子どもたちにまで、イケニエと嫌われている有様だ。姿を現わせば村人の不興を買うのは明らかだった。
「でも、那岐は龍神の社に来ないかって誘ってくれた……」
那岐に誘われるなんて初めてで、嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。不安もあるけれど、それよりは儀式を行う那岐を見たいという気持ちのほうが勝った。
小屋を出て屋敷の裏木戸をくぐり抜けた私は、龍神の社へ向かって駆けた。
山の麓にある龍神の社は、川の傍にある村長の屋敷とは対極の位置にある。社へ行くためには村内を通らなければならず、長閑な田畑を私は全力で走り抜けた。
幸い、山間に広がる田畑とそこに点在する藁葺き屋根の民家のどこにも人影はなく、私の姿を誰かに見られることもなかった。村人は雨乞いの儀式のため、龍神の社に集まっているのかもしれない。
やがて、山から扇状に広がる地形の根元に建てられた社と、それを覆い隠すように生い茂る林が見えてきた。林の中は広場が造られているようで、そこから祝詞を唱える声が響いてくる。
低いのに、澄み渡る声は那岐のものだ。
胸がいっぱいになった私は、息を弾ませながら草履を履いた足を懸命に繰り出す。
深い樹木に囲まれた広場には、大勢の村人が跪いていた。みんなは両手を合わせて祈りを捧げている。私は後方にある樫の大木の陰に身をひそめて、そっと儀式の様子を窺った。
前方には祭壇が設えられており、神酒や三方に盛られた塩が供えられている。円形の鏡と五色旗も飾られていた。その前で白紋の狩衣を纏い、烏帽子を被り、細長い笏を持った那岐が、縄で四角形に区切られた空間の中央に立っている。
厳かな表情は、私が見たことのないものだ。
天を仰いだ那岐は、念を唱えるように低い声音を発した。
「天よ、我が嘆きを聞き入れ給え。雨雲よ、我がもとに招来し給え。那岐の名の下に、この地に雨の恵みをもたらし給え」
さあっと、一陣の冷たい風が吹き抜けた。大気が湿り気を帯びる。
近づく気配に天を振り仰ぐ。すると、先程まで晴天だった空には鈍色の雨雲が忍び寄っていた。
太陽が雲に隠れる。人々は一心に祈り、頭を垂れた。
やがて曇天から、ぽつりと降ってきた雨粒が頬を叩く。
社前の広場は歓声に湧いた。
雨だ、雨が降ってきた、龍神様のご加護だ。
村人たちは歓喜して恵みの雨をもたらした天を仰いだ。
「本当に、雨を降らせちゃった……」
雨乞いを迷信だと疑っていたわけではないけれど、まさかすぐに雨雲を呼んで雨を降らせることができるなんて思わなかった。この奇蹟を目の当たりにすれば、村人が那岐を龍神様と崇めるのも頷ける。
天候を自在に操る那岐はまさしく神であり、龍神の加護を手中に収めている村人の頬には優越すら滲んでいた。
けれど、それも長くは続かず、村人の笑みは剥がれ落ちた。
雨はひとしきり降ると、すぐにやんでしまったのである。雨雲は太陽の光に敵わなかったかのように霧散した。
再び強烈な陽の光に見舞われて、人々の間から落胆の声が上がる。
なんだ、これじゃ土に染みないじゃないか。田の水はもうないんだぞ。もっと降らないのか。
先程の歓喜とはうって変わり、村人は口々に不平を漏らす。後ろから状況を眺めていた私には、一喜一憂する村人たちはいかにも身勝手に見えた。
最前列にいた村長が立ち上がり、那岐に伺いを立てる。
「龍神様。これではとても田畑に水が行き渡りません。もっと雨を恵んではくださりませんか」
「そうしたいのは山々だが、この天候では今のところ、これが限度だ」
那岐は疲弊した表情で手にしていた笏を下ろす。
今日はこれでお終いらしい。広場には落胆の吐息が広がった。村長は揉み手をして食い下がる。
「しかしですね、龍神様のお力を使えば日照りでも大雨を降らせ、雪の日でも陽を出せるのではございませんかな?」
「天の理を大きくねじ曲げることはできない。今年は特に陽の力が強く、大気の流れがよくない。今少し時を待つのだ」
夏の陽射しは濃い影を作り、日陰に佇んでいても汗が滲む。この気候で大雨を降らせるというのは、たとえ龍神でも無理があるのだろう。
私は初めて雨乞いの儀式を見たからとても驚いたけれど、奇蹟に慣れている村人はこの程度では納得できないという空気を漂わせていた。
贅沢に慣れると、ありがたみが薄れる。
白粥ばかりの生活をして、初めて己が贅沢者だったということに気づいた私は、今の村人の状況は以前の自分に似ていると感じた。
ふと、村長の隣に座っているサヤの姿が目に留まる。
彼女は一心に、純白の狩衣を纏う那岐を見つめている。憧憬の眼差しには、恋心が含まれていた。
ああ、そうなんだ。
サヤはやはり、那岐のことが好きなのだ。
自らの心に正直に、目線は捉えてしまう。
愛しい人の姿を。
そしてそのことを悟った私もまた、那岐が雨乞いをする姿を瞬きもせずに見つめていたのだろう。
那岐への仄かな想いが、胸の奥底に芽吹く。
それは温かくて幸福な、ふわふわとした心持ちだったけれど、同時に覚束なさも孕んでいた。
この想いは、許されないのではないかという気がして。
解散の様相に村人たちは次々と立ち上がり、家や田畑に戻っていく。私も樹木から離れようとしたとき、村人のひとりが突如大声を張り上げた。
「なにが龍神様だ! 本物の神なら天を動かすことくらい造作もないはずだろう。できないのなら、下手なまじない師と同じだ」
場は硬直し、人々は男の発言に目を瞠る。
だが、そうだそうだと同調する声がそこかしこに広がった。しかし諫める声も上がる。
「やめないか。龍神様は我らの祖先の代からこの地に雨を恵んでくださったのだ。神に暴言を吐いたら祟りが起きるぞ」
「じゃあその祟りを今すぐ起こしてみたらどうだ。雨がなければ今年の年貢はどうなる。俺たちは飢え死にしてしまう!」
「焦ってはいかん。龍神様も時を待てと仰ったではないか」
「年寄りは黙ってろ! 昔は結構雨が降ったらしいな。だが今はこのとおりじゃないか」
龍神を批判する若い男に同調するのは働き盛りの男たちで、それを諫めようとしているのは長く生きて村を見てきた老人だった。
対立した村人たちを、村長は狼狽えながら傍観している。サヤも俯いていたが、ちらりと那岐に目線を配っていた。
那岐は言い合いを続ける村人たちに、静かな声をかけた。
「皆、争うのはやめてくれ」
人々は口を噤む。
那岐を見る目には憎悪や期待、懇願など、様々な感情が混在していた。
村人たちを見渡した那岐は沈痛な表情で告げる。
「俺の力が及ばないばかりに、皆に不安を抱かせてすまないと思っている。だが、雨は必ず降らせる。不満があるならば話を伺おう。冷静に話し合いがしたい」
「でも、那岐は龍神の社に来ないかって誘ってくれた……」
那岐に誘われるなんて初めてで、嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。不安もあるけれど、それよりは儀式を行う那岐を見たいという気持ちのほうが勝った。
小屋を出て屋敷の裏木戸をくぐり抜けた私は、龍神の社へ向かって駆けた。
山の麓にある龍神の社は、川の傍にある村長の屋敷とは対極の位置にある。社へ行くためには村内を通らなければならず、長閑な田畑を私は全力で走り抜けた。
幸い、山間に広がる田畑とそこに点在する藁葺き屋根の民家のどこにも人影はなく、私の姿を誰かに見られることもなかった。村人は雨乞いの儀式のため、龍神の社に集まっているのかもしれない。
やがて、山から扇状に広がる地形の根元に建てられた社と、それを覆い隠すように生い茂る林が見えてきた。林の中は広場が造られているようで、そこから祝詞を唱える声が響いてくる。
低いのに、澄み渡る声は那岐のものだ。
胸がいっぱいになった私は、息を弾ませながら草履を履いた足を懸命に繰り出す。
深い樹木に囲まれた広場には、大勢の村人が跪いていた。みんなは両手を合わせて祈りを捧げている。私は後方にある樫の大木の陰に身をひそめて、そっと儀式の様子を窺った。
前方には祭壇が設えられており、神酒や三方に盛られた塩が供えられている。円形の鏡と五色旗も飾られていた。その前で白紋の狩衣を纏い、烏帽子を被り、細長い笏を持った那岐が、縄で四角形に区切られた空間の中央に立っている。
厳かな表情は、私が見たことのないものだ。
天を仰いだ那岐は、念を唱えるように低い声音を発した。
「天よ、我が嘆きを聞き入れ給え。雨雲よ、我がもとに招来し給え。那岐の名の下に、この地に雨の恵みをもたらし給え」
さあっと、一陣の冷たい風が吹き抜けた。大気が湿り気を帯びる。
近づく気配に天を振り仰ぐ。すると、先程まで晴天だった空には鈍色の雨雲が忍び寄っていた。
太陽が雲に隠れる。人々は一心に祈り、頭を垂れた。
やがて曇天から、ぽつりと降ってきた雨粒が頬を叩く。
社前の広場は歓声に湧いた。
雨だ、雨が降ってきた、龍神様のご加護だ。
村人たちは歓喜して恵みの雨をもたらした天を仰いだ。
「本当に、雨を降らせちゃった……」
雨乞いを迷信だと疑っていたわけではないけれど、まさかすぐに雨雲を呼んで雨を降らせることができるなんて思わなかった。この奇蹟を目の当たりにすれば、村人が那岐を龍神様と崇めるのも頷ける。
天候を自在に操る那岐はまさしく神であり、龍神の加護を手中に収めている村人の頬には優越すら滲んでいた。
けれど、それも長くは続かず、村人の笑みは剥がれ落ちた。
雨はひとしきり降ると、すぐにやんでしまったのである。雨雲は太陽の光に敵わなかったかのように霧散した。
再び強烈な陽の光に見舞われて、人々の間から落胆の声が上がる。
なんだ、これじゃ土に染みないじゃないか。田の水はもうないんだぞ。もっと降らないのか。
先程の歓喜とはうって変わり、村人は口々に不平を漏らす。後ろから状況を眺めていた私には、一喜一憂する村人たちはいかにも身勝手に見えた。
最前列にいた村長が立ち上がり、那岐に伺いを立てる。
「龍神様。これではとても田畑に水が行き渡りません。もっと雨を恵んではくださりませんか」
「そうしたいのは山々だが、この天候では今のところ、これが限度だ」
那岐は疲弊した表情で手にしていた笏を下ろす。
今日はこれでお終いらしい。広場には落胆の吐息が広がった。村長は揉み手をして食い下がる。
「しかしですね、龍神様のお力を使えば日照りでも大雨を降らせ、雪の日でも陽を出せるのではございませんかな?」
「天の理を大きくねじ曲げることはできない。今年は特に陽の力が強く、大気の流れがよくない。今少し時を待つのだ」
夏の陽射しは濃い影を作り、日陰に佇んでいても汗が滲む。この気候で大雨を降らせるというのは、たとえ龍神でも無理があるのだろう。
私は初めて雨乞いの儀式を見たからとても驚いたけれど、奇蹟に慣れている村人はこの程度では納得できないという空気を漂わせていた。
贅沢に慣れると、ありがたみが薄れる。
白粥ばかりの生活をして、初めて己が贅沢者だったということに気づいた私は、今の村人の状況は以前の自分に似ていると感じた。
ふと、村長の隣に座っているサヤの姿が目に留まる。
彼女は一心に、純白の狩衣を纏う那岐を見つめている。憧憬の眼差しには、恋心が含まれていた。
ああ、そうなんだ。
サヤはやはり、那岐のことが好きなのだ。
自らの心に正直に、目線は捉えてしまう。
愛しい人の姿を。
そしてそのことを悟った私もまた、那岐が雨乞いをする姿を瞬きもせずに見つめていたのだろう。
那岐への仄かな想いが、胸の奥底に芽吹く。
それは温かくて幸福な、ふわふわとした心持ちだったけれど、同時に覚束なさも孕んでいた。
この想いは、許されないのではないかという気がして。
解散の様相に村人たちは次々と立ち上がり、家や田畑に戻っていく。私も樹木から離れようとしたとき、村人のひとりが突如大声を張り上げた。
「なにが龍神様だ! 本物の神なら天を動かすことくらい造作もないはずだろう。できないのなら、下手なまじない師と同じだ」
場は硬直し、人々は男の発言に目を瞠る。
だが、そうだそうだと同調する声がそこかしこに広がった。しかし諫める声も上がる。
「やめないか。龍神様は我らの祖先の代からこの地に雨を恵んでくださったのだ。神に暴言を吐いたら祟りが起きるぞ」
「じゃあその祟りを今すぐ起こしてみたらどうだ。雨がなければ今年の年貢はどうなる。俺たちは飢え死にしてしまう!」
「焦ってはいかん。龍神様も時を待てと仰ったではないか」
「年寄りは黙ってろ! 昔は結構雨が降ったらしいな。だが今はこのとおりじゃないか」
龍神を批判する若い男に同調するのは働き盛りの男たちで、それを諫めようとしているのは長く生きて村を見てきた老人だった。
対立した村人たちを、村長は狼狽えながら傍観している。サヤも俯いていたが、ちらりと那岐に目線を配っていた。
那岐は言い合いを続ける村人たちに、静かな声をかけた。
「皆、争うのはやめてくれ」
人々は口を噤む。
那岐を見る目には憎悪や期待、懇願など、様々な感情が混在していた。
村人たちを見渡した那岐は沈痛な表情で告げる。
「俺の力が及ばないばかりに、皆に不安を抱かせてすまないと思っている。だが、雨は必ず降らせる。不満があるならば話を伺おう。冷静に話し合いがしたい」