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「俺の好きなヒーロー、隠れ家がレストランでさ、料理上手なんだよな。料理がうまいって設定も入れよう」
 知人に頼んで作ってもらったらしいアンティーク調のテレビを見ながら、キッチンで月子さんがアイスコーヒーを飲んでいる。俺は客の居ない店内のテーブル席で、青いソーダを飲みながらスケッチブックを開いていた。
 君は俺の隣に座って、青い水性ペンで思いついたことを並べていく。既に君が書いた青でいっぱいのスケッチブックの中心には、君が楽しそうに語るヒーローというものを自分なりに書いてみた落書きだった。君はそれをいたく気に入り、設定をこうして細かく作り書き起こしている。
「呼ばれたら必ず来る、正体不明のヒーローだな。変身ポーズとってる間に攻撃されるのは怖いから、変身ポーズは無しで…、あとはそうだなあ、すっごく足が速くて、強くて、ジャンプ力も高いといいな。電柱とか屋根の上を走り回るヒーローってかっこよくないか?」
「…呼ばれなかったら来ないのか?」
「疲れちゃうだろ」
「確かにな」
「この町のヒーローだし、生まれたときからこの町にいることにしよう」
「守り神みたいなもんか?」
「いや、メットを外したら普通の人間がいいな。周りを照らせるような太陽みたいなやつがいい」
 僅かに残ったスペースに、憂いを取り払った君の笑顔の絵を描いた。こんな感じか、と見せると、君は「このヒーローの中身、俺か!」と目を輝かせる。
「お前しか描けないんだ」
「そういえばそうだったな。へへへ、やった、嬉しいな」
 折角ヒーローするなら、誰からも愛されるような、強くて優しいヒーローになりたいなぁ。と君は呟く。
 俺を見てくれる君が町の全員に目を向けている様を想像して、軽く吐き気がした。酷い悪夢だ。死ぬまで実現して欲しくない。
 月子さんが見ているニュース番組からは物騒なニュースが流れている。この町で小学生が四年生から順に通り魔に刺されているようだ。今は二年生。次は一年生だろう、と言われているらしい。君はそれを聞いて「ああいうのも助けられたらいいな」と感情の読み取れない表情をした。
 持って帰りたい、これ。と言う君に、そんなに気に入ったなら綺麗に書き直すから待ってくれと言うと、これがいいんだと笑う。君の黄色のソーダの氷が溶ける音がした。
「俺は明日学校なんだが、お前は明日どうする?」
「大変だなあ」
「お前の所はないのか?」
「あるかもしんない」
「なんだそれ、大丈夫なのか?親とか、学校から連絡とか…」
「いいんだ。携帯電話家に忘れてきたし」
「…そうか」
「うん。まあそれは置いといて、明日どうしよっかな…散歩でもするか」
「俺の電話番号渡すから帰り方分からなくなったら電話しろよ。電話ボックス結構あるんだ」
「そうする」
 会話している間にも、君の視線はヒーローに注がれていた。
「本当に気に入ってるな、それ」
「自分が入ってるヒーローなんて嬉しいに決まってるだろ」
「はは」
 目を見開いて俺の顔を凝視した後、その後目を細めて君は笑う。
「笑ったな」
「は?」
「いや、お前の笑ったとこ初めて見たなって。まあ目はほとんど見えないから口元でしかわかんないけど」
「ああ…長いからな」
「それ自覚あったのか」
「この時期はとんでもなく暑い」
「切らないのか?」
「事情があるんだ」
「ふうん」
 首を傾げる君の隣でスケッチブックを持ち上げ、一枚ビリビリと音を立てて切り離す。
「ほら」
「おっ、ありがとう!」
 君は俺からその落書きを受け取って、二階へと走って行く。そしてすぐに下りてきた。
「ファイルに入れてきた」
 満足げな君に頷きながらキッチンにかけられたカレンダーをちらと見ると、夏休みの残り日数が一週間もないことを改めて突きつけられた。ため息が出そうになるのを堪える。
「そろそろ帰んないとなあ」
 隣に座り直した君がカレンダーを見ながらそう言う。
「あと三日くらいここに居て良いか?最終日は掃除に費やさせてもらう」
 三日。なんて短いんだろう。死ぬまでここに居たら良いのに、と思った。勿論口には出さない。
「今日は神社に行こう」
「神社?ああ、この間言ってた、悪夢を閉じ込めた神様がいるところだな」
「ああ。あそこの木漏れ日がすごく綺麗なんだ。その下に座って欲しい」
「わかった。あ、ヘッドフォン持って行っとくか?」
「悪い」
「いいよ。というかあげようか?ヒーローソングしか入ってないけど」
「いいのか」
「うん。二年くらい俺が使っちゃってるけど、それでもいいか?」
「気にしない。ありがとう」
「どういたしまして」
 そんなことを話しながら、俺と君は店の外に出て、町の中心にある神社近くまでバスに揺られた。その間君はずっと窓の外を見ていた。見慣れてきた頃だろうに、それは真剣に、町の景色をその目に写していた。
 神社前のバス停で降りて、並んで長い階段を上る。ひどい暑さで時々座り込み、お茶を飲んで休憩する時間も楽しかった。
 階段を超えた先、こぢんまりとした神社に出た。苔が模様のようにまとわりついた狛犬が胸を張って座っている。
 神社を囲うように植えられた木の陰に、何色にも塗られていない木製の椅子が置かれていた。君をそこに座らせて、俺は地面に座り見上げるようにして君を描いた。
 木漏れ日が君の栗色の髪を様々に変化させて美しい。描くのは難しいが、ここに座らせて正解だったと思う。
「なあ、今誰かいなかったか?」
「急に怖いことを言うな」
「いや、あれ?小さい子がいた気がするんだけど…」
「気のせいだろ。誰もいないぞ」
「そうかなあ」
 辺りを数回見回して、君は諦めたように元の姿勢に戻る。そしてぼんやりと一点を見つめたあとで、何か思い出したように俺の方を向いた。よく動くモデルだ。
「…そうだ。家にさ、この町に行ってくるってメモを残して出てきちゃったんだ。捜索願とか出されてるのかな…。正太郎と月子さんにできるだけ迷惑かからないようにするけど、もし何かあったら本当にごめん」
「気にしなくていい」
「家に電話しとこうかなあ。この辺電話ボックスあるか?」
「ある。帰りに寄るか」
「ありがとう」
 それきり、1時間後に絵を俺が描き終えるまで、君は何も話さなかった。
「道覚えたから、明日は正太郎が学校に行ったあとでバスに乗って神社に行って、そこから歩きで帰ってこようかな」
「バスの中で景色を見てたのは道を覚えるためだったのか」
「そういうわけじゃなかったけど…でも結果的にはそうだな」
「道に迷ったら電話しろ」
「うん。ありがとう」
 暑いな。
 そうだなあ。夏って感じだ。
 神社の長い階段を下りながら、昼下がりの空からの日差しに顔をしかめる俺に、君は優しい光を放ちながら笑った。
 月子さんからメールが届いて、帰りのバスはひとつバス停を見送っただけで降りて二人でスーパーマーケットに寄った。頼まれた通りみりんとバターをカゴに入れていると、食玩を見ていた君がぱっと顔を上げて、「あれいいな」と花火セットを指さした。
「花火してもいいスペースとかあるか?」
「喫茶同前には駐車場も庭もないから出来ないけど、ご近所さんに頼めば広い庭を貸してもらえると思う」
「貸してもらえるかな」
「ああ。心当たりがある」
「買っていいか?小さいやつ買って一緒にやろう」
「相手が俺でいいなら」
「そんな卑屈な言い方するなって」
「俺は手持ち花火をしたことがないんだ。嫌いってわけではないんだが、する機会がなくてな」
「そうなのか?じゃあ今日が初花火になるな。買ってくる」
 いちばん小さかった花火のセットを袋に入れて、君は俺の隣を歩いている。こうして同年代の少年と歩いたのはいつぶりだろうか。そう考えていると歩幅が分からなくなってきて、足が自然と早く動いてしまい、君に「急ぎの用があったのか?」と心配されてしまった。
 途中の商店街で電話ボックスを見つけ、君は「すぐ出てくる」と言って通話を始めた。透明な壁に隔たれて内容はわからないが、君が何度も謝っていることは分かった。
「よし、終わったぞ。じゃあご近所さんに許可をもらいに行こう!」
「それはいいが、親は大丈夫だったのか?」
「あんまり大丈夫そうじゃなかったけど、夏休みが終わらないうちに帰るって伝えたし、まあいいだろ」
「そうか」
「うん」
 大きな庭を持ったご近所さんを訪ねて、「花火をしたいんですけど、場所がなくて。掃除は勿論するので今日の晩庭を使わせていただけませんか」と君が頭を下げた。一人でこの家に住んでいる老女は「正太郎くんがお友達を連れているところ、初めて見たわ。月子さんが最近とっても楽しそうなのはあなたがいたからなのね」と微笑んで了承してくれた。
「薄々気付いてたけど、正太郎、友達いないのか?」
「オブラートに包めよ。その通りなんだけどな」
「へえ、じゃあ俺が唯一の友達なんだな!」
「お前、俺の友達なのか?」
「ええっ、そのつもりだったんだけど…」
「そうか…お前は友達なんだな」
 俺にとっての君はかみさまに近い存在だが、君にとっての俺は友達らしい。友達というカテゴリーを失念していた。そうだ、よく話す同年代は友達と呼ぶのがいちばん正しいだろう。だが俺は君を友達と呼ぶことに違和感を覚えて、黙り込んでしまう。君は眉をハの字にして「友達の基準がわからないな…」と寂しそうな声を出した。
「違う。なんと言うか…俺にとってのお前はもっと、友情よりもうんと綺麗な場所にいると思うんだ」
「友達のもっと上ってことか?」
「そういうことだ」
「よく分からないけど嬉しいな」
 喫茶同前に着いた頃には辺りは薄暗かった。月子さんが笑顔で「もうすぐで晩ご飯できるからね」と言う。君はすぐに手を洗ってキッチンに入り、月子さんの手伝いを始めた。3人も入るとキッチンが狭いからと言われて、俺はいつもそれをカウンター席で眺めているだけだが、とても満たされる時間だった。
 出来上がった揚げ出し豆腐をすぐに平らげて、俺と君はご近所さんの庭に水が入ったバケツと虫除けスプレー、ライターとろうそく、水筒、それから花火を持って入れてもらった。老女は「昔の息子たちを見ているようだわ」と喜んで、窓から俺と君を眺めている。それに気恥ずかしさを感じたが、君は楽しそうに花火に火をつけ、それを見せるように彼女に向けて振って見せる。彼女はお茶を飲みながら、それを微笑ましそうに見ていた。
「手持ち花火ってこんなに危険なものなんだな…。全部線香花火くらいなんだと思っていた」
「あー、言われてみれば確かにすごい勢いだよな」
「うぉ!」
「お、それはパチパチ弾けるやつだな。ラストスパートは凄いぞ、どこ持てばいいか分からなくなるくらいパチパチする」
「怖いことを言うな。うわっもう威力が上がってきてる。これ以上だとこの辺り全部焼けないか?大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫」
「いや全然大丈夫じゃないぞこれ、うわっ」
「あはははっ」
 袋の中の花火が全て焼けた後、俺と君は掃除をしてずっとにこにこと見ていた彼女に礼を言い、喫茶同前に帰った。既に月子さんは家に帰っていて、店内は暗かった。
「楽しかったな!」
「そうだな。…火傷するかと思ったが」
「慌てる正太郎面白かったぞ。またやりたいな」
「次はもっと大人しいのを買ってくれ」
「ネズミ花火とかどうだ?」
「ネズミ花火?それは道徳的に大丈夫な物か?」
「本物のネズミ使うわけないだろ。ネズミ花火、知らないか?」
「聞いたことないな」
「じゃあまたやる時は持ってくるよ。ぶっ、くふふっ」
「おい、さては全然大人しくない花火だろそれ」
「どうだろうな?」
 時刻は午後九時を回っている。まだ早い時間だが、二人で洗面所に立ち、歯を磨いて風呂に交代でつかり、「また明日」と廊下で別れた。
 眠る前に、もしかすると全部夢で、次目が覚めたときには何もかもが消えているかもしれない、とそう思うくらいに、今日は楽しい1日だった。誰かとこんなにはしゃいだのは、思い出せる限りでは姉の隣で歌っていたあの頃までだった。俺は多幸感に目を瞑り、夢の中へと落ちていった。

 次の日、二人で簡単な朝食を作って並んで食べた。今日は月子さんはいない日だ。
「俺さ、あの時聞こえた声は神様のなんじゃないかって思うんだよ」
「幼い子供が時々神社で神様に会ったって言うらしいが、お前くらいの年齢で会えたって言ってるやつは見たことがないぞ」
「自分が中学生だと思い込んでるだけで、もしかして俺って小学生なのかな?」
「そんなわけないだろ。ってほら、早く顔洗って歯磨きしてこい、もう行く時間だろ」
 皿の中身を胃袋に全て落として、洗ってから君の言う通りに朝の準備をして学生鞄を持ち上げる。
「神様に会えたら自慢していいか?」
「ああ。暗くなる前に帰れよ」
「おう。行ってらっしゃい」
「行ってくる」
 いつもよりぐだっとした空気の中で授業を受けて、昼休みはヘッドホンを付けて購買のパンを齧った。流れ続けるヒーローソングはどれもよく知らなかったが、気分が上を向くような気がした。
 掃除を適当に済ませて帰ると、君はもう帰っていて、俺に向かって得意げな顔をした。
「やっぱいたよ。神様だった。外に出れなくて退屈だから、外から来た俺と話がしたくて昨日は声を出したんだってさ」
 冗談かどうか俺には判断できなかったが、君があまりにも楽しそうだから、俺はただ「よかったな」と頷いておいた。

 最終日、一日の半分を掃除に使った君は、満足そうに元より綺麗になった部屋を俺に見せる。
「こんなに掃除したの久々だ。なんか一度始めると楽しくなるな」
 君がいた痕跡が跡形もなくなってしまった。かなり残念に思いながらも綺麗になったシーツを君と二人で広げてベッドに被せた。
「午後七時くらいの電車に乗るよ」
「晩は食べていけ」
「いいのか?何から何までお世話になたなあ。本当にありがとう」
「月子さんに言ってくれ」
 俺と君はその日どこにも行かずに、今まで行った場所の思い出話をしたり、特に何もせずただ二人で座ってぼうっと天井を眺めたりしていた。
「楽しかった。ありがとな、正太郎」
「…久々に楽しい夏休みだった」
「久々に?」
「小学校ぶりくらいだ」
「それは久々だなあ」
 夕飯は月子さんが腕によりをかけて作ったという夏野菜のカレーだった。楽しかった。幸せだった。涙が出そうなくらいに。
 駅までの道をいつもよりゆっくりと歩く。このまま電車を何本も逃して帰れなくなれば良いと思いながら。そんな心を知ってか知らずか君も同じペースで俺の隣を歩いた。
「俺さ、本当は帰るつもりなかったんだ」
「…?」
「同じ景色を見て、同じ場所に行きたいと思ってたんだよ」
 君はきっと幼なじみの少女のことを言っているのだろう。
「でも、前を向けた気がする。何度も言うけど、ありがとう」
「…またここに来る前に死なないでいろよ」
「うん」
「不慮の事故で死んでも来い」
「無茶言うな。まあその時は生まれ変わって会いに来るよ。そうだなあ、猫とかどうだ?」
「道行く猫全部お前だと思って保護しそうだ」
「喫茶同前が猫屋敷みたいになるのか…じゃあどの猫より強くなってすっころばしてやるよ。何だっけ、あの、妖怪の…すねこすりみたいに」
「すねこすり?」
「妖怪辞典で見たことある。人を転ばす犬みたいな猫みたいなやつだよ」
「そんなの居るんだな…。でも俺が転けなかったらどうする?お前だと分からないかもしれない」
「ええー…、じゃあもうお前に猫に嫌われる呪いかけとく。えい」
「雑だな」
「あ、ヒーローの名前すねこすりにしようかな。ひらがなで親しみやすさがあるんじゃないか?」
「あんなに設定を考えてた割に、名前は随分あっさり決めるんだな」
 小さな子供とその親が夜だというのに遊具で遊んでいる公園に寄ったり意味も無くコンビニに入ったりしていると、駅が見えてくる頃には、もう辺りは暗かった。とっくに七時を越えているが君は何も言わなかった。
「また来ていいか?」
「…いつでも構わない」
 そう言った時、君の視線が俺の背後に注がれる。同じように振り向くと、走ってどこかへ向かっている青年の後ろ姿が見えた。
「どうした?」
「あいつ、刃物持ってた」
 君は駆け出す。
「正太郎、警察に連絡してくれ」
「どこに行くんだ」
「この先の公園で子供がまだ遊んでただろ!」
 俺は急いで警察に通報して、君の後を追った。
 後から聞いた話だ、その時君は子供を庇って肩を刺されていた。早く逃げてと君が叫ぶとその親子は走っていったそうだ。そして君は怒ったそいつに腹を刺され、胸を刺され、それから。俺が追いついた頃には、もう君は赤色に染まりきっていた。
 血の匂いがした。
 刃物を持って走り去る影が、どこか遠くへと消えていく。
 その場に立ち竦んだ。動けなかった。
 地面に赤色が広がっていく。
 冬の大三角の中の、一角獣座。そこには散光星雲や散開星団が集まってできた、赤く美しいバラ星雲がある。君の体内から溢れ出した赤はどうしたって綺麗で、天文博物館で展示されていた写真のそれと、よく似ていると思った。
 君の瞳の輝きが、熱が冷めていくように消えていく。
 息が苦しくなる。足も思うように動かなくて、一歩前に進むのに酷く体力を使った。
 自身の髪をむしるように掴みながら、君の側になんとか歩み寄り、耐えきれずその場に膝を落とした。
 震えながら君の顔を覗くと、その顔は苦悶を浮かべながらも、満足したような表情だった。口元に微笑をたたえて、こちらを見上げている。救急車を呼んだが、うまく喋ることができたか、ぐちゃぐちゃになった頭では分からなかった。
 冷たい風が命の炎を吹き消すように、君の刺しては溶けていく。
 だんだんと、君の呼吸は弱くなっていく。
 救急車の音はまだ聞こえない。
 夕日が傾き始めているが、まだ頭上に星はない。星なんてなかった。どこにも。この橙色の空が大嫌いだった。
「猫又くん、死んじゃったんだね」
 いつの間にか、君の側に、君が座っていた。目の前に君が二人いる。ついに俺は頭が狂ってしまったようだ。
「猫又くんね、辛いならやめてもいいんじゃないかって言ってくれたの。全部投げ出して、何処かへ逃げたって。今まで悪夢を閉じ込めたこと、閉じ込めた壺を見守るために神社から出られないことを感謝してくれる人は居たけど、私に寄り添ってくれる人は居なかった」
 声が違った。もしかするとこいつは君が話していた神様なのかもしれない。体温を失っていく君を中心にして、世界から色が抜け落ちていく。
「私、猫又くんのこと気に入ってたの」
「猫又くんとは少し話しただけだったけど、私がその少しの話でどれだけ救われたかわかる?隕石が直前でずれた地球みたいな気持ちよ」
「気に入ってたの、本当に。恋してたと言っても過言じゃないくらい」
 君と同じ姿で、そいつはそう言う。なんだか気味が悪くて視線を逸らした。
「君、猫又くんに会いたい?」
 救急車の音が遠くから聞こえてきた。俺は、その問いに頷く。
「奇遇ね、私も会いたい」
 そいつは掌をこちらに向ける。
 意識が遠くへ飛んでいく。
 何かが割れる音がした、気がした。


 神様は人の心を理解していないらしい。見た目と言動が同じであれば、同一人物とみなしているのだ。
 あの日の翌日から町には悪夢があふれ、まさかと思って呼んだそのヒーローは、猫又だが猫又ではなかった。俺と君が作った設定で生きる猫又だった。
 姿形は君だが君ではない彼を俺は最初受け止めきれなかったし今でも君との違いに嫌気が差すことがあるが、君の忘形見だと思えば愛おしく感じるようになった。この、君の設定で生きる彼のことを一生守り抜こうと決めたのだ。
 彼は設定にそぐわないことをすると精神が不安定になるようで、俺は極力彼を設定通りに生きるよう仕向けた。設定どおりに動かない彼は、君が作ったものではない。完全なる別人だ。そうなるのは避けたくて、俺は彼が不安定になるたびに様々な方法で彼を殺し、眠らせて、設定に背いた行為や出来事を忘れさせた。悪夢である彼は眠ると不都合なことは忘れてしまうらしかった。
 死んだ彼は、君によく似ている。太陽のような光は鳴りを潜めた、月のような光を放つ彼は君そのものだった。俺はその顔を見るたびに泣きそうになった。
 それなりに順調だったのだ。君のヒーローと過ごす毎日に少しずつ慣れて、君とのギャップに苦しむことも少なくなってきた。そんな時だった。そこに、そいつは現れてしまった。
 去年の夏だった。
「誰だ、そいつ」
「さっき出来た友達!」
「は…?」
 声が震えた。
 仮面を被ったまま帰ってきた彼の背には少女が乗っている。それだけならまだ良かったのに、彼は仮面を外した。少女の前で。少女が驚く様子はない。正体不明という設定が崩れている。
「海で溺れてたんだ。とりあえずストーブの前に行こう」
 彼は彼より少し背の高い少女の手を引いてストーブ前に移動する。そして地面に座って暖を取り始めた。聞きたいことは山ほどあるのに、なかなか口から出てこない。
「濡れたままじゃ寒いよな。体操服持ってたよな?二階に脱衣場あるから使ってくれ。タオルは綺麗なやつが積まれてるから、抜き取って使ってくれたらいい」
「君が先に行って。風邪を引く」
「いや、俺は風邪引いても寝たらすぐ治るから。階段から見て、右手前の扉な」
 目の前で、俺以外の人間と、猫又の姿形をした彼が話している。不快だ、不快だ、今すぐにどちらでも良いから殺してやりたい。
 少女が二階に上がったのを見送ってから、俺は彼の真後ろに立つ。
「…こんな時期に溺れる事ってあるのか?」
 自分でも分かるほど声が暗い。
「言いにくいんだけど…」
「自殺か。それなのにすねこすりを呼んだのか?意味が分からない」
「呼ばれてないぞ。海に沈んでいくところを偶然見つけて、引き上げたんだ。びっくりして仮面被るの忘れて…」
「呼ばれてないのに、助けたのか?」
「ん?うん。呼ばれてないからって溺れてる人を助けないなんてことはしないぞ?」
「呼ばれたら駆けつけて助ける」という設定に反している。これはイレギュラーだ、彼の頭がエラーを起こす前にあの少女を彼の頭から追いやらないといけないのに、少女は彼の顔を知っているし、彼は彼女のことを友達だと言った。引き剥がすのが困難だ、今のうちに二階の少女を殺すべきだろうか。
「どうした?」
「いや、別に」
 吐き気に似た気持ち悪さが全身を支配していた。殺さなければ、殺さなければ。どうやって?彼が近くに居るこの状況で、叫び声でもあげられたら彼が気づいてすぐに俺は止められるだろう。それなら、彼を殺してから少女を殺すのはどうだ?これはいい案じゃないか?少女なんていなかった。これで押し通せば良い。そして狼として町にこう言うのだ、少女は悪夢に食われたと。そしてそれはすねこすりのために公表は控えてほしいと。
 暗い思考に沈んでいると、二階から少女が下りてくる。そして彼の隣に座った。
「…名前は」
 言いに行く際便利だろうと思ってそう聞くと、そいつは座ったまま振り返って俺を見上げ、軽く一礼した。
「蜂谷静音です」
 凜とした声だった。それがかえって俺を苛つかせて、包丁を握りしめる手に力がこもった。
 ちらと彼を見た。
「あ…」
 涙が出そうだった。
 俺は少女を殺せない。
 蜂谷と名乗った少女の隣で嬉しそうに笑う彼のその顔が、あまりにも君に似ていたから。