ねぇ、と母が言った。この家には母と私しか住んでいないので、母がねぇ、と言えば話しかけている相手は私しかいない。なに?と私は答える。ぶっきらぼうになったと思う。私しかいないのだからそのまま話せばいいと思うのに返事をしないと母は怒るから、とりあえず返事をする。母はもう一度ねぇ、と言った。
「あんたさ、今日も学校さぼったのね。」
 息と一緒に汚いものでも吐き出すような口調だ。黙ったまま携帯電話をいじる私を一瞥すると、ごちゃごちゃと物が積まれたテーブルの上を漁りはじめた。どうせ煙草を探しているのだろう。無視を続けていたが、なかなか止まない雑音が気に障る。まだ探し物が見つからないらしい。ざまあみろ、自分が片付けないからだ、と私は心のなかで嘲笑う。しばらくして母は煙草を探すのを諦めたらしく雑音が消えた。携帯電話に俯けた顔から視線だけを動かして、前髪の隙間から母を盗み見る。母の左手にはライターがあり、それを持て余しているのが見て分かる。そのライターもついにはごちゃごちゃしたテーブルの上に放られた。乱雑に積み重ねられた雑誌や封筒やよく分からない物たちの上に着地し損ねたライターは、滑って落ちて、何かに埋もれた。母は放った先を見ていなかったから、今度はライターも探すはめになるだろう。母の口からは煙草のけむりの代わりのように言葉が吐き出される。
「何考えてんのよ。あんたバカなんだから学校ぐらい行きなさいよ。こっちが恥なのよ」
 次々と出てくるのはどれも聞き飽きたセリフばかりだ。母は言い飽きないのだろうか、なんて考える。母が吸う煙草は嫌いだけど、煙草が見つかればよかったのにと思った。母にとっての煙草は赤ん坊にくわえさせるおしゃぶりみたいなものだ。そんなことが脳裏に浮かんできて思わず笑いそうになるのをこらえる。
「あんた聞いてんの?」
 うん、と言うのも面倒で「ん」とだけ返事をした。
 母は、私を名前で呼んでくれない。

 五分もしないうちに母は真っ暗な街へ出て行った。仕事なのか遊びなのか、ただ煙草を買いにいっただけなのか、母は何も言ってくれないし私もわざわざ聞かない。煙草を買いに行くだけだったことなんてほとんどなく、おめかしして出ていったことも加味すると今日もそうではないことは確かだろう。私は母が仕事だろうと遊びだろうと、何日帰って来なくても別に構わないと思っている。テーブルにご飯代さえ置いていってくれればの話だけど。でも、今日はお金を置いていってはくれなかった。期待はしていなかった。母が「学校さぼったのね」と言ってきた日は大抵そうなのだ。今日も例外ではなかったということ。私はいじるふりをしていただけの携帯電話を横に放り、胡坐をかいて座っていた足を組み替えた。
 十一月の夜は寒い。家中に寒さがはびこっている。狭い居間の中央をこたつが占領しているけれど、コイツは温かくなるという機能を失っていた。そもそも機能を失う前を私は知らない。コイツに体を温めてもらったという記憶がないのだ。温かくならないこたつなんてまったく意味がないと思う。こたつ布団は冷たくて埃っぽく、布団に囲まれた空洞が冷気の溜まり場になるだけで、体を入れたほうが冷えてしまう。こたつが温かくならない理由は電源コードがないからで、私はいつからそれがないのかも知らない。母はといえば電気代がかからないで済むからと言って、コードを買いなおそうとはしないのだ。こたつの上はごちゃごちゃと物が積まれているため、テーブルの機能もほとんど果たしていなかった。そんなろくでなしのこたつがある居間と玄関をつなぐ廊下は、廊下と呼ぶにはおこがましいくらいのただの小さなスペースで、その天井に伸びる直方体の空間は冷蔵庫の中のようだった。そこと居間を仕切っているのは障子みたいな形の引き戸一枚で、格子状の木枠に障子紙ではなくすりガラスがはめ込まれたものだ。そのすりガラスがまた冷気をはらんでいて、目を凝らすとドライアイスが昇華するときのような白い靄が見えるのではないかと思うくらいに冷たい。凍えた家には音はなく、時間が止まっているようにさえ感じる。
 学校をさぼったことで母に咎められることには、もう慣れた。慣れてしまうくらいに私は学校に行っていなかった。不登校と呼ばれても仕方ないだろう。でも、私はさぼっているのではなく学校に行かないという選択をしているだけだと思う。だけど、こんなことを言うと大人達はそんなのは屁理屈だと目くじらを立てるだろうから、言わない。
 母が学校のことを言うのは、担任教師が母に連絡を入れた日だ。「お嬢さん、今日も学校に来てないんですよ。家ではどんな様子ですか。」とかなんとか、実際はどんなふうに連絡しているのかは知らないけれど、だいたいそんな感じだろう。家での私の様子を聞かれた母が何と答えるのかは少しの興味がある。どうせ何も知らないから、「別に普通ですけど」とか言いそうだ。一時期は、母に連絡を入れさせないために朝のホームルームだけ顔を出していたこともあるが、最近はそれも面倒になりずっと行っていない。学校に行かなかったからといって、毎日母に咎められるわけではない。担任が面倒くさがって母に連絡をしていないのか、母が電話に出ていないだけなのかわからないけれど、どちらにせよわたしにとっては都合が良い。
 どうして学校に来ないんだ、と担任や生徒指導の教師には何度もそう聞かれた。夏場の冷房が効きすぎた職員室の隅っこや、半ば段ボール置き場と化している生徒指導室で、ものものしい雰囲気を醸し出した教師と一対一で話をさせられたことも何度もある。私は話す事なんて何もないのに、教師たちは何かあるだろうと決めつけて問いただしてくる。ある時などは昼間に教頭が家にやって来て「お友達と何かあったかな?何かつらいことがあるのかな?」と不快なくらいにやさしく問うてきたこともあった。「何もありません」と私は答えた。話すのが面倒だったし早く帰ってほしいのもあったけれど、何もないと答えた理由はそれだけではない。本当に何もないからだ。保健室の先生には「給食だけでも食べに来たら?」と言われたこともあったが、私は母が給食費を払ってくれていないことを知っている。学校へ行かない理由はこれといってない。だけど、行く理由はもっとなかった。まだ義務教育だから、学校へ行かなくたって卒業できる。

 夜の八時半を回り、さすがに空腹も最大になってきた。九時半に閉店する近所のスーパーへ行けば、割引シールの貼られたお弁当やパンが、棚の上でそれぞれに買われるのを待っているだろう。もう残っている商品は少ないが、このくらいの時間になると、二割引きシールの上に五割引きのシールが貼りなおされているはずだ。
 居間の襖をあけて隣の和室へ移動する。フローリングの居間や冷蔵庫内のような廊下に比べると寒さはましな気がするけれど、物が散らばり殺伐としたこの部屋にはあたたかみの欠片もなく、すべてが凍り付いているように感じる。敷きっぱなしの布団を踏みつけながら窓際のタンスへと向かって、一番下の引き出しを最後まで開ける。一番奥に隠しているクッキーの缶には、数年前からこっそりとお金を貯めていた。五百円玉は片手で数えられるほどしかなく、ほとんどが一円玉から百円玉だ。お札は一枚もない。それでも、地道に貯めてきたおかげでそれなりの重さになっている。そこから百円玉を四枚とり、ジャージのズボンのポケットに入れた。今日の夜ご飯は四百円以下、できれば三百円で収めたい。
 いつも行くそのスーパーは歩いて十分ほどの距離にある。マフラーに顔の下半分をうずめて足早に歩く女の人とすれ違ったり、ジョギングのおじさんに追い抜かされたりしながら、私はその道のりをとろとろと歩いた。先月まで残暑のニュースがあったというのに、もう吐く息が白い。まだ寒さに慣れていない体に、凍てつくような夜の空気は容赦なかった。ジャージの上下に薄いネックウォーマーという恰好で、身震いしながら歩く。早く行って早く買って早く帰りたいという気持ちだったが、足を動かすのが大儀で思うように歩けない。くたびれたスーツに身を包んだおじさんが手袋をはめた手をこすりあわせながら、私を追い抜いていった。
 十分で着くはずの距離に二十分近くかかったと思う。ようやくスーパーの目の前にたどり着き、私は車がまばらの駐車場を突っ切って歩いた。夜の暗がりにスーパーの明かりがとても眩しい。入口がある側の壁は半分以上の割合でガラス張りなので中の様子が丸見えだ。中からあふれ出る明かりに照らされた自転車置き場のわきを通り過ぎようとした時、右肩に何か衝撃を感じた。反射的に身をひるがえし、振り返ると手が見えた。その手の奥にのぞいた顔には見覚えがある。
「おひさ!」
 その顔が言う。同じクラスの杉山だった。
 そんなにビビらなくていいじゃん、と杉山に笑われた。呼び止められた私はスーパーの中には入らず、自転車置き場のガードレールに杉山と並んで腰を預けた。頭の中でははやく夜ご飯を買いたい気持ちでいっぱいで、空腹で苛立つ自分の喚き声がしていたけれど、こんな寒空の下で紙パックの冷たいオレンジジュースをストローで吸う杉山を横目に眺めていると、喚き声は力をなくして消えていった。杉山は制服姿だった。小学生の頃とても小柄だった杉山は、中学校に入学する時に大きめのサイズで購入した制服に、やっと体の成長が追いついてきたという感じがする。そんな見た目で「お前ごはん食べてる?夜寝てんの?」なんて知り合いのおじさんみたいなことを聞いてくるから、笑いそうになってしまった。「一応食べてるし一応寝てるよ」と一応答えた。杉山は質問したくせに「ふうん」と気のない返事をしただけで、またオレンジジュースを吸った。
 杉山とは小学校から一緒だった。五年生の時に、私と杉山が付き合っているというデマを流されたことがきっかけで仲良くなったという縁だ。実際に付き合ったことはないし特にタイプでもないけれど、杉山が私を気にかけてくれているのは以前からなんとなく感じてきた。
「塾終わったあと甘いもの食いたくなってさ、寄り道したんだ。」
 沈黙した私に顔を向け、オレンジジュースの紙パックを持った手でスーパーを指しながら杉山が言った。夜の九時近くに制服姿でこんなところにいるのは塾の帰りだからか。同じ中学二年生なのに、私と杉山はこんなにも違う。不意に劣等感におそわれた私は相槌を打てなかったが、杉山は気にする様子もなく話し続ける。
「そしたらさ、今日が期限のパンが半額なわけ。もうすぐ閉店だし、これ、買われなかったら捨てられるんだなぁと思ったら買っちゃったね。んで、三個買ったんだけど、夜に菓子パン三個も食えないよな」
 たしかによく見ると、曲げていた杉山の左肘にはスーパーの白いレジ袋がぶら下がっている。私がいるのと反対側の腕なので、体の陰にかくれていて気付かなかった。それにしても、オレンジジュースに菓子パン三個なんて糖質が半端ない。どうして男子というのはそういうのをまったく気にしないでいられるのだろう。それでいて太らないのだから羨ましい。
「どうせお前ちゃんと食べてないだろ。これやるよ。」
 杉山は、一個食ったから残り二個だけど、と言葉を付け加えながらパンが入っているらしいレジ袋を差し出してきた。私はようやく声を出す。
「お小遣いで買ったんでしょ。いらないよ。杉山が自分で食べなよ。」
 いらない気持ちを示すために、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。右手の指が、ポケットの中の百円玉に触れる。買ったものをくれなくていいから私をスーパーに入らせてくれと目で訴えたが、暗いからなのか杉山が鈍感だからなのか、その訴えは届かないようだった。
「夜に菓子パン三個も食えないんだって。家に夜メシあるし。」
 杉山は私の左手首をつかんでポケットから引っこ抜くと、私のその手にレジ袋をかけながら言った。その言葉に私は愕然とする。
「家に夜ごはんあるなら早く帰ればいいじゃん」
 思ったことをそのまま言い放った。思いの外に冷たい口調になってしまったことに自分でも驚いて焦って杉山を見たけれど、杉山は気にも留めていない様子で、ストローをまた口にくわえていた。そして、くわえたまま言う。
「今日中に食えよ。俺の小遣いムダにすんなよ。」
 そう言われてしまうと、もう受け取るしかない。できるだけ軽く聞こえるように気をつけてありがと、とお礼を言った。私がレジ袋をちゃんと持ち直したのを見て満足そうな顔になった杉山は、にやけるのを我慢しているようにも見えた。
その後は、杉山と私のどうでもいいような一問一答が繰り広げられた。
「お前まだ学校来ないの?」
「うん」
「文化祭の三年生の劇すごかったよ」
「へー」
「期末試験はどうすんの?」
「めんどくさい」
「昨日何食べた?」
「忘れた」
「一組の須藤が急に坊主になったんだよ」
「どうでもいいな」
「今日何食べた?」
「食べてない」
「ほらやっぱり食べてない!」
「うるさいなー」
 そんなどうでもいいやりとりが私には久しぶりで、湯たんぽみたいにあったかくて、嬉しかった。話していたのはどれくらいの時間だろう。スーパーはまだ閉店していなかったから、そんなに時間は経っていないはずだ。
「じゃあ、俺帰るから。」
 杉山はオレンジジュースを音を立ててすすり上げ、ガードレールから腰を上げた。お前も早く帰れよと私に向って言いながら、右肩に足元から拾い上げた重そうなスクール鞄をかけ、左手には空になったであろうオレンジジュースの紙パックをにぎり、私の前を通り過ぎる。自転車置き場にいたからてっきり自転車なのかと思っていたが、杉山は歩きだったらしい。少し歩いたところで一度こちらを振り返ると、もう一度、それ今日中に食えよと私の手にぶら下がっている袋を指差した。
 杉山の背中が暗がりに見えなくなるまで見送ってから、私もガードレールから腰を離した。左手にはさっきまではなかったスーパーの白い袋。それには菓子パン二個分の重さがある。
 スーパーもそろそろ閉店だろう。帰ろうかな。白い息を大きく一つ吐いて、私は歩きだした。右足を動かすたび、右側のポケットでは今夜使われることのなかった四枚の百円玉がカチャカチャと音を立てた。行き道では気にならなかったその音が、今は夜道にも響くように聞こえる。夜の公園でベンチかブランコに腰かけてパンを食べたい気分だった。杉山がくれた甘いパンを腐りかけた家の中では食べたくなかった。だけど、スーパーから家までの間にも、家の近くにもそんな公園はない。家のそばに公園があっても子供の声がうるさいだけだから公園がなくてラッキーだと思ってきた私は、今初めて家のそばに公園がないことをすこし残念に感じた。
 公園がないことはどうしようもないので、家の裏にある駐車場に行くことにした。車が泊まっていないところを探すと、腐りかけた家を背後にして三台分ぽっかりと空いたちょうど良い場所があり、私はその真ん中のブロック石に腰を下ろした。地面に座っているのとほとんど変わらない高さではあるが、それでも地面に座るのとは違う。正面には少し離れてシルバーの軽自動車がこちらを向いてたたずんでいた。眠そうなコアラの顔のように見える。
 暗い空に向けて吐いた息の白が、闇に溶けていく。その向こうに星が見えた、と思ったけれど、それは星ではなく飛行機だった。点滅する光が右から左へゆっくりと移動していく。あの飛行機には何人の人が乗っているのだろう。あの飛行機はどこまで行くのだろう。飛行機はこわいから乗りたいとは思わないけれど、私も、どこか遠くへ行きたい。
 のどが渇いていることに気づき、次いで飲み物を持っていないことに気がついた。でも、まぁいいか。寒い夜のしんとした空気は、そんな気持ちにさせてくれる。思い切り息を吸うと、胸のあたりがすうと冷たくなった。
 杉山がくれたのは、たしかに五割引きのシールがそれぞれ貼られたメロンパンと苺のジャムパンだった。三個買ったと言っていたが、あと一つは何を買ったのだろうか。少し気になる。チョコかクリームかなぁと勝手に予想したところで、杉山が飲んでいたオレンジジュースを思い出し、その組み合わせに思わず笑ってしまう。菓子パンは嫌いなわけではないが、自分からはそんなに好んで選ばない。それでも、このメロンパンとジャムパンは嬉しかった。メロンパンの袋を開けると、袋パン特有の香料と甘いにおいがふわりと香った。一口かじると思い出したように空腹がもどってくる。味わってゆっくり食べようと思っていたのに、あっという間に二個ともたいらげてしまった。渇いたのどには甘さがはりついたようにとどまっている。それでも、それを飲み物で流してしまいたいとは思わなかった。
 ありがとう、そう呟いてみた。ズボンの右ポケットは四枚の百円玉の重さを感じる。お腹は二個の甘いパンで満たされ、心はなんだか温かかった。杉山は、学校に行かず何をしているのかも分からない私にも、やさしい。
だけど、杉山も私の名前を呼ばなかった。

 駐車場のブロック石に座ったまま空を見上げる。さっきの飛行機の姿はもうわからなかった。私が座っているところに泊まるはずの車は、何時に帰ってくるのだろう。母はいつ帰ってくるのだろう。眠そうなコアラの奥に建っているアパートの三階の一室の電気が消えた。
 母は、私を名前で呼んでくれない。久しぶりに会った同級生の杉山も、私の名前は呼ばない。学校に行かなければ、私は名前を呼ばれることも、私の名前を書くこともないのだ。いつのまにか自分の名前を忘れてしまうのではないだろうか、自分は何者なのだとうかと不安になる。
不意にズボンの左のポケットに入れていた携帯電話が、短く震えた。この携帯電話が何かを着信することは珍しい。不思議に思いながら画面を開くと、メールを一通受信していた。メールを開いてみる。幼いころに両親が離婚して以来会っていない父親からだった。
「誕生日おめでとう!」
 件名には、私の名前が書いてあった。
 顔も声も忘れてしまった父親は、年に一度だけ、私の名前を呼んでくれる。