タウンロープの発行開始から一月ほど経つと、苦情の嵐は峠を越して、職場に落ち着きが戻ってきた。大赤字で会社は潰れると思われたが、なんとか持ち堪えていた。
 もちろんこれは道明寺と桃山が賽銭を盗んで資金繰りをして凌いだ結果だが、春菜や正太郎はこの犯行のことは一切知らず、倒産しなかったことを素直に喜んでいた。
 しかし、猫彦は複雑な気持ちだった。道明寺と桃山が賽銭泥棒かもしれないという疑念を、未だ抱いていたからである。そして、その疑念は日を追うごとに猫彦の中で育っていった。

 そんなある日。道明寺が社員を一室に集めて朝礼をした。
「社員旅行をしようと思う」
 ドヤ顔をして道明寺は社員たちを見渡した。桃山は事前に社員旅行のことを知っていたようで、黙ってうんうんと頷いている。驚いたのは猫彦と春菜である。これまで八年間勤めていたが、社員旅行など一度もなかったからである。
 猫彦は様々なことが頭の中をごそごそ動き回ってしまい、はぁ、と情けない声を漏らして春菜を見た。春菜は「へええ、素敵じゃないですか」と言って目を輝かせた。正太郎も嬉しそうである。猫彦は春菜と正太郎がまんざらでもない様子を見て、それならまあいいかと思った。

 異論がないことを確認した道明寺は、旅行の計画を説明し始めた。
「目的地は群馬県のおしるこ温泉。交通手段は電車とタクシー。一泊二日の旅になる」
「おしるこ温泉?」
 春菜が素っ頓狂な声を上げた。
「そう、おしるこ」と道明寺が平然と言う。
「あの、小豆とか砂糖を混ぜて作るおしるこですか?」正太郎が質問したので、猫彦は思わず吹き出してしまった。そんな温泉があるはずがない。名前が「おしるこ」なだけで、普通の温泉に決まっているじゃないか。
 ところが、道明寺は真面目な顔をして「そう、あの甘いおしるこが湧いてるんだ、日本で唯一」と言ったものだから、猫彦は面食らった。そんな馬鹿な。
「へえええ、不気味ですけど、おもしろそうですね」
 と興味津々の春菜。それに加え、旅行の費用はすべて会社が持つということなので、春菜と正太郎のテンションが一気に上がった。桃山は腕組みをして、うんうんと頷いている。
 一体どういう風の吹き回しだ。盗んだ賽銭で旅行をするのだろうか。ひたすら心配になった。全員の都合のよい日から旅行の日が決まり、朝礼は終わった。


 ゴールデンウィークの初日、社員旅行の一行は朝の東京駅に集合した。ここから新幹線で高崎まで行き、さらにローカル線を乗り継いで数時間移動する。
 旅の序盤では、皆でおしゃべりなどをしていたが、さすがに列車に何時間も揺られていると飽きてきて、全員ぐったりして口数が減った。
 ローカル線になると猫彦たち以外に乗客はおらず、列車は淡々と山の中を突っ切って走った。トンネルを抜けるごとに森は深さを増し、しまいには枝や葉が列車の窓ガラスにガサガサと触れるほどになった。

 午後二時、一行は善財という名前の無人駅で降りた。駅は山に囲まれていて、辺りには店も民家もなかった。頼りない細い道路に宿の送迎のワゴン車が停車していた。
 中の運転手が一行に気付くと車から出て手を振った。運転手は正太郎と同じくらいの年の男だった。次はあれに乗るぞと道明寺が言って歩き出したので、皆がそれに続いた。

 山をぐるぐると回りながら一時間ほど走ると、未舗装の林道に入った。全員が一様にぐわんぐわんと前後左右に同じタイミングで揺れた。しばらくすると、後部座席の真ん中に座った猫彦の左右の肩に、眠った春菜と正太郎が頭を預けてきたので、猫彦は身動きができなくなった。
 猫彦の前のシートに座った道明寺と桃山も眠っていた。猫彦は起きているのが自分と運転手だけだと分かると、自分が眠ったらどこか知らないところに連れ去られるような恐ろしい気持ちになって、眠らないようにした。

 宿は切り立った崖の上にあった。ワゴン車の運転手は、崖の前でクルマを停めて一行を降ろすと、ここからは階段で上りますと言った。階段は岩を削って段状に拵えたもので、錆びた手すりが岩に打ち付けてあったが、かなり急で危険な感じがする。
「なんであんなとこに宿建てるかな」
 と桃山が崖を見上げて愚痴っぽく呟くと、
「たしかに大変ですが見晴らしは最高ですよ。おしるこ温泉も上です」
 と運転手が先頭に立って歩き出した。さあもう一息だと道明寺。桃山はやれやれという仕草をしてそれに続く。
 春菜が踵の高いブーツを履いていたので、正太郎は大丈夫ですかと腕を組むようにして一緒に階段を上り始めた。猫彦はおかしな夢でも見ているような気持ちになって、しばらく崖の上の宿を茫然と眺めていたが、ふと我に返ると皆を追って一段飛ばしで階段を上っていった。

 崖の中腹で足を休めると、大きな黒い鳥がぐるぐると飛んでいるのが見えた。あれは、と猫彦が聞くと、
「この辺りに生息している鳥です。獰猛ですがこちらが手を出さなければ襲ってくることはありません」
 と運転手が言った。
 崖の上まで上り切ると、猫彦は、おおーと感動の声を漏らした。周辺の山々を一望することができたのだ。
 空は夕焼けで、赤や紫や橙の懐かしい色が雲と溶け合い、飴のように見えるなと思っていると、周囲に砂糖を溶かしたような甘い匂いが漂っていることに気付いた。
「なんか甘い匂いがする」
「たしかにしますね」と正太郎。
「これがおしるこ温泉の匂いです」
 運転手が少し離れたところにある竹垣を指した。竹垣に囲われた中から、もうもうと湯気が上がっていた。

 宿は明治時代に建てられた古い旅館で、夫婦と息子一人によって営まれていた。
 先の一行を案内してくれた運転手が、七代目になる予定の息子で、名前を犬丸といった。旅館内の木製の柱や床は年季が入って黒光りしており、これはおしるこ温泉の蒸気が長年に渡って染み付いたものではないか、と猫彦は思い、心なしかべたついていると感じた。
 宿泊客はこの一行以外におらず、主人はどの部屋も自由に使ってよいと言った。すべて和室で、道明寺と桃山、猫彦と正太郎、春菜の三組に分かれることになった。
 それぞれ部屋に手荷物を置くと、食事の準備が整いましたと犬丸が来たので、休む間もなく、全員慌ただしく宴会場のような広間に集まった。

 お膳には鮎の甘露煮、だし巻き卵、胡麻豆腐、黒豆。料理はどれも美味いが、例外なく甘かった。春菜が料理について犬丸に尋ねると、おしるこ温泉から精製した砂糖を、すべての料理に使っているということだった。
 猫彦はうまいうまいと食べていたが、食後に出された羊羹はさすがに甘すぎて半分残した。濃厚でねっとりした甘口の日本酒を二合飲んでしばらくすると、一日の移動の疲れが体から溶け出して、猫彦の意識は水飴のようにとろんとして、いつの間にかその場で眠ってしまった。


 満月の夜。
 猫彦は神社の境内を歩いていた。
 足下でざくざくと音を立てているのが、どうも砂利の感触とは違うなと思い、よく見ると氷砂糖だった。氷砂糖は月明かりで水晶のように輝いている。
 猫彦は真っ白な狛犬を見つけた。
 駆け寄って手で触ると石ではないようだった。もしやと思い舌を出して狛犬の足を舐めると、狛犬は飴細工だった。こんなに甘いものばかりだと虫歯になってしまうと思い、口を濯ごうと手水舎に向かった。
 柄杓を取って水を汲み口につけると甘い蜜で喉が焼けるようだ。猫彦はむせ返り思わず柄杓を放り投げた。
 この世の物が残らず甘いものに変わってしまったのではないか。
 不安で居ても立ってもいられない気持ちになってきた。いよいよ鼓動が高まってくると忙しなく境内を走り回り、挙句滑って転んで氷砂糖が口に入って、悲鳴を上げそうになった。
 そうだ、と跳ね起きて、参拝することにした。神に祈ればこの異常な状況が消滅すると信じたからである。猫彦は拝殿に続く参道を全力で走り出した。
 走っている間、暗闇が重たい餡子のように肩にのしかかってくるのを感じて、体が少しずつ金縛りのようになってきた。拝殿の前まで来たとき、足がもつれてつまずき、猫彦は一回転して背中から大きな塊に激突した。
 大きな塊は賽銭箱だった。
 ひっくり返る賽銭箱から、大小の赤青黄、色とりどりのコンペイトウが何百も鮮やかに飛び出してきらきらと夜空に舞った。
 仰向けに倒れた猫彦が、唸って目を開けると、ふいに道明寺と桃山の大きな顔が目に飛び込んできた。混乱の極致に達した猫彦は、ついに叫び声を上げた。
「うわっ! 賽銭泥棒!」


 猫彦は酒を飲んで、そのまま広間で小一時間ほど眠って、甘い悪夢にうなされていたのだった。
 賽銭泥棒と言われた道明寺と桃山はぎょっとして、顔を見合わせてものすごい形相のまま固まってしまった。猫彦の絶叫で広間の時間が凍ったようになったが、あははははははと春菜の笑い声が響くと、「猫彦さん何言ってるんですか」と正太郎が続いて笑い転げ、再び和やかな空気になった。
 春菜と正太郎は、道明寺と桃山が賽銭泥棒であることを知らない。猫彦が単に寝ぼけて「賽銭泥棒」という寝言を絶叫したものだと思って、腹を抱えて笑っているのだった。

 猫彦は夢と現実が混ざり合い、何が何だか分からない錯乱状態だったが、冷静さを取り戻すのと引換に、自分は取り返しのつかないことを口走ってしまったことに気付いた。
 猫彦はかつて目撃した賽銭泥棒が道明寺と桃山であると確信してはいなかったが、もしそうなら、自分がその犯行の目撃者であることを明かしてしまったことになる。
 なんてことを叫んでしまったんだと激しく後悔した。
 道明寺は、春菜と正太郎が大笑いする姿を見て、
「猫彦君何言ってるんだよ、だれが賽銭泥棒だって?」
 と笑った。しらを切ると決めたようである。桃山も調子を合わせて、
「賽銭泥棒とは失礼しちゃうな」
 と引きつった笑顔を浮かべた。
 猫彦は仰向けのまま、
「失礼しました。何でこんなこと言っちゃったんだろう」
 と言って頭を掻いた。そして、どうか道明寺と桃山が賽銭泥棒とは関係ありませんようにと思った。
「猫彦さん、温泉行きませんか」
 正太郎が提案したので、猫彦は温泉に行くことにした。春菜もそれに続いたが、道明寺と桃山は部屋に残った。
 三人が旅館の外に出ると辺りは真っ暗で、標高が高いこともあり肌寒さを感じた。温泉の場所は、宿に到着した時に犬丸に教えられていたので迷うことはなかった。ぞろぞろ歩いていると、お客さま〜と声を上げながら犬丸が小走りでやって来た。
「これを温泉に入れてお楽しみください」
 小さな包みを三人分渡すと、引き返して行った。
 浴場に近づくと、おしるこの甘い匂いが強まってきた。普通なら硫黄の匂いがするところだなと猫彦は思った。
 露天風呂を囲う竹垣の脇に小さな小屋があり、そこが脱衣所になっていた。
 男と女で分かれていたので、入り口で春菜と別れた。猫彦と正太郎は服を脱いでカゴに入れ、犬丸からもらった包みを持って脱衣所から出た。

 おしるこ、としか言い様のない小豆色の液体が露天風呂を満たしていた。
 立ち上る湯気の匂いも、完全におしるこのものだった。
「ほんとに入っても、大丈夫ですかね」と正太郎。
「温泉なんだから平気じゃないかな」
 と猫彦は言って、恐る恐る右足をおしるこに入れてみた。
 足がすんなりと入ったので、そのまま腰まで浸かった。
「おおおー」
 と猫彦は溜息を漏らした。幸せ。
 湯の肌触りはぬるぬるとしており、手で掻くと若干のとろみを感じた。この独特のとろみが、全身を優しく包むようにして温めてくれるのだと猫彦は思った。
 猫彦の至福の表情を見て安心したのか、正太郎も入った。
 湯の底には玉砂利が敷き詰められており、
「猫彦さん、これ」
 と正太郎が両手で拾い上げた玉砂利はどれも赤褐色で、まるで小豆のように見えた。
 味はどうなっているのかと思い、猫彦は湯を手で取ってぺろりと舐めた。
 おしるこの味だった。
 人口甘味料の甘さではなく、いかにも天然の甘みといった上品な甘みで、どういうわけか小豆の風味まで感じることができた。
 不思議だなあと思い夜空を仰ぐと、素晴らしい星空だった。

「猫彦さんー、正太郎ー」
 と女湯の方から竹垣越しに春菜の声が聞こえた。
「はいー」
 と猫彦が応えると、
「包みは開けましたかー?」
 と聞いてきた。そういえば犬丸から包みを受け取っていた。
 猫彦と正太郎がそれぞれ包みを開けてみると、丸くて小さい焼き餅が五つ入っていた。猫彦は焦げ目の付いた餅を一つ温泉に浸けて口に放り込んだ。実にうまい。
 餅の表面がぱりぱりに焼かれており、そこにおしるこが染み込み、絶妙な味わいになる。猫彦は餅をもぐもぐ食べながら温泉を啜った。
 正太郎は餅を湯に浮かべている。その様子は白玉のおしるこだった。
 包みの中にはさらに小さな紙の包みが入っており、表面に説明が書かれていた。それによると、この中身は岩塩を砕いたものが入っているらしく、これをひとつまみ舐めながら温泉を味わうと、甘みがより引き立つとのことだった。
 猫彦も正太郎もこれを実践し、おしるこ温泉を存分に味わった。


 猫彦たちがおしるこ温泉を満喫している間、旅館の一室に残った道明寺と桃山はある計画を立てていた。
 猫彦を殺す計画である。
 この唐突に催された社員旅行の目的は、福利厚生などではなかったのである。
 道明寺と桃山は、しばらく前より猫彦の挙動がどことなく不審だと思い、自分たちの犯行が猫彦に悟られたのではないかと疑っていたのだった。
 もし猫彦が犯行の目撃者なら、今はおとなしくしているが、いつ警察に通報されるかわからない。
 そこで社員旅行を企画し、旅先で猫彦に油断をさせて鎌をかけ、目撃者であるかどうかの真偽を見極めようとしていたのだった。
 それが先の広間で、寝ぼけた猫彦が「賽銭泥棒」と悲鳴を上げたことにより、たやすく歴然となった。
 知られていたからには、殺す。
 というのが道明寺と桃山の筋書きであった。
 まさか賽銭泥棒を目撃されたくらいで、その目撃者を殺そうとするとは、考えが愚かすぎるのではと思われるかもしれない。
 しかし、そもそもが賽銭泥棒をして会社の再建を果たそうとするほどの愚か者たちである。
 彼らがこのような物語を描いたとしても、馬鹿の理論において不自然な点は見当たらない。

 殺す場合に備えて、道明寺はトリカブトの根を乾燥させたものを持参していた。猫彦の細身なら数ミリグラムで死に至る猛毒である。
 道明寺はこれまで、この宿に幾度か足を運んでおり、おしるこ温泉の入浴客には小さい餅が配られることを知っていた。
 そこで明日の朝、この餅の中に毒を入れたものを猫彦に食わせ、亡き者にすることにした。

 猫彦たち三人が浴場から戻って来ると、入替わるように道明寺と桃山が出て行った。
 道明寺は犬丸から受け取った焼き餅を食べずに懐に入れ持ち帰り、その晩、それに毒を忍ばせた。
 朝、猫彦が目を覚まして、磨硝子の戸をガラガラと開けると、とてもよい天気で雲ひとつなかった。
 旅館が崖の上に建っており、猫彦と正太郎の部屋は二階で、ちょうど崖からせり出したところに位置していたので、そこから窓の外を眺めると、まるで部屋が空に浮かんでいるように見えた。

 昨日の夕方に見かけた、獰猛そうな黒い鳥が何羽も弧を描いて飛んでいた。崖の途中に巣でもあるのかと猫彦は思った。しばらくすると、犬丸が朝食の準備が整いましたと言って来たので、浴衣姿のまま広間に下りて行った。

 サワラの西京焼き、イワシの佃煮、だし巻き卵、白味噌を使った味噌汁。やはりどれも甘い。
 朝の広間は一行が食事をする音のみで静まっていた。というのも全員が睡眠不足で眠そうにしており、ほとんど会話をしなかったためである。
 猫彦と正太郎と春菜はトランプをしたりおしゃべりをして明け方まで遊んでおり、一方の道明寺と桃山は、温泉から戻ると、年寄りは早く寝ると冗談めかして猫彦たちに告げ、部屋に篭って毒餅作りに励み、その興奮で一睡もしていなかった。
 道明寺と桃山は、これから猫彦に毒の餅を食わせることを想像して神妙な面持ちになり、食事も喉を通らないほど緊張していたが、猫彦はまったくそのことに気付かなかった。


 朝食後に一風呂浴びてから宿を出ようという話になった。
 春菜は行かなかったので、男たちだけで、ぞろぞろと浴場に向かった。各々犬丸から受け取った焼き餅の包みを持っている。
 道明寺は受け取ったばかりの包みを浴衣の袖に隠し、もう片方の袖に入れておいた昨晩作った毒餅の包みを取り出し、持ち替えた。
 脱衣所に移ると、道明寺は、猫彦が服を脱いでいる隙を見て、棚に置いてあった猫彦の包みを、毒餅の包みと掏り替えた。
 猫彦は包みが掏り替わっていることに気付かず、それを持って露天風呂に向かった。
 ここまで道明寺と桃山の計画通りである。

 まず猫彦が湯に浸かり、正太郎がそれに続いた。
 道明寺と桃山は餅の中のトリカブトが湯に溶け出して、体が痺れることを恐れていたので、頭や体を洗い始めてなかなか湯に入ろうとしない。
 猫彦はさっそく包みを開けて、毒餅とも知らずに湯に浮かべた。
 すかさず正太郎も包みを開け、計十個の餅が湯に浮かんで、湯船は完全な白玉おしるこになった。
「あっ」と思わず短い声を上げたのは、それを横目で見ていた道明寺である。
 猫彦に食わせるはずの毒入りの餅が、正太郎の餅と混ざると、どれが毒の餅か判別が付かなくなるからである。
 下手をすれば賽銭泥棒のことを知らない正太郎まで殺しかねない状況になった。

 あれが毒で、これも毒で、あれは無毒で。道明寺がぷかぷか浮かぶ餅の動きを目を血走らせて追っていると、
 ざばーん!
 と猫彦と正太郎の間で派手に湯柱が立った。
 猫彦が何事かと驚いて、顔に掛かった湯を拭って見ると、動揺した桃山が足を滑らせて湯に落ちた湯柱だった。上司の桃山の失態を笑ってはまずいと、どうにか笑いを堪えた。
 桃山は湯に落ちると同時に、手に持っていた包みを放り出しており、空中で解かれた包みの中から餅が乱れ飛び、湯に十五個の餅が混ざり合った。
 もはやどれが毒餅か見分けるのは不可能となった。
 桃山は湯の中で混乱し、水面を叩いて激しく溺れていた。
 見かねた正太郎が桃山を落ち着かせようと近寄ろうにも、あまりの暴れようで手の付けようがない。
 時折、がばっと顔を水面から突き出しては、目と口を大きく開いて息を吸っていたが、三度目にそれをやったとき、絶妙のタイミングで餅の一つが桃山の口に滑り込んだ。毒餅を飲み込んだら即死である。
 がふっと、おしること一緒に餅を飲み込んだ大きな音がした。
 猫彦はその音を聞いて、うっと胸が詰まるような感覚になり眉をひそめた。
 桃山は裸のままガバっと立ち上がると、鼻から大きく息を吸って、一気に口から餅を吹き出した。
 喉から餅が弾丸のように飛び出した。
 溶けかけた餅は一直線に道明寺の胸元にペシャリと貼り付いた。
「いやぁおぉ!」
 という道明寺の雄叫びがあがると、猫彦も正太郎も、とんでもないことになったと思った。
 それだけでは終わらなかった。
 道明寺の雄叫びを合図のように、猫彦が崖で見た大きな黒い鳥が何十羽と、ぎゃあぎゃあ鳴きながらやって来たのだった。
 そして、おしるこ温泉の遥か上空を旋回すると、猛烈な勢いで急降下した。
 あんなくちばしで突かれたらひとたまりもないと、一同は大慌てで裸のまま脱衣所まで引き返すと、鳥は湯に浮かんだ餅をくちばしでさらって行くのだった。
 鳥の急降下は湯の飛沫を上げて何度も念入りに繰り返され、ついに餅がひとつ残らずなくなると、群れになって遠くへ飛んで行った。
 おしるこ温泉の浴場はびしょ濡れになり、一面に鳥の羽が散乱していた。
 犬丸の運転するワゴン車で駅まで送ってもらう途中、男たちは皆、青い顔をして車内で茫然としていた。
 春菜だけが温泉での出来事を知らなかったが、どうやら聞いてはいけないような悲惨なことが起こったようだと、詳しく聞かないようにしていた。

 犬丸は地元の人間だったので、大きな音を出すと例の獰猛な鳥に狙われることを知っていた。しかし、大きな音といっても、地元猟師の銃声ほど大きなものでなくては鳥は暴れ出さないので、まさか宿泊客の中からそんな轟音を発する者が現れるとは思ってもみなかった。
 犬丸はあらかじめ鳥の危険性を説明しておいた方がよかったと反省し、お詫びに地元のうまいうどん屋に案内することを申し出た。
「駅に向かう道をちょっとそれるだけなので、お昼にぜひ食べて行ってください」
 男たちは心ここにあらずという感じで、はっきりした返事ができないでいたが、
「素敵、ぜひ行きましょうよ」
 と春菜が場の雰囲気を盛り上げようとして、犬丸に案内をお願いした。

 うどん屋はたしかに駅に近かったが、分かれ道を何本も行った複雑な場所にあり、地元の人間しか行くことができない穴場といった風情だった。
 猫彦と正太郎はようやく血色を取り戻してきたが、道明寺と桃山は、計画の失敗や鳥の恐怖や、社長としての面目が潰れた精神的打撃から立ち直れずにいた。
 犬丸を含めた一行で、うどん屋の座敷に上がった。客は他にいない。猫彦がメニューを見ていると、
「ここは鳥うどんが一番の名物です」
 と犬丸が言うので、全員それにした。
 三十分ほど静かに待っていると、店の主人が大きな盆に、うどんを乗せて運んで来た。
「ちょうど今朝獲った鳥だよ」
 と主人。ごとん、ごとんと皆の前にうどんを置いた。

 猫彦が口をつけると、鳥の出汁と上品な甘みの薄口しょうゆが見事に調和して実に味わい深かった。
 筒切りにした長ねぎが数本。鳥はもも肉が贅沢に丸ごと使ってある。腰のある麺もうまいが、抜群にうまいのは鳥肉だった。
 猫彦はうまさに目を細め、たしかに名物というだけあるなと思った。正太郎もうまいうまいと食べている。二人があまりにうまそうに食べるので、茫然自失だった道明寺と桃山も箸を付けた。
 春菜が箸で鳥肉をつまみ、
「これ、もしかして崖のところにいた大きくて黒い鳥ですか」と聞いた。
「そうです、うまいでしょ」と犬丸。
「へえええ、あの鳥はこんなにうまかったんですね」
 猫彦が言うと、一同に笑いが起きてこの日初めて和やかな空気になった。
 しかし、次の瞬間、道明寺と桃山は、うううと苦悶の表情を浮かべると、白目をむいてそのまま仰向けに倒れてしまった。


 猫彦たちが鳥に襲われた時、うどん屋の主人は店の近くの森で鳥猟をしていた。
 鳥のぎゃあぎゃあという鳴き声が遠くから聞こえたので空を見ると、ちょうど鳥の大群がやって来たところだった。
 これはチャンスと思い、群れに向かって散弾銃を放つと何羽か落ちたので、主人はそれを店に持ち帰った。
 そしてその数時間後、主人は鳥うどんを食べに来た一行に、獲ったばかりの鳥を調理して出した。
 この鳥こそ、今朝のおしるこ温泉の餅を食べた鳥だったのである。

 では、なぜ道明寺と桃山だけが倒れ、他の者が平気だったかである。それは彼らの食べた鳥が、ちょうど毒餅を食べた鳥だったためである。これに当たったのは不運としか言いようがない。
 彼らは毒の作用で意識を失い、直ちに救急車で運ばれた。
 毒餅を直接食べていたらあっという間に死んでいたであろうが、いったん鳥を介したため毒性が弱まったと見られ、一命を取りとめることができた。
 なぜ鳥が毒餅を食べても死ななかったのかは不明である。
 一説にはこの鳥は幼鳥の頃からトリカブトの花をついばむので、内臓にトリカブトを解毒する酵素を有するようになったとも言われる。

 道明寺と桃山は地元の病院に入院し、会社に戻って来られたのは倒れてから一週間経った後だった。
 道明寺は社員を集めると、賽銭泥棒をして会社の運転費用に充てていたことを告白し、会社を畳むことを皆に言い渡した。

 すぐにでも辞めたいけど、辞める勇気がないのでいっそ潰れて欲しい。という猫彦の願いは叶った。

<了>

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