3

 絵本をこんなに熱心に読んだのはいつぶりだろう。何度も何度も読み返しては長い息を吐く。柔らかいタッチで描かれた白い人型の何かすら、すねこすりさんであると思うとたまらなくかっこいいのだ。
 僕の部屋の無機質な白い光だけでなく月明かりにも照らしてみたくなって、僕は電気を消してカーテンを引く。そして本で月明かりを受け止める。
「うん、やっぱ綺麗」
 口からするりと出たそれに自分で驚く。独り言なんてこれが生まれて初めてだと言えるほど経験の無いものだ。すねこすりさんに出会ってから僕はどこかおかしくなっているらしい。帰ってきたとき、祖父母が僕の顔を見るなり「学校、楽しかったんだねえ」と泣いて喜んでいた。比喩じゃなく、本当に涙を流していた。
 熱が冷めない。頬が熱くて、僕は体験したことがないから断定はできないが、これが恋なのか、と思うほどに心臓は激しく脈打っていた。
 自分が自分でないような、どこか浮ついている気持ちに戸惑っていると、小さく、声が聞こえた。
「お父さあん」
 窓の外からだ。
 窓から身を乗り出すと、僕の家の前を小学生くらいの少年が歩いていた。時刻は二十二時。父親を探しているようだが、辺りにそれらしい人影はない。すねこすりさんと話した後すぐすねこすりさんに関する本を読みあさった僕はこの町にある職場は二十一時を越えたら職場に泊まらなければならないという決まりがある事を知っている。その時間帯には確かにほとんどの店が閉じている。少年の父親は二十一時を越えてしまいきっと帰ってこれなかったのだろう。
 僕は心配になって、既に眠っている祖父母を起こさないようこっそりとスニーカーを履いて玄関を出た。
 少年はすぐに見つかった。僕が話しかけると小さく悲鳴を上げたが、僕がしゃがんで悪夢ではないことを告げるとほっとしたような顔をしてくれた。
「どこから来たの?」
 少年はおずおずと来た道を指さす。堤防に沿って歩いてきたようだ。堤防近くに家があるのだろう。
「明日になればお父さん帰ってくるからさ、今日は帰ろう。送るよ」
 少年は小さく頷いた。二人で少年が歩いてきたという道を歩く。大人しい子で良かった、と胸をなで下ろしていると、金属音が聞こえた。
 トングが何本も束になって歩いているような奇妙な音だ。僕はそれが悪夢だと気づいたが隠れる場所がない。音が近い。僕はとっさに知らない家の庭に入ってブロック塀に身を隠した。
 音はゆっくりと近づいている。
「おりませんかァ」
 変に甘ったるい間延びした声だ。僕は少年に口の前で人差し指を立ててみせる。少年は震えながら同じように人差し指を立てて口につけた。
「子供が二人、おりませんでしたかァ」
 コンコン、と足音とは違う堅い音がする。玄関の扉をノックしているのだ。まずい、僕たちが居るここはあまりにも玄関に近かった。しかし他に体を隠せそうな場所もない。
 子供が二人というのは僕と少年のことだろう。僕たちは大きな声で話していないのに二人でいたことがばれてしまっているということは、この悪夢は耳が良いのだろうか。彼を呼ぶ声を聞いた悪夢が彼より早くこちらに向かってきたらと思うと声も出せない。
 こんなとき彼ならどうするだろう。
 恐怖も痛みも乗り越える強い彼なら。
 僕は、音を立てないよう静かに立ち上がって、人差し指を唇に立てながら、少年にそのまま隠れているように身振り手振りで伝える。少年はコクコクと頷いた。
 僕は意を決してブロック塀の外へ飛び出した。悪夢はもうすぐそこに迫っていた。
 百八十センチはありそうな、髪を結った日本人形。緑色の肌、目は飛び出ていて、口は耳まで裂けている。着物の下から覗くものは足でもトングでもなく無数の刀だった。
「あらあらあららら」
 僕は一目散に逃げる。
 がしゃがしゃと乱暴な足音が追いかけてくる。早いわけではないが、体力測定でクラスの中の下である僕が捕まらないかと聞かれると微妙なところだ。
 少年からできるだけ遠ざからなければ、と恐怖で泣きそうになりながら走っていると、だんだんと知らない景色に変わっていく。走っている間にメガネは落ちてしまって、背後でガラスが割れる音がした。
 息を吸い込んで彼を呼ぼうとすると、目の前に狐の目が浮かぶ。ヒーローはいないと嘲笑っている。スポットライトが吐瀉物を照らして僕を惨めにした。
 違う、違う。この町にはヒーローが、助けてくれるかみさまがここにはいる。
 僕は思いきり叫んだ。
「助けてすねこすりさん!!」
 足がもつれて僕はその場に転んでしまった。すぐに立ち上がって前に進む。後ろは振り返ったら絶対にいけないと思っていた。
 息が上がって汗が滴る。もう体力が持たない、そう思ったとき、あの力強くて暖かくて、でも少年のような透明さを持った声が僕の耳に飛び込んできた。
「伏せろ!」
 僕は慌てて地面に手をつき犬のような格好になる。その僕の頭上を、白い光が通った。
 僕の背後で肉がかき混ぜられるような音や何かが割れる音がしばらく続き、悪夢の断末魔が上がる。
 ゆっくりと振り返ると、悪夢の心臓を取り出した彼が、丁度それを握りつぶすところだった。体は暗くてよく見えないが、彼のツルッとしたメットが月明かりに輝いている。美しくて、このまま美術館に飾れそうだと思った。
 バキバキ、と音を立てて崩れ落ちていく心臓が、風に混ざって消えていく。
 心臓をまじまじと見た。読んだ本の中ではプラスチックでできたような硬さで、掌を目一杯広げたくらいの大きさの、星形のもの、と説明されていたが、その通りの形をしている。
 彼は手を太腿あたりに叩きつけて手についていた心臓の粉を落とすと、僕にその手を差し出す。
 差し伸べられた手を掴んで立ち上がると、足がふらつき彼の方へと体を傾けてしまった。彼は僕の肩を掴んで支えてくれた。三十センチより近い位置で見る彼は高くはない僕より少し低いくらいの背丈で、思ったよりも小柄であることに驚く。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「家の前を小学生くらいの男の子が歩いてて…あ、もう大丈夫だよって言いに行かないと」
 タッタッ、と軽い足音が聞こえる。彼はすぐに僕を庇うように臨戦体勢をとったが、そこに居たのはさっきの少年だった。少年は彼を見るなり嬉しそうに破顔する。
「すねこすりさんだ!」
「うおっ」
 少年は彼の腰に突進するように抱きついて、にこにこしながら跳ねる。この町の住人ならば、幼くても彼のことを愛しているらしい。
「お父さん探してたら、お兄さんが来て、僕、悪夢が来て、お兄さんシーって。そしたら怖いのと一緒に…」
 たどたどしく少年が説明するのを彼は熱心に聞いていた。少年とヒーローって何だか微笑ましくていいな、と思っていると、話を聞き終えた彼が僕に振り返る。
「めちゃくちゃかっこいいな!」
 彼は僕の背中をバシッと叩いた。
「この子は俺が家まで送り届ける。君も早く家に帰ってくれ。じゃあ、おやすみ、転校生くん!」
 少年を抱えて去って行く彼を見つめながら、僕は荒い呼吸を繰り返した。叩かれた辺りから僕は息さえ忘れていたのだ。
「すねこすりさん…!」
 自室に戻った僕は、久しぶりに幸せな気持ちで夢の中へと落ちていった。


「何それ」
「えへへ」
「うわっ、君そんな風に笑う子だっけ?っていうか、メガネは?コンタクトにしたの?」
 隣の席の彼女に若干気味悪がられながらも僕の机の上に置かれたすねこすりさんの人形を撫でる。机には今日返却する予定の、すねこすりさんに関する本が数冊積まれている。朝日に輝くそれは僕には何か神聖なものに見える。
「それどうしたの?」
「ヒーローの人形に耳を付けたり塗り替えたりして作ったんだ。なかなか似てるでしょ?」
「すっかりこの町の住人だね。すねこすりさんのファンをこじらせて特に用がないのに呼んだりしないでよ?」
「しないよそんなこと」
「時々いるんだよ、そういう奴」
「最っ低だね。息の根を止めてやりたいくらいだよ」
 僕はすっかり彼の虜になっていた。
「ねえ、すねこすりさんのこと、もっと教えて欲しいんだけど」
「ええ?いいけど…、もう君の方が私より詳しいんじゃない?」
「この本に載ってないような、町の人だからこそ知ってる日常でのこととか、噂とかが聞きたいんだ」
「うーん、そうだねえ…。町で上映されるホラー映画とか、町で販売されるホラー小説とか漫画を見て、お化けとかそういう、悪夢になりそうなものをまとめた資料をすねこすりさんに渡すっていう仕事が町にあるとか…」
「それはこの本に書いてあったよ」
「じゃあ、悪夢は大体人を襲うけど、悪魔による死人は今のところいないってこととかは?」
「それも知ってるよ、この町で死人が出たいちばん最近の事件って、すねこすりさんが現れる前の連続殺人でしょ、五人だったよね?酷い事件だよ。すねこすりさんがその時いたらなあ…」
「私より知ってるじゃん、知らなかったよ、それ」
「そうなの?」
「うう、もう面倒くさくなってきたな…。あ、そうだ、仲間が二人いるって噂がある。すねこすりさんを背負った黒い狼の仮面の男と、その後ろをついていく狐面の女の子を見たって人が時々出てくるんだよね」
「それは知らないや、ありがとう!」
 きっと、すねこすりさんが言っていた友達二人のことだろう。仲間ではなく友達だと訂正しようと思ったが、彼との会話は僕だけの思い出にしたくて、僕は口をつぐんだ。
「あ、仲間になりたいとかって言い出す奴らもいるんだけど、すねこすりさん困るだろうから言っちゃだめだよ」
「仲間?とんでもないよ。僕はもう分かったんだ。全部分かったんだ!」
「何が?」
 チャイムが鳴って、彼女と僕は話をやめた。担任が教室に入ってきたのと同時に、クラスの誰かが呟く。
「あ、すねこすりさんだ」
 窓の外を見ると、確かに白い人影があった。それは窓を優雅に飛び跳ねていく。
「なんだか生きた光みたいだよね」
 隣の彼女がカメラを弄りながらため息をついた。先輩の笑顔はまだデータにできていないらしい。
 僕はそのカメラを見て、ふと思い浮かんだことがあった。僕はまだチャイムが鳴っていない廊下に飛び出して一つ上の階に上がる。
 チャイムと同時に入った上級生の教室は、まだ先生が片付けをしている最中で、いきなり入ってきた僕はとても目立っていた。
 お構いなしに教室の隅へと進む。
 頭の隅で、いつか聞いたラジオの歌声が響く。
 君の人生は君が主役。そんなことを、歌っていた歌手がいたっけ。
 でももう僕は分かってしまった。気付いてしまった。そしてそれを、喜んで受け入れた。
「蜂谷先輩」
 先輩は遠くに消えていく白い影を眺め続けている。声が届いているかは分からないが、僕は続けた。
「世界の中心にいるのは、誰だと思いますか」
 先輩は振り返った。
 先輩は笑っていた。瞳の中にあの空洞はない。純度の高い黒という感じだ。生に満ちている。
 ああ、可哀想だ。彼女が蜂谷先輩のこの顔をカメラに納める日はきっと来ないだろう。
「すねこすりさん」
「ですよね」
 こうして、脇役のプロローグは幕を下ろしたのだった。