「どんな事情ですか?」
「龍を殺害しようとした村人というのはね、私の祖先なんですよ」
 私は鉛筆を取り落としそうになった。
 鑓水さんは淡々と話を続ける。
「茂蔵という名だそうで、その人が村が水没してからたいそう後悔して、神社の宮司に転職して罪を悔いたんです。そこから龍宮神社が始まったわけです。逆鱗は村長の娘が持ってきて、神社に奉納してほしいと願ったので、こうして今も祀られているわけです。その娘がどうして逆鱗を所持していたのかは諸説あります。婚姻の証として青年からもらったとか、奪っただとかね。そういった諸々がね、茂蔵つまり初代宮司ですが、彼の書き残した書物に記されているんですよ」
 茂蔵は、私の夢の中だけの登場人物ではなかった。
 彼は実在した。
 夢の続きのような出来事を鑓水さんの口から語られて、鉛筆を持つ手が震える。
 神社に逆鱗を奉納してほしいと頼んだ村長の娘というのは、サヤのことだ。
 あの逆鱗は那岐の手に返されることなく、時を経て、目の前にあるのだ。
 ということは……私が那岐と出会った、あの夢の中の村は、水池村。
「でも、水池村は山奥にありますよね? ここは街の中で平地だから、全然地形が違うんじゃないですか?」
「移転したんですよ。わたしが小さい頃ですね。水池村は明治頃にまた人が住むようになったのですが、何しろ車が入っていけない山奥なので、過疎化して廃村になったんです。そのときに龍宮神社もこの土地に移転したというわけです。今も村の跡地はありますよ」
 明らかにされた事実に、私は唖然とした。
 あの村は、実在したのだ。ただし、過去の遺物として。
 展示してある鑓水さんの著作を捲った西河くんは、挿絵のページを開いた。
「このイラスト、鑓水さんが描いたんですよね?」
「そうですよ。はは、下手で申し訳ない」
「龍神の社の前に太線が引いてありますが……これは樫の木ですか?」
「そうそう。初代宮司の書物をもとにして、水没する前の水池村をイメージして描いたんですよ。今はその場所には何もないけれどね。どうにも私の手が滑ってしまい、樫の木を上手く描けないんだ……おや、きみ、よくそれが樫の木だと知っているね」
 首を傾げる鑓水さんに、西河くんは微笑んで、こう言った。
「僕はなぜか樫の木だと知っていたんですよね。前世の記憶でしょうか」
「ははは、そうかもね。祖先が悪いことをしたから、わたしは今生で人々の安寧を祈っていますよ」
 笑い合うふたりに反して、私の背には悪寒のようなものが這っていた。
 西河くんの言った、前世の記憶という言葉が、いつまでも耳の奥に残響していた。

 学校は夏休みに入り、街は開放感に満ちた学生で溢れた。
 ある晴れた日、駅で待ち合わせた西河くんと私はバスに乗り込む。
 水池村を訪れるためだった。
 鑓水さんに話を聞いたあと、西河くんと相談した結果、実際に水池村を訪問してみようということになった。水池村はすでに廃村になっているので、正確には旧水池村という名称だ。
 調べてみたところ、日帰りで行ける場所に旧水池村は位置していた。
 龍宮神社を訪れて鑓水さんの話を聞いて以来、私の胸には確信めいたものが広がっていた。
 もうすぐ、悪夢の全容が解き明かされる。
 私がなぜあの夢を見たのか、あの村での出来事は何だったのか。
 旧水池村に行けば、すべてが判明する。そんな気がした。
 冷房の効いたバスの車内で、私たちは並んで座席に座る。私は背から下ろしたリュックを膝に抱えた。西河くんはチノパンにパーカーという軽装に、ナップザックだ。
「もしかして、西河くんは水池村に行ったことがあるの?」
 いつ、とは聞かなかった。鑓水さんは、木の種類が樫だと言い当てた西河くんに驚いていた。もちろん私も、樫の木だと知っていたわけだけれど。
 西河くんは小首を傾げる。
「あるというか、ないね。湖があるのは知ってる」
 答えになっていない。
 ただ、夢の中の村には川はあったけれど、湖は存在しなかった。
 バスは街を通り抜け、蛇行した山道を登っていく。
 寂れた停留所の看板前で、乗客がひとり、またひとりと降り、最後は私と西河くんのふたりだけになった。
 深い森林に囲まれた山間の道路で、私たちはバスを降りた。
 ここに辿り着くまでいくつかの家屋は点在していたが、もう集落はないようだ。西河くんは地図を取り出して確認した。
「ここから少し歩くけど大丈夫?」
 ナップザックを背負い直した西河くんは、道路脇から伸びた山道に入っていく。
 車が通れる道がないので山道を歩くしかない。かなりの秘境だ。
「うん、大丈夫。水池村に行ってみたいから」
 前を行く西河くんは振り返り、くすりと微笑む。
「疲れたら、おんぶしてあげるよ」
「え……ううん、本当に平気だから!」
 川で那岐に初めて出会ったとき、おんぶしてくれたことが脳裏を過ぎる。
 遠い昔のようにも思えるけれど、つい昨日のような錯覚も覚えた。
 私は前を行く広い背を目に映しながら、西河くんに続いて山道を登っていった。
 山は清涼な空気に満ちているけれど、体を動かしているので額に汗が滲んでくる。
 やがて狭い山道から、やや幅の広い緩やかな砂利道に出た。道の両脇は雑草が毟られ綺麗に整えられている。水池村までの通り道に、古びた雑貨屋が店を構えていた。車も通れない場所だけれど、観光客が来るのだろうか。
「あそこで休憩しようか」
 西河くんの誘いに頷く。山道を登って疲れたので、休みたいと思っていたところだ。
 雑貨屋の中は薄暗く、飲み物の入った冷蔵庫が稼働していた。店の前には休憩できる床几が置かれていたので、私はそこに腰を下ろした。
「すいません、ラムネふたつください」
 西河くんが戸口から声をかけると、「はいよ」という店番のお婆さんらしき返事が届いた。
 ラムネを二本持ってきたお婆さんの顔をふと見た私は、息を呑む。
「きっ……キヨノさん……⁉」
 刻まれた皺を笑みに形作ったお婆さんは、村長の屋敷で女中をしていたキヨノだった。母屋に上がり込んだ私に練り菓子をくれて、蔵に閉じ込められた際にも私の食事を作ってくれた人だ。
 彼女は、まるで自分の孫を見るような愛おしい眼差しを私に向けた。
「はい、清乃ですよ。お嬢さんは水池村の観光に来たの?」
「ええ……龍神伝説があるそうなので……知りたいと思いました」
 清乃の優しげな顔つきは、厳しい環境に置かれた村の人が見せる特有の険しさとはかけ離れていた。やはり彼女も鑓水さんと同じで、夢の中の人物とは別人だ。
 西河くんは一本のラムネを私に手渡し、隣に腰を下ろす。
 シュッ、と開栓した音が小気味よく響いた。
 清乃は手を後ろに回して、懐かしむように虚空を見つめる。
「龍神伝説はね、何百年も前の話ですよ。村人は龍神と恋仲だった娘を人柱として、焼き殺してしまった。嘆き悲しんだ龍神は娘の亡骸を抱えて天に還ってしまう。そうしたら七日七晩、雨が降り続いて、村は水の底に沈んでしまったんだよ」
 私の体験とあまりにも酷似した内容が清乃の口から語られる。冷たいラムネの瓶から流れる雫がひんやりと手のひらに纏わりつき、体の芯を冷やしていく。
「その龍は……どうしたんでしょう。もう地上に降りてこなかったんでしょうか」