- どうして -
それから私は、ずーっと、ずーっと、透明な壁に仕切られたこの空間で過ごしている。結局、空は飛べてないけど、目を閉じていればコンクリートの崖をすり抜けられることは分かった。中に入ってる時は怖くて目を開けたことがないけれど。
壁に囲まれたこの空間は、狭いし、寂しいし、退屈だけど、たまにきなこがやってきて、私にも季節の花を届けてくれたり、話し相手になってくれたり、友達の猫さんを紹介してくれたりもした。
お母さんとか、お父さんとか、どんな人か覚えてないけど、元気だろうか。私には兄弟とか姉妹とかいるのだろうか。もう、季節は三回くらい巡ったけど、私の知っている人は誰も来てくれていない。
冬は、ここは雪国ではないみたいで、雪がたまにちらほらと降る程度だった。寒さは感じないし雪は綺麗だけど、灰色の空とか、暗い海とかを見てると寂しくなる。冬は好きじゃないな。
春は大好き。いつも寂しいこの道も、人通りが多くなる。賑やかになる。みんなどこに向かうのか初めは不思議だったけれど、人の流れを目で追っていくと、民家のある方の奥、崖になっている所の上に、大きな桜の木を見つけた。遠くてよくは見えないけれど、きなこがいない時は透明な壁の所まで行って、ずっと桜を見ていた。夜になるとオレンジ色の優しい光りが桜を照らして、星もきらきら光って、すごく綺麗だ。ずっと見ていても飽きない。
花見に来たほとんどの人が、最初の日に女の子が帰っていった茶色の建物に入っていくのが分かった。何かのお店だろうか。行ってみたいな。
夏は、海水浴に来る人で混雑するかと思っていたけれど、そうでもなかった。ヨットみたいなのに乗る人が何人か来るくらい。砂浜も海も綺麗だけど、どうしてだろう。もしかしたら、海の中は遊泳に向かないような場所なのかもしれない。
夏の綺麗な空とか雲とか、きらきら輝く海を眺めるのは楽しい。暑さを感じないから、ずっと太陽の下にいても平気だし。
靴を脱いで、海に足まで入ったこともあった。入っている時は、水に浸かっているような感覚はあるのに、出るとまったく濡れてない。レイヤーの違いは何となく理解はしていたけど、やっぱり不思議に感じてしまう。
秋も、好き。コンクリートの崖の上のモミジが綺麗だし、空気が澄んでいるのを感じる。きなこが持ってきてくれるコスモスも可愛くて綺麗。夕焼けは、四季の中で秋が一番綺麗に感じる。あと、星空も。
この季節になると名前を知らない鳥がよく浜辺を歩くから、声をかけてみたことがあったけれど、意思の疎通は出来なかった。きなこは犬も鳥も喋るって言ってたけど、今の所言葉がわかるのは猫さんだけだ。
最初の日に見た、泣いていた女の子は、毎日のようにここの道を通っていた。近所に住んでるみたいだから、当然か。そうxそう、いつだったか忘れたけど、きなこがあの女の子の名前を教えてくれた。春ちゃんというらしい。優しくて可愛い名前だ。
春ちゃんは、一人の時は寂しそうな顔をしていた。いつも階段に座って、三十分くらい海を眺めていった。海を見ながら、彼女はたまに涙を零していた。
白髪の綺麗な、姿勢の良いおじいさんと歩いていることもあった。春ちゃんのおじいさんだろうか、カッコイイな。
彼女はまた、同い年くらいに見える女の子と歩いている時もあった。誰かと一緒にいる時は、彼女はとても明るく元気で、きらきらと笑う。でも一人の時はすごく悲しそう。無理してるのだろうか。
春ちゃんは高校生っぽい制服を着ていることが多かったけれど、三回目の桜の季節が来たら、私服で歩くようになっていた。高校を卒業して、大学にでも入学したのだろうか。彼女は今でも、ここの階段に座って静かに泣くことがある。私はいつも隣に座るけど、何もしてあげられないのがもどかしい。
*
私がバクレイになってから三回目の桜が散って、初夏の緑色の風が漂い始めた。
いつものように階段に座って海を眺めていたら、スーパーのある方の道から、一人の男の人が歩いて来るのに気付いた。初めて通る人だ。高校生か、大学生くらいに見える。
立ち上がり、階段を上って、よく見てみる。この人も、悲しそうな表情をしている。私の壁を越えて、私の空間に入ってきて、カーブ地点で足を止めた。
心臓がドクンと動くのを感じた。
あれ、私、この人を知ってる?
秋のそよ風のような涼しげな横顔。優しい瞳。静かな口元。黒くまっすぐな髪。
何だろう。胸が痛い。心臓の鼓動が苦しい。
来てくれたのだろうか。ずっと待ってた人が。でも、思い出せない。
男の人はしばらく道路の真ん中で立ち止ったままだったけれど、やがてゆっくり歩いてガードレールの上に腰かけ、辺りの景色をぼんやりと見回し始めた。何か、探しているのだろうか。
傍に行って顔をよく見ていたら、ゆっくりと視線を動かしてきた男の人と、目があった。胸の鼓動が高鳴る。男の人はぼんやりと私を見ている。え、私が、見えてるの?
「あなた、誰?」
声を出して聞いてみたけど、男の人は何の反応もしない。よく見ると、この人の視線は私をすり抜けて、その奥に向かっていた。振り向いて見てみたら、崖の上の楓が、緑色の葉っぱをそよそよと風に揺らしていた。
「楓?」
後ろで男の人が立ち上がる気配がした。慌てて振り返る。まだ何も分かってない。まだ帰らないで……
男の人は、またゆっくり歩いて階段を下り、中ほどで腰を下ろした。私も付いて行って、彼の右隣りに座る。何だか、すごく懐かしい気がする。胸がぎゅう、と痛くなってくる。
「ねえ、あなたは、ここに何をしに来たの?」
「……」
「もしかして、私の知り合い?」
「……」
彼は何も言わずに、ぼんやりと海を見つめている。
はあ、今きなこがいてくれたらな。何とかして私の存在を伝えてもらえるかもしれないのに。そう思ってちょっと想像してみたけれど、やっぱり無理か。きなこは生きてる人には言葉を伝えられないみたいだし、傍でにゃーにゃー鳴いてもらっても、分かってくれないだろうな。
仕方ないので、彼と一緒に海を眺めていた。彼はなかなか帰らなかった。時折、深くため息をついたり、手で頭を抱えたり、涙を一粒零したりもしていた。その度に、私の胸は締め付けられていた。ねえ、あなたに、何があったの。私に、教えて。
太陽が傾いて、夕日に変わり始めてきた。やがて、彼は小さく口を開いてぽつりと呟いた。
「ハル……」
「えっ?」
心臓がまた、ドクンと動いた。
鼓動が、水の波紋みたいに、私の空間に広がったような気がした。
春って言ったの?
春。ハル。はる。
「貼る」とか「張る」の発音じゃないから、やっぱり季節の春だろうか。もしかして、人の名前?
後ろで微かに足音がした。振り返ると、階段の上の道路に春ちゃんが立っていた。彼女は不思議そうにこっちを見ている。私は見えないはずだから、彼を見ているのだろうか。彼に視線を戻すと、気付いていないのか、気にしていないのか、ずっと海を見ている。
もしかして、あなたが言った「春」って、春ちゃんのこと?
そう考えたら、胸がちくちくと痛くなってきた。どうしてだろう。すごくいやな気持ちだ。
男の人は彼女の知り合いかとも思ったけれど、春ちゃんは声もかけずにじっと見ているだけだから、違うようだ。やがて彼女は、心配そうな目を彼に向けながら、民家のある方に歩いて行った。
春ちゃんが見えなくなった頃、彼がゆっくり立ち上がった。階段を上り、スーパーの方の道をゆっくり歩いて行く。帰っちゃうのか。結局、何も分からなかったな。
私も階段を上り、彼を見送る。ねえ、どこに帰るの。名前は何ていうの。今日は何を思っていたの。
よく分からないけれど、すごく大切な人のような気がする。思い出はないけれど、体と心が彼を覚えているような、そんな感じ。また、来てくれるかな。彼の後ろ姿が小さくなってきた。
「あ――」
急に寂しさが押し寄せる。待って。行かないで。私を置いて行かないで。涙が溢れてきた。どうして、何も思い出せないのに、こんなに辛いの。どうして。
それから私は、ずーっと、ずーっと、透明な壁に仕切られたこの空間で過ごしている。結局、空は飛べてないけど、目を閉じていればコンクリートの崖をすり抜けられることは分かった。中に入ってる時は怖くて目を開けたことがないけれど。
壁に囲まれたこの空間は、狭いし、寂しいし、退屈だけど、たまにきなこがやってきて、私にも季節の花を届けてくれたり、話し相手になってくれたり、友達の猫さんを紹介してくれたりもした。
お母さんとか、お父さんとか、どんな人か覚えてないけど、元気だろうか。私には兄弟とか姉妹とかいるのだろうか。もう、季節は三回くらい巡ったけど、私の知っている人は誰も来てくれていない。
冬は、ここは雪国ではないみたいで、雪がたまにちらほらと降る程度だった。寒さは感じないし雪は綺麗だけど、灰色の空とか、暗い海とかを見てると寂しくなる。冬は好きじゃないな。
春は大好き。いつも寂しいこの道も、人通りが多くなる。賑やかになる。みんなどこに向かうのか初めは不思議だったけれど、人の流れを目で追っていくと、民家のある方の奥、崖になっている所の上に、大きな桜の木を見つけた。遠くてよくは見えないけれど、きなこがいない時は透明な壁の所まで行って、ずっと桜を見ていた。夜になるとオレンジ色の優しい光りが桜を照らして、星もきらきら光って、すごく綺麗だ。ずっと見ていても飽きない。
花見に来たほとんどの人が、最初の日に女の子が帰っていった茶色の建物に入っていくのが分かった。何かのお店だろうか。行ってみたいな。
夏は、海水浴に来る人で混雑するかと思っていたけれど、そうでもなかった。ヨットみたいなのに乗る人が何人か来るくらい。砂浜も海も綺麗だけど、どうしてだろう。もしかしたら、海の中は遊泳に向かないような場所なのかもしれない。
夏の綺麗な空とか雲とか、きらきら輝く海を眺めるのは楽しい。暑さを感じないから、ずっと太陽の下にいても平気だし。
靴を脱いで、海に足まで入ったこともあった。入っている時は、水に浸かっているような感覚はあるのに、出るとまったく濡れてない。レイヤーの違いは何となく理解はしていたけど、やっぱり不思議に感じてしまう。
秋も、好き。コンクリートの崖の上のモミジが綺麗だし、空気が澄んでいるのを感じる。きなこが持ってきてくれるコスモスも可愛くて綺麗。夕焼けは、四季の中で秋が一番綺麗に感じる。あと、星空も。
この季節になると名前を知らない鳥がよく浜辺を歩くから、声をかけてみたことがあったけれど、意思の疎通は出来なかった。きなこは犬も鳥も喋るって言ってたけど、今の所言葉がわかるのは猫さんだけだ。
最初の日に見た、泣いていた女の子は、毎日のようにここの道を通っていた。近所に住んでるみたいだから、当然か。そうxそう、いつだったか忘れたけど、きなこがあの女の子の名前を教えてくれた。春ちゃんというらしい。優しくて可愛い名前だ。
春ちゃんは、一人の時は寂しそうな顔をしていた。いつも階段に座って、三十分くらい海を眺めていった。海を見ながら、彼女はたまに涙を零していた。
白髪の綺麗な、姿勢の良いおじいさんと歩いていることもあった。春ちゃんのおじいさんだろうか、カッコイイな。
彼女はまた、同い年くらいに見える女の子と歩いている時もあった。誰かと一緒にいる時は、彼女はとても明るく元気で、きらきらと笑う。でも一人の時はすごく悲しそう。無理してるのだろうか。
春ちゃんは高校生っぽい制服を着ていることが多かったけれど、三回目の桜の季節が来たら、私服で歩くようになっていた。高校を卒業して、大学にでも入学したのだろうか。彼女は今でも、ここの階段に座って静かに泣くことがある。私はいつも隣に座るけど、何もしてあげられないのがもどかしい。
*
私がバクレイになってから三回目の桜が散って、初夏の緑色の風が漂い始めた。
いつものように階段に座って海を眺めていたら、スーパーのある方の道から、一人の男の人が歩いて来るのに気付いた。初めて通る人だ。高校生か、大学生くらいに見える。
立ち上がり、階段を上って、よく見てみる。この人も、悲しそうな表情をしている。私の壁を越えて、私の空間に入ってきて、カーブ地点で足を止めた。
心臓がドクンと動くのを感じた。
あれ、私、この人を知ってる?
秋のそよ風のような涼しげな横顔。優しい瞳。静かな口元。黒くまっすぐな髪。
何だろう。胸が痛い。心臓の鼓動が苦しい。
来てくれたのだろうか。ずっと待ってた人が。でも、思い出せない。
男の人はしばらく道路の真ん中で立ち止ったままだったけれど、やがてゆっくり歩いてガードレールの上に腰かけ、辺りの景色をぼんやりと見回し始めた。何か、探しているのだろうか。
傍に行って顔をよく見ていたら、ゆっくりと視線を動かしてきた男の人と、目があった。胸の鼓動が高鳴る。男の人はぼんやりと私を見ている。え、私が、見えてるの?
「あなた、誰?」
声を出して聞いてみたけど、男の人は何の反応もしない。よく見ると、この人の視線は私をすり抜けて、その奥に向かっていた。振り向いて見てみたら、崖の上の楓が、緑色の葉っぱをそよそよと風に揺らしていた。
「楓?」
後ろで男の人が立ち上がる気配がした。慌てて振り返る。まだ何も分かってない。まだ帰らないで……
男の人は、またゆっくり歩いて階段を下り、中ほどで腰を下ろした。私も付いて行って、彼の右隣りに座る。何だか、すごく懐かしい気がする。胸がぎゅう、と痛くなってくる。
「ねえ、あなたは、ここに何をしに来たの?」
「……」
「もしかして、私の知り合い?」
「……」
彼は何も言わずに、ぼんやりと海を見つめている。
はあ、今きなこがいてくれたらな。何とかして私の存在を伝えてもらえるかもしれないのに。そう思ってちょっと想像してみたけれど、やっぱり無理か。きなこは生きてる人には言葉を伝えられないみたいだし、傍でにゃーにゃー鳴いてもらっても、分かってくれないだろうな。
仕方ないので、彼と一緒に海を眺めていた。彼はなかなか帰らなかった。時折、深くため息をついたり、手で頭を抱えたり、涙を一粒零したりもしていた。その度に、私の胸は締め付けられていた。ねえ、あなたに、何があったの。私に、教えて。
太陽が傾いて、夕日に変わり始めてきた。やがて、彼は小さく口を開いてぽつりと呟いた。
「ハル……」
「えっ?」
心臓がまた、ドクンと動いた。
鼓動が、水の波紋みたいに、私の空間に広がったような気がした。
春って言ったの?
春。ハル。はる。
「貼る」とか「張る」の発音じゃないから、やっぱり季節の春だろうか。もしかして、人の名前?
後ろで微かに足音がした。振り返ると、階段の上の道路に春ちゃんが立っていた。彼女は不思議そうにこっちを見ている。私は見えないはずだから、彼を見ているのだろうか。彼に視線を戻すと、気付いていないのか、気にしていないのか、ずっと海を見ている。
もしかして、あなたが言った「春」って、春ちゃんのこと?
そう考えたら、胸がちくちくと痛くなってきた。どうしてだろう。すごくいやな気持ちだ。
男の人は彼女の知り合いかとも思ったけれど、春ちゃんは声もかけずにじっと見ているだけだから、違うようだ。やがて彼女は、心配そうな目を彼に向けながら、民家のある方に歩いて行った。
春ちゃんが見えなくなった頃、彼がゆっくり立ち上がった。階段を上り、スーパーの方の道をゆっくり歩いて行く。帰っちゃうのか。結局、何も分からなかったな。
私も階段を上り、彼を見送る。ねえ、どこに帰るの。名前は何ていうの。今日は何を思っていたの。
よく分からないけれど、すごく大切な人のような気がする。思い出はないけれど、体と心が彼を覚えているような、そんな感じ。また、来てくれるかな。彼の後ろ姿が小さくなってきた。
「あ――」
急に寂しさが押し寄せる。待って。行かないで。私を置いて行かないで。涙が溢れてきた。どうして、何も思い出せないのに、こんなに辛いの。どうして。