七月七日の催涙雨が、前日から飾られていた短冊を泣かせた翌週。
 僕たちの小さな街に、忘れん坊の泥棒がやってきた。
 忘れん坊の泥棒は、その傲慢な敵愾心で気に入らないものを拒絶して、盗んでしまう。
 それはオムライスのピーマン、忘れてしまいたい記憶、忘れられない恋心。
 あるいは、七月七日の催涙雨。なんだって盗んでしまう。
 盗まれたものは行方知れず。ただ世界はその存在を忘れて、なかったことにしてしまう。

「だからひょっとして、私達の友達が、知らない所で盗まれているのかもしれませんよ?」

 その都市伝説を天月詩乃から聞いた時。素直になるほど、と感嘆した。

「へえ、じゃあ天月は絶対に盗まないな」
「えー、こんな魅力的な子を狙わない人なんていませんよー」
「冗談はこの暑さだけにしてほしいなあ」

 期末テストを終えて、夏休みを間近に控えた学校は、授業も午前で終わるようになっている。
 午後からの時間を持て余した僕と天月は、冷房の効いた図書室で暇を持て余していた。
 クーラーの駆動音と、微かに漏れ入る蝉時雨。それに混じる運動部の掛け声が、避けようのない夏を今年も連れてやって来る。

「そうだ、元カレ君(・・・・)

 カーテンの隙間から覗く夏空を見上げていると、天月の声に意識を引き戻された。
 筆洗に溶いた青のような、半分青くて白い空。そんなどこか異世界的な空から目を離して、天月を見る。

「知ってますか? 最近この辺りで起こった、強盗事件」
「ああ、ニュースの」
「ですです。刺された人、亡くなったそうです」

 ひどいと思いませんか?
 天月が僕を覗き込む。
 右頬の泣きボクロが、本当に犠牲者たちのために泣いているみたいで、曖昧に頷く。

「きっと、皆がほんの少し優しければ、あんな事にはならなかったんです」

 小さな、ほんの小さな苦悶が、透明な天月の表情を物憂げに汚した。
 掛けるボタンを間違えたような違和感に、僕はそっと目を逸らす。

「そうだな。きっと、そうだ」 

 一か月前。
 僕たちの遠光台にやってきた泥棒は、その傲慢な独占欲で四軒の家から金品を奪い、そして抵抗した一人の住人を殺した。
 その事件はニュースにもなった。
 新聞各紙はこぞって僕らの街を訪れ、近隣の小学校は一時休校。
 事件現場が校区内にあった僕らの高校も、学校側が一斉下校を行わせるなど、当時は随分と話題になったことを覚えている。
 けれどそれも、年頃の僕たちには一時の暇潰しでしかなくて。一週間も過ぎれば、ワールドカップがどうとかの話に変わっていた。
 見えない所で傷ついて、死んでいく誰かについて、僕たちは残酷なまでに無関心だ。

「それにしても珍しいね」
「なにがです?」

 名前も知らない被害者を嘆く天月に、僕は少なからず驚く。

「優しいだけの君が、他人に興味を持つなんて」

 天月詩乃は他人に興味がない。
 でもその代わり、人一倍優しくあろうとする。
 優しい世界を誰よりも純粋に夢見て、困っている他人に手を差し伸べる。
 きっと彼女が夢見るその世界は、誰よりも彼女に厳しいはずなのに。

「ええっ、ひでーですよ! 私だって人並みに他人に興味ありますよーだ!」

 図書室ではお静かに。
 キャッチーな顔文字の書かれたポスターの横で、けれど天月は大きな声を上げる。
 シーと口に人差し指を当てると、彼女は「あっ」と慌てて口許を押さえた。

「とにかくっ、それも全部忘れん坊の泥棒のせいなんですっ」
「いや、それは……」

 あまりにも唐突な天月の言葉に、一瞬固まる。
 その間も潮騒に似た蝉時雨は降り続けて、二人を濡らしていった。

「忘れん坊の泥棒と、殺人鬼は別物だろ?」

 忘れん坊の泥棒は七不思議の存在に過ぎなくて。
 日常の刺激に飢えた高校生たちの間では、都市伝説のような、ちょっとした探求の的になっていた。
 その噂は様々で、中には「新月の夜に出会えば、嫌いなものを盗んでもらえる」なんて滅茶苦茶なものもある。
 けれどそのいずれにも「忘れん坊の泥棒が犯罪を犯した」なんて噂は存在しない。

「いえ、きっと優しい世界を忘れん坊の泥棒が盗んでしまったから、世界は優しくないんです」
「そう考えた方が、都合がいいから?」

 その結論は、あまりにも都合がよかったから。
 口を出た言葉は、自然と毒っぽかった。
 もしかしたら僕は、天月を忘れてしまいたいのかもしれない。

「いけませんか?」
「別に……」

 優しい世界。
 それは天月が誰よりも渇望した、理想郷としての世界の在り方。
 そして何よりも、優しくない彼女を拒絶した、残酷な世界だった。
 正直、そんな世界があるとは思えない。

「だから私、忘れん坊の泥棒を探します。そして、返してもらうんです。優しい世界を。傷付いた時、誰かがそっと隣にいてくれる世界を」

 まっすぐに僕を見つめる天月は、あまりにも綺麗で。けれど夏の陽に溶けてしまいそうなほど、儚い。
 空を映したみたいに清廉な瞳が、僕の姿を写し出す。

「だから──」

 一般下校のチャイムが鳴り響いて、天月の声を覆い隠した。校内放送が帰宅部員達に下校を促す。

「……続きはまた明日、ですね」
「うん、そうしよう」

 若干の後味の悪さを噛み締めながら、形だけ開けていた数学の課題をリュックに押し込む。
 図書室の先生に礼を残して、廊下に出た。むわりとした熱気と、蝉の時雨が押し寄せる。

 図書室前の階段を降りて、埃臭い下駄箱から靴をとった。
踵がつぶれた靴を履いて、外の空を見上げる。
 パレットの上で偶然生まれたような、繊細な紺碧。
淡く澄んで、入道雲がしゅわしゅわと弾ける、ラムネみたいな空。

「もうすっかり夏ですねー」

 煩わしい陽射しを掌で遮って、天月はしみじみと溢す。

「まだ七月なのに、暑すぎるくらいだ」
「まったく、世界ってのは優しくないですねえ」

 焼けたアスファルトから逃げるように、僕たちは帰り道を歩いた。
 かつて空を見上げて探した雲の形を、気紛れに探してみる。魚も、ライオンも、スニーカーも。もう見つかってはくれない。
 あれはきっと、優しい世界がくれた、子供達だけの友達なのだろう。

「私、優しい世界を作りたいんです。きっとあの世界では、誰も傷付かないから」

 夢を語る天月は、もしかしたら遠い昔にいなくなった、子供だけの友達を探しているのかもしれない。
 出会って、恋に落ちて、そして別れた。あの日々から、天月は何も変わらない。
 僕たちの距離感だけが少し遠くなって、こんなにも近くにいるのに、僕たちはまだお互いの想いを伝えられないでいる。

「……確かにそうかもね」

 だからきっと、この会話も単なる時間稼ぎなのかもしれない。
 お互いの気持ちを比べたくて、でも相手が自分をどう思っているかは、わからなくて。
 怖いから、僕たちは核心に触れない会話でお茶を濁す。

「でも、さ。誰かの為に傷付いてあげられない世界なんて、僕は冷たいと思うよ」

 白い空を見上げて呟く。
 心に負う傷は、色々な形がある。
 叶わなかった子供の頃の夢。大切な人の挫折へ寄せる共感。誰かの死。
 そのすべてに傷付くことも許されないのなら、きっとその世界はどこまでも他人行儀で、終わらない冬のように冷たい。

「幸せと優しさは、きっとイコールじゃないから難しい」

 ポツリポツリと溢した言葉を、静かに噛み締める。
 傷付くことが許されない世界なら、僕たちが繰り返す開演前のようなぎこちない会話に、プロローグはない。

「やっぱり二条君は、優しいですね」

 隣を歩く天月が、微笑む声が聞こえた。

「なにを、」

 言いかけて、噛み砕く。
 なにを、今さら。君を捨てたのは、僕だと言うのに。

「確かに、誰かの為に傷付けない世界なんて、今の残酷な世界と何も変わらないのでしょう」

 長く居座る白い太陽が、一瞬だけ冷たく見えて、僕はその陽に手をかざす。
 視界で、天月の長い髪が薙いだ。

「だから、冷たいのは。優しくないのは私一人でいいんです」

 そんなつまらないことを、天月はいつもと変わらない、弾むように朗かな笑顔で言ってのけた。
 道化と嗤うにはあまりも純粋な笑顔で、彼女は自らが語る理想郷から、彼女自身を消した。

「君の言う優しい世界に、天月自身がいなかったとしても?」
「だとしても、です。私の代わりに、誰かのために傷ついてあげて下さい」

 海を昇る水泡みたいに、いつかは弾ける儚さ。空を目指せばいつか必ず弾けるというのに、それでも彼女は空を目指す。
 海を出た先にある優しい世界は、優しくない彼女を弾いてしまうと言うのに。
 彼女は綺麗なままで笑っている。

「だからまた一緒に、優しい世界を探してくれませんか?」

 瞬間。
 僕を見つめるの天月の頬が上気しているように見えたのは、きっと夏のせいだろう。
 そうでもないと、何かのせいにしないと。もう、自分に嘘が吐けなくなる。
 ──別れたのは半年も前だ、もうほとぼりは冷めたろう?
 頭の中に声が響く。
 他でもない、僕自身の声。泥棒なんて関係ない、僕の本心だ。
 それはあまりにも濁っていて、俗っぽくて。けれど一番、自分の欲望に忠実な自分だった。

「……僕の探し物が、終わったらね」

 濁した言葉だけを夏空に残して、顔を伏せた。
 僕が探す、大切なもの。それは十年も前のかくれんぼの日に無くした、一日だけの友達。
 行方不明になった彼女を、僕はずっと探していた。彼女が盗まれたのは、僕のせいだったから。

「じゃ、僕はこっちで」

 天月に背を向けた。
 小さな山の上にある学校の、二百段ちょっとの階段を降り切った裏門。
 駐輪場には気の早い蝉が、その夏の最期を飾ろうとしている。

「あれ、今日は一緒に帰ってくれないんですか?」
「ああ、少し用事があるんだ。それじゃあ」
「それじゃあ、です」

 二股に別れる道を、僕たちは飾り気のない「さよなら」を置いて歩き出した。
 今の彼女とは、もう一緒に帰れなくなってしまった。
 それは彼女が変わらなかった事を意味していて、僕が変われなかった事を意味している。

『また一緒に、探してくれませんか?』

 その答えに、僕は頷くだけでよかった。
 小さな体に大きな夢を描いて。自分が一番辛い世界を夢見る天月を、そばで眺めているだけで。
 人はその感情を、恋と言うのだろう。
 真夏の蛍みたいに淡くて、砂場で見つけたきれいな石みたいに小さなその感情を、恋と呼ぶのか。それとも罪悪感と呼ぶのか。
 僕はまだ、迷ってしまっている。

 それでも僕が答えを濁してしまったのは、他でもない。忘れん坊の泥棒。奴のせいだった。
 奴がいるから。彼女は美しいまま、また傷付こうとしている。
 奴が盗んだから。僕はまだたった一人の少女だって救えない。

「泥棒なんて、いなくなれ……」
 夕暮れ前の、少し白んだ夏の空。
 降り注ぐ蝉時雨の中に、ヒグラシの囁きが混じる。
 木の根が押し上げ、古びて割れたアスファルトに、陽炎が踊っている。
 その陽炎の中に、あの日の「少女」が見えたのは、きっと幻影に過ぎないのだろう。