たとえばこんな会話があったとしよう。
「鳴海」
「あら、大江君!」
「あのさ」
「ごめんね。私、これから少し用事があって」
 普通に考えるなら、まあまあ見知ったクラスメイト同士が雑談でもしようと思ったが、しかしたまたま都合が悪くてできなかった……みたいなパターンだと思うだろう。
 だが、俺と鳴海に限って言えば、事はそんなに単純ではない。
 何を隠そう、これは通算六回目なのだ。まったく同じ内容の会話が、既に六回にも上っている。
 よもや何事であろうか。いや、これには、俺と鳴海がどうにも噛み合わずにすれ違い続ける数奇な星の下に生まれたとか、そういうやんごとなき事情が……あるわけではなく。
 正直なところを言うと、俺は彼女に避けられるようになったのだ。しかもかなり露骨なくらいに。
 薄々ながらもそんな予兆は感じていた。残念ながら自意識過剰の思い過ごしではなかったらしい。
 ただ、いくら露骨とは言っても、これはあくまで、俺から見ればの話だった。
 何しろ彼女は、完全無欠の超優等生。学校で俺を明け透けに煙たがり、周りの雰囲気を害すようなことはしない。その素晴らしき立ち回りたるや、まるでカメラの回った映画女優のよう。
 俺が話しかけるとすぐさまパッと花の咲くような満面の笑みを浮かべ、一言二言残してはたちどころに姿を消してしまうのだ。
 どんなにタイミングを見計らっても、風に舞う花弁のごとくひらりとかわし、そもそも近づいて声をかけることすらままならない。徹底してしたたかに避けられている一方で、周囲にはそれがわかるはずもなく、かつ俺にだけはクリティカルに嫌煙の意思が伝わってくる。そんないたたまれない状態が、週末に至るまでもれなく続いた。
 とりあえず困った。泣きたくなった。途方に暮れた。
 サッカーをしていた頃は、むしろ活躍した際に知人から好意的な言葉を貰うこともままあったが、ここまではっきりとした拒絶を、しかも異性から向けられたことなどかつてなかった。幸か不幸かどちらにせよ、俺の人生では初体験だ。
 いったい何をやっているんだろう、俺は。大人しくしていようと思ったのに、入学早々からちょっと突っ走り過ぎてしまった。
 ギターの話は、鳴海にとってタブーだったということだろう。今更それを知ったところで、俺には為す術もへったくれもないのだけれど。
 そして、俺が鳴海に近づけずに右往左往している過程で、図らずも新たに知ったことが一つある。遠ざけられ気味の絶妙な距離から鳴海のことを目で追うにつけ、ちょくちょく視界をちらつく人物がいるのだ。
 千種一華だ。
 結論から言うと、どうやら千種は鳴海のことを尾行しているらしかった。
 朝、ホームルームが始まる前は、廊下側の窓の陰から鳴海のことを窺っている。昼休みになると、教室や学食で食事をする鳴海をこっそり見ている。放課後には用事で様々に出向く鳴海を、まるでどこぞの探偵のようにつけ回している。
 いったい何をやっているんだ、千種は。編入早々、奇行に及ぶにもほどがある。いや、この際、自分のことは棚に上げておくとして。
 ともあれ、随分と奇天烈な事実を目の当たりにしたものだと思った。
 気にかからないと言えば絶対に嘘になったし、他にも色々と話したいこともあったので、俺は日曜日の夜になるのを待ち、都心の駅に出向いていった。そうすることで千種に会える保証はないが、何となく俺には確信があったのだ。先週と同じ場所に、彼女はいる。
 駅の改札から地下街を抜けて地上に上がり、競うように高さを主張する駅ビルに背を向けて大通りに出る。するとだだっ広い往来の中、喧噪に交じってギターの音色が聴こえてくる。
 誘われるようにして音の方へ足を向けると、道の隅に数人の通行人と、フードを被ったコートの奏者が一人だけ見えた。
 何度耳にしても、アコースティックギター単一とは思えないほどに深みのある音楽だ。歌詞のない短めの曲がいくつか披露される過程で、足を止める人は後を絶たない。やがてその演奏に区切りがつくと、コートのギタリストは無言でぺこりと頭を下げた。
 観客は口々に感想を漏らしながら去っていく。やはりというか当然というか、かなりウケは良いようだった。
 俺はそれを横目にしながら、緩やかに人の流れを遡る。
 あちらは俺に気づくと、恐る恐るといった感じでフードをとった。毛先だけを金色に染めたショートヘアが露わになり、端正だが無愛想な千種一華の顔に街明かりが当たる。
 彼女はそっと口を開き、幼さの残る細い声で言った。
「また、来たんだ。大江……だっけ」
 どうやら彼女は、俺の名前を認知しているらしい。俺はまだ、彼女の前で直接名乗ったことはないはずだが。
「ああ。鳴海に頼んでみたんだ。ギターを、弾いてくれって」
「……知ってる」
「だよなぁ。千種、お前、鳴海のことストーキングしてるよな」
 しかしまあ、学校での千種の様子を見る限り、既に俺の名前を知っていても不思議はない。俺が教室で鳴海に演奏を頼んだときも、もしかしたら千種は近くにいたのかもしれない。
「す、ストーキングなんて……言いがかり」
「いや、あれは完全にストーキングだろ。他に言いようがないくらいに清々しくストーキングだろ。鳴海のことだから、もしかしたらそのストーキング、気がついてるかもしれないぞ」
 ていうか、たぶん気づいている。あんな露骨な尾行行為が、鳴海に感づかれないわけがない。むしろ鳴海は気づいた上で、まるで千種が存在していないかのように、完膚なきまでに無視している。
「あんまり、ストーキングって何回も言わないでよ……。別にいいんだもん。もともと私があの学校に入ったのも、玲奈を追いかけて入ったんだから……初めっから玲奈にはバレてるよ」
「お前……」
 初めっからって……別に本人にバレてればストーキングしてもいいわけじゃないだろ。
 まさか、千種の編入そのものが鳴海目当てだったなんて、んな無茶な。未だ学校では口々に、千種が本当にあの唯花なのかとか、だとしたらうちの学校へ編入してきた理由は何だとか、様々な疑問や噂が飛び交っているのだが……おそらく誰一人として、この真実は想像できまい。
「クラスも玲奈と同じにしてって言ったのに……なんか、すっごい教室遠いし」
「お、お前……」
 誰に言ったんだ誰に。よもや編入に際して特定の在校生と同じクラスにしろだなんて、そんな要求を教師が受け入れるはずがない。挙げ句、ものすごく離れた別のクラスにされてちゃ、まったく世話がないとはこのことだ。無事編入できただけでも御の字というものではないだろうか。そもそも千種って、編入試験は受けたのか? うちの学校、偏差知的に決して低くはないレベルだけど……。
 と、まあ、突っ込みたいことは山ほど挙がるところだが、今はそんなことはさておいて……大事な本題の方を進めよう。
「その、鳴海に頼みはしたけれど……断られた。あと、最近ちょっと避けられ気味で」
「……知ってるよ。だから言ったのに。だいたいさ、あんなにしつこくしたら、そりゃあ避けられるよね。常識的に考えて」
「お、お前に常識云々言われたくないぞ」
 堂々とストーカーしてるやつに常識を諭された。俺の学校生活、早くも末に入ったかもしれん。いや、いやいや、俺はあくまで何気なさと潔さを保ってるはずだからセーフ……。
「ギター……やめたって言ってたんだ」
「それも、知ってる。中三になったときに、やめたんだってね。私がここを出ていって、すぐやめたってことだね」
 千種は俯き気味に、自分の提げているギターを見る。しょんぼりと寂しそうな表情をしている。きっと昔のことを思い出しているのだろう。
 俺がわざわざ報告しなくても、千種は結果を知っている。こうなることくらい初めからわかっていたと、そう言わんばかりの口調で答えた。
 しかし、今日俺が千種に伝えたいのは、ただ単に断られたという事実だけではなかった。俺は話の続きを小さく呟く。
「本当……かな」
「何が」
「鳴海がギターをやめたっていうの、本当かなって思って」
「どういうこと?」
 千種は怪訝そうに首をかしげ、ぶっきらぼうにこちらを見上げる。
「やめたって言ってたときの鳴海、何だかいつもと、様子が違った。だからちょっと、気になってさ」
「それは、大江が私の名前を出したから、だから玲奈は怒ったんだよ」
「名前? 千種の?」
「玲奈は私のこと……たぶん、嫌いだから」
 千種の言葉は、話すほどに弱く尻すぼみになり、肩は力なく下がっていく。
「嫌いって……そう、なのか?」
「……うん」
 嫌い……嫌いか。いや、あの様子を見る限りでは、俺にはそれを肯定することも否定することもできはしない。ただ二人の間には、確かに何かひとかたならないものがあって、複雑そうだと想いを巡らせることしかできない。二人の過去を知らない俺にできるのは、唯一、想像することだけだった。
「玲奈がギターをやめたのは、やっぱり私のせいなのかな……」
 目の前で千種がぽつりと零す。まるで母親を見失った迷子のように悲しそうで、どうしたらいいのかわからず途方に暮れているように見える。
 だからだろうか。俺はそんな彼女を見て、思わず口を開いていた。思い込みの域を出ない勝手で不確定な想像で、彼女を慰めるかのように。
「やめて……ないと思うんだ。鳴海はきっと、まだギターをやめてない。そんな気がする」
 実際に口にしてみて改めて知る。これは俺の本心だった。俺は鳴海がギターをやめたとは、まったく思っていないのだ。
「どうして」
「鳴海、ついこの間、学校でギターを弾いていたんだ。ちょっとだけど、聴かせてくれたこともある」
 だって、鳴海のギターは、衰えてなんていなかった。二年前のストリートライブと比べでも、遜色がないほど緻密で丁寧で、力強い演奏だった。音楽のことはあまり詳しくないけれど、あれはブランクのある演奏では、決してなかった。たとえばもしサッカーなら、二年もご無沙汰でベストパフォーマンスなんて、とても出来やしないのだ。そういうものではないだろうか。
「玲奈がギターを? それ、いつ?」
「初めに聴いたのは、千種が編入してくる前かな。あとは、この前の月曜日だ」
 ……あれ? もしかしたらその月曜にも、千種は鳴海の後をつけていたんじゃないか? だとすると、俺が音楽準備室で鳴海と一緒にいたことも知ってて、俺が歌ったのも聴いていたのでは……?
 そう思って少し恥ずかしい気持ちになったが、俺が答えると千種は
「月曜日……編入のことで職員室に呼ばれた日だ……」
 と不満そうにボソッと零した。どうやら千種はあの日、俺たちの近くにいなかったらしい。
「玲奈のギター、聴いたんだ。いいな……ずるいよ。私も聴きたかった」
「ず、ずるいって言われてもな……」
 千種は、まるで子供のようにいじけた様子で、寂しげに口を尖らせる。
「私も……聴きたかった」
 弱々しく繰り返されるその声音は、喧噪の中にいるとかき消されてしまいそうだ。空気に溶けるほど小さな声を絞り出し、うわごとのように彼女は漏らす。
「……もう一度、玲奈と一緒に弾きたいな……」
 その言葉を聞いて、俺は思った。そうだ、是非一緒に弾いてくれ。あのときの曲を、二年前のライブの曲を、もう一度二人で弾いてくれ。そんな風に。
 俺が聴きたいのは、あの荒々しくて美しい、心が夢で満たされるような二人の曲だ。だからそれを、千種と鳴海でもう一度、もう一度だけ弾いてほしい。
 そして俺は、いつしか自分の思い込みを確信に変え、熱を込めながら彼女に告げる。
「ならさ、次は一緒に頼みにいこう!」
「え?」
「千種も一緒に、鳴海のところに行くんだよ。千種が直接誘った方が、きっと何倍も効果がある。千種だって、本当はそうしたいんだ。……ちがうか?」
 バレバレのストーキングまでしていたくらいなんだ。千種だって本当は、鳴海と話したがっているはずじゃないか。
 しかし彼女は、俺の誘いに対して、素気なくぷいっと横を向いた。
「……やだよ。私が行っても、どうせ聞いてくれないもん。玲奈は私と、話したがらないと思うし」
「だ、大丈夫だって。えっと、まあ、なんだ、その……俺が何とかする」
「思いっきり避けられてるくせに、よく言うよ」
「ぐっ……」
 一度拗ねた子供よろしく、なかなかどうして彼女は頑固だ。彼女の胸ほどの高さまで頭を屈めて訴えても、色よい答えをもらうことができない。
「本当に何とか……どうにかするから!」
「どうせまた上手いことあしらわれるよ」
「頑張るから! 俺がちゃんと、千種が鳴海と話せるようにするから!」
「玲奈って、怒ると怖いんだよ」
「そ……そこは、千種にも頑張ってもらうしかないけど……。てか、怒らせないようにするしさ」
「私、口じゃ玲奈に絶対勝てないし」
「こらこら。こっちが端から喧嘩腰でどうするんだ。穏便に、紳士的にだ」
「私、紳士じゃないし……淑女だし」
 いや……千種が淑女かどうかは結構怪しいけど……まあ、それはともかくとして。
 週明けにまた俺一人で鳴海にかけあってみたところで、結果は既に見えている。あの隙のない完璧な笑顔に阻まれて、きっと何も言うことすらできやしないのだ。
 でも、千種と行けば何かが変わる。千種と鳴海に、ちゃんと面と向かって話をさせてやれば、何かしら事は進展するはずだし、鳴海ももう少しギターのことを考えてくれそうだ。
「千種は難しいこと、考えなくていい。もう一度、一緒に弾きたいんだってことだけ、鳴海に伝えてくれればいいから。だから、頼むよ」
 俺は今一度、言葉を重ねて千種を拝んだ。どうにか千種の方からも鳴海を誘ってくれるようにと、低頭で両手を合わせてお願いした。
 路上でこんなことをしていては周囲から不審がられるかもしれないが、この際、気にしてはいられない。
 千種は俺を前に口を結んで無言だったが、しかしやがて、何かを考えるように目線を下に泳がせたあと、渋々といった感じで呟いた。無愛想な表情の中に、わずかだけの不安と、そして期待を思わせる感情を浮かべて、たどたどしく答えてくれた。
「……わかった」