キミのココロは何色ですか?

 突如、救急車の甲高い音が聞こえて、僕の意識は覚醒した。
 
 バニラのような甘い匂いが鼻をくすぐる。
 目の前には、上から小さな輪っかが垂れ下がっている。
 その奥に見える窓には、無数の水滴が付いていた。
 窓から漏れる赤い警告灯が乱反射して、薄暗い部屋を僅かに照らし出す。
 目の前に置かれたベッドの上にはぬいぐるみがあり、ここが女性の部屋だということは理解できた。
 無数の涙を流す窓の外には、蟻のように整然と群れをなす家々が見える。
 
 その高層ビルから見たような景色に、僕は違和感を覚えた。
 
 ー明らかに、人が見る景色にしては背が高い気がする。
 
 辺りを見回そうと試みるが、首を動かすことができない。
 自分の意識があるはずなのに、以前の夢のように身体を自由に動かすことができなかった。
 
 すると、僕の意思に反して、手が目の前にある輪っかに伸びていく。
 伸ばされた細い手は、小刻みに震えている。
 震えた右手で小さな輪を持ち、自分の方へ手繰(たぐ)り寄せている。
 それと同時に背後から乾いた木の軋む音が聞こえた。
 
 手繰(たぐ)り寄せられて鼻先まで来た輪っかは、人の顔ほどの大きさだった。
 車のハイビームに照らされて煌く雫が、輪の上部にあるベルトのバックルのようなものを映し出す。
 
 頬に温かなものが流れるのを感じる。
 それに合わせて身体が前のめりになった。
 つま先が何かから離れている感覚がする。
 
 歪む視界の中に、舞い踊る光がミラーボールのように耀(かがよ)う。
 
 視界から輪っかが消えた。
 何かが首を少し押し上げる感覚がする。
 
 気道から空気が抜ける音がした。
 そして、ゆっくりと視界から光が遮断された。
 
 
 止めて…。
 苦しい…。
 
 
 突然、携帯電話の甲高い音が鼓膜に突き刺さった。
 同時に、息苦しい視界に弱々しい光が蘇る。
 首に押し当てられたものから解放されて、呼吸が楽になった。
 
 見下ろす視界に、ベッドの上で携帯電話が赤く点滅して泣き叫んでいる様子が映し出される。
 わめき散らしている様子をしばらく見ていると、携帯電話は大人しくなった。
 
 ーこの人は何を考えているのだろうか。
 
 邪魔するものがいなくなったのを確認したのか、再び視界から輪っかが消えた。
 すると、また携帯電話が短い音と共に緑色に光った。
 身体の持ち主が手を輪っかから放して、足が何かから離れる感覚がした。
 幻想的な街の輝きが消えて、視界が人の目線になった。
 
 身体の持ち主が、ベッドに置いてあった携帯電話を手に取り、少し不機嫌そうに腰を下ろした。
 携帯電話を開くと<不在着信>、<新着メール1件>と画面に表示されていた。
 面倒くさそうにボタンを操作して、メールを開く。
 すると、目を疑う文章が飛び込んできた。
 
 
[from]岳さん
[sub]お願い
[本文]
 お疲れ様です。
 夜遅くにすみません。以前、グラビアの撮影で写真を撮らせていただいた坂本です。
 今日は、彩音ちゃんにお願いがあって連絡させていただきました。
 実は、僕には持病をもった甥がいます。
 仕事が一段落したら、いつも撮影で撮った写真をいくつか見せながら、外に出れない彼に土産話をしています。
 そして今日、彩音ちゃんとの現場の話をしていた時に、甥がある写真が欲しいと言ってきました。
 休憩中に彩音ちゃんが、猫を撫でようとして逃げられた時に撮った写真です。
 オフショットなのですが、もし、彩音ちゃんがよければ甥にその写真を1枚、渡してあげたいのです。
 また、詳しい話は来月の写真選びの時にマネージャーさんも交えてお話させてください。
 
 それでは、来月お会いできるのを楽しみにしています。
 
 
 
 無機質な文字が閉じられた。
 身体の持ち主が、彩音さんと知って僕は困惑する。
 言葉にならない気持ちが、胸を締め付ける。
 
 携帯電話は閉じられ、彩音さんの手によって視界が遮られた。
 暗闇の世界に温かな雫が何度も何度も落ちて、弾けて、散った。
 
 何もできない自分の胸の中に、悔しさと苦しさが入り混じる。
 
 ふと、微かに家の呼び鈴の音が聞こえた気がした。
 その合図と同時に、再び視界が開けるが、その視界は徐々に遠くなっていく。
 元に戻ろうと駆け寄ってみるが、遠のくスピードに追い付けない。
 
 
 消えゆく視界の中、扉に垂れ下がる輪っかが、嘲笑うようにこちらを見つめていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ガッハハハッ!」
 家の中に響いた低く大きな声が、僕を現実へ呼び戻した。
 
 左瞼だけ開けて部屋を見渡してみるが、アオイの声は聞こえない。
 右手で床を弄って携帯電話を探す。
 固く四角い物に当たり、それを手にして画面を開いた。
 七時半を回った夏空の下、既に虫たちは仕事を始めていた。
 
 右瞼も開けて、汗ばむ上半身を起こした。
 朝日で熱せられた空気が、肌に張り付いて身体が重い。
 昨日、タイマーを付けたまま寝てしまったようだ。
 
 夢のなごりが今も胸の中で騒ぎ立て、僕は虚空を見つめる。
 二日ぶりの静寂が部屋に流れる。
 しばらくして、アオイの慌ただしい声が聞こえてきた。
 
「あ、あれ⁉おはよう、テツヤ。起きたんだ」
「…おはよう…」
 乾いた声帯を震わせて、ざらつく声で挨拶をした。
「大丈夫?何か難しい顔してるけど…」
 僕の顔がいつもと違ったのか、アオイが心配そうに声をかけてきた。
「あぁ…大丈夫」
 まだ、自分の中でもうまく整理できていない状態なので、僕は平然を装った。
 
「ならいいんだけど…あっ、そうそう…ちょっと前にね、チャイムが鳴って、大きな声がしたから見に行ったの。そしたら、リビングにお洒落なおじさんがいたんだけど…」
 問題ないことを聞いて安心したのか、アオイが少し興奮した様子で自分が見てきた様子を伝えてきた。
 僕は立ち上がり、敷布団を畳みながらアオイの疑問に答える。
「あぁ…多分、父さんが帰ってきたんだよ」
 
 周章(しゅうしょう)な声を出すアオイが、さらに質問してきた。
「やっぱそうなの⁉お父さん、めっちゃお洒落じゃん!何やってる人なの?」
 小さくなった敷布団をクローゼットへ入れながら、父さんの事を話した。
「父さんは、<zip>って美容室を経営してるんだけど?知ってる?」
 
「え゛~~~!!」
 
 アオイの吃驚(きっきょう)した声が、仕事前の頭の中に響き渡った。
 あまりの声の大きさに、僕は無意識に耳を塞いでしまった。
 
「アオイ、もうちょっとボリューム抑えてくれ。頭がうるさい…」
「ごめん、ごめん。つい、ビックリしちゃって…。<zip>ってめっちゃ有名な美容室だよ!私も何回か行ったことあるし!」
 興奮冷めやらぬ様子で謝るアオイに、僕は軽いお辞儀をして礼を伝える。
「おっ、そうなの?御来店いただきありがとうございます」
 
 頭を上げて、充電器から携帯電話を抜き、話を続けた。
「まぁ、そういうことだから他の店にいる美容師さんの教育とかしなくちゃいけないらしくて、全国を飛び回ってるってわけ…」
 暑さが蔓延(はびこ)る部屋を後にして、ベタつく足で階段を降りた。
 
 扉の中から(せわ)しない音がする洗面所へ入る。
 流水で顔を洗っていると、アオイが不思議そうに声をかけてきた。
「ふぅん、何か、大変そう…。てかさ…テツヤの親族、凄い人多くない?」
「それな…」
 激しく同意する!という念をその言葉に乗せて、リビングの扉を開いた。
 
 扉を開くと芳醇なコーヒーの香りが鼻を襲った。
「おう。テツヤ、起きたんか?夏休みなんに早起きやなぁ」
 朝から張りのある快活な声が、ソファの方から聞こえてきた。
 そこには、丸眼鏡にゆるいパーマをかけた父さんがコーヒーを啜って右手を上げていた。
 
「あら、今日も早起きね」
 そう言う母さんは、台所で忙しなく朝ご飯の準備をしていた。
 僕は父さんの向かいのソファに座り、二人に挨拶をした。
「おはよう。父さん、帰って来れたんやね」
 
 細い体躯に鮮麗されたファッションは自分の父親とは思えないほど上品な雰囲気を(かも)し出していた。
(テツヤのお父さん、めっちゃ雰囲気あってカッコいいだけど…ウチのパパと大違い)
 大人の色香を出す父さんに、アオイは驚嘆する。
 
「いや、大変やったわ!始発の新幹線乗って、さっき家着いたんよ」
「へぇ。大変やったね…」
 朝から全力で身振り手振りを使って話すその姿に、今日は少し救われた気がした。
「愛しの家族に会うためやけ、お父さん…頑張ったんよ。あっ、そうやった、そうやった!」
 
 すると父さんは立ち上がり、ソファの横に置いたキャリーバッグの中をガサゴソと漁り始めた。
「テツヤ、今回のお土産は驚くぞぉ…ジャジャーン!!今回は下関のフグ刺しとフグの唐揚げ、あとは…なんか色々、フグのヤツ買ってきた!!夕飯にでも、みっちゃんと食べなさい」
 
 父さんはキャリーバッグから、次々にお土産を出しては自慢げに僕に見せた。
(えっ⁉︎やったーー!!フグだぁ!フグ!ってかさ…テツヤ、みっちゃんって…誰?)
 頭の中ではしゃぐアオイが、当然疑問に思うであろう質問をしてきた。
 僕は少し恥ずかしい気持ちを抑えて、アオイの質問に答える。
(…母さんのことだよ)
(あっ、そうなの?奥さんの事、あだ名で呼ぶなんて仲良いんだね)
 僕はアオイの言葉にあえて反応せずに、父さんに礼を伝えた。
 
「父さんありがとう。母さんと…ってことは父さんは、またすぐ出るの?」
「せやね。今日は荷下ろしするためだけに寄ったんもあるけど…久しぶりに哲也の髪を切ろうと思ってな!あっ、みっちゃん。コレ…冷蔵庫…」
 そう言ってお土産を持って、台所にいる母さんの所へ向かって行った。
「もう!そういう冷蔵するヤツは早く出してよ!」
 母さんは濡れた手をタオルで拭きながら、父さんからお土産を受け取った。
「あぁ、ゴメンね。みっちゃん!ついつい、久しぶりにみっちゃんに会って舞い上がっちゃって…忘れてた…わるす。」
 頭を掻きながらバツが悪そうにする父さんは、様々なフグ土産を母さんに渡してる。
「もう!テツヤがいるんだから、そういう恥ずかしいことはあまり言わないでって言ってるでしょ!」
 
 母さん達のいつものやり取りを耳に流しながら、キャリーバックの中から出てきたフグの煎餅やヒレを手に取っていると、甘く爽やかな匂いに包まれた。
「いや、だって事実やから。うん、うん。さてさて、哲也くん…父さん、九時前には家出んといけんけ、寝起きのトコ悪いけど、今から風呂場で断髪式だ!レッツら、ゴー!」
 僕の肩に手を回してきた父さんが、鼻歌混じりに無理矢理リビングから僕を連れ出した。
 
(なんか…テツヤのお父さんって…なんていうか…スゴイね…)
 アオイが、言葉を選んでいるのがヒシヒシと伝わってくる。
(アオイが言いたいことは分かるよ…うん)
 僕の右肩に置かれた練熟されて荒れた手は、楽しそうに垂れ下がっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 風呂場の鏡に、穴の空いたゴミ袋を被ってバスチェアに座る自分がいた。
 床には、水で滲んだ新聞紙が敷かれている。
 着せ替え人形のように、自分の髪に色々な物が付いていく。
 腰にコームやハサミを付けた父さんが、鏡越しに僕に向けて白い歯をみせた。
 
「今日はどういたしますか?お客様」
 僕の頭に霧吹きで水を吹きかけながら、父さんが要望を聞いてきた。
「父さんに任せるよ」
 僕の髪の様子をみるために、父さんが濡れた毛束を蝶のように羽ばたかせる。
「そしたら…イケメン、ビューティーカットしていきますねぇ」
 イメージが固まったのか、父さんは毛束を手に取りハサミを入れ始めた。
 ハサミの奏でる凛とした音が、(くう)を切る。
 
「あれ?前はただのイケメンカットだったよね?」
 すると、父さんが人差し指を立てて左右に振りながら、知識の乏しい僕に講義を行う。
「チッチッチ!哲也君、甘いな〜。今は男子も美容に気を使わなきゃいけない時代なのだよ!女子にモテるには清潔感、大事ですから!はい、ここポイントね〜」
 そんなことを言いながら、父さんはコームを濡れた髪に当てて、躊躇(ちゅうちょ)なく髪を切っていく。
 まるでタンゴを踊るようなステップでハサミを動かし、切髪と重力のワルツが風呂場で始まった。
 
(分かる〜!!清潔感、めっちゃ大事!!)
 頭の中の女子が、父さんの講義に激しく共感する。
(そうなの?)
 未だピンときていない僕は、見えない女子に再度確認した。
(そうだよ!清潔感、大事です!)
 
 父さんが左右の毛束を持ち上げて、髪の長さを確認しながら唐突に質問してきた。
「テツヤ、彼女できたか?」
「はあっ⁉︎何、いきなり⁉︎」
 鏡越しにニヤつく父さんと目線が重ねる。
 丸眼鏡の奥からは期待の眼差しが向けられていた。
(ワクワク…)
 どこかで盗み聞きしている女子も恋愛話に興味深々のようだ。
「そんな慌てんなよ〜。こりゃ、もしかするとかぁ?いや、高二の夏やろ…青春ですわ。髪を切って、イケメンになって…花火大会にお祭りとイベントが盛り沢山やんか。これで彼女でもおったら、今年の夏休み…ステキやん?」
 
 夏のイベントを指折り数える父さんと落ち着かないアオイに、僕は残酷な真実を伝える。
「残念ながら、そんなステキな夏休みになる予定はないよ」
 期待に応えられない僕は、目線を下げて無残に散った髪の毛を見つめた。
 二人の女子からため息が漏れる。
(え~、つまんない)
「はぁ…つまらんなぁ」
 
 すると、父さんが何か思い出したように動かす手を止めた。
「……あっ、そうやった!梢ちゃんと同じクラスなんやって?…こないだ、うちの店に来てくれた時に、たまたまその店におってな、五年ぶりくらいに会ったんやけど、めっちゃ可愛いなっとってビックリしたわ」
 父さんは、時折コームを使って語尾を強調しながら、その時の興奮を伝えてきた。
 聞いた事がない名前にアオイが反応する。
(梢ちゃん?)
(あぁ…そっか。アオイは見たことなかったな。多分、幼馴染…みたいなもんだよ)
(ふぅん)
 適切な言葉なのか分からないが、友達や知り合いとは違う気がしたのは確かだ。
 
 襟足付近を切りやすいように下を向きながら、父さんが好きそうな話題で話を返した。
「梢、父さんの店に来てたんだ。何か、うちの学校で割と男子から人気らしいんよね…」
 すると、父さんが興奮気味にさらに詳しい情報を求めてきた。
「そりゃそうやろ!アレで人気ない方がおかしいわ!彼氏おるんちゃう?」
 
 残念ながら、それ以上の梢の情報を知らない僕は両手を上げて肩をすくめた。
「さぁ?分からん」
 僕の放った言葉に父さんの手が止まった。
「なんや、幼馴染なんに知らんの?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている父さんに、さらに豆鉄砲を食らわせる。
「まぁ…挨拶くらいしかせんし…」
 
 僕の言葉を聞いた父さんが、丸眼鏡のブリッジをクイッと上げて、深くため息をこぼす。
「はぁ…お前ってヤツは…まぁ、哲也がええんやったらええけど…」
 頭頂部の髪を切りながら、父さんが諭すように言葉を上から落としてきた。
「哲也…。面倒くさがったり、怖がるなよ。人を好きになること。相手が男でも女でもええんよ。たしかに、マイナスな事があるんは事実やけどな。…でも、どんな形であれ、哲也に何か残してくれるから」
「…うん」
 普段からは考えられない落ち着いた口調で話す父さんに、少し緊張してしまう。
 
 父さんが僕の横に置いていた椅子に座り、ハサミをすきバサミに持ちかえた。
「母さんとはどうだ?仲良くやっとるんか?」
「まぁ…多分…」
 ハサミに絡みついた黒い藻が、綿毛のようにふわりと舞い落ちる。
「勉強しろ、勉強しろって、うるさいかもしれんけど、哲也の事思っての事やけ、目ぇつぶったってや」
 羽毛のように柔らかな言葉が僕の背中に投げかけられる。
「うん、分かっちょる」
 
 鏡越しにこちらに目線を合わせた父さんが、頬を緩めた。
「そうか、ありがとう。…そういや、まだ、音楽しとんか?」
 椅子から立ち上がり、横に立つ父さんが突拍子もない質問をしてきた。
「うん?そうだね、たまに弾いとるよ」
 前髪を切るために目を瞑っていると、さらに父さんは質問をする。
「そっか…哲也、音楽好きか?」
 いつもと違う雰囲気にさらに緊張感が増す。
「うん。まぁ…」
 
 暗闇の中、ハサミの無機質な音と父さんの(ひそ)やかな声が、鼓膜を打ち鳴らす。
「じゃあ、止めるなよ。音楽。好きなもんがあるって凄いことやからな」
 すると、突然、甲高い機械音が反響した。
「おっと、悪い…。はい。…おー、おはようさん。うん。どしたん?……」
 父さんは商売道具を腰にしまい、席を立って脱衣所へ向かった。
 緊張感を壊してくれた電話に感謝しつつ、身体を強張らせていた僕はため息をついた。
 
 すぐに父さんが戻ってきて、作業が再開されて前髪を調整する。
「さぁて…、前髪はもう終わりやから…あとは最後に眉カットして終わりやわ」
 眉毛を動かさないように、目を瞑っていると終了の合図を告げられた。
「うっし、お疲れさん。どうや?イケてるんちゃう?」
 
 鏡を見ると顔が少し引き締まっているように見えた。
(いいじゃん!爽やかだし、前より全然良いよ!)
 髪を切った姿は、年下のようなお姉さんにも好評のようだ。
(そ、そっか…)
 僕は親指を立てて、父さんにお礼を言った。
「うん…イケてる。ありがとう」
 満足そうに頷いた父さんは、濡れたタオルで手に付いた毛を払った。
 
「うっし!上等やな。ほいじゃあ、もう出んといけんくなったけ、悪いけど片付け頼んでもええか?」
「うん。もう出るの?」
 仕事道具をしまいながら、脱衣所へ上がった父さんが足をバスタオルで拭いた。
「おう。もしかしたら来週、少しだけなら家に顔出すかもしれん」
 「分かった」
 僕は自分の毛がこれ以上まき散らないように、慎重にゴミ袋を取り外しながら返事をした。
 
 髪の毛がまぶされた新聞紙をゴミ袋に詰めて一息ついていると、父さんの声が聞こえた。
「おーい、哲也!渡すもんあったん忘れとったわ」
「何ー?」
 足に付いた水分をマットで拭き取り廊下に出ると、玄関で黒い袋を持ち上げて手招きする父さんがいた。
 式台には、エプロン姿の母さんが小さな袋を持っていた。
 
「どうしたの?」
「ニヒヒ。ほれ、コレ!何かは開けてからのお楽しみってな」
 目尻を下げて笑う父さんが、左手に持った黒い袋を僕に渡した。
「そしたらな。夏休み、思いっきり楽しみんさい」
 袋を手に取った僕の身体を父さんの太い腕が包み込む。
「父さんも仕事、頑張って」
 父さんに別れの言葉をかけると、横にいた母さんが口を開いた。
「テツヤ、朝ご飯もうできてるから…片付け終わったら、食べてちょうだい」
「はーい」
 父さんから離れて、急ぎ足でその場を離れた。
 
 邪魔者となった僕は、ホラー映画のような風呂場へ戻った。
 壁に張り付く髪の毛たちのせせら笑う声が、いつもでも僕の中でこだましていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 朝ご飯を食べて、陽射しの掃き溜めとなっている部屋に入る。
 髪を切ったせいなのか、いつもの暑苦しいはずの部屋が若干和らいでいる気がした。
 エアコンをつけて、温かなベッドに身体を放り投げた。
 
 涼しい風が顔に当たり、人類の叡智を享受する。
 ゆっくりと、タオル地の敷パッドを手でなぞる。
 最初はいつもどおりの心地よい感触を楽しんでいたが、途中からアオイがここに寝ている事を思い出して、慌てて体を起こした。
 壁に背中を預けて、棚とヒヨコの座布団を視界に入れた。
 僕は紛らわすように、散髪の途中から大人しいアオイに声をかけた。
 
「アオイ。何か、元気ないけど…朝食、口に合わなかったか?」
 少し慌てた様子でアオイが反応した。
「んっ⁉︎い、いやぁ…美味しかったよ!塩サバ。ちょっとね、考え事してただけだから、気にしないで!…それよりさ、テツヤのお父さん凄かった!良い意味でだよ、良い意味で!」
 いつにもなく早口で喋るその様子が、気にならない方が無理だった。
 しかし、そこに突っ込む事は、僕らにはまだ早い気がしていた。
 
 ーアオイのお父さんはどんな人なんだ?
 
 その言葉が喉まで出かけていたが、力強く嚥下(えんげ)する。
 サエキアオイとして会えない彼女に、彼女の家族の話題はあまりにも酷な事だと考えていた。
 もちろん、死因に関しても…。
 
「いつもより真面目な事ばっか言ってたから、俺もビックリしたけど…まぁ、体調悪かったら言ってくれよ」
 意気消沈しているアオイの肩に、そっと言葉をかけた。
「何なに〜?テツヤ、もしかして…私の事、気にしてくれてんのぉ?」
 少し朗らかな声をあげたアオイが、楽しそうに頭の中ではしゃぎ立てる。
 
「はぁっ⁉︎そりゃ、元気なかったら気にするだろ!普通!」
 いつものアオイに戻った事に、胸を撫で下ろしつつ、僕は語尾を強く言い放つ。
 しかし、アオイのニヤつく声は収まらなかった。
「へへへぇ、そっか、そっかぁ〜」
 少し機嫌が良くなったアオイに、僕は釘を刺した。
「ちゃ、茶化すなよ」
 
 普段どおりの調子に戻ったアオイが、別の話題をふってきた。
「は〜い。それよりさ、お父さんから何貰ったの?」
 僕はベッドの上に置いた黒い袋を手に取り、中身を取り出した。
 その中身を見たアオイが、すぐさま僕に尋ねた。
「何、これ?」
 
 袋の中から出てきた物は、ピアノスコアとバンドスコアだった。
 僕は表紙のアーティスト名を見て、今日一番の声を上げた。
「マジか⁉︎」
「えっ⁉︎ねぇ、何なのこれ!」
 答えを聞けないアオイが、頭の中で騒ぐ。
「これ、ピアノスコアとバンドスコアってやつだよ。音楽を演奏するための楽譜って感じ」
 なるべく分かりやすいように、噛み砕いてアオイに説明した。
 すると、アオイから思いがけない反応が返ってきた。
 
「へぇ、楽譜ってこんな感じなんだ。ねぇ、これ…表紙に書いてあるライクラって、あのライクラのこと?」
 耳を疑うような返しに、僕は思わずベッドから身を乗り出した。
「ま、マジか⁉︎アオイ、ライクラ知ってんの?」
 あまりの僕の迫力に、若干引き気味のアオイが口吃(くちども)る。
「う、うん。と、友達から教えてもらった」
 棚の前に立ち上がり、無意識に右手を彩音さんの写真に向けて差し出していた。
「マジか!素晴らしい!!俺、その子と友達になれるわ。しかも、これ…インディーズ時のアルバムのヤツだし!うわぁ、父さんにマジ感謝やわ」
 
「好きなんだね、ライクラ。あっ、ちなみにちゃんとテツヤの手、握ってるよ」
 僕は同志を見つけた喜びを込めて、右手を上下に振った。
「そりゃね、入院中にずっと聞いてたから。ちなみに、アオイはどの曲が好きなんだ?」
「え〜とねぇ、たしか、<夏初月>ってやつ」
 先程よりも強い熱気が胸の奥から沸き立って、さらに身を乗り出した。
「マジ??マジで言っとる?うわぁ、めっちゃヤバイ!あれ、俺もライクラの中で一番好きなヤツやから!あの曲は、インディーズの頃のやけ、多分このスコアに載っとるはず…」
 
 興奮が冷め止まずに、左手に持ったピアノスコアのページを(めく)る。
 その様子を見て、アオイがクスクスと笑っている声が聞こえたが、今の僕にはそれに構っている余裕はなかった。
「あっ、あったあった」
 目の前に並ぶ譜面に、規則正しく音が並んでいる。
「あっ、ホントだぁ!ねぇねぇ、テツヤ!弾いてみてよ。テツヤのピアノ、聴きたい!」
 アオイのリクエストに応えて、僕はエレクトーンの方へ足を向けた。
 
「ちょ、ちょっと待って…」
 エレクトーンの電源を入れて、椅子に座ってスコアを立てかける。
 マスターボリュームを少しあげて、エクスペンションペダルを数回踏む。
 ピアノのボタンを点滅させて、鍵盤に手を置いてボリュームを確認する。
 
 ミ、レ、シ、ソ、ソ…♪
 
「あっ、<猫ふんじゃった>だ!テツヤ、本当に弾けるんだね、ピアノ」
 アオイの感嘆の声が、頭の隅で聞こえた気がした。
「いや、飾りじゃないから…もう少し、ボリューム上げた方が良いな」
 音の調子を見ながら、<猫ふんじゃった>を弾き終わり、ようやくお気に入りの曲のスコアと向き合った。
 
「とりあえず、Aメロからサビのトコまで試し弾きな。ふぅ~」
 緊張でいつもより指が固い感じがして、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「わぁ〜ワクワクする!」
 頭の中では、目を輝かせて期待に満ちた声が響き渡る。
 
 沈む鍵盤に、次々と指を滑らせて音を奏でる。
 聴いていた曲が弾ける喜びが、曲とともに身体中を駆け巡る。
 さいわい、サビまでは難しい箇所が無かったため、問題なく辿り着くことができた。
 
 サビを弾き終わると、アオイの黄色い声が頭の中を染めていく。
「わぁ〜!スゴイ!スゴイよ!テツヤ、カッコいい!」
 言われ慣れない言葉をかけられて、胸の奥がむず痒くなった。
「ま、まぁ…それなりに弾いてるから…」
 
 すると、謙遜する僕を褒め称えるアオイが、予想外の提案をしてきた。
「いや、本当スゴイよ。私、楽器なんて無理だから。カスタネットが限界です!でもさ、せっかく歌詞があるんだから歌おうよ!やっぱ、歌がないと何か寂しいじゃん!」
 聞き間違えだと思い込みたい僕は、アオイに確認をとる。
「えっ⁉︎それ、俺に歌えって言ってんの?」
「えっ?駄目なの?」
 何が問題なのか分からない様子のアオイに、僕は全力で拒否をする。
「いやいや、人前で歌うなんて…いや、マジで無理…」
「えぇ〜……じゃあ、しょうがないなぁ。テツヤが曲弾いてくれるなら…せっかくだし、私が歌う!」
 思いの外、あっさり引いてくれたかと思ったが、アオイ自身が歌うと言うとは思わず目を丸くした。
 
「えっ⁉︎マジ⁉︎」
 僕の反応に対して、アオイは笑いながら答えた。
「マジ、マジ!これでもね、歌うのは好きなんだぁ。友達とも学校帰りによくカラオケ行ってたし…」
 声を張るアオイに僕は、期待の声をかける。
「だったら尚更お願いします。アオイの歌、聴くの楽しみだな」
「ふっふ〜ん。聴き惚れて曲、止めないでよね」
 アオイが自信ありげに鼻を鳴らして答える。
「それはないから安心しろ」
 
 舞台に上がる前のような、緊張感と高揚が胸の中で混じり始めた。
「フフッ、何か楽しくなってきたぁ!初めての二人の共同作業だね!」
 アオイも同じ気持ちなのか、茶々を入れるその声からは若干の緊張が感じられた。
「変な言い方するなよ。じゃあ…準備はいいか?アオイ?」
「おう、いつでも来い!」
 
 
 観客のセミ達が熱い声援を僕らに送っている。
 
 僕らは舞台に立ち、その声援に包まれながら大きく息を吸った。
 
 朝凪の空の下、初めて僕とアオイの音が重なる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「夏初月」

作詞 yukko
作曲 クラタユウスケ
編曲 raiqula


 〜〜♪〜〜♪

 乾いた風景 つぎはぎだらけの風
 何度も同じ君を見ている
 いつまで見ればいいのだろう
 ねぇ、戻り方を忘れてしまったんだ
 
 (ざわ)めく夏虫 たどり着けない春茜
 叶いもしない祈りをのせて
 どこまで行けばいいのだろう
 ねぇ、進み方を忘れてしまったんだ
 
 自分の価値なんて自分じゃ決められないから
 
 ほら、ほら、この手ですくっても
 僕の景色は変わらぬまま
 東ゆく声をその(きらめ)きに乗せて
 このぬくもりを冷ますように
 時が昨日と見紛(みまが)うように
 
 壊れた人形 泳ぎ疲れたアルタイル
 それでもいいと願ったんだ
 どこまで泣けばいいのだろう
 ねぇ、止め方を忘れてしまったんだ
 
 無くして気付くものが多すぎるから
 
 ほら、ほら、この手ですくっても
 僕の歩みは変わらぬまま
 西ゆく声をその嘆きに乗せて
 夜宵(やよい)(ついば)む青のように
 君をだだ、ただ
 
 嗚呼、嗚呼、そんなことは分かってたさ
 花舞う明日(あす)の裏側
 白紙の数字に色をつけろ、挑め、進め
 (にじ)んだ声は僕らを乗せて、(はかな)く、遠く、届く
 
 ほら、ほら、この手ですくっても
 僕の景色は変わらぬまま
 ささめく声を夜露に流して
 揺らめく手で君を描け
 
 ほら、ほら
 あの青い月のように


 〜〜♪〜〜♪
 


アオイの澄んだ歌声が、鼓膜に張り付いている。
 音の残渣(ざんさ)が、部屋の壁に吸い込まれていった。
 
「わ~!!最っ高~!!気持ちいい!」
 興奮冷め止まぬ中、頭に残った音はアオイの感極まる声へと変わっていった。
 音に酔っていた僕は、肩で息をしながらアオイに声をかけた。
「アオイ、歌めっちゃ上手いな!ちょっと聞き惚れたわ」
 
 歌声を褒められて上機嫌になったアオイが、僕に賛辞を送ってきた。
「へへへ、でしょ~?私ってば、結構できる子なんです!あっ…でもでも、テツヤもピアノすっごい上手だったよ!本物の曲、聞いてるみたいだった!」
「ありがとう。やっぱ、こうやって誰かと音楽やるのって楽しいな」
 自分と誰かの音が重なる気持ちよさを改めて知った僕らは、音楽の楽しさを再認識した。
「だよね!カラオケで歌うのとは全然違った」
 
 僕は、ライクラ好きのアオイに伝えなければならないことがあった事をすっかり忘れていた。
「そういえば、ライクラ…ちょっと前に新曲出したんだけど聴くか?」
「えっ⁉マジ⁉いつ出したの?」
 驚きの声を上げるアオイが、身を乗り出した様子で聞いてきた。
 
「7月26日」
「じゃあ、知らない!聴く、聴く!」
 椅子から立ち上がり、机に置いてあるiPodを手に取った。
「でも、今CDは別のヤツに貸してるからiPodの中のヤツでいいか?」
「大丈夫〜全然いいよ」
 僕はスピーカーとiPodを接続して、曲を再生した。
 心地よい音の粒が、閑寂(かんじゃく)の部屋に弾けて割れる。
 曲を聴き終わった僕らは、その後も時が経つのを忘れて、互いの好きな曲について語り合った。
 
 話がひと段落すると、お腹が空いてきたのでリビングからポテトチップスを持って階段を上った。
 迷った挙句、ポテトチップを選んだアオイが口を開いた。
「ねぇ、テツヤはのりしお派なの?」
「まぁ、コンソメ派ではないな。もしかして、のりしお嫌いだったか?」
 
「ううん。のりしおってあんま食べる機会無いんだよねぇ。ほら、海苔が歯にくっ付くから女の子はあんま食べないんだよ」
 アオイの言葉は、自分には全く持ち合わせていない感覚だった。
 しかし、女子という生き物が色々と気を使わないといけないモノだということは、ここ数日で学んでいたので、そういうものだと理解した。
 
 部屋に戻ると、優しい冷気が迎えてくれた。
「へぇ〜女子って、ホント大変だな」
「そうなの。面倒な事が多いけど、でも今は幽霊だし、海苔が歯に付いたって関係ないもんねぇ」
 ため息をつきながら話すアオイの声には、少し楽しそうな声色が混ざっている。
 
 僕は勉強する気分にならなかったので、鞄からPSPを取り出して起動させた。
「ねぇ、テツヤ。今日は勉強しないの?」
「あぁ…なんか勉強する気分じゃないからな」
 袋を開封して、ポテトチップスを口に入れると、香ばしさと淡い磯の風味が口に広がった。
 
「ん〜!!数年ぶりに食べたけど、のりしおって美味しい!ってか私、ゲームやったことないんだけど…これ、どういうゲームなの?」
 ゲーム初心者のアオイに分かりやすいように噛み砕いて説明をする。
「あぁ、恐竜みたいなモンスターを倒して強い装備とか作るんだよ」
「ふぅん」
「まぁ、一人じゃ倒せないような強いヤツもいるから、そういうのは友達と一緒に倒したりするんだけど…」
「へぇ〜…友達と一緒にできるのは楽しそうだね。人がゲームやってるの初めて見るから何か、ワクワクする〜」
 画面にタイトルが出てきて、僕らは冒険の旅へ出発した。
 
 初めは黙って見ていたアオイだったが、しばらくするとゲームの世界にのめり込み、僕に色々と話しかけてきた。
「あっ!テツヤ!そこに罠はったら、足止めできるんじゃない?」
「たしかに、頭いいな。アオイ」
 そんな事を言いながら、アオイとゲームをしていると下から名前を呼ばれた。
「哲也~!!ちょっと、片栗粉買ってきてくれなぁい?」
 日が傾きかけている時刻といえ、外に出るのはすこぶる気が乗らない。
 
 しかし、年上のお姉さんは違ったようで、子供のようにはしゃぎだした。
「えっ⁉外出れるの?やった~!!テツヤ、行くよね!おつかい!」
「え〜…暑いし、めんどい…」
 穴に引きこもろうとする僕をアオイが外へ引っ張り出す。
「え〜!私、外出たい!それに、片栗粉買ってこないと夕飯食べられないよ!」
「まぁ〜…そうだけど…」
 僕のどっちつかずの反応に業を煮やしたアオイが、声を張った。
「はい!もう、外も日が沈んできてるし大丈夫だって!」
「分かったよ〜、行けばいいんだろ、行けば…」
 背中を押された僕は、快適な部屋から出て生温い階段を降りる。
 
 オレンジ色のリビングには、まな板と包丁がリズミカルに心地よい音色を響かせていた。
 扉を開けると、こちらに気づいた母さんが話しかけてきた。
「悪いんだけど、片栗粉買ってきてくれる?お母さん…今、手離せないから」
 忙しなく夕食の準備をする母さんはすぐに目線をまな板へ戻した。
「あぁ…分かった」
「テーブルにお金置いてるから、お釣りはお駄賃でいいから」
 テーブルに置かれた鈍く光るお金を手に取り、取手を握る。
「19時までには帰ってきてよね!」
 背中から念を押す声に、僕は軽く返事をする。
「はいよ〜」
 
 生暖かいサンダルを履いて玄関の扉を開く。
 働き者の太陽の置き土産が、額から汗を呼び寄せる。
「あっつ〜。マジで暑過ぎるわ」
「そうなの?私は分かんないけど…」
「アオイは良いよなぁ〜外の暑さとかは感じないって…ズルくない?変わってくれ…」
 そんなぼやきを吹き飛ばすように熱波が顔に直撃する。
 
 夕飯の為に重い足を動かす僕に、アオイは自分の体質の自慢を始めた。
「フフフン♪良いでしょ?でも、風は感じるよ。熱風だってアオイ様の前では、ただの風なのだよ!」
「へぇ…アオイ様はスゴイなぁ」
 適当な合いの手を入れて、自転車のサドルに跨がり地面を蹴った。
 
 家の前の砂利道に出ると、身体が大きく上下した。
「よっし!じゃあ、私はせっかくだし…後ろに乗ろうっと!」
「おい!二人乗りしたら怒られるだろ!」
 初めての外出にはしゃぐアオイを僕は落ち着かせようと奮闘する。
 
「大丈夫だよ〜。どうせ私の事、みんな見えないんだし!」
 そう言ってアオイが大きく息を吸う音が聞こえた。
「ん~!草の匂いがする~。はぁ…気持ちいい。生きてるって感じ…」
 吹き荒ぶ黄昏色の風は、後ろに立つ彼女の髪を舞い上がらせていることだろう。
 
 昼間の熱を残こした風が、稲穂を優しくたなびかせている。
 虫達が小休止したこの世界には、僕とアオイの声しか聞こえない。
 天色(あまいろ)の空に向かい走る僕らは、どこまでも続く畦道を進む。
 
 うろこ雲から顔を見せる斜陽は、僕らの不慣れな旅路を淡く包み込むように照らしていた。
 
 
 

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