——これはもう変えることのできない過去なのだと、わかっている。
私は破りとったページを握りしめて走っていた。乾き切らないピンク色の絵の具が制服の袖にシミを作っていたけれど、心臓が痛いくらいに激しく動いていたけれど、それでも駆け出してしまった私の足は止まらなかった。すれ違った先生が驚いたように振り返り私の名前を呼んだけれど、私は返事をすることなく、目の前で閉じようとしていた扉の隙間へと飛び出した。
——どうしてこんなことをしてしまったのか、自分でもよくわからなかった。
立ち止まってしまったら罪悪感に押し潰されそうで、教室を飛び出してからも私はスピードを緩めることができない。頭の中まで響くような心臓の音と息苦しさに体は支配されていた。どこに向かえばいいのか、この後どうすればいいのかなんて冷静には考えられなくて、ただ逃げるように走り続けることしかできない。頭の中は真っ白で、汗を吸い込んだ硬い紙が弱っていく感触と、彼の絵を掴んでいる右手が温度を失っていく感覚だけがやけにはっきりと伝わってくる。
「……っ」
両目に集まっていく熱に視界はぼやけ、乱れた呼吸には嗚咽が混ざる。
——気づいてしまったら、知らないフリはもうできない。
本当はずっとこんなふうになりたかった。
本気で何かを追い掛けてみたかった。
居心地のいい場所に逃げていただけで、都合のいい言い訳を探していただけで、本当はずっと私も……
いつの間にか途切れた心地よい揺れに自分の首が前に落ちる衝撃で目を覚ました。視線を上げると、窓ガラスの向こうに広がる風景は静止していた。私は急いで膝に置いていた荷物を肩にかけ、立ち上がる。
三つ並んだ改札の真ん中を通り抜けると、体は一気に懐かしさに包まれた。タクシーも滅多に止まらないようなバスターミナルの端にあるお団子屋さんから流れてくる醤油の香ばしい匂いを振り切って、私は歩道橋へと足を進める。
踏み出すたびにそれほど高くもないヒールが音を立てる。その規則的なリズムが体の中に響くたびに変わっていく目線に心臓が軽く弾む。階段を上りきった先に広がる景色をその冷たい風ごと吸い込み、そっと胸に手を当てる。トクトクと震える鼓動に、微かな息苦しさに、忘れていたはずの痛みが疼きだす。
——彼はまだ、この街にいるのだろうか。
「!」
コートのポケットに入れていたスマートフォンが震え、私は電車のレールを見下ろせる歩道橋の真ん中で立ち止まる。手にした画面には『実家』の文字が表示されている。
「もしもし?」
「小春ちゃん?もう着いてる?」
いつもよりも少し弾んだ母の声が耳に届き、私はそっと息を吐き出す。
「うん。今、駅前の歩道橋」
「あー、申し訳ないんだけど、ちょっと買ってきてほしいものがあって」
「え、」
この先の商店街は今ではもうそのほとんどが閉店してしまっていて、買い物をするならもう一度駅の方に戻らなくてはならない。思わず大きなため息をつきそうになったが、社会人になってからは一年に一回しか帰省していない自分の親不孝具合を思い出して、グッと堪える。
「……何を買えばいいの?」
一瞬出かかった言葉を飲み込んだ私は、ゆっくりと吐き出した息に合わせてそう返した。
頼まれたトイレットペーパーを片手に、再び駅前の歩道橋を目指して歩いていた私は思わず足を止めていた。隣のパン屋さんから流れてくる甘い匂いも、反対隣の喫茶店の軒先に吊り下げられた一年中出しっぱなしになっている『氷』の文字も、あの頃と何も変わらない。それなのに、私の目の前のその場所だけがキレイにぽっかりと切り取られていた。足元の石畳が途切れた先、地面は生えてきた雑草に覆われ、緩やかな風が吹き抜けている。
舞い上げられた砂埃に目を細め、顔をかばうように片手を上げる。わずかに開けている視界の隙間から見えるのは、空き地になってしまったその奥で静かに佇む一本の桜の樹だった。広げた枝を包み込むように白い花が咲き、太い幹の周りには膝丈ほどの柵が設置されていた。
「懐かしいな」
思わず漏れてしまった言葉が、閉じ込めていた記憶を私の中に蘇らせていく。
——薄い水色の二階建てのビルは、老朽化が進んで窓も扉も簡単には開けられなかった。開けるためのちょっとしたコツを使えるようになると自分が何かに認められたような気がして嬉しかったのを覚えている。壁に染み付いてしまった画材の独特な匂いも、それほど広くはない空間に並べられた白いキャンバスも、床から吐き出したパンくずを狙って集まるスズメの鳴き声も、窓から降り注ぐ日差しに浮かび上がる彫刻の横顔も、思い出の中の風景はいつでも私に温かさをくれる。
——だけど、もう二度とそれらに触れることはできない。
心地いい夢だけを切り取った私を非難するように、胸の奥が冷たく痛み出す。
「……帰ろう」
指にぶら下げていたトイレットペーパーの重みにそっと息を吐き出して、遠くに見える歩道橋へと足を動かした時だった。背中を向けた私を追いかけるように風が吹き、枝の先から花びらが流れてきた。ふわりと視界を横切ったその姿に視線を上げると、目の前を懐かしい匂いが通り過ぎた。
「!」
振り返らずにはいられなかった。スプリングコートから黒いパーカーの帽子部分を出した大きな背中が視界に入る。細く長い足は少しも躊躇うことなく空き地を囲う紐を軽く跨いで中へと踏み出していく。肩にかけられた大きなトートバッグには何色もの絵の具のシミがついていて、彼が歩くたびにカチャカチャと何かがぶつかり合う音が響く。少し乱暴なまでの勢いとは反対に、履き潰されたスニーカーは地面に咲いている野花を器用に避けながら進んでいく。ひざ下まであるコートの裾が伸びてしまった雑草の葉に触れて乾いた音を立てたが、彼が止まることはなかった。あまりにも堂々と入っていってしまうその姿に、私は目を離すことができない。
——彼はきっとあの桜の樹を目指している、そう思ったら止まっていたはずの私の時計が動き出した。
「あの、」
何を言おうと思ったのか、自分でもわからないうちに私は声をかけていた。
「えっと、」
自分から話しかけておきながら、続く言葉はうまく出てこない。
——きっと違う、彼ではない。
そう否定しながらも私はほんの少しの期待を込めて、顔をさらに上げる。ゆるくパーマのかかった黒髪、耳の先に小さく光る青いピアス、緩めのパーカーから覗く細く白い首筋……思い出の中の彼と同じところを見つけては、自分勝手な思いに心臓は跳ね上がる。確信があったわけではなかったけれど、目の前の彼が振り返るよりも一瞬早く、私はその名前を呼んでいた。
「……久遠くん?」
「え?」
震えるように響いた私の声に、彼は不思議そうに瞬きを繰り返してから、まっすぐ強い眼差しを私の顔に向けてきた。眉根を寄せて切れ長の目をこれでもかと細めるので、見つめられた私の体は強張った。でも、この変わらない怖い表情こそが彼であることの証明とも言える。
——夢でも思い出でもない、あの日から八年経った現実の彼が、今、目の前にいる。
「あ、あの、私、ここにあった絵画教室で一緒だったんだけど……」
不機嫌そうな表情のまま、彼は考え込むように首の後ろに手を置いてつぶやいた。
「教室……桜の……」
彼の少し掠れた低い声が冷たい風の音に重なって私の耳に届く。
「そうそう、毎年この時期はみんなで中庭の桜の絵を描いたよね」
聞こえた言葉を必死に繋ぎ止めて、私は彼の背中にある桜の樹を指差す。彼と私の視線の先で、ひらひらと散っていく花びらが地面を薄いピンク色に染めていく。
言いたいのは、伝えたいのは、そう言うことじゃない。彼が私を覚えていなくても、彼にとってはもう忘れてしまっているような些細な出来事であっても、私は言わなくてはいけない。
「あのね、桜の絵を盗んだのは、私なの」
*
——高校二年の終わりまでの約五年間、私はこの場所に通っていた。
美術大学を目指していたわけでも、将来の仕事に繋げようという夢があったわけでもなかったが、私は毎日飽きることなく来ていた。ここには熾烈なレギュラー争いもなければ、体がフラフラになるまで走り続けるようなこともなくて、いつでも優しく私を迎え入れてくれる空気があった。絵を描くのが『好き』というだけでいられるその場所は、私にとって恐ろしく居心地の良いところだった。
平和で安全な私の居場所——そこに彼はある日突然やってきた。
「こんにちは」
いつも通りの放課後、いつもと変わらない匂い、けれどいつもなら返ってくるはずの声が一つも聞こえない。不思議に思って中扉を開けた私は、目の前の空気に思わず息を飲んだ。
「!」
そこはもう私が知っている場所ではなかった。
真っ白なキャンバスを埋めていく彼を、教室にいる全員が見つめていた。見慣れない制服を着てまっすぐ背筋を伸ばした彼は、多くの視線を向けられながらも何も気づいていないかのようにただ静かに手を動かしていた。跳ね返った絵の具がブレザーを汚しても彼の視界には入らないし、誰かが「すごいな」とつぶやいても彼の耳には届かない。彼の周りとこちらには見えない壁があるみたいだった。
*
「本当にごめんなさい」
「……」
頭を下げた私に彼は何も言わない。視界の中で自分の落とす影が揃えた水色のパンプスに重なった。
「ずっと謝らなきゃ、って思ってた。今さらだけど、本当にごめんなさい」
「……別にいい」
「!」
聞こえた言葉に私は思わず顔を上げた。彼は一瞬だけ私と目を合わせたけれど、すぐに視線を揺らして顔を背けた。カチャ、と懐かしい音が彼の肩にかけているカバンから漏れた。
「……知ってたから」
それは簡単にかき消されそうなほど小さな声だった。
「え」
「俺、あんたが盗ったって知ってたから」
「え……知って、たの?」
予想外の言葉に戸惑い、声を揺らした私に、彼は少し意地悪そうに口元を歪めた。
*
並べられたいくつものスケッチブックが、狭い教室の床を桜色に埋め尽くしていた。方向や角度、切り取り方、同じ対象物を見ていても同じ絵は一枚もない。
——だけど、違うのだ。
同じものがないのは当たり前なのに、そんな言葉では言い表せないほどに彼の絵は違うのだ。こんなにたくさんの中に置かれても、彼の絵だけはすぐにわかってしまう。彼の目に映る風景だけが、他の人とは明らかに違っていた。彼だけがそこにはない何かを見つけられる。それがどうしようもなく羨ましくて、悔しかった。
気づくと私は手を伸ばし、目の前に置かれた絵を、彼が数時間前に描き上げたばかりのその絵を、乱暴に破りとっていた。
*
「知ってたなら……どうして……」
「それだけ俺の絵に惹きつけられたってことだろ?」
——向けられた視線に、ゆっくりと温度が上がったのが、わかった。
「それで俺、救われたから」
聞こえる声には確かな熱があって、白い頬にはうっすらと赤みが差している。
——唐突に、歪めた口元が彼の不器用な笑顔なのだと、わかってしまった。
「あの教室に通い始めた頃が、あの時が、俺にとっては一番絵が描けなかった時期だったから」
「そう、なんだ……」
なんと言えばいのかわからなかった。どうしようもなく痛かった傷は、どうしようもないほどの温かさで包み込まれてしまった。
「……じゃあ」
言葉を失ってしまった私に彼はそう言って、恥ずかしさを隠すように背を向けた。元の白さを失ってしまったスニーカーが本来の目的を思い出して遠ざかっていく。
——届く距離ではないのに、私は手を伸ばしていた。
彼の背中を見つめたまま息を吸い込むと、張られた紐にヒールを引っかけないように大きく足を上げて、私はその境界線を超えた。
視界の中の久遠くんはもう目の前の桜の樹しか見てはいない。広がる枝を見上げ、根元を確認し、柵の周りを歩きながら、描くのに最適な場所を探している。私が足を進めてもその足音は柔らかな地面に吸い込まれ、彼の耳には届かない。
「久遠くん」
「!」
——肩を揺らして驚いたように振り返ったその顔に、私は本当に言いたかった言葉を思い出す。
「一緒に描いてもいい?」
そう言って私は肩にかけていたカバンの中からスケッチブックを取り出すと、地面に置いたトイレットペーパーの上に腰を下ろした。
「!……好きにしなよ」
そう小さなため息に混ぜて言った久遠くんは、少し困ったように笑っていた。