子供の時から泥棒になることがあった。
いつかのかくれんぼ、行けなかった家族旅行、七月七日の催涙雨。
死んだ子の歳を数える母親、伝えられなかった恋心、真夏のオリオン。
皆、いなくなってしまった。
忘れられてしまったのだろう。小さな僕は、そう思って気にも止めなかった。
だからその「事件」は、僕の人生を大きく変えた。
「もーいーかーい」
小学校一年生の春。僕は同じ年頃の子供達と遊んでいた。
そこには友達とその妹がいて、今でもその日したかくれんぼを覚えている。
けれど翌日、友達はそれを覚えていなくて、それどころか「妹なんていないけど」と言う。周りも、知らないと言う。
似たようなことは何度だって起こった。
落として割った皿がヒビもなく元に戻っていたり、短気だった知人が急におおらかになったり。
その度に僕は、どこか違う世界に来てしまったと鍋覚してしまう。
いつしか僕は、自分自身が正しかった世界を盗む、泥棒なのだと考えてしまうようになった。
その考えが何故素直に出てきたのかはわからない。きっと幼児特有の、思考の跳躍か何かだろう。
『君の人生の主人公は君だ! 』
通りすがった本屋のガラスに、デカデカと貼られた自己啓発本の広告。
眼鏡の中年男性が掲載されたそれに舌打ちを残して、僕は歩き続ける。
昔は僕も、何百万部も売り上げる冒険小説の主人公になれると思っていた。
けれど今となっては、それが叶わないことだとも知っている。
もしもこの世界が物語で溢れていて、人の一生でさえもドラマでしかないのなら。
僕の物語はきっと、古本屋の隅で埃を被っている三文小説のようなもの。
物語に登場するのは忘れん坊の泥棒で、正義のヒーローも、悪の秘密結社も登場しない。
そんな平凡な物語を、一体誰が読んでくれるというのだ。
少なくとも僕は、そんな人間を一人しか知らない。
だからこそ僕は、この物語を、この不思議なかくれんぼを終わらせられないでいる。
これは初めから、彼女一人のために紡がれていた物語なのだから。
《──入院中の女子高生刺され死亡 ストーカーの男を逮捕》
地方新聞の、小さな切り抜き。
褪せて消えかけたその記事の記憶を、そっとなぞる。
この地方都市で起きた、小さな事件。あるはずだったその事件を覚えている人は、もういない。
──一緒に、優しい世界を探してくれませんか?
天月時乃。
成長と共に忘れられていく、宝物みたいに純粋な雨ざらしの記憶。
それは触れれば崩れてしまいそうで。けれど星の光のように強かなその名前を、僕は何度も思い出す。
「誰かのために傷付いてあげられない世界なんて、こんなにも冷たかったよ、天月」
いなくなった天月への舌打ちを呑み込んで、空を見上げる。
相変わらず冷たい世界は、退屈に回っていた。
この奇妙な平凡を、たったーつの物語とするのなら。
僕たちの恋物語は、十年前のかくれんぼの日に終わっていたのかもしれない。
七月七日の催涙雨が、前日から飾られていた短冊を泣かせた翌週。
僕たちの小さな街に、忘れん坊の泥棒がやってきた。
忘れん坊の泥棒は、その傲慢な敵愾心で気に入らないものを拒絶して、盗んでしまう。
それはオムライスのピーマン、忘れてしまいたい記憶、忘れられない恋心。
あるいは、七月七日の催涙雨。なんだって盗んでしまう。
盗まれたものは行方知れず。ただ世界はその存在を忘れて、なかったことにしてしまう。
「だからひょっとして、私達の友達が、知らない所で盗まれているのかもしれませんよ?」
その都市伝説を天月詩乃から聞いた時。素直になるほど、と感嘆した。
「へえ、じゃあ天月は絶対に盗まないな」
「えー、こんな魅力的な子を狙わない人なんていませんよー」
「冗談はこの暑さだけにしてほしいなあ」
期末テストを終えて、夏休みを間近に控えた学校は、授業も午前で終わるようになっている。
午後からの時間を持て余した僕と天月は、冷房の効いた図書室で暇を持て余していた。
クーラーの駆動音と、微かに漏れ入る蝉時雨。それに混じる運動部の掛け声が、避けようのない夏を今年も連れてやって来る。
「そうだ、元カレ君」
カーテンの隙間から覗く夏空を見上げていると、天月の声に意識を引き戻された。
筆洗に溶いた青のような、半分青くて白い空。そんなどこか異世界的な空から目を離して、天月を見る。
「知ってますか? 最近この辺りで起こった、強盗事件」
「ああ、ニュースの」
「ですです。刺された人、亡くなったそうです」
ひどいと思いませんか?
天月が僕を覗き込む。
右頬の泣きボクロが、本当に犠牲者たちのために泣いているみたいで、曖昧に頷く。
「きっと、皆がほんの少し優しければ、あんな事にはならなかったんです」
小さな、ほんの小さな苦悶が、透明な天月の表情を物憂げに汚した。
掛けるボタンを間違えたような違和感に、僕はそっと目を逸らす。
「そうだな。きっと、そうだ」
一か月前。
僕たちの遠光台にやってきた泥棒は、その傲慢な独占欲で四軒の家から金品を奪い、そして抵抗した一人の住人を殺した。
その事件はニュースにもなった。
新聞各紙はこぞって僕らの街を訪れ、近隣の小学校は一時休校。
事件現場が校区内にあった僕らの高校も、学校側が一斉下校を行わせるなど、当時は随分と話題になったことを覚えている。
けれどそれも、年頃の僕たちには一時の暇潰しでしかなくて。一週間も過ぎれば、ワールドカップがどうとかの話に変わっていた。
見えない所で傷ついて、死んでいく誰かについて、僕たちは残酷なまでに無関心だ。
「それにしても珍しいね」
「なにがです?」
名前も知らない被害者を嘆く天月に、僕は少なからず驚く。
「優しいだけの君が、他人に興味を持つなんて」
天月詩乃は他人に興味がない。
でもその代わり、人一倍優しくあろうとする。
優しい世界を誰よりも純粋に夢見て、困っている他人に手を差し伸べる。
きっと彼女が夢見るその世界は、誰よりも彼女に厳しいはずなのに。
「ええっ、ひでーですよ! 私だって人並みに他人に興味ありますよーだ!」
図書室ではお静かに。
キャッチーな顔文字の書かれたポスターの横で、けれど天月は大きな声を上げる。
シーと口に人差し指を当てると、彼女は「あっ」と慌てて口許を押さえた。
「とにかくっ、それも全部忘れん坊の泥棒のせいなんですっ」
「いや、それは……」
あまりにも唐突な天月の言葉に、一瞬固まる。
その間も潮騒に似た蝉時雨は降り続けて、二人を濡らしていった。
「忘れん坊の泥棒と、殺人鬼は別物だろ?」
忘れん坊の泥棒は七不思議の存在に過ぎなくて。
日常の刺激に飢えた高校生たちの間では、都市伝説のような、ちょっとした探求の的になっていた。
その噂は様々で、中には「新月の夜に出会えば、嫌いなものを盗んでもらえる」なんて滅茶苦茶なものもある。
けれどそのいずれにも「忘れん坊の泥棒が犯罪を犯した」なんて噂は存在しない。
「いえ、きっと優しい世界を忘れん坊の泥棒が盗んでしまったから、世界は優しくないんです」
「そう考えた方が、都合がいいから?」
その結論は、あまりにも都合がよかったから。
口を出た言葉は、自然と毒っぽかった。
もしかしたら僕は、天月を忘れてしまいたいのかもしれない。
「いけませんか?」
「別に……」
優しい世界。
それは天月が誰よりも渇望した、理想郷としての世界の在り方。
そして何よりも、優しくない彼女を拒絶した、残酷な世界だった。
正直、そんな世界があるとは思えない。
「だから私、忘れん坊の泥棒を探します。そして、返してもらうんです。優しい世界を。傷付いた時、誰かがそっと隣にいてくれる世界を」
まっすぐに僕を見つめる天月は、あまりにも綺麗で。けれど夏の陽に溶けてしまいそうなほど、儚い。
空を映したみたいに清廉な瞳が、僕の姿を写し出す。
「だから──」
一般下校のチャイムが鳴り響いて、天月の声を覆い隠した。校内放送が帰宅部員達に下校を促す。
「……続きはまた明日、ですね」
「うん、そうしよう」
若干の後味の悪さを噛み締めながら、形だけ開けていた数学の課題をリュックに押し込む。
図書室の先生に礼を残して、廊下に出た。むわりとした熱気と、蝉の時雨が押し寄せる。
図書室前の階段を降りて、埃臭い下駄箱から靴をとった。
踵がつぶれた靴を履いて、外の空を見上げる。
パレットの上で偶然生まれたような、繊細な紺碧。
淡く澄んで、入道雲がしゅわしゅわと弾ける、ラムネみたいな空。
「もうすっかり夏ですねー」
煩わしい陽射しを掌で遮って、天月はしみじみと溢す。
「まだ七月なのに、暑すぎるくらいだ」
「まったく、世界ってのは優しくないですねえ」
焼けたアスファルトから逃げるように、僕たちは帰り道を歩いた。
かつて空を見上げて探した雲の形を、気紛れに探してみる。魚も、ライオンも、スニーカーも。もう見つかってはくれない。
あれはきっと、優しい世界がくれた、子供達だけの友達なのだろう。
「私、優しい世界を作りたいんです。きっとあの世界では、誰も傷付かないから」
夢を語る天月は、もしかしたら遠い昔にいなくなった、子供だけの友達を探しているのかもしれない。
出会って、恋に落ちて、そして別れた。あの日々から、天月は何も変わらない。
僕たちの距離感だけが少し遠くなって、こんなにも近くにいるのに、僕たちはまだお互いの想いを伝えられないでいる。
「……確かにそうかもね」
だからきっと、この会話も単なる時間稼ぎなのかもしれない。
お互いの気持ちを比べたくて、でも相手が自分をどう思っているかは、わからなくて。
怖いから、僕たちは核心に触れない会話でお茶を濁す。
「でも、さ。誰かの為に傷付いてあげられない世界なんて、僕は冷たいと思うよ」
白い空を見上げて呟く。
心に負う傷は、色々な形がある。
叶わなかった子供の頃の夢。大切な人の挫折へ寄せる共感。誰かの死。
そのすべてに傷付くことも許されないのなら、きっとその世界はどこまでも他人行儀で、終わらない冬のように冷たい。
「幸せと優しさは、きっとイコールじゃないから難しい」
ポツリポツリと溢した言葉を、静かに噛み締める。
傷付くことが許されない世界なら、僕たちが繰り返す開演前のようなぎこちない会話に、プロローグはない。
「やっぱり二条君は、優しいですね」
隣を歩く天月が、微笑む声が聞こえた。
「なにを、」
言いかけて、噛み砕く。
なにを、今さら。君を捨てたのは、僕だと言うのに。
「確かに、誰かの為に傷付けない世界なんて、今の残酷な世界と何も変わらないのでしょう」
長く居座る白い太陽が、一瞬だけ冷たく見えて、僕はその陽に手をかざす。
視界で、天月の長い髪が薙いだ。
「だから、冷たいのは。優しくないのは私一人でいいんです」
そんなつまらないことを、天月はいつもと変わらない、弾むように朗かな笑顔で言ってのけた。
道化と嗤うにはあまりも純粋な笑顔で、彼女は自らが語る理想郷から、彼女自身を消した。
「君の言う優しい世界に、天月自身がいなかったとしても?」
「だとしても、です。私の代わりに、誰かのために傷ついてあげて下さい」
海を昇る水泡みたいに、いつかは弾ける儚さ。空を目指せばいつか必ず弾けるというのに、それでも彼女は空を目指す。
海を出た先にある優しい世界は、優しくない彼女を弾いてしまうと言うのに。
彼女は綺麗なままで笑っている。
「だからまた一緒に、優しい世界を探してくれませんか?」
瞬間。
僕を見つめるの天月の頬が上気しているように見えたのは、きっと夏のせいだろう。
そうでもないと、何かのせいにしないと。もう、自分に嘘が吐けなくなる。
──別れたのは半年も前だ、もうほとぼりは冷めたろう?
頭の中に声が響く。
他でもない、僕自身の声。泥棒なんて関係ない、僕の本心だ。
それはあまりにも濁っていて、俗っぽくて。けれど一番、自分の欲望に忠実な自分だった。
「……僕の探し物が、終わったらね」
濁した言葉だけを夏空に残して、顔を伏せた。
僕が探す、大切なもの。それは十年も前のかくれんぼの日に無くした、一日だけの友達。
行方不明になった彼女を、僕はずっと探していた。彼女が盗まれたのは、僕のせいだったから。
「じゃ、僕はこっちで」
天月に背を向けた。
小さな山の上にある学校の、二百段ちょっとの階段を降り切った裏門。
駐輪場には気の早い蝉が、その夏の最期を飾ろうとしている。
「あれ、今日は一緒に帰ってくれないんですか?」
「ああ、少し用事があるんだ。それじゃあ」
「それじゃあ、です」
二股に別れる道を、僕たちは飾り気のない「さよなら」を置いて歩き出した。
今の彼女とは、もう一緒に帰れなくなってしまった。
それは彼女が変わらなかった事を意味していて、僕が変われなかった事を意味している。
『また一緒に、探してくれませんか?』
その答えに、僕は頷くだけでよかった。
小さな体に大きな夢を描いて。自分が一番辛い世界を夢見る天月を、そばで眺めているだけで。
人はその感情を、恋と言うのだろう。
真夏の蛍みたいに淡くて、砂場で見つけたきれいな石みたいに小さなその感情を、恋と呼ぶのか。それとも罪悪感と呼ぶのか。
僕はまだ、迷ってしまっている。
それでも僕が答えを濁してしまったのは、他でもない。忘れん坊の泥棒。奴のせいだった。
奴がいるから。彼女は美しいまま、また傷付こうとしている。
奴が盗んだから。僕はまだたった一人の少女だって救えない。
「泥棒なんて、いなくなれ……」
夕暮れ前の、少し白んだ夏の空。
降り注ぐ蝉時雨の中に、ヒグラシの囁きが混じる。
木の根が押し上げ、古びて割れたアスファルトに、陽炎が踊っている。
その陽炎の中に、あの日の「少女」が見えたのは、きっと幻影に過ぎないのだろう。
僕と天月。
十六の春の二人の出会いに、きっと運命的なものなんて一つもない。
僕らが住む遠光台周辺には、小学校は三つ、高校は一つしかなった。だから別々の中学に通ってた僕たちも、必然的に一つの高校に集まることになっている。
だからその出会いに、運命的なものなんて一つもない。
天月詩乃は奇妙な少女だった。
中学を卒業して、高校に上がった男女の間には、恋愛に対する興味が沸き起こってくる。
けれど彼女は、そう言った年相応の感情に興味を示さなかった。
優しさに執着し、けれど、他人に対する興味というものが欠けている。
他人への優しさではなく、優しさそのものを求めていたのだから。
そんな天月も、高校一年の春。同じクラスの男子に告白されたことがある。
相手はクラスの女子達からも人気の、優秀な少年。
けれど彼女は、悩むことすらしなかった。
「え? んー、メリットがないから、やめときます」
そこからだった。彼女が女子達からイジメられるようになったのは。
聞こえよがしに陰口を叩かれ、物を隠され、体操着に穴を開けられ、靴を奪われた。
それでも彼女は泣きもせず、怒りもせず、ただ真っ向から「何の意味があるんですか?」と尋ねた。イジメはエスカレートした。
「ねえ、あの子達はなんでこんなことするんでしょう?」
当時の席替えで隣り合わせになっていた僕を、彼女は無遠慮に巻き込む。
当時の僕たちは初対面で、会話もそれが初めてだった。
「君がフッた男の子が、あの子達のリーダー格のお気に入りだったんだよ」
「そうなんだー、知らなかったです」
「だろうね」
正直、巻き込まれたくはなかった。
けれど彼女と話すにつれ、自分がどんどん彼女に引き込まれていると悟った。
それでも彼女との会話を拒絶しなかったのは、イジメの片棒を担ぎたくなかっただけに過ぎない。
「君は、優しいですね」
その一言は、唐突だった。
「何が?」
「私と口を利いてくれるじゃないですかー。皆、嫌がって喋ってくれないんですよ」
天月はイジメられている。クラスでも上位のヒエラルキーに位置する女子達に。
だから、厄介事に巻き込まれたくない他の生徒や教師達は、彼女を腫れ物みたいに扱う。
孤立する彼女を隣席で眺めさせられる僕にとっては、ただただ不快でしかない。
「勘違いするなよ。イジメられてる人間=価値が低い人間、って訳じゃない」
いい加減、限界だった。
汚い所を恥ずかしげもなく晒すイジメっ子達が。自分大事に、お得意の偽善すらも示せなくなった同級生達が。自分の仕事が増えるのを嫌って、イジメを黙殺する教師が。
そして何より、何の行動もしない、天月自身が。腹立たしくて仕方なかった。
「君は、このままでいいのか?」
長らく眠っていた「拒絶」が、もう一度鎌首をもたげた音がした。
「このままって?」
「苛められたままってことだよ」
「そりゃあ嫌ですよー。君が優しいから、余計に」
遠巻きに眺めるイジメっ子達を見て、天月は微笑んだ。
挑発でもなく、軽蔑でもない。何か理解できない、けれど整合性のある笑みだった。
きっと人は、理解できないそれを、怪物と呼ぶのだろう。
そして怪物は、拒絶される運命にある。
翌日から、イジメはピタリと止んだ。
まるで、イジメその物がなかったみたいに。
イジメっ子であった女子達も、何事も無かったかのようにバラバラになって、主犯格は不登校になって。
中には天月と会話しようとする奴さえいた。
「ねえ、私あの子達に嫌がらせされてませんでしたっけ?」
怪奇現象に遭遇したみたいに、怪訝な顔をした天月が話し掛けてきた。
「確かにそうだね」
「じゃあ、なんで急に馴れ馴れしくなったんでしょう?」
「さあ。もしかしたら、罪悪感があったのかもしれない」
「ひょっとして、君が何かしたんですか?」
「まさか、僕にそんな勇気はないよ」
天月詩乃、と少女は名乗った。
思えば、この時からだったのだろう。僕が彼女を気にかけるようになったのは。
人は見たこともないもの、経験したことのないものに興味を覚える。僕の場合は、たまたまそれが天月だっただけ。
それなのに気付けば、いつも視界には彼女がいて。
全く違うことをしていた時でも、授業中でも。前を向いても後ろを向いても、気付けば僕の視界には、いつも天月が映っていた。
どこかで誰かが困る度に、彼女はその手を差し伸べた。何度でも、どこにいても。
ある時は木に掛かった風船を取ってあげ、またある時は車に轢かれた野良犬を看取る。その綺麗な姿を、隣で見ていたかったのかもしれない。
けれどその優しさは後付けのブックカバーみたいで、取って付けられた物でしかなくて。
用が済めば、彼女は助けた人間に見向きもしない。
彼女はただ、純粋な優しさだけを求めていたのだから。
「涙は呪いです」
と彼女は言った。優しさがあれば、涙なんていらない、と。
僕は言った。
「涙は恩恵だよ」
涙は優しさを教えてくれる、先生なんだ。
つまるところ、僕たちの意見はいつだってすれ違っていた。
けれど僕らは、それでよかった。お互いに決定的な価値観の違いを持つからこそ、いつだって新鮮な言葉を知ることが出来る。
僕には、それで十分だった。そう、思ったふりをしていた。
「ねえ、二条くん」
けれど、彼女は、天月は決して足踏みをしない少女だった。
「私たち、付き合い、ませんか?」
夏の蝉時雨。群青に沈む、暮れの空。
少しうつむいた、天月の顔。その頬が赤らんでいるように見えて、思わず息を飲む。
彼女を好きになったのは、好きと言われてからだったような気もするし、ずっと前からだった気もする。
気付けばいつだって視界の端には天月がいたし、いつの間にか彼女を目で追っていたこともあった。
教室に入れば真っ先に彼女を探した。見付けた時は、心が踊った。
何の気なしに話しかけようとして、でもその「何の気なし」が、一番難しくて。
冷静に考えれば、なんでそんなに話しかけたいのかもわからなくて。
そんな自分に気付くたびに、鼓動は叫んで、痛みにも似た感覚が心臓を刺して。
目を離しても、心臓はチクチクと落ち着かない。
思い返せば、もうこの時の僕は、自分の感情を抑えきれなくなったのかもしれない。
この人と一緒にいたい──と、純粋に想う自分。
「好き」以外の言葉でこの感情の名を探す自分。
二人の自分が、胸の中で喧嘩する。
ひどく素直に、けれど、残酷なまでに。彼女を綺麗だと思う自分に、気付いてしまっていた。
「うん、よろこんで」
たぶん、心からの返事ができたと思う。
自分の事も、相手の事も、過去も未来も気にせずに。純粋な好意で、返事ができたと思う。
「え、本当に、いいんですか? 私、あまり相手の事考えられませんよ?」
告白は天月からだった。けれど、彼女には自信がなかった。
もじもじと指を絡ませて、頬をより一層紅潮させる。
「知ってるよ、今さらだ」
それに、その誰にも汚されない美しさに惚れたのだから、僕が言うべきことはない。
「迷惑だって、かけるし……」
「それも今さらだ」
「それでも、私なんかで、いいんですか?」
不安げに見上げた瞳が、熱を帯びて僕を見つめる。僕はきっぱりと言い切った。
「なんかじゃないさ、天月詩乃がいいんだ。他の誰でもない、君だけが」
天月でいい。そんな妥協案じみたものじゃなくて、天月が、いい。天月が、好きだ。
蝉時雨が途絶えた。一瞬の静寂。地を這う乾いた風が、天月の顔にかかった黒髪を撫でる。
柔らかに揺れた黒髪の隙間から、ビー玉みたいに濡れた瞳が覗いた。
「じゃあ、よろしく、お願いします……」
「こちらこそ、よろしく」
照れ隠しに差し出された細い手を握り返す。
「メリットは、見つかった?」
「んむぅ……、優しいのに意地悪ですね、君は」
赤らんだ頬を押さえつつ、天月が睨み付けてくる。
僕は笑う。つられた彼女も、恥ずかしそうにニシシと笑った。
──不意に。
けれど、当然の事のように、僕らの距離が縮まる。
どちらから歩み寄ったのかもわからない。
初めからこの距離だったのかもしれない。
いや、或いは。僕たちの距離は、初めから一歩だって縮まっていなかったのかもしれない。
そんなことは、今も当時もどうでもよくて。
僕たちはただ、吸い寄せられるように自然に──
「……フフッ。これでオトナ、ですか?」
「さあ。どうだろうね?」
凍っていた蝉時雨の激流が、溶け出すように押し寄せる。
あの頃の僕たちはどこまでも純粋で、不器用で。後の事なんて、考えた振りだけして放り出していた。
達観した気でいて、その実僕たちは、どうしようもない所で子供だった。
だから僕らは、ほんの些細な違いに、息を詰まらせていった。
付き合う前は平気だった彼女の他人への冷たい優しさにも、モヤモヤした焦りばかりが募るようになってしまった。
──あんまり他の男に優しくしないでほしい
僕は少し、けれど確かに嫉妬している。
本当は、面と向かって彼女にそう言うべきだったのだろう。
けれどその思いが、醜く見えて、喉につっかえて。最後まで、言葉にすることはできなかった。
言葉が埋めるはずだった距離。
言葉が埋められなかった距離。
触れるほど近くて、声が届かないほど遠い距離。
僕らが埋められなかった距離は、気付けば越えられないほど遠くなって。
いつしか僕は、彼女に背を向けて目を閉じた。
好きという感情に蓋をして、天月詩乃から離れてしまった。
『大丈夫ですか?』
『別れるって、そんな急に……!』
『私、楽しかったです』
彼女は声をかけてくれた。けれど、そのどれも核心には触れてくれなかった。
きっと僕たちは、不器用すぎたのだろう。
『もう、友達に戻ろう』
夏に始まった僕らの関係は、その年の冬には冷たい雪に埋もれた。
季節は巡る。
けれど僕らの恋は巡らず、未だに冷たい雪に埋まり続けて。
けれど不器用な僕らは、その宝物を取り出す方法を見付けられないでいる。
寒い、と思った。
見上げた視界に、彼女はいない。
代わりに、見知った駄菓子屋が佇んでいる。
看板だけが真新しい軒先で、一人の女性が箒を片手に笑っている。
「駄菓子屋ノーベル」。そこが僕の、目的地だった。
僕たちの泥棒探しが始まる数日前。
いつもは同じだった天月との帰り道を、真逆の方向に帰った日の事。
僕は天月と別れて、目的の場所に辿り着いていた。
その日は今日より少しだけ蝉時雨がうるさかったことを覚えている。
「私はユダヤ人だぜ」
落陽に濡れたアスファルトを眺めて、死の商人を名乗る女性が呟く。
放課後の駄菓子屋「ノーベル」。飾り気のないカタカナ表記の看板が、実に田舎臭い。
「日本人にしか見えませんよ、ザハロフさん」
言い返して、僕は手にした駄菓子のチョコレートをレジに置いた。
レジに座る女性は「五円」と呟いて、また緋濡れのアスファルトに黄昏る。
「シェークスピア。『ヴェニスの商人』に出てくる、強欲なユダヤの金貸しの言葉さ」
死の商人を名乗る彼女は、道化師のような女性だった。
銀縁の眼鏡にくわえ煙草。
色素の薄い目はいつも眠たげに垂れて、どこか泣いているようにも見える。
けれど口元に湛えたニヒルな笑みが、彼女の表情を誤魔化していた。
「シャイロックですね」
「そ」
僕が差し出した五円玉を受け取って、ザハロフさんは色褪せたレジに放り込んだ。
僕らの遠光台高校の麓に佇む駄菓子屋は、ザハロフさんが一人で経営している。
夏だと言うのにクーラーもつかないこの店は、あまり客入りがよくない。
「いつまで経っても、私はノーベルにはなれないんだ」
白人のように白いザハロフさんの肌を、汗が這い落ちる。
「世界大戦を起こしたザハロフと、人肉を担保に金を貸したシャイロック。ダイナマイトを発明して、世界を爆発させたノーベル。
やったことは紛れもない「悪」なのに、嫌われるのはいつも私たちユダヤ人なんだ。全く以て、損な役割さ」
彼女はもちろん、ユダヤ人ではない。
僕たちと同じ日本人で、プロフィールは教えてくれないけれど、きっと歳だって十も違わないだろう。
けれどそんなことは些細なことで、一高校生である僕には、何の関係もない。
「それで、今日はこの武器商人に何の用だい?」
「忘れん坊の泥棒についてです」
レジに併設されたカウンターに座り、本題を切り出した。
駄菓子屋のザハロフさんは、不思議と見識が広い。その知識を活かして、よく子供たちを集めて都市伝説を聞かせては、その怯える様子を楽しんでいる。
「ふむ、そいつはまあ随分と、突飛な話だねぇ。その手の話題、ニィ君は興味ないと思ってたよ」
「まさか、僕だって年頃の高校生ですよ?」
言いつつ、買ったばかりのチョコを口に放り込む。安っぽくて甘ったるい味が、少しささくれだった心を落ち着かせる。
「噂話くらい、興味ありますよ」
「へぇー、じゃあそのお子ちゃまは、忘れん坊の泥棒の何を知りたいんだい?」
からかうような口調でバサロフさんは謳う。
その言葉に、少し苛つく。初めは自分が言った事だけど、高校生とお子ちゃまは違う。
「忘れん坊の泥棒が十年前にかけた呪いの解き方と、盗んだ少女の行方を」
あの日、忘れん坊の泥棒に呪われた男の子。男の子の見返りに盗まれた、可哀想な女の子。
その行方を、僕は十年前から探し続けている。
「……やっぱり君は、ただのお子ちゃまじゃあなさそうだ」
困ったような微笑と、嘆息。ザハロフさんの表情に、今度は僕が困惑する。
「どういう意味です?」
「いくら都市伝説でも、泥棒と呪いを直結させて考える高校生なんていないだろう? それに君は、泥棒が盗んだものを知ってる口ぶりだ」
藍色の箱からショートピースを取り出して、ザハロフさんがその火口を軽く叩いた。
「おっけい、だが私が言えるのは呪いに関する事だけだ。なんでも私が知ってると思ったら間違いだよ」
葉を偏らせた両切りのタバコを、浅く咥えて火をつける。
時折こちらに流されるザハロフさんの目線が、いやに色っぽい。
「じゃーまず呪いについて定義してみようか。呪いとは法や祝詞が変異したものであるとされ、転じて相手に悪意を大声で伝えること、らしい。さらに現代では魔術的な側面を持ち、対象を殺害、ないし不幸にする意味に変わった、だったかな」
咥えた煙草を軽くふかして、ザハロフさんが持ち前の饒舌を発揮する。
ほんのりと香るバニラの甘い匂いに、ほんの一瞬だけ、それがタバコであることを忘れてしまう。
「……僕まだ未成年なんですけど、受動喫煙」
「おっと、すまないね。すぐ消すよ」
苦笑するザハロフさんが紫煙を吐き出す。灰の煙はどこにも行けず、古い天井の上を這い回る。
その紫煙を、帰っていく恋人のように見送ると、彼女はもう一度僕を見据えた。
栗色に彩られた目。けれどその瞳孔は、深い黒に沈んでいる。
「ま何にせよ、この程度の呪いなら誰でも出来るさ。今みたいに、タバコを吸うだけでいい。ただ君が私に聞きたいのは、「泥棒が他者を魔術的なサムシングで不幸にするか」って所だろうね」
乾いた唇に吸い口を転がすザハロフさんは、不思議と絵になった。
きっと彼女のような人を、タバコを吸うのが上手い、と言うのだろう。
タバコを知らない僕でもうっすらと勘づくほど、彼女の吐き出すショートピースは上品な匂いがした。
「このタバコだって、一種の呪いさ。受動喫煙させた人間の発がん性リスクを高める。じわじわと、相手を苦しめる」
「ま、ショートピースみたいな両切りでやるのは、ちょっと勿体無いけどね」と溜め息がちに火を揉み消す。ザハロフさんのタバコは、かなり高いらしい。
「さて本題だが、どうだろう。彼女は自分が歪めた未来まで知っているからねぇ」
甘い残り香が漂う中で、ザハロフさんは嘲るように嗤う。
それは甘い紫煙と相まって、ひどく艶やかに、けれどひどく哀しげに映って見えた。
「やっぱり、泥棒は実在するんですね」
「おや、なぜそう思うんだい?」
誘導尋問にも似た言葉に、ザハロフさんの眉がピクリと吊り上がる。
「彼女。ザハロフさん、今そう言いましたよね。なぜ性別に触れられていない都市伝説の存在を「女性」と決めつけたんですか?」
忘れん坊の泥棒は、その逸話にしか注目されない。性別は端から噂にもならなくて、その特異性のみが独り歩きした。
元はと言えば、僕らの通う遠光台高校の三年生が流した噂らしい。所詮は高校生が作ったような、安い都市伝説に過ぎないのだ。
「鋭い、ノーベルしょーものだ。でもそこからは、別料金だ。何か買ってきな」
ニヒルに口角を釣り上げて、白く細い指が駄菓子の詰まった陳列棚を指さす。
「じゃあ、この五円玉っぽいチョコを」
「出た、安くて美味しい。でも売る側的には会計の度に『もっと単価高いの買ってほしいなぁ』って思う五円玉のチョコレート。毎度毎度ありがとサンでっ」
半ばやけくそ気味の言葉は、セミの合唱に重なって消えていく。
気にせず五円を払って、席に着いた。立て付けの悪い錆びたパイプ椅子が、キィと鳴いた。
「んじゃあ、結論から申し上げましょうか」
猫みたいに緩慢な動作で背を逸らして、ザハロフさんは僕を覗き込む。
栗色と、深い黒。木々の梢に覗く暗がりみたいに、彼女の茶の眼はいつも暗く沈んでいる。
「泥棒の呪い、あるよ」
ザハロフさんの口調は、都市伝説を語るには不釣り合いなほど、確定的な何かを含んでいるように聞こえた。
「忘れん坊の泥棒に呪われた人間は、小さな盗みを無意識の拒絶で行うようになる。そしてやがて、拒絶を恐れるようになるのさ。だが、それでも決して何かを嫌い、拒絶する気持ちは拭えない。人間だからね」
それが半分の泥棒サ、とザハロフさんは笑う。
まるで、今まで見てきたものを懐かしむかのように。
「それが泥棒の狙い。溜め込んだ拒絶が解放される度、半分の泥棒は忘れん坊の泥棒に近付き──」
煙草の代わりに取り出した飴玉が、ザハロフさんの口許で小さく砕けた。
「やがて本物の忘れん坊の泥棒になるのさ」
「解呪の、方法は」
気が逸る。
呪いと、盗まれた少女の行方。呪いさえわかってしまえば、きっと少女の行方にも近づくはず。
そんな気がして、僕の気はどうしようもなく逸った。
「忘れん坊の泥棒に再会すること。そして、彼を受け入れることだ」
「受け入れる?」
「そ、受け入れる。そして話の流れから察するに、忘れん坊の呪いを受けたのは──」
ズレた眼鏡の淵に掛かった緑眼が、ニヤリと歪む。
「君だろう、ニィ君?」
蝉の声が、最期の断末魔を残して消えた。群青がかかった緋色の空には、気の早い一番星が瞬いている。
生ぬるい風のささやきが、あの日と同じように僕の首根っこを掴んだ。
忘れん坊の泥棒。
最初にその存在を感じたのは、幼稚園の時だった。
あの日の僕らはイチゴ狩りで、幼稚園から少し離れた小さな畑まで歩いていったのを覚えている。
イチゴ狩りの最中、仲の良い男の子と喧嘩をした。どっちの採ったイチゴの方が大きいだとか、そんな些細なことだったと思う。
けれど僕たちは大真面目に喧嘩して、僕は右腕に引っ掻き傷まで作ってしまった。
──こんな喧嘩なんて、なくなっちゃえ
家に帰ってからも、その喧嘩が悲しくて仕方がなかった。悲しくて、悔しくて、「なくなっちゃえ」と願った。
けれど翌日。その喧嘩は誰も覚えていなくて。それどころか「楽しかったね」だなんて、喧嘩した本人が笑いかけてきた。
僕の気まずい気持ちは置き去りに、周りの皆は誰も喧嘩なんて覚えていなくて。ハプニングと言えば、僕が転んで右腕を怪我したことぐらいだと、先生は笑った。
──違うよ、この傷は友達と喧嘩したんだ
泣き出したくなる気持ちを、言葉と一緒に飲み込む。苦くて、渋い、我慢の味。
堪えた涙に目を瞑った時。頭に声が響いた。
《おやおや、偉いねぇ坊っちゃん。ご褒美にチョコを上げようかい。きっと甘くて、胸の苦いのもなくなるよ》
やけに饒舌で、優しい言葉。その魔女みたいに嗄れた声を聞くと、胸の苦いものが消えていく。
けれどその声は心なしか、とても悲しげに聞こえた。
死んだ子供の歳を数える母親みたいに優しくて、胸を抉るように痛い。
その声は、僕の人生に度々響いては、チョコをくれた。
安っぽくて、甘ったるい、五円玉のチョコみたいな味。代わりに世界から消えていく「嫌なもの」。
僕はなんでも消してしまうその声が少し怖くて、でも何故だか嫌いにはなれなくて。
──おばあさんは誰? なんで僕が見えてるの?
ある日、彼女に聞いた。
《泥棒です。男の子が信じてくれたなら、泥棒は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだって出来るさ》
彼女の何故か記憶に残らない滑らかな声が、歌うように口上を上げる。
後から知ったけれど、それはサル面の大怪盗が、高い高い塔に囚われた、可憐なお姫様を救い出そうとしたシーンのセリフだった。
それから僕は、彼女を「忘れん坊の泥棒」と呼んで親しんだ。幼い子供の頃の、誰にも見えないお友達。その程度に考えていた。
けれど、それは間違いだったんだ。
あの日。ソーダみたいに弾けた空の、あの日。
僕はできたばかりの友達と遊んでいて、そこにやけに陰気な女の子が入ってきたことを覚えている。
妹なんだ、と友達は煩わしそうに言った。
「じゃあこの子も入れてあげよう」
と僕は言った。
相変わらず煩わし気な友人を置いて、僕は彼女の手を取る。友人は一つ年上だから、彼女は僕と同い年だ。遊ぶ友達は多いほうがいい。
それに、彼女は少し可愛かった。
「たすけて、ください」
三人でかくれんぼをしていた時。一緒に逃げていた彼女が、僕の袖を引いた。
「お兄ちゃんが、わたしをいじめるんです。けどお父さんもお母さんも、信じてくれない」
僕と同い年なのに、彼女は随分と丁寧に喋った。けれどその声に感情はなくて、その目に光はなくて。
僕は初めて見た、僕とは違う世界に生きてきた少女を、怖いと思った。怖いと思って、引かれた袖を振り払おうとした。
《おや、これはかわいそうに。家族に愛されない子供はいるもんだ》
本当の同情を混ぜた声が、頭の中に響く。
忘れん坊の泥棒が、またやってくる。
《けれどお前さん、その救いを求める手を、振り払おうとしたね?》
ドキリ、と心臓が跳ね上がる。冷たい汗が流れて、悪戯がバレた時みたいに胃がキュッと持ち上がる。
僕の見た世界を、僕越しに見る泥棒。それが怖くて、気持ち悪くて。
僕は初めて本気で泥棒を拒絶した。
《随分酷いことをするんだねぇ。まるでいじめっ子みたいじゃないかい、ええ?》
「僕を覗かないで!」
「キャッ」
引かれた袖を、振り払うことすら忘れて叫ぶ。泥棒の声は僕だけにしか聞こえない、僕だけの友達なのに。
声に驚いた少女が、掴んでいた袖を離す。
鬼が迫ってくる。その目には、幼い子供の無垢な悪意が浮かんでいた。目は、少女を見ている。
《おや、いい拒絶だねぇ。お前さんにはセンスがある。けど鬼に見つかっちまったよ? ああ、なんだい。あの坊っちゃん、自分の妹しか見てないじゃないかい》
「いやだ……」
何もかもが。泥棒が、自分の妹をあんな目で見る少年が、自分とは違う世界に生きさせられている少女の存在が。
嫌で嫌で、堪らなかった。
「お前っ、かくれんぼなのに一緒にいちゃダメだろ!」
「イタ……ッ」
少年の丸い手が、少女を僕から引きはがした。そのままの勢いで、彼女を地面に引き倒す。
開いた少年の瞳孔は、悪魔みたいに黒く煌めいていた。
「オレの友達の邪魔するな!」
違う、そんなひどいことする奴は、僕の友達じゃない。
僕を使って、彼女を責めるな。
張り裂けそうな胸の慟哭。
拳を振りかぶる少年。
諦めたかのように、茫然と少年を見つめる少女。
《嗚呼、まったく酷い。かわいそうだねぇ。お前さんがすぐにでも手を取っていれば、《《ああ》》はならなかっただろうねぇ》
少女に同情していた泥棒の声が、いつしか冷めたものに変わっていた。代わりに滲んだ蔑むような声が、僕を非難する。
じゃあ、どうすればよかったというのだろうか。子供の自分にはわからなくて、涙が滲む。
《簡単だよ。嫌だ、やめろ、と言いな。泣いて解決するものは、世界にありはしないんだ》
この世界は、優しくはないのだからね。
少年の拳が、少女の頬に振り下ろされる。
少女は何も叫ばない。
ただ茫然と、迫る拳を見つめている。
その時見えた小さな瞳が、ただ一つ彼女の言葉にならない悲しみを訴えてるみたいで、気付けば僕は叫んでいた。
「ヤメロォォォォ──!」
ザアと風が吹く。
前髪が目に入って、目を瞑る。
頭に、泥棒の声が響く。
《毎度あり。男の子が信じてくれたから、泥棒は女の子を盗んで見せよう》
その声が脳を揺らして、僕は意識を失った。
翌日。
学校で出会った彼は僕を見て「誰?」と言った。少女のことを尋ねても「妹なんていないけど」と言った。周りも、知らないと言う。
《どうだい、哀れな少女を盗んであげたよ? 暴力的な少年との仲は、ま、おまけさね》
彼女はいなかった。一組にも、二組にも、三組にも四組にも。
貴重な昼休みを使っても少女は見つからなくて、午後の授業を告げる予令の中、一人教室の机にしな垂れかかる。
盗まれた彼女は、それきり僕の前に姿を見なかった。
その誰にも知られない事件から、僕は忘れん坊の泥棒を、心の底から怖いと思うようになった。
「もう、喋りかけないでください……」
《おやおや、ついに嫌われちゃったかい?》
「お願いです。あなたが盗むと、僕が泥棒になったみたいな気分になるんです」
僕が拒絶して、彼女が盗む度、自分の中で、忘れん坊の泥棒の存在が強くなっていく。
僕が覚えているものが世界から忘れられていく度、自分こそが泥棒なのだと錯覚してしまう。
《まあ、仕方ないさね。得てして泥棒は、忌み嫌われる鼻摘み者だからねぇ。いいだろうさ、さよならだ》
頭の中で嘆息が零れて、思考がぼやける。
遅くまで外で遊んだ時みたいに。夕飯時に襲い来る睡魔みたいな心地よさが、疲れた体にのしかかる。それは、忘れん坊の泥棒の温もりにも思えた。
《だがこれだけは覚えておきなさい。お前は、泥棒を、忘れられない。泥棒の呪いに頼った奴は、自分も呪いにかかって泥棒になってしまうんだよ》
ふわりと、視界に長い黒髪が揺れた気がした。それはただの幻影だったのかもしれない。
こんな泥棒と起こした、こんな不思議な出来事なんて、フィクション以外の何物でもないのだから。
《じゃあ、餞別に金メダルをやろう。泥棒のとっておき。世界で最も偉大な武器商人の賞さ》
首筋に、そっと触れた掌の感触。
小さく布が擦れる音がして、薄い帯が首に掛けられた気がした。
《お手製の模造品だが、泥棒にはお似合いさね》
泥棒の声が、満足げに頷く。
けれどその声は、優しさよりも悲しみの方が色濃く滲んで、小さな胸を優しく締め付ける。
閉塞感と、泥棒から伝播する悲しみ。視界は段々と暗く狭くなって、けれど首にかかったメダルの煌めきが、最後まで僕を惑わし続けた。
《──ね》
別れ際の言葉に、彼女が何か言っていたような気がした。
目が覚めてしまった今となっては、それももうわからない。
メダルも、もう見えなくなってしまった。
あの夏。あのソーダみたいな空が弾けた夏。
僕は泥棒から逃げ出して、そしてきっと、泥棒の呪いに囚われた。
少女は盗まれたまま行方知れず、僕も半分の泥棒になって、忘れる世界に取り残された。
この呪いを解くにはきっと、もう一度忘れん坊の泥棒に会うしかないのだろう。
『──私と一緒に、短冊を飾りませんか?』
彼女の言葉を思い出す。
来年の話をすると鬼が笑うと言うけれど、彼女とまたいられるのなら、それもいいと思った。
《息子よ、飯だ》
父からのメールが、僕を追想から呼び起こした。
十年経ったあの日のかくれんぼは、未だに僕を罪悪感で押し潰す。
その日の夕飯は、不思議と味がしなかった。 退屈なテストの解説を聞き流して、その学期全ての授業が終わった。
大半の生徒にとって、既に終わったテストの解説に意味はない。
ある生徒は自身の点数に嘆き、またある生徒は夏休みの計画を嬉しげに語る。
誰もがそわそわして、それに対する先生も、どこか寛容な態度で応じる。そんな少し、浮わついた教室の中。
理系科目のテストを記憶から抹消しつつ、ぼんやりと思い出す。
『続きはまた明日、って言ってたけど、どうする?』
帰りの集会の中。机の下に隠したスマートフォンで、天月へメールを送る。
僕と天月の距離は、古びた小さな椅子一つ分。僕が前に座って、天月が後ろに座る。
けれど僕たちは、その距離を縮められないでいる。
話しかけようとして、でも、できなくて。
昨日の放課後の会話が嘘みたいに、僕と彼女の間には何の接点もない。
もどかしい。
見つからない会話の糸口も、話し掛けようと決めた後の一呼吸も。メールの白い空白さえも。
夜空に打ち上げられた花火の、咲く前一瞬の静寂みたいに。
間の抜けてしまった僕達の距離感は、あまりにも遠く白くて、もどかしい。
「……っ」
重力に負けた視線の先で、ミュート設定のスマホが静かに光った。
先生に見えないようにロックを解除して、メールを起動する。
『忘れてたやーつ、ですね』
感嘆符のない、シンプルな文面。いつも通りの天月のメールなのに、なぜか今日ばかりは、胃に錘が乗ったみたいに、気分が沈む。
『放課後、また図書室で会いませんか?』
『わかった』
簡素なやり取りを終えて、プリント類を鞄に詰め込む。
「先に行ってますね」
「うん」
色のない言葉。
伸ばしかけた手が、中途半端に宙をかく。僕らの距離感が、怖かったから。
途中で引っ込めた手のやり場に困って、首筋にそっと添える。
「行きたくないな……」
終礼を終えて人が疎らに消えていく教室。出ていった天月の遠い背中を見つめて、ポツリと零す。
きっとそれは、単なる虚勢とほんの少しの臆病が生み出す、小心者の虚栄心。
行きたいのも行きたくないのも本心で、素直になれない心を引きずって、教室を出た。
七夕の日から雨を忘れた夏に、今後一週間雨の予報はない。
チャンスと叫び鳴く蝉の愛唄を煩わしく聞き流して、一階下の図書室に入った。
暇そうな図書委員の先輩に軽く会釈する。
「おっせーですよ元カレ君っ」
いつもと違う席。かつて在籍していた先生の名を取った本棚に挟まれて、彼女は僕を指さす。
「うん、図書室ではお静かにね」
「あっ、すみません……」
シーと口に人差し指を当て、彼女は慌てて口許を押さえる。
いつもと変わらない会話。いつもと変わらない、天月の表情。
どれだけ会いたくないと感情を誤魔化しても、彼女の顔を見るとまた胸がざわついた。
「それで、お返事を聞きましょうか元カレ君」
クーラーの直風を避けた席に腰を下ろして、天月は僕を見つめた。
海みたいに深くて、けれど飴細工みたいに透き通った、蒼い瞳。
その真っ直ぐな瞳は、いつだって僕とその先を見通してる。
『また一緒に、優しい世界を探してくれませんか?』
彼女の言葉を思い出す。
優しい世界を夢見て、忘れん坊の泥棒を探す少女、天月詩乃。僕が唯一好きになって、そしてすれ違った、ちょっとかわった女の子。
「優しい世界ってのは、僕にはちょっとわからないよ」
言葉にした途端、天月の表情から力が抜けた。
真っ直ぐに結んだ唇が、弱々しく歪む。
諦念と、それを包むオブラートみたいな、弱い微笑だった。
「でも──」
僕が天月に抱くこの感情は、きっと恋と似ている。
ふとした日常に流れる曲のフレーズが気になって、けれどその曲名が思い出せないのと同じように。
曖昧でモヤモヤと胸の焼ける、不思議な気持ち。けれどもう、一度濁したその問いへの答えを、僕はもう迷わない。
「だからこそ、見てみたい。手伝うよ、泥棒探し」
これはきっと、恋じゃない。
あの日。あの蝉時雨と、海を写した快晴の日。
天月に差し出された手を、僕はまだ握り返すことはできないのだから。
「いいんですか、本当に?」
微笑が消えた。
歪んだ口角は、また元の真っ直ぐな線を描いている。
「ただの七不思議ですよ? 二条君、確か興味なかったと思いますが」
「いや、僕も泥棒には用があるから」
普段彼女が見せる、明るい太陽みたいな顔とは真逆の、月みたいに冷たい表情。
初めて見るわけじゃないのに、心とか言う不治の病は、肺の中でしゅわしゅわと入道雲が沸き立つみたいに、痛む。
「天月は「元カレ君」と一緒でやりにくくないのか?」
ひねくれた邪推が、口を突いて飛び出した。
天月の顔が、声音が。梅雨空みたいに曇ったのが、はっきりと感じられた。
「……そんなこと、ないですよ」
それは否定というよりは、自分に言い聞かせるような暗い色をしていた。
「私は、二条君と一緒がいい、です」
「どういう意味、それ?」
きっと言葉は、子供の時に考えていたほど難しいものじゃない。
けれど人の感情は難しくて、だから深読みをする。
「そのままの意味です」
「邪推」と言う言葉を知るのは、きっと人の言葉を素直に信じられないほど、臆病になってしまった時だ。
人を信じられる純粋なうちは、そんな使い道のない言葉なんて、覚える必要がないのだから。
「あの時私の何がいけなかったのか、二条君の何がいけなかったのか。私だって、そう言うのには疎いなりに考えたんです」
自分が作った話の流れを、今更ながらに恨んだ。
人生経験の薄い僕たちの年代にとって、一番大きな傷として残っているのは、きっと恋愛についてだ。
伝えられなかった片想い。すれ違ったまま離れていった二人の愛情。
恋と愛の違いも判らず、舌触りと偶像への憧れだけで恋を歌う僕たちには、あまり触れられたくない傷の核心。
その傷に触れる度に内臓が持ち上がって、またドン底まで墜とされたような、胸の消失感に蝕まれる。
「だから、お互いにどうするべきだったのかも、わかっているつもりです」
早くチャイムが鳴ればいいのに、と心から思った。授業中いつも願うよりも強く、切実に。
けれど現実は、優しくない僕らにも、優しい聖人君子にも優しくなくて。五時でもないのに、チャイムが鳴るはずはなかった。
「それは僕も考えたし、わかってるつもりだ」
バツの悪さよりも、何より天月の言いかける「答え」が聞きたくなくて、僕は彼女の言葉を遮る。
今さら言わなくても、わかりきったことだった。
「じゃあ、答え合わせしましょうよ」
拗ねたように口を尖らせて、天月は言う。
その瞳を、緊張が少しだけ揺らしていた。
「それもいいかもね」
でも、と消しゴムのカスが残る机上に逆説を置いた。
「でもそれは、忘れん坊の泥棒を見付けてからにしてくれないか?」
「わかりました」
天月は諦めが悪い。
けれど今日の彼女は、驚くほどあっさりと僕の意見を受け入れてくれた。
半年前、過剰なまでに周囲に優しくあろうとした彼女は、もう消えつつあるのかもしれない。
けれどその本質までは変わらなくて、他人に干渉しなくなった分、むしろ優しさに幻想を抱くようになった。今の彼女は、危なっかしくて放っておけない。
「じゃあ、私からも提案があります」
言いつつ天月は、奥まった通路の壁に掛けられたカレンダーを眺める。
「明日は終業式です」
だね、と頷く。
テストの返却が終わった翌日から、僕たちの高校は終業式を経て夏休みに入る。
「明日の放課後から、もう元カレ君とは会えなくなります」
「悲しいな」
その首肯は、紛れもない僕の本心。
正直に伝えたいけれど、でも伝えるのは少し恥ずかしくて。苦々しく吐き出した本心がバレないように、色のない声でそれを覆い隠した。
天月が口を尖らせる。
「……嘘つき」
「本当さ。それで、どうするんだ?」
これ以上自分の本心と向き合い続けたら、気がどうにかなりそうだった。
だから話を強引に逸らして、会話を終わらせようとした。
「嘘つき弱虫の、元カレ君ヤロー……」
まだ少し不満そうだったけれど、僕の小へさな罵倒を置いて、天月は事の説明をしてくれた。
「遠くて会いにくいのなら、毎日無理やり会っちゃえばいいんです。意図的に」
喧しかった蝉の声が、一瞬だけ遠く感じられた。
忘れん坊の泥棒を探すなら、夏休みを置いて他にない。
けれど、家の離れた僕たちが夏休みを一緒に過ごすことは難しい。
ならば、多少無理をしてでも会うべきだ、と天月は言った。
「その無茶ぶり、もしかして怒ってる?」
「嘘つき弱虫君には、教えてあげません」
ステレオタイプな拗ね顔が、僕から目線を逸らして、形のいい鼻梁がツンと天井を向く。
その顔にかつて見た彼女の子供っぽさが重なって、少し懐かしいような、胸の奥がツンとするような新鮮な気持ちになった。
「わかったよ」
笑いが自然と転がり落ちた。
あの頃していた会話の大半は取り留めもなくて、もうあまり思い出せない。
けれどきっと、あの頃の会話は、こんな風に天月も感情豊かだった。
「じゃあ、夏休みからよろしく」
「へんっ、しょーがないから、お願いされてあげますっ」
「図書室では、お静かに」
「あっ、すみません……」
今の僕たちは、きっとあの頃に一番近くて。
けれど臆病になった分、あの頃から一番遠い。
きっとそれを、世間では「大人になった」と言うのだろう。
クソくらえだ、と思った。自分の気持ちに蓋をし続けて、言いたいことも言えないままで大人になるのだったら。僕はずっと子供でいい。
「本当は、夏が明けても──」
言おうとした言葉は、鐘の音が言わせなかった。
チャイムはいつも、空気を読んでくれない。
夏休みがやってくる。
終業式は滞りなく進んで、無駄に長い校長の話にお尻が痛くなった。十一年目になっても、体育館の固い板の床には全く慣れない。
通知表に赤の丸がなかったことだけが救いのような一日だった。おかげで天月との約束を、欠点者補修に奪われないで済む。
「二条さー、欠点何個あった?」
終業式からの帰り道、国道沿いのコンビニに屯っていると、隣に立つ友崎が尋ねてきた。
「いや、まずないから、友崎は?」
「え、学年13位にあると思ってんの?」
「はいはい、ないない」
適当な会話を続けつつ、安いソーダ味のアイスを食む。
僕の分は、学年上位を取って気分のいい友崎の奢りだった。
「お前、夏休みどうすんだ?」
茹だる夏の直射日光に項垂れていると、頭上から声が降ってくる。
「どうせ暇だろ? どっかいこーぜ」
「残念、ほとんど埋まってるよ」
忘れん坊の泥棒を探すんだ、と言うと、友崎の怪訝な顔が見られた。
「忘れん坊の泥棒? お前が七不思議か」
「なんだよ」
「いや、珍しいなー、と思ってさ」
行き交う車の流れを眺めながら、友崎がポツリと溢す。
「で、誰と?」
「んー、天月と」
「え、あいつ?」
気だるく返した答えに、友崎の声音が沈む。
アイスの僅かな残りが溢れて、アスファルトの上に黒いシミを描く。
「なあ、止めとけよ」
「なんで」
「なんでって……」
零れ落ちた溜め息の中に、友崎の躊躇いが見えた。
彼の躊躇は初めて見る。彼との付き合いはまだ二年目だけど、教室で過ごした時間で言えば、他の誰よりも長い。
下手に会話をしない天月よりも、比較的何でも話せるのが友崎だった。
「知らねぇの? あいつ、殺害予告されてるって噂だぜ?」
殺害予告。
唐突に転び出た非日常的な単語の意味をなぞって、眺めて、またなぞる。
(天月が、殺される)
いくら反芻しても、衝撃はない。現実味も、上手く仕事をしてくれない。
「それも七不思議?」
「ちっげーよ、マジなんだって。最近ホラ、連続強盗殺人だってあんじゃん!」
友崎の振り回したソーダバーが飛び散って、剥き出しの太陽が威張る空に溶けていった。
先端の丸い棒が現れて、そのアイスに隠れていた文字が、少しだけ顔を覗かせる。嫌な予感がした。
「なあ、巻き込まれるって、やめとけって。な?」
心配そうに覗き込む友崎と目が合った。
大丈夫だよ、と返して、一気にソーダバーを齧る。覗いた棒に、文字はない。
「それに、もしそれが本当なら、学校だって何かしらの反応するでしょ」
行き交う車に反射する日光が煩わしい。
こんな山田舎のどこにこれ程の車があるのかと、不思議に思う。
「してただろ、呼び出されてたじゃん、天月」
「それ、いつ?」
「一週間前、数学のテストが終わった後、すぐ。警察にも行ったらしいぜ」
「ふーん」
期末テスト中日の数学は酷かった。解けた問題は半分しかなくて、そして正解していた問題は、それよりさらに少なかった。
正直、天月どころではなかったのかもしれない。
「おい、二条」
真っすぐな声音に、咎めるような色が混じった。
「お前さ、なんでそんな天月のこと避けんの?」
「避けてない」
「嘘だろ。全部」
否定の声は、いよいよ大きくなった友崎の声にかき消される。
結局友達も他人に過ぎないというのに、友崎の顔は悲しげに、悔しげに歪んでいた。
「お前、元カノのこと忘れたいから、全部上っ面だけで否定して、考えんの止めてんだろ。そうすりゃいつか、本当に嫌いになれるって信じて」
「うるさいな、お前に」
何がわかるっていうんだ。
激情のままに吐き出そうとした言葉が、胸に刺さった。
誰も人の気持ちなんてわからない。それは僕も同じだった。
天月の気持ちなんて、わかりっこない。
「……仮に天月の殺害予告が本当なら、僕はどうすればいいんだ」
天月が殺害予告を出されて怯えている姿なんて、想像できない。
少なくとも図書室で話した二日とも、彼女が怯えているようには見えなかった。
「話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん」
「僕はそんな大層なもんじゃない」
僕に何かできること。そんなことは端から無いに等しくて。でもそれが、悔しいことも確かで。
僕はただ、アスファルトに引っ張られていくソーダバーを見下ろしている。半分溶けた塊が、落下と同時に崩れて溶けた。
「俺、もう止めねぇからな」
食べ終わったアイスの棒を食んで、友崎がポツリと溢す。
その言葉の真意を知りたかったけれど、黒く湿った棒に「あたり」と書いてあるのを見て、止めておいた。
「らっきー、あたりじゃん!」
「よかったね」
「ちょっと交換してくる!」
一転、興奮した友崎が遠ざかる。
友崎にはあって、僕にはないアイスの当り。僕にはあって、友崎にはない数Ⅱの赤点。
(交換してほしい……)
ぼんやりと思いつつ、暑苦しく白んだ空を見上げた。
青くて、白い、夏の空。
蝉と太陽に飾られた空は無駄に明るくて、何もしていないのに罰を受けている気分になる。
「夏休み、かぁ……」
明日から夏休みが始まる。
皆が宿題の山と戦って、学校のアルバイト禁止令を破って、密かに小遣い稼ぎに奔走する、夏が。
僕はこの夏、どこに行けるのだろう?
天月と忘れん坊の泥棒を見付けて、彼女に送られた殺害予告を笑い飛ばせるようになるのだろうか。
学校の宿題は、期限が過ぎても提出できる。
けれどこの宿題は、この夏にしか見つけられない、大きな命題だった。
*
その日の夜は眠れなくて、意味もなく点けたテレビは、夜中になっても無機質なニュースを流していた。
地域名産の桃が旬を迎えたとか、高速道路が予定より三年遅れで開通しただとか。
そんな毒にも薬にもならない情報が、忙しなく画面を流れては、味気なく消えていく。
けれど僕の頭の中では、天月の殺害予告がループしていて。
誰かの幸せも不幸も、全く頭に入っては来なかった。
天月への殺害予告の結末を、よく聞く話に当て嵌めるのなら。それはきっと、ただの一文で片付くのだろう。
《ストーカー被害女性、自宅で刺され死亡》
そして翌日かその日の夕方、棒読みのニュースキャスターが言うんだ。
──人が死にました
頭を振った。
違う、そんなの、僕が望んだ結末じゃない。
こんな意味のない妄想で徒に拒絶心を煽っても、泥棒の呪いに縛られ続けるだけだ。
『次のニュースです』
僕の煩悶なんて気にも留めず、ニュースキャスターは原稿を進めていく。
芸能人の結婚、不倫と離婚、株価の推移。そのどれもが薄い紙切れ一枚で冷たく語られる。
『今日未明、加賀美宮市の住宅街で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』
そのニュースは、ほぼ呪いとも思えるタイミングで、僕の耳に穴をあけた。
続報に耳を澄ます。
事件が起こったのは、隣の市の外れ。
被害者は天月じゃない。
ホッと胸を撫で降ろす手が、鳩尾あたりで固まった。
痛いほど握り締めた掌に、生きている証が叫びかける。
「最悪だ」
誰かが理不尽に命を盗まれたと言うのに、僕はそれが天月じゃないと知って安心してしまった。
誰かの不幸を「自分とは無関係」と切り捨ててしまった。
「こんな誰も救われないニュース……」
こんな汚い感情、無くなってしまえばいい。
嫌だ、要らない、と心底思った。
《無くなってしまえばいい》
強く強く、胃がねじ切れそうなほど。それは丁度、十年前のあの日のように。
僕が初めて抱いた拒絶心が、また僕の中で揺れ動く。
《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》
泥棒の笑い声が、聞こえた気がした。
明けて七月二十一日、夏休み初日。
蝉は相変わらず盛り続けて、遠光台全体が蝉の海岸になったみたいに喧しい。
夏休みの初日から「泥棒探し」を開始する僕たちは、JRの駅前に集合することになっていた。
『着?』
ズボンのポケットに入れたスマホが震えた。
『着』
簡素過ぎるメッセージを返して、白い空を見上げる。
JRの駅前に設置された彫像が、夏空の下で茹っていた。
駅前のこの彫像は、地元でもちょっとした待ち合わせスポットになっている。
渋谷駅前のハチ公と同じだ。
『みーつけた』
感嘆符のない、シンプルな文面。
まるでどこかの物語に登場するサイコパスみたいだった。
「おはよーです、元カレ君」
「おはよう、天月」
見上げた視線を、声のした方に下げる。
久しぶりに見る天月の私服は、その白いブラウスが白い太陽に溶けているようだった。
「似あ──」
似合ってるよ。
その言葉は、喉に詰まって出てこなかった。
恋人でも、恋人でなくても。その言葉を口にする事は、多分そんなに珍しいことじゃない。
だとすれば、そう。これは単なる「気恥ずかしさ」だ。
「どうしました?」
見つめる先で、天月が首を傾げる。
そこで始めて「天月を見詰めている」と言うことに気付いて、慌てて目を逸らした。
白い空も、茹る銅像も。何も頭に入ってこない。
「……いや、何もないよ」
歯切れ悪く誤魔化して、日陰に足を踏み入れる。
遅れて歩き出した天月が僕に並んだ。
「どこ行くんです?」
「とりあえず、駅に入ろう。暑くて溶けそうだ」
「さんせーです。泥棒より、クーラーが欲しいです」
陰を縫うようにして駅の構内に入る。
古びた田舎の駅には、湿気た空気が行き交う人波と一緒に舞っていて、お世辞にも涼しいとは言えない。
「元カレ君、何か当てないですか?」
自販機のソーダを二人分買って、天月は僕に尋ねた。
130円を渡そうとすると、自販機横のベンチに座った天月が「いらんです」とソーダを遠ざける。
「悪いよ」
「いえ、これは情報料ですよ」
「情報がなかったら?」
「私が二本飲みます」
天月が器用にプルタブを起こす。
ぷしゅっと炭酸の逃げる音。海の水泡みたいに弾ける、炭酸の飛沫。
汗か炭酸か。一筋の雫が伝う、白く細い首筋。
ふっくらとした胸の膨らみから腰の曲線を目線でなぞって、ハッと顔を上げる。
天月が両手に缶を持って、首を傾げていた。
「情報、あります?」
触れる距離に天月がいる。
彼女の海みたいに綺麗な瞳には、僕だけが写っている。
それだけで、心臓が狂ったように暴れだす。言葉が、喉につっかえる。
「あるには、ある。けど」
「けど?」
「あんまり役には立たなかったな」
天月は無言になった。
けれどその目の煌めきは、まるでほしいオモチャを見つけた子供みたいに、話の続きを急き促す。
「ノーベルだよ。その手の話は、ザハロフさんが詳しい」
「……アリョーナさんですか、あの人も悪趣味ですね」
ザハロフ、或いはアリョーナと呼ばれる駄菓子屋は本名を明かさず、常に名乗る名前を人によって変える。
ある時は世界大戦を引き起こした武器商人や、人肉を担保に金を貸した、強欲なユダヤの金貸し。
またある時は、最新鋭の大砲で新興国を軍事大国に変えた大砲王。物語の序盤で主人公に殺される、高利貸のロシアの老婆。
その全ては、人の人生を狂わす卑しい商人に関連していて、そのせいか彼女は、自分自身を「死の商人」と呼んでいる。
「あの人も、優しいと言えば優しいのでしょうね」
「君は優しいの範囲が広すぎるよ」
天月が優しい世界を探すのは、たぶん言葉にするほど大それた事じゃない。
きっとそれは、子供の頃に夢中になった「探検ごっこ」の延長に過ぎないのだろう。
いつか僕らも大人になって、冒険心はどこかに置き去りにして。
着実に進む時間の中で、周りの人達に合わせて歩き出す。それは丁度、この駅を行き交うスーツの群れみたいに。
そんなことはきっと天月も知っていて、だからこそ泥棒を探すのだろう。
それが彼女なりの、子供だった自分自身へのサヨナラの仕方なのかもしれない。
「やっぱり払うよ、130円」
「提案はしてもらったので、いいですよ」
「ザハロフさんの名前しか出してないよ」
「十分です」
天月の反対を聞き流して、手渡されたサイダーに口をつける。
強炭酸のはずのサイダーからは、もうすっかり炭酸も逃げ出していた。どれだけ振ったんだ、そしてなぜこっちを渡したんだ。
「じゃあ、これから僕がする質問への情報料、とでも思ってくれればいい」
飲み口に口をつけたまま喋ると、中で反響した声が歪に歪んで聞こえた。
それはまるで、僕が今から天月に投げる質問への、どうしようもない煩悶みたいだった。
「殺害予告されたって、本当?」
改札の閉じる電子音が残響を引いて、僕たちの間に寝転がった。
天月の顔には、無が印刷されていた。
「何で知ってるんです?」
嘘だろ、と思った。
これは質の悪いドッキリで、実は今も、友崎が柱の陰からカメラを回してるんじゃないか、としか思えなかった。
だって、そうじゃないか。
芸能人でもない、ただの女の子が、誰かの殺しの対象になるなんて信じられない。現実味が、ない。
「否定しないの?」
「ええ、だってほんとですもん」
けれど天月は否定しなかった。
大切な人の死を知らない僕にとって、死は余りにも遠い、蜃気楼みたいな存在。
それを目の前の、ずっと近くにいた少女が一番死に近いかもしれないなんて、どうしても考えられない。
『話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん』
友崎の言葉を思い出す。
言われた瞬間だって、一夜明けた今だって、僕が話を聞く意味は分からない。
けれど、天月が僕の立場なら。きっと彼女は声をかけるのだろう。
だから僕は、精一杯平静を装って声をかける。
「犯人に心当たりはないの?」
「ない、ですね」
無表情に答えた天月は人形みたいで、まるで自分のことなんて興味がないようだった。
「最近何か変わったこととかは?」
「ないです」
「警察はなんて?」
「実害がないから人員は裂けない、って」
警察も優しくないですねぇ、と缶に口付ける。
天月の声音は、どこまでも他人事のような白々しさを滲ませていた。
「やっぱり、現実味、ないよ」
「わかってます」
起伏のない表情を目の前の改札に向けて、天月は呟く。
首肯しないその小さな頭からは、長い黒髪が滝のように流れ落ちている。
「でも、どうせ世界が優しくなったら、私はその世界にいられませんから」
「自殺でもするつもり?」
「あー、それもいいかもですね」
内心の動揺を、隠すように発した冗談。
けれどそれは、何の感情もない声に同意されてしまう。
ふざけるな、と思った。それじゃあ初めから、天月は死ぬつもりなんじゃないか、と。
「勝手にしろよ」
「冗談ですよ」
「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるよ」
本当に言いたいこと。けれど、言えなかったこと。
返す言葉が見つからないのなら、その全てはどうでもよくて。ただ居心地の悪い話を終わらせようと、僕は言葉を吐き捨てる。
ベンチを立つと、止まっていた時間が動き出した気がした。
人々は通勤通学に改札を抜け、蝉時雨はうるさいくらいに降り頻る。
「帰りますか?」
まだベンチに座っていた天月が僕を見上げる。
天窓から漏れた陽の光に反射して、薄い青の散った瞳は、水面のように煌めく。
「帰らないよ」
天月が一度口をつけてから、ずっと振り続けていた缶が止まった。
行き場を失って停滞した炭酸が、しゅわしゅわと弾けている。
「変わった人ですね。私みたいなのと一緒じゃ疲れるでしょ」
「一緒にいて疲れない人間なんていないよ」
どうせ疲れるなら、退屈しない方がいいに決まってる。その分の徒労感も強いけれど、軽く心地よくすらある。
友達と遊んだ日の夜みたいな、あの懐かしい徒労感と、少し似ているのかもしれない。
「結局は惰性で付き合える人が、僕は一番いいと思うよ」
「とんだひねくれやろーですね」
笑いながら、天月が立ち上がる。
「どこ行くの?」と聞くと、「秘密です」と返ってきた。
「せっかく駅に来てるんです、少し遠出しましょう」
「いいよ、行こうか」
「決まりです!」
目を輝かせた彼女に促されるまま、改札を超えた。
出張販売のたこ焼きやパン屋から漂う匂いに、行き交う人々のざわめきが混じる。
急に遠出するのは気が引けるけど、止めたところで天月が素直に従うはずがない。
女の子一人で遠くに行くのは、あまりにも危険だ。着いて行くしかない。
(殺害予告だって……)
考えて、途中でやめた。
そんな非現実的なこと、考えたって無駄だ。
今は、泥棒探しに集中しよう。僕が探す女の子だって、まだ見つかっていないのだから。
それから僕たちは、ローカル電車に飛び乗った。
他愛もない会話でお茶を濁し、パーソナルスペースぎりぎりの距離で吊革を握る。
発車と同時に揺れる電車に、跳ねる天月の体。
時々触れる、肩と手の甲の滑らかな感触。
「クーラー、効いてないね」
「ね」
触れ合えるほど近くて、けれどきっと、気持ちは届かないほど遠い。
いっそ天月の事、嫌いだったら楽だったのに。そんなことを考えていると、前の席に座っていたサラリーマン達が降車していった。
「座りなよ」
「元カレ君は座らないんですか?」
「いいよ。僕はまだそんな歳じゃない」
「それ遠回しに私のこと「おばあさん」って言ってません?」
いいから座ってください。
天月の冷たい手が、僕の手を引いた。
決して強くはないのに、けれどその手には逆らえなくて。引き寄せられるままに、天月の真横に腰を落とす。
周囲の空気が揺れて、シャンプーが匂った。
「これで元カレ君もおじいさんですね」
小さな顔が傾いて、長い髪が揺れて。僕の胸が、少し高鳴って。
けれどそんなことは知らない夏の陽が、陽気に僕らを包み込む。
──ちょっと、近いよ
遮光版に阻まれた陽光に、羞恥心と高揚感が燻し出される。
窓外を流れる田園地帯と、抜けるように青い空。地元の協賛企業の宣伝音声が、計ったように一瞬止んだ。
「ちょっと、近い、ですかね……?」
ヘヘヘ、と笑う天月の横顔が、赤く染まる。
電車が路面の小さな凹凸に跳ねて、天月の小さな体も一緒に跳ねて。
節電で灯りの落とされた車内で二人、触れる肩を強張らせる。
「離れ、ようか?」
「ううん」
天月の小さな手が袖が引いて、僕を押し止めた。
恐る恐る盗み見た横顔は伏せられいて、けれど黒髪から覗いたうなじすらも赤く染まりそうなほど、頬は紅潮している。
「このままが、いい、です……」
天月の頭が、するりとしなだれかかる。
鼓動が静かに、けれど大きく爆ぜた。天月を見ることも出来ず、体を動かすことも出来ず。
ただ肩に乗った優しい重みを、抱えて潰さないよう、前だけを見続ける。
「天月……?」
返事の代わりは、静かな寝息だった。
触れ合う肩の温もりと、共鳴するちぐはぐな鼓動。小さな寝息が鼓膜を揺らして、心臓は馬鹿みたいに高鳴る。
「君が寝てしまったら、僕はどこで降りればいいんだ……」
面映ゆい羞恥心を誤魔化して、そっと息をつく。
この熱さは、きっと夏だけのせいじゃない。