「着替えたか、おお、Tくん、なかなか似合うじゃないか」
「は、はい、どうも」
「髪の横の部分が少しはみ出ているから、帽子の中に入れてしまって」
 T氏は言われた通りに、はみ出ている髪を帽子の中にしまい込んだ。
「オッケー、完璧だね、あと、爪は切ってきたか?」
 T氏は手をパーの形にして店長に見せる。
「うん、しっかり切ってるね、初日から気合い十分だね」
 T氏の緊張が少しほぐれた。
「では、初日はオリエンテーションということで、店の中を紹介して回るから、私についてきて」
 T氏は店長の後をつけた。
「まず最初に、事務所を出てすぐのこの手洗い場で、しっかり手を洗うこと」
 店長が洗っている様子を、T氏がぼーっと眺める。
「洗い終わったら上にあるペーパータオルで拭く。拭いたらそこのゴミ箱に捨てる。そしてアルコール消毒。はい、次は君の番」
 T氏が蛇口をひねり、手を洗い始める。洗い終わり、蛇口の水を止める。
「Tくん、私の洗い方、ちゃんと見てたか?」
「み、見てはいたんですが、その……」
 T氏がしどろもどろに答える。
「もう1度やるから、しっかり見るんだよ」「はい」
 T氏は集中力を高めた。
「さっと表面だけ洗うんじゃなくて、指の間や手首もしっかりと、爪先も……それから洗い流す、この洗い流すところも、しっかりやるんだよ」
「わかりました」
「じゃあ、次はしっかりやって」
「はい」
 T氏は再び洗い始めた。今度は言われた通り、正しい手順で……。
「うん、そのやり方で大丈夫。じゃ店の中見て回るよ。はい、後ろ振り返って」
 言われたままT氏が振り向くと、大きな扉があった。
「ここが冷蔵庫ね」
 店長が扉をぐっと引いた。中には段ボールに詰まったキャベツやトマトなどの野菜の他、何に使うのかわからない食材が、ぎっしり詰まっていた。
 続いてT氏は、冷凍庫や、常温の食材を保存する倉庫を案内された。大量にある各々の食材が、いったいどう組み合わさってこの店の料理となるのか、T氏には全く以て想像ができなかった。どう考えても自分にはできそうにない、とT氏は思った。
 店長が別の場所に移動し始める。T氏もそれに続く。
「ここが食器を洗う所。奥が食洗機で、手前側は食器を漬け込むシンク」
 シンクの周りには、水に漬け切れなかった大量の食器が、黄色いボックスの中に溜まっていた。これをその日のうちに洗ってしまうなんて、正気じゃない、とT氏は思った。
 店長が見本を示す。
「シンクの中の食器を取って、軽くスポンジで汚れを落とし、ラックに立てかける。ラックがいっぱいになったら、レバーを下ろす」
 食洗機がシャーっと音を立てる。
「じゃあ次は君がやって。機械が洗ってくれている間に、別のラックに食器をどんどん立てかけていって」
 T氏が四角いラックに食器を立てかけているうちに、機械の音が止む。店長がレバーを上に持ち上げ、洗い上がった食器をラックごと、機械に併設した台の上にスライドさせる。
「これで洗い上がり」
「え、もう?」
 洗い始めから二分もあっただろうか、あまりの速さにT氏は驚いた。
「ほら、ぼさっとしない。次もどんどん洗う」
 店長に促され、T氏は立てかけた食器をラックごと、左から食洗機へとスライドさせ、上からレバーを下ろした。
「その間にまた別のラックにどんどん立てかける」
 T氏が食器を立てかけている間に、つい先ほど食洗機に投入した分が洗い上がる。レバーを上に持ち上げ、洗い上がったラックを右の台へスライドさせ、左の台からこれから洗う分を機械の中にスライドさせたらレバーを下ろす。レバーが食洗機の蓋とスイッチを兼ねている、これはすごい、画期的だ、とT氏は思った。T氏はこの食器洗いの作業を気に入ったようだ。他の作業はなしで、この作業専門で雇ってくれればいいのにな、とT氏は思った。
「洗い上がった食器を仕分けしていくよ」
 T氏は店長に指示された通り仕分けていく。洗い立ての食器はまだ熱を持っており、思わず「アチッ」とT氏の声が漏れた。燃えてはいなかった。
 次はキッチンに案内された。
「手を洗ったらこのゴム手袋をつけて」
 T氏は言われた通り手を洗った。まだ午前中だというのに、もう既に二回も手を洗ったことになる。いや、失敗した分も含めて三度か……。毎日このペースで洗い続けたら、手の油分がなくなってしまうんじゃないかと、T氏は心配になった。
「ハンバーグ成形するよ、今日のディナーの分ね」
 店長が適量のタネを手に取り、秤に乗せる。
「一個あたり一七〇グラム」
 ものの数秒で、亀裂のない滑らかできれいなハンバーグが完成した。
「Tくんもやってみて」
 T氏がタネを手に取る。
「ちょっと大盤振る舞いしすぎかな」
 T氏が秤に乗せると、店長の言う通り、二〇〇グラム以上あった。僕は家で茹でるパスタでも何でも、多めに作り過ぎてしまう癖があるらしい、とT氏は思った。
 適量に調節した後、ハンバーグの形になるように整える。
「初めてにしては上手いじゃないか。後は空気を抜いてやるんだ、こんなふうに」
 店長が、手に持ったハンバーグをパンパンと音をさせながら空気を抜く。T氏も真似をする。
「そうそう、そんな感じ」
 ヒビのない泥団子を作るよりもよっぽど簡単だな、とT氏は思った。

 勤務二日目、T氏は汗だくの状態で職場に現れた。寝坊して、自転車をかっ飛ばしてきたのである。時刻は午前七時五八分、勤務開始二分前であった。
 事務所にいた店長に「おはようございます」と言いながら、T氏は大急ぎで更衣室に駆け込もうとした。だが、店長がそれを制止した。制止するなり「今日はもう帰ってもらっていい」とT氏に言い放った。
 T氏は息を切らしながらポカンとした。額からは滝のような汗が流れ続ける。
「うちは飲食店なんだ。衛生面が非常に重要なんだ。そんな清潔感のない身なりで仕事されると、非常に困るんだ。本来なら今日、私と一緒に仕込をやってもらうつもりだったけど、こんな様子ならとてもさせられない。悪いけど今日は帰ってくれ」
 店長は毅然として言った。
 T氏はうつむき、一言「すみません」と言うと、言われた通り職場を後にした。

 汗が染み込んだシャツに春風が吹きつけると、T氏の体はブルッと震えた。T氏は帰ってシャワーを浴びようかと思ったが、今日も彼女はテレワークかもしれないと思い、途方に暮れた。このような形で、家に帰れない夫の気持ちを味わうとは、思ってもみなかったT氏であった。
 仕方がないので銭湯に行った。
 もう既に定年退職しているであろう老人たち数名が、のんびりと湯に浸っていた。僕はまだ20代だけど、職場を退職した回数ならこの人たちに引けを取らないかもしれないな、とT氏は思った。成り行き次第ではその回数が、さらにもう一回増えるかもしれないのに、T氏は相変わらず呑気であった。
 T氏が身体を洗い始める。汚れ切っていない身体は、いとも簡単に泡だらけになった。他の人が流した泡が、T氏の視界にサッと現れてはすぐに消えた。シャワーの湯から立ち上る湯気が目の前の鏡を曇らせ、見るに耐えないやさぐれたT氏の像を覆い隠した。
 身体を洗い終え、T氏は浴槽に向かった。腰を落ち着けると、大して疲れていないT氏の身体を湯が包み込んだ。寒い家の風呂と違って、いつまでも入っていられそうだった。実際、いつまでも入っていたかった。まだ家に帰るには早すぎるのだ。
 だが、いつまでも入ってはいられなかった。T氏はのぼせた。喉が渇いた。やむなく上がることにした。現実はやはり厳しい。
 身体を拭きながら、この後どうしようかとT氏は考えた。せっかく身体を温めたT氏の効用を最大化させる最適な行動とは、どう考えても身体が冷めぬうちに家に帰ることであった。彼女が家にいようとも知ったこっちゃない。
 銭湯を出て自転車に乗ったT氏は、汗をかかない程度のスピードを維持しながら家に向かった。
 家に帰ると、彼女がいた。
「あら、早かったのね」
 彼女はパソコンに向かったままテレながら言った。
「働き方改革の一環で、最近事あるごとに早く帰らされるんだ」
 T氏は適当にごまかした。
「あらそう、良かったじゃない」
 そう言ったきり、それ以上彼女は詮索してこなかった。

 カーペットの上にしばらくの間寝転がっていたが、もっと柔らかい所がいいと思ったT氏は、彼女のロフトベッドの上に移動した。そして当然のように寝転んだ。
 うつ伏せのまま、T氏はピクリとも動かなかった。世間の荒波が、重力に抗おうと試みたT氏の戦意をすっかりと喪失させた。多くの人々にとってはさざ波程度の出来事でも、T氏の目には荒波に映るのだから、被害妄想甚だしいったらありゃしない。
 そのままただ時間だけが過ぎていった。各々の人間の行為が有意義か無意義かに関係なく、誰にとっても時間は平等に過ぎていく。意義の有無など、地球という名のメリーゴーランドはいちいちそんなもの評価せず、とりあえず全員連れていく。「ちょっと待ってよ地球さん、今T氏が酔いそうなんだよ」と訴えかけても、「T氏? 知らねーよそんな奴」とすら答えてくれない。ツンでもなければデレもしない。どうしてもそんなのが嫌だっていうのなら、火星人にでもなるしかない。重力の弱い星なら、ちっとはどうにかなるかもしれない。帰化申請を受けて受け付けているかどうかは、知らん。
 ただただ時間は過ぎ去っていく……。

「ケータイ鳴ってるわよ」
 カーペットの上に置きっ放しだったT氏のケータイを彼女が拾い上げると、ベッドの上に投げた。
 T氏は転がったままの状態で半身になり、ケータイをパカッと開いた。店長からだった。出たくないとT氏は思った。だが、後から折り返しかけるのはもっと億劫なので、やむを得ず出ることにした。
「は、はいもしもし……」
 言いながらT氏は身構えた。
「Tくん、今電話していいか」
 特に怒っているようなトーンではない。
「は、はい……」
 T氏は身構えたまま返事をする。
「今朝のことだけど……」
「はい」
「一方的に怒って、悪かったな……」
「え……」
 T氏は拍子抜けした。
「事情を聞かずに一方的に怒ったのは、悪かったなと思って」
「いやそんな……」
 T氏は二の句が継げなかった。
「時間ギリギリに来たのは、何か事情があったのか?」
「……」
「どんな理由でも怒らないから、正直に言って欲しいな」
「……寝坊して……自転車を飛ばして大急ぎで来ました」
 T氏は正直に答えた。
「そうか、わかった……」
 少しためた後、店長が続けた。
「私の基本的な考えとして、勤務開始までの時間は従業員のプライベートな時間だから、どう過ごしなさいと言う権利は私にはない。だけどもね、今朝言った通り、衛生面、これだけは譲れないんだ、飲食店だから。そこは理解してほしい」
「はい」
「もちろん一方的に強いている訳じゃなくて、そういったところもきちんと評価した上で給与にも反映するつもりだ。今君に私と同じくらいのスピードでハンバーグを成形しなさいというのは、それは無理な注文だろうけど、清潔な身なりで毎日仕事に臨むというのは、心がけ次第でどうにでもなるだろ?」
「はい」
「それに……自転車飛ばして事故にでも遭ったら大変だろ」
「おっしゃる通りです……」
「遅れそうな時は店に電話する。失敗は誰にでもある。自転車飛ばしたりしない」
「はい」
「明日はちゃんと来れるか」
「はい、今朝は本当にすみませんでした」
「ほんとだよ全く、仕込、私一人で大変だったんだぞ。明日は頼むよ、8時半ね」
「はい、すみません……」
「じゃ、電話切るよ」
「はい、失礼します」
「うん、じゃあ明日ね」
 電話が切れた。
 T氏は心底申し訳ないと思った。どう考えても悪いのは自分なのに、店長に気を使わせて、その上謝らせて、自分はどうしようもない駄目人間だと、自らを責めた。今のままでは駄目だ、少しずつ自分の習慣を変えていかなければと思った。すぐに目覚まし時計を七時にセットした。携帯のアラームも同じ時間にセットした。職場には十五分あれば着くから、起きて一時間以内に支度して、八時には家を出ようと計画した。
「あなた今日仕事で何かやらかしたの?」
 彼女が言った。
「うんまあ。でも明日からはしっかりやるよ」
 T氏が答えた。

 午前八時二〇分、きれいなT氏が職場に現れた。その姿を見た店長が「今日はきれいじゃないか」と言い、ニッと笑った。T氏はペコリと頭を下げた。
 店の制服に着替え、手をしっかりと洗ったT氏はキッチンへと向かった。
「今から野菜を仕込んでもらう。まずはレタスから」
 店長がレタスを手に取る。
「まず芯をくり抜く。そして角に切る。その際、色の悪い部分は取り除く。切ったレタスは、ここの水を張ったシンクにつけて洗う」
 店長がT氏に見本を見せる。
「今やった通りにやってみて」
 T氏が見よう見真似で試みる。
「そうそう、そんな感じ。そんでシンクのレタスはじゃぶじゃぶ水で洗った後、ザルに取る。ザルに上げたレタスはザルのままここにあるかごの上に置いて、上から濡れた布巾を被せる」
 T氏がレタスを洗い始める。
「私は他の野菜仕込むから、布巾被せるところまで終わったら教えて」
「わかりました」
 T氏がジャブジャブ洗う。水の冷たさにも負けず、T氏はしっかり汚れを取り除いていった。丁寧な仕事をやるんだと、心の中で唱えながら……。
 洗い終えたレタスに布巾をかぶせたT氏は、店長に「終わりました」と報告した。
「ご苦労、じゃ確認するな」
 店長が布巾をめくる。
「形はよし、汚れも取れてるね、少し色の悪い部分があるから、そいつだけ取り除いてやってくれ」
「わかりました」
 T氏は取り除きながら、ちょっと詰めが甘かったな、と思った。
「あと、布巾、濡れてないぞ。水で濡らして軽く絞る。レタスの乾燥を防ぐためだ」
「あ……はいす、みません、忘れてました……」
 だいぶ詰めが甘かったと、T氏は反省した。
「次からは頼むよ」
「はい」
「じゃあ次はねぎ。よく見ておくように」
「はい」
「まず洗う」
 店長が蛇口をひねり、小ねぎを洗う。
「両端を切り落とす、そして刻む。体を半身にしてリズミカルに」
 半分ほど刻んだ後
「じゃ選手交代」
 と言い、T氏と交代した。
「手切るなよ」
「はい、気をつけます」
 T氏が刻み始める。
「あれ、思ったよりも上手だ。もっとぶっといねぎになるかと思ってたのに」
 褒められて嬉しかった氏はつい、ニヤついてしまう。
「君は素直だな、素直な奴は伸びる」
 今日はやけに褒められる。昨日怒った埋め合わせだろうかと、T氏は勘ぐった。この男はアメとムチを使い分けるタイプだな、とT氏は思った。
 だが実際、店長が言ったのはお世辞でも何でもなく、T氏の切ったねぎは、大きさにばらつきのない、均整のとれたものであった。それもそのはず、T氏は家で好物のうどんを調理する際、必ずと言っていいほどそこには自分で刻んだねぎが入る。T氏にとって、ねぎやしょうがといった薬味を刻むことなど、昼飯前なのである。
「君がある程度包丁が使えるみたいで安心したよ」
「家にあるやつより切りやすいです」
「そりゃ業務用だからな。使いやすいなら良かった。それじゃあ次、手を洗ってゴム手袋」
 T氏が言われた通りにする。
「おとといやったハンバーグ、一日空いたけど覚えているか?」
 店長が手にタネを取る。
「何グラムだったか?」
「百……七〇グラム」
「そう、その通り。パンパンと中の空気を抜きながらも、亀裂が入らないように」
 T氏も成形する。
「そう、そんな感じ。一個一個計りながら正確にな」
「はい」
 T氏はひたすハンバーグを成形し続けた。全て成形し終えるまで、1時間要した。慣れない作業に集中し続けたため、成形を終えたT氏は少し疲れを感じた。
「Tくん、一個焼いてみろ、私も一個焼くからその隣で」
「はい」
 店長が鉄板の上に置いたのを見て、T氏もそれに倣った。
「一六〇℃の鉄板で、表三分、裏三分」
 三分経ち、裏返す。
 ジューっと音を立てたハンバーグの美味しそうな匂いが、T氏の鼻をついた。
 焼きあがったハンバーグを皿に乗せる。
「食べてみろ」
 T氏は自分の焼いた分を箸でつまみ、口に運んだ。口の中で肉汁がジュワッと広がった。
 店長が「私が焼いたほうも食べてみろ」と言うので、T氏は口に運んだ。美味かったが、何だか少し硬いような気がした。
「どっちが美味しいと感じたか」
 店長が尋ねた。
 T氏は答えに窮した。自分で焼いたハンバーグのほうが美味しく感じたが、経験豊富な店長が焼いたのより美味しいはずなどあるはずもない。きっと自分の味覚がおかしいのだろう、とT氏は思った。
「思ったままのことを言えばいいよ」
 T氏は悩んだ挙げ句、次のように答えた。
「僕は……どちらかといえば、柔らかめのハンバーグのほうが好きだから……」
「そうだろ、自分で焼いたハンバーグのほうが美味しかっただろ」
 T氏はしどろもどろになりながら
「は、はい、そういうふうに感じてしまいました……」
 と答えた。
「なぜだかわかるか」
「わかりません……」
「私が焼いたのは、しっかりと空気抜きをしなかったハンバーグなんだ。そのせいで焼いている際中にヒビ割れてしまい、肉汁が外に逃げてしまったんだ。一方で君が焼いたハンバーグは、しっかりと空気抜きがされ、且つヒビがないように成形されたものだったから、肉汁が外に逃げず、ふわっと美味しく焼き上がったんだ。空気抜きひとつでここまで味に違いが出るなんて、驚いたろ?」
「はい、全然違いました」
「ひとつひとつ、丁寧に空気抜きをやる必要性を、わかってくれたか」
「はい、これからも丁寧にやります」
「ならよろしい。これは今日のまかないだ。事務所で食べる。食べ終わったら後片付けして今日は帰っていいよ」
「え、まだ午前中なのに」
「一遍に全部覚えようとしても覚えられないだろ。一ヶ月は研修期間だ」
「わかりました」
 皿と箸を持って事務所へと向かおうとするT氏に、店長が「好きなソースかけてけ」と言った。「ソーッスね」とは言わず、素直に「ありがとうございます」とT氏は言った。まだまだそこまでの関係性は築けていない。T氏はトマトソーッスを選んだ。

 T氏が事務所でハンバーグを食べていると、一人の初老の男がとぼとぼと事務所に入ってきた。
「やぁ、君が新しく入った人かい?」
 男がT氏に話しかけた。
「は、はい、今月からここで働くことになりました、Tと申します」
 T氏は礼儀正しく答えた。
「いやー、新しい人が入ってきてくれて助かるよ。僕ももう年だから、毎日キッチンに入るのがだんだんしんどくなってきてねぇ……あ、僕の名前、Gといいます、どうぞよろしく」
 Gさんは愛想よく言った。T氏も「よろしくお願いします」と返した。
「仕事はちとずつ覚えていったらええよ」
 Gさんはパイプ椅子に腰かけながら言った。
「はい、ありがとうございます」
 とT氏は言うと、皿を持って立ち上がり
「では、僕は仕込の後片付けをしてくるので、失礼します」
 と言い、キッチンへと向かっていった。