- 私を描いてよ -


 夏休みも終盤。宿題は全て終え、後は残された自由を享受するだけ。僕は、友人の買い物に付き合い、繁華街に来ていた。
 僕は特に買いたいものは無かったのだが、友人が入った雑貨屋で偶然見かけたあるものから、目を離せないでいた。

「正直さ、お前、鈴村さんのことどう思ってんの?」

 友人が商品を見定めながら、急にハルの名前を出した。飛び上がりそうなほど驚いたが、何とか平静を装った。

「……何の話?」

「とぼけるなよー。お前部活時間はいっつも鈴村さんといるじゃんか。俺の見立てでは、まだ付き合ってないみたいだけど、お前あの子のこと好きなの?」

 何でそんなこと平然と聞くんだ。「好きだ」なんて恥ずかしくて言えるか。

「……そういうお前はどうなんだよ。誰かいるのか?」
「お、はぐらかすってことは怪しいねぇ。おじさん妄想膨らませちゃうよ」
「やめろ気持ち悪い。お前だってはぐらかしてるじゃないか」
「俺かぁ? ふっふっふ、よくぞ聞いた。実はな、夏休みに彼女が出来たのだ」
「なっ……」

 一瞬時間が止まった。こいつに彼女だって? いつの間に……

「夏ってのは人をアグレッシブにするもんだぜ。それで、もうすぐ彼女の誕生日だから、今日はそのプレゼント探しに来たってわけ。お前も、関係を進展させたいなら、プレゼントでも贈ってみろよ。さっきからずっと見てるそれ、気になってるんだろ?」

 迂闊……気付いていたのか。

「ははっ、微笑ましいねぇ。……あの子、桜好きだもんな」
「なんだよ、全部知ってるんじゃないか……」

 僕が見ていたのは、控えめだけど上品な桜の花のモチーフが付いたヘアピンだった。ハルが付けたら抜群に似合いそうだと思っていた。プレゼントか……。ハル、喜んでくれるかな。高いものではないから、あげたとしても重荷にはならないだろう。……こういう弱気さが僕のダメな所なんだろうか。
 女の店員さんがやけにニヤニヤしているのが気になったけど、勇気を出して購入した。夏は人をアグレッシブにする……本当かもしれない。

 店を出て、友人の惚気話を聞き流しながら、夏休みが終わったら部活の時間ででも渡そうかなどと考えていると、友人に腕を小突かれた。

「おいおい、これは偶然じゃねぇな。鈴村さんがいるぞ」
「えっ」

 指をさす方を見ると、確かにハルがいた。彼女も買い物に来ていたんだろうか、クラスメイトの女の子と一緒に、こちら側に歩いて来る。

「今渡しちゃえよ。ほらっ、行け!」

 背中を押しやがる。まだ心の準備がっ

「ちょっと待て、おいっ」
「お前の未来はおじさんが保証するって。いいから、行くんだよ!」

 どん、と一際力を込めて押された。バランスを崩して、四、五歩前に進み出て、ハルの前に来てしまった。まだ何も、言葉を考えていない。

「ア、アキっ?」
「よ、よう、奇遇だな」

 ハルは驚いた表情をしている。隣にいたクラスメイトの子は僕の顔を見るとなぜか嬉しそうに笑ってこちらに駆け寄り、振り向いてハルに声をかけた。

「じゃ、私先に行ってるね。喫茶店にでも入ってるから、ゆっくりでいいからね」
「えっ、ちょっと待って――」

 そのまま彼女は走り去って行ってしまった。

「あー、……なんかごめんな。買い物の邪魔しちゃったかな」
「ううん。そんなことないよ。アキも、お買い物?」
「まあ、そんなところ……」

 心臓の鼓動がおかしいくらいに高鳴っていた。夏よ、僕に力を。

「それでさ、偶然見つけたんだけど、これ、ハルに似合うかと思って……あげるよ」

 小さな紙の袋に入った、大事なプレゼントを手渡した。

「え、……いいの? なにこれ?」
「季節外れかもしれないな。安物だし、気に入らなかったら、捨てちゃっていいからな。じゃあ、また学校で」

 早口でそう言うと、走ってその場を去った。遠くで笑ってる友人を見つけると、全力で走り寄って飛び蹴りした。

「痛ってぇ。何すんだよ!」
「お前こそ何すんだよ。僕は僕のタイミングで渡そうと思ってたのに」
「結果的に渡せたんだからいいじゃねぇか。それにしてもお前ヘタレだなー」
「うるさい。お前が勝手なことするからだろ」
「そういう割には嬉しそうな顔してるじゃないか」

 顔が燃えるように赤くなっていて、無意識に口元がにやけているのに気付いた。友人が「うひゃひゃひゃ」と下品に笑った。今度は軽めに足を蹴った。まあ、嬉しいし、お前に感謝もしてるよ。

 夏休みが終わって始業式の日、ハルは僕があげたピンをしてくれていた。嬉しくて、教室の右前の方に座るハルを遠くから眺めていたら、ふとこちらを向いたハルと目が合った。ハルはヘアピンを指さして、にっこりと微笑んだ。
 僕は、もうだめだ。もう、君から逃げられない。

   *

 夏が夕焼けと共に、赤と青と紫の間の、果てなく遠い空の階段を上って行った。夏は嫌いだけど、夏の終わりはなんだか切なくて心地いい。そして、遠い北の地から涼しい風に乗って、秋がやって来た。僕の生まれた季節だ。
 今までは、荒涼とした冬に向かう、物寂しい季節としか思っていなかった。でも、ハルと出会い、彼女にアキと呼ばれ、秋という季節の魅力を聞かされているうちに、自分が秋に生まれたことを誇りに思うようにさえなっていた。今では、一番好きな季節だ。もちろん、二番目は春だ。

「涼しさ」「もみじ」
「夕焼け」「落ち葉」
「並木道」「虫の声」
「すすき」「金木犀」

 ハルとモネの丘にイスを並べ、秋の景色を描きながら、秋の良い所を順番に挙げていった。

「ドングリ」
「松ぼっくり」
「コスモス」
「あ、それ言いたかったなあ」

 こんな時間が、幸福で仕方ない。穏やかで心地よくて、僕はまだ、想いを打ち明けられずにいた。

「うーん……、ジャケット」
「あ、分かる。夏には出来ないお洒落が出来るもんね」
「いい加減思いつかなくなってきたな。次ハルの番だよ」
「うーん……」

 彼女は真剣に悩み、やがてポツリと答えた。

「……キンセンカ」
「何それ。秋の花か何か?」
「ううん。春だったかな」
「じゃあハルの負けね」
「えー、これ勝負だったの?」

 キンセンカ。春に咲くというその花がどんな花なのか、後で調べてみようと思った。
 ハルは絵を描く手を止め、少し視線を落とした。やがて、身を乗り出して僕の描く絵を覗き込んだ。

「この景色、ちょっと構成が寂しくない? 中心部分に主役がないというか」
「え、そう?」

 ハルが僕の絵に意見を言うのは初めてだ。少し驚いた。
 彼女は立ち上がり、ゆっくりと歩いて、秋の空と、僕のカンバスの間に立った。丘に一本だけ立つ桜の木に片手を軽く触れ、こちらには背中を向けている。そのまま、暫く静かな時間が流れた。
 僕は、色付き始めた遠くの山と、澄んだ空気を湛える空と、ハルに、見とれていた。彼女が触れる桜は枯れていたが、その時だけは僕の目には、薄桃色の花々が、彼女の呼吸に合わせて揺れているようにも見えた。
 美しい風景。自由な時間。平和な世界。全てが満ち足りているのに、胸の辺りが微かに苦しい。心臓を優しく掴まれているようだ。
 もう少し。もう少し、手を伸ばしても、いいですか。君の心に、触れるくらいに。
 神々しさすら感じる景色と、日々募り溢れる想いに、思わず涙が零れそうになった時、ようやくハルは振り向いた。フワリと膨らむスカートに、桜の花びらが舞った気がした。以前にも、こんな光景を僕は見た気がする。

「ね、私を描いてよ」

 何となく、予想と期待はしていた提案だった。それでも、入部当初より多少腕は上がったとはいえ、目に映るこの奇跡のような風景を、僕の手で描けるとは到底思えなかった。

「え……。でも、僕、人物画苦手なんだって」
「絵は腕じゃなくて心だって前に言ったじゃん。いいから、お願い」

 ハルは微笑んではいたが、その声はどことなく真剣さが感じられた。

「……わかった。やってみるよ」
「うん」

 絵は腕じゃなくて心か。ハルは、どういう意図でこの言葉を僕に伝えたんだろう。目の前の輝く風景、そこに佇む彼女に向かう心なら、僕は溢れるほどに持ち合わせている。
 筆を持って、彼女を見つめた。自然に目が合う。こんなに真剣に、彼女と向き合うのは初めてだ。恥ずかしさに耳まで赤くなりそうだった。ハルは気付いていただろうか。
 短く深呼吸をして、描きかけの風景画の上に、ハルの色を重ねた。

   *