朝、猫彦が目を覚まして、磨硝子の戸をガラガラと開けると、とてもよい天気で雲ひとつなかった。
 旅館が崖の上に建っており、猫彦と正太郎の部屋は二階で、ちょうど崖からせり出したところに位置していたので、そこから窓の外を眺めると、まるで部屋が空に浮かんでいるように見えた。

 昨日の夕方に見かけた、獰猛そうな黒い鳥が何羽も弧を描いて飛んでいた。崖の途中に巣でもあるのかと猫彦は思った。しばらくすると、犬丸が朝食の準備が整いましたと言って来たので、浴衣姿のまま広間に下りて行った。

 サワラの西京焼き、イワシの佃煮、だし巻き卵、白味噌を使った味噌汁。やはりどれも甘い。
 朝の広間は一行が食事をする音のみで静まっていた。というのも全員が睡眠不足で眠そうにしており、ほとんど会話をしなかったためである。
 猫彦と正太郎と春菜はトランプをしたりおしゃべりをして明け方まで遊んでおり、一方の道明寺と桃山は、温泉から戻ると、年寄りは早く寝ると冗談めかして猫彦たちに告げ、部屋に篭って毒餅作りに励み、その興奮で一睡もしていなかった。
 道明寺と桃山は、これから猫彦に毒の餅を食わせることを想像して神妙な面持ちになり、食事も喉を通らないほど緊張していたが、猫彦はまったくそのことに気付かなかった。


 朝食後に一風呂浴びてから宿を出ようという話になった。
 春菜は行かなかったので、男たちだけで、ぞろぞろと浴場に向かった。各々犬丸から受け取った焼き餅の包みを持っている。
 道明寺は受け取ったばかりの包みを浴衣の袖に隠し、もう片方の袖に入れておいた昨晩作った毒餅の包みを取り出し、持ち替えた。
 脱衣所に移ると、道明寺は、猫彦が服を脱いでいる隙を見て、棚に置いてあった猫彦の包みを、毒餅の包みと掏り替えた。
 猫彦は包みが掏り替わっていることに気付かず、それを持って露天風呂に向かった。
 ここまで道明寺と桃山の計画通りである。

 まず猫彦が湯に浸かり、正太郎がそれに続いた。
 道明寺と桃山は餅の中のトリカブトが湯に溶け出して、体が痺れることを恐れていたので、頭や体を洗い始めてなかなか湯に入ろうとしない。
 猫彦はさっそく包みを開けて、毒餅とも知らずに湯に浮かべた。
 すかさず正太郎も包みを開け、計十個の餅が湯に浮かんで、湯船は完全な白玉おしるこになった。
「あっ」と思わず短い声を上げたのは、それを横目で見ていた道明寺である。
 猫彦に食わせるはずの毒入りの餅が、正太郎の餅と混ざると、どれが毒の餅か判別が付かなくなるからである。
 下手をすれば賽銭泥棒のことを知らない正太郎まで殺しかねない状況になった。

 あれが毒で、これも毒で、あれは無毒で。道明寺がぷかぷか浮かぶ餅の動きを目を血走らせて追っていると、
 ざばーん!
 と猫彦と正太郎の間で派手に湯柱が立った。
 猫彦が何事かと驚いて、顔に掛かった湯を拭って見ると、動揺した桃山が足を滑らせて湯に落ちた湯柱だった。上司の桃山の失態を笑ってはまずいと、どうにか笑いを堪えた。
 桃山は湯に落ちると同時に、手に持っていた包みを放り出しており、空中で解かれた包みの中から餅が乱れ飛び、湯に十五個の餅が混ざり合った。
 もはやどれが毒餅か見分けるのは不可能となった。
 桃山は湯の中で混乱し、水面を叩いて激しく溺れていた。
 見かねた正太郎が桃山を落ち着かせようと近寄ろうにも、あまりの暴れようで手の付けようがない。
 時折、がばっと顔を水面から突き出しては、目と口を大きく開いて息を吸っていたが、三度目にそれをやったとき、絶妙のタイミングで餅の一つが桃山の口に滑り込んだ。毒餅を飲み込んだら即死である。
 がふっと、おしること一緒に餅を飲み込んだ大きな音がした。
 猫彦はその音を聞いて、うっと胸が詰まるような感覚になり眉をひそめた。
 桃山は裸のままガバっと立ち上がると、鼻から大きく息を吸って、一気に口から餅を吹き出した。
 喉から餅が弾丸のように飛び出した。
 溶けかけた餅は一直線に道明寺の胸元にペシャリと貼り付いた。
「いやぁおぉ!」
 という道明寺の雄叫びがあがると、猫彦も正太郎も、とんでもないことになったと思った。
 それだけでは終わらなかった。
 道明寺の雄叫びを合図のように、猫彦が崖で見た大きな黒い鳥が何十羽と、ぎゃあぎゃあ鳴きながらやって来たのだった。
 そして、おしるこ温泉の遥か上空を旋回すると、猛烈な勢いで急降下した。
 あんなくちばしで突かれたらひとたまりもないと、一同は大慌てで裸のまま脱衣所まで引き返すと、鳥は湯に浮かんだ餅をくちばしでさらって行くのだった。
 鳥の急降下は湯の飛沫を上げて何度も念入りに繰り返され、ついに餅がひとつ残らずなくなると、群れになって遠くへ飛んで行った。
 おしるこ温泉の浴場はびしょ濡れになり、一面に鳥の羽が散乱していた。