郷里の苫小牧での百合香の葬儀が済んだ帰途、新千歳からの飛行機で大介は、だりあと悠介と同じ最終便になった。

 空いている便でもあったので、客室乗務員に頼んで悠介が席を変えてもらうと、

「饗庭さん…さぞ力を落としているだろうけど、まだ君は若い」

 悠介は静かに言った。

「斎藤社長も、大事な社員さんがいなくなって大変やないかなと」

「佐藤くんは総務部でも有能だったからね…悔しいが事故では、どうしようもない」

 だりあは窓側の席で月夜と雲の波を見ながら、耳を立てている。

「だりあから聞いたけど、交際してたそうだね」

「…はい」

「佐藤くん、君のことを『饗庭大介は世界に通用する芸術家です』って、話していたらしい」

 総務部長から悠介は聞いたらしかった。

「それだけに佐藤くんのことは悔やまれるが、君にはもしかしたら、ふさわしい人がまたあらわれるかも知れないから、無理はしないでくれ」

 また記念品を頼む、と悠介は大介と握手を交わした。


 生麦ベースへ戻った翌日、みのりが学校帰りに訪ねて来た。

「…百合香さん、何で帰っちゃったんですかね?」

 それは大介も同じ思いであったかも分からない。

 あの夜もう少し強く引き留めていたなら、もう少し強引でも泊めていたなら──悔やんでも悔やんでも悔やみ切れず、みずからを責めるしか大介には手がなかったのかも知れない。

 だが、それに気づいたのはみのりで、

「うちのパパ、バイク事故で亡くなってるんですけど、やっぱりママが同じように悩んで、だけど生まれたばかりの私がいて、ママが働いてたときの仲間とかがいて」

 みのりはみずからの境遇を語り始めた。

 みのりの父親は業界で少しは知られていた作家で、女子アナの妻を娶って生まれたのが兵藤みのりである。

「それでママはシングルマザーだったけど、私をここまで育ててくれて」

 みのりを大介に紹介したのも、みのりの父親の知り合いであった、鎌倉の雑貨のウェブショップを運営する女性社長であった。

「私もひとりっ子だったから、百合香さんにいろいろ良くしてもらって、お姉さんが出来たみたいで嬉しかったんです」

 その百合香は、もういない。

「だけど私たちは生きてる。生きてる限りは、私たちは前を向かなきゃなんないし、いつか亡くなる日のために、力いっぱい生きなきゃなんないんだって、私なんかは思うんですけどね…」

 思ったより、みのりはしっかりした気質であるらしかった。

 みのりが帰ったあとの深夜、大介は珍しく夜中にカスタムカブを転がして生麦ベースを出た。

 東海道をひたすら西へ、西へとスロットルを開く。

 ただ無心で、何か一つのことを振り切って集中したかったのかも知れない。

 小田原で給油し箱根を越え、沼津の辺りで給油し、静岡を抜け初日は掛川で素泊まりし、二日目は浜松で途中に給油したあと、名古屋でカプセルホテルへ。

 三日目は、鈴鹿峠を越えて信楽へ。

 専門学校の実習で来て以来の信楽は、大介が来た当時とは少し変わっていた。

 信楽で給油したあと北へ進路を変え、近江八幡での給油を経て彦根へ着く頃には、夕暮れの琵琶湖の水面(みなも)が七色にきらめいて、茜色から紫を帯び、群青の夜が濃紺、さらに闇へ変わる空を、何の感懐もなく、子供の頃よく遊んでいた松原の水泳場から眺めていた。


 彦根の実家に寄らなかった大介は、京都のカプセルホテルに泊まった。

 横浜ナンバーのあざやかなブルーのカスタムカブなので、同じカスタムカブで旅をする、名前の分からないライダーから、

「横浜からですか」

 と声をかけてもらったりもした。

 一台、札幌ナンバーのカスタムカブもいた。

「彼女に振られたんで、人生リセットするつもりで、小樽からフェリーに乗って敦賀から来た」

 という大学生で、その日はその大学生と痛飲して、

「自分はこれから西へ行きます」

「うちは横浜へ帰るけど、まぁまた会えたら会おうや」

 ひさびさに穏やかな笑顔を取り戻せたような気がした大介は、笑って大学生と別れた。


 横浜の生麦ベースへ戻った翌日、だりあがリムジンであらわれた。

「連絡もなしに…どこにいたの!」

 ツーリング中、スマートフォンの電源を切っていたので、相当だりあは心配をしていたらしい。

「一週間ほど関西に戻ってた」

 間違いのないことを大介は言った。

「…もしかして、傷心旅行?」

「えらい簡単な言葉で片付けよるなぁ」

 だりあは思ったままのことを言う点では、百合香と変わらないのだが、なぜか百合香にはない棘がある。

「…パパがね、私にお見合いをしろって」

「あっ…そうなんや」

 大介はそれは初耳である。

「悪い人ではなさそうなんだけど…」

 写真を見せてもらうと、なるほど優しそうな丸顔の男性が写っている。


 大介は写真をだりあに返すと、

「なるほどね…まぁでも気に入らんかったら断わる勇気も大切やと思うけどな」

「…私、お見合いなんかしたくない」

「なんで?」

「…それは、別に好きな人がいるの」

 だりあは口が滑った。

 しかし、名前は出さない。

「誰か好きな人がいるって、斎藤社長に話してみたらえぇのとちゃう?」

 でないと後から悔やむで、と大介は言った。

「私の好きな人は、今…ちょっと気持ちを受け入れてもらえる状態じゃないから」

「…それは、打つ手がないなぁ」

 大介はかなり深刻に眉間にしわを寄せた。


 ねぇ大介、と初めてだりあは呼び付けにしてから、

「大介だったら、どうする?」

「そらさっき言うた通り、好きな人が別にいるからって断わる」

 百合香がいたら、とだりあは溜息をついた。

「だりあちゃん、そういえば百合香とは親友やったもんな…」

 でも、と大介は、

「仮に百合香が聞かれたら、同じ答えが返ってくるんとちゃうかな」

 あれで百合香ははっきり言うところあったし、と大介は土産のマドレーヌを出した。

「…まだ百合香のこと、好きなんだ?」

「てか、男は死ぬまで昔の女を、忘れへんもんやと思うけどな」

 大介は抹茶を点てる。

 少なくともうちが生きてるうちは──と前置きした上で、

「うちが生きてる限り、ずっと百合香はうちの中で生きとるから、まぁ誰か違う人があらわれたら変容はあるかも分からんけど、百合香を忘れるってのは、うちがボケたりせん限りないやろなぁ」

 だりあは降参したような顔で、

「…お見合い、断わることにする」

「それでこそ、いつものだりあちゃんやがな」

 大介にほめられたのが嬉しかったのか、

「今度さ、パパと三人で食事しに行こ」

 初めてだりあは大介にアプローチをしてみたのである。


 週末の金曜日、スーツ姿の大介は鶴見から根岸線で有楽町まで出ると、待ち合わせのだりあを目で探した。

「…大介お待たせ!」

 振り向くと、だりあはクリーム色のワンピースに白のカーディガンを羽織った、典型的なお嬢さまスタイルであらわれた。

「大介ってスーツ似合うよね」

 こんな無邪気なだりあを見たのは、久しぶりではなかろうかというぐらいであろう。

「…ね、手つないでいい?」

「えぇよ」

 だりあは左利きの大介に気を遣って、右側へ回ると右手をつないだ。

「銀座なんか何年ぶりやろか」

 普段、大介は外食はほとんど横浜で、たまに百合香と食事をするときも、まれに恵比寿ぐらいしか行かなかった。

 ワークショップの帰りに、みのりと食事をするときでさえ、渋谷のファストフードである。


 有楽町でだりあがタクシーを拾うとホテルの名を告げてから、

「待ち合わせだから、ちょっと急いでね」

 だりあは慣れている様子である。

 なるほど自分とは住む世界が違う、と大介はあらためて思い知ったようで、

(前に百合香が似たようなこと言ってたっけ)

 と、はるかな以前百合香が大介を諦めようとしていたとき「私なんかが軽々しくアプローチしちゃいけないんだ」と言っていたことを、ふと思い出していた。

 タクシーはすぐホテルに着いた。

「ワンメーターでもタクシーを使ってあげないと、運転手さんにも生活があるんだよって、パパがよく話しててさ」

 大介は静かにうなずいた。