「……それで、おじいちゃん家にいるんだ? 碧理の家もヘビーだね。あ、私の家ね、両親がダブル不倫中なの」
美咲が買ってきてくれたカップアイスを食べながら、碧理は微妙な表情を見せる。
なぜなら、その内容は二カ月前にも聞いたからだ。
「知ってる。白川さんが教えてくれた。……何で私のこと名前で呼んでいるの? 昨日は苗字だったのに」
「昨日、家に帰って考えたの。三日も一緒にいたなら、私の性格上苗字では呼ばないってね。それに花木さんって呼び方は他人行儀だから。碧理も気軽に私のこと名前で呼んで。それよりも意外。両親が不倫している話言ったんだ? 私、誰にも言ったことないのに」
そう言って美咲は無邪気に笑った。
昨日、碧理は病院を退院した後、自宅ではなく祖父母の家に泊まった。
父である拓真は、あれからも何度も「家に帰ろう」と説得を続けたが、碧理は頷かず今に至る。
そして、祖父母も交えた話し合いの末に、しばらくここで暮らすことになった。
祖父母は拓真とは違い、二人共温和で優しい。怒った所は見たことがないくらい人間が出来ている。
そんな二人は、無条件で碧理を受けいれてくれる頼れる存在。
碧理は二人が大好きだった。
そして、連絡もまだしていないのに、次の日に美咲が訪ねて来たのだ。平日の朝、十時にアイスクリームを手土産に持って。
「ところで、どうやってここの住所がわかったの?」
「碧理の家に連絡したらお父さんが教えてくれたよ。病院で会った白川ですって言ったら簡単に情報ゲット出来た。碧理の家の電話番号は赤谷が教えてくれたんだ。あんなことがあったから、両家とも住所と電話番号は知っていると予想したの」
あっけらかんと話す美咲に、碧理は複雑な気分になる。
病院から祖父母の家に着くまで、拓真とは車の中で始終無言。はっきり言って息苦しかった。
着くと、すぐに祖父母が用意してくれた仏間の布団に潜り込んだ。そのせいで話は一切していない。
そんな拓真が美咲と他に何か話したのか、碧理は凄く気になった。
「このアイス美味しいでしょ? 私の一押しよ。あ、頭大丈夫? アイスでまた痛くなったりしない?」
「大丈夫。一晩寝たらマシになったから。検査の結果も問題なかった。大げさなんだよ」
そう強がった碧理だが、まだ少し痛みは残っている。
だが、頭に関しては痛み止めを飲めば問題ない。
今の頭痛の種は、父と美咲や慎吾達だ。
「無理はしないでよ。この後、赤谷の家に行くんだから」
「……は? なにそれ」
碧理は意味がわからなくて、食べていたアイスを落としてしまう。白い布団の上で食べていたせいでチョコ色のシミが出来た。
「赤谷の家に連絡したついでに、午後から碧理も連れて行くって言ったの。あいつも落ち込むんだね。声が暗くてさ。あれは相当反省してるね」
他人事だからか、美咲が豪快に笑う。
「なんでそうなるの?」
「だって、碧理が怪我をした原因って二カ月前のことでしょ? あの三日間の記憶がない四人が集まって話せば早いじゃない。たださ、私、森里の連絡先知らないから、あいつは来ないよ」
当たり前のように蒼太のことまで話す美咲に、碧理は暗い気分になる。
「なに? 赤谷と会うのが嫌なの? それとも……森里と何かあった? 八月も含めて」
勘が鋭い美咲の視線を逃れるように、零れたアイスを近くに置いてあったティッシュで拭く。丸めると、離れた所に置いてあるゴミ箱目がけて投げ入れるが、動揺したせいか上手く入らない。
それを、美咲が立ち上がりゴミ箱に入れ直した。
「……両方」
「ふーん。二カ月前に何があったか凄く気になる。だって、私の願いが叶っていないなら、私は別の願い事をしたんでしょ? それとも、碧理の願いだけが叶ったの?」
美咲の好奇心に、碧理は口を閉ざした。
そのまま残りのアイスを口に運ぶ。
「赤谷の言う通り、そのことになると碧理は黙り込むんだ」
「……私、行きたくない」
「行きたくないなら、ここに赤谷呼ぶよ。それでも良いの? おじいちゃん達に許可を貰う自信あるわよ?」
断固拒否しようとした碧理に、美咲は挑戦的に微笑む。
八月の時もだが、引きこもりの割に美咲のコミュニケーション能力は高かった。
「……知らない方が良いよ。その方が幸せだから」
アイスを食べ終わると、碧理がぼそりと呟く。その口調は寂しそうで、今にも泣き出しそうだった。
「なら、なんで碧理はそんな顔をするの? 幸せならそんな顔しないでしょ? 一人だけ記憶が残っているってことは私達に伝えるためだよ。それに、私は五人で過ごした三日間の記憶を取り戻したい」
はっきりと自分の考えを伝える美咲の強さに、碧理は思い出す。
いつも美咲に助けられて楽しかった時間を。
「後悔するよ、聞いたこと。楽しい話じゃないから」
「良いよ。それに、三日間だけ記憶がない体験、碧理もしてみたら良いよ。気がついたら好きだった男の前にいた私の気持ちがわかる?」
意味がわからず、碧理は首を傾げる。
「なにそれ?」
「言葉通りよ。忘れもしない八月十一日、七時十四分。気が付いたら私、家庭教師をしてくれていた彼の家の前に立っていたの。そしたら、彼がドアを開けた瞬間だった。……彼の後ろに女がいたのよ! 時間帯が朝だったから……泣いた」
「それは……気の毒」
顔を引き攣らせながら碧理は思い出す。
あの女性の言葉を。
願いが叶うと、自分が一番会いたいと願う人、もしくは大好きな場所に戻ると言っていたことを。
美咲の場合は、彼の所だったのだろう。
「その後、どうしたの?」
「走って逃げた。それっきりよ。あっちからも連絡ないし、やっぱり高校生は恋愛対象にはならないんだよ」
「そっか……」
「そうなの。私はこれ以上の不幸はない。だから話して。お願い……碧理」
恋が潰えた美咲がここまで立ち直っている。それなのに碧理はまだ動けない。それだけ、碧理も心に傷を負っていた。
頭ではあれが最善の道だとわかっていた。だから後悔はしていない。
でも、どうして自分一人だけ記憶があるのかと、苦しくて心が何度も悲鳴を上げる。
理不尽だと。一緒に考えてくれる、共感してくれる友達が欲しいと思ってしまった。
全てを受け入れてくれる誰かが傍にいて欲しいと。
「だから赤谷の家に行って、皆で話し合うことは決定です」
「ちょっと強引じゃない? それに、昨日の今日で赤谷君に会えないよ。当事者同士で会うと、ほら……大人達が煩いから。おじいちゃんも許してくれないよ」
昨日、あれだけ学校と慎吾に抗議をすると息巻いていた拓真を思い出す。
この件に関しては、碧理は「何もしなくても良い」と伝えたが、どうなるかわからなかった。
「確かに。赤谷の両親、大学の教授だから厳しいもんね。お姉さんはキャビンアテンダントの超美人なの」
「それも二カ月前に聞いた。ついでに、赤谷から家族写真見せて貰ったから顔も知ってるよ。確か、大きな室内犬がいた」
慎吾は犬が好きらしく可愛がっているようだ。嬉しそうに、一枚一枚解説つきで夜通し話してくれた日を思い出す。
「そこまで! 私達、三日間の間に相当仲良くなったんだね。驚いたよ」
「……そうだね」
仲良くなりすぎたのも原因だったのかも知れない。
だから、あの時、事故が起きた。
美咲の話を聞いていると、廊下を歩く音が聞こえた。ギシギシと床を踏みしめる音は、祖母、菊乃のものだろう。
「碧理、ちょっと良い?」
「うん」
菊乃が用意してくれたアイスティーを飲みながら、美咲も廊下へと視線を向ける。
昔ながらの和風建築。仏間にいるため襖の引き戸だ。
ゆっくりと襖を開けた菊乃は困った顔をしている。
長年専業主婦で家を守ってきた菊乃は、落ちついていて滅多に動じない。その菊乃が迷っているように口ごもる。
「どうしたの?」
「あのね、赤谷君って言う男の子が来たのよ。話があるって。昨日、碧理と揉めた子でしょ? どうしましょうか? ……お引き取り頂いた方が良いかしら? おじいちゃんも仕事でいないし」
「……えっ? 赤谷君が?」
意外すぎる人物の登場に、碧理は美咲と顔を見合わせた。
碧理の祖父は、まだ現役で働いているため、朝から仕事に行って家にはいない。菊乃の心配は、慎吾がまた碧理に暴力を振るった場合を心配しているのだろう。
女ばかりだと、男子高校生が暴れると、体格と力の差から止めることはほぼ不可能に近い。
それに正直、昨日の今日で会うことに碧理は抵抗がある。
美咲もいる以上、必然的に話さなくてはならないだろう。あの時、何が起きたのかを。
「……ごめん。断って。頭がまだ痛いから」
それと、心の準備が出来ていないから。
このまま秘密にしておくことは、もう無理だと碧理は気が付いていた。だからこそ、どこまで話して良いのか考える時間が欲しかった。
「わかったわ。そう伝えて来るわね」
碧理の決断に、美咲は残念そうな顔を見せるが何も口を挟まなかった。一人で悩んで、怪我までした碧理に配慮したようだ。
「あら--」
襖を閉めようとした祖母が何かに気づき廊下の奥を見る。
視線の先は、角を曲がると玄関に向かう。
「勝手に上がって申し訳ございません。私、一人だけでも碧理さんとお話しさせて頂けないでしょうか?」
可愛い鈴のような声は翠子のもの。
どうやら慎吾と二人で来たらしい。
菊乃が碧理を見て目で訴える。どうするのかと。
「いいよ。入って貰って。……それと赤谷君も一緒に」
「本当に良いの?」
「うん」
心配する菊乃に、碧理が頷いた。
「私も一緒にいますから心配いりません。私が守りますから」
美咲も追随するように、迷う菊乃を安心させる。一瞬考えるそぶりを見せた後、菊乃は静かに頷いた。
菊乃が玄関へ向かうと、開けられた襖の間から翠子が顔を出す。
「連絡もしないで申し訳ございません。でも、どうしてもお話しがしたくて。美咲さんからも連絡を頂いていたのですが、慎吾君が早く謝りたいと聞かなくて。怪我をさせてしまって申し訳ありませんでした」
まるで自分のことのように深々と謝罪する翠子はセーラー服姿だ。
胸まである髪は校則なのか翠子の好みなのか、二つに分けて三つ編みにしている。両手で鞄を持っているが緊張しているのか震えている。
翠子の謝罪を聞いていると、複数の足音が聞こえた。
すると、顔を強張らせた慎吾が姿を現す。
私服姿を見るに、謹慎処分は解けていないらしい。
「花木、ごめん」
碧理を見て、勢い良く頭を下げる慎吾に碧理は軽く笑った。
学年一、学校一の問題児が肩なしだ。一晩で憔悴したのかいつもの元気はない。
「いいよ。あれは事故だから。私の態度も悪かったし。もう、気にしないで。治療代だけ払ってくれたら問題ないから。……頭、上げてよ」
碧理の中では、この事件よりも八月の三日間を話す方が憂鬱な出来事。
慎吾の落ち込んでいる姿を見ていると、碧理まで調子が狂ってしまう。しかも、隣で慎吾を心配している翠子も落ち込んでいて空気が重かった。
「本当にごめん。体調が悪くなったらいつでも言ってくれ。親父のコネを使って、医者紹介するから」
まさかの親のコネ発言で、碧理は何て言って良いのかわからず、言葉を濁す。
「あ、う、うん。ありがとう。とにかく入ってよ」
まだ不安があるようで、慎吾も翠子も表情は固いまま。しかも、翠子は中に入ったのに、慎吾が中々動かない。
「赤谷どうしたの?」
碧理の代わりに、部屋の隅に置かれていた座布団を並べていた美咲が声をかける。
「ああ、実は迷ったけど、こいつも呼んだんだ。……ごめん」
そう言った慎吾に、碧理は嫌な予感がした。
慎吾に促されるように姿を現したのは……森里蒼太。
「いきなりごめん。でも、こうでもしないと、花木さんは僕の話を聞いてくれないと思ったから。あの言葉をもう一度確かめたくて」
制服姿の蒼太も、どうやら学校をサボったらしい。
碧理が怪我をしたことが原因で、二カ月前の、あの日と同じメンバーが全員揃うこととなった。
「悪夢だ……」
そう呟いた美咲は虚ろな目をして天を仰ぐ。
翠子に手を引かれて電車から降りた碧理や美咲は勿論、電車内に残して来たはずの、慎吾と蒼太もホームにいた。
どうやら心配で、二人共、咄嗟に電車から降りたらしい。
「翠子、いい加減にしろ。帰るぞ。送っていくから……」
無理やり翠子と碧理達を引き剥がす。慎吾は翠子の手を取ると、強引に反対側のホームへと連れて行こうとした。
突き放そうとしていたのに、やっぱり気になるらしい。
だが、翠子は嫌がるように手を振り払う。そして、慎吾と向かい合った。
「嫌です。翠子は帰りません。願いが叶う洞窟へ行きます。そして、大好きな慎吾君とずっと一緒にいることを誓います」
駅のホームでの翠子の大胆な告白に、碧理と美咲、蒼太は息を呑む。
大きな駅ではないせいか人はまばらだ。だが、凛とした翠子の声に振り返る人も多い。
そんな中、告白された慎吾は動揺どころか照れてもいない。至って普通の態度だ。
「翠子。……その台詞何回目だ。聞き飽きた」
慎吾の辛辣な台詞に抗議するように美咲が口を開く。
「赤谷、酷い。一世一大の告白を!」
「一世一大って……。翠子は俺に、一年で百二十回は今と同じ台詞言うぞ。それが十五年だ。計算してみろ」
「えっ……」
美咲だけではなく、碧理と蒼太が翠子を見る。
翠子は、全員の視線を受けて恥ずかしそうに俯いた。
「俺達は三歳から一緒にいるんだ」
話しを聞くと、慎吾が三歳の時に引っ越した先で、隣の家に住んでいたのが翠子だった。それからの付き合いだと言う。
「翠子が、慎吾君に一目惚れしました」
顔を上げて、誇らしげに微笑む翠子の顔は赤い。どうやら照れているらしい。
「こんなにも慕われているなら付き合ったら良いじゃない。こんなに好きでいてくれて可愛い子、赤谷の前にもう出てこないよ」
他人事だと思って、美咲が適当なことを言い出した。
「勝手なこと言うな。翠子の家は……旧家なんだよ。色々とあって無理なんだ」
そう言うと、慎吾は目を逸らす。
それを聞いた翠子も悲しそうに顔を伏せた。
口では乱暴に翠子を突き放しているが、どうやら慎吾は翠子が好きらしい。でも、好きだけでは一緒にいられない理由があると言う。
そのために慎吾は翠子と別れると決めたと。
「そう。その事情は二人で何とかして。翠子さんは赤谷が責任を持って引き取って。私達はもう行くけど、他言無用だからね」
付き合っていられないと美咲が歩き出す。その後を碧理が追った。
「待って! 翠子も一緒に連れて行って。お願い」
「嫌よ。あなたのお願いを聞く義理や義務はないの」
「でしたら、皆さんの学校とご両親に連絡します! 私は本気です!」
「部外者が余計なことをしないで」
またしても押し問答が始まった。
美咲も翠子も一歩も引かず、平行線のまま時間は過ぎていく。
すると、見るに見かねたのか、今まで空気のような存在だった蒼太が口を開いた。
「二人共、落ち着いて。ここじゃ目立つよ。場所変えない? それに雨が降りそうだ」
蒼太が見上げた視線の先には、灰色の世界が広がっている。
午前中は晴れていたのに、今にも雨が降り出しそうな曇り空。その暗さは全員の心を不安にさせた。
「話すことはないけど? 予定通り花木さんと二人で行くわよ。赤谷達は帰って」
頑なに頷かない美咲に、蒼太は苦笑いを浮かべた。
「今日はどこに泊まるの?」
「もう予約してあるから心配いらない。花木さん、雨に降られる前に急ごう。バスに乗ったあと少し歩くから、暗くなると心配なの」
「わかった」
碧理と美咲が歩き出す。
だが、すぐに碧理の腕を大きくて力強い手が止めた。
「ちょっと待って。やっぱり危ないから一緒に行くよ。白川、そうじゃないと警察呼ぶよ? 目的が達成出来なくなるけど良いの?」
蒼太のその言葉に、美咲は頬を膨らませる。
不満だが、警察と言われると何も言えない。これは三人も連れて行くしか選択肢がなくなった。
翠子は嬉しそうな顔を見せるが、慎吾はいささか困っているようだ。
「……わかったわよ。でも家はどうするの? 私と花木さんはアリバイ工作して来たけど、いきなり外泊だと親が心配するでしょ」
「女子じゃないからそこまで煩くないよ。それに、去年も夏休み中は、バスケ部の連中とキャンプとか、お互いの家に泊まっていたから僕は問題ない。慎吾達は大丈夫?」
蒼太は普段から友達に囲まれながら学校生活を送っていた。アリバイ工作をしてくれる友人も多いのだろう。
心配したのは、慎吾ではなく翠子だ。
箱入りのお嬢様なら両親は特に厳しいだろう。そんな翠子を親に内緒で連れ回すと、事件になる可能性も高い。
「大丈夫です。友人にも協力して貰います。連絡してきますね」
翠子は思い立ったら即行動するタイプのようで、少し離れた場所で電話を始めた。
「赤谷は? 家は問題ないの?」
この中で、一番自由が利きそうな慎吾だが、念のため美咲が確認する。
「うーん。この中で翠子と俺が一番ヤバイかもな。明日には洞窟に着くのか?」
困ったように頭を掻く慎吾の姿に、美咲も碧理も「えっ?」と反応する。そして、美咲が「今日を入れて三日くらいかな」と答えると、更に渋い顔を見せた。
「慎吾の両親は揃って大学教授なんだ。とても厳しくて友達の間じゃ有名だよ。今はこんなのだけど、中学の頃は真面目で成績もトップだったから。この話しても皆、信じないけど」
中学から一緒だった蒼太は笑いながら慎吾を見た。
「嘘。どこでどう間違ったのよ……。今は、私と同じ補習仲間なのに」
美咲が疑ったまま慎吾に不躾な視線を送る。
「白川、お前失礼だな。三日か……翠子を一人にする訳にはいかないからな。親父に連絡するから蒼太、お前出ろ。本人が出れば少しは何とかなるかも。お前の家で勉強がてら泊まることにする」
「そうだね。それが無難かな。うちは両親共、普通のサラリーマン。誰か泊まりに来ても受け入れるタイプだから問題ないよ。それに、都合が良いことに母親が今、出張で一週間いないんだ」
蒼太は普通のサラリーマンと言っているが、母親が出張な時点で、バリキャリなのではと碧理は思った。
「でも、あとで赤谷君の家から森里君の家に連絡がいったらどうするの?」
慎吾の両親がそこまで厳しいとは思わなかった碧理は、最悪の事態を想定する。
誰か一人でも両親が騒げば警察が介入してくる。そうなると大問題になるのは目に見えている。
「そうだね。なら、弟二人に頼んでおくよ」
「森里君、弟いるんだ」
「うん。高一と小五の。親父はいつも帰りが遅くて朝早いから、明日と明後日くらい居なくてもバレないよ。俺はバスケ部の友達の所に泊まることにする」
そう言うと蒼太も電話を始めた。
蒼太が言うには、慎吾の両親は厳格なため、家に友達を招いたことすらないらしい。そんな家に泊まるとは嘘でも言えないそうだ。
「まさかの展開だね。……花木さん。家から連絡ない?」
三人から少し離れ、誰もいないベンチへと移動する。
美咲は碧理の事情を少し聞いたせいか気になるらしい。そんな美咲の目の前で碧理はスマホを取り出した。
「ほら。何もないよ。絶対連絡ないから」
「……そう」
碧理のスマホには何の通知も来ていない。予想通り、娘の嘘を信じて疑うことはなさそうだ。
「白川さんはどうなの?」
「うちは兄と弟から定期連絡が来てるだけ。問題ないよ。それよりも名前で呼んでも良い? 苗字で呼ぶの面倒でさ」
雨が降る前の蒸し暑さのせいか、美咲が手で仰ぎながら碧理を見る。
その提案に驚きつつも嬉しそうに碧理は頷いた。
「うん、大丈夫。私も名前で呼んでも良い?」
「もちろん」
「翠子もお願いします。お友達になりたいです」
二人の会話に入って来たのは、電話が終わった様子の翠子。満面の笑顔を見るに上手くいったようだ。
「……私、自分のことを名前で呼ぶ子嫌い。だから無理」
どうやら美咲は、電車での騒動で翠子に良い印象がないらしい。
つっけんどに拒否をする。
「直します! だから、お願いします。二人のことが気に入りました。お友達になって欲しいです」
素直に感情をぶつけてくる翠子の姿に悪意は見えない。ただ、純粋に友達になりたいようだ。
「美咲、良いじゃない。三日間は一緒なんだし。それなら少しの間だけでも楽しもう。でも、私達は赤谷のように我儘は聞けないから。それでも良ければ、よろしくね、翠子さん。」
これから寝食を共にするのに、洞窟までギスギスしたまま行動を共にしたくない。そう考えた碧理は美咲を説得する。
「それはそうだけど。……わかった。我儘は聞けないからね」
不承不承に頷いた美咲に、翠子は顔を輝かした。
「ありがとう。碧理さん、美咲さん」
嬉しそうな笑顔を見せる翠子は幼く見えて、本当に同じ年かと疑うほど可愛い。この庇護欲をそそる姿に、慎吾も本気で突き放せないのだろう。
「あ、どうだった?」
男子二人が通話を終えたらしく、女子三人の元へと戻ってくる。
「僕は問題なかったよ。慎吾は険悪だったね」
蒼太の言葉に、慎吾は苦々しく皆から視線を背けた。
「慎吾君は、お許しは貰えませんでしたか? み、……私は優実さんにご協力をお願いしたら、全力で任せてって、言われました」
翠子は、いつも通り自分のことを名前で呼ぼうとしたが、美咲の視線を感じたのか言い直す。
そして、自分は幼稚舎から一緒の、学校で一番仲の良い親友に頼んだと説明をする。彼女には、慎吾のことも説明してあるらしい。
恋を応援されました。と頬を赤く染めた。
「俺は今日だけ泊まるとしか言わなかった。さすがに、三日連続で蒼太の家に泊まるとか言うと不審がられる。今日に限って親父達いるんだよ。いつもは研究とか言って家にいないのに。白川、急いで洞窟まで行けるか?」
どうやら慎吾の親は、今、流行のモンスターペアレンツらしい。
「う、うーん。微妙だと思う。私もはっきりと場所がわかる訳じゃないから」
「そうなの? 美咲は知っていると思ってた」
「私も聞いた話なの」
そう言うと、美咲は鞄から地図を取り出し広げた。それを全員で覗き込んだ。
「私達がいる場所はここ。目的地はここね」
美咲が事前に印を付けてある洞窟の場所は、当たり前だが海の側。そこは、今いる場所から遠く離れていて、新幹線や快速を使わないと明日中には辿り着けない。
「普通に新幹線使えば早くない?」
蒼太の提案に、翠子と慎吾が同意した。
「ダメよ。行くまでの過程も大事なんだって。だから青春十八切符で行くの」
美咲が言うには、人づてで教えて貰った情報に「紺碧の洞窟」へ行くには条件があると言う。
一つ、青春十八切符で目指すこと。
一つ、管理人を探すこと。
一つ、過去は戻らない。
「なんだ、それ? 管理人って……」
慎吾が皆の思いを代弁して言葉にする。
確かにその通りだ。だが、その質問に答える術を美咲は持ち合わせていなかった。
「私に聞かないでよ。私も……彼から聞いたの。彼も人づてに聞いたらしくて詳しくは知らなかったわ」
美咲の声は徐々に小さくなる。
『彼』とは美咲が好きな家庭教師のことだろう。
美咲は信じたのだ。好きな人の話を。振り向いて貰うためにそれに縋ろうとした。
「お前、そんな曖昧な情報で……」
慎吾が呆れたようにため息を吐く。
「なによ。帰りたければ帰ればいいでしょ! 碧理、行こう」
怒った美咲は地図をしまうと歩き出す。その後ろを碧理も追うと、三人も動き出した。
こうして、五人の冒険は始まった。
「可愛いですね。こんな服初めて着ました」
満面の笑みを浮かべて満足そうに頷く翠子は、今人気のファストファッションのワンピースを身に付けている。
生地はそこまでではないが、黒いワンピースはシンプルで低価格。何よりも今時のデザインでどの世代にも人気があった。
碧理や美咲はよく利用するが、お嬢様の翠子は初めてらしい。何度も自分の姿を鏡やショーウィンドウに映して楽しそうだ。
五人はまず、制服姿の翠子と慎吾の服を買うことにした。
いつまでも制服でいると目立つからだ。しかも、翠子は有名なお嬢様学校。夜に補導でもされたら計画は頓挫する。
制服や持ち歩いていて邪魔な荷物は、駅のロッカーへ預けた。帰りもこの駅を経由するから問題ないと、五人で判断した結果だ。
「慎吾君も良く似合っています」
慎吾は翠子と同じ店で買った、シンプルな白のTシャツと黒のパンツ姿。翠子が何度も褒めるせいか、慎吾は照れているようで不愛想だ。
「じゃあ、行こうか。バス乗るよ」
美咲の先導でバス停を目指す。
「今日はこのまま宿へ行くのか?」
慎吾と蒼太が地図を広げて確認していた。
男二人は、どうやら美咲に任せるのが不安らしく、スマホでも検索している。
「そうよ。ここの廃校よ。あ、人数増えるって連絡しといたから大丈夫だよ。でも、満室だったから男女一緒ね。個室にして良かったわ。男は床に寝てね」
美咲が男二人に近づき胸を張って地図を見せた。
「それは構わないけど……廃校?」
「なんだ、それ。冗談だろ?」
蒼太が首を傾げると、隣で一緒に話を聞いていた慎吾が顔を引き攣らせる。
「何が冗談なの? 本気だよ。この宿はね、冬は雪で埋もれて無理なんだけど夏限定でやってる宿なの。SNSで見つけたんだ。森の中の廃校で、夜は星が綺麗なんだって。映えるスポットってやつ。キャンプファイヤーも毎日やっているらしくて楽しそうでしょ?」
興奮して説明する美咲に、あとの四人は戸惑いを隠せない。
「あの……。旅館やホテルではないのでしょうか? 私、廃校に泊まった経験がありませんので……正直不安です」
「大丈夫。私も初めてだから。廃校に泊まった経験ある人の方が少ないんじゃない? 口コミも良いから楽しみだね」
翠子の戸惑いを含んだ声色を、美咲は一蹴する。
碧理も泊まる場所までは確認していなかった。
漫画喫茶かカプセルホテルにでも泊まると思っていたから、まさかの提案に狼狽えた。
「美咲、そこ本当に安全?」
碧理が用心深く確認すると、美咲が大きく頷く。
「皆、心配しすぎ。あ、あそこのバス停だよ。向こうの街に着いたら食料買おう。ご飯はついてないから自炊だよ。今日は定番のカレーね。道具は全部貸してくれるんだって」
そう言うと美咲は走り出した。
それを慎吾と翠子が追い駆ける。碧理も走り出そうとすると蒼太に声をかけられた。
「……花木さん。白川と二人きりじゃなくて良かったでしょ?」
碧理と肩を並べた蒼太が苦笑する。
前方を走って行く三人を、碧理と蒼太が眺めながら歩き出した。
「うん。正直助かった。美咲と二人で廃校はきつかったかな。私、夜の学校苦手なの。だって、学校の七不思議とかあるじゃない? あれ聞く度に嫌になる」
碧理も蒼太につられて苦笑いを浮かべた。
「ああ、怖いのが苦手なんだ。それだと不気味だよね。……花木さんは、願いが叶う洞窟で何を願うの? 叶えたい夢があるから白川と一緒にいるんだよね?」
「それは……」
蒼太にどこまで伝えるか碧理は迷った。
美咲には言ったが、それは同性同士で話しやすかったからだ。それに、あの時は、どうしても紺碧の洞窟へ行きたかったから勢いもある。
親の再婚や家庭の事情を、蒼太にどこまで伝えて良いものか考え込む。
「そこの二人! バス来たよ。しゃべっていないで急いで!」
すると、美咲の元気な声が聞こえた。
その声に、碧理と蒼太は顔を見合わせて大急ぎでバス停へと向かった。
「まあ……。思っていたよりもまともですわね……」
翠子が呟いた感想は、美咲を除いた全員の心の声だろう。
今日、泊まる予定の廃校に無事に着いたのは、十九時を過ぎた頃。
バスに乗り街に着くと、すぐにスーパーに寄った。
カレーの食材とお菓子や飲み物を購入する。各自自分の分は自分で払い、カレーの材料は翠子のカードで支払うことになった。話し合った結果、後日、皆で割り勘にする案で落ちついたからだ。
そして、やっとで廃校に辿り着いた。
校門の前に立つとすぐに広い運動場が広がっている。
その奥に見えるのが廃校だろう。
木造建築が二つと、真新しいおしゃれな木造建築が一つ。
説明によると、一つは大正時代に建てられて、もう一つは昭和に建てられたと言う。真新しい建物は管理棟。一階はカフェで早朝から夕方まで営業しているそうだ。
泊まらなくても利用出来るらしく、朝から観光客や地元の人で賑わっている。
宿泊施設は古い二棟。
それぞれ一階に六室と二階に六室。それと、広い運動場にはキャンパー達もいるようで、テントを張っている姿も見える。
その中心には、宿のスタッフと思われる数人の大人が火を燃やしている。
キャンプファイヤーの準備だろう。その周りを十代から七十代までの老若男女が楽しそうに囲んでいた。
「あ、子供もいますね。正直心配でしたけど、これなら安心ですわ」
翠子がほっと胸を撫で下ろす。
「……失礼ね。どんな所だと思っていたのよ。私も、危険な場所に泊まろうなんて思わないわよ」
「悪かった。廃校って聞くと、ホラーとか危ない奴らの溜まり場のイメージだろ。こんな変わった宿もあるんだな」
「外観は学校そのものだけど、中はリノベーション済みなんだよ。お化けみたいな廃屋イメージはないから安心して。さ、行こう」
慎吾の安心した感想は、翠子のことを思ってだろう。
正直、学校ではお嬢様育ちの翠子は眠れるか不安だ。あんなにも別れたいと言い張っていたのに、慎吾は常に翠子に寄り添い恋人そのもの。
あの電車の中での騒動は一体何だったのかと、碧理は府に落ちない。
「花木さん、行こう。慎吾と翠子さんのことは考えない方が良いよ。あの二人は中学時代からあんな感じだから」
さっきと同じように先を歩く三人の背中を見ながら、碧理と蒼太が後方を歩き出す。
そういえば、慎吾と蒼太は中学時代からの友達だったと碧理は思い出す。それなら、あの二人の関係も知っているだろう。
「赤谷君も翠子さんも相思相愛って感じなのに、どうして別れたいんだろう」
「翠子さんの家は旧家でね。一人っ子の翠子さんが家を継ぐことが決まっているんだ。それだと必然的に結婚相手も自由に選べないんだって」
蒼太は慎吾と仲が良いからか、二人の事情を良く知っていた。
高校生でもう将来が決められている翠子に、碧理は同情した。それは、自由が一切ないと言うこと。
全て親に決められ、この先も生きて行かなければならない息苦しさに、碧理は他人事ながら心配になった。
「それって……悲しいね。翠子さんは反抗しないの? 私なら嫌だな。逃げ出したくなる」
今も逃げ出している碧理には、翠子の願いは、慎吾と一緒にいることではなく、自分と同じ「自由になること」なのではないかと思ってしまう。
「そうだね。でも、翠子さんは逃げないよ。彼女はご両親のことも好きだし、代々守ってきた家が何よりも大事なんだ。ああ見えて、彼女は強いから」
慎吾にただ守られているだけのように見えた翠子に、電車では酷いことを言ったと、碧理は反省した。
いつも誰かの後ろに隠れている、深窓のご令嬢のイメージは崩れた。
「意外……。じゃあ、翠子さんの叶えたい願いって何かな?」
「さあ。それは本人じゃないとわからないね。花木さんの願い事は何? こう言ったら何だけど、日頃から大人しい花木さんが、噂を信じて行動を起こしたのが意外でさ」
蒼太は明るくそう言うが、心配そうに碧理を見つめている。
「……森里君は? 何で一緒に来てくれたの? 叶えたい願いがあるから?」
碧理は答えられなくて、質問を質問で返した。
「僕の願いはないよ。願いは所詮、願いだから。叶えたい目標があるなら自分で努力して勝ち取った方が達成感あるから。僕はそっちの道が好みかな。……あ、ごめんね。花木さん達のことを否定している訳じゃないから」
呟いた後、慌てて蒼太が弁解を始める。
この旅の目的を全否定してしまい、碧理の機嫌を損ねてしまったのかと慌てたようだ。その様子が可笑しかったようで、碧理は笑ってしまう。
「気にしていないよ。森里君が慌てる姿、初めて見た。いつもクラスでは冷静なのに、慌てたりもするんだね。新鮮だったよ」
ふわりと微笑む碧理に、蒼太が照れくさそうに顔を逸らす。
「……僕はそんなに冷静なイメージ? 意外なんだけど」
「そう? いつも友達と一緒にいるけど、皆が無茶しないように見守っているイメージだよ。大人なイメージ」
「自分ではそう感じないけど……。花木さんから見ると、そんな風に見えるんだ」
はにかみながら笑う蒼太に、碧理は目が離せなくなる。
図書館で会う度に気になって目で追い駆けて、そして今、完璧に恋に落ちた。
そのことに気づいて、顔に熱が集まる。
「そう……? あ、皆、呼んでる。森里君、行こう」
恋心を抑え、碧理が赤い顔を隠すように走り出した。
笑顔で手を振っている三人の元へと。
「白川、お前、料理したことあるのか? 農家の人が……泣いてるぞ」
慎吾の呆れた視線の先には、美咲が皮を剥いたジャガイモ。それは食べる部分がほとんどない無残な物だった。
「失礼ね、あるわよ。ただし、包丁じゃなくてピーラーを使ってだけど!」
負けん気の強い美咲は、文明の力であるピーラーがないのが悪いと騒ぎだす。
宿にチェックインの手続きが済むと、さっそく五人で夕飯のカレーを作り始めた。宿代は安いが、ご飯は各自で作るシステム。
調理場は、廃校の調理室が綺麗にリノベーションされている。
清潔感のある白い壁と天井。幾つもある水場とガスコンロ。皿やコップ類は常備されていて、好きに使っても良いシステム。
碧理達の他にも数組のグループが楽しそうに料理を作っていた。
「……白川、お前は翠子と一緒に食器類を用意してくれ。花木は……上手だな。料理するのか?」
美咲にやらせると野菜が可哀想なことになると、慎吾は追い払った。
それは、お嬢様育ちの翠子も同じようで、二人一緒に食器が置かれている棚へと向かう。
あんなにも翠子を嫌っていたのに、美咲は数時間で慣れたらしい。
残ったのは意外と料理に慣れている手つきの慎吾と、昔から家事をやっていた碧理。それに蒼太だった。
「私は……両親が四歳の時に離婚しているから。小学生の時は祖父母の家で食事していたけど、中学からは自分で作ってた」
中学生に上がると、碧理は祖父母の家に行くのが億劫になった。
それからは、拓真に与えられたお金から自分で買い物をして、慣れない料理に挑戦する日々。
最初は失敗ばかりだった碧理も、数をこなしていく内に上手くなり、今はレシピ本を見なくても簡単な物なら普通に作れる。
「ああ……悪い。余計なこと聞いた」
離婚の言葉に、慎吾は申し訳無さそうに謝った。
いつもは周りを威嚇し続けているのに、根は素直らしい。
「別に良いよ。今時、離婚している家なんていっぱいあるでしょ? そう言う赤谷君は料理するの? 凄く上手だけど」
慎吾は話しながらも、ジャガイモや人参の皮を手際よく剥いていく。
「うちは離婚していないけど、家庭内別居状態だ。お互い大学教授だからか言い争いになるとどっちも引かなくてさ。世間体が悪いからって仮面夫婦やってる。二人共、夜遅く帰って来たり研究で泊まり込んだりして家に寄りつかないけど。そのとばっちりが子供にきて……姉貴と二人で料理してた」
碧理は何と答えたら良いのか困ってしまう。
慎吾の家の事情も、思ったよりも重かった。
「えっと、森里君は? 手際が良いけど?」
この重くなった空気をどうにかしようと、碧理は蒼太に話題を振る。
玉ねぎを弱火で炒め出した蒼太は「同じだよ」と笑った。
「僕の家は両親共働き。弟二人は小さいから必然的に僕が料理担当になった。作るのは嫌いじゃないから問題ないよ。母は仕事人間で出張も多いけど、父とも仲が良いから。特に不満はないかな」
「なるほど……。必然的に作らなきゃいけない状況だったのね、三人共」
碧理は納得した。
自炊しなくても、昨今はコンビニやスーパーの惣菜。それに宅配や外食。食べ物はどこにでも大量にある。
だが、コンビニも朝、昼、晩、三日続ければ飽きてくる。好みも毎回偏り、同じものしか手に取らないし食べない。その内、食べたい物がなくなってしまう。
その点、自炊は時間がかかって面倒だが、身体に優しく節約にもなる。何より、将来一人暮らしをする時は食の心配がない。
「翠子さんは料理をしたことないよね?」
食器棚の前で、美咲と楽しそうに吟味している翠子に目をむけた。
あんなに電車の中で喧嘩していたのが嘘みたいに二人は仲が良い。
「いや、一回だけ俺と一緒に作った。シチューだったけど……茶色くなったんだよ。市販のルーじゃなくて、コンソメや牛乳で作ったせいか焦げて大変だった」
その時のことを思い出したらしく、慎吾が苦笑いを浮かべた。
焦げたシチューは、その後、翠子の家族と一緒に全部完食したと言う。なんだかんだと言いつつ、全て平らげる慎吾は見た目とは違い優しい。
「ところでさ、卵はどうするの? 今、茹で卵にして食べる? それとも明日の朝にする?」
残りの材料を見ていた蒼太が二人に声をかける。
「俺はカレーに入れる」
「私は明日の朝かな。あれ? 果物や缶詰。それに蜂蜜って、これ買っていたの美咲だよね? このまま食べるのかな?」
蒼太の隣で買い物袋の中を確認する碧理は、まるでSNSを意識しているような鮮やかな材料の数々に驚く。
どう見てもキラキラ女子が選びそうな食材だ。
「あ。それ、明日の朝食用よ。ほら、パンケーキ作るの。生クリームも買ったんだから」
皿を調達した美咲と翠子が調理台の上に食器を置いた。そして、生クリームを手に取ると見せびらかすように皆に見せつける。
「あのさ、美咲。その生クリーム……誰が泡立てるの? ハンドミキサーないよ?」
泡立て器で地道にやると時間がかかる。誰もが率先してやりたがらないだろう。
それを碧理が指摘すると、美咲が男子二人を交互に見た。
「お願い!」
可愛く首を傾げる美咲に、慎吾は呆れたようにため息を吐く。
「お前、自分でやれよ」
「無理よ。出来る気がしない」
「……俺はカレーで忙しいんだよ。それに甘い食べ物は嫌いだ。女、三人で泡立てろ」
そう言うと慎吾は、苦笑している蒼太と一緒に、市販のカレー粉を鍋に入れ始めた。
「ええ―。意地悪だ」
「まあまあ。落ちついて。明日の朝、早起きして作ろう」
「そうですね、私も手伝いますわ」
碧理と翠子が気を使って美咲を励ます。項垂れている様子を見るに、美咲はパンケーキが心の底から好きらしい。
「ありがとう。早起き出来るか分からないけど頑張る。あ、翠子、スプーン取ってこなきゃ。忘れてた」
「カトラリーですね。慎吾君。サラダがあるなら、あの棚の上にある大きな器が欲しいので取って下さい。私と美咲さんでは届かなくて」
翠子が指差した先にあるのは、透明な少し大きな皿。
女子二人よりも高い食器棚の上にある器はさすがに取れない。
「しょうがねーな」
面倒臭そうにそう言うと、美咲と翠子に連れられるように慎吾は行ってしまった。
残された碧理と蒼太は調理を再開させる。
「何サラダにするの?」
カレーを混ぜている蒼太が、キャベツを千切りにしている碧理に聞いた。
「コールスローだよ。私、これ好きなんだ」
「良いね。量が多いから手伝うよ。カレーはもう出来たから」
「ありがとう。じゃあ、人参も千切りにお願い。コーンは缶詰買ってきたから」
碧理の隣で人参を切り始めた蒼太は、碧理と会話を続けた。
主に、お互いの友達である瑠衣や刹那の話。蒼太のバスケの話。先生や好きな本。それにアーティストと話題は尽きない。
いつもは図書館で会った時に少し話す程度。そんな関係だった二人の距離が一気に近くなる。
「それでさ……」
「うん。それで、っ、あ……」
蒼太の話も面白く、碧理はふいに手元から目を離した。すると、包丁は無情にも碧理の指をかすめた。
「大丈夫? あ、これで抑えて」
蒼太が急いで取り出したのはネイビーのハンカチ。四つ角の一つに猫が刺繍されている可愛い品物だ。
それを血がうっすらと出ている人差し指へとあてる。
「あ、血がつくから汚れるよ」
「気にしなくても良いから。こういうためのハンカチだろ」
爽やかなクラスの人気者は気が利く。この行動力が友達が多い一因なのだと碧理は感心した。
「森里君はイケメンだね。ハンカチ持っている男子ってあんまりいないよ」
昨今では、男子どころか女子も持っているか微妙な所だろう。
特に深い意味もなく碧理がそう言って蒼太を見ると、なぜか顔が赤い。
「どうしたの?」
「いや。……イケメンってそんなに言われないから照れる」
「えっ……。嘘だ。森里君、背も高いし優しいしモテるでしょ? 彼女いないのが……不思議なくらいで……あ」
そこまで言った碧理は思い出す。
電車の中で美咲に聞かれ、気になる子発言をしていたことを。聞こえていないような態度をとっていた碧理は、その時に気分が落ち込んだ。
自分ではないとわかっていても、気になり出すと目が蒼太を追ってしまう。
「彼女はいないから」
落ち込む碧理を見ながら、蒼太は即答した。
「でも、気になる子はいるんでしょ? さっき電車で……ごめん。変なこと聞いて。もう聞かないから安心して」
そこまで聞いた碧理は咄嗟に聞くのを止めた。
自分もこう言う質問をされたら嫌だからだ。それに、蒼太を意識し始めた碧理は、その答えを聞くのも怖い。
「お前ら、青春してんの? 二人はそう言う関係だったのか。蒼太が彼女作らなかった理由は花木か? ふーん」
皿を手に戻って来た慎吾が、手を繋いでいる二人を見て軽口を叩く。
違うことが気になって忘れていたが、手は蒼太に握られたままだ。碧理は途端に恥ずかしくなった。
ハンカチで抑えられている傷の痛みが、感じなくなるくらいに動揺した。
「ダメよ。赤谷。外野は静かにフェードアウトしなきゃ。カレー三人分貰ってすぐにいなくなるから続きして大丈夫よ!」
「そうですよ。おめでとうございます。碧理さん」
なぜか、美咲と翠子までもが誤解しているようだ。
「ち、違うよ。指を切っちゃったから、森里君がハンカチ貸してくれただけだってば」
急いで説明するが、三人共、生温かく頷くだけで信じてくれない。
「花木さんの言う通りだよ。誰かバンソーコ持ってない?」
蒼太も赤い顔をそのままに、碧理の傷を皆に見せる。
思ったよりも良く切れる包丁だったらしく、赤い血がまだ滲んでいる。
「私が持っています」
そう言ったのは意外にもお嬢様の翠子で、鞄から取り出すと蒼太に手渡した。
どうして蒼太に手渡すのかと碧理は不思議そうな顔をする。だが、それを当たり前のように蒼太が受け取り処置を施す。
弟達の面倒も見ていると言っていたからか、手慣れていて戸惑っている様子はない。
狼狽えているのは碧理だけのようで、近すぎて、視線をどこに定めて良いのかわらかない始末。
しかも、外野三人の視線がむず痒い。
「出来たよ。痛みは大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫。ありがとう」
碧理は、挙動不審な様子でお礼を言う。痛みよりも恥ずかしすぎて顔が熱い。
「あとは僕と慎吾がやるから女子三人は座っていて。あそこのテーブルで待ってて」
「えっ? 大丈夫だから私もやるよ」
どうやら少し切っただけで戦力外通告をされたらしい。
「花木、この二人見ていてくれ。ふらふらと歩き回って危ないんだ。さっきも、そこのグループと話していて目が離せない」
慎吾の視線の先を見ると、男性三人と女性三人の姿。服装も若く料理をしている手つきも危なっかしい。
夏休みを利用して来ている大学生のようだ。
美咲達は男性達に話しかけられたのだろう。そのせいか、大学生グループの空気がギスギスしているように見える。
「う、うん。わかった。あっちの、人がいないテーブルにいるね」
「悪い。助かる」
あんなに翠子と別れたいと叫んでいた慎吾は見た目とは違い心配症だ。過保護とも言うだろう。現に、翠子の様子を何度もチラチラと確認してくる。
それが当たり前のように、翠子は全く気にしていない。
「溺愛だよね?」
三人でテーブルへと向かっていると、美咲が碧理の耳元で囁いた。
「そうだね。意外なライオンの姿に驚いたよ。恋は人を変えるんだね」
六人掛けのテーブルに辿り着くと、美咲と碧理が隣同士に座り、向かいに翠子が一人で座った。
「何のお話しですか? ライオン?」
「赤谷のこと。学校では問題児とかライオンとか言われているけど、本当は優しいって話」
美咲が説明を始めた。
学校で慎吾がどんな生活を送っているのかを。
すると、話していく内に翠子の顔つきが曇り出す。
「それは多分、私のせいです。慎吾君は中学まで真面目だったから」
中学まで慎吾は、黒髪で眼鏡をかけていて、絵に描いたようなガリ勉タイプだったと翠子は言う。
それが想像出来なくて、碧理も美咲も顔を見合わせた。
成績は学年トップクラスで生徒会長まで務め、卒業式では代表して答辞を読むなど輝かしい中学時代を送っていたらしい。
品行方正で秀才。今と全く違う評価に、碧理も美咲も想像がつかない。
「成績優秀? 今は私と一緒に補習受けているのに……。あ、そうか。赤谷も出席日数が微妙なのか。あいつも私と一緒で学校行かないから。でも、どうして高校になってから問題児になったの?」
美咲の疑問に、翠子は悲しそうに目を伏せる。
「たぶん、私のせいです。私が慎吾君と付き合っていることが両親にバレたから」
翠子と慎吾が付き合い出したのは中学を卒業してから。
女子高に通う翠子が不安になって、無理やり迫って付き合うことになったと言う。意外に積極的な翠子の行動に、碧理も美咲も興味津々だ。
だが、一人娘の翠子は、両親から交友関係を厳しくチェックされていると言う。
「高校になってすぐに知られてしまって。両親が慎吾君に言ったらしいのです。別れて欲しいって。それから何度も慎吾君から別れようって言われたけど、私は納得出来なくて平行線のまま今に至ります」
翠子は俯いて辛そうに声を震わす。
詳しく聞くと、翠子の家は碧理も美咲も知っているほどの有名な企業。そして一人娘のため、将来は翠子が後を継ぐことが決まっているらしい。
物心ついた時から両親の姿を見て育って来た翠子は、跡継ぎになることに不満はないと言う。そのために、今は勉学に励み将来に活かしたいと胸を張って答えた。
でも、それは慎吾がいてくれるからこそ頑張れると声を震わす。
何度も両親にそう伝えたが、聞き入れてくれないと翠子は悲しそうに笑った。
「お嬢様も大変だ。なら、赤谷の今の素行の悪さは翠子と別れるための演技ってこと? 自分の将来潰しているようなものだよ。推薦は取れないし、友達は離れていくし……」
確かに美咲の言う通り、学校内で慎吾を見かけるといつも一人だ。あえて、一人になろうとしているようにも見えた。
「だから私は慎吾君と別れません。私のせいで慎吾君の未来が……狭まりましたから。私が傍にいます」
「……なんだよ、それ。翠子に関係ないだろ? 俺の未来は俺が選ぶ。勝手に決めつけるな」
カレーを人数分、お盆に載せてきた慎吾と蒼太に今の話を聞かれたらしい。
慎吾の顔つきは厳しく怒っているようにも見える。
「翠子、俺はそんな理由で高校生活を送っているんじゃない。違う理由だ」
「じゃあ、理由を教えて下さい。いつもこの話題になるとはぐらかしてばかりで要領が得ません。ここではっきり教えて下さい。それで、納得出来る答えなら諦めます」
椅子から立ち上がり、慎吾に面と向かって自分の言いたいことを伝える翠子は、かっこよかった。
それほどまでに堂々としていた。
「それは……」
「その前にカレー食べよう。冷めたら美味しくなくなるから。それから二人で話し合いなよ。外野がいると邪魔でしょ?」
蒼太が抜群のタイミングで場を取り持つ。
そのおかげでピリピリしていた場が少しだけ和んだ。
「俺は食欲がなくなったからいらない」
そう言うと、慎吾は逃げるようにその場を離れる。
どうやら食事中をしていると、逃げられなくなると思ったらしい。子供のような反応に、碧理は苦笑した。
「慎吾君!」
後を追い駆けようとする翠子を碧理が止める。
「待って。あの様子じゃ何を聞いても上手くいかないと思うから、一人にさせとこう。後でカレー届けるから」
それでも行こうとする翠子の腕を掴み、椅子へと強引に座らせた。
そして四人での味気ない晩餐が始まる。
カレーは市販のルーだが、とても美味しく出来た。コールスローもスマホのレシピサイトで一番人気なだけはある。会話もそこそこ弾んだが、一人抜けた寂しさは何処となく漂っていた。
「ごめんなさい。私のせいで嫌な空気にさせてしまって」
皆が食べ終わると、翠子が頭を下げて謝罪する。
慎吾がいなくなった責任を感じているらしい。楽しい予定だった夕食が、味気ないものに変わったことが堪えたのか、目に見えて落ち込んでいた。
「仕方ないよ。それに、この旅ではっきりさせたら良いんじゃない? 翠子の願い事は赤谷君とずっと一緒にいることでしょう? なら、二人で話し合うべきだよ」
碧理は話ながら、皆が食べ終えた皿やスプーンを手際よく片づけ始めた。
「碧理さんは大人な考えです。私はすぐに答えを求めてしまって慎吾君を困らせています。わかっているけど……好きなんです」
翠子の声が震える。どうやら泣いてしまったらしい。
「好きだけじゃ生きていけないよ。だって私の両親、恋愛結婚なのに離婚してるから」
碧理が笑いながらそう言うと、翠子は気まずそうな顔をする。そして、蒼太も何も言えずに心配そうに碧理を見ている。
「ああ、それわかる。でも、子供としては離婚してくれた方が良い時もあるよ。だって、うちなんて、今、両親がダブル不倫中なんだもん」
まさかの重い告白に他の三人は絶句する。
そんな中、美咲自身は明るく告げた。
「いや、本当だよ。本人達はバレていないと思っているけど、兄も弟も知っているからね。私の引きこもりの原因それだから。ママは専業主婦だから見張りも兼ねているんだ。てか、私だけじゃなくて皆の両親も凄いね。良くこんな境遇ばかり集まったね」
確かに美咲の言う通りだと誰もが思った。
碧理の両親は離婚。慎吾は家庭内別居。美咲はダブル不倫中。翠子は厳格な親で融通がきかない。唯一、まともそうなのは蒼太だけかも知れない。
「両親の話題は置いとこうか? それを話し始めると、慎吾がお腹空かして暴れそうだから。温め直して僕が持って行くよ。翠子さんは、もう少し時間を置いてからの方が良いよ。慎吾も頑固だから」
翠子が立ち上がろうとすると、蒼太がそれを止めた。
「なら私が持って行くよ。森里君だと……赤谷君、何も話さないと思うから。だって、プライド高そうだし恋愛が絡むと男同士でも言えないんじゃない? 美咲は……傷口に塩を塗り込みそうだから却下」
碧理がそう言うと、美咲はブーイングの声を上げた。だが、蒼太と翠子も肯定したせいか大人しくなる。
蒼太も不満そうだが、碧理の説得に折れてくれた。
探そうとすると、さすがに元学校だけあって広い。むやみやたらと動き回るのは無謀だ。
蒼太が何回も慎吾に電話をかける。
数回目の電話でやっとで出た慎吾に居場所を聞き出し、碧理は向かった。
「赤谷君。お腹空いたでしょう? 美味しく出来たよ。カレー温め直して大盛にしておいたから食べて」
慎吾がいたのは、キャンプファイヤーをしている校庭の隅。そこにあるベンチに腰かけていた。
廃校を宿にするに当たり、遊具は取り外され木々はほとんどがない。その代わり、芝生や街灯がおしゃれに配置されている。
「……花木が来るとは思わなかった」
「だろうね。赤谷君と翠子さんを見ていたらお節介焼きたくなったの。あ、私に気にしないで食べて」
慎吾は何も言わず、ラップをかけられたカレーやサラダ。それに、ペットボトルのお茶を碧理から受け取った。
黙々と食べ始めた慎吾の隣に碧理が座り、空を見上げる。
「綺麗だね。こんなにもたくさんの星を見たのは初めてかも」
「この辺は緑も多いし空気も澄んでいるからな」
「カレー美味しい?」
「ああ、美味い。翠子は大丈夫だったか? 泣いていただろ?」
慎吾も責任を感じているようだ。せっかくの美味しいはずのカレーなのに、眉間に皺を寄せながら食べている。
「そうだね。ねぇ、赤谷君は何で翠子さんと別れたいの? それと、高校入ってから不良になった訳を教えて」
碧理の言葉に慎吾は咽る。
普段から大人しい印象の碧理がストレートに聞いてきたことに驚いたらしい。
「誰にも話したことないのに、花木に話すのか?」
「そんなに仲良くない私だから話せるんじゃないの? ほら、この旅行が終われば、また日常に戻るよ。赤谷君とはクラスも違うし基本的に会わないじゃない。誰にも言わないって誓うから聞いてあげる」
「何だよ、その上から目線」
凛として響く碧理の声は、夏の夜空へと消えていく。
「さっきの二人の会話聞いていたらさ。昔、両親が喧嘩している時のこと思い出したんだ。それぞれが言いたいことを言わなくて、結局、修復不可能になって別れたの。声に出さないと伝わらないよ。人の心はよめないから」
看護師だった碧理の母は、夜勤もあり休みも不規則だった。そのせいで、サラリーマンの父、拓真とすれ違いの生活の日々。
そんな日々が続くと、ズレが生じた。
一時はそれぞれ主張をぶつけ合い妥協点を探っていたが、いつからか二人共、何も言わなくなった。ギスギスした家庭は更に不和を起こす。
お互いが言いたいこと言わず妥協しながら暮らし、我慢し冷戦状態が続いた。そんな日々は長くは続かず、砂の城のようにゆっくりと崩壊した。
「だから、赤谷君も翠子さんのことが好きなら素直になりなよ。後悔してからじゃ遅いよ。時間は戻らないから」
両親が離婚した時、何も出来なかったことが碧理の心に傷を残した。
碧理の親権を手放すほど母親は精神が不安定になり、休職しなければならないほど脆くなった。そんな母親が立ち直ったと知らされたのは八年前。
「母親と会ってるのか?」
「一年に数回ね。会話は弾まないけど、やっぱり会えると嬉しいかな。赤谷は……後悔をしないでね」
そう碧理が伝えると、慎吾が考え込む。
あんなにも大盛にしたカレーは、いつの間にか空になっていた。
「……俺さ、誰にも言ってないけど塾行ってるんだ。……姉貴からお金借りて」
「塾? 意外……。でも、お姉さんにお金借りたってことは、親に言ってないの? 赤谷君、お姉さんいたんだ?」
「ああ。キャビンアテンダントなんだ。親父達は学歴主義だから大学行けって煩いから、進路に口出されると面倒だし姉貴にお願いした。俺さ、高校卒業したら、ワーホリか青年海外協力隊に参加したくて英語勉強してんの」
ポツリポツリと慎吾が話し出す。
ついでというように、スマホから姉と一緒に写っている画像も一緒に。
犬も飼っているらしく、幸せそうだ。
中学生の時、両親の知人で、海外で井戸造りを手伝っている日本人に会ったと言う。その人と話して世界が広がり、自分も挑戦したいと思ったと。
「それなら大学行ってからでも良いんじゃない? えっと、青年海外協力隊って二十歳からでしょ?」
碧理がすぐにスマホを操作して調べ始める。
「そうだけど、早く行ってみたいって言うか。正直、翠子と離れたかった。お互いがお互いに依存し過ぎている。このままじゃ、俺達はお互いの未来を奪ってしまうと感じたからな」
同じ年とは思えないほど慎吾が大人びて見えた。
将来のことを考え、そして行動している。
確かに、翠子は慎吾がいないと不安そうで、始終ぴったりと傍にいる。対する慎吾も、目を離さず翠子を気にしていた。
そこにお互いがいるのが当たり前のように。
「じゃあ、どうして高校になってからグレたの?」
「失礼だな。噂みたいに喧嘩してないぞ。それに、ちょっと学校サボって写真家のおっさんの家に入り浸ったり、そこに来る大人達に混じって過ごしていただけだ」
「どこで出会うのよ、そんな人に。あ、そっか。写真部だったね。その縁?」
「ああ、個展があって、その時に会った。こんな世界があるんだって衝撃を覚えたんだ。俺の世界がとてつもなく小さく感じた。本当は、その写真家に付いて働きたいけど許してくれなくてさ。なら、新しい物に触れて成長したいと思った」
慎吾の話を聞いている限り、その写真家は偏屈な上に変わり者らしい。だが腕は良くその世界では有名だと言う。
「つまり、その写真家の弟子になるために入り浸っていたら、写真家の友達に感化されてしまったと」
それは出席日数も足りなくなるだろう。それに、授業もわからなくなる。何よりも、大人の世界に嵌った慎吾は外見も感化された。
悪い方へと。それが悪循環を生んだ結果、今に至ると。
「まあ、そうだな。これが、自分が一番やりたいことかなって思ってさ」
「熱く語るのは良いけど、翠子さんには伝えなよ。誤解してたじゃない。赤谷君が問題行動起こしたのは自分のせいだって」
「あいつに言うと、付いて来るって言いそうでさ」
どうやら慎吾は物凄く自意識過剰らしい。
とことん、翠子が自分を好きだと思っている。
「あのさ。確かに翠子さんは赤谷君のこと好きだって公言しているけど、さっき翠子さん、会社継ぐために頑張るって宣言していたから、赤谷君と行動を共にすることはないと思うよ」
ばっさりと切り捨ててやると、慎吾の顔つきが変わった。
「でも、あいつは俺に傍にいて欲しいって……」
「それは本当だと思うけど。二人が同じ進路行く訳ないじゃん。あんなに賢い翠子さんならわかっているって。てかさ、どこでこじれたかわかんないけど、二人で話し合ってよ」
「それが難しいんだ」
そう言うと、なぜか慎吾は項垂れた。
「なんで?」
「翠子を前にすると何も言えなくなって。翠子の両親からは特に何も言われていないんだ。ただ、付き合っていることを話しただけで」
「えっ? そうなの? 反対されたとかは?」
「特にない」
意外な展開に、碧理が驚く。
厳格そうな翠子の両親は、慎吾との付き合いを公認しているらしい。それすらも翠子は知らないと言う。
「何で翠子さんに言わないのよ?」
「さっきも言っただろ? お互いが影響を受けすぎて悪い方向へいっているって。このままじゃ、翠子も俺もダメになる。好きだけど……大人になりきれていない今は、一緒にいられない」
辛そうに慎吾は夜空を見る。
満天の星に、願いを込めるように目を閉じた。
「上手く伝えることが出来ないなら、はい、これ」
碧理が鞄から取り出したのは、赤いB五のノート。それを不思議そうに見ている慎吾にボールペンと一緒に押し付けた。
「なんだよ、これ?」
「そのノートに、今、私に言ったことを全部書いて渡すのよ。口で伝えられないなら書いて渡せば良いじゃない。上手く書かなくても意味が伝わるだけでいいから、文章が無理なら箇条書きにすれば簡単だよ」
慎吾は、碧理とノートを何度も見比べる。
そんな慎吾を横目に、碧理は食器が乗っているお盆を手に持ち立ち上がった。
「じゃあ、私、行くから」
「俺が自分でやるよ」
「大丈夫。ほら、待ってるみたいだから。ゆっくりどうぞ」
碧理が視線を向けた先には、翠子と蒼太の姿。どうやら気になったようで、様子を見に来たらしい。
「えっ、いつからいたんだ? 今までの会話、聞かれてたり……」
「ああ、それはないから。二人共今、来たよ。じゃあ、頑張って」
歩き出した翠子とすれ違い様、碧理は「頑張って」と声をかけた。それに翠子はゆっくりと頷いた。
「持つよ。お疲れ様」
蒼太が当たり前のように、碧理が持っていたお盆を受け取る。
「ありがとう」
「ところで、花木さん、いつの間に鞄とノート持って行ったの?」
「こっちに来る前に荷物取りに行ったの。だって、二人がすれ違っているのがわかっていたから、書いた方が早いと思ったの」
「経験談?」
「うん。その通り」
碧理は、両親が離婚後、祖父母の家に預けられた。その時に、自分の気持ちが上手く伝わらず泣いていた時に祖母が教えてくれたのだ。
自分の心がわからなくなったら、迷ったら紙に書けと。そしたら落ちついて解決方法が見えて来ると。
だから、碧理は実行した。
あの二人が最善の道を選ぶようにと祈りながら。
「……慎吾君」
碧理と蒼太がいなくなった後、慎吾と翠子の間には居心地の悪い空気が漂っていた。それを最初に打ち破ったのは翠子だ。
「翠子。少し待ってくれないか? ちょっと自分の気持ちを整理するから」
「……うん。隣に座っても良い?」
「ああ……」
今までとは違い、素直に答える慎吾を見て、翠子が嬉しそうにベンチに腰かける。
そして空に視線をやり、ため息を吐く。緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
「綺麗……」
頭上には、普段、見ることのない満天の星。
その星空を眺め、隣でノートと睨み合っている慎吾に、翠子は視線を向ける。
この頃、一緒にいることがなくなった慎吾の態度に、翠子は何度も泣きそうになった。
自分が何かしてしまったのか不安に陥り、その度に詰め寄って泣きながら縋りつく。そんなことをしても、慎吾の心が離れていくと頭ではわかっている。
だけど気持ちを抑えられなかった。
ずっと傍にいて欲しかったから。それが当たり前だと思っていた。
だから今夜、慎吾の本音を聞きたかった。
たとえ、それが望む形でなくとも。
そして、翠子もまた、慎吾に伝えたいことがあった。それをどう伝えようか、翠子もまた思案する。
真夏の夜の、生温かい不快な空気が二人を包む。
何を言われるのかわからず、緊張している翠子の手は固く握られている。
そんな翠子に対して、慎吾はノートとペンを握り締めて苦悶の表情を浮かべていた。
何度も文字を書いては消し、また書く。それを繰り返していると、白いノートは瞬く間に黒く塗りつぶされる。
難しい顔をしながらも、慎吾がペンを走らせる音が翠子に届く。
しばらくすると、静けさを打ち破るように慎吾が声を上げた。
「……出来た。翠子、これが俺の今の気持ち」
その声は緊張しているようで、ゆっくりと慎吾が翠子に赤いノートを手渡す。伝えたいことが書いてあるページを広げながら。
「……うん」
どんな言葉が綴られているのか予想出来ない翠子は、恐る恐るノートを受け取った。
そして、書いてある文字を目で追うと、大きく目を見開く。
「……えっ?」
あんなにも時間をかけて悩んでいたノートには、長文ではなく、短い文字でわかりやすく、はっきりと書かれていた。
『好きだ』
「……っ、慎吾君。これって!」
勢いよく慎吾を見た翠子の瞳に映ったのは、顔を赤くした姿。
照れているようで、それを隠そうとするように空を見上げている。その姿に、翠子は思わず抱き付いた。
「おい、翠子! 離れろよ」
「嫌。だって嬉しいんだもん。私も慎吾君のことが大好きです! 初めて会った時からずっと」
何度も「離れろ」と叫ぶ慎吾の腕に絡みつく翠子を見て、慎吾は引き剥がすことを諦める。
「翠子……。俺、日本以外の国を見てみたいんだ。だから、卒業したら海外に行く」
翠子に想いを伝えたことで吹っ切れたのか、慎吾が語り出す。
どう言う道に進みたいのかを。
成り行き上、碧理に語った話を翠子に聞いて貰う。
「まだ、具体的には何も決まっていないけど、絶対に翠子の元へ帰って来るから。俺は自分の道を自分で選びたい。十年後、二十年後に後悔しないように。だから、しばらくの間、お別れだ」
前を見て、未来を見据えた慎吾の瞳からは迷いが消えていた。
翠子と別れたいと騒ぎ、美咲や碧理を巻き込んでの修羅場騒動。蒼太までも加わって大騒ぎしたのが嘘のように、慎吾は自分の気持ちを素直に口に出す。
その姿を見て、翠子もまた、にこやかに笑った。
「うん。いつまでも待ってるから。おばあちゃんになるまでには迎えに来て。慎吾君はいつも私を守ってくれていたけど、私も一人で大丈夫だよ。美咲さんみたいにかっこよく出来ないし、碧理さんのように料理も出来ないけど、私も一人で何でも出来るように学ぶから。だから……心配しないで」
翠子もまた考えていたことがあった。
慎吾と同じように、このままではダメだと。だけど行動に移せずにいた。慎吾の隣は居心地が良くて安心出来る場所だから。
だが、電車の中で碧理に言われた言葉が翠子の心に突き刺さった。
頼ってばかりだと慎吾が疲れてしまうと。束縛しすぎると嫌われてしまうと。
だから、翠子もまた行動に移すことにした。
今は離れていても、未来を慎吾と共に歩けるように努力しようと。慎吾と共に歩けるように力を付けようと心に決めた。
「慎吾君に負けないように、かっこいい自立した女性になるから。だから……待っているね」
「ああ……。翠子なら何でも出来るよ。いつも努力している姿を見ていた俺が、一番良く知っている」
跡取り娘として、幼い頃から我慢し、親の期待に応えようとする翠子の姿を、慎吾は身近で見ていた。誰よりも努力していた姿を。
だからこそ、翠子の人生を慎吾もまた邪魔したくはなかった。
「約束ね……」
そう翠子がまた呟くと、慎吾からペンを借り、赤いノートに何かを書き込んだ。
「おい、翠子。お前、何を書いているんだよ。これ、花木のノートだぞ」
その文字を見ると、慎吾が慌てたように止めに入る。
「この後の人生設計です。慎吾君、私は三十までに結婚して、子供を二人産む予定です。だから、それまでに帰って来て下さい。絶対ですよ! このノートは碧理さんに証拠として預かって貰います! だから、サインして下さい」
「はっ? 花木にノート預ける? サイン……って」
顔を引き攣らせた慎吾を横目に、翠子はペンを走らす。それは卒業後の二人の設計図。
それを見ると、二人は九十まで生きる予定のようで「孫」の文字まで見える。
「慎吾君、サインして下さい。私が慎吾君を幸せにしてみせます。安心して名前を書いて下さい」
ドラマか小説の見過ぎのような翠子の台詞に、慎吾は困ったような笑みを浮かべた。そして、決心したようにペンを持つと、そこに自分の名前と日付を書き込んだ。
こう言う未来を迎えるのも、悪くはないと思いながら。
「ふふっ。これで慎吾君の人生は私と一心同体ですね」
怪しい笑みを浮かべる翠子の姿に、早まったかもと少しだけ後悔しながらも、これからの未来を慎吾は想像した。
「学校さぼったの? あとで親に連絡いくんじゃない? あ、赤谷は謹慎中だったか。アイス食べる?」
一番学校に行っていないはずの美咲が、笑いながら三人を見た。そして、まるで自分の家のように、碧理の前に座布団を並べていく。
すると、美咲は当たり前のように真ん中に陣取った。その隣に翠子が座り、翠子の隣には慎吾。必然的に美咲の反対隣は蒼太になった。
慎吾や翠子、蒼太が緊張している中、美咲だけが呑気にアイスを配る。どうやら大量に買っていたようだ。
「これ美味しいからおススメなの。バニラとチョコレートと苺味。あ、翠子さんとは会った記憶がないから初めましてだよね? 私、白川美咲よろしく」
「高田翠子と申します。よろしくお願いします。あと、アイスもありがとうございます」
翠子が行儀よく頭を下げる。
「気にせず食べてよ。美味しいよ、その苺味」
自由奔放な美咲がいてくれて良かったと碧理は安堵した。
美咲がいなかったら、部屋の中は重苦しい雰囲気だっただろう。更にギスギスしていたかも知れない。
翠子と慎吾が美咲に促されアイスを口にする。そんな中、蒼太だけが碧理を見つめたまま口を開いた。
「……怪我は大丈夫? 倒れた時、凄い音がしたんだよ。大騒ぎになって、浜辺が大泣きしてたけど連絡した?」
蒼太の説明を受けて、碧理は困ったような表情を浮かべた。
瑠衣は昔から、少しだけ大げさに物事を捕える傾向がある。
本人から連絡は来ていたが「大丈夫」だと一言伝えただけ。それ以降は返事を返していなかった。
大量にメッセージは届いていたが、クラス中に噂が回ることが目に見えている。それも真実ではない尾ひれがついたものが。
それを予想して、碧理は自分が学校へ行くまでは、体調不良を理由に連絡を絶つことに決めたのだ。
「うん、一回だけ。落ち着いたらゆっくり連絡するつもり」
「そう。そうしてやって。刹那も困っていたから」
蒼太の友達の筧刹那は、彼女である瑠衣の対応に苦慮しているようだ。その姿も想像出来て、碧理は苦笑する。
「それで、聞きたいことがあるんだ。……これなんだけど」
蒼太が鞄から出して来たのは赤いノート。あの文章が書かれている碧理のノートだ。
「あ、これ……」
碧理は思い出す。
蒼太と公園で会った時に忘れてしまったことを。
「中……見たんだ?」
「見た。やっぱり、花木が関わっていたんだね。ここにいる三人同様に僕も知りたい。あの三日間になにがあったのかを。教えて欲しい」
真剣な表情の蒼太に、碧理は困ってしまう。
言えないのは、全て蒼太のためだと喉元まで出かかった。
だけど、皆が集まってしまった。
碧理も覚悟を決める時なのかも知れない。でも、それを伝えなくても良いのならそうしたい。
碧理は流れに任せることにした。
言わなくても良いのなら、このままにしておこうと。全員が傷つかずに済むのだからと。
「……ノートを見たならわかると思うけど、ここにいる五人で『紺碧の洞窟』を目指したの。皆、叶えたい願いがあったから。森里君以外はね。森里君は、私達のことが心配で付いて来てくれた」
碧理は語り出す。
口にしたくない真実を言うために。
碧理が蒼太を見ると真剣に話を聞いている。
その姿を見ていると手が震えて、思わず布団を握り締めた。
「ちょっと待って。私にもそのノートを見せて」
美咲がアイスを置くと、蒼太からノートを渡される。
あの言葉が書いてあるページをじっと見つめると、碧理を見た。
「……うーん。これだけ見てもやっぱり思い出せない。これを書いたのは碧理なの?」
「ううん。洞窟の管理人さん。……私もいつ書いたのか知らないの。管理人さんから教えて貰ったのは、願いが叶うと記憶が一つ失うってことだけ」
そう。願いは叶った。
でも、碧理だけ記憶は残ってしまった。なぜなのか、それは碧理自身もわからない。
「……じゃあ、私達四人が記憶を失ったのは願いを叶えたから?」
美咲の問いに、碧理は強張った顔で頷いた。
ここで嘘を付いても皆はわからない。
大切な人を守る嘘なら許されるのではないかと。
でも、頭とは反対に心はそれを拒否する。すると、自然と言葉になった。
「うん、叶ったの。でもね……願いは、それぞれが思っていたのと違う願いになった。アクシデントが起きて」
「アクシデント?」
四人が碧理を見つめる。
碧理の視線の先には蒼太がいた。
本当にここで真実を伝えてしまって良いのか。それは酷く残酷なことではないのかと、碧理は葛藤する。
知らなくても良い真実があるのではないかと。でも、隠すことは出来なかった。
「あの時、どうしようもなくて、死んだの……死んでしまったの」
辛くて言いたくなくて、泣いてしまった碧理の言葉に四人が衝撃を受けた。
それぞれ顔を見合わせて困惑している。
どうしてなのか。誰が死んだのか。聞きたくても碧理は顔を手で覆ったまま中々顔を上げない。
「花木! 誰が死んだんだよ。どうやって! 誰かに殺されたのか?」
慎吾が興奮気味に声を荒げて立ち上がる。
それにつられるように翠子も立ち上がり、縋るように慎吾の腕を掴んだ。その顔色は蒼白だ。
「ちょっと! 赤谷、落ち着きなさいよ。それに、今、全員生きてるじゃない!」
美咲も立ち上がり、碧理を守るように慎吾の前で仁王立ちになった。
「それは、そうだけど……。花木、誰が死んだんだよ」
美咲の剣幕に驚いた慎吾は、少しだけ冷静になったようで、もう一度碧理を見る。
唇を噛みしめて涙を何度も手で拭っていると、目の前にハンカチが差し出された。
角に小さく白い糸で描かれた猫の刺繍が見える。
それは何回も見ているハンカチで、一昨日は黒色。そして今はネイビーだ。どうやら蒼太はここのブランドが好きらしい。
一人だけ冷静な様子の蒼太は、碧理と目が合うと悲しそうに笑った。
何かを悟ったように。
そして、目尻を下げて口を開いた。
「……死んだのは僕でしょう? じゃなきゃ、あんなに毎日、僕のこと心配そうに見ないよね? ごめんね……花木さん一人にだけ辛い記憶が残ったままで」
その言葉で、更に碧理の瞳から涙が零れた。
それは碧理の、布団を握り締めている手の甲に落ちていく。
「私を庇ったの。本当は、私が死ぬはずだったのに……ごめんなさい。ごめんなさい!」
泣きじゃくり始めた碧理に、蒼太はハンカチを優しく手渡す。
「花木さん。君が死んでいたら僕も同じことをしたよ。そして、記憶が残ったままだったのは僕だったかも知れない。だから……自分を責めるのは止めて。僕は今、生きているから大丈夫だよ」
碧理の手の中で強く握ったハンカチは、さらにしわくちゃになった。
蒼太は自分を責めるなという。
だけど、あの夜を思い出すと、碧理の心は冷静ではいられない。
「……ずっと、森里君を見ていたのは、いつか消えてしまうんじゃないかと思って。その時は、今度は私が助けなきゃって……ごめんなさい」
懺悔を繰り返す碧理に、蒼太は首を何度も振る。
そして、慰めるように頭を撫でた。
すると美咲も傍に来ると座り込み、涙で濡れた碧理の両手を取った。
「……正直に言うと、私じゃなくて森里で良かったって思うの。そのせいで記憶がなくなったのは残念だけど、私は皆が今、生きていて嬉しい。だから記憶をなくしたこと自体は気にしない。だから泣かないで!」
美咲の励ましのような思いがけない言葉に、思わず碧理の涙が止まる。
「……白川、それ酷くない? 死んだ本人目の前にして」
呆れたような蒼太の言葉にも、美咲は動じない。
「あ、ごめん、ごめん。でも、森里も記憶がないのなら、それはそれで良かったって思わない? 覚えていたら精神状態絶対最悪よ。何度も自分が死ぬ瞬間思い出すなんて最悪じゃない」
美咲の言うことも一理あった。
蒼太が死んだ光景を覚えている碧理は、自責の念でこの二カ月間苦しんで、悪夢ばかり見てきた。
それを思えば、記憶がないだけ幸せなのかも知れない。
「おい、お前ら。本当にそんな非常識で非科学的なことを信じるのか? あり得ないだろ? 人が死んで生きかえるとか。俺は信じない。花木の虚言かも知れないだろ」
美咲や蒼太と違って、慎吾は信じていない様子で捲し立てる。それに応戦したのは美咲だった。
「なによ、赤谷。碧理が私達に嘘を付いて何の得があるのよ!」
慎吾に掴みかかる勢いで立ち向う。
「あのな、現実を見ろよ。証拠も何もないんだぞ。俺達の記憶がないことは事実だけど、蒼太が死んだとかあり得ない。しかも、願いで人が生きかえるとか……。なら、大切な人が死んだ家族や恋人は、全員、洞窟で願うだろ? 花木は他に何か隠しているんだよ。それ以外の事実を」
「世の中、不思議なことだって起きてるじゃない。超常現象や心霊現象だって、どう説明するのよ。それに、この赤いノートが赤谷の家にあったことや、私が持っていた指輪だって説明がつかないわ!」
二人がそれぞれ言ったことは全部当たっている。
現実には信じられない奇跡のような体験。それを碧理達は経験したのだ。
本来、願いが叶うのは、その人の努力や奇跡も含まれる。人が生き返る現実は、はっきり言ってありえない。
「――私は信じます。碧理さんを」
美咲と慎吾の言い争いを止めたのは翠子の言葉。
翠子は、碧理の目の前に座り込むとハンカチを自分の鞄から取り出した。
「このハンカチは森里さんの物だったのですね。これは、私の部屋にある、机の引き出しの中から出てきました」
それは、碧理が今、持っているハンカチと同じ物。
ネイビーのハンカチには四つ角の一角に猫の絵が描かれている。
「どうして、翠子さんが持ってるの? 二カ月前に俺が貸したとか?」
蒼太は翠子から受け取ると、まじまじと自分のハンカチを眺めた。
「私が借りたのですか? このハンカチを」
答えを持っていない翠子は碧理を見た。
「……正確には違う。そのハンカチは、私が森里君から借りたの。一日目の夜にカレーを作ろうとして包丁で指を少し切ったんだ。その時、貸して貰ったの。その後、翠子さんが転んで膝を擦りむいたから貸したの。もちろん、森里君から許可貰ったよ」
懐かしそうに碧理は目を細める。
廃校で過ごした、あの夜を。
「――花木さん。提案なんだけど、僕と一緒に当時のルートをまた最初から辿ってみない?」
そう言い出したのは蒼太だ。
思いもよらなかった提案に、碧理は泣きすぎて真っ赤な瞳を蒼太に向ける。