「……慎吾君」
 
 碧理と蒼太がいなくなった後、慎吾と翠子の間には居心地の悪い空気が漂っていた。それを最初に打ち破ったのは翠子だ。
 
「翠子。少し待ってくれないか? ちょっと自分の気持ちを整理するから」
「……うん。隣に座っても良い?」
「ああ……」
 
 今までとは違い、素直に答える慎吾を見て、翠子が嬉しそうにベンチに腰かける。
 そして空に視線をやり、ため息を吐く。緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
 
「綺麗……」
 
 頭上には、普段、見ることのない満天の星。
 その星空を眺め、隣でノートと睨み合っている慎吾に、翠子は視線を向ける。
 
 この頃、一緒にいることがなくなった慎吾の態度に、翠子は何度も泣きそうになった。
 
 自分が何かしてしまったのか不安に陥り、その度に詰め寄って泣きながら縋りつく。そんなことをしても、慎吾の心が離れていくと頭ではわかっている。
 だけど気持ちを抑えられなかった。
 
 ずっと傍にいて欲しかったから。それが当たり前だと思っていた。
 だから今夜、慎吾の本音を聞きたかった。
 たとえ、それが望む形でなくとも。
 
 そして、翠子もまた、慎吾に伝えたいことがあった。それをどう伝えようか、翠子もまた思案する。
 
 真夏の夜の、生温かい不快な空気が二人を包む。
 何を言われるのかわからず、緊張している翠子の手は固く握られている。
 そんな翠子に対して、慎吾はノートとペンを握り締めて苦悶の表情を浮かべていた。
 
 何度も文字を書いては消し、また書く。それを繰り返していると、白いノートは瞬く間に黒く塗りつぶされる。
 難しい顔をしながらも、慎吾がペンを走らせる音が翠子に届く。
 
 しばらくすると、静けさを打ち破るように慎吾が声を上げた。
 
「……出来た。翠子、これが俺の今の気持ち」
 
 その声は緊張しているようで、ゆっくりと慎吾が翠子に赤いノートを手渡す。伝えたいことが書いてあるページを広げながら。
 
「……うん」
 
 どんな言葉が綴られているのか予想出来ない翠子は、恐る恐るノートを受け取った。
 そして、書いてある文字を目で追うと、大きく目を見開く。
 
「……えっ?」
 
 あんなにも時間をかけて悩んでいたノートには、長文ではなく、短い文字でわかりやすく、はっきりと書かれていた。
 
 
 
『好きだ』
 
 
「……っ、慎吾君。これって!」
 
 勢いよく慎吾を見た翠子の瞳に映ったのは、顔を赤くした姿。
 照れているようで、それを隠そうとするように空を見上げている。その姿に、翠子は思わず抱き付いた。
 
「おい、翠子! 離れろよ」
「嫌。だって嬉しいんだもん。私も慎吾君のことが大好きです! 初めて会った時からずっと」
 
 何度も「離れろ」と叫ぶ慎吾の腕に絡みつく翠子を見て、慎吾は引き剥がすことを諦める。
 
「翠子……。俺、日本以外の国を見てみたいんだ。だから、卒業したら海外に行く」
 
 翠子に想いを伝えたことで吹っ切れたのか、慎吾が語り出す。
 どう言う道に進みたいのかを。
 成り行き上、碧理に語った話を翠子に聞いて貰う。
 
「まだ、具体的には何も決まっていないけど、絶対に翠子の元へ帰って来るから。俺は自分の道を自分で選びたい。十年後、二十年後に後悔しないように。だから、しばらくの間、お別れだ」
 
 前を見て、未来を見据えた慎吾の瞳からは迷いが消えていた。
 
 翠子と別れたいと騒ぎ、美咲や碧理を巻き込んでの修羅場騒動。蒼太までも加わって大騒ぎしたのが嘘のように、慎吾は自分の気持ちを素直に口に出す。
 その姿を見て、翠子もまた、にこやかに笑った。
 
「うん。いつまでも待ってるから。おばあちゃんになるまでには迎えに来て。慎吾君はいつも私を守ってくれていたけど、私も一人で大丈夫だよ。美咲さんみたいにかっこよく出来ないし、碧理さんのように料理も出来ないけど、私も一人で何でも出来るように学ぶから。だから……心配しないで」
 
 翠子もまた考えていたことがあった。
 
 慎吾と同じように、このままではダメだと。だけど行動に移せずにいた。慎吾の隣は居心地が良くて安心出来る場所だから。
 
 だが、電車の中で碧理に言われた言葉が翠子の心に突き刺さった。
 頼ってばかりだと慎吾が疲れてしまうと。束縛しすぎると嫌われてしまうと。
 
 だから、翠子もまた行動に移すことにした。
 今は離れていても、未来を慎吾と共に歩けるように努力しようと。慎吾と共に歩けるように力を付けようと心に決めた。
 
「慎吾君に負けないように、かっこいい自立した女性になるから。だから……待っているね」
 
「ああ……。翠子なら何でも出来るよ。いつも努力している姿を見ていた俺が、一番良く知っている」
 
 跡取り娘として、幼い頃から我慢し、親の期待に応えようとする翠子の姿を、慎吾は身近で見ていた。誰よりも努力していた姿を。
 だからこそ、翠子の人生を慎吾もまた邪魔したくはなかった。
 
「約束ね……」
 
 そう翠子がまた呟くと、慎吾からペンを借り、赤いノートに何かを書き込んだ。
 
「おい、翠子。お前、何を書いているんだよ。これ、花木のノートだぞ」
 
 その文字を見ると、慎吾が慌てたように止めに入る。
 
「この後の人生設計です。慎吾君、私は三十までに結婚して、子供を二人産む予定です。だから、それまでに帰って来て下さい。絶対ですよ! このノートは碧理さんに証拠として預かって貰います! だから、サインして下さい」
 
「はっ? 花木にノート預ける? サイン……って」
 
 顔を引き攣らせた慎吾を横目に、翠子はペンを走らす。それは卒業後の二人の設計図。
 それを見ると、二人は九十まで生きる予定のようで「孫」の文字まで見える。
 
「慎吾君、サインして下さい。私が慎吾君を幸せにしてみせます。安心して名前を書いて下さい」
 
 ドラマか小説の見過ぎのような翠子の台詞に、慎吾は困ったような笑みを浮かべた。そして、決心したようにペンを持つと、そこに自分の名前と日付を書き込んだ。
 
 こう言う未来を迎えるのも、悪くはないと思いながら。
 
「ふふっ。これで慎吾君の人生は私と一心同体ですね」
 
 
 怪しい笑みを浮かべる翠子の姿に、早まったかもと少しだけ後悔しながらも、これからの未来を慎吾は想像した。
 
 
「学校さぼったの? あとで親に連絡いくんじゃない? あ、赤谷は謹慎中だったか。アイス食べる?」
 
 一番学校に行っていないはずの美咲が、笑いながら三人を見た。そして、まるで自分の家のように、碧理の前に座布団を並べていく。
 
 すると、美咲は当たり前のように真ん中に陣取った。その隣に翠子が座り、翠子の隣には慎吾。必然的に美咲の反対隣は蒼太になった。
 慎吾や翠子、蒼太が緊張している中、美咲だけが呑気にアイスを配る。どうやら大量に買っていたようだ。
 
「これ美味しいからおススメなの。バニラとチョコレートと苺味。あ、翠子さんとは会った記憶がないから初めましてだよね? 私、白川美咲よろしく」
 
「高田翠子と申します。よろしくお願いします。あと、アイスもありがとうございます」
 
 翠子が行儀よく頭を下げる。
 
「気にせず食べてよ。美味しいよ、その苺味」
 
 自由奔放な美咲がいてくれて良かったと碧理は安堵した。
 美咲がいなかったら、部屋の中は重苦しい雰囲気だっただろう。更にギスギスしていたかも知れない。
 翠子と慎吾が美咲に促されアイスを口にする。そんな中、蒼太だけが碧理を見つめたまま口を開いた。
 
「……怪我は大丈夫? 倒れた時、凄い音がしたんだよ。大騒ぎになって、浜辺が大泣きしてたけど連絡した?」
 
 蒼太の説明を受けて、碧理は困ったような表情を浮かべた。
 瑠衣は昔から、少しだけ大げさに物事を捕える傾向がある。
 
 本人から連絡は来ていたが「大丈夫」だと一言伝えただけ。それ以降は返事を返していなかった。
 
 大量にメッセージは届いていたが、クラス中に噂が回ることが目に見えている。それも真実ではない尾ひれがついたものが。
 それを予想して、碧理は自分が学校へ行くまでは、体調不良を理由に連絡を絶つことに決めたのだ。
 
「うん、一回だけ。落ち着いたらゆっくり連絡するつもり」
 
「そう。そうしてやって。刹那も困っていたから」
 
 蒼太の友達の筧刹那は、彼女である瑠衣の対応に苦慮しているようだ。その姿も想像出来て、碧理は苦笑する。
 
「それで、聞きたいことがあるんだ。……これなんだけど」
 
 蒼太が鞄から出して来たのは赤いノート。あの文章が書かれている碧理のノートだ。
 
「あ、これ……」
 
 碧理は思い出す。
 蒼太と公園で会った時に忘れてしまったことを。
 
「中……見たんだ?」
 
「見た。やっぱり、花木が関わっていたんだね。ここにいる三人同様に僕も知りたい。あの三日間になにがあったのかを。教えて欲しい」
 
 真剣な表情の蒼太に、碧理は困ってしまう。
 言えないのは、全て蒼太のためだと喉元まで出かかった。
 だけど、皆が集まってしまった。
 
 碧理も覚悟を決める時なのかも知れない。でも、それを伝えなくても良いのならそうしたい。
 碧理は流れに任せることにした。
 言わなくても良いのなら、このままにしておこうと。全員が傷つかずに済むのだからと。
 
「……ノートを見たならわかると思うけど、ここにいる五人で『紺碧の洞窟』を目指したの。皆、叶えたい願いがあったから。森里君以外はね。森里君は、私達のことが心配で付いて来てくれた」
 
 碧理は語り出す。
 
 口にしたくない真実を言うために。
 碧理が蒼太を見ると真剣に話を聞いている。
 その姿を見ていると手が震えて、思わず布団を握り締めた。
 
「ちょっと待って。私にもそのノートを見せて」
 
 美咲がアイスを置くと、蒼太からノートを渡される。
 あの言葉が書いてあるページをじっと見つめると、碧理を見た。
 
「……うーん。これだけ見てもやっぱり思い出せない。これを書いたのは碧理なの?」
 
「ううん。洞窟の管理人さん。……私もいつ書いたのか知らないの。管理人さんから教えて貰ったのは、願いが叶うと記憶が一つ失うってことだけ」
 
 そう。願いは叶った。
 でも、碧理だけ記憶は残ってしまった。なぜなのか、それは碧理自身もわからない。
 
「……じゃあ、私達四人が記憶を失ったのは願いを叶えたから?」
 
 美咲の問いに、碧理は強張った顔で頷いた。
 ここで嘘を付いても皆はわからない。
 大切な人を守る嘘なら許されるのではないかと。
 でも、頭とは反対に心はそれを拒否する。すると、自然と言葉になった。
 
「うん、叶ったの。でもね……願いは、それぞれが思っていたのと違う願いになった。アクシデントが起きて」
 
「アクシデント?」
 
 四人が碧理を見つめる。
 
 碧理の視線の先には蒼太がいた。
 本当にここで真実を伝えてしまって良いのか。それは酷く残酷なことではないのかと、碧理は葛藤する。
 
 
 知らなくても良い真実があるのではないかと。でも、隠すことは出来なかった。
 
 
「あの時、どうしようもなくて、死んだの……死んでしまったの」
 
 
 辛くて言いたくなくて、泣いてしまった碧理の言葉に四人が衝撃を受けた。
 
 
それぞれ顔を見合わせて困惑している。
 
 どうしてなのか。誰が死んだのか。聞きたくても碧理は顔を手で覆ったまま中々顔を上げない。
 
「花木! 誰が死んだんだよ。どうやって! 誰かに殺されたのか?」
 
 慎吾が興奮気味に声を荒げて立ち上がる。
 それにつられるように翠子も立ち上がり、縋るように慎吾の腕を掴んだ。その顔色は蒼白だ。
 
「ちょっと! 赤谷、落ち着きなさいよ。それに、今、全員生きてるじゃない!」
 
 美咲も立ち上がり、碧理を守るように慎吾の前で仁王立ちになった。
 
「それは、そうだけど……。花木、誰が死んだんだよ」
 
 美咲の剣幕に驚いた慎吾は、少しだけ冷静になったようで、もう一度碧理を見る。
 唇を噛みしめて涙を何度も手で拭っていると、目の前にハンカチが差し出された。
 
 角に小さく白い糸で描かれた猫の刺繍が見える。
 
 それは何回も見ているハンカチで、一昨日は黒色。そして今はネイビーだ。どうやら蒼太はここのブランドが好きらしい。
 一人だけ冷静な様子の蒼太は、碧理と目が合うと悲しそうに笑った。
 何かを悟ったように。
 そして、目尻を下げて口を開いた。
 
 
「……死んだのは僕でしょう? じゃなきゃ、あんなに毎日、僕のこと心配そうに見ないよね? ごめんね……花木さん一人にだけ辛い記憶が残ったままで」
 
 その言葉で、更に碧理の瞳から涙が零れた。
 それは碧理の、布団を握り締めている手の甲に落ちていく。
 
「私を庇ったの。本当は、私が死ぬはずだったのに……ごめんなさい。ごめんなさい!」
 
 泣きじゃくり始めた碧理に、蒼太はハンカチを優しく手渡す。
 
「花木さん。君が死んでいたら僕も同じことをしたよ。そして、記憶が残ったままだったのは僕だったかも知れない。だから……自分を責めるのは止めて。僕は今、生きているから大丈夫だよ」
 
 碧理の手の中で強く握ったハンカチは、さらにしわくちゃになった。
 蒼太は自分を責めるなという。
 だけど、あの夜を思い出すと、碧理の心は冷静ではいられない。
 
「……ずっと、森里君を見ていたのは、いつか消えてしまうんじゃないかと思って。その時は、今度は私が助けなきゃって……ごめんなさい」
 
 懺悔を繰り返す碧理に、蒼太は首を何度も振る。
 そして、慰めるように頭を撫でた。
 すると美咲も傍に来ると座り込み、涙で濡れた碧理の両手を取った。
 
「……正直に言うと、私じゃなくて森里で良かったって思うの。そのせいで記憶がなくなったのは残念だけど、私は皆が今、生きていて嬉しい。だから記憶をなくしたこと自体は気にしない。だから泣かないで!」
 
 美咲の励ましのような思いがけない言葉に、思わず碧理の涙が止まる。
 
「……白川、それ酷くない? 死んだ本人目の前にして」
 
 呆れたような蒼太の言葉にも、美咲は動じない。
 
「あ、ごめん、ごめん。でも、森里も記憶がないのなら、それはそれで良かったって思わない? 覚えていたら精神状態絶対最悪よ。何度も自分が死ぬ瞬間思い出すなんて最悪じゃない」
 
 美咲の言うことも一理あった。
 蒼太が死んだ光景を覚えている碧理は、自責の念でこの二カ月間苦しんで、悪夢ばかり見てきた。
 それを思えば、記憶がないだけ幸せなのかも知れない。
 
「おい、お前ら。本当にそんな非常識で非科学的なことを信じるのか? あり得ないだろ? 人が死んで生きかえるとか。俺は信じない。花木の虚言かも知れないだろ」
 
 美咲や蒼太と違って、慎吾は信じていない様子で捲し立てる。それに応戦したのは美咲だった。
 
「なによ、赤谷。碧理が私達に嘘を付いて何の得があるのよ!」
 
 慎吾に掴みかかる勢いで立ち向う。
 
「あのな、現実を見ろよ。証拠も何もないんだぞ。俺達の記憶がないことは事実だけど、蒼太が死んだとかあり得ない。しかも、願いで人が生きかえるとか……。なら、大切な人が死んだ家族や恋人は、全員、洞窟で願うだろ? 花木は他に何か隠しているんだよ。それ以外の事実を」
 
「世の中、不思議なことだって起きてるじゃない。超常現象や心霊現象だって、どう説明するのよ。それに、この赤いノートが赤谷の家にあったことや、私が持っていた指輪だって説明がつかないわ!」
 
 二人がそれぞれ言ったことは全部当たっている。
 
 現実には信じられない奇跡のような体験。それを碧理達は経験したのだ。
 本来、願いが叶うのは、その人の努力や奇跡も含まれる。人が生き返る現実は、はっきり言ってありえない。
 
「――私は信じます。碧理さんを」
 
 美咲と慎吾の言い争いを止めたのは翠子の言葉。
 翠子は、碧理の目の前に座り込むとハンカチを自分の鞄から取り出した。
 
「このハンカチは森里さんの物だったのですね。これは、私の部屋にある、机の引き出しの中から出てきました」
 
 それは、碧理が今、持っているハンカチと同じ物。
 ネイビーのハンカチには四つ角の一角に猫の絵が描かれている。
 
「どうして、翠子さんが持ってるの? 二カ月前に俺が貸したとか?」
 
 蒼太は翠子から受け取ると、まじまじと自分のハンカチを眺めた。
 
「私が借りたのですか? このハンカチを」
 
 答えを持っていない翠子は碧理を見た。
 
「……正確には違う。そのハンカチは、私が森里君から借りたの。一日目の夜にカレーを作ろうとして包丁で指を少し切ったんだ。その時、貸して貰ったの。その後、翠子さんが転んで膝を擦りむいたから貸したの。もちろん、森里君から許可貰ったよ」
 
 懐かしそうに碧理は目を細める。
 廃校で過ごした、あの夜を。
 
 
「――花木さん。提案なんだけど、僕と一緒に当時のルートをまた最初から辿ってみない?」
 
 そう言い出したのは蒼太だ。
 思いもよらなかった提案に、碧理は泣きすぎて真っ赤な瞳を蒼太に向ける。
 
 
「……あの時のルートを?」
 
「そう。確率は少ないと思うけど、何か思い出すかも知れない。それと……」
 
 言葉を一旦切った蒼太は、美咲が投げ出したままの赤いノートを手に取った。
 
「僕はこの、洞窟の管理人さんに会ってみたい。この文字を書いた人物にも当時の状況を聞きたい。花木さんは、この人がいる場所を知っているよね?」
 
「うん。知っているけど……。新幹線や飛行機を使えば洞窟まではすぐ行けるよ。でも、皆で寄り道した場所を全部回るとなると、日帰りは難しいの。それに学校さぼったら、また問題になるよ。何より、管理人さんにまた会えるとは限らない。私達が会ったのも偶然だったから」
 
 
 さすがに、もう一度、青春十八切符を使って、二カ月前と同じ自分達の足跡を辿るのは時間がかかり過ぎる。
 
 何よりも、夏休みが終わったあとで学校が始まっている。そんな中、週末に泊まりがけで行くにしても、翠子や慎吾は両親が許可を出さないだろう。
 一度、皆、無断外泊を体験しているのだから。
 
「僕は大丈夫だよ。それに、今回は両親に許可を取るから。お金も借りなきゃならないしね」
 
 蒼太の心は固まっているようだ。
 紺碧の洞窟へ行くことが。
 
「あ、なら私も一緒に行く。私は引きこもりだから問題ないよ。それに、森里と同じく今回は親に許可を取ります。前の時に、兄と弟に迷惑かけたから、今回はさすがに協力してくれないしね」
 
 なぜか美咲までもが行くと言う。
 
「えっ? 待ってよ、二人共。三年のこの時期に問題起こしたら推薦取れないよ!」
 
 行くのを止めようと、必死に説得を試みる碧理は、二人が大学を目指していることを知っていた。しかも、二人共、有名な難関大学だ。
 
「私は問題ないよ。一応、学年トップだから。私の場合は出席日数足りないから最初から推薦ないから。自力で合格する自信がある」
 
 美咲はあっけらかんと答える。しかも、言っていることがかっこいい。
 
「確かに推薦はあると嬉しいけど、無くても問題ないよ。僕もそこまで成績悪くないから」
 
 蒼太までもが笑顔で「いらない」と言う。
 
「俺は最初から評判も良くないし、今回のことで謹慎処分だから気にならない」
 
 すると、なぜかさっきまで全てを否定していた慎吾までもが「行く」と言い出した。
 腕を組んで碧理を真っ直ぐに見つめるその眼差しは、狩りをすると決めた野生のライオンの顔つきだ。
 
「待って、赤谷君。また問題を起したら退学になるかも知れないよ。それに、ご両親が厳しいじゃない! また嘘をつくつもり? こんな超常現象信じていないって言ってたじゃない!」
 
「今も信じていない。でも、確かに蒼太の言うことも一理ある。痕跡を辿れば何か思い出す可能性があるかも知れない。親は説得する」
 
 慎吾もどうやら覚悟を決めたようだ。
 残る翠子だが、神妙な顔つきで何かを考えている。
 
「翠子……さん。ご両親が心配するから止めよう。二カ月前、発見された時、大騒ぎになったんじゃない?」
 
 碧理が声をかけると、翠子が困ったように頷いた。
 
「ええ。私と慎吾君は一緒に発見されました。私の自宅の裏庭で」
 
 そう言えば、慎吾と翠子があの三日間を過ごした後、どこで見つかったか聞いていなかったのを碧理は思い出した。
 
 碧理は十一日の朝、洞窟に近い海にいた所を警察に保護された。どうやら朝早くから一人でいた碧理を不審に思い、誰かが通報したらしい。
 美咲は十一日の朝に元家庭教師のアパートの前で。慎吾と翠子は十一日の朝、翠子の家の庭で発見された。
 
 蒼太は洞窟の近くにある病院の敷地内で意識不明のまま保護された。そこは、蒼太が死んだ病院だ。
 
「それは皆、驚いたでしょ?」
 
 まさかの自宅での発見に、碧理は勿論、美咲も蒼太も興味津々だ。
 
「ええ。私達、どうやら駆け落ちしたと思われていたみたいで」
 
「翠子!」
 
 今の時代には考えられない時代錯誤な言葉に、碧理はどう反応して良いのかわからない。それは蒼太も同じだったようで、曖昧な表情を浮かべている。
 
「駆け落ちとはまた古風ね。二人共、付き合っていたんだ」
 
「はい。でも、記憶喪失になる前に慎吾君から別れを切り出されました。そこまでは覚えているんですけど、その駆け落ち騒ぎがあったので、別れ話はなくなりました」
 
 嬉しそうに翠子が微笑んだ。
 
「いや。まだ別れないと決めた訳じゃない」
 
 憮然とした表情で慎吾が言い返す。
 
「私は別れません。だから、頑張ります!」
 
 美咲や蒼太は翠子が何を頑張るのかわからないだろう。でも、事情を知っている碧理にはわかった。
 二人で周りを説得したのだと。
 
「二人共、留学することにしたんだ? 頑張って」
 
 思わず碧理がそう言うと、慎吾と翠子が目を見開く。
 
「……花木は知っているのか。俺達が何を求めていたのか」
「うん。あの夏に二人が別々に話してくれたから。大変だったんだよ。二人の誤解を解いて繋ぐのは。私に感謝して」
 
 碧理は頬に流れたままの涙を拭いて笑った。
 二人が目指していた道が繋がっていることが嬉しかったから。
 もう翠子は泣かないし、慎吾は逃げないだろう。
 
「私も両親を説得します。そして、皆さんとあの三日間の痕跡を辿ります」
 
 覚悟を決めた翠子は綺麗に頭を下げた。
 
「えっ? 翠子さんも行くの?」 
「勿論です。慎吾君は信じていないようですが、私は碧理さんを信じています。また連絡しますね」
 
 すぐに五人で連絡先を交換する。
 慎吾を連れて翠子が部屋から出て行こうとした時、ふいに足が止まった。
 
 
「持ち帰る所でした……これを。貸して下さってありがとうございます」
 
 そう言って翠子が差し出したのは蒼太のハンカチ。
 記憶がない翠子が持っていたものだ。
 
「……どういたしまして」
 
 蒼太がそう答えると、翠子がお辞儀をして慎吾と部屋を出て行く。
 翠子は、両親を説得するために動き出したらしい。
 しかも納得させる自信があるようだ。
 
「なら、私も親から許可取ってお金貰って来るね。あ、碧理もお父さんから許可貰うんだよ? じゃあね」
 
 そう言うと、美咲も軽やかな足取りで出て行った。
 碧理に重い宿題を残して。
 どうやって拓真から許可を取ろうかと悶々と考え出した碧理は視線を感じた。
 
 残った蒼太も出て行くものだと思っていたら、なぜか碧理の目の前に座り続ける。どうやら話しがあるらしい。
 
「あの。どうしたの? 森里君?」
 
 意を決した蒼太は神妙な面持ちで切り出した。
 
「……花木さんと僕は、いつから付き合っていたのか教えて欲しいんだ。あの日からずっと気になっていて」
 
 そう言われて碧理は固まった。そして、そわそわと落ち着きがなくなった。
 碧理は思い出す。
 
 一昨日、公園で思わず「付き合っていた」と嘘をついてしまったことを。
 
「あ、あの。ご、ごめんなさい。あれは嘘なの。私達、付き合っていないから……。その、安心して?」
 
 顔を真っ赤にさせながら、碧理は頭を下げる。
 穴があったら入りたいくらい恥ずかしかった。そうだったら良いと思った願望を、つい記憶がない蒼太に言ってしまい、羞恥心で死にそうだった。
 
「そうなんだ? 真実かと思った……」
 
「……ごめんなさい。つい、その、言ってしまって」
 
 消え入りそうな声で語尾が震え、碧理は顔を上げられない。

 これでは、自分から蒼太が好きだと言っているようなものだと気づく。
 ずっと心の中に秘めた想いは語られることなく消えるはずだった。なのに、あの時、思わず声になった。
 
 そのことが恥ずかしくて、碧理はたまらない。
 
「あのさ。二カ月前、記憶のない三日間の間に、僕は……花木さんに何か言ったりした? その……好きだとか?」
 
「えっ?」
 
 驚きすぎて碧理は顔を上げた。
 そして思い出してしまった……あの日のことを。さらに顔に熱が集まる。
 今の碧理は林檎のように真っ赤だ。
 
 あの時のことを思い出すと、照れてしまって恥ずかしい。でも、とても嬉しかった。
 
「花木さん。……顔、真っ赤。僕は何か言ったんだ?」
 
「それは……」
 
「教えて欲しいな」
 
 挙動不審な碧理の態度が、そう言うことがあったと全てを物語っている。だが、本人は中々頷かない。
 
 碧理は少しでも冷静になり顔のほてりを冷まそうと、両手を頬にあてた。落ちつくようにと深く深呼吸をする。
 
 そして、また嘘をつく。
 
「――ううん。何も言ってないよ」
 
 そう言うと胸が少し痛い。
 
 でも、今の蒼太には伝えることが出来ない。蒼太が事故に合う前に、碧理に告白した事実は教えないことにした。なぜなら、あの時と状況が異なるからだ。
 
 一緒に過ごした三日間は、蒼太の記憶から消え去っているのだから。
 恋が叶った瞬間はあの状況だからこそ生まれた。だから、今の二人の微妙な関係では何も起こらない。
 
「……本当に?」
 
「うん。本当だよ」
 
 碧理がそう言うと、蒼太は少し困った様子を見せる。
 
「……わかった。僕もこれで帰るね。また連絡するから。身体に気を付けて。何かあったら連絡してくれて大丈夫だから」
 
「ありがとう。気を付けて」
 
「あ、見送りはいらないよ。ゆっくり休んで」
 
 そう言うと、蒼太が出て行く。
 
 それから一週間後、五人全員が保護者からの許可を貰い、秋の三連休に出掛けることが決まった。
 
 
 
「意外だわ。全員の親が許可を出すなんて。一番無理そうだと思ってた碧理は、どうやって許可取ったの?」
 
 二回目となる「紺碧の洞窟」を目指すために、五人が立っているのは駅のホーム。
 
 時刻は朝の十時。通勤や通学のラッシュが終わり、駅のホームは空いていた。
 
 この日は平日の金曜日。
 土曜日から月曜日までは、祭日があるおかげで三連休と言う好条件。それを利用するため、蒼太と翠子は学校を休んだ。
 
 そんな二人とは違い、美咲は相変わらずの引きこもりで学校は自主休校。碧理は病欠、慎吾は自宅謹慎。
 洞窟へ連れて行くのがまだ正解か判断がつかない碧理とは違い、他の四人は楽しそうだ。
 
 一回目の青春十八切符での旅と違って、待っている電車は快速。
 今回は新幹線も使って早く帰宅すること。それが全員の親達が出した条件だった。しかも、午前、午後、夜と家に定期連絡を入れることも含まれている。
 
 普通なら二回目となる子供達の逃避行に、親達は許可を出さない。しかも四人の記憶が無くなっているのなら、なお更だ。
 だが、碧理の訴えに協力してくれる人物もいた。
 碧理の母親の瑠美だ。
 
「……母に電話したの。協力して欲しいって」
 
「えっ? ……義母じゃなくて実のお母さんに?」
 
 碧理の苦笑いに、美咲もまた何とも言えない顔をしている。
 五人でまた洞窟までの道筋を辿ることになった時、碧理は絶対に祖父母も拓真も、許してくれないと察した。
 
 だからこそ、禁じ手を使ったのだ。
 実の母の所に電話して、どうしても行きたいと泣きながら訴えた。父親達を説得して欲しいと。
 
「うん。母には事情を全部話したの。……洞窟のことも、皆が記憶を失っていることも全部。そしたら、父を説得してくれるって言うからお願いした。そして今に至る」
 
「……よくそれで許可出たね」
 
「まあ、条件付きだけどね。泊まる場所は指定されたから」
 
 苦笑いを浮かべた碧理は、一週間前話した瑠美との会話を思い出す。
 ドキドキしながら電話をした碧理に対して、瑠美は静かに話を聞き、反対することなく、拍子抜けするほどあっさりと許可をくれた。
 
 そして夜になると、突然、祖父母の家に現れた瑠美は、一枚のカードと現金五万円を碧理に与えた。宿泊する宿の名前と瑠美の名刺も一緒に。
 
 それだけでも驚いたのに、さらに拓真の説得までも請け負ってくれたのだ。
 いきなり現れた瑠美に祖父母は驚き、碧理の願いに難色を示した。それを根気強く説得し許可を勝ち取った。
 
 拓真が夜に現れると、修羅場さながらの大喧嘩が始まり揉めに揉めた。その喧嘩の間に入ったのは、義母である香菜だ。
 そして、大人達で話し合いは続き条件付きで許可が出た。
 
 一、定期連絡は必ず入れる。
 一、宿は指定した場所だけ。
 一、危ないことはせず期限内に帰ること。この三つだ。
 
「でも助かったよ、碧理のママが来てくれて。交渉上手だよね。うちのパパが何も言えなくなって黙り込むの初めて見たもん」
 
 瑠美が最初に向かったのは美咲の家。そして、蒼太や翠子、慎吾の家に次々と訪れた。
 詳細は全員がわからないが、親達は瑠美の説得に折れたらしい。
 
「俺達の記憶が戻るかも知れないから、一度だけチャンスをあげて欲しいって言ってきたらしいよ。花木さんのお母さん。大人達の付き添いも上手く交わしてくれてた」
 
 蒼太は両親から少し聞いたと言う。
 どうやら、記憶が無くなった四人の親達も、そこは気にしていた。
 そこで何があったのか、誰といたのか、犯罪に巻き込まれていなかったのかを。
 
「そっか。……戻るかな。皆の記憶」
 
 電車が入ってくるアナウンスを聞きながら、碧理が呟く。
 
 
「そうだね。全部とは言わないけど、少しでも戻ると良いな。楽しい記憶だけでも」
 
 そう言う蒼太の顔は少し青白い。
 自分が死ぬ旅を辿ることに、やはり抵抗があるのだろう。そんな蒼太を見て、碧理は決意した。
 
 
 何があっても蒼太を守ろうと。
 
 
「あーあ。パンケーキ微妙だったなぁ」
 
 そう言って電車に揺られながら肩を落とす美咲は、スマホを見ては落ち込んでいる。
 
 スマホの画面には焦げて無残な姿になったパンケーキらしき物体。
 はりきって六時に起きた美咲は、寝ていた碧理と蒼太を強制的に叩き起こし、パンケーキ作りに挑戦した。
 出来上がったパンケーキは、見た目は真っ黒に焦げてしまい、味も残念な結果となった。
 
 狙っていたSNS映えが取れないことが心の底から残念だったらしく、廃校の宿を出ても、美咲の表情は暗い。
 そんな美咲とは違い、慎吾と翠子がすっきりとした顔つきで現れたのは朝方。
 
 どうやら徹夜で二人は話し合ったらしく、寝ていないはずなのに清々しい表情をしている。
 上手く話が纏まったようで、二人を見て碧理は胸を撫で下ろした。
 
「……微妙も何も、あれはもう食べ物と言えないだろう」
 
 慎吾も焦げたパンケーキを無理矢理食べさせられ機嫌が悪い。それを翠子が苦笑しながら宥めている。
 
「元調理室だから、あそこの火力が強いのよ。機会があったらまた挑戦するから」
 
「火力の問題かよ……。誰が食うんだよ、また作ったその失敗作。あれはパンケーキと言うよりは炭の塊だ」
 
 慎吾がまた余計なことを言う。
 
「失礼ね。食べさせたい相手は決まっているもん」
 
 不貞腐れたようにそっぽを向く美咲は、子供のような表情で答えた。
 
「まあ、まあ。白川も落ちついて。慎吾もそれ以上絡まないでよ。それで、何処へ向かうの? 勿論、今日中に着くよね? 出来れば夜中までに帰りたいんだけど?」
 
 いがみ合う慎吾と美咲の間に蒼太が入り仲裁を始める。
 これ以上続くと、また面倒なことになると動いたらしい。
 
「えっ、えっと、ここだよ」
 
 説明するために美咲が地図を広げて場所を指差した。
 本当は夜に話し合う予定だったが、慎吾と翠子のことがあったせいで詳しいことは美咲しかまだ知らない。
 
 時刻は朝の九時。
 
 学生は夏休みのせいか、電車内は比較的空いている。
 女子三人が椅子に座り、男子二人が目の前に立つと、全員で美咲の手元を覗き込んだ。
 
「……うーん。青春十八切符だから着くのは夜だね。今日も泊まり確定か。皆、どうする? 無断外泊だと警察に連絡されるかも知れないよ」
 
 蒼太が頭を掻き困ったように、皆を見る。
 
「私と白川さんは問題ないよ。三日間のアリバイ工作はしてあるから」
 
 碧理と美咲が頷き合う。
 
 美咲は朝起きるとすぐに、アリバイ工作の確認のため兄へと連絡した。
 そして聞かされたのは、問題は何もないと言うこと。
 碧理の家から電話もなく、美咲の両親も不審がる様子はないらしい。それを美咲から聞かされた碧理は、家から連絡がないのはわかっていたはずなのに胸が痛んだ。
 
 心のどこかで期待していたのかも知れない。
 初めての外泊に心配して、義母か拓真が、美咲の家へ連絡をしているかも知れないと。
 だが、それは無残にも砕け散った。
 
「私と碧理は問題なし。翠子は?」
 
「私も友達に確認しましたが、今日までは誤魔化せると言われました。ただ、さすがに明日には帰らないといけないと思います」
 
 翠子の言う通り、明日中には帰らないと誰かの親が気づくだろう。警察に連絡されたら、それこそ大問題だ。
 
「女子三人は何とかなりそうだけど、問題は僕達かもね。慎吾」
 
 蒼太が困ったように頭を掻く。
 
「そうだな。特に俺の親な。でも、ここまで来たら引き返せないだろう。バレたらその時考えようぜ。何とかなるさ」
 
 慎吾が諦めたように、適当に答える。
 ここまで来たら考えるのを止めて開き直ることにしたらしい。
 
「よく考えたら俺は問題児扱いなんだし、夏休みくらい外泊しても良いじゃん。何か言われたら両親の家庭内別居が悪いって騒ぐさ。蒼太はどうなんだ?」
 
「僕もこうなったら皆と一緒に説教される覚悟だよ。全部、慎吾のせいにするから」
 
「ああ、構わないぜ。高校最後の夏……たまには良いさ」
 
 男子二人は常識よりも青春を取ったらしい。
 
「そうだね。私も問題が起きたらその時考えることにする」
 
 美咲も男子二人に同調する。
 
「ところで、この場所って有名な花火大会なかった? 昔、ニュースで見た記憶があるんだけど。時期的に今じゃない?」
 
 蒼太が思い出したようにスマホを取り出した。そして検索を始めた。
 
「ああ、やっぱり。日本でも有名な花火大会の場所だよ。しかも……今日がその日だ。奇跡だね」
 
 スマホを皆に見せると、途端に美咲と翠子が目を輝かせる。
 
「花火大会! 家族以外で見るのは初めてです」
 
「私は……三年前、近くの花火大会行ったな。引きこもる前に」
 
 はしゃぐ翠子とは違い、美咲が遠い目をして、ぼそりと呟いた。
 
 美咲が思い出している花火大会は、地域で一番有名で大規模な物。落ち込んだ様子の美咲を見るに、好きな人と一緒に行ったのかも知れないと碧理は予想する。
 話に出てきた家庭教師と。
 
「美咲は、洞窟で何を願うの?」
 
 碧理は聞いてみたくなった。
 両親の関係改善か、それとも自分の恋愛の決着か。一人で洞窟を目指そうとした「願い」が何なのか。
 
「結婚したいって願うんだ」
「えっ? 結婚?」
 
 思っていたよりも現実的ではない内容に、碧理は思わず声を上げた。
 それは碧理だけではなく、他の三人も同じ気持ちだったようで、お互いに目配せしている。
 
「なによ、皆。私は本気なんだから。願いは普通に結婚して、子供産んで、家を建てておばあちゃんになることなの。世間一般的な幸せで良いの」
 
 皆が戸惑っている雰囲気を察したのか、美咲が力説した。
 普通がどれほど難しくて、幸せで羨ましいことかを。親がダブル不倫中で、家の中がギスギスしている美咲には眩しく感じたのだろう。
 明るく美咲は振る舞うが、たまにため息を吐いている。本人も気づかない内に。
 
「……あのさ、白川。お前の好きな人って、前に聞いた社会人で優柔不断男だろ? あんまり言いたくないけど止めとけよ。お前を迎えに来た時、一回だけ見たけど……微妙だったぞ」
 
 慎吾はどうやら美咲の好きな人を知っているようだ。
 しかも、相手が気にいらないらしい。
 
「ちょっと赤谷。約束はどうしたのよ?」
「翠子にバレた時点で約束は破棄だ」
「なんで! あんなに私は頑張ったのに酷い!」
 
 憤慨する美咲を遮って、慎吾が碧理達に説明を始める。
 慎吾が言うには、出席日数が足りない者同士の補習で美咲と知り合った。
 席が隣同士で気が合い、何回か会う内に身の上話をする仲になったと言う。主に、お互いの恋愛相談を。
 
 そこで二人の間に契約が発生した。
 慎吾は、翠子と別れるために美咲に彼女の振りを。美咲は……何があっても自分の味方になって、彼氏の前で自分と親し気に振る舞って欲しいと。
 
「……慎吾はわかるけど、白川は何でそんな交換条件を?」
 
 蒼太が不思議そうに首を傾げた。
 結婚したいと願うなら、彼氏の前で他の男といるのは不自然だ。反対に愛想を尽かされる恐れもある。
 
「それはね。……彼が少しでも嫉妬してくれたら良いなあって思ったの。でも彼の反応は微妙だった」
 
 口を尖らせた美咲の姿から、上手くいかなかったことがわかった。
 それでなくとも、高校生と社会人では関わっている世界が違う。その年齢差が次第に重荷になり、わずらわしくなることもある。
 
「一回だけ、俺と一緒にいた所を見せたんだ。そしたらその男、あからさまに安心した顔を見せて帰ったんだよ。それ以来会ってないんだろ? 止めとけ、そんな男」
 
 慎吾がまるで美咲の保護者のように、口煩く心配を始めた。
 よほど、その家庭教師が微妙だったようだ。
 
「だって、好きなんだもん。赤谷も翠子さんを諦めないように、私も諦めたくないの! あ、次の駅で降りるよ。乗り換えだから」
 
 五人で話し込んでいると、アナウンスが流れる。
 美咲が告げると、四人が戸惑ったまま頷いた。
 
「この話しは終わりね。行く……よ。えっ?」
 
 立ち上がった美咲は、四人ではなく別の方向を見ている。
 そして、その顔つきが強張っていく。まるで幽霊をみたかのような驚きように、四人も美咲の視線の先を追った。
 
 
 そこには美咲と同じように、驚き固まっている一人の若い男性の姿。
 スーツを着ている所を見ると仕事のようだ。
 
「なんで、こんな所に……」
 
 小さく呟いた美咲の声は震えていて、今にも泣き出しそうな表情をしている。
 
「まじかよ……。なんだよ、この偶然」
 
 そして、美咲の後ろでは慎吾が茫然と呟いていた。
 
「……美咲」
 
 男性は困ったような顔をしながら近づいて来ると、苗字ではなく美咲の名前を親し気に呼んだ。
 
 
「名前で呼ばないでよ……」
 
 
 悲痛な叫び声は悲鳴のように聞こえて、碧理達は黙り込む。
 美咲の様子と慎吾の呟きで、碧理と蒼太、そして翠子は察した。
 彼が美咲の好きな相手なのだと。
 
 だが、さっきまで結婚したいと言っていた割に、美咲の態度は不自然だ。どうみても男性を避けて逃げようとしている。
 
「美咲。説明させてくれないか? あの時、本当は、俺は……」
「聞きたくない!」
 
 そう美咲が叫ぶと、タイミングよく電車が駅に到着しドアが開く。
 それを見た美咲が一目散に駆け出した。
 
「美咲!」
 
 声を荒げた男性を横目に、碧理達も電車から急いで降りようとする。だが、その時、碧理の手が掴まれる。
 驚いて顔を上げると、美咲を知っているスーツ姿の男性が、手に何かを握らせた。
 
「いきなりごめんね。美咲にこれを渡して。無理だったら君が電話してくれたら助かる。誤解があるんだ……頼む」
 
「花木さん!」
 
 中々、電車から降りて来ない碧理を心配して、蒼太が碧理のもう片方の手を掴む。そして発車ベルが鳴り響く中、電車から急いで降りる。
 
 すると、すぐに電車のドアが閉まり動き出した。
 ドア越しに碧理と蒼太を見つめる男性は、大人なのに、今にも泣きそうな顔をしている。
 
「行こう、花木さん」
「う、うん」
 
 蒼太に手を引っ張られ歩き出す。
 男性に握らされた手の中には一枚の名刺。それは無理矢理渡されたせいで、くしゃくしゃになっていた。
 歩きながら確認すると、そこには会社名と電話番号。そして名前が書いてある。
 
「黒川健人《くろかわけんと》……製薬会社なんだ」
 
「あの人の名刺? 花木さん、裏にも何か書いてあるよ」
 
 誰でも聞いたことのある企業名に驚いて足を止めると、蒼太も名刺に気づき覗き込んでくる。
 言われた通り名刺の裏を見ると、そこには電話番号が手書きで書かれていた。
 
「個人のプライベートの番号じゃない? あの瞬間に書く暇はないと思うから用意してあったんだね。それにしても白川の態度も不可解だ。結婚したいようには見えないな」
 
 蒼太も碧理と同じ感想を持ったらしい。
 どうやら美咲には言えない秘密があって、それが「紺碧の洞窟」を目指す理由なのだと碧理は予想した。
 
「白川に渡すの? その名刺」
「……うーん。ちょっと考える。美咲の様子も気になるから保留で。森里君もこの件は秘密ね」
「……そうだね。あ、慎吾があそこにいる。行こう」
 
 碧理の言葉に少しだけ考えるそぶりを見せたが、改札の側にいる慎吾の姿を見て頷いた。
 
 そして、あることに碧理は気が付く。
 蒼太と電車を降りた時からずっと手を繋いでいることに。
 顔を赤くしながら指摘しようとした碧理だが、蒼太は気にしていない様子で、待っている慎吾の元へと向かって行く。
 
「……お前ら付き合うことにしたのか? 仲良いな」
 
 碧理と蒼太の手を見ながら、慎吾がからかうように笑った。
 
「ち、違うから。私がモタモタしていたから森里君が気を使ってくれただけ」
「ふーん。なら、迷子予防にお前ら手を繋いでいろよ。行くぞ。夕方には着きたいから急ぐぞ」
 
 嬉しいやら恥ずかしいやらで、言葉にならない碧理とは違い、蒼太は涼しい顔をしていて動揺は見えない。
 しかも、手を離さない所を見ると、しばらくこのままらしく、またしても碧理の心は動揺した。
 
 いつもならここで何かを言ってくれそうな、美咲や翠子の姿が見えないことに気づく。
 
「美咲と翠子さんは?」
「二人なら、皆の飲み物やお菓子買いに行った。次に乗る電車は二時間かかるからな……。ホームで待ち合わせだから行くぞ」
 
 そう言うと、慎吾がまたホームへと歩き出す。
 その間も、蒼太は碧理の手を離さない。
 その状況を意識する度に、碧理の心は跳ね上がる。
 
「あの、森里君。そろそろ手を離してくれないかな? その……恥ずかしいから。それに、迷子にはならないと思うの」
 
 手を離さないのは、慎吾が言ったように迷子になるのが心配なのだと碧理は思った。
 そうでなければ、本来、関わることのない平凡な碧理を、スクールカースト上位の蒼太が構うことはないと考えたからだ。
 
「あ、ごめんね。さっきみたいなことにならないように気を付けてね」
 
 すんなりと蒼太が手を離す。
 解かれた手からは温もりが消えて、自分から言い出したのに、碧理は残念さと少し寂しさを覚えた。
 
「三人共、こっちだよ。電車が凄く混んでいるから席は別れよう。行き先はここね。私は一人で大丈夫だから目的地で会おう。あ、これお菓子と飲み物ね」
 
 ホームに出ると、美咲と翠子が三人を待っていた。手にはコンビニの袋を持って。
 
 電車は始発らしく、もう到着していて人が乗り込んでいる。
 確かに、さっき乗った電車よりも人は多い。
 しかも、美咲はさっきの男性のことを聞かれたくないらしく、一人になろうとする。全員の了承を得ずに背を向けて歩き出した。
 そんな美咲を一人にすることは出来なくて、碧理は美咲を追い駆けて腕を掴む。
 
「私も一緒に行くから。あとでね!」
 
 驚いた表情の美咲を無視して、碧理が後ろにいる三人に声をかけた。そして、人が少なそうな車両に乗り込む。
 残念ながら座れず、しばらくは立ったままになりそうだ。
 
「……何も話さないからね」
 
 他の乗客に聞かれないように、美咲が碧理の耳元で囁く。
 そして碧理に背を向けると、すぐにスマホを取り出して操作し始めた。
 二人の間に沈黙が流れる。
 
 
 ドアの近くに陣とった碧理は、走り出した電車から外の風景を無言で見つめた。
 
 
「ここが洞窟のある街か。普通の観光地だな」
 
 慎吾の発した言葉は、ここにいる全員の感想だった。
 
 駅を出ると潮の香りがした。
 肉眼で確認出来るほど海が近い。歩いて五分もかからないだろう。
 陽が落ちるのが遅い今の季節は、夕方になってもまだ明るく、沈みゆく夕日にあてられ、水面がキラキラと光っていた。
 
 そして、今日は有名な花火大会のせいか人が多い。家族ずれも多く、若い女の子達は浴衣を着ていて楽しそうだ。
 案内板を見ると、海辺で花火を打ち上げるようで、開始時刻は、今から一時間後の二十時になっている。
 
 はしゃぐ花火目当ての人々とは違い、ずっと電車に乗っていた慎吾は疲れたらしく、駅から出ると身体を大きく動かす。
 
 慎吾と翠子は、徹夜だったこともあり、電車の中では二人共ほぼ寝ていたらしい。蒼太が起こさなかったら、乗り継ぎも危なかった。
 疲れているのは慎吾だけではなく、残りの四人も同じで、つられるように腕を曲げたり身体を捻っている。
 
「それで白川、今日はどこに泊まるんだ?」
 
 時刻は十九時。
 
 美咲と無言の時間を朝から過ごした碧理は、神経をすり減らしていた。洞窟へ着く前に、もう疲労困憊だ。
 早く宿で休みたいと思ったのは、五人全員が同じ気持ちだろう。
 
 翠子は電車に長時間乗るのが初めてだったらしく、近くにあるベンチに座り込むと、慎吾も隣に腰を下ろした。
 蒼太もいつものような元気がなく疲れ切っている。
 
「えっとね。……あのね、皆。怒らないで聞いてくれるかな?」
 
 思ったことを口に出すサバサバしている美咲が言いよどむ。しかも、不自然なほど四人と目を合わせない。
 それだけで碧理は嫌な予感がした。
 
「なんだよ、早く言えよ」
 
 慎吾が早くしろと美咲をせかす。
 すると、美咲が思いっきり頭を下げて謝罪した。
 
「ごめん! 二日目の宿のことなんだけど、満喫にでも泊まろうと思っていたから取ってないの! だって、本来なら、私、一人だけの旅だったから……さ」
 
「まじかよ……。どうするんだ、今日」
 
 唖然とする慎吾の隣で、翠子は目を潤ませる。
 
「本当にごめん! 電車の中で探してみたんだけど、今日は花火大会でどこも予約で一杯なの。最悪、野宿かも」
 
 項垂れる美咲に誰も口を開かない。
 だが、落ち込む美咲を責めることが出来なかった。
 なぜから、美咲一人に全部任せすぎていることに今更ながらに気づいたからだ。切符の手配からどの電車やバスに乗るのか。どの道を行くのか。
 頼りすぎていた。
 
「仕方無いよ。一応、満喫探して、ダメだったらどこかで野宿しよう」
 
 重い空気を振り払うように碧理が提案する。
 
「でもさ、この人数で外にいたら補導される確率高いよ。そうなったら困るでしょ?」
 
 蒼太が苦笑しながら碧理を見た。
 確かに、親に嘘を付いての未成年だけの旅。
 警察に見つかると問答無用で家に連絡が行くだろう。そうなると学校にも知られる確率が高い。
 
 それは、なるべく避けたかった。
 途端に全員が黙り込んだ。
 五人いても、これからどうすれば良いのか全く良い知恵が浮かばない。
 
「とりあえず皆さん。花火見に行きませんか? それに、お腹が空きました」
 
 か弱い声は翠子で、赤い顔をしながらお腹を抑えた。
 確かに今日は、焦げたパンケーキとコンビニ食しか口にしていない。
 辺りを見渡すと、屋台も出ているらしく食べ物の匂いが食欲を刺激する。
 
「……行くか。泊まる所はまた考えることにして腹ごしらえしようぜ」
 
 人混みのせいで翠子がはぐれると思ったのか、過保護な慎吾が手を繋ぐ。その何気ない仕草が嬉しかったのか、二人は歩き出した。
 
「あーあ。甘いな、あの二人。羨ましい。私も去年はあんな感じだったんだけどな」
 
 羨ましそうな美咲の声に、碧理は名刺を取り出した。
 電車で貰った、あの男性から渡された物を。
 それを見ると、空気をよんだ蒼太は歩き出す。先に行った二人を追い駆けるように。
 
「……美咲、これ預かった」
 
「こんなの渡して来たんだ。あーあ。わからなくなってきたな。ちょっと……聞いて貰っても良いかな? 少し落ちついたし碧理になら話せる」
 
「うん。私で良かったら聞くよ。欲しい答えはあげられないかも知れないけど」
 
「……ありがとう」
 
 美咲が名刺を受け取ると二人は歩き出した。
 
 大勢の人で賑わう屋台の方角ではなく海の方へと。花火が上がる場所は、すでに人で溢れていたため、二人は喧騒から離れた海に近い岩場へと歩いて行く。
 そして、まばらに人がいるのを確認すると、会話が聞こえない程度に距離をあけて腰を下ろした。
 
「……ごめんね。今日、一日中、私の不機嫌さに付き合わせて。あとから赤谷達にも謝ってくる。あの電車の人ね……私が高校受験する時の家庭教師だったんだ。兄貴の友達なの」
 
 美咲が過去を思い出すように、陽が沈んでいく海を眺めた。
 地平線に隠れそうな夕日は、血のように赤く、暗い海へと消えていく。
 
「黒川健人さんだっけ。美咲の好きな人」
「ああ、名刺に名前あったね。そう、七歳上なの。その時、健人君は大学四年生だった。就職も決まって時間があるからって引き受けてくれた。十五歳の私からしたら、凄く大人でさ……すぐに好きになった」
 
 黒川健人は今、二十五歳になるのかと、碧理は頭の中で計算した。
 さっきの電車では童顔だったせいか、学生でも通用する容姿だった。
 美咲と話し合いたいのに強く出れない様子は、頼りなく見えて、それも幼く見えた原因かも知れない。
 
「確かに大人だよ。七歳差だもん。学生の過ごす時間と、社会人の過ごす時間は早さが違うって母さんが言ってた」
 
「碧理を……産んでくれたママの方?」
 
「うん。聞いた時は意味が分からなかったけど、今なら少しだけど理解出来る……かな。離婚する時、母さんが言ったんだ。『学生の時は、離れていてもあんなにも時間を作ったのに、一緒に住んだら、一緒にいる時間が減った』って。うちの両親、大学の時から付き合っていたから。離婚は親も大変だけど子供も大変」
 
 子供の頃には理解出来なかった大人の事情が見えてくると、嫌でも過去の記憶が蘇る。冷え切った両親の関係は、同世代の子供よりも早く碧理を大人にした。
 空気をよみ、火の粉がかからない場所へ逃げる。その最善の道を探し出すために。
 
 それは学校でも同じだった。平凡で目立たず当たり障りのない毎日。
 そうやって自分の感情を抑えて、生きる術が身に付くのに時間はかからない。感情を抑えることに慣れた子供になった。
 
「我が家も似たようなもんよ。親がダブル不倫だもん。しかも、ママの相手誰だと思う?」
 
 クイズのような美咲の質問に、碧理は嫌な予感が心に渦巻く。
 どう考えても、この話の流れは……美咲の好きな人へと繋がるのだろう。
 
「……まさかの黒川さん」
 
「当たりです!」
 
 笑っているが、美咲の瞳は潤んでいた。
 
「うちのママは今時珍しい専業主婦なの。あれは高校二年の時かな。学校が終わって帰ったら、リビングで健人君とママが抱き合ってた。目の前が暗くなったよ」
 
「ヘビーだ」
 
 碧理は何て言って慰めれば良いのかわからない。何を言っても気休めにしかならないと悟ったから。
 
 美咲が言うには、高校に入ってからも勉強を教えてくれていたという。
 その日は短縮事業で、いつもよりも少しだけ帰りが早くなった。
 健人が夜に来ることを知っていた美咲は、学校が終わると家路へと急ぐ。部屋を少しでも綺麗に片づけて着替えるために。
 
 いつもは「ただいま」と大声で帰宅を告げるが、この日は違った。
 なぜなら、玄関を開けると健人の靴が目に飛び込んで来たから。健人がいつも訪れる時間より三時間も早く来ている。
 なのに、玄関から続く廊下の向こう側、リビングからは音が何も聞こえない。
 
 不思議に思い、美咲は音を立てないように廊下を歩くと、リビングのドアの前へ立った。
 
 リビングのドアは所々、ガラスがはめ込まれていて中の様子が伺える作りになっている。そこから美咲は覗き込む。
 すると、大好きな健人が、美咲の母を抱き締めている場面に遭遇した。しかも母親は泣いているようで縋りついているように見える。
 
 健人も嫌がっているそぶりは見えない。
 美咲はその様子を見て、ガラガラと何かが崩れ去るような感覚に陥った。しかも、逃げるように一歩後ろに下がると棚に置いてあった花瓶が倒れて大きな音を立てた。
 
 その音に驚いたのは美咲だけではなく、中の二人も同じだったようで、母親は目に見えて動揺した。
 健人もまた、茫然と美咲を見ている。
 
「それでどうしたの?」
 
 小説のような展開に碧理は美咲を見た。
 
「すぐに家を飛び出して兄貴に電話したんだ。健人君とママが浮気してるって。そしたら、兄貴、黙り込んで。……知っていたんだろうね。それからよ。私が学校に行かなくなったのは。見張ることにしたんだ、二人を」
 
 あんな場面を見ても、美咲は健人のことが大好きだった。
 だから学校を行くのを止めた。二人を会わせないために。
 
「それ以来、黒川さんと話してないの?」
 
「うん。健人君の電話も全部無視しているし、ママとも三年間まともに話してないの。兄貴と弟がいるから二人が間に入ってくれているんだ。兄貴も弟も賢いから、雰囲気察して何も言わない。パパも愛人がいるから家に帰って来ないの……。こんなの家族って言えないかもね」
 
 寂しそうな美咲は海を真っ直ぐに見つめる。
 そんな美咲を見ていると、碧理も何も言えなくなった。
 そのまま二人で、無言で暗い海を見ていると、美咲がポケットからスマホを取り出す。どうやら電話がかかってきたようだ。
 
 
「……嫌な予感がする。家からだ」
 
 碧理を見つめる美咲の顔が緊張で強張った。そして、恐る恐る電話に出る。