除夜の鐘が鳴ると、T氏は右手の甲に目を遣り、「ついに抜けなかったな」と呟いた。小指の付け根から少し下った所にある、一本だけ異様に太い毛。自然に抜けるのを待っていたら、二センチほどの長さまで成長していた。
年越しまで残り十五分。寝転んでいたカーペットから身体を起こして立ち上がったT氏は、年越しそば用のお湯を沸かすべくキッチンへと向かった。
母親の分と合わせて二人分のお湯を沸かしている間T氏は、母親の分の狐そばのかやくとT氏のカップ焼きそばのかやくを、それぞれの麺の上に乗せた。
こういうとき、カップ麺は便利だ。各々の好みが違っても、お湯さえあればどうにでもなる。多様な社会の実現に向けて、カップ麺たちよ、これからも先陣を切って突っ走ってくれ、とT氏は心の中で叫んだ。
T氏の心の叫びに同調するかのごとく、火にかけたやかんが甲高い声を響かせた。
生まれたてのお湯を、それぞれの麺の上に注ぐ。必要な量を注ぎ終えると、ぴったりとお湯がなくなった。
今年一年を思い返す。T氏にとって大きく変わったことといえば、何よりもまず、人生初の恋人ができたことであった。そしていざデートとなると、想像していた以上に大変だった。以前よりも食べる量が増えたのに、体重は減った。彼女とのデートは、とにかくカロリーを消費する。だが、そんな彼女とのデートを特に嫌だとは思わなかったし、むしろT氏は幸せであった。「幸せ太り」ならぬ「幸せ痩せ」とでもいったところか。
ただ、不安もあった。T氏の中で、未だ拭い切れぬ一つの疑念……。なぜ彼女は自分の恋人になってくれたのか、彼女が自分のどこを気に入ってくれたのか、いまいちT氏は釈然としないのである。それゆえ、彼女の突然の気まぐれにより、別れを切り出されるようなことを想像してしまい、その度にT氏の胸は締めつけられる。
お湯を入れてから三分経過した。母親の分が先にできた。T氏のは五分なので、あと二分待たなければならない。多様性を認め過ぎるのも問題だな、とT氏は思った。
後入れのスープを入れながら、よく見ると、狐ではなく狸そばであることにT氏は気がついた。化けていたのか? どっちがどっちに? まぁどっちでもいいや、うどんがそばに化けたりしていないだけまだマシだ、とT氏は結論づけた。
ぼんやりテレビを眺めている母親の前に、完成したそばを運び終えると、T氏はキッチンに戻った。まだ五分経過していなかったが、硬めでいいやと思ったT氏は、湯を切り始めた。この辺りは、作り慣れているT氏ならではの匙加減であった。
湯を切った麺にソースを絡めよく混ぜ合わせると、ようやくT氏の焼きそばが完成した。
母親の隣でテレビを見ながら啜っているうちに、年が明けた。T氏のケータイが鳴った。彼女からのメールだった。
「新年明けましておめでとう、初詣、いつもの駅に九時ね、よろしく」
すぐさまT氏も
「明けましておめでとう、了解した」
と返した。
残りの麺を平らげると、例の太い毛を左手の親指と人差し指でつまみ、とうとうブチッと抜いてしまった。容器を片づけると、朝の初詣に備えて、寝る態勢を整え始めた。
年越しまで残り十五分。寝転んでいたカーペットから身体を起こして立ち上がったT氏は、年越しそば用のお湯を沸かすべくキッチンへと向かった。
母親の分と合わせて二人分のお湯を沸かしている間T氏は、母親の分の狐そばのかやくとT氏のカップ焼きそばのかやくを、それぞれの麺の上に乗せた。
こういうとき、カップ麺は便利だ。各々の好みが違っても、お湯さえあればどうにでもなる。多様な社会の実現に向けて、カップ麺たちよ、これからも先陣を切って突っ走ってくれ、とT氏は心の中で叫んだ。
T氏の心の叫びに同調するかのごとく、火にかけたやかんが甲高い声を響かせた。
生まれたてのお湯を、それぞれの麺の上に注ぐ。必要な量を注ぎ終えると、ぴったりとお湯がなくなった。
今年一年を思い返す。T氏にとって大きく変わったことといえば、何よりもまず、人生初の恋人ができたことであった。そしていざデートとなると、想像していた以上に大変だった。以前よりも食べる量が増えたのに、体重は減った。彼女とのデートは、とにかくカロリーを消費する。だが、そんな彼女とのデートを特に嫌だとは思わなかったし、むしろT氏は幸せであった。「幸せ太り」ならぬ「幸せ痩せ」とでもいったところか。
ただ、不安もあった。T氏の中で、未だ拭い切れぬ一つの疑念……。なぜ彼女は自分の恋人になってくれたのか、彼女が自分のどこを気に入ってくれたのか、いまいちT氏は釈然としないのである。それゆえ、彼女の突然の気まぐれにより、別れを切り出されるようなことを想像してしまい、その度にT氏の胸は締めつけられる。
お湯を入れてから三分経過した。母親の分が先にできた。T氏のは五分なので、あと二分待たなければならない。多様性を認め過ぎるのも問題だな、とT氏は思った。
後入れのスープを入れながら、よく見ると、狐ではなく狸そばであることにT氏は気がついた。化けていたのか? どっちがどっちに? まぁどっちでもいいや、うどんがそばに化けたりしていないだけまだマシだ、とT氏は結論づけた。
ぼんやりテレビを眺めている母親の前に、完成したそばを運び終えると、T氏はキッチンに戻った。まだ五分経過していなかったが、硬めでいいやと思ったT氏は、湯を切り始めた。この辺りは、作り慣れているT氏ならではの匙加減であった。
湯を切った麺にソースを絡めよく混ぜ合わせると、ようやくT氏の焼きそばが完成した。
母親の隣でテレビを見ながら啜っているうちに、年が明けた。T氏のケータイが鳴った。彼女からのメールだった。
「新年明けましておめでとう、初詣、いつもの駅に九時ね、よろしく」
すぐさまT氏も
「明けましておめでとう、了解した」
と返した。
残りの麺を平らげると、例の太い毛を左手の親指と人差し指でつまみ、とうとうブチッと抜いてしまった。容器を片づけると、朝の初詣に備えて、寝る態勢を整え始めた。