さて、重要なのはここからである。せっかく付き合い始めたのに、彼女の前で上手に振る舞えず超特急でブレイクアップでは元も子もない。肝心なのはこれから先、末永く二人の関係を維持していくことなのだ。めでたしめでたしで物語が終わるのは、日本昔ばなしだけで十分だ。
 消極的な性格のT氏からしてみれば、彼女がぐいぐい引っ張っていってくれそうな性格であるのは、非常にありがたいことである。ただ、そのことは同時に、彼女の提案に対して、T氏はほぼ無条件に賛同しなければならないことを意味するのである。魅力的なデートプランを練るということが不得手なT氏にとって、拒否権は事実上皆無なのである。
「あなた、身体を動かすのは好きかしら?」
 昨日の彼女の言葉がT氏の脳裏を掠める。勢いで好きだと答えたものの、実際のT氏は、高校生の頃以来、まともに運動していない。今この状態で、ハイキングや登山なんかに誘われたら、一環の終わりである。
 いつデートに誘われてもいいように、T氏は体力づくりを始めることを決意した。かといって、いきなりジョギングなんかを始めたところで、続かないのは目に見えている。何を始めるべきか思案した結果、T氏が導き出した答えは、自転車であった。
 通勤手段を、電車から自転車へ変えるのである。自宅から勤務地まで約6㎞、通えない距離ではない。高校生の頃は、それよりももう少し長い距離を毎日往復していたのだから、その頃よりも体力が落ちているとはいえ、不可能ではないだろう。性能の良い自転車なら、体力の低下分もしっかり補ってくれるはずだ。そう、今は性能の良いものを買うだけの金があるのだ、卵を割って稼いだ金が。
 T氏は外出着に着替えると、街の自転車屋へと向かった。
 店に入ると、すぐさまスポーツタイプの自転車が置いてある売り場がT氏の目に飛び込んだ。
 ママチャリしか乗ったことのなかったT氏は、スポーツタイプの自転車の種類の豊富さにまず驚いた。フレームのデザインもさることながら、タイヤも細いタイプや太いタイプのものがあったり、ハンドルにカラフルなテープが巻いてあるものがあったりと、見ている分には新鮮で楽しかったが、いざ自分が乗るとなると、どれを選んだらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。腕を組んだまま自転車を眺めていたT氏に、店員が声をかけてきた。
「どういったものをお探しですか?」
「つ、通勤用に、少しいいものを探していて……」
 T氏はまごつきながら答えた。その挙動不審なさまは、いつまで経っても結果が出せない盗人のようであった。
「スポーツタイプのものは初めてですか?」
 聞くまでもなさそうなことを店員が丁寧に聞いた。
「はい、ママチャリしか乗ったことがなくて……」
「でしたら、こちらのモデルがオススメですよ」
 そう言って店員がすすめてくれたのは、黒いフレームでタイヤが少し太めのモデルであった。店員曰く、フレームはアルミ製で、軽量なのだとか。ギアは前後二箇所についており、細かいギアチェンジが可能である。クロスバイクという自転車に分類されるらしい。
 価格は五万円。T氏が学生時代に乗っていたママチャリに比べればうんと値は張るが、これから先、長く乗り続けることを考えると、それほど高い買い物でもあるまい。通勤で電車賃を払わなくてよくなるのだから、すぐに元は取れるだろうと踏んだT氏は、その自転車を購入した。そのまま家まで乗って帰ることにした。
 始めはギアチェンジに少し戸惑ったが、すぐに慣れた。風を切って進む感じが気持ち良い。なるほど、確かに軽くて速い、後は前傾姿勢にさえ慣れてしまえば、もっと快適に走れるだろうとT氏は思った。明日からの通勤が非常に楽しみなT氏であった。

 翌日、天気は雨であった。外を見ずともわかるほどの大雨であった。合羽を着て行くなんて嫌だ、新品の自転車をいきなり濡らすなんて嫌だと思ったT氏は、これまで通り、電車で通勤することにした。
 各々のキャパシティをとっくに超えた水たまりたちが氾濫し互いに混じり合ったその上を、T氏の長靴がピチャピチャと音を立てては、大雨の中力強く佇む道路脇の雑草のように毅然と水を弾きながら通過する。雨ニモマケズ、文句一つ言わず通勤する僕は何て立派な労働者なんだろうと、T氏は我ながら感心した。
 駅に着き、電車に乗り込んだT氏は、明日こそは自転車で通勤するのだと決意を新たにした後、自転車に乗る自分の姿を思い描きながら車内での時間を過ごした。
 その翌日、T氏の気分のように不安定な状態の大気がもたらした秋雨前線は、今度は猛烈な嵐を発生させた。T氏は外の様子を見に玄関の扉を開けた瞬間、強風に煽られた。
 リビングに戻りテレビをつけたT氏は、「不要不急の外出は、お控えくださーーい!」とマイクを抱えたまま今にも飛んでいきそうな女性アナウンサーが映し出された画面の右脇に表示されたテロップで、本日の列車の運休を確認した。
 T氏はすぐさま上司にメールを打った。
「電車が止まっちゃってるんですけど」
 数分後、返信があった。
「今日は割らなくても大丈夫」
 この返信を以て、この日はまる一日休日となることが決定した。
 一日休んだ次の日の朝、目覚めたばかりのT氏に、雨や風の音は聞こえてこず、やかましいのは目覚し時計の音だけであった。部屋の窓を開け、外の様子を確認したT氏は、今日こそは自転車で行けると確信した。
 身支度を済まし、リュックを背負ってT氏は玄関を出た。そして自転車を門の外へ運び出し、ついにT氏はそれに跨った。いよいよT氏の自転車通勤デビューである。
 出だしはスムーズであった。所々残った水たまりを避けながらT氏は進んでいった。
 川沿いの道に出た。なぎ倒された長く伸びた草がせり出しまあまあ険しくなった道を、秋の朗らかな晴天に励まされながら、T氏は自転車とともに軽やかに進んでいった。むき出しの腕に草が当たり、ちょっと痛い。でも長袖だったら、ちょっと暑い。かいなし。
 川沿いを逸れると、T氏は山のほうへと続く道を走り始めた。しばらく行くと、右側の少し離れたところにいつも降りる駅が見えた。駅から歩く時間を考慮すれば、自転車のほうが早く着きそうだな、とT氏は思った。
 職場までの最後の200メートルは登り坂である。五万円もした自転車だから楽に登れるだろうと、T氏は大いなる期待とともに坂に挑んだ。
 ところがいざ登り始めると、どうもスムーズにいかなかった。立ち漕ぎをしようにも上手くタイミングが取れないし、座ったままペダルを回しても、ギアが軽すぎるのか、なかなか前に進まない。半分ほど登ったところで、T氏はバテてしまった。結局最後まで登り切れず、残りは自転車を押しながら歩いた。
 その日の帰り、T氏は本屋に立寄った。自転車関連の雑誌をめくっていくと、案外簡単に見つかった、効率良く自転車を走らせる方法。
 それによると、上半身をリラックスさせ、ハンドルに体重をかけないようにするのがポイントらしい。他には、体幹を意識して漕ぐようにすると効率良く走れる、と書いてある。家で体幹トレーニング、うん、きっとやるまい、とT氏は思った。

 毎日自転車で通勤しているうちに、T氏は徐々にコツを掴んできたようだ。坂を登るときのちょうどいいギアもわかってきた。ハンドルに体重を乗せないように意識して走ると、当初感じていた肩や腕の疲れも、ほとんど感じないようになった。始めて二週間も経たないうちに、T氏は職場までの最後の坂を、自転車を降りずに登り切れるようになっていた。心なしか、腹周りの贅肉も少し落ちたようだ。