薄暗い、極彩色の体育館。
 私の呼吸の音しか聞こえない。気味が悪いほどの静けさだ。
 ぐらぐらしていて安定しない。私は少しも動いていないのに、視界が何度もバグを起こして気持ちが悪い。
 窓の外には何もなく、ただ暗闇が広がっている。宇宙か深海に体育館ごと放り投げられているようで、言いようのない心細さが辺りを漂っていた。
 この場所で唯一明るい舞台上には、人ほどの大きさを持つぬいぐるみがずらりと並んで、足を垂れ下げて腰掛けている。
 様々な色をしたそれぞれに愛嬌のある彼らは、店で買い手を待っているようにじっと、どこか遠いところを、そのビーズの瞳で眺め続けている。
 そんな彼らと同じように並んで、舞台側から見ていちばん左端に座っているのが私だった。身体には綿ではなく骨や肉が詰まった、人間の私。
 これは夢だ。何度この夢を見たか、もう忘れてしまった。
 小さくため息をつくと、舞台の照明が点滅して、バツン、という音と共に全てが暗転した。そして数秒の内に、再び舞台上が明るくなる。その眩しさに目を瞬いていると、やけに間延びした、猫なで声が体育館に響いた。
「かわいい」
 何度も聞いたその声に吐き気がした。何度聞いても、この声には慣れない。
 舞台の下、体育館の中央にいつの間にか現れた、一脚だけのパイプ椅子の上。ウェーブのかかった髪を揺らして、母はぬいぐるみ達を眺めている。何度同じ展開を経ても、やはりこの瞬間は気が重たい。
 母は椅子から立ち上がると、肘を伸ばして、私からいちばん遠くに座っている兎のぬいぐるみを指さした。
「かわいい」
 次に、その隣の熊のぬいぐるみを指す。
 それを繰り返し、最後。私の番だ。
「かわいくなくなった」
 母がそう言った瞬間に全ての窓ガラスが割れ、大量の水が流れ込んできた。母は微笑みながら濁流の中へと消えていく。
 あっという間に舞台の下は暗い湖へと姿を変えていった。
 全てのぬいぐるみ達が、私に顔を向けている。彼らに動く口はついていないが、嘲笑っているように見えた。
 私は身体を前のめりに傾けて、躊躇わずに水の中へと落ちた。
 どう足掻こうがこの水中からは抜け出せないことを知っている私は、目を閉じ全身の力を抜いて暗い底へと沈んでいく。
 どこかで少女のすすり泣く声がして、やがて止んだ。
 水中で瞼を薄く開くと、子供向けの音が出たり引っ張って遊べたりするおもちゃやベビーカー、幼稚園の制服に、小さな靴、愛くるしいぬいぐるみたちが私を囲んでいる。口から気泡を出しながら、私は再び目を閉じる。
 虚しくなるのはここまでだ。これから、強い光が降ってくる。期待に胸を弾ませて、私は暗闇に身を委ねた。
 しばらくそうして水中を漂っていると、突然、腕が勢いよく水中に飛び込んできた。そして私の手を掴み、強い力で私を水面へと引き上げた。
「生きてるか…?」
 水面に浮かぶ私に降るその声は、不安に揺れている。死んでいないこと伝えるために、ゆっくりと目を開くと、安心したような表情の君と視線がぶつかる。
 私と君を取り囲む背景は、体育館ではなく夜の海だった。いつ変わったのだろう、何度も同じ夢を見たはずなのにその瞬間を目にしたことはない。私は浅瀬に仰向けに寝転がり、膝をついて私を覗き込む君を見上げている。
 綺麗。綺麗だ、本当に。
 見た目が優れているとか、心に汚れがない、という意味の綺麗ではない。勿論君の見た目も心の底から素晴らしいと思っているが、それは私の「綺麗」とは違う。私の「綺麗」は、恋だとか愛だとかを飛び越えていく激情だ。
 絶対的で尊い、信仰心のような、忠誠心に近いもの。愛しい、愛している。それ以上に、私は君のことを綺麗だと思う。
「綺麗」
 私がそう言うと、君は「ありがとう?」と首を傾げた。
 波の音が心地よくて、夢の中でも眠れるのだろうか、と思いながら再び目を閉じる。
 君が焦ったように私の肩を揺する。
 君の居る世界なら生きてもいいと、そう思う。
 君は、私のかみさまだった。

 1

 朝起きて、まず視界に入るのは不快な淡い桃色。小学四年生の頃からほとんど変わっていない机やベッド、タンス、本棚もパステルカラーで包まれていて、壁に掛けられた黒い制服が異質なものに感じられる。私はその異質な黒で体を包んで、窓を開いた。潮風とともに部屋に流れ込む朝日は白い。君の色だ。
 携帯電話から充電コードを抜き取ると、画面に君が浮かび上がる。照れたような笑顔と、控えめなVサインが眩しい。時刻は六時。私は学生鞄に昨日片付けた課題と予習のノート、辞書と体育着を入れる。机の引き出しから愛らしい猫のイラストが描かれた封筒を取り出して、中から今日一日分の食費を抜き取り財布に入れて、私は部屋を後にした。
 廊下に出ると、廊下の突き当たりにあるリビングから複数人の声がする。テレビの声だろう。音を立てないよう洗面所に入って、歯を磨いて短い髪を櫛でとかし、身なりを整える。
「行ってきます」
 リビングには届かない声をリビングに投げて外に出た。
 マンションのエレベーターを下りながら目を閉じる。母がどんな顔で、どんな声だったか、私はもう忘れてしまった。喋ったのはいつが最後だったか。
 自転車で早朝の町を走る。途中のコンビニで牛乳とサンドイッチを買った。私の住むマンションから学校は近く、自転車なら十分程度で到着する。コンビニに寄ってもまだ六時半で、今から行っても教室には誰も居ないだろう。
 私は学校の前を通り過ぎて、寂れた商店街を抜ける。波の音に向かって進んでいくと、木造の古い建物が並んだ、車一台分程度の幅の道がある。この町でいちばん海に近いところにある住宅街だ。
 その一角に、「喫茶同前」はある。喫茶同前は名前の通り同前という名字の店主が営んでいる喫茶店だ。二階建てで、二階は住居になっている。
 扉には準備中の札が垂れ下がっているが、私は構わずノックをして店に入った。
「こんにちは」
 来客を知らせる鈴の音と私の声が店に響く。ふわりとコーヒーのいい香りがして、私は思わずほう、と息をついた。
 穏やかな音楽が流れている。テーブル席が二、カウンター席が四。そして奥にひっそりとソファが置かれた店内は、広いとは言えないが狭いわけではない、丁度良いを具現化したような心地よさだ。
 カウンター席で私と同じ高校の制服を着た少年が一人、静かに座って黙々と絵を描いている。一つ開けて隣に座ってスケッチブックを覗き込むと、そこには君が描かれていた。毎日一人ずつ君が増えていく彼のスケッチブックは、写真では分からない君の神聖さのようなものが溢れている。実際の君は太陽そのもののようだが、彼の描く君はどこか憂いを持っていて、どちらかというと月のようだ。君の新しい一面のようなそれを見るのが私はとても好きだった。
 キッチンの奥から足音がする。白い暖簾を潜って顔を出したのは、私の世界で唯一色を持った人間だ。窓から入り込む穏やかな日差しを反射して、所々跳ねている君の栗色の髪が黄金に光っている。私を目にとめると、君のその髪と同じ色の睫が弧を描き、形の良い唇からは白い歯が覗いた。自分の頬が緩むのを感じる。黒いスウェットが君が纏う白を際立たせていた。
「おはよう」
「おはよう!飲み物どうする?」
「コーヒーお願い」
「ブラックだったよな?」
「うん」
 君はトースターから焼き上がったパンを三枚取り、サラダが盛り付けられたプレートに乗せる。喫茶同前とプリントされた臙脂色のエプロンがよく似合っている。
 しばらくして、君が私と彼、そしてその間の誰も座っていない席に、綺麗に料理が並べられたプレートを置いた。良い匂いが私たち三人を包み込んでいる。
「正太郎は?」
「紅茶」
「了解。砂糖は二本までな」
「……分かった」
 正太郎、と呼ばれた彼の名字は同前。同前正太郎。前髪で目がほとんど隠れている、不健康そうな青白さを持つ背の高い少年だ。君に言われたとおりシュガースティックは二本に留めて紅茶を混ぜている。初めてここで朝食を取った日、君が目を離している隙に彼がココアにシロップをドバドバと躊躇うことなく入れていたのを思いだし、私はブラックコーヒーをすすった。
 パンにバターを塗っていると、キッチンから出てきた君が隣に座った。
「月子さん今日来ないって」
 私からバターナイフを受け取って、パンにバターを塗りながら君はひとり言のようにそう言った。彼はあくびを噛み殺しながら、君からバターナイフを受け取る。
「どこに行くかは言ってたか?」
「隣町の水族館。鮫見に行くんだってさ。晩は寿司買ってくるって言ってた」
「水族館に行った後寿司…」
「月子さんらしいよな」
 月子さんというのは同前の祖母でありこの店の店主である人のことだ。彼女のことを一言で表すならば「謎」だろう。作家だと聞いたことがあるが、それ以外はよく分かっていない。どこに住んでいるか、どうしてこの店を開いたのか、孫である彼ですら知らないらしい。
 この店の定休日は水曜日と日曜日だが、月子さんの気分や都合次第で水曜日にも開店していたり、月曜日に休みになったりしている。学校に通わず店の二階に住み込みでここで働いている君は、早朝に今日は店があるかどうかをメールで聞くというのが日課らしい。今日はドアに「CLAUSE」と書かれた看板がぶら下がるだろう。月子さんのケーキが今日は食べられないことを残念に思った。
「おいしい」
「ほんとか!そのオムレツ、昨日、月子さんに作り方教わったんだ。うまくできてて良かった」
 オムレツだけじゃなくこの皿の上のもの全てという意味だったが、君が喜んでいるからよしとしよう。
 三人のプレートから食べ物が消えていく。食事とは他の命を奪い自分を生かす行為で、それ以外には何の意味もないのだと思っていた以前の私が今の私を見たらきっと驚くだろう。料理上手な君が作っているからというのも勿論あるが、君の隣で食べるものは何もかもがおいしくって、食事に幸福を見いだせる。君の隣なら、たとえ得体の知れない肉塊でも私は喜んで食べることができる。
「今日は抹茶ケーキの作り方を教えてもらうつもりだったんだけど…。急に暇になっちゃったなあ。正太郎、また教科書とワーク借りても良いか?」
「どれでも好きに使えばい。去年のは本棚の下の段ボールの中だ」
「ありがとう。同前の部屋の本棚といえば、俺教科書よりスケッチブックの方が多くて面白いからあの本棚見るの好きなんだ」
「全ページお前だ」
「そう聞くとなんかちょっと怖いな」
 三人で、和やかな話をする。まだ重たかった私の頭は、この時間にゆっくりと覚醒していく。君は私と彼の空になったプレートとマグカップを見ると、席を立って、それらを回収してキッチンのシンクに置いた。
「洗うよ」
「いいよ、ありがとう。それより二人ともそろそろ学校じゃないか?」
 時計を見ると、七時半。
 まだ君を見ていたいが、君が言うとおりそろそろ学校に向かわなければいけない時間だった。朝食代を渡して、学生鞄を肩にかける。彼も同じように席を立って、すたすたと扉に向かっていく。
「あ、正太郎、弁当ちゃんと持ったか」
「持った。行ってくる」
「おう」
 どういう経緯でそうなってるのか私は知らないが、彼と君は店の二階で二人で住んでいる。彼が君から弁当を受け取っているのはそのためだ。
 この喫茶店はご近所さんや少ない常連さん以外はあまり訪れない。月子さんはその少人数のお客さんとの会話や静かな店内を楽しんでいるようで、店のことを積極的に宣伝しているようなところを見たことがない。でも君はそれが退屈らしく、お客さんがいないときはキッチンで月子さんに貰ったらしい大量のレシピ本を見ながら弁当に入れるものを黙々と作っているのだと聞いたことがある。だからか、いつも彼の弁当はとてもおいしそうだ。弁当を受け取る彼を羨ましく思う。
 彼を見送った後で、荷物をまとめていた私に猫又くんは駆け寄った。君がこちらに向かってくるとき、私はいつも心臓を痛めている。この世でいちばん綺麗な光が私に近づいてきているのだ、仕方がないだろう。
 君は何か言いたそうにしたが、私の手元に目をとめると口を噤んでしまった。どうしたのだろうかと目線を追うと、辞書と体育着で鞄の空きスペースが埋められてしまい、いつもは外に出していない昼食が入ったビニール袋がそこにはあった。
「…どうかした?」
 努めて優しい声を出す。
「いつも蜂谷はコンビニで昼買ってるだろ?余計なお世話だとは思ったんだけど、気になってさ。蜂谷の分も弁当作ってみたんだ。でも、悪い、もう買った後だったな」
 キッチンを見ると、赤い布で包まれた弁当箱らしきものが静かに存在を主張している。私は思わず君の肩を掴んだ。
「いる。欲しい」
 鬼気迫る私の勢いに君は数回瞬きをした後で照れたように笑った。
「いくら払えば良い?今日の昼代はもう使ってしまったから、明日になるけれど」
「これは俺が趣味で作ってるんだ。口に合うかは分からないが受け取ってくれ」
「…分かった。ありがとう」
 それ以上何も言わずに受け取った。対価のない幸福は少しだけ恐ろしいものだが、私は君の頼みを断るという選択肢を持っていなかった。それを知っている君は、申し訳なさそうな顔をした。
 かくして赤い包みを手に入れた私には今、世界の全てが眩しく見えていた。元々君がいるだけで世界は美しく輝いているが、今はそれがより一層強く感じる。
 扉に手をかけて振り返ると、君がひらりと手を振った。
「じゃあまた後でな、蜂谷」
 君が口にすると、私を表す記号が何か特別なものに思えてくる。じんわりと心に暖かいものが広がって、君がこの灰色の世界でよりいっそう輝いていく。
「うん、猫又くん」
 この世でいちばん綺麗な名前。猫又創助。それが君の名前だ。私は君に背を向けて、店を出た。
 扉が閉まる、直前。
「ゴホッ、あ、うわ」
 咳と、君の困惑したような声が聞こえた。私はすぐに店内に戻って背中を向けている君の手を掴んだ。
 君の足元に、赤色が落ちている。
 ぎょっとして床から視線をあげると、君の栗色の髪も健康的な肌色もなくなっていて、そこにはツルッとした白があった。パキパキと卵の殻が剥がれ落ちるような音を立てながら、君の体が白いヒーロースーツに包まれていく。見る見るうちに、君が消えて「すねこすりさん」が完成していく。ついには、掴んでいた手も白で包まれてしまった。
「メット、外して」
「…嫌だ」
 君が嫌だというなら、私はそれ以上強くは言えない。私は手を引いて、キッチンの奥へと進む。「大丈夫だから」「学校遅れるぞ」他にも声をかけられたがそれら全てを無視して二階に上がる。
 階段を上りきると、君は「ついて行くから、手、離してくれ」と言った。観念したようなその言い方に私は手を離したが、君はメットを外さなかった。それを不満に感じながら、君がついてきていることを確認しつつ短い廊下を通る。薄暗い廊下を挟む両方の壁に二つずつ扉がある。階段から見て、右手前が水回り、右奥が物置、左手前が彼の部屋で、右奥が君の部屋だ。廊下の突き当たりにも扉があり、店の裏の階段に出ることができる。
 君は君の部屋に入ると、扉をほんの少しだけ開いて顔を覗かせた。メットは外れていて、君の綺麗な瞳がこちらを向いていた。口元を手で隠していることに、私は気づかないふりをする。
「寝て」
 きっぱりと言い放つと、君はすごすご、という音が聞こえてきそうな様子で扉を閉める。少しだけさみしさを感じたが、私は時計を見て、小走りで階段へと向かった。
「行ってきます」
 階段に片足を乗せたところで、私は呟く。君の部屋には届かないだろうと思った。するとすぐに、君の少しだけ高い少年の声が帰ってきた。
「行ってらっしゃい」
 幸せが体中を駆け巡って、泣き出してしまいそうだった。

 嫌いな教科はないが、好きな教科も特にない。怒鳴り散らす英語教師は苦手だが基本的にはどの教師も嫌いなわけではない。
 唯一楽しみにしているのは、現代文教師の雑談だ。大学生ほどにも見える彼女は君のファンであり、時間が余れば君の話をしている。君が賞賛されているところを見るのはとても気分が良い。
 今日は四限に現代文があった。時間が余ると、やはり彼女は君の話を始めた。一年ほど前、彼女はどうしても終わらせなければならない仕事のため遅くまで学校に残ってしまい、帰る際に悪夢に襲われかけたそうだ。その時君に助けられて、君のことが大好きになったのだと鼻息を荒くしながら彼女は語る。
 彼女の話を心で頷きながら楽しんでいると、いつの間にか昼の授業は終わっていた。
 待ちに待った昼休み、私は弁当を早く開けたくて、ノートや教科書を机に広げたまま席を立つ。すると近くから「ぎゃあっ」と悲鳴が聞こえた。
「びっくりしたあ…!」
 二年生のスリッパを履いた少女が、私の背後で胸のあたりを押さえている。私が突然立ち上がったことに驚いたのだろう。
「あ、蜂谷先輩、私のことはいつも通り気にしないでくださいね!」
 ああ、この子か。と、彼女が手に持っているカメラを見ながら思う。
 人間というものは、どうも興味関心の無いものを覚えておくことが困難らしい。君と出会ってから、君と君に関する人物以外の価値を失ってしまった私は、人の顔や名前を覚えることができなくなった。クラスメートは皆輪郭がぼやけて、風景と一体になっている。不自由は特にないから、気にしてはいないけれど。
 しかし、君と何の関係もないがこの目の前の彼女だけは覚えている。毎日昼休みになるとカメラを向けてくるような人物は珍しいにも程があるため、覚えざるを得なかったのだ。…覚えていると言っても、顔は他と同じくぼやけているためきっとすれ違ったとしても分からないし、声なんて聞いた側から忘れる。カメラを私に向ける物好きの少女という存在があることを覚えているだけだが、それでも私の中では珍しい少女だ。
「あ、そのサンドイッチ美味しいですよねえ。私好きです」
 カメラのシャッター音が止んで、少女は私の机にかけられたビニール袋を指さした。
「…いる?」
 少女は飛んだ。三十センチ以上飛んだ。
「ええっ!蜂谷先輩私のこと見えてたんですか!じゃなくて、もらって良いんですか!」
「弁当があるから」
 なぜか涙を流している少女の横を通り過ぎて、私は教室を出た。勿論、赤い包みを持って。
 体重を思いきりかけながら、力一杯扉を持ち上げ浮かせつつノブを捻ると、立ち入り禁止の屋上の扉は簡単に開く。そこには青空が広がっていた。快晴とまではいかないが、とても良い天気だ。風は肌寒いが、柔らかい日差しと混ざって心地良い。春がやって来たという感じがする。
 アニメでよく見るような高さはない柵にもたれて、同前がスケッチブックを広げて座っている。私は一人分の間を空けて隣に座って、ぼんやりと遠くの景色を眺めた。
 扉を壊したのは彼だ。鍵がなくても屋上に出れることを彼と私以外は誰も知らない。だからあり得ないが、もしここに事情を知らない人が訪れたら、無言で弁当に手もつけずじっと動かない私たちを気味悪がるだろう。君という繋がり以外何もない私と彼は、二人でいるとき、君以外の話題では話さない。必要が無いし、お互いに興味も無いからだ。
 背後でトンと音がして、振り返ると、太陽を背にした白い仮面が柵の上から私を見下ろしていた。
「悪い、遅れた」
 よいしょ、と君は私と彼の間に座る。喫茶同前が休みの日は、ここで昼食を三人で食べている。私が来る前から二人はここで昼食を食べていたらしい。私と君が出会って数日経った頃、昼食を持って屋上へ向かう彼を見かけて、気になり後を追った時に知ったことだ。「私も一緒に食べて良い?」という私の言葉に嬉しそうに何度も頷いた君の隣で、無表情を崩していないのにも関わらず皮膚が焼けそうな程の殺気を彼は放っていたが、今では許したのか諦めたのか命の危機を感じる瞬間は少なくなった。多少安堵している。彼のことに興味は無いが、殺意を向けられることは居心地の良いものではない。
「もう十五分過ぎてるんだから、二人とも先に食べてて良かったのに」
 君がメットを外すと、ヒーロースーツが剥がれ落ち、君が手を離すと、メットも跡形もなく消えていった。
「君と食べたいから」
「嬉しいけど、それだともし俺が来なかったら昼食べ損ねるだろ」
「ここに来ないとき、何をしているの?」
「人助けとかだな。呼ばれたら放っておけない」
「頭に響くんだっけ」
「ああ。助けてすねこすりさん、って声が響くんだ。場所も何となく分かる。…昼間に俺を呼ぶ人の大半は悩み相談だから、俺が役に立てるかは分からないんだけどな」
「君は、悪夢以外のことで呼ばれて迷惑じゃないの?」
「…考えたこともなかった」
 言われてみれば確かに、悩み相談は悪夢と違って俺じゃなくても良いよな。と感心したような顔をする。しかしそれでも、君はこれからも呼ばれたら飛んでいくのだろう。君はそういう人だ。
「俺も呼べば良いのか」
 突然、低い声が空気を切り裂く。声の主である彼は、突然君の両肩を掴んだ。長い前髪から見え隠れしている瞳がぞっとするほど冷たい色に光っている。
「俺も呼べば、お前はここに留まるのか」
「正太郎?どうしたんだ?なんか…怒ってないか?」
 彼は君に腕を捕まれると、はっとして肩から手を離し、何事もなかったかのように弁当の包みを広げ始めた。君はそれに言及することもなく、持ってきていた白いリュックから弁当を取り出す。私は君が何も言わないなら気にしなくても良いかと同じように弁当を広げた。
 甘辛く味付けされたアスパラの肉巻き、プチトマト、春雨のサラダ、卵焼き。包みから落ちてきた小さな袋はふりかけだ。カラフルなヒーローがプリントされたそれは、日曜日に必ずヒーロー番組を見ている君が選んだもので間違いないだろう。君が作った弁当を私は受け取ったのだという実感が一層強く感じられて、誰かに自慢したくなる。同前に自慢するように弁当を見せると、対抗するように弁当を見せてきた。2人とも中身は同じなのに何をしているんだろうと自分でも思う。君はそんな私と彼を不思議そうに見ていた。
「正太郎の本棚から古文のワーク借りたんだけど、結構いい点だった。この間2人に教えてもらったところが出てさ」
「…猫又くん、君、私が学校に行った後、ちゃんと寝た?」
「寝たぞ。そこまで深い傷じゃなかったから、案外早く回復しただけだ」
「血を吐いてたのに?」
 聞くと、君が何か言う前に彼が音を立てて箸を置いた。
「血を吐いた?」
 いつもより低く響いたその声に、君は苦笑いをする。
「あー…、あはは…。悪夢に腹を貫かれたときの怪我のせいだな。表面は綺麗だったから今朝血を吐くまでは治ったと思ってたんだよ。でも内臓がまだだったみたいで、蜂谷の前で血を吐いちゃったんだ。今はもう大丈夫だから。気にしないでくれ」
 彼は無表情を崩さないため何を考えているかは分からないが、君をじっと見つめていた。私はその笑顔の中に嘘がないことをじっくり眺めた上で判断し「分かった」と返事して卵焼きを租借する。ふわりと甘さが広がった。母が小さな鞄に入れてくれた弁当の卵焼きは甘かっただろうか、と君に出会う前の記憶を探ってみるが、そのどれもが何か分からないほどさび付いていて、思い出すことはできなかった。
「昼を食べ終わったら、君は何をするの?」
「友達に会いに行こうかな」
「誰?」
「小学生くらいの男の子だよ。最近知り合ったんだ。体が弱いらしくて、あんまり学校に行けなくて退屈だって言ってたから、時々会いに行く約束をしたんだ。毎週ヒーローの番組見てるのはその子の影響」
「その子とはどうやって出会ったの?」
「呼ばれた。助けてすねこすりさんって。親が出かけてて、家に一人だけで寂しかったらしい。まさか本当に来ると思ってなかったって泣いて謝られたんだけどな」
「でも今は友達なんだね」
「部屋にヒーローの変身グッズが飾られてたから、ヒーロー好きなのかって聞いたら泣き止んで、好きな必殺技を聞いてそれを再現したりして仲良くなった」
「君らしい」
「そうだ、蜂谷も会ってみるか?俺の友達に会ってみたいって言ってたから喜ばれると思う」
 君に友達と呼ばれるのは幸せだが申し訳なさを感じる。君にとっての私は友達だが、私にとっての君はかみさまだ。友達なんてとんでもない。私は君の光を浴びて救われている信者だ。
「君はどうしたらいいと思う?」
 私は君の意思で動きたい。
「俺は来てくれた方が嬉しい」
「じゃあ、行くよ」
「よし!決まりだな。後で地図送るからメール見てくれ」
「分かった」
 私と君とで会話をして、昼休みがそろそろ終わりを告げようとしていた頃、黙りこくっていた彼は口を開いた。
「……悪い」
 君の肩を掴んだ事への謝罪だろう。
「いいよ。慣れた」
 君はさらっとそう返す。彼があんな風に感情的になることが慣れるほどあったのかと私は表情を崩さずに驚いた。
「…疲れてるのかもしれない」
「何かあったのか?」
 彼は頷く。
「悪夢を見るんだ、毎日。結構、堪える」
「内容はいつも同じなのか?」
「ああ」
「どんな悪夢なんだ?」
「そうだな…怖くはないけど、最悪な気分になる」
「そうか…。何かできたら良いんだけど、さすがに夢の中には入れないからなあ…」
 うんうんと唸る君に、彼は不器用な微笑みを浮かべた。口角が上がっただけで屈託のない君の笑顔とは天と地の差があるが、無表情よりは人間味がある。…風邪を引いてマスクでもしたら彼はいよいよ「無」になるのではないだろうか。君が黙ってしまったことで少しだけ温度を下げた空気に君が気づいて慌てて笑顔を作ってしまう前に、私は小声でそう君に言うと、君は爆発したような音を出しながら吹き出し、震えながら腹を抱えてしまった。君の笑いのツボが分からない。
 無表情に戻った彼が、君が吹き出したときに君の手から飛び出した弁当箱を片手でキャッチし、私を一瞥して「無にはならないだろ」と言いながら君の弁当箱を床に置いた。聞かれていたようだ。
「そうだ、さっきの話なんだけど、同前も行くか?」
「……ああ、うん」
 彼が悩むそぶりを見せたのが意外で驚いた。君の行動を随一確認したがるような彼は当然即答すると思っていたのだ。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。君はすぐに立ち上がって、三人分の空の弁当箱をリュックサックに入れると、目を閉じた。その顔はメットに包まれていき、この町のヒーローが作り上げられていく。神聖な光景だといつも思う。天使が羽を広げる瞬間を目の当たりにしたようだ。
「また後でな」
「うん」
 君は柵を軽々と飛び越えて、向こう側へと落ちていった。いつの間にか雲はどこかへ消えて、空には青がどこまでも続いていた。君は雲すら散らして晴天を連れて町を明るく照らす力を持っている。少なくとも私の世界ではそうだ。君の隣にいることが許された私は、間違いなく世界でいちばん幸せだ。

 放課後になると、私は掃除を早々に切り上げてチャイムが鳴るのと同時に自転車で校門を抜け、六限目の間に携帯電話が受け取ったメールに添付されていた地図の場所へと急ぐ。
 息を切らしながら踏み込んだ学校近くのスーパーマーケットの裏側、従業員用の駐車場で、君は野良猫と戯れていた。野良猫になりたいと思った。
「蜂谷!見てくれ、こいつすごく可愛い」
 人懐こく擦り寄る三毛猫の頭を撫でながら、君はメットで覆われていないとびきりの笑顔を見せる。
「懐かれてるね」
「ふふん、良いだろ?」
「うん。羨ましいよ、猫が」
「猫が?」
 突然、咽を鳴らして君の腕に収まっていたその猫が、悲鳴のような声をあげて一目散に逃げ出していった。私のせいだろうかと慌てて君を見ると、君は私の居ない方へ顔を向けていた。
「あはは、また逃げられてる」
「…何もしてないんだが」
「他はそうでもないのに、なぜかいつも猫には逃げられてるよな」
「呪いだ」
「そんな馬鹿な」
 君の隣に、いつの間にか同前が立っていた。彼は相変わらずの無表情を保っている。
「ここから近いんだ。行く前に、お面被ってくれるか」
 君は白いリュックからお面を2枚取り出して、私と彼それぞれに1枚ずつ渡す。彼が狼で、私が狐。これを私は数回被ったことがある。すねこすりとして行動する君の隣にいる時は、私と同前は仮面を被る。私と彼を経由して君の正体が暴かれてしまわないようにするための物だ。3人並ぶとサーカスの宣伝でもしに来たかのような滑稽な見た目になるが、君の隣に特別に居られる喜びが少しの羞恥を上回っている。
「ところで、その少年の名前を教えてほしいな」
 面を被り終えて、私はそう聞いた。
「そうだ、忘れてた。ツカサだよ。苗字は…聞いたことないな。表札も見たことないや。まあいいか。ツカサは大人しくて人見知りするけど、慣れたらよく笑うやつなんだ。2人が来ることは昼飯後に伝えといたから、きっと今頃そわそわしながら待ってると思う」
 行こうか、とすねこすりに姿を変えた君が歩き始める。RPGのように、私と同前は1列になってその後ろを歩いた。
 スーパーマーケットから徒歩五分のところにある住宅街、海は見えない殺風景な場所の、落ち着いたダークブラウンの家の前で私たちは足を止める。
 君はお邪魔しますと呟いてから駐車場を抜けて、花壇に白い花が咲いた小さな庭に回り込み、二階の開いた窓に手を振った。
「おーい、ツカサ〜!友達連れてきたぞ!」
 窓から、ひょこりと頭が飛び出す。
 短く切られた髪がぴょこぴょこと跳ねた幼い少年は、君を見るなり嬉しそうに破顔して、手を振り返す。君は上機嫌に壁に手をかけた。
「すねこすり、待て。俺は登れない」
 確かにそうだ。君にとっては日常かもしれないが、私と彼には壁をすいすいと登れるような力はない。
「そうだった!どうしよう…」
 すっかり失念していた様子の君は壁から手を離し、ストンと軽い音と共に地面に戻る。
「今日は調子がいいから庭くらいなら出れるよ、ちょっと待ってて!」
 ツカサ少年はそう言って窓から消えると、トタトタと可愛らしい足音を立てながら庭に出てきた。そして君を見て嬉しそうに笑い、私と同前を見上げ、君の背中に隠れる。
「ツカサ、この2人がいつも言ってる友達だ。挨拶できるか?」
 君に促され、少年はおずおずと君の後ろから出てくる。微笑ましいな、と思った。
「ツカサです、初めまして」
 少し上ずっているが、はっきりとした挨拶だ。私は彼と目線を合わせて、なるべく広角を上げる。
「初めまして。私は…ええと…。…狐。狐って呼んで」
 面を被った状態での自己紹介は初めてで、危うく本名を言うところだった。狐面だから狐。これ以上ないほど安直な名前だが、まあ、名前なんてどうでも良いだろう。少年は安心したように微笑む。
「…狼」
 彼はそれだけ言うと黙り込んでしまった。その寡黙さと無愛想さは小学生にも向けられるのだなとほんの少しだけ感心してしまうような冷たさだ。さっきまで微笑んでいた少年の顔が真っ青になっている。君も予想外だったらしく、「ごめんな、こいつも人見知りなんだ」と彼のフォローを始めた。私は彼を睨んだが、お面越しでは伝わらなかった。
「どうぜ、違う、狼!怖がっちゃっただろ!」
「悪気は無いんだ。さっきから吐き気が酷くて。風邪かもしれない。悪い。…先に帰る」
「えっ…そうだったのか。1人で帰れるか?お前1人くらい担いで帰れるけど」
「いやいい」
 そのまま彼は帰って行った。少年はポカンとしながらそれを見送っている。
「狼さん、具合悪かったの?」
「そうみたいだ。ごめんな、怖かったな」
「ううん。狼さん、お薬いるかな。持ってきてあげようかな」
「君が飲んでるやつか?それは駄目だぞ。君が飲まなきゃ意味が無い。でもありがとな」
 少年はまだ心配そうな顔だったが、分かった、と頷いた。心優しい子なのだろう。
「よし、気を取り直して。ツカサ、今日はなにして遊ぼうか?」
 少年はぱっと表情を明るくして、何をしたいかを考え始めた。あれもしたいこれもしたい、でもこれはできない。少年の口からたくさんの言葉が溢れている。君はそれをニコニコしながら見守っている。
「…いつもは、2人で何してるの?」
 努めて優しく聞くと、えっとね、と話初める。恥ずかしいのかこちらは向いてくれなかった。
「外にはあんまり出ちゃいけないから、トランプとか…。あとは宿題教えてもらったり、一緒にヒーロー番組見たりしてる…ます」
「楽な話し方でいいよ。気にしないで」
「背中に乗せてもらって、屋根の上をぴょんぴょん飛び回ったこともある。僕、あれ大好き」
「楽しそうだね」
「うん!でもその後はしゃぎすぎて吐いちゃって、しばらくすねこすりさんを呼ぶの禁止にされちゃった」
「今親はどこに?」
「仕事でいないよ」
 警戒心を徐々に解いていく少年は、それに合わせて君の背中から出てきた。面白いな、とそれを見ていると君が突然少年を抱き上げる。
「会話に混ぜてくれ!寂しい!」
「ぎゃーっ!苦しい!」
 きゃいきゃいとはしゃぎ始めた彼らに、いつか下校中に見た子猫二匹の戯れを思い出す。思わずふふ、と笑うと少年が恥ずかしそうに君の腕から抜け出した。君は残念そうで、笑わなければよかったと思った。
「2人は、いつも何して遊んでるの?」
 遊びたいことが絞れないのだろう。私と君は顔を見合わせた。どちらも仮面に顔は覆われているけれど、目があった感覚があった。
「…いっしょにご飯食べたり、今日あったことを話したり」
「遊んでるかと言われたら微妙だけど、俺は狼と狐に勉強教えてもらったりしてるな。あとは…、3人で昼寝したりとかか?」
 少年はぱちぱちと目を瞬かせ、不思議そうな顔をした。
「僕、あんまり外に出られないから知らないんだけど、友達と遊ぶのって、どこかに出かけたり公園に行ったりするんじゃないの?この間見たアニメではそうだったんだけど…」
 別にそれが全てではないと思うが、私と君の「遊ぶ」は少年の「遊ぶ」のイメージから外れていたようだ。
「そういえば俺たち、ほぼ毎日一緒にいるから3人でどこかに行こうとか考えたことないな」
「そうだね」
 君が隣にいるだけで幸福を感じている私には、今が満たされすぎていて君と遊びに行く為だけに出かけるという考えすらなかった。
「狐さんと狼さんはすねこすりさんと毎日一緒にいるの?」
 そう聞く少年の顔には羨ましいとはっきり浮かび上がっている。そうだろう、私も少年の立場ならそんな顔をする。同情していると、一台の車が車庫に入ってきた。
「あ、母さん帰ってきた」
 残念そうな顔をする。
「早く部屋に戻らなくちゃ。今日はまだ体調が良い方だけど、外に勝手に出てたら怒られそう」
「俺が二階まで届けようか?」
「ほんと?!」
 少年は元気よく君が広げた腕の中に収まる。そして君はしっかりと少年を抱えると、勢いよく飛び上がり、二階の窓枠に着地して少年を室内に下ろした。
「じゃあまたな!」
「うん!狐さんも、ばいばい」
 手を振る少年に私も手を振り返す。短い時間だったが非常に和んだ。
「人1人抱えてジャンプできるなんてすごいね」
 ただの感想だった。他意はなかったのだ。
「蜂谷ももちろん運べるぞ!」
 君は嬉々として、先ほどと同じように両腕を広げた。私は、思わずその両腕に収まってしまった。
 ぐらぐらする。内臓がミキサーにでもかけられたようだ。見ている分には楽しそうだが、実際はそうではなかった。
 月子さんにおつかいを頼まれた物と夕食の食材を買うために、君は私を抱えたまま、再び学校近くのスーパーに着地した。重力を感じて、ぶわりと汗が吹き出る。
「やっぱ誰かと一緒だとなんでも楽しいなあ。帰りもするか?」
 眩しい笑顔でいう君に、私は微笑んで、君の言葉に初めて首を横に振った。