四月下旬のある日、T氏と彼女は、とあるスーツ屋にいた。スーツといっても、ビジネススーツを売っている店でもなければ、ガンダムのモビルスーツの類のものを売っている店でもない。二人がいるのは、「ウェットスーツ」を売っている店である。
 T氏の予感は正しかった。やはりトライアスロン、やるらしい。七月にある大会の参加費を、既に彼女が二人分払ってしまったらしいので、T氏はもう逃げたくても逃げられないのだ。
 トライアスロンの第一種目であるスイムでは、このウェットスーツというものを着用するらしい。海を泳ぐ際にこれを着用することで浮力が得られるため、安全面という観点から着用が義務付けられているようである。
 店にあるウェットスーツを見回したT氏であるが、その値段に驚いた。一番安いものでも二万円で、中には八万を超えるようなものもある。
「結構な値段するんですね……」
 T氏が店主に向かって言った。
「初心者の方はそう思われるかもしれませんが、一度買ってしまえば長く使い続けることができますよ。ですから良いものを選ばれることをオススメします」
 店主は笑顔で言った。二万円のでいいや、とT氏は思った。
 更衣室から腕と脚の部分にピンクと白のラインが入ったウェットスーツを着た彼女が出てきた。
「すごくフィットする。私が着るために作られたんじゃないかっていうくらい。私これにするわ!」
 彼女は上機嫌だった。
「相性の良いものに出会われて、お客様幸運ですね。うん、すごくお似合いですよ」
 店主が笑顔で答えた。
「じゃあ僕はこれで」
 T氏が二万円のスーツを指差した。
「何よこの全身真っ黒で地味なの、センスない。あなたがサイクリングのときいつも着ているあのダサイクルジャージと同じじゃないの!」
 彼女が痛烈に非難した。
「作った人に謝れ! スーツとジャージ両方の」
 T氏は言い返した。
「この胴の部分が青いスーツにしなさい。海の男って感じで似合うわよ、きっと」
「海の男かぁ……」
 一〇秒ほど熟考した後、T氏は八万円払って海の男になることを決めた。

「くそ、また周回遅れか」
 これで二度目である。彼女との差は800m開いたことになる。
 T氏と彼女は今、一周400mのとある陸上競技場走っている。実際のトライアスロンの最終種目であるラン10㎞を、正確な距離が把握できる場所で走っておきたいと彼女が提案したからである。
 10㎞というと、400mのトラック25周分である。25周という数字を彼女から聞かされるや否や、T氏は目眩がした。中学校の部活動なんかで時折見られる、「罰としてグラウンド○周走れ」という顧問による理不尽な命令の相場はおおよそ10周くらいであることを考慮すると、今日走るのはその二・五倍もあるのだから、T氏がそのような反応を見せるのは無理もない。
 T氏は自分がこれまで何周走ったのか、正確には把握していなかった。多分10周以上はとうに走ったような気がしていた。走り始めてしばらくは律儀に周回数をカウントしていたT氏であったが、彼女が走り終えた時点での自分の周回遅れ分さえ把握していればいいのだ、という素晴らしいアイデアを一度目の周回遅れの際に思いついてからは、カウントするのを放棄したのである。
 この日のT氏は絶不調であった。「豚肉に豊富に含まれるビタミンB1は、炭水化物をエネルギーに変える手助けをする」という彼女から授かった栄養学の知識に基づき、前日の仕事帰りに豚骨ラーメン屋に寄り、おまけに替え玉までしたというのに、このざまである。とにかく身体が重い。
 いくら炙ったところで絶対に美味しくならないT氏の身体をも、太陽は容赦なく炙り続ける。日光を浴び続けたことにより、T氏の体内には新たなビタミン、Dが生成される。T氏の身体はますます重くなる。おそらくT氏とビタミンの相性は、悪い。
 ネズミみたいに同じ所ぐるぐる回って何が面白いんだ、どうせ同じネズミなら、こんなところでドブネズミに扮するよりも、ディズニーランドにいる愉快なネズミキャラになりたい、とT氏は思った――炎天下の中あの被り物に収まって動き回るの大変なんだぞ、と彼らは言うかもしれないが、人気者になれる上に、金までもらえるんだからいいじゃないか。僕が汗だくになりながら走ったって、金なんて誰もくれやしないんだぞ。
 ドブネズミの脇を、その飼い主が颯爽と駆け抜けた。これでもう三度目である。
 彼女が走るのを止めた。彼女は25周走り終えたようだ。ということは、T氏はスタート地点まで走った後、もう3周すればゴールである。
 ここにきてT氏の身体は、ようやく少し軽くなった。終わりが見えたことで、T氏のやる気が上がったようだ。残り3周、大した距離ではない。T氏はもう既に22周も走っているのだ。
 残り2周になった。彼女が「無理しないでいいのよ」と声をかけた。無理も何も、ここまできて止める馬鹿がどこにいるんだ、とT氏は思った。
 残り1周、ラストスパート。T氏はさらにペースを上げた。
 ついにゴールした。T氏の心は、達成感で満ち溢れた。
 スポーツドリンクをT氏に渡しながら、彼女が言った。
「練習だと思って少し多めに走ったけど、まさかあなたも同じ距離走るとは思わなかったわ」
 T氏は理解するのに数秒要した後
「と、当然じゃないか」
 と振り絞るように言った。やはりちゃんと数えていりゃあよかったと、T氏は後悔した。

 五月中旬のある日、T氏と彼女はとあるバイク屋にいた。この日T氏が買わされようとしているのは、ロードバイクといういわゆる競技用の自転車である。どうやらT氏が普段乗っているクロスバイクでは、今度の大会には出場できないらしい。
 T氏はこの店に置いてある中で最も安い、それでも十万円もするアルミ製のロードバイクがいいんじゃないかと思っている。にもかかわらず、店主はしきりに二十万円もするカーボン製のロードバイクを薦めてくる。さらに厄介なことに、彼女までもが店主の味方である。
 だが、今日のT氏は気合が入っていた。今日こそは自分の意思を貫き通すのだと燃えていた。何でもかんでも多数決で決着をつけようとするのが民主主義の正しいあり方だと思ったら大間違いだ! 時には少数派の意見だって聞いてくれなくっちゃあ困る! とT氏は心の中で叫んだ。
 先手必勝! と言わんばかりに、まずT氏が口を開いた。
「こないだ黒はダサいと言っていたのに、何で今になって黒いフレームを推してくるんだ、おかしいだろ、まるで一貫性がない」
「全ての黒が駄目だなんて言ってないわよ」
 彼女が応援する。
「黒は黒じゃないか、白黒はっきりしない奴だな」
「あなたが持っているあの黒いジャージみたいにまるで無個性で、とりあえず安かったから買いました感が滲み出ているような黒がダサいって言っているのよ」
「じゃあ君が推しているこの黒いフレームのロードバイクは、どうダサくないのか説明してよ」
”Made in Germany”
「日本人としての誇りはないのか」
「質実剛健なドイツ人らしいシックで高級感溢れるデザインは、日本の職人のメンタリティにも通ずるところがあるわ」
「病人めいたデザインがいいというのかい」「そのシックじゃないわよ!」
 ここでもう一人の敵が口を挟む。
「見た目もさることながら、コストパフォーマンスという点でも、初心者の方が乗るのには素晴らしい一台です。レースに出るというのならなおさらです。ガタガタするような路面でも、カーボンフレームが衝撃を和らげてくれるため、長時間乗っても疲れにくいですし、フレームが軽いので、上り坂もスイスイ登れますよ」
「デザインも良くて走行性能まで優れているなんて最高じゃない」
「そうかぁ……」
 T氏の当初抱いていた意志が揺らぎ始める。だが、自転車に二十万円というのが、どうも引っかかる……。
「持ってみれば、重さの違いはよくわかりますよ」
 T氏は店主に促され、十万円のアルミフレームのロードバイクを持ち上げた。これでもT氏が持っているクロスバイクに比べれば、十分軽かった。
 次に二十万円のカーボンフレームの方を持ち上げた。予期していた通り軽かった。あれほど薦めておいてアルミフレームより重かったら、人間不信になっていただろう。
「ね、軽いでしょう⁉」
 店主は意気揚々と言った。
「そうですね……でも、軽い分壊れやすかったりしないですか」
「軽い上に耐久性も優れているのが、カーボンフレームの特性なんですよ」
 店主が笑顔で言った。彼女が口を挟む。
「軽いから壊れやすいなんて、あなたって本当に短絡的ね。軽くて丈夫な素材なんて、世の中見渡せばいっぱいあるわよ。人間だってそうじゃない、痩せている人の膝と太っている人の膝はどっちが壊れやすいかってことよ」
「それは強引な説明だな、その理論でいくと、脳みその軽い人の方が認知症になりにくいということになるよ」
「認知症になるような年齢まで長生きしているってことじゃないの」
「ああ言えばこう言う」
「お互い様よ!」
「まあまあ」
 店主がふたりをなだめる。こういうバカップル相手でも、笑顔で接客しなければならないのだから大変である。
「お客さんは背が高くて腕も長いから、普通の人が乗るよりもかっこよく乗りこなせると思いますよ」
 お世辞まで言わなければならないのだ。
「ヨーロッパ製のロードバイクを、日本人の僕がかっこよく乗りこなす……」
 T氏が黒い眼を輝かせる。
「残念なことに、体格や雰囲気が合わなくてかっこよく乗りこなせない方もおられるんです。バイクも乗る人を選ぶと言いますか、そういった方には別のロードバイクをお薦めするのですが、お客さんの場合、きっとこのロードバイクが似合います!」
「わかりました、僕、このロードバイク買います!」
 T氏はロードバイクに選ばれた男としての、「かっこよく乗りこなす」という使命を果たすのだと決意した。
「ありがとうございます!」
 こうも簡単に言いくるめられるT氏に、もう一つ上のグレードにあたる三十万円のバイクを売りつけようとしない辺り、この店主は聖人君子である。いや、単に、この男には三十万円の支払い能力はないだろうと判断しただけなのかもしれない。
「ヘルメットはどうされますか?」
 T氏が今回、ロードバイクよりも買いたがっていたものである。彼女の原付用のヘルメットとは、一刻も早くおさらばしたかったのだ。
「君が選んでよ、僕に似合いそうなやつを」
 T氏は彼女に言った。どうせ言いくるめられるのだから、最初から戦わないに越したことはない。猫が虎に挑んで勝てるのは、プロ野球の世界だけだ。
「夏にある大会だから、この通気性が良さそうなのがいいんじゃない」
「じゃあこれにするよ」
 赤と白が入り混じったそのヘルメットの値段は、三万五千円であった。
「それとバイク用のシューズですが……」
 まだ買わなければならないものがあるらしい。
「トライアスロンに出られるのなら、簡単に脱ぎ履きできるこのタイプがオススメです」
 店主がT氏に見せたシューズは、マジックテープのベルト一つで足首周りを固定するタイプのものであった。「簡単に脱ぎ履きできる」という点が、T氏は大変気に入った。一万五千円。
 その他、夏用のサイクルジャージは彼女が買ってくれた。
 この日T氏が支払った額は、計二十五万円+税であった。
「トライアスロンは努力次第で誰にでも完走できる」
 T氏が彼女の家で選んだ、初心者向けのトライアスロン雑誌には、こう書かれていた。確かにその通りなのかもしれないが、一つ重要な文言が抜けていると、今日T氏はまざまざと実感した。
「金があれば」
 金がない者は完走はおろか、スタートラインにすら立てないのだ。
 いや、ひょっとすると「努力次第で」という文言には、「努力して金を稼ぐ」という意味も含まれているのか。もしこのことを著者に問うたら、意図しているいないにかかわらず、「そうに決まっているじゃないか」と答えるだろうとT氏は思った。ちょうど、「あのホームランは狙っていたんですか」と聞かれたプロ野球選手が、「もちろんそうだ」と自信満々に答えるかのごとく……。
 この日彼女とT氏の部屋には、白と黒の2台のロードバイクが並んだ。