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 僕はヒーローが好きだった。画面の向こうで、誰よりも強く輝いて物語の中心に立つ、強く優しい彼らに憧れていた。歳を取るごとにただのおもちゃになっていく変身グッズに絶望しながらも、僕は信じていた。困っている人に手を差し伸べるヒーローは存在するのだと。昼休み中、誰かに話しかける勇気がなく好きでもない読書をしたり、既に昨日完成させた宿題の漢字ドリルをキャップが付いたままの鉛筆でなぞることくらいしかすることがないような僕には到底無理な話ではあったが、それでもいつか、彼らのように光り輝くことを夢見ていた。
 だから僕は中学二年生の時、文化祭で行う劇の主役に立候補した。顔はきっと真っ赤だったし、手は震えていたと思う。それでもしっかりと、手を挙げた。
「大丈夫?いじめられてたりしない?」
 先生が、眉を八の字にしながら僕にそう言った。僕はこのとき、昼休みは既に完成した予習を芯の出ていないシャープペンシルでただひたすらなぞっているような奴のままだった。先生がそんな風に考えたのも当然だと頷ける。
 そこからはもう大変だった。僕は手を挙げているだけでかなり限界が近かった。だから先生の誤解を解くための説明ができなかったのだ。劇の話はいったん中止になり、僕をいじめている生徒を探す時間が始まってしまった。しかし見つからない。このクラスにいじめは存在していなかった。
 そうした事件の後、いつの間にか照明係の欄に僕の名前が入れられていて、照明の機材の説明書を渡された。もちろん僕は何も言えず、照明係をした。不本意ではあったが失敗はできないと、昼休みを使って毎日説明書を読み込んだ結果、先生より照明の扱いがうまくなり、照明の神なんてあだ名が付いたりもした。
 このままではいけないと、僕は人前で自分の意思を言葉にする練習をした。自分の部屋でも誰も居ないか周りを確認してから、ヒーローの人形に話しかけるところから初めて、中学を卒業する頃には散歩する近所のおばさんに挨拶をしたりした。結果、中学校生活が終わる頃には、よく行く本屋さんの店員さんに首を振るだけでなく声でカバーがいらないことを伝えることができるようになった。
 ほんの少しの自信を持って、僕は高校生になった。中学では二年生が文化祭で劇を披露していたが、この高校は一年生と三年生が劇をするらしかった。
 まだ人前で喋る練習が足りていない。今年はだめでも、三年生こそは!と意気込んで席に着いた。
「こんにちは、初めましてだね。君、なんて名前?」
 前の席の少年が振り返って僕に微笑みかける。おお、と感嘆の声を上げそうになった。たぶん、テレビの向こう以外で、僕が今まで見た中でいちばんのかっこよさを彼は持っていた。全体的にすらりと長く、顔には切れ長の目が綺麗に並んでいた。第一ボタンまでしっかり留め、漫画に出てくるような、いかにも秀才という雰囲気を醸し出している。
 どもりながらも返事をすると、彼も名乗って、笑みを深くした。どこか狐に似ているなと思った。
 それから僕は毎日彼とともに行動するようになった。友達らしい友達がこれまで居なかった僕にとって、毎日が新鮮だった。帰り道に飲食店やコンビニに寄り道なんて高校生らしいことも体験した。
 彼と過ごしていて分かったことは、第一印象が間違っていなかったということだ。苦手な教科なんてないんじゃないかと思うくらい全教科で学年上位に輝き、気さくで誰にでも好かれるような、友達と呼ぶのも恐縮してしまうような人間だった。
「喋るのが苦手?ふむ、じゃあさ、好きなものの話をしてよ。何だっていいよ、僕はずっと聞くよ」
 そう言って彼は僕の会話の練習台にもなってくれた。最初はヒーローの話を少しだけ。それからどんどんと話す量が増えていって、他の話もできるようになった。昨日食べたおかずの事とかだ。タケノコの照り焼きがおいしかった。そして彼以外とも話せるようになった頃、聞き役に徹していた彼は、初めて僕に質問をした。
「夢はあるの?」
「夢?」
「そう。何でもいいよ、例えば、業務用のアイスをそのまま食べるとかでも」
 僕はヒーローを信じている自分がいること、ヒーローに憧れていることを話した。僕は一度も舌を噛んだりどもったりしなかった。それを彼は楽しそうに聞いていた。僕は嬉しくて、彼のことをもっと知りたいと思った。僕ばかり話して、彼のことを僕はちっとも知らなかった。
「え、僕?僕はいいや。僕は人の話を聞くのが好きなんだ」
 良い友人を持った。とても幸せだった。
 そして僕の中での一大イベントがやってくる。文化祭の劇の役者決めだ。僕は緊張しながら主役やりたい人と呼びかけられるその時をじっと待っていた。
「主役やりたい人ー」
 文化委員の言葉に、僕は勢いよく手を挙げた。
 当然ではあるが、主役にはクラスの人気者が立候補する。僕は恐る恐る周りを見ると、僕の他に、三人手を挙げている人がいた。皆例に漏れず人気者だった。僕は肩を落とす。
 そんなとき新たに手を挙げた人が居た。彼だった。
「僕、彼が主役になれば良いと思う」
 彼はそう言って僕を指さす。彼はきっとこのクラスでいちばん人気だ。彼の言葉は、このクラスで大きな力を持っていた。
 投票結果は彼の圧勝で、つまり僕だった。
「よかったね」
 彼は僕に微笑んだ。かみさまに見えた。
 その日から僕は毎日、休み時間中の全てを台本を読むことに使った。何度も練習をして、放課後は彼に練習の成果を見てもらったりもした。
 本番があと二週間後というとき、練習はラストスパートを迎えていた。彼はスポットライト係で、主に僕を照らしていたためよく行動を共にしていた。そうでなくてももとよりよく一緒に居たのだけど。
 そんなある日、廊下を移動しているとき、彼は蹌踉けた。僕はそれを受け止めて廊下に転がった。彼は僕のおかげで無傷で僕を見下ろしていた。
「あ、ごめんね、よく下を見てなかった。大丈夫かい?」
 これを皮切りにして、うっかりしていることが多くなったように思う。彼がうっかりするとき僕は大体小さな怪我をいくつかして、腕や足に絆創膏や包帯が増えたがそれだけだし、いいかと気にとめていなかった。この時点で気づいていれば良かったのだ、彼の性癖のようなそれを。
 本番当日、誰も居ない体育館裏に彼は僕を呼んだ。
「やあ」
 彼は突然僕の胸ぐらを掴むと、口を掌で覆った。何か堅いものが大量に口に入り込んだかと思うと水の入ったペットボトルの口が押し込まれた。たまらず咽せて腕を叩いたが、それでも彼は僕の口から手を離さなかった。混乱していると鼻をつままれ、息が苦しくて僕はそれを飲み込むしかなかった。
 咽が動くのを確認した後で、彼は僕から手を離す。僕はその場に尻餅をついた。
「な、何これ」
「薬。ああ、脱法のやつとかじゃないから安心してよ、僕が病院でもらってるやつなんだ。僕自身寝る前に一度にたくさん飲んだことがあるんだけどね、もう最悪だったよ。頭は痛いし吐き気はひどいし。あれは地獄だったね」
「なんで」
 僕が話そうとすると、彼は被せるように話し出す。
「君の質問に、僕はほとんど答えてこなかったね。でも今日は、僕のこの世でいちばん大好きなこと教えてあげるよ」
 彼は吊り上がりがちな目を限界まで開いて、僕を見下ろした。
「可哀想な人を、見ることなんだ」
 劇の始まりのナレーションが体育館から聞こえた。僕を数人が探しに来て、急いでと僕の腕を引いた。訳が分からないまま舞台袖に立つ。カーテン越しに見たいつの間にかスポットライト係の位置についていた彼の顔は、暗くてよく見えなかった。
 劇は順調にスタートした。僕は何度も読んだ台本の通りに、しっかりと動けていたはずだ。クライマックス、ヒーローが、凶悪な敵に立ち向かうシーン。僕は段ボールでできた剣を高く掲げた。
 ぐらり、地面が揺れた。僕は思わずその場にへたり込む。
 唾液が止まらない。頭がガンガンして、会以上全体が歪んで見えた。
「う、うぇ」
 うぐ、げえぇ。
 ビチャビチャと音を立てて、今朝食べたものが舞台上に落ちていく。
 会場全体が響めいて、照明が落ちる。でもスポットライトは僕を照らしたままだった。「トラブルがあったようです」というアナウンスが入って、僕は駆けつけた先生に抱えられ、舞台を下りた。困惑や失望の目が僕に向けられていた。その中で、ひときわ目立つ顔立ちの彼が僕を見ていた。君はスポットライト係だろう、どうしてここに居るんだ、酸っぱい臭いに咽せて聞けなかった。
 彼は笑っていた。今まで見たことがないほど嬉しくてたまらないという顔をして、僕を見ていた。暗闇に突然放り込まれたようで、涙も出なかった。
 もちろん僕らのクラスの劇は最下位で、僕はクラスで腫れ物のように扱われることになった。一人でいることには慣れていると思っていたが、一度クラスに溶け込んでしまったことがある僕には冷たすぎて耐えられなかった。僕が無視をされる度に、彼は嬉しそうに笑っていた。彼が僕を吐かせたのだと言っていったい何人が信じるだろう。
 誰も僕に手を差し伸べてはくれなかった。先生も気の毒そうに見るだけだった。
 僕はそこでヒーローは存在しないのだと理解した。ヒーローという言葉を見ると、あの舞台の上で体験したような強烈な絶望が広がるようになった。

「それで、僕は逃げてきたわけです。あの白い目の中で生きていくのは、僕には難しそうだったので」
 話し終える頃には、空は橙色を深くしていた。部活を楽しむ声があちこちから聞こえてくる。
「でも今日あなたを見て、まだヒーローはいたんだって、まだヒーローを好きでいて良いんだって思えたんです」
 僕は彼に礼をして帰ろうと彼の方を向くと、僕の視界いっぱいに白色が映った。
 彼はいつの間にか僕の隣で胡座をかいていた。僕は驚きで固まってしまった。
「い、いつから」
「うん?最初から聞いてたぞ」
 彼は僕の頭に手を乗せて、そのまま髪の毛をかき混ぜた。
「頑張ったな」
 心の中で幼い僕が息を吹き返す。嗚咽が止まらなくなって、僕は彼の腕に縋り付いた。
「もしまたそんな目に遭いそうになったときは、俺を呼んでくれ。絶対に行くから」
 しばらく彼は腕を貸してくれていた。だんだんとヒーローとはいえ恐らく同い年くらいの初対面の少年に縋り付いていることへの羞恥が襲ってきて、鼻をすすりながらも涙を引っ込めると、彼も腕を元の位置に戻した。
「落ち着いたか?」
「はい。すみません、寝てたのに、いきなり喋り始めちゃって」
「良いよ。少しは楽になったか?」
「はい。…あの、どうしてここで寝てたんですか?」
 彼は自分の胸の辺りを軽く叩いた。
「眠ったら怪我が治るんだ。さっき悪夢に肋骨折られてさ。治してた。…あ、君が来る頃には治ってたから気にしないでくれ」
 彼はひょっとすると、僕のような人間よりも悪夢の方に近いのかも知れない。敵の力で戦うヒーローなんて王道中の王道だ。画面の向こうのヒーローがそのまま僕の隣に座っている。嬉しくて悶絶してしまいそうだ。
「僕、ヒーローが大好きなんですけど」
「ああ、言ってたな」
「あなたのことも知りたいです。少し質問とか、しても良いですか」
 彼は楽しそうに笑いながら頷いた。
「ええっと、まず、あなたはどこから来たんですか?」
「それが、俺もよく分からないんだよな」
「どういうことです?」
「そのままだよ。分からない。悪夢がこの町に現れ始めた三年前からの記憶ははっきりしてるんだけど、それ以前は本当に朧げなんだ」
 三年前、悪夢が現れた日。彼は夜の町にヒーロースーツを纏って佇んでいたらしい。それ以前の記憶がぼんやりとしていて、帰る場所も自分がどうしてここにいるのかも分からずに途方に暮れていたのだと彼は語る。その時叫び声が聞こえ、声のした方へと向かうと悪夢が人を襲っていたそうだ。何とかしないと、と腰に装着されていたナイフを取り出し、彼は悪夢を切り裂いた。そして体が無意識に悪魔の心臓を取り出し、握り潰した。彼はその時の自分の体がずいぶん昔からそうすることを知っていたように動いて気味が悪かったと言う。
 そして悪夢が夜空へと消えていくのを見届けた直後、「助けて、すねこすりさん」と呼ばれたのだ。声の方へと向かうと、自分のことを知っていると言う同い年の少年に出会ったらしい。今はその彼の家の厄介になっているそうだ。
「自分の事なのに、こうしてまとめて口に出すとますます意味がわからないな」
「三年前以前の記憶は、かみさまがあなたをヒーローにする時、余計なものだったんですかね…」
「さあ…。俺が俺について知ってることって、町の人とあんまり変わらないんだ」
「そうなんですね…」
「ああ。…ちょっとしんみりしちゃったな、気を取り直して、他には何かあるか?」
「えっと…仲間は居るんですか?」
「ヒーローもので言うところの二号三号とかってことか?それはいないけど、友達は二人いるぞ。さっき言った1人と、あとは最近…って言っても1年前くらいだけど、友達になった1人がいる」
「仲良いですか?」
「ああ!顔を見てない日がないくらいだ」
「あとは…」
「ははは、こんなにインタビューされたのは三年前以来だ」
「三年前に?」
「どこから嗅ぎ付けたか知らないけど、町の外から雑誌記者が俺を何度も呼んでな。それを聞いた町の人たちが怒って大変だったんだ。どんな風に脅したか知らないけど、もう二度と来ませんって泣きながら帰って行ったのはびっくりした」
 僕がその時この町に居れば、きっと同じ事をしていたと思う。だって彼が迷惑しているのだ、法を犯してだって追い払うべきだろう。
 どうしよう、すごく楽しい。自分からはきっともう無くなっていると思っていた感情が、彼の光で目を覚ましていく。
 もっと彼と話していたい。僕はこの出会ったばかりのヒーローに既に溺れてしまっていた。しかしそんな僕の気持ちは露知らず、彼は立ち上がって尻についた土を払うと、手を振った。
「呼ばれたからもう行くよ。暗くなる前に帰った方が良いぞ、転校生くん」
 次に瞬きしたとき、彼はそこにいなかった。
「て、転校生、くん…!」
 僕は歓喜した。制服のボタンを変えなくて良かったと心の底からそう思った。