男なら一度は登らんチョモランマ
――Tくん心のこもった川柳
事前準備は重要である。これは、T氏がここ数週間まざまざと痛感してきたことである。T氏にとっての事前準備とは、彼女が提案してくる、T氏からしてみれば未知なるイベントに対する準備である。必要になりそうな道具を揃えることも不可欠であるが、何よりも重要なのは、心の準備である。いっちょ前に道具だけを揃えたところで、T氏自身の心がそのイベントに向かっていなければ、話にならないのである。水泳、サイクリングとくれば、次はおそらく山であろう。
そういう訳で、T氏は今、とあるラーメン屋にいる。「チョモランマラーメン」。今日はこいつを制覇しに来たのだ。メニュー表には、入山料八八四八ネパール・ルピーとある。
「日本円で払うことはできますか?」
T氏は店主に尋ねた。
「モチロン、ジャパニーズエン大歓迎アルヨ」
店主は親切そうな笑顔で答えた。
「日本円ではいくらくらいなのでしょうか?」
T氏はさらに尋ねた。
「為替レートネ、一秒ゴトニ変ワルアルネ、オ客サン食ベオワッタトキノ値段アルネ」
店主は歯茎が剥き出しになるくらいの笑顔で答えた。
「ということは食べ切れなかった場合、お金は払わなくてもいいってことなのでしょうか?」
T氏がまた尋ねた。
「食ベオワラナイトキ、一・五払ウアルネ、食ベ物粗末ニスルノ、ヨクナイアルネ」
店主は顔ヲ引キつらセナガラ笑顔で答えタ。沸々と湧き上がった怒りを、けたたましい鼻息へと変えた店主の鼻の穴は、大きく膨らんだ。
「僕はこう見えても大食いだから、きっと食べ切ります。チョモランマラーメン一丁、お願いします!」
「了解アルネ!」
店主は厨房へと引っ込んでいった。
待っている間T氏は、チョモランマ制覇に向けた準備を整えた。まず、自らの腹を締めつけているベルトを外した。これで胃が膨らむ余地を確保した。次に、パーカーを脱いだ。防寒着など、邪道中の邪道である。最後に、シャツの袖を捲り、大きく深呼吸した。
準備は整った。決戦のときを待つ宮本武蔵のような心持ちで、T氏は待った。
程なくして、店主がお盆に乗せられたチョモランマをT氏の前にドーンと置いた。あまりの巨大さに驚愕したT氏は、喉元まで出かかった「遅いぞ小次郎!」のセリフを飲み込んだ。確実に、普通のラーメンの五倍はありそうだ。大量に盛られたもやしで、麺が隠れて見えない。麺よりももやしのほうが多いのではないか、というほどである。もはや、「ラーメン」ではなく「ラーもやし」と呼ぶほうが適切かもしれない。
店主が何やら説明を始めた。
「真ン中国境、左側チャイナ、ニンニクイッパイネ、右側ネパール、ピリ辛ソースネ、ソシテ背脂、コレ雪アルネ、アト、モヤシノ中ニ岩ガ隠レテアルネ、ソレジャ、ガンバッテ!」
店主は厨房へ戻った。
T氏は右手に箸を握ると、右側のネパール側のもやしを掴み、恐る恐る口へ運んだ。赤いピリ辛ソースのかかったもやしは、見た目ほど辛くはなく、食欲をそそるのにちょうどいいほどの辛さだった。次に左側の中国側に箸をつけた。背脂にまみれたことで、癖の強い匂いをますます引き立てられたにんにくは、T氏の口や鼻を強烈に刺激した。
もやしを食べ進めていくと、大きな豚肉のチャーシューが出てきた。T氏は大きく口を開けてかぶりついた。店主が言った通り、岩のように硬かったので、スープに浸しながら再びかぶりついた。
そろそろ麺を食べようと思ったT氏は、大量のもやしの脇から箸を滑り込ませ、麺を強引に引っ張り出した。極太の麺が、すっかり醤油色に染まっている。コシが強く、非常に食べごたえのある麺であった。
レンゲで掬ったスープをもやしにかけると、一気に獣臭さが増した。T氏は、やむを得ず狩りをするライオンの雄のような勢いで、無我夢中で喰らいついた。満腹中枢が働く前に食ってしまうんだと、T氏は決心した。
ネパール側と中国側が徐々に混じり合い、国境がなくなっていくのに比例して、T氏の勢いもなくなっていった。もやしはほぼ水分で構成されているゆえ、どうにかなりそうなものの、麺がきつい。それにまだ岩のようなチャーシューも残っており、噛めば噛むほど満腹中枢が刺激される。強者どもを後回しにしたことを、T氏は後悔した。
それでもどうにか食べ進め、麺とスープ以外は大方平らげた。だが、スープに浮かぶ背脂がしつこ過ぎて、T氏は戦意喪失した。
遭難寸前のT氏を再び奮起させたのは、厨房からひょいと顔だけ出して観察してくる、店主の半笑いの表情であった。ここまできて、ヘリコプターなど呼んでたまるか、何としても、自力で制覇してやるんだと、T氏は気合を入れ直した。
水が飲みたい衝動を必死に抑え、ひたすら食べ進めた。脂っこいスープだけが最後に残るのも辛いので、麺とスープを交互に口へ運んだ。
そして、レンゲに掻き集めた最後の一口を口へ運び、ゆっくり咀嚼した後、飲み込んだ。ついにT氏は、チョモランマを、自力で制覇したのであった。
登頂の余韻に浸っているT氏に、ノートパソコンを抱えた店主が近づいてきた。
「ヨク最後マデ食ベタネ、スゴイアルネ、私、感動シタアルヨ」
店主は満面の笑みでT氏を称えた。
「いえ、それほどでも……」
T氏は、勝者特有のメンタリティが生み出す謙虚さで以て答えた。
店主がノートパソコンを、T氏に見える位置に置いた。そして言った。
「オ客サン、コレ、今ノ為替レートアルネ、一ネパール・ルピー、〇・九七ジャパニーズエンアルネ」
店主は電卓をポケットから取り出し、T氏に見えるように打ちながら言った。
「八八四八×〇・九七=八五八二・五六アルネ、小数点ハ負ケトクアルネ、オ支払イ、八五八二ジャパニーズエンアルネ」
財布から勢いよく一万円札を取り出したT氏は、気前よく「釣りはいらねえぜ」と言いたかったが、ここまで細かく金額を計算してくれた店主にやはり申し訳なく思い、素直にお釣り一四一八ジャパニーズエンを店主から受け取り、店を後にした。
家に帰り、帰り際に口直しのために自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、T氏が部屋でくつろいでいると、メールの着信音が鳴った。彼女からだった。文面はこうであった。
「来週の日曜日、登山、いつもの駅、朝九時、防寒対策よろしく」
これを見たT氏が「登山の準備をしなきゃなぁ」と呟いた後、大きく溜め息をつくと、にんにくとコーヒーが混じった不快な臭いが、部屋中に広がった。
二人の乗ったバスが、だだっ広い駐車場に停車した。バスを降りると、登山道まではすぐそこであった。
「今日も快晴ね、私の日頃の行いが良いからかしら」
彼女は空に向かって大きく伸びをしながら言った。
「こないだは途中から土砂降りだったじゃないか」
T氏は空に向かって大きく欠伸をした。
「それはあなたの日頃の行いが悪いせいよ」
「その理屈で言うと、僕が生まれてから今日までの間、僕の周辺ではほとんど雨だったことになるね」
「そこまで卑屈になれとは言ってないわよ」
登山口まで来た。スキー場のゲレンデを登っていくようだ。まだ白粉の塗られていないでこぼこで急勾配な山肌の上を、彼女は軽々と、T氏は這うように登っていった。
早くもT氏が息を切らした。
「空気が冷たくて、肺の辺りがキリキリする」
「すぐに慣れるわよ」
彼女が構わずに進むので、T氏はヒイヒイ言いながら後をつけた。一旦止まって息を整えたかったT氏は、前を歩く彼女に向かって必死の形相で「鼻をかむ!」と宣言した。すると、さすがに彼女も止まってくれたので、T氏は軍手を外し、ジャージのポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。これから先、苦しくなったら無理をせず、人間らしく鼻をかもうとT氏は心に決めた。
林の中に入ると、勾配はだいぶ穏やかになった。登山道の両脇には、このところの気温の急激な低下にはうんざりだといわんばかりに、萎びた笹がだらしなく枝垂れている。登山者たちの足跡が深く刻まれている、若干の水分を含んだ土の上を、二人は足を取られないように気をつけて進んでいった。
ぬかるみを抜けると、二人の目の前には、枯れ葉になりかけた紅葉の絨毯が広がっていた。裸の木々の隙間から覗く陽の光に照らされながら、最後の輝きが、惜しげもなく放たれるこの瞬間は、いかなる類の儚さとも無縁であった。
「秋の紅葉はさらなり、冬来たりて、土の上を覆い尽くさんさまもまたいとをかし、といったところかしらね」
「君、もうお腹が空いたの?」
「ほんっとに感性が鈍い人ね!」
彼女は呆れた。本日一度目。
草地に出た。二人の背丈ほどの枯芒の群れの中を、二人は横に並んで歩いた。穂先が彼女の頬を掠めると、彼女はくすぐったそうに目を閉じ、手で払い除ける。その度に彼女の髪が揺れ、T氏の視線を翻弄する。その間も枯芒たちは容赦なくT氏の顔面を直撃し、むず痒さに耐えられなくなったT氏は、ハックショーーン! と大きなくしゃみをした。そして盛大にブォーーーーン! と鼻をかんだ。いずれの音にも、山彦は毅然として応じなかった。
再び林の中に入った。でこぼこで常に一定でない道を、足場を探しながら、岩や木に手をかけながら、二人は登っていった。まるで一種のアスレチックのようで、次第にT氏の中でも、しんどさよりも楽しさのほうが上回っていた。
岩が増えてきた。水が、上のほうから下のほうへ、岩肌を伝って流れていた。T氏は何度か足を滑らせそうになった。
さらに登ると、雪が現れた。ぐしょぐしょの雪をT氏が踏みつける度に、最後の悪あがきとでも言わんがごとく、雪解け水がT氏の靴の中に容赦なく侵入した。T氏は気にも留めなかった。
「見て見て、これ、すごく綺麗!」
彼女が何かを見つけた。T氏も覗き込む。
岩と岩が重なり合ったその真下に、棒状の氷の物体ができていた。流れた雪解け水が凍ってできたもののようだ。大きな二つの岩が身を寄せ合ってできた僅かな隙間に、二度と成長することのない細々とした石たちが、内緒の宝物を囲うように、その周りを埋め尽くしていた。
目を輝かせる彼女の横でT氏は、溶けたり凍ったり忙しい奴だなと思ったが、彼女の機嫌を損ねぬよう一言、「綺麗だね」とだけ言っておいた。「君の横顔が」という気障ったらしい一言をつけ加えるのは止めておいた。
道がなだらかになる度に、彼女のペースが上がった。T氏も必死に追い縋った。なだらかな道よりも、足場の安定しない道のほうが彼女のペースが落ちるので、T氏にはありがたかった。
他の登山者たちを何人も追い抜いた。「若い人たちは登るのが速いわね」と言う婦人の声に、彼女は「どうも!」と爽やかに応えた。カメラを目に近づけて、何かを懸命に捉えようとしている青のウィンドブレーカーを着た青年は、颯爽と通り過ぎる二人のほうを見向きもしなかった。
下山中の人たちとも次々にすれ違った。T氏は、「こんにちは」と挨拶してくる者に対しては、「こんにちは」と顔を歪めながらもできる限り明るい声で返し、しんどそうな表情のT氏に向かって「あと少し、頑張って!」と励ましてくる者に対しては、こんな登り慣れていそうな格好の人が言う「あと少し」など信用なるものかと思いながら、可能な限り明るい声で「ウィっす!」と応えながら軽く手を挙げた。
後ろを振り返る余裕もなく、ただひたすら、T氏は彼女についていった。絶景を臨むのは登り切ってからのお楽しみよと、彼女は背中で語っているかのようであった。
登れば登るほど、積もった雪の量が増えていく。季節が秋から冬へと移り変わっていくその過程を、二人は登りながらにして、ものの数時間でしっかりと体感した。
彼女の足が止まった。そしてT氏を振り返り、言った。
「着いたわよ!」
どうやら山頂に到達したようだ。ふぅ、とT氏は息をついた。
無数の岩の間を、真っ白な雪が埋めていた。高く積もったままの所、溶けかかった所、靴の足跡とともに土と混じった所など、雪の残り方が一様でなく、所々起伏がある。
「まるで雪の川ね」
彼女が言った。
「でも魚は泳いでいない」
T氏は答えた。
「魚は私たちよ」
彼女は笑った。
「こんなに高い所まで登ってくるなんて、僕らは鮭か何か」
T氏も少し笑った。
「あら、私こんな寒い所で産卵なんてしないわよ、するなら暖かい所で、好きな人をそばに置きながら」
人に戻った彼女はツンとした顔で答えた。その隣でT氏は赤面した。
二人は適当な大きさの岩に腰を降ろした。周囲の山を見渡すと、中途半端に所々薄っすらと積もった雪が、縞馬のような模様を創っていた。
T氏がリュックの中をゴソゴソ探り始めた。
「はい、君の分も」
T氏はカップラーメンを取り出し、彼女に手渡した。
「あら、気が利くじゃない」
彼女は嬉しそうに言った。
「マウンテンフード味のラーメンを探したんだけど見つからなかったから、仕方なくシーフード味のにした」
T氏は自分の分の包装を破りながら言った。
「あなたって根っからのひねくれ者ね」
彼女は呆れた。本日二度目。
T氏は魔法瓶を取り出し、彼女の分にお湯を注いだ後、自分の分にも注いだ。
「ほら、こっちの方角を向けば、地平線の手前に海が見える。山頂から見る海もいいもんだ」
「ほとんど見えないじゃないのよ!」
彼女は呆れた。もう数えまい。
山の上で食べるラーメンは格別であった。冷えた身体に染み渡る。そして何より、景色も食べる物も、こうして二人同じ物を共有していることが、T氏には嬉しかった。
食べ終えると、T氏が言った。
「ところでさ、登ってる途中で追い抜いたりすれ違ったりした人たちって、ほぼ例外なく挨拶してくれたり、声をかけてきたりしたよね。登山するときってそういうもんなの?」
「特にそういう不文律がある訳ではないと思うけど、何ていうか、仲間意識みたいなものじゃない? 同じ趣味を楽しむ者たち同士の」
「その理屈で言うなら、ディズニーランドは挨拶の大合唱ということになるね」
「してるじゃないの、実際。『ハロー、僕ミッキーだよ!』って」
「いや、それはないかな」
「何よ、せっかくあなたの屁理屈に乗ってあげたのに!」
彼女はカップ麺のゴミをさっさとまとめ、T氏のリュックに放り込むと、そそくさと山を降り始めた。T氏も「ちょっと待ってよぉ」と言いながらリュックを背負い、後に続いた。
除夜の鐘が鳴ると、T氏は右手の甲に目を遣り、「ついに抜けなかったな」と呟いた。小指の付け根から少し下った所にある、一本だけ異様に太い毛。自然に抜けるのを待っていたら、二センチほどの長さまで成長していた。
年越しまで残り十五分。寝転んでいたカーペットから身体を起こして立ち上がったT氏は、年越しそば用のお湯を沸かすべくキッチンへと向かった。
母親の分と合わせて二人分のお湯を沸かしている間T氏は、母親の分の狐そばのかやくとT氏のカップ焼きそばのかやくを、それぞれの麺の上に乗せた。
こういうとき、カップ麺は便利だ。各々の好みが違っても、お湯さえあればどうにでもなる。多様な社会の実現に向けて、カップ麺たちよ、これからも先陣を切って突っ走ってくれ、とT氏は心の中で叫んだ。
T氏の心の叫びに同調するかのごとく、火にかけたやかんが甲高い声を響かせた。
生まれたてのお湯を、それぞれの麺の上に注ぐ。必要な量を注ぎ終えると、ぴったりとお湯がなくなった。
今年一年を思い返す。T氏にとって大きく変わったことといえば、何よりもまず、人生初の恋人ができたことであった。そしていざデートとなると、想像していた以上に大変だった。以前よりも食べる量が増えたのに、体重は減った。彼女とのデートは、とにかくカロリーを消費する。だが、そんな彼女とのデートを特に嫌だとは思わなかったし、むしろT氏は幸せであった。「幸せ太り」ならぬ「幸せ痩せ」とでもいったところか。
ただ、不安もあった。T氏の中で、未だ拭い切れぬ一つの疑念……。なぜ彼女は自分の恋人になってくれたのか、彼女が自分のどこを気に入ってくれたのか、いまいちT氏は釈然としないのである。それゆえ、彼女の突然の気まぐれにより、別れを切り出されるようなことを想像してしまい、その度にT氏の胸は締めつけられる。
お湯を入れてから三分経過した。母親の分が先にできた。T氏のは五分なので、あと二分待たなければならない。多様性を認め過ぎるのも問題だな、とT氏は思った。
後入れのスープを入れながら、よく見ると、狐ではなく狸そばであることにT氏は気がついた。化けていたのか? どっちがどっちに? まぁどっちでもいいや、うどんがそばに化けたりしていないだけまだマシだ、とT氏は結論づけた。
ぼんやりテレビを眺めている母親の前に、完成したそばを運び終えると、T氏はキッチンに戻った。まだ五分経過していなかったが、硬めでいいやと思ったT氏は、湯を切り始めた。この辺りは、作り慣れているT氏ならではの匙加減であった。
湯を切った麺にソースを絡めよく混ぜ合わせると、ようやくT氏の焼きそばが完成した。
母親の隣でテレビを見ながら啜っているうちに、年が明けた。T氏のケータイが鳴った。彼女からのメールだった。
「新年明けましておめでとう、初詣、いつもの駅に九時ね、よろしく」
すぐさまT氏も
「明けましておめでとう、了解した」
と返した。
残りの麺を平らげると、例の太い毛を左手の親指と人差し指でつまみ、とうとうブチッと抜いてしまった。容器を片づけると、朝の初詣に備えて、寝る態勢を整え始めた。
ニ礼ニ拍手一礼。隣で一緒に参拝する彼女を真似たT氏の所作は、ずいぶんとぎこちないものであった。初詣などもう何年も行ってなかったのだ。
T氏は縋るような思いで「彼女と破局しませんように、とにかくそれだけお願いします。あとは何でもいいです」と祈りを込めた。
初詣からの帰り道、T氏は意を決して、かねてからの疑問を彼女に尋ねた。
「最近事あるごとに考えるんだけど、君は僕のどういう所が気に入って僕と付き合おうと思ったの?」
フフっと笑いながら「どうしたのよ、新年早々」と彼女は言った。
「不安なんだ、元来僕は暗いしネガティブだったりで、君と付き合うまでは恋人なんて一度たりともいた試しがない。君みたいな美人がどうして僕なんかの恋人になってくれたのか、いくら考えてもピンとこないんだ。それで昨日、年越しそばを食べながら君からのメールに返信した後、今日の初詣のときに訊こうと決意したんだ」
T氏はいつになく饒舌であった。
彼女はT氏が発した「美人」という単語に反応し、少し顔を赤らめ、一瞬沈黙した。ほんの一時の沈黙ですら、T氏を悔恨の念に苛ませるのに充分であった、やはり言わなければよかったと。
彼女が口を開いた。
「私はあなたをひょうきんで楽しい人だと思っているわよ。初めて会ったときからそうだったじゃない」
「あの時はずいぶんと気を張っていたから」
T氏は伏目がちに答えた。
「あの日だけじゃないわよ、あなた、私と会うときはいつもひょうきんだったじゃない」
T氏がポカンとする。彼女は続ける。
「それにね、あなたの妙にひねくれている所だって、私嫌いじゃないわよ」
「嫌いじゃない代わりに、好きでもない」
T氏は調子を取り戻した。
「ほら、そういう所」
彼女は微笑んだ。
「そうか、僕はひょうきんで楽しいひねくれ者だったのか」
「そうそう、そういうこと」
彼女は頷きながら笑った。
愛おしい彼女の横顔を眺めながら、T氏は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、多くの通行人やカラスに見られることを考えると、気恥ずかしくてできなかった。
せめて手を握りたい。しかし、彼女の手袋が邪魔であった。防寒のための手袋をわざわざ外して「君の冷えた手を暖めてあげるよ」というのはあまりにも野暮ったい。手袋を製造する会社では「ロマンスとは何か」を解さない人間が代々社長になるのだろう。静電気で手袋だけ燃えて消滅してくれないかな、とT氏は思った。
気づけば駅とは別の方角を歩いていた。
「僕らは今どこに向かっているの?」
「私の家よ、あなたも来るでしょ」
どうやらT氏は彼女の家に招かれたようだ。
彼女に続いてT氏も玄関を潜った。玄関から見て右脇にキッチンがあり、左脇に風呂やトイレがあり、それらの間の狭く短い廊下を抜けると、八畳程の部屋があった。いわゆる典型的な、学生が住むような部屋である。ロフト型のベッドや細く切って床に敷いた段ボールの上に白のロードバイクがある他は、特段目を引く物はなく、ずいぶんこざっぱりとした感じである。
「あまり物がないね」
T氏は言った。
「押入れにいろいろ置いてあるわよ」
彼女が開けっ放しの押入れを指して言った。
T氏が覗き込む。上段には服が掛けてある。T氏が初めて彼女に会った時に彼女が着ていた花柄のワンピースもあった。下段には登山用のリュックや自転車の工具など彼女の趣味関係の物の他、衣装ケースや箱ティッシュなどの生活用品があった。
「まぁ適当にくつろいでちょうだい」
そう言うと彼女はテレビを点け、カーペットに寝転んだ。
来て早々寝転ぶのも気が引けたので、とりあえずT氏はあぐらをかいた。上から見下ろす彼女の髪もまた綺麗だった。カーペットの上で、窓から射し込む陽に照らされながら優雅にたわむ彼女の髪は、一流の職人が拵えた讃岐うどんのように力強く輝いていた。
やはりT氏も横になった。頭を彼女と同じ方向に向けたまま、少しずつ彼女に近づいた。気づけばT氏は自らの顔を彼女の後髪に埋めていた。特段彼女は何も言わなかった。彼女が黙っているのをいいことに、T氏はゴキブリホイホイにハマったゴキブリのように、そこを離れようとはしなかった。
T氏が目を覚ますと、部屋には明かりが灯り、窓には緑のカーテンが掛けられていた。
キッチンの方から音がした。T氏が部屋の扉を開けると、彼女が何かしらの食材を切り刻んでいた。
「あら、やっと起きたのね。あなたがいつまでも寝てる間にひとっ走りしてきちゃったわ」
彼女が振り向かずに答えた。
「いつから君は僕のパシリになったのかい」
T氏はまだ寝ぼけていた。
「何言ってんのよ、ちょっと運動してきたのよ。あなたもさっさとシャワー浴びたら」
彼女はなおも振り向かない。
「着替えがない。君のパンティとブラジャーを拝借してもいいのかい」
T氏は相変わらずとぼけている。
「伸びるから勘弁。あなた用にちゃんと用意してあるわよ」
T氏が脱衣所に入る。下着はおろか、パジャマまであった。「ほら、やっぱりパシリじゃないか」とは言わないでおいた。彼女は今、包丁を持っている。
服を脱ぎ、それらを洗濯機に放り込もうか否か迷ったあげく放り込んだT氏は、風呂場に入り、今日一日の疲れを流し始めた。寝るのも案外体力が要るものなのである。
風呂から上がり、彼女が用意した紺色のパジャマにT氏は袖を通した。ジャストサイズであった。
台所には既に彼女の姿はなかった。彼女は部屋にいた。ちゃぶ台の上に彼女の手料理が並んでいた。ベビーリーフに刻んだハムやクリームチーズがトッピングされたサラダ、鰹のたたきやサーモンの刺し身、そして中央にはやはり枝豆があった。
「日本酒もあるわよ」
彼女は嬉しそうに言った。
「お酒が進みそうなラインナップだね」
T氏は言った。
「でしょ、それが楽しみで準備したんだから」
彼女は言った。
「君は普段から家で飲むのかい?」
Tが尋ねた。
「一人じゃ飲まないわよ、つまんないから」
彼女は答えた。
「今日は一人じゃないから」
と言いながら彼女は一升瓶の栓を抜き、二つのグラスに注いだ。
「それでは、新年を祝って、乾杯」
並々注がれた日本酒に、二人同時に口をつけた。
「美味いね」
「うん、最高ね」
「酒を飲むときのこのズーっと吸い込む音、これこそまさに幸福の音色だね」
「そうね」
時刻は夕方の六時を既に回っていた。テレビでは相変わらず市長やどこぞの社長やらが「おめでとうございます」の大合唱である。いったい何回言やぁ気が済むんだ、本当におめでたい連中だな、とT氏は思った。
「さて、どれから食べようかな」
「どれでも、あなたの直感で」
「サーモンにかかっている緑色のは何だい」
「オリーブオイルよ」
「どれどれ」
T氏はサーモンの刺し身に箸を伸ばした。
「うん、美味しい、初めて食べる味だ」
T氏の声が弾む。
「オリーブオイルと塩。醤油とわさび以外でお刺し身食べるのもいいでしょ」
「うん、酒にも合う」
「和と洋の融合ね」
彼女は気を良くした。
「今度はあなたが注いでよ」
彼女が空になったグラスをT氏に向かって差し出した。
「早いな、もう飲んだの?」
T氏が驚きながら瓶を持ち上げ、栓を抜く。
「早くないわよ、ボサっとしてたら置いてかれるわよ」
彼女がグラスを差し出す。
「誰にだよ」
T氏が注ぐ。
「先頭集団に」
T氏は訳がわからなかった。
「ほらほら、野菜もちゃんと食べるのよ」
彼女が皿に取り分ける。
T氏は躊躇《ためら》った。T氏は生野菜にはマヨネーズ派であるが、卵アレルギーの彼女の家にはあるはずもない。これはまずいとT氏は思った。しかし、食べないわけにはいかない。一生懸命作ってくれた彼女の前で、幸福に満ちた表情で料理を頬張る、これこそまさに、今T氏がしなければならない唯一無二の行為なのである。
よく見ると、サラダの上にもオリーブオイルがかかっていた。T氏は意を決してサラダを箸で、なるべくハムやクリームチーズが多くなるように掴んだ。そして祈りを込めた、オリーブちゃんよ、どうか僕を笑顔にしておくれ。口に運んだ。
T氏はその味に感動した。感動のあまり声が出なかった、というよりは口いっぱいで声が出せなかったのだが、とにかくT氏は感動した。
飲み込んでからT氏は言った。
「口の中で、豊かなオリーブ畑が広がった」
「サラダとの相性抜群でしょ」
彼女は得意げに笑った。
「塩胡椒もいい仕事してるね」
「わかってるじゃないの」
彼女は満足げだった。
彼女のグラスが再び空になる。
「ちょっとペースが早くないかい、ビールじゃないんだから」
T氏が心配すると、彼女は瓶のラベルを指しながら
「ほら、ここに書いてあるじゃないの、『開栓後はお早めにお飲みください』って」
と勝ち誇ったように答えた。
「いや、多分そういう意味じゃないと思うけど」
珍しくT氏のほうがまともであった。
彼女が抜け殻になった枝豆の鞘《さや》をクルクル回す。
「枝豆にはかかってないんだね、オリーブオイル」
T氏が言った。
「試しにかけてみてもいいわよ」
彼女がおどけるように言った。
「いや、いい。何だがもったいない気がする」
やはり今日はまともである。
「それもそうね」
彼女が言った。
積み重なった枝豆の殻を見ながらTが言う。
「殻も食べられればいいのにね、仮に一〇〇グラム一〇〇円だとして、その半分は捨てられる殻にお金を払うわけだから、実質五〇グラム一〇〇円だよね、そう考えると何だか」
「わかってないわね、鞘にかぶり付きながら食べるから美味しいんじゃないの、塩が引き立ててくれた鞘の風味を楽しみながら食べるのが。もし豆だけで袋詰めされたものが売ってたとしても、私は絶対に買わないわよ、どんなに安かったとしても」
言い終えると彼女は枝豆をまた一つ手に取り口に含み、まるごとじっくり堪能した。
「殻も含めてか……」
そう呟いた後、T氏は卵のことを思い浮かべた。卵を食べるとき、殻を含めて楽しむには……。強いて言うなら、白いご飯に卵を割る際、その割れる音を意識的に聴くことで、今から美味い卵かけご飯を食べるのだというわくわく感を存分に味わう、というようなことだろうか。ただ、今となっては、割ったら鶏になってしまうのだから確かめようがない。
彼女が日本酒の瓶を掴んだ。まだ飲むのかこの女、とT氏が思っていると、彼女は瓶を持ったままおもむろに立ち上がった。そして瓶を口元まで近づけ、その瓶をマイク代わりにして歌い始めた。
「しあわせのー、おーほしさまがー、あーるひとつぜんきえさったー」
駄目だこの女、完全に酔ってる、とT氏は思った。
「そうよー、だってわーたーしー、じんこうえーいせい」
彼女の歌が続く。
「わーたしのー、おとなりさんのー、おとなりさーん、はわーたーしー、みーんななかよくくーらしましょー」
T氏がやれやれといった感じで手拍子を打つ。
「というか夜中に歌って、お隣さん文句言ってこないかな」
T氏が心配そうに言った。
「大丈夫よー、空き家だから、隣も下も」
彼女が陽気に答えた。
「ならいいか」
T氏は納得した。
その後、マイクの瓶をワインに持ち替えて、なおも彼女は歌い続けた。一升瓶は少々重かったようだ。
彼女の歌ういずれの曲もT氏は知らなかった。最近の流行りの曲も少しは聴かなきゃな、とT氏は思った。
食後の後片付けはT氏がやった。料理を作ってくれたお礼に後片付けくらいは率先してやろうと思ったから、ではなく、彼女が酔い潰れてちゃぶ台に突っ伏して寝てしまったため、T氏がやる以外の選択肢が残されていなかったからである。
後片付けを終えると、T氏は彼女に声をかけた。
「ほら、こんな所で寝たら風邪引くよ」
T氏が後ろから肩を揺さぶると、彼女が「んー」と唸りながら半目を開いた。そのまま抱きかかえて彼女を立たせると、ロフトベッドの梯子の前まで移動させた。こんなときでも彼女の髪は綺麗だな、とT氏は思った。
「後ろで支えているから自分で登りな、さすがに上まで持ち上げるのは無理だから」
彼女はT氏に支えられながら、のろのろ登り始めた。
彼女をベッドの上に寝かすことに成功したT氏は、特に何も考えることなくそのまま彼女の横に寝そべった。天井を見上げると、木目の中で一組の男女が互いに手を取り合って社交ダンスを踊っていた。テヲ、トーリアッテー……。そうだ、電気を消していなかったと思い立ったT氏は、梯子を降り電気を消すと、暗やみの中再び梯子を登り、彼女にのしかからないように気をつけながら、彼女の横で身体を倒した。
翌朝、T氏が目覚めたのは八時頃だった。隣では、彼女がスヤスヤと眠っていた。カーテンのほんの僅かな隙間から入り込む光の存在を知らしめるのは、やはり彼女の綺麗な髪であった。
T氏はトイレに立った。アルコールの利尿作用のせいか、いつもより音が激しい。昨夜飲んだのは日本酒なのに、トイレの溜まり水はビールのように泡立った。T氏はレバーを「大」の向きに回して水を流した。
失った分の水分をキッチンで補給する。コップいっぱいの水で身体を潤したT氏は、やはり万物の根源は水だなと身にしみて感じた。今のT氏にとって、このことは火を見るよりも明らかであった。
部屋に戻ったT氏はテレビを点けた。何度かチャンネルをローテーションさせたが、特段T氏の興味を惹くようなものはなかった。
T氏はロフトベッドの下の空間に置いてあった、開きっ放しの段ボール箱に目を遣った。本や雑誌が無造作に積まれてあった。水泳や登山など、スポーツやアウトドアに関するものがほとんどであった。その他、小型犬の飼い方を指南する本や数冊の小説があった。ファッション誌の類のものは一冊も見当たらなかった。
さらに物色していくと、一冊、気になるタイトルの本を見つけた。『入門トライアスロン〜あなたもできる! 51.5㎞完走〜』。表紙には、ピチっと全身にまとわりついた黒色の水着のようなものを着た男が、大きく口を開けて息継ぎをしている姿や、自転車に乗った女が飲料の入ったボトルを片手で持ち上げ、大きく口を開けて水分補給する姿、汗だくの男がゴールテープの手前で拳を突き上げ、大きく口を開けて全身で喜びを表現している姿が写し出されていた。
ページの始めのほうを覗いてみる。「トライアスロンとは、1.5㎞の水泳、40㎞の自転車、10㎞のランニングを一人の競技者が連続して実施する競技である。云々」とある。正気じゃないとT氏は思った。
他のページも見てみると、ニューモデルの競技用自転車、いわゆるロードバイクの紹介ページや、オススメのトレーニングウェア特集といったページもあった。スポーツ雑誌の中に組まれるこうした特集は、彼女からしてみれば、ある意味一種のファッション誌のような役割を果たしているのかもしれないな、とT氏は思った。
そして、T氏は予感した。今年僕は間違いなくこれを彼女と一緒にやらされる。今までやらされた水泳練習やサイクリングの意味を、T氏はようやく理解した。サイクリングはT氏のほうから誘ったのだということに関しては、T氏の記憶は曖昧であった。
彼女が起きたら答え合わせをしてみようとT氏は一瞬考えたが、無断で私物をあさったことがバレると怒られてしまうような気がしたので、やはり止めておこうと思った。
程なくして、彼女がベッドから降りてきた。彼女がトイレに行き、出てきた後にしっかり水分補給をしたところを見届けたT氏は「じゃあ僕はそろそろ帰るよ」と言い、帰り支度をした。彼女が「うー」と言い了解の意を示すと、T氏は玄関に向かい、靴を履いて外に出た。朝日が眩しかった。
正月三ヶ日の三日目の昼、T氏は一人キッチンに立った。インスタントラーメンを茹でるお湯を沸かしている間、T氏はまな板の上でしょうがとにんにくをみじん切りにする。生にんにく特有の辛みをこれまた特有の臭みへと変えるべく、徹底的に切り刻む。
その間にお湯が湧く。お湯の中に乾麺を投入し、時間差で別売の柔らかい麺も投入する。やはりT氏は一玉では足りないのだ。麺がダマにならないように時折箸でほぐしながら、しっかり水分を飛ばす。
水分が飛び、麺だけの状態になったら丼に移す。ここでようやくスープの粉末を麺の上にかける。水分がないので、麺二玉に対して粉末一袋の割合でちょうどいい。ただ、麺を二玉にすると、食後に胃もたれする確率がグンと上がる上、粉末を半分だけ取っておいて後からチャーハンを作るのに利用するという芸当ができなくなるので、注意が必要である。
さらに上から酢をかける。そしてついに登場、本日の主役、エクストラバージンオリーブオイル。今朝T氏が、近所のスーパーが新年初開店するや否や店に飛び込んで購入した代物である。これを買うためだけに、T氏は朝からクロスバイクを走らせ、店に向かったのである。
今までのエクストラバージンごまオイルに代わって、開封したてのオリーブオイルを麺の上にかける。合うに決まっている、とT氏は思った。T氏はオリーブオイルの力を、すっかり信用し切っていた。
全体を混ぜ合わせ最後に、刻んだしょうがとにんにくをトッピングすると、T氏特製油そばが完成した。
満を持して、T氏は一口目を啜った。絶妙であった。にんにくの強烈な臭みがしょうがの消臭作用によりほんの少し中和されてほど良い臭みになり、その臭みがジャンキーな粉末スープの香りを引き立て、さらにその香りと豊かで芳醇なオリーブオイルの香りが、T氏の口の中でものの見事に調和した。まるでウィーンフィルの会場に貧乏臭い格好をした聴衆が多数混じっていようとも、奏者たちの圧巻の演奏力で以て会場の空気を調和させているかのようである。いや、ラーメンの類である以上は飽くまでも主役はスープであり、オリーブオイルはその引き立て役であることを考慮すると、奏者と聴衆の属性はむしろ逆か。その点を踏まえ、再度適切に例え直すなら、無名のトリビュートバンドによる類まれな演奏を、耳たぶに宝石を五個くらいぶら下げて耳の穴を広げた貴族たちが注意深く聴きながら、その圧倒的な存在感で以て会場の雰囲気を高貴なものに仕立て上げているかのようである。
T氏はあっという間に完食した。大満足であった。次は途中で胡椒や七味を振るなど、味変も楽しみながら食べようとT氏は思った。
大事件であった。T氏の割った卵が、色鮮やかな黄身に透明でどろっとした白身を纏った、生卵なのである。何度やっても結果は同じである。新年早々、つい先ほど上司に「今年もよろしくお願いします」の挨拶を嫌々したばかりなのに、このざまではよろしくもお願いもしますもあったもんじゃない。
T氏の様子を遠くから見ていた上司がT氏に声をかけた。
「白いご飯と醤油がないじゃないか」
T氏は超高温のフライパンで焼いた目玉焼きの白身のように一瞬で固まった。
「卵かけご飯用に割ったんだろ」
上司は床に落ちた生卵を指しながら言った。T氏は卵の殻を手に持ったままピクリとも動かない。
上司が溜め息をつきながら続ける。
「うちの会社がどうして君を雇っているのか、君も理解しているよな、定期的に仕事に 遅刻してくる怠慢な人間を、今まで特に注意を与えることなく雇い続けた理由を」
T氏はなおも言葉を発しない。上司はキッとT氏を睨みつけ「とりあえずここ片付けておけ」とだけ言い、T氏のもとを離れた。
上司の姿が見えなくなると、T氏は気が抜けたままフラフラと掃除用具置き場へ歩いて行き、ポリ袋と雑巾を手に取り、もとの場所に戻ると、自分が散らかした生卵たちを掃除始めた。掃除し終わると、それらをゴミ箱の中に放り込み、上司の姿を探した。上司の姿を見つけるや否やT氏はただ一言「辞めさせていただきます」とだけ告げた。そのまま事務所へ連れて行かれ、退職届やらの書類にサインさせられた後、職場を後にした。そこから家に帰るまで何を考えていたのか、T氏はよく覚えていない。
また T 氏は引きこもったが、時々彼女から誘われる水泳の練習のときだけは例外であった。このときだけは否が応でも、自らの惨めな姿を近所の人間やカラスたちの前に晒さなければならず、T氏は嫌で仕方がなかった。 ただ、彼女を失うのはもっと嫌だった。彼女の存在が、ほとんど途切れかけていたT氏と家の外の世界との繋がりをかろうじて保っていた。
T氏の沈みきった心とは対照的に、T氏の身体は水中でしっかりと浮き上がり、以前にも増してスムーズな泳ぎを体現していた。余計な屁理屈を垂れる気力のなくなったT氏が、彼女の指導に忠実に従うようになったことが、結果的にT氏の泳力向上に寄与したのであった。彼女も彼女で、T氏が心を入れ替え真剣に練習に取り組んでいるのだとすっかり信じ込んでいたため、T氏の心が沈んでいることなど想像だにしなかった。
練習を終え一緒に帰る段になっても、T氏は自分からは一切喋りかけず、彼女の発言にただ「うん」「そうだね」と頷いたりするだけであった。そんなT氏の様子を見てもなお彼女は、T氏が頭の中で今日の練習の反省をしているのだと思い込み、彼女は一層嬉しくなった。彼女の嬉しそうな横顔を見たT氏も、彼女は自分の気分が芳しくないことを察し取り、それでもあえて笑顔で自分を元気づけようとしてくれているのだと解釈した。双方によるこのような「盛大な勘違い」のおかげで、二人の間には亀裂が生じるどころか、却って強固な絆が形成されたのであった。
二人は同棲した。彼女のほうから持ちかけてきた。T氏のニート生活が始まって三ヶ月が経った頃である。
T氏としても都合が良かった。仕事もせずにずっと家にいると、母親の視線が痛いのである。母親には、家にいると甘えてしまうから別の場所へ移り住み、そこを拠点に新たに仕事を探すと言い、家を出た。
同棲初日、仕事に行くふりをして朝八時半頃、T氏は彼女の家を出た。そして一時間ほど自転車で外をぶらつき、彼女が出社した頃を見計らって、彼女の家に帰った。
合鍵を開けた。玄関には彼女の靴があった。部屋の扉が少し開き、隙間から艶のある綺麗な黒髪が覗いた。彼女がいた。
「あらあなた、もう帰ってきたの」
彼女が目を丸くして言った。T氏はあたふたしながら咄嗟に
「いやー、今日休みだってことすっかり忘れていたよ」
と言った。
「あなたって本当にうっかりさんね」
彼女は言った。
しばらくして、彼女は「買い物に行ってくる」と言い、家を出た。
同棲二日目、彼女はこの日も休みだと言うので、T氏も休みだということにした。彼女がジョギングをすると言うので、T氏もついていった。
住宅街を出てしばらくすると、一本の長い道路に出た。脇には数軒の民家がある他は、ほとんど畑や田んぼであった。苗が植えられる前の広大な田んぼの上を、冷たい風が自由に行き来する。
「この寂しい景色を見ていると、余計寒く感じるね」
「そうね、春はもう少し先のようね」
景色の変わらない道を坦々と進む。途中一軒のカフェへと誘導する木製の看板があった。左脇に逸れた狭い道をしばらく行った所に、そのカフェはあるようだ。どういう理由でこんな辺鄙な所に店を構えようと思ったのか、T氏にはよくわからなかった。隠れ家的な人気を狙ったにしても、リスクが大きいだろうし……。多分人が嫌いなんだろうと、一応結論を出したT氏は、この件について考えるのを止めた。
長い一本道が終わり、右に折れた。少し建物が増えたが、寂しい景色には変わりなかった。
またしばらく行くと、右に折れた。再び一本道であった。左側には自動車専用のバイパスがあった。右側はやはり田畑であった。
「あんまり楽しい道じゃないね」
「華やかな景色を見ながら走る方がもちろん楽しいけど、毎日そういう所ばかり走っても飽きちゃうでしょ。幸せって案外相対的なものだと思うの」
ふーんそういうもんかぁ、とT氏は思った。
「それにね」
彼女は続ける。
「なかなか解決しない問題を抱えてるときにこういう所をボーっとのんびり走っていたら、急に降って湧いたように突拍子もないアイデアが浮かんできたりすることもあるの」「何か悩みがあるのかい?」
「さあどうかしら」
彼女ははぐらかした。
田んぼ道を抜けると、住宅街を通り、家に帰り着いた。結局、広大な田畑の周辺を、ぐるっと一周しただけであった。
薄暗いキッチンの中で、その目玉焼きは妙な存在感があった。そこだけ妙に明るかった。穢れを知らない赤ん坊の頬のようにふっくらとしたその目玉焼きを、T氏はフライパンから皿へ移した。何の苦労も要らなかった。黄身が、白身が、まるでその周囲に見えない境界線があるかのごとく、それ自身以外の何者の侵入をも拒んでいた。そのあまりの混じりけのなさに、T氏は塩コショウを振るのを躊躇した。
そのままの状態で箸を入れてみるも、上手く入らない。T氏は皿ごと上に持ち上げ、目玉焼きを丸呑みした。味がしなかった。
ふと横を見ると、扉の取っ手を左手に持ったまま、部屋の中から直立不動の姿勢で、彼女がT氏のほうを向いていた。その目には生気がなく、魂が抜けた彼女の肉体だけがあった。あまりの恐ろしさに、T氏は腰を抜かし、後頭部を壁に打ちつけた。T氏の頭は、卵を割ったときのように真っ二つになった。
T氏は目を覚ました。カーペットの上に寝転んでいるうちに、そのまま眠ってしまったようだ。隣には、同じカーペットの上に寝転び、T氏に背を向けた体勢で小説を読んでいる彼女の姿があった。艶やかで生き生きとした彼女の後ろ髪を見ると、T氏は胸をなでおろした。どうやらさっきのは夢だったようだ。
ふぁ〜と欠伸をしながら、彼女が体の向きを変えた。すっかり気の抜けた表情だったが、そこには確かに魂が宿っていた。
「あら、あなた起きたの」
彼女が言った。
「見ての通り」
T氏が答えた。
「どんな本を読んでいるんだい」
T氏が尋ねた。
「主人公が幽体離脱するのよ。抜け殻になった自分の体を見ながら……」
「もういい、そこから先は聞きたくない」
T氏が遮った。
「何よ、自分から聞いてきたくせに」
彼女は不満げに言った。
「さっさとシャワー浴びてきたら」
と彼女が言ったので、T氏はそれに従い、ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
シャワーを浴びている間も、さっきまで見ていた夢の余韻が残っていた。T氏は何もかも洗い流してしまいたかった。自分の身に降りかかる、ありとあらゆる不都合なものを……。
浴び終えると、バスタオルでしっかりと身体を拭いた。T氏はタオルを洗濯機の中に放り込むと、洗面台の鏡を見た。そこに映っていたのは、心機一転生まれ変わった自分自身の姿であった……らいいな、とT氏は思った。
職探しをしようとT氏は決意した。貯金を使い果たす前に、そして、自分の愛しい人が、愛想を尽かして離れてしまう前に……。
翌日、T氏の姿は、とあるインターネットカフェの中にあった。漫画を読みに来たわけでも、オンラインゲームをしにきた訳でもなかった。職探しにきたのだ。
今T氏が住んでいる町の求人情報を、インターネットで片っ端から見て回った。たくさんあった。どこも人手不足なんだろう、とT氏は思った。
いつかT氏が行ったラーメン屋の求人募集もあった。店の前で人の好さそうな笑顔を湛えた店主が、両手を前に組んだまま写真に納まっていた。写真の横にある概要欄には、「まかないアルヨ! 時給六〇〇ネパール・ルピーアルネ!」と書かれていた。T氏は即座にネットで今現在の為替レートを調べた。一ネパール・ルピー〇・九〇円であった。絶対に応募すまいとT氏は思った。もっとまともな、信頼できそうなウェブサイトに辿り着くべく、検索結果が表示された画面に戻った。
ただ、何を以て信頼できるサイトと断定し得るのか、そこの判断基準がないと、大量にある情報の中で右往左往してしまうとT氏は考えた。そこでT氏は、以下のような基準を設けた。
①時給がその地域の最低賃金を上回っており、且つ日本円で表記されている。
②必要最低限の情報が端的に記載されている。
設けた基準を基に、T氏はウェブサイトを見て回ったが、どのサイトにも相変わらず余計なことばかり書かれている。「従業員みんな仲良くアットホームな職場です」など大概ブラックな職場だと相場が決まっているし、万一それが本当だとしても、社交性のない自分がその中に割って入るのは至難の技である。「あなたのやる気を評価します」に至っては、そんなものどうやって測るのか甚だ疑問であるし、定期的にやる気のなくなる自分のような人間は、一体どうすればいいのか。「やる気のなさ」を評価してくれるのであれば話は別だが……。
あれこれ思案しているうちに、また新たな疑問がT氏の脳裏に浮かんだ。「必要最低限の情報」とは一体何であるか。
「やる気」のような評価基準が曖昧なものでも、専らにそれのみを評価した上で給与に反映する旨が明確に記載されていれば、それは「必要最低限」に該当するだろう。一方で、「給与」「勤務時間」「休日日数」がその人の希望に合致するものであり、且つそれらが嘘偽りない情報であったとしても、いざ実際に勤務してみると、毎日仕事終わりに女装した上で社長と社交ダンスを踊らなければならず、そのことが苦痛で仕事を辞めるようなことになったら、その人からしてみれば、事前に提供されていた情報が不十分であったということになろう。このように、何を以て「必要最低限」とするのかは人によって違う。自分にとっての「必要最低限の情報」とは何か、いくら考えても、T氏にはわからなかった。
結局、「世の中カネだ」という第三の基準を設けたT氏は、今開いているサイトの中で、最も高い給与が記載された求人に応募することにした。結果的に「給与」が、T氏にとっての必要最低限の情報となったのであった。
「あ、あのぉ、ほ、本日面接で……」
「あぁ、Tさんね、お待ちしてましたよ。じゃあ事務所で話しましょうかね、ついてきてください」
T氏は言われるがままついていった。狭い通路を抜けると、これまた狭い事務所へと辿り着いた。
「どうぞかけてください」
T氏は言われるがまま、パイプ椅子にかけた。
「スーツじゃなくていいって言ったのに、ネクタイまでして、君はしっかりした人なんだね」
「い、いえ、それほどでも……」
第一印象はバッチリである。
「履歴書見せてもらってもいいかな」
T氏はずいぶん久しぶりに持ち歩いたビジネス鞄から、履歴書を取り出した。
「ふむ、どれどれ……」
目の前に居る小太りの男がそれを眺める。「養鶏場で働いていたんだね」
男がポツリと言う。さすがに履歴書には、卵を割るあの例の秘技については書かれていない。もう既にないものについて書いたって仕方がないのだ。
「あ、そういえば」
男が突如何かを思い出したような素振りで両手を叩いた。
「まだ私の名前、名乗っていなかったね。私、ここの店長をしているKといいます、どうぞよろしく」
「よ、よろしくお願いします」
T氏は背中を丸めながら言った。
「じゃあ、一つずつ聞いていきましょうかね 」
とK店長が言うと、T氏の緊張は一気に高まった。
「前職の養鶏場ではどんな仕事をしていましたか?」
店長が柔和な表情で言った。
「えぇっと、あの……鶏が……卵の……その……」
T氏は緊張でうまく答えられない。
「まあ言わんとせんことはわかるよ。要するに鶏が安心・安全な卵を産むための環境維持に努めていたんだよね? 履歴書にもそれっぽいことが書いてあるし」
店長は穏やかな表情で言った。
「は、はい、そうです」
T氏はうろたえながらも、どうにか答えた。
「じゃあ、次の質問ね、どうしてうちの店で働きたいと思ったのかな」
店長はなおも表情を変えない。
「きゅ、きゅう……いや……りょ、料理のとき……た、卵を割ったり……その……」
やはりうまく答えられない。
「だから要は、前の職場で卵を管理する仕事をしていたことから、食材として扱われる卵について、深い興味・関心がある、ということだよね?」
ずいぶん物わかりのいい店長である。
「はい、そうです」
T氏は先ほどよりはスムーズに答えた。
「キッチンとホール、どっちがしたい? まぁさっきからの君の答えを聞いていると、キッチンのほうが向いているような気がするな」
「はい、僕もそう思います」
T氏は背中をピシッと伸ばして答えた。
「じゃあキッチンをやってもらおうかな。うち今、人足りないんだ。早速で悪いんだけど、明日から来てもらってもいいかな」
「わ、わかりました」
本当はもう少しだけ猶予がほしいと思ったT氏であったが、面接という場でそれを言うだけの心の余裕は、T氏にはなかった。かくしてT氏の再就職が、無事決まったのであった。
スーツ姿のT氏が帰宅すると、彼女がいた。まだ夕暮れ前である。ここ数日、というより、同棲してからずっと、T氏が帰宅した際には彼女の姿がある。この女、いったいいつ仕事に行っているんだ、こいつこそ正真正銘のニートなんじゃないかとT氏は勘ぐった。
「おかえりなさい」
彼女はカーペットに寝転んだままT氏を見上げて言った。
「ただいま」
T氏が彼女を見下ろす。この蛇みたいな寝転び方と、まるで危機感のない間抜けな表情を見て、T氏は確信した。この女、間違いなくニートである、と。経験者は語るではないが、このような、重力を前に為すすべなしといった所作はニート特有のものなのだと、T氏は十分に心得ているのだ。
だが、安直にこのことを指摘するのは、さすがに憚られる。彼女の乙女心を傷つけることのないよう、遠回しにさりげなく、且つ回りくどく、事の真相を確かめねばなるまいとT氏は思った。
「スーツを脱ぐと、帰ってきたんだなぁって気がしてほっとするなぁ、あ、スーツといえば、君のスーツ姿ってとても似合うんだろうね」
T氏がスーツをハンガーにかけながら言った。
「ずいぶん長いこと着てないけどね」
彼女が目をこすりながら言う。
「たまには着てあげないと、スーツがかわいそうだよ」
T氏がなおも畳み掛ける。
「だって着る機会がないもの」
彼女が寝転んだまま答える。T氏の確信は一段と強いものになる。
T氏がネクタイを外しながら
「君、ちょっとネクタイつけてみてよ」
と言い、彼女の顔の前にぶら下げると、彼女は
「嫌よ、ネクタイって仕事が終わった後の飲み会で酔っ払いが頭に巻くためのものなんでしょ、男ってほんっとにしょうもないわね」
と言うと、手でそのネクタイを掴んでカーペットに放り投げた。酔っ払いはお前だろ、と言いかけたのをすんでのところでT氏は飲み込んだ。このひねくれ具合はやはりニートだ。
だが、ここから先の攻略への道筋が、T氏には思い浮かばなかった。もうほぼ答えが出ているも同然で、あとは彼女が自分から「私はニートです」と認めるのを待つのみなのだが、そうさせる術が、どうしても思い浮かばないのだ。カツ丼を食わせようにも、彼女は卵が食えないし。
T氏が立ちすくんでいると、彼女が口を開いた。
「今日一日中パソコンとにらめっこだったから、疲れちゃったわ」
ついに吐いた。T氏は心の中で歓喜した。この女、今日一日中ノートパソコンで遊んでいたんだと思うと、ニヤニヤが止まらないT氏であった。
「このノートパソコンで、どんな楽しいことをやっていたんだい?」
T氏がニヤニヤしたまま言った。
「楽しいことなんて、そんなしょっちゅうないわよ」
彼女は上半身を起こしながら言った。
「なんだそれ、変わってるなぁ、楽しいことだけやればいいじゃないか」
「楽しいだけが仕事じゃないわよ」
「へ?」
T氏はへの口のまま固まった。
この日T氏は「テレワーク」なるものを初めて知った。彼女の説明によると、ネット環境があれば、パソコンを通じて会社と情報交換したりできるので、家にいながらでも仕事ができるらしい。どうやら彼女は、この「テレワーク」という働きを取り入れているため、毎日のように出社しなくてもいいらしい。残念ながら彼女はニートではないようだ。「要するに、照れ屋の人間が一人でも仕事できるようにするために開発されたシステムだよね」とT氏が念を押すと、彼女は「違うわよ!」と一蹴した。
僕もテレワークだということにして、明日一日家にいようかな、とT氏は思った。
「着替えたか、おお、Tくん、なかなか似合うじゃないか」
「は、はい、どうも」
「髪の横の部分が少しはみ出ているから、帽子の中に入れてしまって」
T氏は言われた通りに、はみ出ている髪を帽子の中にしまい込んだ。
「オッケー、完璧だね、あと、爪は切ってきたか?」
T氏は手をパーの形にして店長に見せる。
「うん、しっかり切ってるね、初日から気合い十分だね」
T氏の緊張が少しほぐれた。
「では、初日はオリエンテーションということで、店の中を紹介して回るから、私についてきて」
T氏は店長の後をつけた。
「まず最初に、事務所を出てすぐのこの手洗い場で、しっかり手を洗うこと」
店長が洗っている様子を、T氏がぼーっと眺める。
「洗い終わったら上にあるペーパータオルで拭く。拭いたらそこのゴミ箱に捨てる。そしてアルコール消毒。はい、次は君の番」
T氏が蛇口をひねり、手を洗い始める。洗い終わり、蛇口の水を止める。
「Tくん、私の洗い方、ちゃんと見てたか?」
「み、見てはいたんですが、その……」
T氏がしどろもどろに答える。
「もう1度やるから、しっかり見るんだよ」「はい」
T氏は集中力を高めた。
「さっと表面だけ洗うんじゃなくて、指の間や手首もしっかりと、爪先も……それから洗い流す、この洗い流すところも、しっかりやるんだよ」
「わかりました」
「じゃあ、次はしっかりやって」
「はい」
T氏は再び洗い始めた。今度は言われた通り、正しい手順で……。
「うん、そのやり方で大丈夫。じゃ店の中見て回るよ。はい、後ろ振り返って」
言われたままT氏が振り向くと、大きな扉があった。
「ここが冷蔵庫ね」
店長が扉をぐっと引いた。中には段ボールに詰まったキャベツやトマトなどの野菜の他、何に使うのかわからない食材が、ぎっしり詰まっていた。
続いてT氏は、冷凍庫や、常温の食材を保存する倉庫を案内された。大量にある各々の食材が、いったいどう組み合わさってこの店の料理となるのか、T氏には全く以て想像ができなかった。どう考えても自分にはできそうにない、とT氏は思った。
店長が別の場所に移動し始める。T氏もそれに続く。
「ここが食器を洗う所。奥が食洗機で、手前側は食器を漬け込むシンク」
シンクの周りには、水に漬け切れなかった大量の食器が、黄色いボックスの中に溜まっていた。これをその日のうちに洗ってしまうなんて、正気じゃない、とT氏は思った。
店長が見本を示す。
「シンクの中の食器を取って、軽くスポンジで汚れを落とし、ラックに立てかける。ラックがいっぱいになったら、レバーを下ろす」
食洗機がシャーっと音を立てる。
「じゃあ次は君がやって。機械が洗ってくれている間に、別のラックに食器をどんどん立てかけていって」
T氏が四角いラックに食器を立てかけているうちに、機械の音が止む。店長がレバーを上に持ち上げ、洗い上がった食器をラックごと、機械に併設した台の上にスライドさせる。
「これで洗い上がり」
「え、もう?」
洗い始めから二分もあっただろうか、あまりの速さにT氏は驚いた。
「ほら、ぼさっとしない。次もどんどん洗う」
店長に促され、T氏は立てかけた食器をラックごと、左から食洗機へとスライドさせ、上からレバーを下ろした。
「その間にまた別のラックにどんどん立てかける」
T氏が食器を立てかけている間に、つい先ほど食洗機に投入した分が洗い上がる。レバーを上に持ち上げ、洗い上がったラックを右の台へスライドさせ、左の台からこれから洗う分を機械の中にスライドさせたらレバーを下ろす。レバーが食洗機の蓋とスイッチを兼ねている、これはすごい、画期的だ、とT氏は思った。T氏はこの食器洗いの作業を気に入ったようだ。他の作業はなしで、この作業専門で雇ってくれればいいのにな、とT氏は思った。
「洗い上がった食器を仕分けしていくよ」
T氏は店長に指示された通り仕分けていく。洗い立ての食器はまだ熱を持っており、思わず「アチッ」とT氏の声が漏れた。燃えてはいなかった。
次はキッチンに案内された。
「手を洗ったらこのゴム手袋をつけて」
T氏は言われた通り手を洗った。まだ午前中だというのに、もう既に二回も手を洗ったことになる。いや、失敗した分も含めて三度か……。毎日このペースで洗い続けたら、手の油分がなくなってしまうんじゃないかと、T氏は心配になった。
「ハンバーグ成形するよ、今日のディナーの分ね」
店長が適量のタネを手に取り、秤に乗せる。
「一個あたり一七〇グラム」
ものの数秒で、亀裂のない滑らかできれいなハンバーグが完成した。
「Tくんもやってみて」
T氏がタネを手に取る。
「ちょっと大盤振る舞いしすぎかな」
T氏が秤に乗せると、店長の言う通り、二〇〇グラム以上あった。僕は家で茹でるパスタでも何でも、多めに作り過ぎてしまう癖があるらしい、とT氏は思った。
適量に調節した後、ハンバーグの形になるように整える。
「初めてにしては上手いじゃないか。後は空気を抜いてやるんだ、こんなふうに」
店長が、手に持ったハンバーグをパンパンと音をさせながら空気を抜く。T氏も真似をする。
「そうそう、そんな感じ」
ヒビのない泥団子を作るよりもよっぽど簡単だな、とT氏は思った。
勤務二日目、T氏は汗だくの状態で職場に現れた。寝坊して、自転車をかっ飛ばしてきたのである。時刻は午前七時五八分、勤務開始二分前であった。
事務所にいた店長に「おはようございます」と言いながら、T氏は大急ぎで更衣室に駆け込もうとした。だが、店長がそれを制止した。制止するなり「今日はもう帰ってもらっていい」とT氏に言い放った。
T氏は息を切らしながらポカンとした。額からは滝のような汗が流れ続ける。
「うちは飲食店なんだ。衛生面が非常に重要なんだ。そんな清潔感のない身なりで仕事されると、非常に困るんだ。本来なら今日、私と一緒に仕込をやってもらうつもりだったけど、こんな様子ならとてもさせられない。悪いけど今日は帰ってくれ」
店長は毅然として言った。
T氏はうつむき、一言「すみません」と言うと、言われた通り職場を後にした。
汗が染み込んだシャツに春風が吹きつけると、T氏の体はブルッと震えた。T氏は帰ってシャワーを浴びようかと思ったが、今日も彼女はテレワークかもしれないと思い、途方に暮れた。このような形で、家に帰れない夫の気持ちを味わうとは、思ってもみなかったT氏であった。
仕方がないので銭湯に行った。
もう既に定年退職しているであろう老人たち数名が、のんびりと湯に浸っていた。僕はまだ20代だけど、職場を退職した回数ならこの人たちに引けを取らないかもしれないな、とT氏は思った。成り行き次第ではその回数が、さらにもう一回増えるかもしれないのに、T氏は相変わらず呑気であった。
T氏が身体を洗い始める。汚れ切っていない身体は、いとも簡単に泡だらけになった。他の人が流した泡が、T氏の視界にサッと現れてはすぐに消えた。シャワーの湯から立ち上る湯気が目の前の鏡を曇らせ、見るに耐えないやさぐれたT氏の像を覆い隠した。
身体を洗い終え、T氏は浴槽に向かった。腰を落ち着けると、大して疲れていないT氏の身体を湯が包み込んだ。寒い家の風呂と違って、いつまでも入っていられそうだった。実際、いつまでも入っていたかった。まだ家に帰るには早すぎるのだ。
だが、いつまでも入ってはいられなかった。T氏はのぼせた。喉が渇いた。やむなく上がることにした。現実はやはり厳しい。
身体を拭きながら、この後どうしようかとT氏は考えた。せっかく身体を温めたT氏の効用を最大化させる最適な行動とは、どう考えても身体が冷めぬうちに家に帰ることであった。彼女が家にいようとも知ったこっちゃない。
銭湯を出て自転車に乗ったT氏は、汗をかかない程度のスピードを維持しながら家に向かった。
家に帰ると、彼女がいた。
「あら、早かったのね」
彼女はパソコンに向かったままテレながら言った。
「働き方改革の一環で、最近事あるごとに早く帰らされるんだ」
T氏は適当にごまかした。
「あらそう、良かったじゃない」
そう言ったきり、それ以上彼女は詮索してこなかった。
カーペットの上にしばらくの間寝転がっていたが、もっと柔らかい所がいいと思ったT氏は、彼女のロフトベッドの上に移動した。そして当然のように寝転んだ。
うつ伏せのまま、T氏はピクリとも動かなかった。世間の荒波が、重力に抗おうと試みたT氏の戦意をすっかりと喪失させた。多くの人々にとってはさざ波程度の出来事でも、T氏の目には荒波に映るのだから、被害妄想甚だしいったらありゃしない。
そのままただ時間だけが過ぎていった。各々の人間の行為が有意義か無意義かに関係なく、誰にとっても時間は平等に過ぎていく。意義の有無など、地球という名のメリーゴーランドはいちいちそんなもの評価せず、とりあえず全員連れていく。「ちょっと待ってよ地球さん、今T氏が酔いそうなんだよ」と訴えかけても、「T氏? 知らねーよそんな奴」とすら答えてくれない。ツンでもなければデレもしない。どうしてもそんなのが嫌だっていうのなら、火星人にでもなるしかない。重力の弱い星なら、ちっとはどうにかなるかもしれない。帰化申請を受けて受け付けているかどうかは、知らん。
ただただ時間は過ぎ去っていく……。
「ケータイ鳴ってるわよ」
カーペットの上に置きっ放しだったT氏のケータイを彼女が拾い上げると、ベッドの上に投げた。
T氏は転がったままの状態で半身になり、ケータイをパカッと開いた。店長からだった。出たくないとT氏は思った。だが、後から折り返しかけるのはもっと億劫なので、やむを得ず出ることにした。
「は、はいもしもし……」
言いながらT氏は身構えた。
「Tくん、今電話していいか」
特に怒っているようなトーンではない。
「は、はい……」
T氏は身構えたまま返事をする。
「今朝のことだけど……」
「はい」
「一方的に怒って、悪かったな……」
「え……」
T氏は拍子抜けした。
「事情を聞かずに一方的に怒ったのは、悪かったなと思って」
「いやそんな……」
T氏は二の句が継げなかった。
「時間ギリギリに来たのは、何か事情があったのか?」
「……」
「どんな理由でも怒らないから、正直に言って欲しいな」
「……寝坊して……自転車を飛ばして大急ぎで来ました」
T氏は正直に答えた。
「そうか、わかった……」
少しためた後、店長が続けた。
「私の基本的な考えとして、勤務開始までの時間は従業員のプライベートな時間だから、どう過ごしなさいと言う権利は私にはない。だけどもね、今朝言った通り、衛生面、これだけは譲れないんだ、飲食店だから。そこは理解してほしい」
「はい」
「もちろん一方的に強いている訳じゃなくて、そういったところもきちんと評価した上で給与にも反映するつもりだ。今君に私と同じくらいのスピードでハンバーグを成形しなさいというのは、それは無理な注文だろうけど、清潔な身なりで毎日仕事に臨むというのは、心がけ次第でどうにでもなるだろ?」
「はい」
「それに……自転車飛ばして事故にでも遭ったら大変だろ」
「おっしゃる通りです……」
「遅れそうな時は店に電話する。失敗は誰にでもある。自転車飛ばしたりしない」
「はい」
「明日はちゃんと来れるか」
「はい、今朝は本当にすみませんでした」
「ほんとだよ全く、仕込、私一人で大変だったんだぞ。明日は頼むよ、8時半ね」
「はい、すみません……」
「じゃ、電話切るよ」
「はい、失礼します」
「うん、じゃあ明日ね」
電話が切れた。
T氏は心底申し訳ないと思った。どう考えても悪いのは自分なのに、店長に気を使わせて、その上謝らせて、自分はどうしようもない駄目人間だと、自らを責めた。今のままでは駄目だ、少しずつ自分の習慣を変えていかなければと思った。すぐに目覚まし時計を七時にセットした。携帯のアラームも同じ時間にセットした。職場には十五分あれば着くから、起きて一時間以内に支度して、八時には家を出ようと計画した。
「あなた今日仕事で何かやらかしたの?」
彼女が言った。
「うんまあ。でも明日からはしっかりやるよ」
T氏が答えた。
午前八時二〇分、きれいなT氏が職場に現れた。その姿を見た店長が「今日はきれいじゃないか」と言い、ニッと笑った。T氏はペコリと頭を下げた。
店の制服に着替え、手をしっかりと洗ったT氏はキッチンへと向かった。
「今から野菜を仕込んでもらう。まずはレタスから」
店長がレタスを手に取る。
「まず芯をくり抜く。そして角に切る。その際、色の悪い部分は取り除く。切ったレタスは、ここの水を張ったシンクにつけて洗う」
店長がT氏に見本を見せる。
「今やった通りにやってみて」
T氏が見よう見真似で試みる。
「そうそう、そんな感じ。そんでシンクのレタスはじゃぶじゃぶ水で洗った後、ザルに取る。ザルに上げたレタスはザルのままここにあるかごの上に置いて、上から濡れた布巾を被せる」
T氏がレタスを洗い始める。
「私は他の野菜仕込むから、布巾被せるところまで終わったら教えて」
「わかりました」
T氏がジャブジャブ洗う。水の冷たさにも負けず、T氏はしっかり汚れを取り除いていった。丁寧な仕事をやるんだと、心の中で唱えながら……。
洗い終えたレタスに布巾をかぶせたT氏は、店長に「終わりました」と報告した。
「ご苦労、じゃ確認するな」
店長が布巾をめくる。
「形はよし、汚れも取れてるね、少し色の悪い部分があるから、そいつだけ取り除いてやってくれ」
「わかりました」
T氏は取り除きながら、ちょっと詰めが甘かったな、と思った。
「あと、布巾、濡れてないぞ。水で濡らして軽く絞る。レタスの乾燥を防ぐためだ」
「あ……はいす、みません、忘れてました……」
だいぶ詰めが甘かったと、T氏は反省した。
「次からは頼むよ」
「はい」
「じゃあ次はねぎ。よく見ておくように」
「はい」
「まず洗う」
店長が蛇口をひねり、小ねぎを洗う。
「両端を切り落とす、そして刻む。体を半身にしてリズミカルに」
半分ほど刻んだ後
「じゃ選手交代」
と言い、T氏と交代した。
「手切るなよ」
「はい、気をつけます」
T氏が刻み始める。
「あれ、思ったよりも上手だ。もっとぶっといねぎになるかと思ってたのに」
褒められて嬉しかった氏はつい、ニヤついてしまう。
「君は素直だな、素直な奴は伸びる」
今日はやけに褒められる。昨日怒った埋め合わせだろうかと、T氏は勘ぐった。この男はアメとムチを使い分けるタイプだな、とT氏は思った。
だが実際、店長が言ったのはお世辞でも何でもなく、T氏の切ったねぎは、大きさにばらつきのない、均整のとれたものであった。それもそのはず、T氏は家で好物のうどんを調理する際、必ずと言っていいほどそこには自分で刻んだねぎが入る。T氏にとって、ねぎやしょうがといった薬味を刻むことなど、昼飯前なのである。
「君がある程度包丁が使えるみたいで安心したよ」
「家にあるやつより切りやすいです」
「そりゃ業務用だからな。使いやすいなら良かった。それじゃあ次、手を洗ってゴム手袋」
T氏が言われた通りにする。
「おとといやったハンバーグ、一日空いたけど覚えているか?」
店長が手にタネを取る。
「何グラムだったか?」
「百……七〇グラム」
「そう、その通り。パンパンと中の空気を抜きながらも、亀裂が入らないように」
T氏も成形する。
「そう、そんな感じ。一個一個計りながら正確にな」
「はい」
T氏はひたすハンバーグを成形し続けた。全て成形し終えるまで、1時間要した。慣れない作業に集中し続けたため、成形を終えたT氏は少し疲れを感じた。
「Tくん、一個焼いてみろ、私も一個焼くからその隣で」
「はい」
店長が鉄板の上に置いたのを見て、T氏もそれに倣った。
「一六〇℃の鉄板で、表三分、裏三分」
三分経ち、裏返す。
ジューっと音を立てたハンバーグの美味しそうな匂いが、T氏の鼻をついた。
焼きあがったハンバーグを皿に乗せる。
「食べてみろ」
T氏は自分の焼いた分を箸でつまみ、口に運んだ。口の中で肉汁がジュワッと広がった。
店長が「私が焼いたほうも食べてみろ」と言うので、T氏は口に運んだ。美味かったが、何だか少し硬いような気がした。
「どっちが美味しいと感じたか」
店長が尋ねた。
T氏は答えに窮した。自分で焼いたハンバーグのほうが美味しく感じたが、経験豊富な店長が焼いたのより美味しいはずなどあるはずもない。きっと自分の味覚がおかしいのだろう、とT氏は思った。
「思ったままのことを言えばいいよ」
T氏は悩んだ挙げ句、次のように答えた。
「僕は……どちらかといえば、柔らかめのハンバーグのほうが好きだから……」
「そうだろ、自分で焼いたハンバーグのほうが美味しかっただろ」
T氏はしどろもどろになりながら
「は、はい、そういうふうに感じてしまいました……」
と答えた。
「なぜだかわかるか」
「わかりません……」
「私が焼いたのは、しっかりと空気抜きをしなかったハンバーグなんだ。そのせいで焼いている際中にヒビ割れてしまい、肉汁が外に逃げてしまったんだ。一方で君が焼いたハンバーグは、しっかりと空気抜きがされ、且つヒビがないように成形されたものだったから、肉汁が外に逃げず、ふわっと美味しく焼き上がったんだ。空気抜きひとつでここまで味に違いが出るなんて、驚いたろ?」
「はい、全然違いました」
「ひとつひとつ、丁寧に空気抜きをやる必要性を、わかってくれたか」
「はい、これからも丁寧にやります」
「ならよろしい。これは今日のまかないだ。事務所で食べる。食べ終わったら後片付けして今日は帰っていいよ」
「え、まだ午前中なのに」
「一遍に全部覚えようとしても覚えられないだろ。一ヶ月は研修期間だ」
「わかりました」
皿と箸を持って事務所へと向かおうとするT氏に、店長が「好きなソースかけてけ」と言った。「ソーッスね」とは言わず、素直に「ありがとうございます」とT氏は言った。まだまだそこまでの関係性は築けていない。T氏はトマトソーッスを選んだ。
T氏が事務所でハンバーグを食べていると、一人の初老の男がとぼとぼと事務所に入ってきた。
「やぁ、君が新しく入った人かい?」
男がT氏に話しかけた。
「は、はい、今月からここで働くことになりました、Tと申します」
T氏は礼儀正しく答えた。
「いやー、新しい人が入ってきてくれて助かるよ。僕ももう年だから、毎日キッチンに入るのがだんだんしんどくなってきてねぇ……あ、僕の名前、Gといいます、どうぞよろしく」
Gさんは愛想よく言った。T氏も「よろしくお願いします」と返した。
「仕事はちとずつ覚えていったらええよ」
Gさんはパイプ椅子に腰かけながら言った。
「はい、ありがとうございます」
とT氏は言うと、皿を持って立ち上がり
「では、僕は仕込の後片付けをしてくるので、失礼します」
と言い、キッチンへと向かっていった。
四月下旬のある日、T氏と彼女は、とあるスーツ屋にいた。スーツといっても、ビジネススーツを売っている店でもなければ、ガンダムのモビルスーツの類のものを売っている店でもない。二人がいるのは、「ウェットスーツ」を売っている店である。
T氏の予感は正しかった。やはりトライアスロン、やるらしい。七月にある大会の参加費を、既に彼女が二人分払ってしまったらしいので、T氏はもう逃げたくても逃げられないのだ。
トライアスロンの第一種目であるスイムでは、このウェットスーツというものを着用するらしい。海を泳ぐ際にこれを着用することで浮力が得られるため、安全面という観点から着用が義務付けられているようである。
店にあるウェットスーツを見回したT氏であるが、その値段に驚いた。一番安いものでも二万円で、中には八万を超えるようなものもある。
「結構な値段するんですね……」
T氏が店主に向かって言った。
「初心者の方はそう思われるかもしれませんが、一度買ってしまえば長く使い続けることができますよ。ですから良いものを選ばれることをオススメします」
店主は笑顔で言った。二万円のでいいや、とT氏は思った。
更衣室から腕と脚の部分にピンクと白のラインが入ったウェットスーツを着た彼女が出てきた。
「すごくフィットする。私が着るために作られたんじゃないかっていうくらい。私これにするわ!」
彼女は上機嫌だった。
「相性の良いものに出会われて、お客様幸運ですね。うん、すごくお似合いですよ」
店主が笑顔で答えた。
「じゃあ僕はこれで」
T氏が二万円のスーツを指差した。
「何よこの全身真っ黒で地味なの、センスない。あなたがサイクリングのときいつも着ているあのダサイクルジャージと同じじゃないの!」
彼女が痛烈に非難した。
「作った人に謝れ! スーツとジャージ両方の」
T氏は言い返した。
「この胴の部分が青いスーツにしなさい。海の男って感じで似合うわよ、きっと」
「海の男かぁ……」
一〇秒ほど熟考した後、T氏は八万円払って海の男になることを決めた。
「くそ、また周回遅れか」
これで二度目である。彼女との差は800m開いたことになる。
T氏と彼女は今、一周400mのとある陸上競技場走っている。実際のトライアスロンの最終種目であるラン10㎞を、正確な距離が把握できる場所で走っておきたいと彼女が提案したからである。
10㎞というと、400mのトラック25周分である。25周という数字を彼女から聞かされるや否や、T氏は目眩がした。中学校の部活動なんかで時折見られる、「罰としてグラウンド○周走れ」という顧問による理不尽な命令の相場はおおよそ10周くらいであることを考慮すると、今日走るのはその二・五倍もあるのだから、T氏がそのような反応を見せるのは無理もない。
T氏は自分がこれまで何周走ったのか、正確には把握していなかった。多分10周以上はとうに走ったような気がしていた。走り始めてしばらくは律儀に周回数をカウントしていたT氏であったが、彼女が走り終えた時点での自分の周回遅れ分さえ把握していればいいのだ、という素晴らしいアイデアを一度目の周回遅れの際に思いついてからは、カウントするのを放棄したのである。
この日のT氏は絶不調であった。「豚肉に豊富に含まれるビタミンB1は、炭水化物をエネルギーに変える手助けをする」という彼女から授かった栄養学の知識に基づき、前日の仕事帰りに豚骨ラーメン屋に寄り、おまけに替え玉までしたというのに、このざまである。とにかく身体が重い。
いくら炙ったところで絶対に美味しくならないT氏の身体をも、太陽は容赦なく炙り続ける。日光を浴び続けたことにより、T氏の体内には新たなビタミン、Dが生成される。T氏の身体はますます重くなる。おそらくT氏とビタミンの相性は、悪い。
ネズミみたいに同じ所ぐるぐる回って何が面白いんだ、どうせ同じネズミなら、こんなところでドブネズミに扮するよりも、ディズニーランドにいる愉快なネズミキャラになりたい、とT氏は思った――炎天下の中あの被り物に収まって動き回るの大変なんだぞ、と彼らは言うかもしれないが、人気者になれる上に、金までもらえるんだからいいじゃないか。僕が汗だくになりながら走ったって、金なんて誰もくれやしないんだぞ。
ドブネズミの脇を、その飼い主が颯爽と駆け抜けた。これでもう三度目である。
彼女が走るのを止めた。彼女は25周走り終えたようだ。ということは、T氏はスタート地点まで走った後、もう3周すればゴールである。
ここにきてT氏の身体は、ようやく少し軽くなった。終わりが見えたことで、T氏のやる気が上がったようだ。残り3周、大した距離ではない。T氏はもう既に22周も走っているのだ。
残り2周になった。彼女が「無理しないでいいのよ」と声をかけた。無理も何も、ここまできて止める馬鹿がどこにいるんだ、とT氏は思った。
残り1周、ラストスパート。T氏はさらにペースを上げた。
ついにゴールした。T氏の心は、達成感で満ち溢れた。
スポーツドリンクをT氏に渡しながら、彼女が言った。
「練習だと思って少し多めに走ったけど、まさかあなたも同じ距離走るとは思わなかったわ」
T氏は理解するのに数秒要した後
「と、当然じゃないか」
と振り絞るように言った。やはりちゃんと数えていりゃあよかったと、T氏は後悔した。
五月中旬のある日、T氏と彼女はとあるバイク屋にいた。この日T氏が買わされようとしているのは、ロードバイクといういわゆる競技用の自転車である。どうやらT氏が普段乗っているクロスバイクでは、今度の大会には出場できないらしい。
T氏はこの店に置いてある中で最も安い、それでも十万円もするアルミ製のロードバイクがいいんじゃないかと思っている。にもかかわらず、店主はしきりに二十万円もするカーボン製のロードバイクを薦めてくる。さらに厄介なことに、彼女までもが店主の味方である。
だが、今日のT氏は気合が入っていた。今日こそは自分の意思を貫き通すのだと燃えていた。何でもかんでも多数決で決着をつけようとするのが民主主義の正しいあり方だと思ったら大間違いだ! 時には少数派の意見だって聞いてくれなくっちゃあ困る! とT氏は心の中で叫んだ。
先手必勝! と言わんばかりに、まずT氏が口を開いた。
「こないだ黒はダサいと言っていたのに、何で今になって黒いフレームを推してくるんだ、おかしいだろ、まるで一貫性がない」
「全ての黒が駄目だなんて言ってないわよ」
彼女が応援する。
「黒は黒じゃないか、白黒はっきりしない奴だな」
「あなたが持っているあの黒いジャージみたいにまるで無個性で、とりあえず安かったから買いました感が滲み出ているような黒がダサいって言っているのよ」
「じゃあ君が推しているこの黒いフレームのロードバイクは、どうダサくないのか説明してよ」
”Made in Germany”
「日本人としての誇りはないのか」
「質実剛健なドイツ人らしいシックで高級感溢れるデザインは、日本の職人のメンタリティにも通ずるところがあるわ」
「病人めいたデザインがいいというのかい」「そのシックじゃないわよ!」
ここでもう一人の敵が口を挟む。
「見た目もさることながら、コストパフォーマンスという点でも、初心者の方が乗るのには素晴らしい一台です。レースに出るというのならなおさらです。ガタガタするような路面でも、カーボンフレームが衝撃を和らげてくれるため、長時間乗っても疲れにくいですし、フレームが軽いので、上り坂もスイスイ登れますよ」
「デザインも良くて走行性能まで優れているなんて最高じゃない」
「そうかぁ……」
T氏の当初抱いていた意志が揺らぎ始める。だが、自転車に二十万円というのが、どうも引っかかる……。
「持ってみれば、重さの違いはよくわかりますよ」
T氏は店主に促され、十万円のアルミフレームのロードバイクを持ち上げた。これでもT氏が持っているクロスバイクに比べれば、十分軽かった。
次に二十万円のカーボンフレームの方を持ち上げた。予期していた通り軽かった。あれほど薦めておいてアルミフレームより重かったら、人間不信になっていただろう。
「ね、軽いでしょう⁉」
店主は意気揚々と言った。
「そうですね……でも、軽い分壊れやすかったりしないですか」
「軽い上に耐久性も優れているのが、カーボンフレームの特性なんですよ」
店主が笑顔で言った。彼女が口を挟む。
「軽いから壊れやすいなんて、あなたって本当に短絡的ね。軽くて丈夫な素材なんて、世の中見渡せばいっぱいあるわよ。人間だってそうじゃない、痩せている人の膝と太っている人の膝はどっちが壊れやすいかってことよ」
「それは強引な説明だな、その理論でいくと、脳みその軽い人の方が認知症になりにくいということになるよ」
「認知症になるような年齢まで長生きしているってことじゃないの」
「ああ言えばこう言う」
「お互い様よ!」
「まあまあ」
店主がふたりをなだめる。こういうバカップル相手でも、笑顔で接客しなければならないのだから大変である。
「お客さんは背が高くて腕も長いから、普通の人が乗るよりもかっこよく乗りこなせると思いますよ」
お世辞まで言わなければならないのだ。
「ヨーロッパ製のロードバイクを、日本人の僕がかっこよく乗りこなす……」
T氏が黒い眼を輝かせる。
「残念なことに、体格や雰囲気が合わなくてかっこよく乗りこなせない方もおられるんです。バイクも乗る人を選ぶと言いますか、そういった方には別のロードバイクをお薦めするのですが、お客さんの場合、きっとこのロードバイクが似合います!」
「わかりました、僕、このロードバイク買います!」
T氏はロードバイクに選ばれた男としての、「かっこよく乗りこなす」という使命を果たすのだと決意した。
「ありがとうございます!」
こうも簡単に言いくるめられるT氏に、もう一つ上のグレードにあたる三十万円のバイクを売りつけようとしない辺り、この店主は聖人君子である。いや、単に、この男には三十万円の支払い能力はないだろうと判断しただけなのかもしれない。
「ヘルメットはどうされますか?」
T氏が今回、ロードバイクよりも買いたがっていたものである。彼女の原付用のヘルメットとは、一刻も早くおさらばしたかったのだ。
「君が選んでよ、僕に似合いそうなやつを」
T氏は彼女に言った。どうせ言いくるめられるのだから、最初から戦わないに越したことはない。猫が虎に挑んで勝てるのは、プロ野球の世界だけだ。
「夏にある大会だから、この通気性が良さそうなのがいいんじゃない」
「じゃあこれにするよ」
赤と白が入り混じったそのヘルメットの値段は、三万五千円であった。
「それとバイク用のシューズですが……」
まだ買わなければならないものがあるらしい。
「トライアスロンに出られるのなら、簡単に脱ぎ履きできるこのタイプがオススメです」
店主がT氏に見せたシューズは、マジックテープのベルト一つで足首周りを固定するタイプのものであった。「簡単に脱ぎ履きできる」という点が、T氏は大変気に入った。一万五千円。
その他、夏用のサイクルジャージは彼女が買ってくれた。
この日T氏が支払った額は、計二十五万円+税であった。
「トライアスロンは努力次第で誰にでも完走できる」
T氏が彼女の家で選んだ、初心者向けのトライアスロン雑誌には、こう書かれていた。確かにその通りなのかもしれないが、一つ重要な文言が抜けていると、今日T氏はまざまざと実感した。
「金があれば」
金がない者は完走はおろか、スタートラインにすら立てないのだ。
いや、ひょっとすると「努力次第で」という文言には、「努力して金を稼ぐ」という意味も含まれているのか。もしこのことを著者に問うたら、意図しているいないにかかわらず、「そうに決まっているじゃないか」と答えるだろうとT氏は思った。ちょうど、「あのホームランは狙っていたんですか」と聞かれたプロ野球選手が、「もちろんそうだ」と自信満々に答えるかのごとく……。
この日彼女とT氏の部屋には、白と黒の2台のロードバイクが並んだ。