- 僕に出来ることは -


 それから僕は、何日も学校を休んだ。部屋に篭ることもあったし、親に余計な気を使ってもらいたくない時は、制服を着て学校に行くフリをして、公園や図書館などで一日を過ごした。
 友人から、心配してくれている旨のメールが何通か来たが、どれも返事を出していなかった。
 ハルと交わした会話を、彼女の放つ一つ一つの言葉を。彼女の柔らかな仕草を、表情を。ハルの全てを、何度も思い出して、反芻していた。
 晩春の陽に輝く笑顔。初夏の緑の風の中口ずさんだ万葉のことば、桜に込めた想い。真夏の夜の消え入りそうな声。黄金の夕焼けに揺れる寂しげな表情。
 秋の日に聞いた、キンセンカについても調べた。金盞花。キク科の植物。別名はカレンデュラ。秋に種を撒き、翌春に花を楽しむ。花言葉は、別れの悲しみ。静かな思い。忍ぶ恋。変わらぬ愛。
 彼女は、何を思って、この言葉を、あの話を、僕に伝えたのか。どんな気持ちだったのか。それを思うだけで、心はいつでも張り裂けそうになり、涙は何度でも溢れた。

 その頃、空を飛ぶ夢を、よく見た。
 両手を広げて、軽く地面を蹴ると、ふわりと宙に浮いた。
 空を飛んで、ハルに会いに行く夢だった。蜘蛛の巣のような電線が邪魔をしてうまく飛べず、ハルに会えない時もあったし、すんなり会える時もあった。ハルを見つけ、彼女の前に降り立っても、僕は何も言えずに目が覚めた。ハルはいつも寂しそうな顔をしていた。目覚めてから、布団でしばらくさめざめと泣いた。
 あの時、あの時、あの時。いつでも、何度でもチャンスはあったはずだった。ハルに想いを伝え、ハルの想いを受け止めること。何もしなかった自分が、変化を恐れてただ安穏と過ごしていた自分が、どうしようもなく憎く、もし、自分が動いていれば、もしかしたら、万が一でも、ハルの運命が変わっていたかもしれないと思うと、とても自分が許せなかった。

 欠席が続いたので、学校から家に連絡が行き、親と共に教師に呼び出されたこともあった。が、担任は事情を知っていたのか、僕を詰責することはせず、優しく扱ってくれた。もしかしたら、あの保健委員の子が話したのだろうか。
 両親も、僕の突然の変化に戸惑ってはいたようだが、問い詰めたり、叱るようなことはしなかった。これは、とても助かった。できるなら今は、世界に放っておいて欲しかった。

 誰かを癒し、元気づける絵を描く。
 大好きな桜の絵の個展を開く。
 自分が世界に生きていたという証明を残す。

 彼女がえがいた夢は、絵に込めた願いは、叶うことはなかった。
 僕に出来ることは、彼女を忘れないことだった。
 僕が生きる事が、彼女の生きた証となること、それだけを願った。

   * * *

  胸が痛い。
  息が苦しい。
  悲しくて、前に進めない。
  ここは、涙で出来た海。悲しみの海。

 ノートに付けたペン先を止め、心を過去に引き戻す。
 あれから、なんとか高校を卒業し、大学受験にも成功した。
 ハルのいなくなった日々は灰色の世界で、鋭く尖った鉄屑の中を歩き続けるようだった。一日一日を生きる度に、心が血を流していた。思い返せば、たった三つの季節を共に過ごしただけなのに、ハルが僕に与えた影響は、計り知れない。
 これは、後で知ったことだが、高校卒業に必要な出席日数が僅かに足りなかったようだが、担任の先生が校長と懸け合い、何とかしてくれたらしい。先生は、特に恩着せがましいことを言うこともなく、僕を送り出してくれた。有難いことだ。
 高校の卒業式を終えた後、何年かぶりに美術室の扉をくぐった。顧問にお願いして、ハルが描いた全ての絵と、僕が描いていたハルの絵を、引き渡してもらった。ハルがいなくなってから美術部へは一度も顔を出さなかったし、在籍していた頃もあんなに放任だった顧問の先生さえ、僕を気遣ってくれた。僕とハルの関係が、学校中に知れ渡ってでもいるのかと、思える程だった。
 ハルの絵を入れた袋を抱えて校舎を出ると、咲き始めの桜の花に迎えられた。
 ハルに会えなくなってから、それはもう三回目の桜だった。彼女のいない世界で、生命力に満ち溢れ、季節が巡る度に力いっぱい咲き誇る桜を、忌々しく感じることもあった。
 モネの丘に佇む桜も、花を付け始めているだろう。ハルの隣で、見たかった。あの丘には、ハルがいなくなってから、一度も訪れていない。
 クラスメイト達が、笑いながら校舎を離れていくのを見ていたら、ハルと僕だけが、まるで世界に置いていかれているような、そんな錯覚を覚えた。

 一人暮らしをしたかったので、大学は、他県の私立大学にした。
 僕を知らない人々の中では、なるべく明るく振舞い友人も数人できたが、アパートの部屋に帰ると、ハルの桜の絵に囲まれて、一人静かに涙を零していた。
 秋の黄金色の景色の中で、ハルと向き合い彼女を描いた絵が中断されてから、僕は、絵を描くことを、やめていた。

   *

 波音が強くなった気がした。
 北風が勢いを増したのか、身を切り裂くように寒い。
 この海は、ハルの命を奪った交通事故現場の近くだった。
 大学に入って二か月程経った頃にふと思い立ち、その頃始めたばかりのインターネットや、図書館で過去の新聞を漁り、ハルの事故の詳細を知った。ハルを乗せた車は普通の乗用車で、海沿いの国道、見通しの悪いカーブ地点で、車線を乗り出してカーブしてきた軽トラックと衝突したようだ。トラックの運転手に激しい憎悪をぶつけたかったが、相手側も死んだというのだから仕方ない。図書館の裏にある木を思い切り殴るだけで済ませた。殴った手は血だらけになったが。
 帰宅後、その海への最寄り駅と乗換方法を調べ、翌日の朝、早速向かった。現場と思われるカーブ地点を見つけたが、当然だが何の痕跡も残っておらず、ハルの気配を感じ取ることも出来なかった。ただ、この場所で、ハルが苦しんで死んだと思うと気が気ではなく、彼女を救えなかった愚かな自分を呪った。
 気持ちが落ち着くと、近くにあった浜辺へ下りる階段に座り、夕日が海に沈むまでそこで、ハルといた日々を思い返して過ごした。

 それから毎週、僕はこの海辺に来ている。
 世界も、僕を取り囲む環境も、僕自身の身体も、流れ続ける時の奔流に押され、前に歩き続けているというのに、僕の心のベクトルだけは、いつでも過去になびいていた。いつでも、ハルに向かっていた。

  置いてきてしまったのか
  置いていかれてしまったのか
  足元で繰り返す波音に
  果てなく遠い
  記憶を想う

    私の歴史に息づく人よ
    セピア色にほほえむ人よ
    今もあなたの優しい肩には
    白く哀しく故郷の桜が
    幸福のように舞っていますか

  空では星が 涙を零し
  人の願いを儚く誘う
  指の間から滑り落ちるのは
  愛しい刻を忘れたくなくて
  かき集めた思い出か

  波音が 蘇らせるためいきは
  果てなく遠い
  あなたを想う

「へえー、歌詞でも書いてるの?」

 突然、頭上で人の声がした。
 心は死んでいるようでも、正常な驚愕はできるようだ。

「うわぁ!」

 僕は全身で驚き、立ち上がり際にバランスを崩し、石の階段を踏み外して砂浜に尻もちをついた。
 声の主を見上げて、さらに全身が総毛立つ。雷に打たれたようだ。青天の霹靂とはこういう事を言うんだろう。最も、今日の天気は世界の終りのような曇り空なんだが。

 そこには、ハルが立っていた。