会見の喧騒がまだ残る中、深夜になって琴似の清正と茉莉江の新居を訪ねてきた者があった。
茉莉江が誰何すると、
「茉莉江先輩、おひさしぶりです」
驚くべきことに翠であった。
「顔を出せるような立場じゃないのは分かってるんだけど…」
どうやらあちこち訊き回って探し当てたようである。
茉莉江は招じ入れた。
ちょうど清正がトイレから出てきたタイミングで、
「…瀬良も難儀やったな」
清正は怒らない。
しかしそれが翠の涙腺を崩壊させた。
しばらく泣きじゃくっていたが、茉莉江が促してリビングに上げ、コーヒーが苦手な翠のために清正は手ずから点前を立て、抹茶を出した。
「みな穂ちゃんの会見はテレビで見た」
訥々と語り始めた翠は、あの写真の真相を話し始めた。
「あの俳優さん、実は一緒に舞台で仕事をするスケジュールだったのね。それで最初は端役だったんだけど」
キーパーソンとなる役の女優が交通事故で怪我をしてしまい、代役に翠の名が上がったのだという。
「でも、それには条件があるって」
それで枕営業のために密会した、と言うのである。
茉莉江も清正も言葉を失った。
「私…雪穂やすみれみたいに売れなきゃって焦ってたのかも」
翠の家は母子家庭で、家計が厳しい。
話を聞いていた茉莉江は、沈痛な面持ちをした。
だけど、と翠は顔をあげた。
「私、昔から軽はずみなところがあって、だから今回も…やっちゃってさ」
みな穂だけでなく、メンバー全員にまで迷惑をかけてしまったことを悔いていたのか、
「だから私、事務所も辞めたし…家も引き払ってきた」
ここまで素直な翠は二人とも初めて見た。
「…自殺だけはすなよ」
「それだけは先生、大丈夫」
「これからどうするの?」
「とりあえずママの実家が帯広だから、そこに行こうかなって」
「…無理だけはすなよ」
「先生、ありがと」
先生の抹茶美味しかった、と翠は無邪気なスマイルを初めて見せた。
それから清正が書斎に行き、リビングが茉莉江と二人になると、おのずと話柄は生徒会時代の話になった。
「翠ってさ、強がりだったよね」
茉莉江は翠が実は寂しがり屋で、強がりで、責任感が強すぎるが故に、他人に弱みを見せたがらない性格であることを、生徒会で一緒に運営してきて知っている。
「私が失敗するたびに、会長に代わりに謝りに行ってもらって…」
翠は再び涙ぐんだ。
「本音を言うとね、あなたが会長に無投票で決まったとき、ちょっと不安だったの。この子は一人で何でもやろうと突っ走るから、大丈夫かなって」
だけど私は引き継いだらいなくなるし、と茉莉江は翠を気にかけていた。
「だからあなたがアイドル部の件で大変だったときも、もっと素直に気持ちを伝えていたら違ったのかなって」
茉莉江の言葉に、翠はうなだれて泣いていた。
「あなたは根は頭のいい子で、決して悪い子じゃないんだけど…」
茉莉江と語らううちに、夜が白んできた。
「帰るね」
「何かあったら、連絡してね」
茉莉江と翠は、そうしてこの日は別れた。
数日、過ぎた。
茉莉江は部活動の口座の件で銀行に行った帰り、カートを曳いて札幌駅のエスカレーターに乗っている翠らしき姿を見た。
「違うかな?」
すぐに追ったが、見失った。
「…そういや帯広に行くって話してたっけ」
改札の案内板の帯広行はすでに点滅し始めていて、追っても間に合わないことは、茉莉江にも容易に察せられた。
やがて。
案内板の点滅が消えた。
「…向こうでうまく行けばいいけど」
茉莉江は、買い物がある地下街の方へ階段をくだっていった。
会見のあと期末テストでバタバタしていたのが夏休みに入ると、ようやく騒ぎもおさまりつつある。
恒例の祝津での夏合宿も始まった。
「ここだけはいつ来ても変わらないなぁ」
当のあやめは、気持ち良さげに伸びをした。
アイドル部が始まって以来、夏合宿は祝津の宿泊施設を借りて、スケジュールは変わらない。
日和山の灯台も、鰊御殿も、駐車場から眺め渡せる積丹ブルーの石狩湾も、邪魔な喧騒もない木造の家並みもそのままで、
「ここに来られるから、アイドル部やってるようなものかも」
などと、創成川沿いの街なかでマンションやビルに囲まれて育ったひまりなんぞはいう。
合宿中、話題は翠の話でもちきりであった。
「それにしても、枕営業ねぇ…」
ひまりが言った。
「やっぱりオトコって、所詮はオンナの身体目当てだよね」
男兄弟のいるひかるにかかると身も蓋もない。
「でもさ、翠が焦る気持ちも分からなくはないかな」
「イリス先輩、そうなんですか?」
あやめの言葉に英美里が反応した。
「私はほら、たまたまパーカッションって技術を身につけられたからどんなときだって焦らなかったけど、でも一歩間違えていたら、同じようになっていたのかなって」
英美里は言葉に詰まった。
「アイドル部って、大人の嫌な部分も目にしやすい部活動だけど、それでもキラキラしてゆくためには、いろんな努力をしなきゃ駄目なんだと思うし」
バック転すら自主トレで身につけたあやめならではの感懐かも知れなかった。
とはいえ恋愛話となると、妙なテンションになるのもこの年齢期ならではの特徴でもあろう。
「同年代の男子ってだいたいガキンチョだからさ、ついちょっと大人な男子に目が行くよね」
ひまりが言った。
「私は、普通に結婚して普通に暮らすのがいいな」
ひまりの家は小学校の四年まで手稲にあった。
それが創成川の再開発で建ったマンションへ引っ越して、中等部へ通うようになって、るなと再会を果たしている。
「私はやりたいことがあるから、結婚とかはまだ考えてないけどさ」
でも確かまだアイドル部で結婚した人いないよね、とるなは言った。
「いくらなんでも、先輩が先でしょ」
自分たちの歳を考えれば妥当な意見であろう。
むしろ結婚願望はひまりよりるなのほうが強く、
「私は卒業したら、早く彼氏見つけて結婚したいなぁ」
るなの両親は学生時代に知り合って、就職を機に結婚、母親が二十三歳のときにるなが生まれている。
「だから早い結婚っていいらしいよ」
近いところでは茉莉江が早くに結婚し、今では旧華族の奥方様である。
ただ清正と茉莉江の結婚はかなりいろいろあったようで、
「先生の親戚とか説得するのが大変だったみたい」
無理もないであろう。
たかだか三万七千石のちいさな大名家とはいえ、安土桃山時代から続く家なのである。
「そりゃ北海道まで逃げたくもなるわ」
最終的には茉莉江が妊娠したので、いわば強行突破で乗り切ったらしかった。
この年の夏合宿は雨が多く、外でのフォーメーションのチェックは雨の止み間を狙って僅かな時間に行なうなど、なかなかの工夫を迫られる中で続いている。
この日は来月の石狩の夏フェスでのパフォーマンスに向けた仕上げの練習が行われていた。
「しょこたんとゆーちゃん、少し位置ズレたよー!」
珍しく晴れたので、朝からブッ通しで練習が行われていた。
そのとき。
バタッと音がした。
見ると、薫が倒れていた。
「…薫?!」
全員が馳せ寄って来た。
「…熱中症やな」
日陰に移動させ、この日洗濯物を取りに来ていた茉莉江が薫に付きっきりで様子を見た。
休憩に入ると、とりわけ眩しい夏空と入道雲が目に飛び込んできた。
「ね、ダーリャはなんでアイドル部に来たの?」
好奇心の強い翔子が訊いた。
「一生に一度しか出来ないかも知れないから」
思ったより重厚な回答に、
「うちなんか、クラリネット辞めたくてコッチ来ただけやもんな」
翔子の関西弁は清正のそれとは少し違った。
「先生みたいなええトコの子やないもん」
厳しい練習でも、まだ翔子にすればクラリネットよりは楽しかったらしい。
「でもしょこたんがいるから、私も続けていられるんだよね」
それはだりあの偽らざる気持ちであったらしい。
夜、合宿中の楽しみの一つに花火があった。
「夜中まで騒がないように」
美波に釘を刺されるのだが、小樽の駅前の量販店で買い込んだ花火をメンバー全員で楽しみながら、夏らしい夜を過ごす。
「私あんまり花火したことないんだよね…」
というだりあのために、薫がレクチャーをし始めた。
「長崎ってなぜかお墓参りで花火するんだけど、私は子供の頃ロケット花火が怖かったから、親が手持ち花火にしてくれて」
それでいやに手慣れているのである。
「それよりさ、何で墓で花火するんだろね」
「それは分からないけど、昔から長崎は坂と墓はあちこちあるし、精霊流しなんかもあるから、にぎやかに過ごすのが当たり前だったんだよね」
むしろ薫は七夕の蠟燭集めのほうが不思議であったらしく、
「七夕にハロウィンみたいに、ロウソク一本ちょうだいなって言って、お菓子もらいにゆくじゃない? あれのほうが私は不思議」
「あれは普通にやるよね」
道内組のほとんどがうなずいた。
「いろんな分からないことが分かるから、越境入学も悪くないよね」
みな穂は線香花火に火をつけた。
「私、地味だけど線香花火のほうが好きだな」
みな穂の線香花火は、柔らかい高島岬の海風に揺れて、かすかにそよぎながら静やかな音を立てていた。
新入部員の勧誘の話題に変わった。
だりあと翔子はあやめの新入部員の勧誘の際、
「あの子が一緒なら」
と、たまたまそばにいた見ず知らずの翔子を指して、だりあは断る口実にするつもりであった。
そこで普通なら諦める。
が。
あやめは諦めずに、何と翔子に声をかけてみたのである。
すると翔子は、
「オモロイから、えぇんとちゃう?」
あろうことかノリで体験レッスンを決めてしまい、引っ込みのつかなくなっただりあが入部する…という結果になった逸話がある。
「まぁたまたまうちの高校は落研もなかったし、三年間好きなこと出来るならいいやって」
歌もダンスも未経験だが、少しだけカッポレが踊れる。
だりあは志ん朝の「大山詣」と「芝浜」がお気に入りのネタで、
「志ん朝の住吉踊りなんてカッコよくてさ」
などと、まるで他の女の子がジャニーズや韓流を見て目を輝かせるように、だりあは語るのである。
ダンスとカッポレはかなり違うが、
「バランスとかはダンスのほうが簡単だから楽」
と言って美波の前で雷門助六よろしく、操り人形のカッポレを見せると、
「アンタそれだけ出来るなら、ダンス簡単だって言うわそりゃ」
意外と実力は高い。
だりあは落語をする関係上、着物の着付けが出来る。
さすがに振袖は一人では着られないが、高座で着る着物ぐらいは一人で着付け出来る。
「着物ぐらいは着られたほうが何かの役に立つかなって」
浴衣ぐらいなら誰の手も借りずに、身八つ口から手を入れて端折りもさばけるし、一人で半幅帯ぐらい軽々と結んでしまうのだが、この日の夜も、
「花火するのに浴衣も着ないんじゃ、風情も何もないし」
といい、持ち込んだ浴衣を一人だけ着て出てきた。
本寸法の伊勢型紙の藍染で、源氏車が染め抜かれた大人っぽい浴衣に、金茶の米沢織の半幅帯を花文庫に結んである。
「それなら男子イチコロだね」
ひまりが言った。