それから俺は、ノートパソコンと簡単な着替えを持って、二週間ほど実家にいた。
実家で仕事をしながら、抜け殻のようになっている母をサポートしたり、姉さんの子供を面倒見たり。
慌ただしかったが、それなりに役に立てたと思う。

「助かったよ、昴甫」

仕事から帰ってきた親父が、俺が適当に作った晩飯を食べながら言った。
ノートパソコンを閉じて向き直ると、頭を下げられる。

「すまんな」

「……別に。母さんに死なれちゃ困るからな」

母さんはしばらく仕事を休んで家にいるのだが、ふと姉さんを思い出しては泣き崩れ、度々立ち上がることが出来なくなっていた。
親父は親父で仕事には行っているが、その顔に精気はなく、疲れ切っている。
そんな二人を放っておくわけにはいかなかった。

「あんな状態じゃ、家にいたってこの子の面倒なんか見れないだろ」

リビングで眠っている、幼い命を見遣る。

「…そうだな」

親父が近づいて行くので、俺は咄嗟に声を掛けた。

「おい、さっき寝たばっかりなんだ。起こすなよ」

頷いた親父が、そっと姉さんの子供の枕元に座る。
そして、その頭を優しく撫でた。

「…この子は、どうだ」

「…どうたって…びびるくらい手がかかんないよ。泣かないし、わがままも言わない。何より、おとなしいし」

「そうか…美咲が小さい時も、そうだったな…」

いつの間にかリビングに入って来ていた母親が、親父のそんな姿を見つめていた。

「…美咲…」


ーー二週間過ごして、分かったことがある。
姉さんの子供の存在は、母さんたちにとってかけがえのない宝だということ。
そしてその存在は同時に、剣山のようにも成り得るということ。

その顔を見る度、姉さんとの思い出を浮かべて涙する。
それでなくても悲しい毎日の中で。

「…母さん」

泣いている母さんに声を掛けて、俺はずっと考えていたことを口にした。



「ーー俺が、あの子を引き取るのはどうかな」



二人は、驚いた様子で俺を見つめる。
立ち上がった親父が、無言で近づいてきた。

「ほら、こっちにいるのは便が悪いからきついけどさ。俺の家に連れてくれば、面倒くらい見れるよ。俺は幸い殆ど在宅ワークだし」

「……」

「自信なかったけど、母さんに家事はあらかた教わったから。面倒もそこそこ見れてるし。二週間とはいえ、そんなに悪くなかっただろ?」


甥っ子を引き取りたい、と提案することがこんなに気恥ずかしいことだとは。
思春期のガキみたいな言い方になった自分がさらに恥ずかしい。

すると、そんな俺が真剣さを欠いているように見えたのか、親父は神妙な顔つきで重たい口を開いた。

「面倒を見るって、それはどのくらいの期間のことを言ってるんだ?これから先数年のことか?」

「…いや、それは…まぁ、高校卒業するまでかな」

「ーーーお前もいつかは、結婚して子供を持つんだろ。そんなに簡単に決めることじゃない」

強い口調で言われて、思わずむっとする。

「俺なりに真剣に考えたんだ。まともに子育て出来る状態じゃないくせに、否定される意味が分からない」

「お前は分かってない。俺は、お前自身の未来を尊重しろと言ってるんだ」

「はぁ…俺自身の未来って、そもそも相手もまだいないのに、そんな」


「もしいつか結婚するとなった時、あの子はどうなる。お前が自分の未来を尊重しないということは、あの子を傷つけることに繋がるんだぞ」


「お父さん、気持ちは分かりますけど、そんな言い方はやめて。昴甫の想いも分かってやってください…」

見かねた母さんが間に立って、諭すように俺に話す。

「昴甫、気持ちはとっても有難いの。秋樹はわがままも言わないし、本当に良い子で手がかからないけれど…今の私には、充分にあの子を育ててあげられる気力がないから」

「……」

「でもね、昴甫。お父さんが危惧するように、もしあなたが秋樹を引き取って一緒に暮らす内、誰か良い人と出会ったら…。
お相手がどんなに優しい人で、気にしないと言ったとしても。きっと秋樹の方が、あなたを気遣って離れて行ってしまうはずよ」

「…、」

「そんなことになるくらいなら、秋樹は私達の側にいる方がいいと。そう思ってしまうの」


ーー泣きそうになりながらそう言った母さんに、俺は首を振って見せた。


「…じゃぁ…あの子の今は、どうなるんだよ」

「…昴甫…」

「確かに…確かに、未来のことを思えばそう言われるのは分かるよ。でも二人とも、これから先すぐ仕事辞められるのか?子供育てていく体力なんてあるのか?」

「……」

「たった三歳の子供を、誰もいない家で一人で寝させるつもりか?」

「…昴甫、落ち着け」

「親父は未来のことを心配してるみたいだけど、俺はあの子の今が心配なんだよ」

「昴甫、聞け」

親父の静かな強い声に、息を呑んで黙り込む。

「俺たちには、責任がある。美咲の遺していった大切な命を、立派に育てなきゃならん責任があるんだ。
その責任は、理屈じゃ片付けられん。家族だからとか、親だからとか。そう言う理由の付けられるものじゃないと、俺はそう思う」

親父は目頭を抑えた後、改めて俺に向き直った。

「そしてそれは、お前にもそうだ。俺たちはお前の未来に対しても、同じように理由の付けられない責任がある。
母さんが言うように、その気持ちは有難い。だが、お前の未来や秋樹の未来を思うと…」

「……親父…」

何も言えず、俯く。



ーーーすると、姉さんの子供が起きてきた。
俺が声を荒げたせいで、目が覚めてしまったのかもしれない。

「あら…秋樹、起きちゃったの」

母さんが抱き上げようとするが、姉さんの子供は眠たそうに目を擦りながら、真っ直ぐ俺の方へと歩いてきた。

膝の上によじ登ろうとする体を抱え上げると、小さな腕が俺を抱きしめる。


「まま…」


ーー母親を求める、切ない声。
その時、俺は姉さんが亡くなって初めて、二人の前で泣いた。

「こいつ…ずっとこうなんだよ。初めて会った時から、ずっと、俺と姉さんを重ねてるんだ」

母親はどこにいるのかと、聞きもしない。泣き叫びもしない。
ただ、姉さんに似た俺に抱っこを求めては、悲しそうに姉さんを呼ぶ。

「なんでこいつ…泣かないんだよ。母親がどこかって、喚かないんだよ。俺なんかに抱っこされて、寂しい気持ち紛らわせてんだよ…」

この子は周りを良く見ていて、母親が泣いている時や俺が忙しそうにしている時は絶対に甘えに来なかった。
遊んでいる時は楽しそうに笑っているけど、それ以外はまるで大人みたいに様子を伺いながら過ごしているようだった。

「…姉さんがいない理由は分かってなくても、皆の顔を見て本能的に何か悟ってるのかもしれない。
そんなこの子の、今の支えが…姉さんの面影を感じる俺なのかもしれないって思ったら俺…どうしても引き下がれないよ…」

ぼろぼろと泣きながら話す俺の言葉を、二人はじっと聞いていた。

「俺の未来とか、この子の未来とか、俺にはそんな遠い先のこと分かんないけど…この子が今姉さんの代わりに、他の誰でもなく俺を求めてるなら、側にいてやりたいよ。この子が求める時にいつだって、抱きしめてやりたいんだよ…」

ーーこの二週間何度も「まま」と呼ばれたせいで、母性本能でも芽生えたのかもしれない。
情けない俺の顔を、姉さんの子供が不思議そうに見つめる。

「頼むよ、どこまでやれるか分からないけど、せめて今だけは面倒見させてくれ」

「……」

「頼む…」





*    *    *



ーーーその後。必死に頼み込んだおかげか、渋っていた両親も何度か話し合ったようで、最後には了承してくれた。

困った時は自己判断せず、必ず連絡すること。費用は出すからなるべく頻繁に帰ってくること、無理は絶対にしないこと。送った食材や物は必ずちゃんと開封して…云々。
殆ど覚えてはいないが、それらの条件を呑んだ上での了承だった。

それから、母さんが仕事に復帰するまでの間に家事や子供との向き合い方について改めて学んだり、親父からもいくつかアドバイスを貰ったりして残りの生活を充実させた後。

俺は姉さんの子供ーー秋樹を連れて、一ヶ月ほど過ごした実家を出た。





腕に抱えた、命の重み。柄にもなく、無謀なことをしてしまったかもしれない。

子供とまともに接したことのなかった自分が、これから一人で三歳の子供と暮らそうとしているのだ。

ーー何をあんなにむきになっていたのか。
必死に両親を説得してしていた自分を思い出して、今更ながら笑えてくる。


「まま」


不思議そうに俺を見つめていた秋樹が、甘えるように言った。
少し考えて、そのつぶらな瞳を見つめる。

「秋樹。俺は、ままじゃないよ」

「……」

「お前の、叔父さんだ」

「…おじしゃん…」

「そう。もっかい言ってみな」

「おじしゃん」

舌ったらずな呼び方が可愛くて、考えていた全てのことがどうでも良くなる。

「なぁ、秋樹。俺は、何でお前を必死に引き取ろうと思ったのか…その理由は分からないし、不安に思ってることも多いけどさ…」

「……」

「お前のこと、大切に育てる自信だけはあるよ」

車に乗せて、家路を行く。
新しく買ったチャイルドシートですやすやと眠る姿を、バックミラー越しに見つめる。

あっという間に大きくなって、助手席に乗るんだろうな、と。
人の親みたいなことを思った時。可笑しくなって、つい笑った。


ーーその時、頬に生温い感触が伝うのが分かった。
ぐい、と袖で拭う。溢れるような物ではないそれは、とても不思議で。
決して悲しくて出た訳ではない、笑いながら出てきた綺麗な滴。

この感情の名前を、俺はまだ知らない。
知ることができたなら、全てのことに納得がいくのだろうか。



家へと無事辿り着き、寝ている秋樹を抱っこする。
そして玄関へと入ったその瞬間、俺と秋樹の生活は始まった。


長いようで短い、俺にとって何よりかけがえのない時間が、始まった。