恋する金曜日のおつまみごはん~心ときめく三色餃子~

「し、塩見くん。連絡先の話なんだけど、断ったよ?」

 そう伝えると、塩見くんはぽかんと口を開けた。鳩が豆鉄砲くらったようなこの表情は、ちょっと貴重かも。

「え?」
「だから。その人に連絡先、教えてないってば」

 塩見くんの顔が、さっと赤くなったように見えた。

「あの、すみません。さっきの言葉は忘れてもらえませんか」

 横を向いて、腕で自分の顔を隠しているから、塩見くんの表情がわからない。

「え、なんで? ていうか、さっきのって、どれ?」
「……もう、いいです。ほら、グラスあいてますよ」

 顏を背けたまま、器用にシャンパンを注いでくれる。

「あ、ありがと」

 なんだか、うまくごまかされたような気がするけれど、これ以上突っ込むと私の心臓のほうがもたなそうだ。

 ぎこちない空気の中、お互いがクラッカーを食べるサクサクという音だけが響く。
 ドキドキしているせいか酔いが回ってきて、ふわふわした気持ちで塩見くんを見ていた。

 他愛無い褒め言葉がこんなにうれしく感じる、この感情はなんなのか。知りたいような、知るのが怖いような。
 軽口のシャンパンを、知らず知らずのうちに杯を重ねていたことに、トイレに行きたくなって気づいた。足を組み直して、もじもじと動かす。
 男性の家で借りるのは恥ずかしいが、いったん家に帰るのも不自然だ。背に腹は代えられまい。

「あの……、お手洗い借りてもいい?」
「もちろん、どうぞ」

 腰を上げながら尋ねると、爽やかに返されてホッとする。

「ありがとう。……あっ」

 酔ったせいで足がもつれて、立ち上がった瞬間にふらつく。このままじゃ、転ぶかテーブルに激突する――と思った瞬間、私はあたたかくてがっしりした胸にすっぽり収まっていた。

「えっ、あっ……」
「――危なかった」

 鼻先ゼロ距離で、塩見くんの香りがする。不意打ちだったのに、塩見くんの立ち姿はまったく軸がぶれなくて、『意外と力があるのね』と感じている自分がいた。

 胸板や腕の筋肉質な感触にドキドキしているのに、守られている安心感がある。
「ご、ごめんなさい」

 ぱっと身体を離したとき、名残惜しく感じてしまったのはなぜだろう。抱き締められてこんな気持ちになること、今までの彼氏にだってなかった。媚薬をかいだみたいに頭がくらくらしている。

「いえ。大丈夫ですか? ふらつくようなら支えていきますが」
「だ、大丈夫! ひとりで行けるから!」
「でも、顔も赤いですし」

 それは酔ってるせいじゃなくてあなたのせいです、なんて言えずに、「とにかく大丈夫!」と叫んで扉のむこうに小走りで向かう。

 リビングにつながる扉を閉めたあと、その場にずるずると座り込む。

「なにこれ……。反則でしょ……」

 こんなの、干物女には刺激が強すぎる。

「心臓、おさまるかな……」

 リビングに戻ったら、私は普通の顔をしていられるだろうか。

 ほてった顏をぱたぱたと手であおぐ。早く戻らなきゃと思うのに、塩見くんの腕にすっぽり包まれる感触が、なかなか消えてくれなかった。
 秋は食べものが一年で一番おいしい季節だ。サンマの塩焼き、秋鮭のちゃんちゃん焼き、栗ごはん、デザートにはかぼちゃのプリン。

 これらは全部、秋になってから塩見くんの家で食べたおつまみごはんだ。夏場は食欲がなかったぶん、解禁された胃袋がおいしいおつまみを求めて唸り声をあげている。最近、自分の食欲にそんな恐れを抱いている。

「先輩、もしかして少し太りました?」

 シフォンブラウスの上にツイードのジャケットを羽織って、ワイドパンツで出勤したら、デスクに荷物を置いた途端に久保田が目を光らせた。

「うっ」

 最近身体のラインを拾わない服ばかり着ているのを気づかれたのだろうか。それともこのワイドパンツの後ろ部分がゴム仕様だから?

「わ、わかる?」
「あ、やっぱりそうなんですか? なんとなく顏が前より丸いかな~って思ったくらいでした。でも、先輩今までが痩せすぎだったんだから、少しは太ったほうがいいと思いますよ」
「そ、そう? でも最近、スカートとかブラとかきつくなってきて……」

 私がウエストのお肉をつまみながらぼやくと、久保田は「うう~ん」と唸った。
「それはちょっと、気を抜きすぎかもですね……。もうすぐ社員旅行なんだから気合い入れなきゃ!」

 そうだった。うちの会社は部署ごとにいくつかのグループに分かれて、時期をずらして社員旅行に行くのが恒例だ。

 行き先は、今年は熱海。女性が中心の化粧品会社らしく、女子旅っぽいコースを巡ることが多いうちの会社。熱海は最近、若い人にも人気ということで選ばれたらしい。温泉も料理も有名な旅館に泊まるとのことで、どちらも楽しみだ。静岡と言えば、海産物やシラス、桜エビ、お茶も有名だし。

 そして温泉ということは、女子社員たちとは裸の付き合いをするということで……。たるんだ身体は見せたくないというのが女心だ。ふだんよりもちょっとかわいい下着をつけていくのも、旅行あるあるだろう。

「旅行まで、筋トレに力入れることにするわ。毎日腹筋とスクワットを百回ずつこなせば、なんとか戻せるでしょ」
「先輩って意外と体育会系だったんですね……」

 まあ、トレーニングをサボっていても、男性を背負い投げできるくらいには。
「そうそう、今年のグループ分けは、営業部と一緒になったみたいですよ。あそこはメンズ多いから潤いますね~!」

 きらきらと瞳を輝かせた久保田の言葉に、口が「え」の形で固まった。

 営業部と合同。その可能性だってあるはずなのに、失念していた。旅館で宴会もあるだろうし、お風呂あがりの浴衣姿を、見たり見られたりする可能性があるということも。

 ……いや、同じアパートの隣の部屋に住んでいて、今さらなにを恥ずかしがっているのだ。すっぴんだって見せているのに。

「なに着て行こうかな~。あとでコーディネートの相談、乗ってくださいね!」
「あ、うん。もちろん。私もお願い……」

 社員旅行がこんなに楽しみなことも、少しだけ不安なことも初めてで、自分の気持ちに戸惑う。そしてその気持ちの中心に、塩見くんがいることも。

 顔は合わせないにしても毎日同じ会社に出勤して、週に一度は会っているのに、どうして社員旅行は『特別』だと感じるんだろう。

 大昔、初めて彼氏と旅行に行ったときも同じような気持ちになった気がするけれど、今ではもう、それがどんな理由だったか思い出せなくなっていた。
 * * *

「重い……」

 両腕にうず高く積まれたファイル。前もろくに見えずふらふら歩いている私を、非難と憐みの混ざった目で見ながら廊下を行き交う人が避けていく。

 資料室にファイルを戻すのを、一回で済まそうと思ったのが間違いだった。というかそもそも、誰かに『手伝って』とひと声かければよかったんだけど、私は自分の仕事を誰かに頼むのが苦手だ。というか、仕事に限らず人に頼るのがものすごく苦手なのだ。頼まれるのは得意なのに皮肉なものだ。

 自分にかわいげがないせいで、『手伝ってくれるわよね?』と訊いてもほぼ脅迫になるのでは、という心配もある。

 ふだんから、まわりの人や男性を頼りにできる女子っぽい性格だったらよかったのだけど、自分のこの女子力のなさも干物女たるゆえんなのだろう。

 ため息をついていったん足を止めたとき、急に腕がふわっと軽くなる。

「先輩、大丈夫ですか?」

 聞き覚えのある声がして顔を上げると、驚いた表情の塩見くんが目の前にいた。私の持っていたファイルのほとんどを引き取ってくれている。

「びっくりしました。廊下のむこうから資料の山を抱えた女の人が歩いてくると思ったら、先輩だったんですから」

 気づけば、営業部のあるフロアの近くまで来ていたみたいだ。
「重かったでしょう。手伝いますよ。資料室でいいんですよね」
「え、大丈夫よ。塩見くんだって自分の仕事があるでしょう。私ほら、力持ちだから」

 力こぶを作りながら断ると、呆れた顔でため息をつかれた。

「そんな細い腕でなに言ってるんですか。こういう時くらい、男を頼ってくださいよ」

 そう言いながら塩見くんの足は動き出しているので、私もあわててあとを追う。

「……ありがとう」

 塩見くんの横に並ぶと、腕まくりしたシャツの袖から、血管の浮いた腕が見えた。さっきの私と同じくらいの量を持っているのに、ふらついていないし、顔も隠れていない。

 姿勢よく歩く塩見くんの隣で、ほんの少しの資料を抱えていると、急に自分がか弱い女子になったみたいで――胸の奥がふわふわ、そわそわしてきた。

「みんな、この状態の私を見て避けていったんだけど。声をかけてくれたの、塩見くんだけよ。普段からこんなに優しいの?」
「優しいわけじゃないですよ。重いものを持っている人がいたら助けるのが当たり前じゃないですか。若い男が役に立てることなんて、そのくらいですし」

 照れ隠しに吐いた言葉を真摯に返されて、ドキッとする。
 塩見くんの優しさって、女性らしい細やかさだと思っていたけど、違ったんだ。ぶれない男らしさがあるから、だれにでも優しくできるんだ。

「先輩? どうしたんですか?」
「……ううん、なんでもない」

 女だからと舐められないように仕事をしてきたのに、無条件に助けてもらえることがこんなにうれしいだなんて。塩見くんの横顔が、いつもより頼もしく見える。

「そういえば、社員旅行の話、聞きました? 今年は営業部と企画部が合同みたいですよ」

 資料室の扉を押さえてもらいながら、私も今日知ったばかりの情報を塩見くんの口から聞く。

「ああ、うん。楽しみね」
「地酒もおいしいみたいですよ。先輩、飲みすぎないように気をつけてくださいね」
「わかってるわよ。職場の旅行なんだから、そこまで羽目は外しません」

 上司がいる宴会なんだから、お酌に気を取られて自分が酔うまでいかないだろう。

 そうやって油断しているときにこそ、お酒の失敗はやってくるものだって、このときの私はすっかり忘れていた。