- 電車 -
彼の姿が見えなくなりそうになったその時、私の背中に何かが当たった。それと同時に、世界が後ろに流れる。
「わっ!」
下を見ると、足を動かしていないのに、道路が私の後ろの方に滑って行く。――違う、背中の何かに押されて、私が前に進んでいるんだ。
「な、なにこれ!」
背中を押す何かを確かめようと後ろに手を伸ばそうとしたら、肘が先に当たった。大きい。次に手が当たった。ひんやりして、さらさらしている。
「壁だ!」
振り向いても、何も見えない。でも確かに壁がある。私を閉じ込め続けていた、あの透明な壁。
「何で? どうなってるの?」
壁はどんどん私を押していく。スーパーのある道の方へ。私の靴は何の抵抗もなく滑って行く。
もうすぐ、スーパー側の壁の所だ。このまま行くとどうなってしまうのか。壁に挟まれて潰されてしまうのだろうか。イヤだ、そんなの、イヤだ!
「誰かっ――きなこ、助けて! やだ、いやあああ!」
目を閉じて両腕で顔を覆った。恐怖で心臓がバクバクしている。
そろそろかと思ったけれど、何ともない。
背中の壁の感触はまだある。心臓はまだドキドキしている。恐る恐る目を開けてみたら、スーパー側の壁際の見なれた景色が、私の後ろに見えた。
「……あれ?」
振り返ると、いつものカーブやガードレールが少し遠くに見える。今まで見たことない距離だ。
前を向くと、いつもよりスーパーが近くに見える。こっちの透明な壁、なくなったんだろうか。私、外に出られたのかな。
前の方に、さっきの男の人の後姿が見えた。背中の壁に気付いた時から距離が変わってないように感じる。あれ、これって、もしかして……
近くにきなこがいないか探してみた。声を出して呼んでもみた。
「きなこ! きなこ! いないの?」
何の反応もない。きなこの意見を聞きたいのに。
今も背中の壁は私を押し続けている。遠くの彼と一定の距離を保って。
これって、もしかして、壁の中心点が変わった?
スーパーが隣に見えてきた。ちょっと古い感じのする、寂しいお店だ。照明も心なしか暗い気がする。
とにかく、このまま押され続けていてもしょうがない。私も進んでみようか。
見えない壁があるかもしれないので、手を前に出して歩き出す。背中に当たっていた壁が離れたのが分かる。
そのまましばらく歩いてみたけれど、前に付き出した手が見えない壁に当たることはなかった。
「うん、たぶん大丈夫」
そういうことにして、手をおろした。きっと、私の壁の中心点は、どうしてか分からないけど、まだ随分前を歩く彼になってしまったんだろう。
きなこの言葉を思い出すと、地バクレイは、その場所に未練や執着がある、もしくは、その場所が魂を縛っている、だったか。それに当てはめて考えると、私が、彼に未練や執着がある、もしくは、彼が――私の魂を、縛っている。
彼はやっぱり、私にとってとても大事な人なのだろう。私を、地バクレイから人バクレイに変えてしまうほどの、大きな存在。誰なんだろう。お父さんっていう年齢には見えないし、お兄ちゃんかな、友達かな、それとも、恋人、なのかな。さっき壁に押された時とは違う、あったかいドキドキが胸に満ちてきた。
ちょっと小走りになって、彼との距離を縮め、彼の横に並んでみた。頬の辺りが熱くなってくるのを感じる。少し緊張しながら、左を歩く彼の顔を覗いてみた。
――彼は眉を寄せて、赤い目をして、世界の終わりみたいに悲しい顔をしていた。
心臓を強く掴まれたみたいに、胸の辺りが苦しくなる。足が止まってしまう。
彼が、私の大切な人、例えば、恋人とかであったなら、彼にとっても私は大切な存在だったのだろうか。私が、死んじゃって、悲しい思いをさせているのだろうか。
涙が出てきた。胸が苦しくて、心臓の辺りの服を掴んだ。
「ごめん。ごめんね……」
でも、まだ分からない。私の思い込みかもしれないし、彼は偶然、あのカーブに来ただけなのかもしれない。でもそれなら、私はどうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこの人が私の空間の中心点になったんだろう。付いて行けば、分かるだろうか。どの道、この人を中心に壁が移動するなら、付いて行くしかない。
彼とは少し距離が空いてしまったけれど、今度は同じ速度で後ろを付いて行った。
しばらくして、小さな駅が見えてきた。彼はポケットからカードを出し、改札にかざして駅の中に入っていった。電車で帰るのか。私も、切符買わなきゃ。あ、でもお金とかないし、どうしたらいいんだろう。幽霊だから、タダで乗っちゃってもいいのかな。
改札の前でまごまごしていたら、彼の待つホームに電車が到着して、彼が中に乗り込んだ。
もう、行くしかない。
「ごめんなさい!」
一応駅員さんに頭を下げてから、目を瞑って、改札のゲートをすり抜けた。目を開けると、電車のドアが閉まり始めている所だった。
「あっ、待って! 乗ります!」
ホームまで走ったけど、間に合わなかった。二両しかない電車はもう走り始めてしまった。
「え、うそ……。これ、どうなるの?」
しばらく茫然と電車を見送っていたら、突然後ろから何かに叩き飛ばされた。
「きゃあっ」
壁が来ちゃったんだ。バランスを崩して、ホームの上に四つん這いになった。すぐにまた、後ろから衝撃が来た。
「わあああっ」
壁はどんどんスピードを上げて、ホームの上の私を押し進む。目の前に、ホームの終端に立っている柵が近付いてきた。
「待って、待って!」
ぐっと目を瞑る。すると今度は突然足元の地面がなくなったのを感じた。目を開けると、二メートルくらいの高さに浮いていた。駅のホームの足場が終わったんだ。重力にひっぱられて落ちていく。
下を向いていたら、視界の上のほうから電信柱が高速でこちらに向かってきた。
「きゃあ!」
ギリギリのところで目を閉じた。電信柱はすごい音をたてながら、私を通り過ぎて行った。
もうこれは、ずっと目を閉じていたほうがいいかもしれない。
「私は幽霊。私に重さはない。私は幽霊。私はなんでもすり抜ける!」
何度もそう叫びながら、目をぎゅっと瞑って、両手で耳を塞いで、全身を透明な壁に預けた。
前を走る電車の音と、時折何かが高速で通り過ぎる音と、吹きつける風を感じながら必死で耐えた。心臓は破裂しそうなほどドキドキしている。私は死んでいるのに、どうしてこんなに心臓が動くんだろう。三年間も平穏だったのに、もう、何なのよ、今日は。
やがて電車の音がゆっくりになって、風が穏やかになり、私を押し続けていた壁の圧力がなくなったのを感じた。
「はあ、はあ……、着いたの?」
耳を塞いだ手を離し、ゆっくりと目を開ける。
さっきとは違う駅のホームが見えた。私の体は宙に浮いていた。
「きゃ!」
気付いた瞬間、重力が私を引っ張る。幸い一メートルくらいの高度だったので、大した衝撃はなく着地できた。
茫然としていると、電車の発車を知らせる音楽が流れ始めた。
「えっ、ちょっと待って!」
急いでホームを見渡し、彼が降りていないことを確認してから、電車に飛び乗った。
私が乗った車両には彼はいなかった。乗ってる人が少ないから探しやすい。隣の車両に移動したら――いた、彼だ。
空いている右隣の座席に座り、大きく息を吐き出した。
「はあ、怖かったよう……」
疲れない体のはずなのに、全身がクタクタになっているように感じる。もう電車に乗る時に躊躇するのはやめよう。
彼の姿が見えなくなりそうになったその時、私の背中に何かが当たった。それと同時に、世界が後ろに流れる。
「わっ!」
下を見ると、足を動かしていないのに、道路が私の後ろの方に滑って行く。――違う、背中の何かに押されて、私が前に進んでいるんだ。
「な、なにこれ!」
背中を押す何かを確かめようと後ろに手を伸ばそうとしたら、肘が先に当たった。大きい。次に手が当たった。ひんやりして、さらさらしている。
「壁だ!」
振り向いても、何も見えない。でも確かに壁がある。私を閉じ込め続けていた、あの透明な壁。
「何で? どうなってるの?」
壁はどんどん私を押していく。スーパーのある道の方へ。私の靴は何の抵抗もなく滑って行く。
もうすぐ、スーパー側の壁の所だ。このまま行くとどうなってしまうのか。壁に挟まれて潰されてしまうのだろうか。イヤだ、そんなの、イヤだ!
「誰かっ――きなこ、助けて! やだ、いやあああ!」
目を閉じて両腕で顔を覆った。恐怖で心臓がバクバクしている。
そろそろかと思ったけれど、何ともない。
背中の壁の感触はまだある。心臓はまだドキドキしている。恐る恐る目を開けてみたら、スーパー側の壁際の見なれた景色が、私の後ろに見えた。
「……あれ?」
振り返ると、いつものカーブやガードレールが少し遠くに見える。今まで見たことない距離だ。
前を向くと、いつもよりスーパーが近くに見える。こっちの透明な壁、なくなったんだろうか。私、外に出られたのかな。
前の方に、さっきの男の人の後姿が見えた。背中の壁に気付いた時から距離が変わってないように感じる。あれ、これって、もしかして……
近くにきなこがいないか探してみた。声を出して呼んでもみた。
「きなこ! きなこ! いないの?」
何の反応もない。きなこの意見を聞きたいのに。
今も背中の壁は私を押し続けている。遠くの彼と一定の距離を保って。
これって、もしかして、壁の中心点が変わった?
スーパーが隣に見えてきた。ちょっと古い感じのする、寂しいお店だ。照明も心なしか暗い気がする。
とにかく、このまま押され続けていてもしょうがない。私も進んでみようか。
見えない壁があるかもしれないので、手を前に出して歩き出す。背中に当たっていた壁が離れたのが分かる。
そのまましばらく歩いてみたけれど、前に付き出した手が見えない壁に当たることはなかった。
「うん、たぶん大丈夫」
そういうことにして、手をおろした。きっと、私の壁の中心点は、どうしてか分からないけど、まだ随分前を歩く彼になってしまったんだろう。
きなこの言葉を思い出すと、地バクレイは、その場所に未練や執着がある、もしくは、その場所が魂を縛っている、だったか。それに当てはめて考えると、私が、彼に未練や執着がある、もしくは、彼が――私の魂を、縛っている。
彼はやっぱり、私にとってとても大事な人なのだろう。私を、地バクレイから人バクレイに変えてしまうほどの、大きな存在。誰なんだろう。お父さんっていう年齢には見えないし、お兄ちゃんかな、友達かな、それとも、恋人、なのかな。さっき壁に押された時とは違う、あったかいドキドキが胸に満ちてきた。
ちょっと小走りになって、彼との距離を縮め、彼の横に並んでみた。頬の辺りが熱くなってくるのを感じる。少し緊張しながら、左を歩く彼の顔を覗いてみた。
――彼は眉を寄せて、赤い目をして、世界の終わりみたいに悲しい顔をしていた。
心臓を強く掴まれたみたいに、胸の辺りが苦しくなる。足が止まってしまう。
彼が、私の大切な人、例えば、恋人とかであったなら、彼にとっても私は大切な存在だったのだろうか。私が、死んじゃって、悲しい思いをさせているのだろうか。
涙が出てきた。胸が苦しくて、心臓の辺りの服を掴んだ。
「ごめん。ごめんね……」
でも、まだ分からない。私の思い込みかもしれないし、彼は偶然、あのカーブに来ただけなのかもしれない。でもそれなら、私はどうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこの人が私の空間の中心点になったんだろう。付いて行けば、分かるだろうか。どの道、この人を中心に壁が移動するなら、付いて行くしかない。
彼とは少し距離が空いてしまったけれど、今度は同じ速度で後ろを付いて行った。
しばらくして、小さな駅が見えてきた。彼はポケットからカードを出し、改札にかざして駅の中に入っていった。電車で帰るのか。私も、切符買わなきゃ。あ、でもお金とかないし、どうしたらいいんだろう。幽霊だから、タダで乗っちゃってもいいのかな。
改札の前でまごまごしていたら、彼の待つホームに電車が到着して、彼が中に乗り込んだ。
もう、行くしかない。
「ごめんなさい!」
一応駅員さんに頭を下げてから、目を瞑って、改札のゲートをすり抜けた。目を開けると、電車のドアが閉まり始めている所だった。
「あっ、待って! 乗ります!」
ホームまで走ったけど、間に合わなかった。二両しかない電車はもう走り始めてしまった。
「え、うそ……。これ、どうなるの?」
しばらく茫然と電車を見送っていたら、突然後ろから何かに叩き飛ばされた。
「きゃあっ」
壁が来ちゃったんだ。バランスを崩して、ホームの上に四つん這いになった。すぐにまた、後ろから衝撃が来た。
「わあああっ」
壁はどんどんスピードを上げて、ホームの上の私を押し進む。目の前に、ホームの終端に立っている柵が近付いてきた。
「待って、待って!」
ぐっと目を瞑る。すると今度は突然足元の地面がなくなったのを感じた。目を開けると、二メートルくらいの高さに浮いていた。駅のホームの足場が終わったんだ。重力にひっぱられて落ちていく。
下を向いていたら、視界の上のほうから電信柱が高速でこちらに向かってきた。
「きゃあ!」
ギリギリのところで目を閉じた。電信柱はすごい音をたてながら、私を通り過ぎて行った。
もうこれは、ずっと目を閉じていたほうがいいかもしれない。
「私は幽霊。私に重さはない。私は幽霊。私はなんでもすり抜ける!」
何度もそう叫びながら、目をぎゅっと瞑って、両手で耳を塞いで、全身を透明な壁に預けた。
前を走る電車の音と、時折何かが高速で通り過ぎる音と、吹きつける風を感じながら必死で耐えた。心臓は破裂しそうなほどドキドキしている。私は死んでいるのに、どうしてこんなに心臓が動くんだろう。三年間も平穏だったのに、もう、何なのよ、今日は。
やがて電車の音がゆっくりになって、風が穏やかになり、私を押し続けていた壁の圧力がなくなったのを感じた。
「はあ、はあ……、着いたの?」
耳を塞いだ手を離し、ゆっくりと目を開ける。
さっきとは違う駅のホームが見えた。私の体は宙に浮いていた。
「きゃ!」
気付いた瞬間、重力が私を引っ張る。幸い一メートルくらいの高度だったので、大した衝撃はなく着地できた。
茫然としていると、電車の発車を知らせる音楽が流れ始めた。
「えっ、ちょっと待って!」
急いでホームを見渡し、彼が降りていないことを確認してから、電車に飛び乗った。
私が乗った車両には彼はいなかった。乗ってる人が少ないから探しやすい。隣の車両に移動したら――いた、彼だ。
空いている右隣の座席に座り、大きく息を吐き出した。
「はあ、怖かったよう……」
疲れない体のはずなのに、全身がクタクタになっているように感じる。もう電車に乗る時に躊躇するのはやめよう。