今宵お話させていただきますのは、何百年も昔のお話、江戸時代のこと。哀れな振売りの男の話でございます。振売り。お嬢さん方はご存知で? 
 ありゃ。そこのお兄さんは、しきりに頷いておられますな。振売りといいますと、今では何と申しましょう。竿竹屋。わかりますかね?
 たあーけやぁー、さおだけぇーっていう、あれですね。私、なかなかいい声でございましょ。声には自信あるんですわ。で、なんでしたっけ? あ、ああ、竿竹屋さん。そうです、そうです。とんと、物忘れがひどくて。堪忍です。
 振売りというのは、竿竹屋さんみたいな商品を売り歩く人のことでございます。行商人、と言えば聞こえはいいですが、当時は子どもや老人、体の不自由な者たちが働くための職業でございましてね。
 この男、名前を巳之助と大層な名前がついておりましたが、この巳之助も不運なことに手を悪くしましてな。それまでは、親から譲り受けた田んぼでようよう生活しとりましたが、手が使えなくなってはどうにもなりません。田んぼを親戚にゆずりまして、自分はその親戚から安く売ってもらった農作物を売り歩くということをしておりました。
 齢はというと、30ともなるやもめの男。娶る話はいくつかありましたが、どうにも上手く収まらず、独り身を通しておりましてね。
 なんというか、陰気が深かったんでございます。みのさんの近くにいるとなにやら寒くなる、とひそひそ囁かれることもありました。とはいえ、巳之助は勤勉で真面目な男でございまして、多少愛想がなくとも、振売りとしていくつか出入りするお得意さまを持ち、少なくとも食べることには不自由することなく暮らしておりました。

 ある日のこと、というのはこれまた便利な言葉でございますね。なに分昔のことで、詳しい日はわかりません。雨が降りそうな、どんよりした雲を野菜の入った籠と一緒に背負っているような日だった、ということだけお伝えしておきましょう。
 その日、巳之助は、得意先で少ししくじりました。これは巳之助にとっては珍しいことでございまして、陰気だとは言われても真面目な人柄ゆえ、そういった不和を起こすような男ではありませんでした。何をしくじったかといいますと、番頭さんの不興をかってしまったんです。普段は、巳之助を相手にしてくれるような方じゃないんですが、その日はたまたま、いつもやりとりしているお屋敷の小屋に番頭さんしかおりませんでした。
 虫の居どころが悪かったんでございましょう。巳之助にとったら、不運でございました。
 お屋敷には離れたところに小屋がありまして、だいたい誰か奉公人が──何のためかはわかりませんが──小屋の中におりまして、振売りでございます、とお伺いすれば、いつもはそれで話が通じるんでございますよ。それが、やい、そんな薄汚い野菜を売るとはどういう了見だ。失礼千万、番屋に突き出すぞ、とこれまたひどい言いがかりでございました。
 終いには、火かき棒まで振り回されて、巳之助もあっちこっちを打たれながらほうほうの体で逃れました。泥まみれになりながら火かき棒を避ける巳之助を番頭さんは嗤ってましたよ。そんなやりとりの折に、本当に野菜は薄汚くなってしまいましてね。とても人様に売れるものではなくなってしまいました。
 食べるにしても、ほとんどは捨てるしかない有様です。巳之助は、意気消沈しました。強かに打たれた左手が痛むわ、逃げる折に捻ったのか、足首もなんだか調子が出ずに、とぼとぼと歩くしかありません。
 ところで、小屋の奥には川がありましてね。そこから、丘を登ると原っぱに出ます。丈の長い草が無造作に生えてるような場所で、虫も憩いの場とばかりに飛んでいるんですが、巳之助はその原っぱが好きでした。
 整然と建てられたお城の後ろで、なあんにも手入れされずに取り残されている原っぱでございました。すぐ下には、喧々とした人の世が繰り広げられているのに、ここではそんなのお構いなしにゆらゆら草が揺れている。そんな様子が、巳之助にはなんとも癒される場所に映りました。

 嫌な目にあった。今日は商売もできない。なら、サボっちまおう。

 誰に雇われているというわけでもありません。巳之助は、クサクサした気分を踏みしめながら、痛む足をおして丘を登りきりました。
 手慰みに手頃の棒をそこらでひっつかんで、草を左へ右へとなぎ払います。その度に驚く虫たちが面白くて、そうれこっちだ、今度はそっちだと草を突き回します。

 あの禿げ天頭の骸骨野郎が。ひっくり返って首の骨でも折っちまえ!

 無心に草を払ううちに、心の内に先ほどの番頭への呪詛が浮かびあがってきます。気持ちは晴れず、むしろ胸の中にムカムカしたものが募るばかりです。そうしていくらか草を払いのけているうちに、何かこう、黒いものが横切るようになりました。
 最初はヤモリかなんかだと思ったんですが、それにしては大きい。猫ほどの大きさがあるんですが、すばしっこくてね。ひょいといなくなるんですわ。だから、猫じゃあない。
 よし、捕まえてやろう、なんて巳之助は思ったんですな。さっきよりも慎重に、そして執拗に草を薙ぎ払っていきました。
 一心にそうしていますとね、ようやく黒いものの姿を捉えられるようになったんですが、これがやっぱりなんだかわからない。動物のようにも見えますが、目を凝らしているとさっといなくなっちまうもんだから、あれやっぱりヤモリか? 違うちがう、これはでっかいトカゲだ。そんなわけあるか、と一人で首を捻ってばかりでございました。
 あっちから顔を出せば、そらこっちだ。こっちから顔を出せば、それあっちだと延々繰り返しても黒いものの正体はとんとわかりません。
 そうしていると、不思議なもんでね。だんだん、その黒いものにおちょくられているように感じてきました。
 こっちが追い詰めているとばかりに思ったのに、そいつはなんだか意気揚々と姿を見せては隠れて、自分を嗤っているんだ。
 そう、思うとね。
 巳之助も、棒の扱いが乱暴になり、草を分けるんじゃなくて、その黒いものめがけて振り下ろすようになりました。
 そいつがどうやら生き物じゃなさそうだ、ということも巳之助の良心を殺ぎ取るのに功を奏しましてね。それでは何なんだ、というわけではあるんですが、単に黒いだけのモノです。巳之助も怖がりようがありません。
 そら、どうだ。このすばしっこい根性悪め。
 逃げるだけしかない能無しめ!
 棒を振り下ろしているうちに、いつのまにか、その黒いものが、巳之助を嗤ったあの番頭に見えてきました。そうすると、巳之助の棒きれを振り下ろす右手にも力が入ります。

 やい、お前はいばりんぼうのイジワル虫だ!
 おいらが退治してやるぞ!

 何度も何度も棒きれを叩き下ろしていますうちに、いくつか黒いものに枝があたるようになりました。当たると、ビクッとするんですよ。ちょっと縮こまって、さっきまですいすい草の間を移動していた黒いものが、怯えるようにそこにうずくまるんですわ。
 もう、巳之助には、その黒いものは番頭の顔にしか見えません。バンバンバン、と叩き潰すと、その黒いものは体といいますか、途中の部分がぐねっとしましてね。そのまま、体を引きずって草の中へと隠れてしまいました。

 どうだ、見たか!

 巳之助は高笑いすると、すーっと、本当にすーっと心が晴れていくのを感じました。
 その日は、むしろいつもよりも良い気持ちで床についたそうです。

 次の日、巳之助は気持ちを入れ替えまして、野菜を売り歩きました。さすがに、昨日追い払われたお屋敷には近づかずにおきましてね。
 そんなこんなで、半分くらい野菜を売りまして、ちょっくら休憩、昨日の丘を目指しておりますと、目の前がくるりと回りました。あれれ、と思っているうちに、ネギの青さが空と重なり、気付いた時には、腰へ激痛が走りました。やあ、相当大きい音だったんじゃないでしょうかね? 巳之助は痛みで目が回っておりまして、何が何やら。
 すると、頭の上の方から、笑い声が聞こえてきました。

 ざまあねえな。おめえみてぇな汚ねえ野郎は地べたを舐めるのが似合いだぜ。

 こんな言葉、坊っちゃんたちはお遣いになっちゃあだめですからね。
見上げると熊のように大きな男が、薄汚い歯を見せて、足元の野菜をこれでもかと踏んづけておりました。

 なんだってあんたは、こんなことを──

 巳之助の言葉は続きません。大男がどしん、と巳之助の背中に足をのっけたからです。
 おめえが誰だかはしんねえが、おらの目の前を通ったのが運の尽きだ。金、よこしな。
 少しずつ、少しずつ息が苦しくなっていきます。大男が足に体重をかけ始めたもんですから、巳之助も恐ろしさに震え上がりました。
 こいつは、本物の狂人だ。
 こんな大男の体重をそのまま受けたら、背骨がポキリと折れてしまいます。

 金は、こんれ、ここだ。

 声は言葉になってたかもわかりませんが、血反吐を吐く思いで、声を出しまして、腰につけていた巾着を手探りで探し当てて放り投げました。チャリン、とした音に反応したのか、大男の足がのいて、身体が軽くなります。
 でも、巳之助にはするりと立ち上がる気力はもうありません。できれば、遠くの隣町まで逃げて逃げて逃げきりたいところなんですが、昨日のせいで足も力は入らないし、背中はジンジンするしで、火事場の馬鹿力も出ません。これもまあ巳之助の運のないところでございましょう。

 これっぽっちか。そんなら、おめえ、また明日金持ってこい。持って来なけりゃ、今日より酷い目にあわせっからな。

 声と仕返しの恐ろしさに巳之助は震え上がり、小刻みに頷くばかりです。
 ぺっと唾をはくと、その大男は金を片手に意気揚々と引き上げていきました。
 地べたにねっ転がったまま、巳之助の顔は涙に濡れていました。
 なんだって、おいらがこんな目に合わなきゃいけねえんだ。ちくしょうめが!
 道行く人も遠巻きにこちらを見るだけで、誰も助けようとはしてくれませんでした。巳之助は、昨日よりも一層体を引きずるようにしてね。昨日よりも一層悪くなった心持ちで、昨日行った原っぱへと向かいました。
丘とはいえど、斜面ですからな。なんで身体が痛いのにそんなことをするのか、巳之助も頭の片隅ではちーっと思ってはいたんですけれども。どちらかというと怒りでのぼせ上がっておりましたから、なんとしてでも登るんだ、と半ば意地でございましたんでしょうな。
 原っぱでは、昨日のように棒きれを拾い上げて、草をめった斬りにいたしました。親の仇かと思うほどの力で、時折ちぎれた草が目の前にパッと飛び上がります。

 どいつもこいつもおっ死んじまえばいいんだ!

 痛くて悔しくて、顔は涙と鼻水でいっぱいになっておりました。それでも、昨日見た黒いものが横切るのを見逃しはしませんで。

 目ん玉くり抜かれて苦しんでしまえ!

 先程の大男への呪詛を唱えながら、黒いものをめった叩きにいたしました。
 そいつは、何か黒くて小さい玉を落として身体を引きずりながら逃げていきました。
 なんだかわからない黒い小玉は、棒切れで潰しておきまして、そこまでいくとようやく巳之助の心もすーっと軽くなりました。

 次の日、黒いものに八つ当たりしたおかげで、幾分気は晴れましたが、金を持ってこいという言葉には逆らえませんでした。
 時間は言ってなかったなあ、とは思うものの、なんの難癖をつけられるかわかったものじゃありません。
 朝一で僅かばかりの蓄えを持って、大男に会った場所へと行きました。
 ところが、です。ところが、待てど暮らせどあの大男はやってきません。金を置いてさっさと退散しようかと思うものの、渡したという証拠がないとまたどんなにひどい目にあうかわかりません。どうしようかと、思案にあけくれていますと、

 ありゃ、おまえさん、昨日の振売さんじゃねえか。

 と、声をかけられました。
 巳之助には見覚えがありません。
 昨日、大川の旦那にいじめられてたろう? すまんなあ、あの旦那は虫の居所が悪いと、縄張りの中で貧相なやつを選んで憂さをはらすんだ。そんでも、昨日のはひどかった。私たちも助けたくても、後が怖くてね。ほんに、すまんかったなあ。でも、よかった。よかった。やあ、こんなこと言うと、バチが当たるが、私たちもほとほと困って、どこに相談しにいけばいいか、話し合ってたところだったからねえ。
 昨日の様子を見ていたんだな、とは見当がついたものの、話の筋はよくわかりません。

 何がよかったんですかい?
 やあ、知らないのかい? あの旦那は、今朝大川の土手で土左衛門になってたところが見つかったんだよ。なんでも、目ん玉くり抜かれてるとかで、そりゃあ悲惨な姿になっとったらしいで。

 目ん玉? 巳之助は、ぶるっと震えました。
 大男は誰からも恨まれるような男だから、下手人は上がらないだろうね、とその老人が続けるも、巳之助は聞いていません。
 いやいや、単なる偶然だ。巳之助はそう思いました。なんなら、金も取られず痛い思いもさせられずに済んだので、嬉しいくらいだ。何を怖がることがある。
 巳之助は何かを払い落とすように頭を振ると、気持ちを切り替えて商いに勤しむことにしました。

 やーさいー。やさいだよー。新鮮な青菜ににんじんは採れたて。じゃがいもは煮ころがしにも。やーさいー、おいしいーやさいー。

 節を付けて、客の興味をひきます。
 わたしはこの囃子が得意でしてね。上手でしょ。
 そうして、半分くらい野菜を売ったところで、はてあのお屋敷はもういいだろうか、と思いました。あの時は、たまたま番頭さんがいたけれど、むしろこれはとても珍しいことで、今まではいっぺんもそんなことはなかったのです。あの1回のせいで、大きなお得意さまを手放すのは惜しいような気がいたしました。

 どら、ちょっくら行ってみるか。

 巳之助がお屋敷の小屋へと赴きますと、何やら慌しく人が行き交いしています。離れたその小屋には日頃は人が来ることはなかったはずですが、今日はどうしたことか。またあの番頭に見つかって痛めつけられても敵いません。巳之助は、遠目に様子をうかがっておりました。

 ありゃあ、ひどいありさまで…。…さんは恨まれることも…。首が折れて…。…仏さんどうすればいいだろうか…。…様は大事にしたくないと…。…むずかしいだろうねえ…。

 途切れ途切れに聞こえる内容を紐解くと、どうやら誰かが亡くなったようだと、巳之助にもわかってきました。
 さて、じゃあ、今日は野菜どころではないだろうなあ。
 巳之助が踵を返そうとすると、

 おい、あんた!

 そう呼び止められました。
 振り返るといつも振売の相手をしてくれる奉公人です。

 ちょっくら、野菜を売ってくれないか? 今日は夜通しやることがあって、賄いをご用意せよとのことでな。
 それでしたら、この大根やじゃがいもなんかは煮物も作れますし、この青菜は今日採れたてなんで味もしまってますよ。
 じゃあ、それらをあるだけ売っておくれ。

 棚からぼた餅のような話です。
 秤の籠の半分ほどがなくなります。
 野菜を手渡しながら、巳之助は気になってたことを聞きました。

 あのー、どなた様かお亡くなりになったんで?
 あ? ああ、うちの番頭さんがね。首がぽっきり折れてひどい有様でな。あれは、黒助さまの祟りだろうなあ。そんで、今日は寝ずの番なんだ。鎮まってもらわなきゃならん。

 巳之助は、さーっと血の気が引くように感じました。
 大男は目ん玉がなくなって死んでいて、番頭さんは、首を折られておっ死んでいた。

 くろすけさま?
 あの小屋で祀っている神さまだで。ここらじゃ有名な話なんだが、知らんだったか?
 え、ええ。すんません。
 黒助さまは、我らの我や怒り、苦しみを肩代わりしてくれる有難い神さまなんだが、あまりにも多くを背負っていただくと祟りがあると言われていてな。大方、あの番頭さんが、黒助さまのお気に触ることをしてしまったんだろうが。あれ、顔色が悪いで?

 巳之助は商売道具の天秤棒に縋り付くようにして、奉公人への挨拶もそこそこに、その場所から逃げ出しました。

 黒助さま。
 黒い塊。
 ぶつけた言葉と暴力の数々。

 巳之助は震え上がりました。
 なんということをしてしまったのか。
 今思えば、あの丘もお屋敷の領地で、小屋があの丘を守っていたのでしょう。
 学がない巳之助でもわかります。
 おいらはそれを汚してしまった。
 巳之助は恐れおののき、なんとかして黒助さまにお許しいただこうと、暗くなるのを待って、丘へと向かいました。奉公人たちと顔を合わせてしまうと話がややこしくなります。
 なんとか鉢合わせせずに丘の上まで登り、伸び放題の草の前に膝をつきました。
 しんしんとした静けさの中で、暗闇の中、草だけがゆらゆらと風に揺れ、闇の中にも陰影を作っておりました。

 黒助さま、黒助さま、この度は数々のご無礼、大変申し訳ございませんでした。どうか、お気持ちを鎮めていただけないでしょうか。

 深く頭を下げ謝罪するも、何の返答もありません。ただ暗闇がぽっかりと浮かび上がるばかりでございます。実体のない黒助さまへの呼びかけはなんとなく空回りいたしまして、巳之助はこれは勘違いだったか、と思い始めました。
 それでも頭を下げておりましたが、足の痺れも感じ始め、そろそろ立ち上がろうかと気を緩めますと、ピンと空気が張り詰めるのを感じました。
 上目遣いで周囲を見回すも何も見えません。
 耳をすましてみると、ガサガサ、という草をかき分けるような音が小さく聞こえてきました。

 黒助さまだ。

 右へ左へ。時折立ち止まるかのように音が止まっては、草をかき分ける音がだんだん大きくなってまいります。近づいてくるにつれて、音が段々大きくなってゆきます。

 ガサガサ
 ガサガサガサガサ
 ガサガサガサガサガサガサ

 巳之助は下げていた頭をさらに深くし、ぎゅっと目を瞑りました。
 もはや音は途切れることはありません。一心に巳之助に向かってきます。

 ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ

 ピタリ、と突然音が止まりました。
 黒助さまの息遣いを近くに感じます。黒助さまは息をしていたでしょうか。
 こんなに大きかったでしょうか。大きくなったのでしょうか。

 黒助さまが崇高な方だとは知らず、大変なご無礼をいたしました。

 ぷはあ、とカビ臭い息が顔の近くにかかりました。それと同時に強い香のような香りもいたしました。これが、神さまの匂いなのかもしれません。長年祀られ香を焚かれている神さまに、染みついた匂いなのでしょう。
 黒助さまを視界の隅っこにもいれぬように、地べたに頭をこすりつけます。目を開ければ、黒助さまがいるに違いありません。硬く閉じた目が開かぬように、巳之助は全身に力を入れました。

 バアン!
 ──っ!!!

 突然、大きな音が鳴るとともに、巳之助はつんざくほどの痛みを感じました。血が逆流し、煮えたぎり、目からは涙が鼻からは鼻汁が、ありとあらゆる穴から何かが吹き出てまいります。
 言葉で説明するのはむずかしいものです。巳之助は、それこそ死んだ方がマシだと思うほどの痛みを感じておりました。
 それでも、死んでもおかしくないような痛みなのに、意識は手放されず、視界は白一色に染まり、喉からは細い呻き声が漏れ出ます。耳は反響し、目の奥がチカチカしたと思うと、心の臓がこれでもかというほど身体中を脈打ちます。

 オマエ、クルシミ、ノゾイタ。オマエ、クルシミ、モラウ。
 クルシミ。
 モラウ。

 声は頭に直接響きました。
 やはり黒助さまだった。
 黒助さまの祟りだ。
 巳之助はやっと、やっと意識を手放しました。

 ここで、巳之助の話はおしまいです。
 巳之助は3日3晩行方が知れず、4日目になって巳之助の部屋で亡骸となって見つかりました。
 その亡骸は、首の骨が折れ、目ん玉がくり抜かれるという悲惨な有様でしたが、不思議なことに体は汚れていませんでした。
 誰かに清められたかのようにきれいなままで、よく見ると手首と手足に縛り付けられた後があったそうです。
 そういえば、巳之助が亡くなった後で、お屋敷の小屋は取り潰されました。
 お役目は終わった、とのことでしたが一体なんのことだったのか、誰にもわかりません。
 そういえば、最後まで巳之助は、大男と番頭の死に姿を見ることはありませんでしたね。
 いやはや、恐ろしいこともあるもんです。
 そういえば、なぜ私が巳之助にこんなに詳しいのかと申しますと、私の古い先祖があのお屋敷の奉公人だったからでございます。
 はい、そうです、そうです。巳之助の亡骸も拝見したそうでございますよ。血が抜かれたように真っ白な肌に、眼があった場所2つと、胸に指が入りそうなほどの穴が1つ、空いていたそうです。微かに香と、何か煙のような匂いがしたそうですよ。
 巳之助が聞いた大きな音は、なんだったのか。手足が縛られていたのは何故なのか。誰が巳之助の身を清めたのか。黒助さまの祟りにあった巳之助の骸を、どうして、すぐに見ることができたのか。
 私の先祖は、とても聡明な方で、一つの「解釈」を出したのですが、終ぞ、それを口にすることはありませんでした。
 私の爺さまが先祖さまにその「解釈」をせがんだ時には、渋りながら、こんなことを呟いたそうです。
 昔は、香を焚いて、火薬の匂いを消していたものだ、と。

 この巳之助の逸話とともに、こんな言葉も伝えられております。
 
 黒助さまはいつでも近くにいらっしゃる。
 
 どうぞ道中お気をつけて。黒いものをお見かけしたら、そこが地面だろうとあなたの心の中だろうと、決して追い回さないようお気をつけください。
 僭越ながら老人の戯言でございました。