
「え? でも、その編集者の方には読んでもらったんですよね?」
「読んでもらったと言うか、俺の頭の中にある構想を言葉としてアウトプットして、それで認められたって感じかな。いやぁ、やっぱり最前線で仕事してる編集者ともなると、才能を見つけるのがうまいよね。アドバイスも的確だったし」
「要は、鈴木さんはまったく小説を書いていないということですか?」
「いや……それは……」
鈴木さんはお喋りな割に、自分のことを聞かれるのがあまり好きじゃないのか、ぎこちなく口角を引きつらせながら早口で話題を逸らした。
「あっ、そうだ。れいかちゃんはもちろん知ってるよね? 前園が昔、一冊だけ本を出したこと」
その話題になると、それまで不機嫌そうな顔で黙っていた前園さんが「おい」と口をはさんだ。
「俺の話はいいだろ」
「いやいや、謙遜するなって」
前園さんは本気で嫌がっているようだったが、前園さんの情報を少しでも手に入れたくて「それで、前園さんの本がどうかしたんですか?」と先を促した。
私が話題に食いついたのが余程嬉しかったのか、鈴木さんは前園さんの反対を押し切り、流暢に話し始めた。
「それ、『思い出の刃』っていうタイトルで、うちのサークルの連中の中にもおもしろいって褒めてる奴が少しはいるんだけど、これが結構な駄作なんだよ」
……駄作? 書いた本人がすぐそこにいるのに、この人は何を言ってるんだろう……?
「主人公の心情描写はめちゃくちゃだし、かわいいヒロインはいないし、何よりも時代背景がめちゃくちゃ。基本的な文章も全然書けてなくてさぁ、地の文もテンポ悪くて読みづらい」
「いや……私は――」
そんな風には思わなかった、と言おうとしたが、鈴木さんの言葉に遮られた。
「前園は爪が甘いんだよなぁ。特にラストシーン! あれは酷すぎる! インパクト重視の目も当てられないバッドエンド! サークルの奴らはそこがいいとか言ってたけど、あんなの俺からすればただの子供騙しだよ。つーか、正直な話、俺が書こうと思ってる小説の方が絶対――」
次の瞬間、私は目の前にあったコップの水を、思い切り鈴木さんの顔に向かってぶちまけていた。
その時、勢いよく席から立ち上がったせいで、それまで座っていた椅子がガシャンと大きな音を立てて後方へ転がった。
そこら中から聞こえていた喧騒が止み、みんなの視線がこちらに集まっているのを感じる。
だけど、私は構わず言った。言わずにはいられなかった。
「他人の作ったものを馬鹿にするな!」
水浸しになった鈴木さんがぽかんと口を開けていると、静寂に包まれた学食の中で、前園さんが「ぷっ」と噴き出した声だけが響いた。
どうしてここまで言われて笑っていられるんだと、腹が立って前園さんを睨むと、前園さんは申し訳なさそうな顔をしながらもクスクスと笑い続けた。
一頻り笑って満足したのか、前園さんはすくっと椅子から立ち上がると、
「とりあえず、出るか」
「いえ、私の話はまだ終わっていません!」
鈴木さんを睨むと、鈴木さんはそれまでの饒舌はどこへやら、無言でビクリと肩を震わせた。
「まぁまぁ、落ち着けれいか。これ以上鈴木をいじめてやるな」
「でも!」
「ほらほら。いいからいいから」
そうして、私は強制的に学食から追い出された。
◇ ◇ ◇
「納得いきません! ずっと黙ってた前園さんも前園さんです! どうして言い返してやらないんですか!」
学食をあとにした私たちは、構内の隅に設置してあったベンチに二人して腰かけていた。食堂であれだけ笑っていた前園さんは、笑い足りなかったのか、今度は目に涙を浮かべてゲラゲラと笑っている。そんな前園さんの態度に、一層腹が立った。
「だから、どうして笑っていられるんですか!」
前園さんは涙を拭うと、
「いやぁ、悪い悪い。だって、まさか突然水ぶっかけるなんて思わなかったからさ」
「あれは当然の報いです。あの人は口ばっかりで、小説を書く大変さを全くわかっていないんです。そのくせ他人の作ったものを馬鹿にして……。前園さんは悔しくないんですか?」
「どこにでも、他人の粗を探して批判しないと気が済まない奴はいる。そんなのにいちいち構う気はない」
「けど……」
「それに、たしかに鈴木は腹が立つ奴だけど、一つだけいいところがあったんだ」
「いいところ?」
前園さんは小さく頷くと、どこか寂しそうに言った。
「実は、俺もあの小説のラストシーンは大嫌いなんだ。そのことを面と向かって言ってきたのは、あいつくらいだ」
『思い出の刃』のラストシーン。記憶を売買できる世界で、主人公は過去に売り払ってしまった大切な家族の思い出を、全財産と引き換えに買い戻す。しかし、手に入れた記憶には、愛していたはずの家族を惨殺する自分の姿があった。そのことにショックを受けた主人公は、自らの命を絶つという最悪のバッドエンド。
「……たしかにあのラストシーンは、ハッピーエンドを好む前園さんの作風とは違っているように思えました……」
「あれ、受賞した時点では綺麗なハッピーエンドだったんだ。でも、担当編集の指示で、あんな救いのないバッドエンドに変更せざるを得なかった」
「そう、だったんですか……」
今朝は小説の話題を避けているみたいだったのに、どうして急にそんな話を……?
私の疑問を他所に、前園さんは続ける。
「……俺はどうしても、あのバッドエンドを受け入れられなかった。売れなければいいとさえ思っていた。……けど、そうはならなかった。残念ながらあの本はそこそこ売れた。担当編集の指示は正しかったってことだ。……それからだ。俺が、小説のラストシーンを書けなくなったのは」
前園さんがネット小説、『約束の矛先』の続きを投稿しなかったのは、書きたくなかったからではなく、書けなくなったから、というわけか。
「そうだったんですか……。すいません……。私、前園さんにそんな事情があっただなんて知らなくて……。小説の続きを書いてくれだなんて……」
前園さんはベンチから立ち上がると、うんと背筋を伸ばした。
「別にいいよ。それに、俺も自分の話を聞いてもらって少し気が楽になった」
「……今まで誰かに話したりしなかったんですか?」
「あぁ。今、初めてれいかに話した」
「どうして、そんな話を私に……?」
前園さんはこちらを振り返ると、どこか晴れやかに、少しだけいたずらっぽく微笑んで言った。
「俺のために、鈴木に水をぶっかけてくれただろ?」
「あ、あれは! 当然のことをしただけであって……。私は本来、あんなことをするタイプの人間じゃないんですけど…。た、たまたまですよ、たまたま!」
「たまたまだろうがなんでもいい。俺も鈴木の自慢話にはうんざりしていたところだったし、ちょうどよかった。……それと、俺と親戚だっていう嘘はさすがに無理があるだろ。れいかは俺のこと、苗字で呼んでるし」
「それは……まぁ、たしかにそうですけど。……あ」
「ん? なんだ?」
「前園さん、大学で話し相手いなくなっちゃいましたね」
「…………」
学生食堂、通称学食。大学や専門学校なんかにある食堂をそう呼ぶらしい。食堂のある高校もたくさんあるらしいけど、私が通っているところにはなくて、ちょっぴり憧れていた。
ここ、幾瀬川大学の学食は、門から入ってすぐのところにある建物の一階部分にあり、さっき近くを通った時にはあまり気にしていなかったが、外側がガラス張りになっていて、そこそこおしゃれな外見をしていた。
恐らく、友達のいない前園さんは、普段は学食を使わないのだろう。今も、二台置かれた食券機の前で、山ほどあるメニューをじっと睨みつけている。
「……れいかはどれがいい?」
「ぜひ前園さんと同じものでお願いします!」
「……むぅ」
前園さんって、意外と優柔不断なのかな?
そのまましばらく食券機を睨みつけていた前園さんは、後ろに並んでいた女の人に「まだですか?」と催促され、慌てて食券機のボタンを連打した。
前園さんは出てきた二枚の食券をまじまじと眺めると、「はい」と一枚を私に手渡した。
「……スペシャル丼って書いてますけど……なんですか、これ?」
「……わからん」
わからんのかぁ……。
「前園さんって、もしかして学食来るの初めてなんですか?」
「……まさか」
そう言った前園さんは、食券機のとなりに貼り出されていた『はじめての方へ~学食の利用方法~』をチラチラと盗み見ていた。
◇ ◇ ◇
「すごいな……」
「えぇ……。さすがはスペシャル丼……」
隣同士に座った私と前園さんの前には、一つずつ丼鉢が置かれている。そしてそこには、ご飯の上に、からあげ、トンカツ、まぐろの刺身、うどんが詰め込まれていて、さらにマヨネーズがふんだんにかけられていた。
「見てください前園さん! ここにのってるのうどんですよ、うどん! 下にご飯があるのに!」
「らしいな……。ここまでTPOをわきまえないうどんを俺は初めて見た……」
「時代が時代なら料理人が斬り捨てられても不思議ではありませんね」
「そう考えるといい時代になったもんだ」
「……あっ! まぐろのお刺身が揚げたてのトンカツの熱でシーチキンに変わろうとしてますよ!」
「くっ! こいつ、時間制限付きだったか! よし! 刺身が完全にシーチキンになる前に急いで食え!」
「了解です!」
そうやってスペシャル丼をガツガツとかっこむと、口の中には驚くほどマヨネーズの味が広がった。というか、マヨネーズの味しかしなかった。これをおいしいというかどうかははなはだ疑問である。
その途中で、先に半分ほどスペシャル丼を食べ終えた前園さんが「あっ!」と声を上げた。
「前園さん? どうかしましたか?」
「……ご飯の中にも……うどんが」
「……さすがはスペシャル丼。やってくれますね」
そのサービス精神旺盛過ぎて胃が持たれそうになる昼食を食べ終えた頃には、私も前園さんも、何故か食べる前よりげっそりしていた。
「前園さん……ごちそうさまです。スペシャル丼……おいしかったです」
「無理するな……。俺も同じものを食ったんだ。これがどういう味だったかはわかる」
「…………うどんはやっぱり丼にはなれませんでしたね」
「だな……。これを考案した奴は香川の人に土下座するべきだ」
「私が香川県民なら許しませんけどね」
「つーか、お前、半分以上残してるじゃねぇか」
「ごちそうさまです。女子高生の食べ残しでよければどうぞ」
「いるか!」
その後、お腹の中で未だに存在感を放ち続けるスペシャル丼が消化されていくのを待ちながら、ズズズとコップの水をすすっていると、私たちの対面の席に一人の男性が座った。
やや太目なその男性は、何故かにたにたと笑っている。
「よぉ、作家先生」
そう呼ばれた前園さんは、あからさまに不機嫌そうに顔を歪めた。
「何しに来たんだ、鈴木」
どうやら相手の名前は鈴木というらしい。もしかしたらこの人が、前園さんが言っていた話し相手だろうか? だとすれば、前園さんがどうして『約束の矛先』の続きを書こうとしないのか知っているかもしれない。
鈴木さんは汗っかきなのか、じっとりと額に脂汗を滲ませている。
「何しに来たはないだろう。俺たちクリエイター仲間じゃないか」
クリエイター仲間? さっき前園さんのことを作家先生って言ってたし、もしかして……。
「あの、もしかして鈴木さんも作家さんなんですか?」
「ん? まぁね。サークルではそこそこ一目置かれてるよ。この前俺が批評してやった後輩は、某大手出版社の新人賞で最終選考まで残ってたし」
「……?」
それはその後輩の人がすごいというだけでは……?
「ところで、君は? 前園の彼女……じゃないよな?」
前園さん、やっぱりそういうのに縁遠いのかな……。
この人に、私がもうじき死ぬとか言ってもめんどくさいだけだし、ここは適当に……。
「私は前園さんの遠い親戚で、夢月れいかと言います。今度この大学を受験しようと思って、見学に来ました」
そう言った瞬間、鈴木さんは興奮気味に目をカッと見開いた。
「うそっ!? じゃあJK!?」
「……ま、まぁ、そうですね」
「すげぇ! 生JK!」
女子高生なんてそこら中にいるのに、何がそんなにすごいんだろう……。
私の気持ちを代弁するように、前園さんが言葉をはさんだ。
「そんなに興奮するな、鈴木。おかしな奴だと思われるぞ」
鈴木さんは「興奮なんてしてないし!」と、これまた興奮気味に吠えると、自分をなだめるように手に持っていた水をごくりと飲み込んだ。
「俺はさぁ、れいかちゃん――」
下の名前……しかもちゃん付けで呼ばれるのか……。
「――最近、某大手出版社の編集者とよく飲み会に行くんだけどさぁ。業界の裏話とか聞かせてくれて、すっごいためになるよ。よかったら今度、れいかちゃんも一緒に行かない?」
「飲み会に、ですか……? いや、私は未成年ですし……」
「大丈夫大丈夫! 酒とか飲まなくても全然平気だから!」
高校生を飲み会に誘ったりするのって普通なのかな……? よくわかんないけど……。というか、どうして私が鈴木さんと一緒に飲み会に行かなくちゃいけないの?
「俺さぁ、その編集者に才能あるって言われててぇ」
「へぇ。鈴木さんはどんな小説を書いてるんですか?」
「……ん? いや、まぁ、普通のやつ」
「普通のやつ、ですか?」
「……それはまぁ、さすがに言えないかな。軽々しく小説の内容を他人に話してパクられても困るし」
「え? でも、その編集者の方には読んでもらったんですよね?」
「読んでもらったと言うか、俺の頭の中にある構想を言葉としてアウトプットして、それで認められたって感じかな。いやぁ、やっぱり最前線で仕事してる編集者ともなると、才能を見つけるのがうまいよね。アドバイスも的確だったし」
「要は、鈴木さんはまったく小説を書いていないということですか?」
「いや……それは……」
鈴木さんはお喋りな割に、自分のことを聞かれるのがあまり好きじゃないのか、ぎこちなく口角を引きつらせながら早口で話題を逸らした。
「あっ、そうだ。れいかちゃんはもちろん知ってるよね? 前園が昔、一冊だけ本を出したこと」
その話題になると、それまで不機嫌そうな顔で黙っていた前園さんが「おい」と口をはさんだ。
「俺の話はいいだろ」
「いやいや、謙遜するなって」
前園さんは本気で嫌がっているようだったが、前園さんの情報を少しでも手に入れたくて「それで、前園さんの本がどうかしたんですか?」と先を促した。
私が話題に食いついたのが余程嬉しかったのか、鈴木さんは前園さんの反対を押し切り、流暢に話し始めた。
「それ、『思い出の刃』っていうタイトルで、うちのサークルの連中の中にもおもしろいって褒めてる奴が少しはいるんだけど、これが結構な駄作なんだよ」
……駄作? 書いた本人がすぐそこにいるのに、この人は何を言ってるんだろう……?
「主人公の心情描写はめちゃくちゃだし、かわいいヒロインはいないし、何よりも時代背景がめちゃくちゃ。基本的な文章も全然書けてなくてさぁ、地の文もテンポ悪くて読みづらい」
「いや……私は――」
そんな風には思わなかった、と言おうとしたが、鈴木さんの言葉に遮られた。
「前園は爪が甘いんだよなぁ。特にラストシーン! あれは酷すぎる! インパクト重視の目も当てられないバッドエンド! サークルの奴らはそこがいいとか言ってたけど、あんなの俺からすればただの子供騙しだよ。つーか、正直な話、俺が書こうと思ってる小説の方が絶対――」
次の瞬間、私は目の前にあったコップの水を、思い切り鈴木さんの顔に向かってぶちまけていた。
その時、勢いよく席から立ち上がったせいで、それまで座っていた椅子がガシャンと大きな音を立てて後方へ転がった。
そこら中から聞こえていた喧騒が止み、みんなの視線がこちらに集まっているのを感じる。
だけど、私は構わず言った。言わずにはいられなかった。
「他人の作ったものを馬鹿にするな!」
水浸しになった鈴木さんがぽかんと口を開けていると、静寂に包まれた学食の中で、前園さんが「ぷっ」と噴き出した声だけが響いた。
どうしてここまで言われて笑っていられるんだと、腹が立って前園さんを睨むと、前園さんは申し訳なさそうな顔をしながらもクスクスと笑い続けた。
一頻り笑って満足したのか、前園さんはすくっと椅子から立ち上がると、
「とりあえず、出るか」
「いえ、私の話はまだ終わっていません!」
鈴木さんを睨むと、鈴木さんはそれまでの饒舌はどこへやら、無言でビクリと肩を震わせた。
「まぁまぁ、落ち着けれいか。これ以上鈴木をいじめてやるな」
「でも!」
「ほらほら。いいからいいから」
そうして、私は強制的に学食から追い出された。
◇ ◇ ◇
「納得いきません! ずっと黙ってた前園さんも前園さんです! どうして言い返してやらないんですか!」
学食をあとにした私たちは、構内の隅に設置してあったベンチに二人して腰かけていた。食堂であれだけ笑っていた前園さんは、笑い足りなかったのか、今度は目に涙を浮かべてゲラゲラと笑っている。そんな前園さんの態度に、一層腹が立った。
「だから、どうして笑っていられるんですか!」
前園さんは涙を拭うと、
「いやぁ、悪い悪い。だって、まさか突然水ぶっかけるなんて思わなかったからさ」
「あれは当然の報いです。あの人は口ばっかりで、小説を書く大変さを全くわかっていないんです。そのくせ他人の作ったものを馬鹿にして……。前園さんは悔しくないんですか?」
「どこにでも、他人の粗を探して批判しないと気が済まない奴はいる。そんなのにいちいち構う気はない」
「けど……」
「それに、たしかに鈴木は腹が立つ奴だけど、一つだけいいところがあったんだ」
「いいところ?」
前園さんは小さく頷くと、どこか寂しそうに言った。
「実は、俺もあの小説のラストシーンは大嫌いなんだ。そのことを面と向かって言ってきたのは、あいつくらいだ」
『思い出の刃』のラストシーン。記憶を売買できる世界で、主人公は過去に売り払ってしまった大切な家族の思い出を、全財産と引き換えに買い戻す。しかし、手に入れた記憶には、愛していたはずの家族を惨殺する自分の姿があった。そのことにショックを受けた主人公は、自らの命を絶つという最悪のバッドエンド。
「……たしかにあのラストシーンは、ハッピーエンドを好む前園さんの作風とは違っているように思えました……」
「あれ、受賞した時点では綺麗なハッピーエンドだったんだ。でも、担当編集の指示で、あんな救いのないバッドエンドに変更せざるを得なかった」
「そう、だったんですか……」
今朝は小説の話題を避けているみたいだったのに、どうして急にそんな話を……?
私の疑問を他所に、前園さんは続ける。
「……俺はどうしても、あのバッドエンドを受け入れられなかった。売れなければいいとさえ思っていた。……けど、そうはならなかった。残念ながらあの本はそこそこ売れた。担当編集の指示は正しかったってことだ。……それからだ。俺が、小説のラストシーンを書けなくなったのは」
前園さんがネット小説、『約束の矛先』の続きを投稿しなかったのは、書きたくなかったからではなく、書けなくなったから、というわけか。
「そうだったんですか……。すいません……。私、前園さんにそんな事情があっただなんて知らなくて……。小説の続きを書いてくれだなんて……」
前園さんはベンチから立ち上がると、うんと背筋を伸ばした。
「別にいいよ。それに、俺も自分の話を聞いてもらって少し気が楽になった」
「……今まで誰かに話したりしなかったんですか?」
「あぁ。今、初めてれいかに話した」
「どうして、そんな話を私に……?」
前園さんはこちらを振り返ると、どこか晴れやかに、少しだけいたずらっぽく微笑んで言った。
「俺のために、鈴木に水をぶっかけてくれただろ?」
「あ、あれは! 当然のことをしただけであって……。私は本来、あんなことをするタイプの人間じゃないんですけど…。た、たまたまですよ、たまたま!」
「たまたまだろうがなんでもいい。俺も鈴木の自慢話にはうんざりしていたところだったし、ちょうどよかった。……それと、俺と親戚だっていう嘘はさすがに無理があるだろ。れいかは俺のこと、苗字で呼んでるし」
「それは……まぁ、たしかにそうですけど。……あ」
「ん? なんだ?」
「前園さん、大学で話し相手いなくなっちゃいましたね」
「…………」