放課後、野口さんは言っていた通り僕の席へ来た。
「じゃあ、いこうか。」
彼女はそういうと、僕の前を歩いていく。彼女と歩いていると、あちこちから視線を感じる。
「マナブくん、どうしたの?」
「いや、きみって人気なんだなって思って。」
野口さんは少し顔を赤らめてしまった。
「ごめん、なんか悪いこと言ったかな。」
僕は、申し訳なく思った。
「ううん、あなたにそんな風に見てもらうのが初めてだったから。」
え、どういう意味だろう。僕は、ますます混乱してしまった。
「じゃあ、ここのカフェに入りましょう。」
野口さんに連れてこられた場所は、少しはずれたところにあるこじんまりとしたカフェだった。静かでお客さんもあまりいない。
「ああ、そうだね。」
僕はなにもかもが初めてで、どぎまぎしていた。これは、まるでデートみたいじゃないか。野口さんは、店員さんに人数を伝えるとこなれたように、奥まった座席に腰かけた。注文は……。メニューがたくさんあってよくわからない。こちらの世界の飲み物はまだ、あまり口にしたことがないものばかりだった。
「どれが、おいしいかな。」
僕は野口さんに頼ることにした。
「じゃあ、カフェラテふたつで。」
「それで、今日マナブくんをここに呼び出した理由なんだけど。」
彼女は、急に真剣なまなざしになった。店員さんが飲み物を持ってきて、慌てたように口を閉じた彼女は、再び話しだす。
「その、私あなたの正体を知っているの。」
僕は、思わずえっと声を漏らしてしまった。まずい、ここはしらばっくれないといけない場面かもしれないのに。
「正体というのはつまり……。」
「そのつまりよ。私もあなたと同じだから。」
彼女は僕の顔をじっと見つめる。お、同じ……。つまり彼女も異世界からきたということになるのだろうか。でも、昨日僕が話をした神とやらはそんなこと一言も言っていなかった。もしも彼女が別の話をしているのだとしたら、こんな話をするわけにはいかない。マナブの頭がおかしくなったと思われる危険があるのだから。
「僕は、少し慎重になる必要があるから許してくれ。確かめさせてほしい。」
彼女は小さくうなずく。
「まず、君はなぜ僕の秘密を知っているの?」
「昨晩、頭のなかで声が響いたの。その声の主に問いただしたら、教えてくれたわ。」
同じだ。僕とまったく同じ状況だ。
「僕のことを問いただしたということは、君は向こうの世界においても僕のことを知っている人間だということだよね?」
「そうよ。私のこと、誰だかわからない?」
彼女は少し暗い顔になった。
いや、僕と同じように異世界からきたものがいたのだとしたら、僕と同じ状況下にいた人間ということになる。だとしたら、思いつくのはひとりしかいない。
「もしかして、エリンなのか?」
僕は嬉しさに声が上ずった。
「そう、エリンよ。」
彼女も頬をほころばせた。僕は嬉しかった。彼女が本当に生きていたと知ることができて。
「君のところにきたやつは、僕の無事を知らせてくれたんだね。僕の担当のやつは、君のことは教えられないって言ってきたんだよ。」
僕は肩をすくめてみせた。
「堅物なのね、その人。」
彼女が僕の思っていたことを口にしてくれたものだから、僕は思わず笑ってしまった。
「あなたの笑った顔なんて、初めてみたわ。」
彼女は僕以上に笑っていた。そうだな、僕は向こうの世界にいる間、ろくに笑顔をみせたことはなかった気がする。彼女とこんな他愛のない話をしたのも初めてかもしれない。バディ募集で街を歩いているとき声をかけてくれた彼女に対して、僕は戦術の話しかしたことがなかった。バディだって、今回のモンスターを倒すための臨時なものにする予定だった。僕は、本当に人との関わりを避けてきたのだ。
「それはそうと、あなた向こうの世界に帰ることを拒んでいるって聞いたのだけど。」
彼女は腕を組んでみせた。僕は焦って、目の前のカフェラテをぐいっと飲む。……苦い。こんな苦い飲み物は初めて飲んだ。うっ。僕が顔をしかめていると、彼女は笑って近くの小瓶から白い粒を取り出して僕のカップに入れた。
「混ぜて飲んでみて。」
彼女に言われた通り飲んでみる。
「おいしい。なんで君はこんなにこの世界のことを熟知しているの?」
「初日に調べまくったのよ。まあ、その方法はあとで教えるわ。あなたはまだわかっていないみたいだから。」
彼女は再び笑顔をみせた。
「ああ、帰ることを拒んでいるって話か。それも聞いたの?」
「うん、向こうの世界に帰るには問題があると聞いて、問いただしたらあなたの名前が出てきたの。」
僕が帰らないことで、彼女まで巻き込んでしまっているのか。僕は、ことの重大さをようやく理解した。彼女を巻き添えにするわけにはいかない。
「つまり、僕が帰らないときみも帰ることができないんだね。ごめん、僕帰るよ。」
向こうの世界には帰りたくないけれど、彼女まで巻き込むわけにはいかない。
「うーんと、その感じだときっと帰ることはできないわ。」
「え、というと?」
「その様子だと、聞いていないのね。」
彼女はため息をついた。聞いていない……、何の話だろう。
「あなたが帰りたいと本当に思わないと、元の世界には帰れないのよ。」
そんな話は聞いていない。いや、彼も意志がないと帰れないとは言っていたが、そこまでの説明はしていなかった。まったくあいつは……。
「そんなことがあったのか。あいつは、3日も経てば向こうの世界に戻りたくなるだろうって言っていたけど。」
「戻りたくなるだろう、というよりそれがリミットなのよ。」
「リミット?」
「それ以上時間が経過してしまえば、私たちの存在によってふたつの世界の均衡が崩れてしまう。だから、それまでに何とかしないと。」
そんなに期限が迫っていたとは。だが、本音をいえばこのままが良い。どうしたら、元の世界に戻りたいと思えるのだろう。僕は頭を抱えてしまった。
「どうして、そんなに戻りたくないの?」
彼女は不思議そうに聞いてきた。
「僕の方こそとても不思議だ。どうして君はあの世界に戻りたいの? モンスターにおびえて多くの人の命が奪われる世界に。」
「あなたは、他人の命に対して責任を感じすぎているのよ。たしかに私たちは剣をとり、戦っていた。みんなのことを救おうとして、救えないときもあった。自分のことが情けなく思えたこともあった。けれど、下を向いたままでは進んでいけない。私はその人たちの分まで毎日を楽しみたいと思って生きているわ。」
僕はその言葉を飲み込み切れずにいた。救えなかった命があるのに、人生を楽しむことなんて考えられない。彼女はそんな僕の様子をみて、そのまま話を続けた。
「それにね、あの世界にも、日々の幸せは存在していた。小さなことに幸せを感じる気持ちは、向こうの世界の住人のほうが大きかったわ。私は向こうの世界で、毎日幸せだった。」
小さな幸せがあったなんて、僕には信じがたかった。彼女は本当に僕と同じ世界から来た人間なのか、と疑ってしまうほどに。だけど、思い返してみる。記憶のなかの彼女はいつも笑っていた。僕の頭はいつも、モンスター退治で埋め尽くされていて彼女のことなんてみていなかったけれど。
「でも、本当は私、あなたが幸せならそれで良いかとも思っているの。こんな気持ち、良くないってわかっているんだけどね。」
彼女はにっこりと微笑んだ。心がじんわり温まる感覚があった。僕が幸せなら、か。
「とりあえず、私はあなたの”今”を支える手伝いをするわ。」
彼女はカバンから、何か薄い板のようなものを取り出した。そういえば、街行く人や家族が使っているのをみた。僕のカバンのなかにも入っているけれど、僕は使い方がわからずに放置していた。僕も同じようにそれをテーブルにおいた。
「それは?」
「やっぱり知らなかったのね。今朝のコウタくんとあなたの会話をきいてそうだと思っていたけど。この世界を生き抜くには必須のアイテムよ。」
今朝のコウタとの会話、そうか。彼のトークとかブロックという言葉は、この板のようなものに関係していたのか。靄が晴れたように、頭がすっきりとした。
「嬉しそうね。これはスマホっていうの、覚えておいて。スマホを使うと、この場にいない人とも会話をしたり、風景が共有できたり、とにかくなんでもできるのよ。」
彼女はそういうと、スマホについている丸いものを僕に向けてカシャッと音を立てた。画面をみせてくる。
「ほら、こうして思い出も残すことができるのよ。」
画面には、驚いた顔をしたマナブの顔がうつっていた。ふふっと彼女が笑う。すごいな、こんなものがあるのか。なにもかも新鮮なことばかりで驚いていたが、このスマホは特段素晴らしいものであると感じた。
「それで、コウタの言っていたことの意味がきみにはわかるの?」
「ええ、貸してみて。」
マナブのスマホを彼女に渡した。彼女は僕に画面をみせながら、説明してくれる。
「まずは、画面をおしたまま指を横にスライドさせるの。こんな風に。」
彼女が指を動かすと、スマホの画面が変わる。
「コウタくんの言っていたトークっていうのは、これのことよ。」
緑のマークを指さして言った。彼女がそのマークを押すと、いろんな人の名前と文章がでてきた。
「この”トーク”を使えば、いろんな人とコミュニケーションがとれるの。それで……。」
画面をみていた彼女は、口を止めてしまった。これって……。彼女の言葉につられて、僕も画面を覗いてみる。これは。コウタのトークに、お前なんて消えちまえ、と書いてあった。
「なにこれ、ひどすぎる……。」
彼女は怒りを抑えきれない様子であった。
「そうだね。マナブは何か最近悩み事を抱えていたらしい。コウタのことだと薄々気づいてはいたけれど、ここまでひどかったとは……。」
コウタのトークを押してみると、暴言の数々が並べられていた。嫌いだ、ばかやろう、存在価値がない、などなど。毎日送られるそのメッセージに、マナブは反応していなかった。彼女はいつの間にか、目に涙をためていた。
「マナブくんもこの世界に戻るのを嫌がっていると聞いたけれど、その理由は明らかよね。」
彼女のいう通り、これが原因であると考えて間違いはないだろう。マナブがこっちの世界に戻りたいなんて思う日は、来るのだろうか。
「学校では仲良くしてくれているのにね。」
「いや、仲良くはないけどあからさまないやがらせはしてこないわね。」
学校での挨拶やちょっとした会話は、仲良くしてくれているに入らないのか。僕は少しショックを受けた。
「マナブはきっと、この問題をひとりで抱えていたんだ。一週間後に彼が戻ってきてくれるとして、この問題を解決しなければ彼はきっと……。」
「そうね。マナブくんのことは、野口ミワさんも心配していたようよ。彼女は、日記をつけていたのだけれど、2カ月前くらいからふたりの仲が急に悪くなってしまったと言っていたわ。」
2カ月前、ということはそれまで二人は仲良くしていたということになるのだろうか。
「私、ひとつ不思議に思っていることがあるの。」
「なんだい。」
「どうして、マナブくんはコウタくんのことをブロックしないんだろうって。」
ブロックか。コウタも言っていたな。俺のことをブロックしたのかって。彼女は、僕がブロックについて理解していないのを悟ると説明を加えた。
「ブロックというのはね、相手のトークを拒否することができる機能のことよ。この機能を使えば、コウタくんは暴言をマナブくんに送ることができなくなるのよ。」
なるほど、ブロックという機能を使えば嫌な暴言をみなくて済むというわけか。それなのに、マナブはその機能を使わずにコウタの言葉をわざわざ確認していたわけか。
「どうしてブロックしないんだろう。」
僕にもその理由はよくわからなかった。
「コウタくんには嫌われたくないと思っているとか。」
「もう嫌われているから、こんなことを言われているんじゃないか?」
「そう思うのが普通だけど、自分の発する言葉がすべて自分の本心からくるものだとは限らないじゃない。」
それはそうだけど……。僕にはマナブのことがわからなかった。自分のことを傷つけてくるやつに、仕返しすることもなければ拒否することもしない。黙って攻撃を受け続けているだけだなんて。
「まあ、少しあなたも探ってみて。」
僕はうなずく。いつの間にか、目の前のカフェラテはすっかりなくなってしまった。
「これ本当においしかったよ。」
彼女はその言葉に照れたように、肩をすくめる。
「そろそろ帰りましょうか。」
「じゃあ、いこうか。」
彼女はそういうと、僕の前を歩いていく。彼女と歩いていると、あちこちから視線を感じる。
「マナブくん、どうしたの?」
「いや、きみって人気なんだなって思って。」
野口さんは少し顔を赤らめてしまった。
「ごめん、なんか悪いこと言ったかな。」
僕は、申し訳なく思った。
「ううん、あなたにそんな風に見てもらうのが初めてだったから。」
え、どういう意味だろう。僕は、ますます混乱してしまった。
「じゃあ、ここのカフェに入りましょう。」
野口さんに連れてこられた場所は、少しはずれたところにあるこじんまりとしたカフェだった。静かでお客さんもあまりいない。
「ああ、そうだね。」
僕はなにもかもが初めてで、どぎまぎしていた。これは、まるでデートみたいじゃないか。野口さんは、店員さんに人数を伝えるとこなれたように、奥まった座席に腰かけた。注文は……。メニューがたくさんあってよくわからない。こちらの世界の飲み物はまだ、あまり口にしたことがないものばかりだった。
「どれが、おいしいかな。」
僕は野口さんに頼ることにした。
「じゃあ、カフェラテふたつで。」
「それで、今日マナブくんをここに呼び出した理由なんだけど。」
彼女は、急に真剣なまなざしになった。店員さんが飲み物を持ってきて、慌てたように口を閉じた彼女は、再び話しだす。
「その、私あなたの正体を知っているの。」
僕は、思わずえっと声を漏らしてしまった。まずい、ここはしらばっくれないといけない場面かもしれないのに。
「正体というのはつまり……。」
「そのつまりよ。私もあなたと同じだから。」
彼女は僕の顔をじっと見つめる。お、同じ……。つまり彼女も異世界からきたということになるのだろうか。でも、昨日僕が話をした神とやらはそんなこと一言も言っていなかった。もしも彼女が別の話をしているのだとしたら、こんな話をするわけにはいかない。マナブの頭がおかしくなったと思われる危険があるのだから。
「僕は、少し慎重になる必要があるから許してくれ。確かめさせてほしい。」
彼女は小さくうなずく。
「まず、君はなぜ僕の秘密を知っているの?」
「昨晩、頭のなかで声が響いたの。その声の主に問いただしたら、教えてくれたわ。」
同じだ。僕とまったく同じ状況だ。
「僕のことを問いただしたということは、君は向こうの世界においても僕のことを知っている人間だということだよね?」
「そうよ。私のこと、誰だかわからない?」
彼女は少し暗い顔になった。
いや、僕と同じように異世界からきたものがいたのだとしたら、僕と同じ状況下にいた人間ということになる。だとしたら、思いつくのはひとりしかいない。
「もしかして、エリンなのか?」
僕は嬉しさに声が上ずった。
「そう、エリンよ。」
彼女も頬をほころばせた。僕は嬉しかった。彼女が本当に生きていたと知ることができて。
「君のところにきたやつは、僕の無事を知らせてくれたんだね。僕の担当のやつは、君のことは教えられないって言ってきたんだよ。」
僕は肩をすくめてみせた。
「堅物なのね、その人。」
彼女が僕の思っていたことを口にしてくれたものだから、僕は思わず笑ってしまった。
「あなたの笑った顔なんて、初めてみたわ。」
彼女は僕以上に笑っていた。そうだな、僕は向こうの世界にいる間、ろくに笑顔をみせたことはなかった気がする。彼女とこんな他愛のない話をしたのも初めてかもしれない。バディ募集で街を歩いているとき声をかけてくれた彼女に対して、僕は戦術の話しかしたことがなかった。バディだって、今回のモンスターを倒すための臨時なものにする予定だった。僕は、本当に人との関わりを避けてきたのだ。
「それはそうと、あなた向こうの世界に帰ることを拒んでいるって聞いたのだけど。」
彼女は腕を組んでみせた。僕は焦って、目の前のカフェラテをぐいっと飲む。……苦い。こんな苦い飲み物は初めて飲んだ。うっ。僕が顔をしかめていると、彼女は笑って近くの小瓶から白い粒を取り出して僕のカップに入れた。
「混ぜて飲んでみて。」
彼女に言われた通り飲んでみる。
「おいしい。なんで君はこんなにこの世界のことを熟知しているの?」
「初日に調べまくったのよ。まあ、その方法はあとで教えるわ。あなたはまだわかっていないみたいだから。」
彼女は再び笑顔をみせた。
「ああ、帰ることを拒んでいるって話か。それも聞いたの?」
「うん、向こうの世界に帰るには問題があると聞いて、問いただしたらあなたの名前が出てきたの。」
僕が帰らないことで、彼女まで巻き込んでしまっているのか。僕は、ことの重大さをようやく理解した。彼女を巻き添えにするわけにはいかない。
「つまり、僕が帰らないときみも帰ることができないんだね。ごめん、僕帰るよ。」
向こうの世界には帰りたくないけれど、彼女まで巻き込むわけにはいかない。
「うーんと、その感じだときっと帰ることはできないわ。」
「え、というと?」
「その様子だと、聞いていないのね。」
彼女はため息をついた。聞いていない……、何の話だろう。
「あなたが帰りたいと本当に思わないと、元の世界には帰れないのよ。」
そんな話は聞いていない。いや、彼も意志がないと帰れないとは言っていたが、そこまでの説明はしていなかった。まったくあいつは……。
「そんなことがあったのか。あいつは、3日も経てば向こうの世界に戻りたくなるだろうって言っていたけど。」
「戻りたくなるだろう、というよりそれがリミットなのよ。」
「リミット?」
「それ以上時間が経過してしまえば、私たちの存在によってふたつの世界の均衡が崩れてしまう。だから、それまでに何とかしないと。」
そんなに期限が迫っていたとは。だが、本音をいえばこのままが良い。どうしたら、元の世界に戻りたいと思えるのだろう。僕は頭を抱えてしまった。
「どうして、そんなに戻りたくないの?」
彼女は不思議そうに聞いてきた。
「僕の方こそとても不思議だ。どうして君はあの世界に戻りたいの? モンスターにおびえて多くの人の命が奪われる世界に。」
「あなたは、他人の命に対して責任を感じすぎているのよ。たしかに私たちは剣をとり、戦っていた。みんなのことを救おうとして、救えないときもあった。自分のことが情けなく思えたこともあった。けれど、下を向いたままでは進んでいけない。私はその人たちの分まで毎日を楽しみたいと思って生きているわ。」
僕はその言葉を飲み込み切れずにいた。救えなかった命があるのに、人生を楽しむことなんて考えられない。彼女はそんな僕の様子をみて、そのまま話を続けた。
「それにね、あの世界にも、日々の幸せは存在していた。小さなことに幸せを感じる気持ちは、向こうの世界の住人のほうが大きかったわ。私は向こうの世界で、毎日幸せだった。」
小さな幸せがあったなんて、僕には信じがたかった。彼女は本当に僕と同じ世界から来た人間なのか、と疑ってしまうほどに。だけど、思い返してみる。記憶のなかの彼女はいつも笑っていた。僕の頭はいつも、モンスター退治で埋め尽くされていて彼女のことなんてみていなかったけれど。
「でも、本当は私、あなたが幸せならそれで良いかとも思っているの。こんな気持ち、良くないってわかっているんだけどね。」
彼女はにっこりと微笑んだ。心がじんわり温まる感覚があった。僕が幸せなら、か。
「とりあえず、私はあなたの”今”を支える手伝いをするわ。」
彼女はカバンから、何か薄い板のようなものを取り出した。そういえば、街行く人や家族が使っているのをみた。僕のカバンのなかにも入っているけれど、僕は使い方がわからずに放置していた。僕も同じようにそれをテーブルにおいた。
「それは?」
「やっぱり知らなかったのね。今朝のコウタくんとあなたの会話をきいてそうだと思っていたけど。この世界を生き抜くには必須のアイテムよ。」
今朝のコウタとの会話、そうか。彼のトークとかブロックという言葉は、この板のようなものに関係していたのか。靄が晴れたように、頭がすっきりとした。
「嬉しそうね。これはスマホっていうの、覚えておいて。スマホを使うと、この場にいない人とも会話をしたり、風景が共有できたり、とにかくなんでもできるのよ。」
彼女はそういうと、スマホについている丸いものを僕に向けてカシャッと音を立てた。画面をみせてくる。
「ほら、こうして思い出も残すことができるのよ。」
画面には、驚いた顔をしたマナブの顔がうつっていた。ふふっと彼女が笑う。すごいな、こんなものがあるのか。なにもかも新鮮なことばかりで驚いていたが、このスマホは特段素晴らしいものであると感じた。
「それで、コウタの言っていたことの意味がきみにはわかるの?」
「ええ、貸してみて。」
マナブのスマホを彼女に渡した。彼女は僕に画面をみせながら、説明してくれる。
「まずは、画面をおしたまま指を横にスライドさせるの。こんな風に。」
彼女が指を動かすと、スマホの画面が変わる。
「コウタくんの言っていたトークっていうのは、これのことよ。」
緑のマークを指さして言った。彼女がそのマークを押すと、いろんな人の名前と文章がでてきた。
「この”トーク”を使えば、いろんな人とコミュニケーションがとれるの。それで……。」
画面をみていた彼女は、口を止めてしまった。これって……。彼女の言葉につられて、僕も画面を覗いてみる。これは。コウタのトークに、お前なんて消えちまえ、と書いてあった。
「なにこれ、ひどすぎる……。」
彼女は怒りを抑えきれない様子であった。
「そうだね。マナブは何か最近悩み事を抱えていたらしい。コウタのことだと薄々気づいてはいたけれど、ここまでひどかったとは……。」
コウタのトークを押してみると、暴言の数々が並べられていた。嫌いだ、ばかやろう、存在価値がない、などなど。毎日送られるそのメッセージに、マナブは反応していなかった。彼女はいつの間にか、目に涙をためていた。
「マナブくんもこの世界に戻るのを嫌がっていると聞いたけれど、その理由は明らかよね。」
彼女のいう通り、これが原因であると考えて間違いはないだろう。マナブがこっちの世界に戻りたいなんて思う日は、来るのだろうか。
「学校では仲良くしてくれているのにね。」
「いや、仲良くはないけどあからさまないやがらせはしてこないわね。」
学校での挨拶やちょっとした会話は、仲良くしてくれているに入らないのか。僕は少しショックを受けた。
「マナブはきっと、この問題をひとりで抱えていたんだ。一週間後に彼が戻ってきてくれるとして、この問題を解決しなければ彼はきっと……。」
「そうね。マナブくんのことは、野口ミワさんも心配していたようよ。彼女は、日記をつけていたのだけれど、2カ月前くらいからふたりの仲が急に悪くなってしまったと言っていたわ。」
2カ月前、ということはそれまで二人は仲良くしていたということになるのだろうか。
「私、ひとつ不思議に思っていることがあるの。」
「なんだい。」
「どうして、マナブくんはコウタくんのことをブロックしないんだろうって。」
ブロックか。コウタも言っていたな。俺のことをブロックしたのかって。彼女は、僕がブロックについて理解していないのを悟ると説明を加えた。
「ブロックというのはね、相手のトークを拒否することができる機能のことよ。この機能を使えば、コウタくんは暴言をマナブくんに送ることができなくなるのよ。」
なるほど、ブロックという機能を使えば嫌な暴言をみなくて済むというわけか。それなのに、マナブはその機能を使わずにコウタの言葉をわざわざ確認していたわけか。
「どうしてブロックしないんだろう。」
僕にもその理由はよくわからなかった。
「コウタくんには嫌われたくないと思っているとか。」
「もう嫌われているから、こんなことを言われているんじゃないか?」
「そう思うのが普通だけど、自分の発する言葉がすべて自分の本心からくるものだとは限らないじゃない。」
それはそうだけど……。僕にはマナブのことがわからなかった。自分のことを傷つけてくるやつに、仕返しすることもなければ拒否することもしない。黙って攻撃を受け続けているだけだなんて。
「まあ、少しあなたも探ってみて。」
僕はうなずく。いつの間にか、目の前のカフェラテはすっかりなくなってしまった。
「これ本当においしかったよ。」
彼女はその言葉に照れたように、肩をすくめる。
「そろそろ帰りましょうか。」