「空人が高校に上がるのと同時にここから引っ越そう」父が最初にそう言い出した時、僕はまだ中学3年生だった。

 父のこの提案の意図は引越しをしなければいけなくなった原因の当事者である僕が一番よく解っていたと思う。その原因とは僕が受けていた虐めのことだろう。

 元々僕らが住んでいた地域も田舎で、学校数が少ないことから、自然と小学校、中学校、高校と多くの人間が同じ学校に進学していく。
そのため、僕が高校に上がっても中学の時クラスメイトだった人間が原因で虐めが再発すると父は考えたのだろう。

 当の僕が虐められた要因は世間でよくありそうなことだった。それは僕が中学2年生の時、その当時クラスメイトだった人間の一人が虐めを受けていたことが始まりだった。

 地域社会で育った当時の僕は学生のコミニュティというものをよく理解しておらず、田舎の小学校で培った無駄な正義感が僕を虐めの阻止をするようにと動かした。

 その一見勇気ある行動によって、僕は無事、次の虐めの標的となった。そしてその日を境にして、元々数少なかった友人は次々に僕の元を離れていった。

 それでも僕は一人の人間を救えたんだと思うと、この虐めも耐えられそうだった。しかし現実はそう甘くないようで、残念なことに僕が救ったそのクラスメイトまでもが僕への虐めに加担し始めた。

 恐らく、今後自分に対して虐めが再発しないようにするための自己防衛だったのだろう。だが、そんなことを考えられないほどには当時の僕は未熟だった。

 「どうして」それが僕の素直な感想だった。なぜ僕がこんな状況に置かれているのか全く理解ができなかった。「ただ、誰かを救いたかっただけなのに」僕は頭の中をその言葉で埋め尽くし、理不尽に押しつぶされ、打ち拉がれた。

 そこからは至って簡単で、僕は登校拒否と保健室登校を繰り返した。そして僕は家である程度の勉強をこなして、保健室登校を卒業まで完遂した。
出席日数や単位の取得についての懸念があったが、どうやらそれは杞憂だったようで、この、ある程度の勉強と保健室登校のおかげで僕は無事に校長室で卒業式を執り行うことができた。

 それから僕ら家族は他県に引越したのだが、家が安いからなのか引越し先は前のような田舎だった。

 気温が上がり、厚着が必要なくなって、桜の花弁が舞うようになった頃、僕の進学する高校は入学式を催した。しかし、僕は人生においてまたとない青春のイベントであるはずの高校の入学式には参加しなかった。その日はただ家でフランツ・カフカの『変身』を読んでいた。

 どうやら、人間は一度何かに対して深い不信感を抱くと簡単にそれを放棄することができなくなるらしい。重度の人間不信の状態で全く新しい環境にいかなければならないのだ。

 そんな人間が不登校を再発させるということは想像に難くないだろう。これで父の親切心も母の苦労も徒爾なものとなってしまったわけだ。

 僕が不登校を再発したことに余程ショックを受けたのか、元々寡黙だった父はより口数が減り、家族関係にも亀裂が入り始めていた。

 季節は過ぎ、目覚める時期を早とちりした孤独な蝉が鳴き始めた頃、僕は家族以外の人間の人肌に飢えていた。

 おかしな話ではあるが、人間不信であろうとも人間との関わり合いが恋しくなることがあるらしい。もしくは僕を理解してくれる人を探していたのかも知れない。

 しかしながら誰かと直接顔を合わせるのは難しかった。なので顔を合わせずに誰かと交流する方法を僕は考えた。その結果として手紙という手段に思い至った。そしてそれと同時にそもそも送る相手がいなかったことに絶望しかけていると、近くで風鈴が涼しげな音を奏でた。

 その風鈴の音の発生地は僕の部屋からではなかった。僕はその涼しげな音を奏でる風鈴に誘われるように自室の窓へと視線を流していく。

 窓の外へ視線を送ると音の発生地が明らかになった。どうやら音の発生地は隣の家のもののようだ。近くも遠くもない田舎特有の家の距離感。

 そして僕は気づいた。その隣の家に窓の開いた部屋があることに。何かの偶然かその部屋は僕の部屋の正面に位置していた。

 全てを飲み込もうとする化け物のように大きく口を開けたその部屋は僕の部屋と同じで太陽が昇る方向と逆側に存在するため、その暗さは不気味な雰囲気を醸し出していた。

 そして僕は何を考えたかノートの白紙のページを破り、手紙をしたためた。内容はただ一言『こんにちは』と書いて、それで紙飛行機を作り、隣の部屋へと飛ばした。

 今になって考えれば隣の家に紙飛行機を飛ばすなんてどう考えても頭のおかしい人間だ。
 実際、この時の僕は文字通り頭のおかしい人間だったのだろう。人間不信もそれによるストレスも意味のわからない人恋しさも全てが相乗して僕にここまで狂った行動を起こさせたのだ。

 しかし、この時、この行動を起こしていなかったらきっと僕は今とは全く異なる人間になっていたと思う。