「あ、あのぉ、ほ、本日面接で……」
「あぁ、Tさんね、お待ちしてましたよ。じゃあ事務所で話しましょうかね、ついてきてください」
T氏は言われるがままついていった。狭い通路を抜けると、これまた狭い事務所へと辿り着いた。
「どうぞかけてください」
T氏は言われるがまま、パイプ椅子にかけた。
「スーツじゃなくていいって言ったのに、ネクタイまでして、君はしっかりした人なんだね」
「い、いえ、それほどでも……」
第一印象はバッチリである。
「履歴書見せてもらってもいいかな」
T氏はずいぶん久しぶりに持ち歩いたビジネス鞄から、履歴書を取り出した。
「ふむ、どれどれ……」
目の前に居る小太りの男がそれを眺める。「養鶏場で働いていたんだね」
男がポツリと言う。さすがに履歴書には、卵を割るあの例の秘技については書かれていない。もう既にないものについて書いたって仕方がないのだ。
「あ、そういえば」
男が突如何かを思い出したような素振りで両手を叩いた。
「まだ私の名前、名乗っていなかったね。私、ここの店長をしているKといいます、どうぞよろしく」
「よ、よろしくお願いします」
T氏は背中を丸めながら言った。
「じゃあ、一つずつ聞いていきましょうかね 」
とK店長が言うと、T氏の緊張は一気に高まった。
「前職の養鶏場ではどんな仕事をしていましたか?」
店長が柔和な表情で言った。
「えぇっと、あの……鶏が……卵の……その……」
T氏は緊張でうまく答えられない。
「まあ言わんとせんことはわかるよ。要するに鶏が安心・安全な卵を産むための環境維持に努めていたんだよね? 履歴書にもそれっぽいことが書いてあるし」
店長は穏やかな表情で言った。
「は、はい、そうです」
T氏はうろたえながらも、どうにか答えた。
「じゃあ、次の質問ね、どうしてうちの店で働きたいと思ったのかな」
店長はなおも表情を変えない。
「きゅ、きゅう……いや……りょ、料理のとき……た、卵を割ったり……その……」
やはりうまく答えられない。
「だから要は、前の職場で卵を管理する仕事をしていたことから、食材として扱われる卵について、深い興味・関心がある、ということだよね?」
ずいぶん物わかりのいい店長である。
「はい、そうです」
T氏は先ほどよりはスムーズに答えた。
「キッチンとホール、どっちがしたい? まぁさっきからの君の答えを聞いていると、キッチンのほうが向いているような気がするな」
「はい、僕もそう思います」
T氏は背中をピシッと伸ばして答えた。
「じゃあキッチンをやってもらおうかな。うち今、人足りないんだ。早速で悪いんだけど、明日から来てもらってもいいかな」
「わ、わかりました」
本当はもう少しだけ猶予がほしいと思ったT氏であったが、面接という場でそれを言うだけの心の余裕は、T氏にはなかった。かくしてT氏の再就職が、無事決まったのであった。
スーツ姿のT氏が帰宅すると、彼女がいた。まだ夕暮れ前である。ここ数日、というより、同棲してからずっと、T氏が帰宅した際には彼女の姿がある。この女、いったいいつ仕事に行っているんだ、こいつこそ正真正銘のニートなんじゃないかとT氏は勘ぐった。
「おかえりなさい」
彼女はカーペットに寝転んだままT氏を見上げて言った。
「ただいま」
T氏が彼女を見下ろす。この蛇みたいな寝転び方と、まるで危機感のない間抜けな表情を見て、T氏は確信した。この女、間違いなくニートである、と。経験者は語るではないが、このような、重力を前に為すすべなしといった所作はニート特有のものなのだと、T氏は十分に心得ているのだ。
だが、安直にこのことを指摘するのは、さすがに憚られる。彼女の乙女心を傷つけることのないよう、遠回しにさりげなく、且つ回りくどく、事の真相を確かめねばなるまいとT氏は思った。
「スーツを脱ぐと、帰ってきたんだなぁって気がしてほっとするなぁ、あ、スーツといえば、君のスーツ姿ってとても似合うんだろうね」
T氏がスーツをハンガーにかけながら言った。
「ずいぶん長いこと着てないけどね」
彼女が目をこすりながら言う。
「たまには着てあげないと、スーツがかわいそうだよ」
T氏がなおも畳み掛ける。
「だって着る機会がないもの」
彼女が寝転んだまま答える。T氏の確信は一段と強いものになる。
T氏がネクタイを外しながら
「君、ちょっとネクタイつけてみてよ」
と言い、彼女の顔の前にぶら下げると、彼女は
「嫌よ、ネクタイって仕事が終わった後の飲み会で酔っ払いが頭に巻くためのものなんでしょ、男ってほんっとにしょうもないわね」
と言うと、手でそのネクタイを掴んでカーペットに放り投げた。酔っ払いはお前だろ、と言いかけたのをすんでのところでT氏は飲み込んだ。このひねくれ具合はやはりニートだ。
だが、ここから先の攻略への道筋が、T氏には思い浮かばなかった。もうほぼ答えが出ているも同然で、あとは彼女が自分から「私はニートです」と認めるのを待つのみなのだが、そうさせる術が、どうしても思い浮かばないのだ。カツ丼を食わせようにも、彼女は卵が食えないし。
T氏が立ちすくんでいると、彼女が口を開いた。
「今日一日中パソコンとにらめっこだったから、疲れちゃったわ」
ついに吐いた。T氏は心の中で歓喜した。この女、今日一日中ノートパソコンで遊んでいたんだと思うと、ニヤニヤが止まらないT氏であった。
「このノートパソコンで、どんな楽しいことをやっていたんだい?」
T氏がニヤニヤしたまま言った。
「楽しいことなんて、そんなしょっちゅうないわよ」
彼女は上半身を起こしながら言った。
「なんだそれ、変わってるなぁ、楽しいことだけやればいいじゃないか」
「楽しいだけが仕事じゃないわよ」
「へ?」
T氏はへの口のまま固まった。
この日T氏は「テレワーク」なるものを初めて知った。彼女の説明によると、ネット環境があれば、パソコンを通じて会社と情報交換したりできるので、家にいながらでも仕事ができるらしい。どうやら彼女は、この「テレワーク」という働きを取り入れているため、毎日のように出社しなくてもいいらしい。残念ながら彼女はニートではないようだ。「要するに、照れ屋の人間が一人でも仕事できるようにするために開発されたシステムだよね」とT氏が念を押すと、彼女は「違うわよ!」と一蹴した。
僕もテレワークだということにして、明日一日家にいようかな、とT氏は思った。
「あぁ、Tさんね、お待ちしてましたよ。じゃあ事務所で話しましょうかね、ついてきてください」
T氏は言われるがままついていった。狭い通路を抜けると、これまた狭い事務所へと辿り着いた。
「どうぞかけてください」
T氏は言われるがまま、パイプ椅子にかけた。
「スーツじゃなくていいって言ったのに、ネクタイまでして、君はしっかりした人なんだね」
「い、いえ、それほどでも……」
第一印象はバッチリである。
「履歴書見せてもらってもいいかな」
T氏はずいぶん久しぶりに持ち歩いたビジネス鞄から、履歴書を取り出した。
「ふむ、どれどれ……」
目の前に居る小太りの男がそれを眺める。「養鶏場で働いていたんだね」
男がポツリと言う。さすがに履歴書には、卵を割るあの例の秘技については書かれていない。もう既にないものについて書いたって仕方がないのだ。
「あ、そういえば」
男が突如何かを思い出したような素振りで両手を叩いた。
「まだ私の名前、名乗っていなかったね。私、ここの店長をしているKといいます、どうぞよろしく」
「よ、よろしくお願いします」
T氏は背中を丸めながら言った。
「じゃあ、一つずつ聞いていきましょうかね 」
とK店長が言うと、T氏の緊張は一気に高まった。
「前職の養鶏場ではどんな仕事をしていましたか?」
店長が柔和な表情で言った。
「えぇっと、あの……鶏が……卵の……その……」
T氏は緊張でうまく答えられない。
「まあ言わんとせんことはわかるよ。要するに鶏が安心・安全な卵を産むための環境維持に努めていたんだよね? 履歴書にもそれっぽいことが書いてあるし」
店長は穏やかな表情で言った。
「は、はい、そうです」
T氏はうろたえながらも、どうにか答えた。
「じゃあ、次の質問ね、どうしてうちの店で働きたいと思ったのかな」
店長はなおも表情を変えない。
「きゅ、きゅう……いや……りょ、料理のとき……た、卵を割ったり……その……」
やはりうまく答えられない。
「だから要は、前の職場で卵を管理する仕事をしていたことから、食材として扱われる卵について、深い興味・関心がある、ということだよね?」
ずいぶん物わかりのいい店長である。
「はい、そうです」
T氏は先ほどよりはスムーズに答えた。
「キッチンとホール、どっちがしたい? まぁさっきからの君の答えを聞いていると、キッチンのほうが向いているような気がするな」
「はい、僕もそう思います」
T氏は背中をピシッと伸ばして答えた。
「じゃあキッチンをやってもらおうかな。うち今、人足りないんだ。早速で悪いんだけど、明日から来てもらってもいいかな」
「わ、わかりました」
本当はもう少しだけ猶予がほしいと思ったT氏であったが、面接という場でそれを言うだけの心の余裕は、T氏にはなかった。かくしてT氏の再就職が、無事決まったのであった。
スーツ姿のT氏が帰宅すると、彼女がいた。まだ夕暮れ前である。ここ数日、というより、同棲してからずっと、T氏が帰宅した際には彼女の姿がある。この女、いったいいつ仕事に行っているんだ、こいつこそ正真正銘のニートなんじゃないかとT氏は勘ぐった。
「おかえりなさい」
彼女はカーペットに寝転んだままT氏を見上げて言った。
「ただいま」
T氏が彼女を見下ろす。この蛇みたいな寝転び方と、まるで危機感のない間抜けな表情を見て、T氏は確信した。この女、間違いなくニートである、と。経験者は語るではないが、このような、重力を前に為すすべなしといった所作はニート特有のものなのだと、T氏は十分に心得ているのだ。
だが、安直にこのことを指摘するのは、さすがに憚られる。彼女の乙女心を傷つけることのないよう、遠回しにさりげなく、且つ回りくどく、事の真相を確かめねばなるまいとT氏は思った。
「スーツを脱ぐと、帰ってきたんだなぁって気がしてほっとするなぁ、あ、スーツといえば、君のスーツ姿ってとても似合うんだろうね」
T氏がスーツをハンガーにかけながら言った。
「ずいぶん長いこと着てないけどね」
彼女が目をこすりながら言う。
「たまには着てあげないと、スーツがかわいそうだよ」
T氏がなおも畳み掛ける。
「だって着る機会がないもの」
彼女が寝転んだまま答える。T氏の確信は一段と強いものになる。
T氏がネクタイを外しながら
「君、ちょっとネクタイつけてみてよ」
と言い、彼女の顔の前にぶら下げると、彼女は
「嫌よ、ネクタイって仕事が終わった後の飲み会で酔っ払いが頭に巻くためのものなんでしょ、男ってほんっとにしょうもないわね」
と言うと、手でそのネクタイを掴んでカーペットに放り投げた。酔っ払いはお前だろ、と言いかけたのをすんでのところでT氏は飲み込んだ。このひねくれ具合はやはりニートだ。
だが、ここから先の攻略への道筋が、T氏には思い浮かばなかった。もうほぼ答えが出ているも同然で、あとは彼女が自分から「私はニートです」と認めるのを待つのみなのだが、そうさせる術が、どうしても思い浮かばないのだ。カツ丼を食わせようにも、彼女は卵が食えないし。
T氏が立ちすくんでいると、彼女が口を開いた。
「今日一日中パソコンとにらめっこだったから、疲れちゃったわ」
ついに吐いた。T氏は心の中で歓喜した。この女、今日一日中ノートパソコンで遊んでいたんだと思うと、ニヤニヤが止まらないT氏であった。
「このノートパソコンで、どんな楽しいことをやっていたんだい?」
T氏がニヤニヤしたまま言った。
「楽しいことなんて、そんなしょっちゅうないわよ」
彼女は上半身を起こしながら言った。
「なんだそれ、変わってるなぁ、楽しいことだけやればいいじゃないか」
「楽しいだけが仕事じゃないわよ」
「へ?」
T氏はへの口のまま固まった。
この日T氏は「テレワーク」なるものを初めて知った。彼女の説明によると、ネット環境があれば、パソコンを通じて会社と情報交換したりできるので、家にいながらでも仕事ができるらしい。どうやら彼女は、この「テレワーク」という働きを取り入れているため、毎日のように出社しなくてもいいらしい。残念ながら彼女はニートではないようだ。「要するに、照れ屋の人間が一人でも仕事できるようにするために開発されたシステムだよね」とT氏が念を押すと、彼女は「違うわよ!」と一蹴した。
僕もテレワークだということにして、明日一日家にいようかな、とT氏は思った。