窓の外では球技大会の続きが行われており、生徒たちの声が遠くから聞こえていた。
慣れない手つきで消毒を進める彼にさっきのことを思い出してどうしても感謝を伝えたくなった。


「八神くん、ありがとう。さっき庇ってくれて」

「ん?」

「その、相手チームの男の子に」


私のことを「女の子」だって言ってくれたこと。
彼はなんてことないように手を止めてこちらを見た。


「いや、あれは向こうが悪いよ。どう見ても女子に向かって投げる球じゃなかったし」

「多分私がそのボール取れてたから」

「けどさ、一ノ瀬さんが女の子であることは変わりないわけだし」

「……」

また、言ってくれた。ううん、違う。彼にとってそれは当たり前のことで。
私がずっと諦めていたこと、簡単に口に出来る。

きっと歩んできた道が、違うんだ。


「大丈夫、だから」


絞り出すように出した声が何故か震えていた。


「男の子扱い、慣れてるし」

「……」

「そっちの方が場が収まることもあって」


八神くんと違って、私はいつだって自分を守る為に必死だ。
そうやって気持ちを偽って、どんな言葉を受けても傷付かないように……

そうやって、ずっと……
「前も言ったかもしれないけど、違うなら違うって言った方がいいと思う」

「っ……」

「大丈夫じゃないのに大丈夫って言ってたら、いつか大丈夫じゃないときに自分じゃ気付けないから」


手に持っていた消毒液を床に置くと、彼は真っすぐに私のことを見据えた。


「今ここには俺しかいないし、正直な気持ち話してもいいんだよ」


怖い、この人の有無を言わせない強い瞳が。
どんな言葉も受け止めてくれそうな包容力が。

ずっと奥に秘めていた本音が引きずり出されるような、そんな感覚。

この人と向き合うのが、凄く怖い。

でも、


「ふっ、」


本当に怖いのは、ずっと自分の気持ちに嘘を吐く自分だ。


「怖かった……みんな私ばかり狙ってきて」

「うん」

「香耶や他の女の子は守ってもらえるのに、私はそんなことなくて」


本音を吐露するのと同時に涙が目から溢れ出してきた。嗚咽を上げながら話し続ける私を、彼は優しい目で見守ってくれていた。


「本当は、もっと女の子らしくしたい。でも、昔それで男子にキモイって言われたことがあって」

「っ……」

「それから女の子らしくするの怖くなって」


女々しいところを見られたらそれすら拒絶されてしまうんじゃないかと思っていた。
本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。そして認めてほしかったんだ。
私にだって女の子らしくお洒落をしてもいいってこと。怖いことは怖いと口にしていいこと。

女の子でいることを、認めてほしかった。


「俺は一ノ瀬さんじゃないから完全に気持ちを分かってあげられないけど、でも辛いならやめればいいじゃん」

「でも……」

「それで周りにとやかく言われるんなら俺がソイツ怒るし」

「……なんで八神くんが?」


どうして八神くんは仲良くもないただのクラスメイトの私にここまで優しく接してくれるんだろう。
そんな疑問を投げかけると、彼は当然のことのように言い放った。


「だって友達助けんのは当たり前でしょ」

「とも、だち?」

「あれ、ちょっと馴れ馴れしすぎたか。でもさ、また言い出しづらいことがあったら相談してよ。クラスメイトが困ってるの、見過ごせないし」


あぁ、この人、本当に根っからの善人なんだ。
そのことが分かるなり、私の体から力が抜けていった。


「八神くん、ありがとう」

「うん」

「私、変わりたい」


もう自分を偽って生きたくなんかない。


「一ノ瀬さんなら変われるよ」


彼のその言葉を信じてみたいと思った。
『一ノ瀬さんなら変われるよ』


仲が良いわけでもない。長い時間一緒にいたわけでもない。

だけど八神くんのその言葉を信じてみたいと思った。



球技大会から数日が経って、高校二年最初のテスト期間が近付く。
部活がない休みの日、私は香耶の家に勉強会をしに来ていた。


「由奈ちゃんって運動部だけど頭いいよね。私いつも教えてもらう側だし」

「と言ってもテスト期間に詰め込んでるだけだよ。授業付いていくの大変だし」


香耶の部屋の小さなローテーブルで向かい合いながら問題集を解いていく。分からないところや難しいところは互いに聞き合って解いていく。
途中、休憩と言って香耶のお母さんが運んできてくれたケーキをいただくことになった。

香耶が重い口を開けたのはその時だった。


「あ、あのね、藤堂くんのことなんだけど」

「え?」

「私、結局何もできてないなって思って」


クラスが進級してから意中の人である藤堂くんに対してアプローチを掛けたいと言っていた彼女。
確かに一年の時よりも積極的に話しかけているように見えるがあまり結果には出ていないかもしれない。

それどころか藤堂くんは……


「だからね、テストが終わったらその……デートに誘ってみようかなって」

「で、」


デート!?、と顔を赤らめている彼女を釣られるように私も頬を染めた。
あまり聞き慣れたフレーズじゃないそれにどう反応を示していいか分からない。


「で、でもいいと思う! 頑張って!」

「……それでね、由奈ちゃん」

「ん?」


な、なんか嫌な予感。


「由奈ちゃんも一緒に来てほしいの」

「え、え!?」


予感は的中。香耶の提案に私は苦言を呈した。


「う、うーん。でもそれってデートとは言わないんじゃ」

「でもそもそも遊んだこともないのに急に二人でなんて緊張するよ」

「そう、だけど……」


でも女子二人に男子一人って、藤堂くんもその空間には居づらいのではないだろうか。
あまりいい反応を示さない私に香耶は「じゃ、じゃあ!」と、


「あと一人、誰か誘おう! 男の子!」

「え、男の子苦手じゃ……」

「由奈ちゃんもいるし、藤堂くんも仲良い人で」

「……」


誰だろう、とお互いに顔を見合わせて頭を悩ませる。
と言っても私も仲の良い男子とかクラスにいないし。

暫くしてティーカップに入っていた紅茶の水面を見つめていた香耶がポツリと呟く。


「折角のデートなんだし、由奈ちゃんも好きな人誘う……とか」

「っ……」
視線をこっちに向けた彼女が興味ありげに尋ねてくる。


「由奈ちゃん、好きな人いる?」

「え、」

「気になる人、とかは?」


いつも香耶の好きな人の話はよく聞くけど、こうして私について尋ねられるのは初めてだった。
というよりも私が無意識でその話題を避けていたことを彼女は察していたのかもしれない。

好きな人、と言われると今までは曖昧なことしか思い浮かばなかった。

だけど今は……


「……」


黙っていることも出来ると思う。だけど自分の好きな人について赤裸々に話してくれる香耶相手にはフェアじゃない気もする。
だけど彼のことを話すとなると今まで私が内に秘めていた本音も話すことになる。

こちらを見つめて首を傾げてくる香耶に私を意を決する。


「実は……」


私は球技大会の日に保健室であった出来事を切り出した。




「そっか、八神くんとそんなことが……」


ケーキを食べ終わった彼女は「え!?」と声を上げる。


「じゃあ由奈ちゃんの好きな人って八神くんなの!?」

「えっ……」


彼女の驚きに私も驚愕する。
「違うよ、好きって言うか、気になるだよ!」

「そっか、気になるか」


そっか、と落ち着きを取り戻した彼女は徐々に複雑な表情を浮かべ始めた。
そういえば香耶は八神くんのことが苦手だって言っていたかもしれない。

そんな香耶に八神くんとのことを話すのは駄目だったかな。


「でも由奈ちゃんが言うなら、八神くんはいい人なのかもね」

「香耶……」

「分かった、じゃあ八神くんも誘おう!」


八神くんも誘うか、きっとあの人ならどこでも誰とでも楽しく遊びそうだ。
あと藤堂くんとも仲良さそうだし、上手く場も盛り上げてくれそう。

でも、と私たちはここで一つの課題にぶつかることとなる。


「ど、どうやって誘おう……」

「……」


藤堂くんも八神くんも誘うのは気恥ずかしいような。
すると香耶がまた困ったような表情でこちらを見つめてくるのでぐっと息が詰まる思いがした。

また嫌な予感がする。


「由奈ちゃん、お願いがあるの」


ケーキのような甘い声が耳に纏わりついた。



結局香耶のお願いを断ることが出来ず、私は藤堂くんを、彼女は八神くんを誘うことに。
どうして逆なのかと言うと香耶は八神くんに何か話したいことがあるらしい。

でも藤堂くんを誘うのって結構ハードルが高いな。

遂にテスト本番も明日に迫り、デートを誘う期限が近付いてきた。
今日中には何とかしてでも藤堂くんをデートに誘わないと。


「ゴミ捨ててくるねー」

「一ノ瀬さん大丈夫? 俺らも行くけど」

「ううん、自販機寄るついでだし」


放課後、教室の掃除を済ませるとゴム袋を持って廊下に出る。
途中クラスの男子からの好意をやんわりと断ると校舎の外にあるごみ捨て場へ向かう。

あの球技大会から少しだけ私に対するクラスメイトの反応が変わったように思える。
何か、と問われれば答えづらいのだが、それでも私を見る目が少し柔らかくなった気がする。

それもこれも、八神くんのお陰なのかな。

と、


「一ノ瀬さんもゴミ捨て?」

「あ、」


昇降口に着くと丁度居合わせた藤堂くんに声を掛けられた。
その手には私と同じようにゴミ袋が提げられていた。


「藤堂くんも掃除?」

「そう、化学室の。良かったらついでに捨てに行くよ」

「い、いいよ。ここまで降りてきたし」


すると彼は「そっか」と納得すると整った表情を綻ばせた。


「じゃあ一緒に行こうか」
テスト期間ということもあって放課後に残っている生徒は少なかった。
前を歩く藤堂くんの背中を眺めながらゴミ捨て場までの道をトボトボと歩く。

彼の細い黒髪が日光に反射して輝いている。

言うなら、このタイミングだよね。
私は周りに人がいないのを確認するとそんな白シャツの背中に声を投げた。


「藤堂くん」

「ん?」

「っ……」


声に彼が振り返ったのと同時に苦い記憶がフラッシュバックした。
あぁ、そうだ。この場所は"あの時"の……

だけど香耶との約束だから、言うしかない。


「テストが終わった次の日曜日、予定空いてないかな」

「予定? どうして?」

「……よかったら一緒にボーリングしにいかない?」


あの日香耶と話し合って決めたデートの目的であるボーリングについて伝える。
すると徐々に彼の表情が意外そうなものに変化していく。


「テストも終わるし、気晴らしにどうかなーって。あ、部活あるなら」

「行く」

「へ?」

「行く、行きたい」


言葉の途中で食い気味に返事をした彼に目を丸くした。
そして、


「嬉しい、一ノ瀬さんが誘ってくれて」

「っ……」


とんでもない勘違いをさせているのだと気付いた。