鍵がかかっていないままの部屋のドアを開けて中に入ってきた沢木さんは、寝転がったままの俺を見てため息をついた。
「電気くらいつけろや」
 パチン、という音とともに光り始めた蛍光灯が眩しくて、のそりと体を起こす。
「生きてるな」
 お茶のペットボトルで頭を小突いて、手渡してくれた。
「生きてます」
 すみません、と呟いて、素直に受け取る。沢木さんはベッドにどかっと腰掛けると、自分もコーヒーの缶を取り出してプルタブを開けた。
「何があった?」
「優衣のお父さんが来ました」
 それだけしか言わなかったけど、沢木さんは特に深く追求せずに、ただ一言、そうか、と言った。ごくごくと勢いよく缶を傾ける。
「どうしたらいいか、って言ってたけど。お前は、どうしたいんだ?」
 一缶一気に飲み干すと、静かな声で沢木さんが言った。
「ここに残って、前みたいに仕事漬けになるか? どっか全然違うところに行きたいか? それとも、このまま死人みたいにぼんやり生き続けるか?」
 言っとくが死ぬのはナシだ、と釘を刺して、沢木さんが俺をじっと見つめる。
「……わかりません」
 随分と黙った後で、一言だけ呟いた。
「自分のことだろうが」
「考えられないんです。なにも。誰かに決めて欲しい……」
 自分のことを誰かに決めてもらいたいなんて情けない話だけど、それが今の一番の本音だった。とにかくなにも、自分で考えたくなかった。
「よし。じゃあ俺が決めてやる」
 沢木さんが妙にきっぱりとした声で言った。
「お前、ニューヨークに行け」
「……は?」
 いきなり突拍子もない地名が出てきて、間抜けな声が出た。
新堂(しんどう)が、えらくお前を気に入ってな。根性のあるアシスタントを探してるらしくて、冗談半分だろうがこっちに寄越せって言われてんだよ。あの感じじゃ、お前が行く気になればすぐ受け入れてくれるだろ」
 新堂さん、はニューヨークのスタジオで一緒に仕事をした人で、沢木さんの昔馴染みだ。めちゃくちゃセンスのある写真を撮る人で、どこをどう切り取ればあんな写真になるのかどうしても知りたくて、向こうにいる間暇があればつきまとうように手伝っていた。短い期間だったけど、最後には名前で呼んでくれるようになって、すごく嬉しかった。
「新堂なら信頼できる。俺としてはここに残って欲しいけどな。……行くか?」
 俺が決めてやる、と言ったくせに、最後は尋ねるような言い方になっていて、強引そうに見えて人一倍気を遣う沢木さんらしいな、と思った。
「行きます」
 優衣の気配の残るこの部屋も、街も、思い出も、今は全て忘れてしまわないと、まともな人間らしい生活には戻れないような気がした。新しい場所で、何も知らない人たちの中でがむしゃらに働く。今の俺にとって、その提案はすごく魅力的に思えた。
 沢木さんはひとつ大きく頷くと、真面目な顔で言った。
「今は何も考えないでいい。好きなだけ勉強してこい。でも、必ず戻ってこいよ」
「……はい」
 大きな大きな感謝を伝える術がわからずに、俺はただ頭を下げるしかできなかった。

 それからバタバタと話が進み、春から新堂さんのもとで働くことが決まった。
 理恵からはおじさんが訪ねてきた次の日の夜に電話がかかってきた。また東京に戻りたいけど、おばさんが異常なくらいに塞ぎ込んでいて、しばらくはそばにいてあげなければならない、と辛そうな声で言った。俺がニューヨークへ行くことを告げると、驚いて言葉が出ないようだった。
「俺は大丈夫だから。もう会いに来ないほうがいい」
 ご両親のために。
 言外に含んだ意味をちゃんと汲み取ってくれたのか、理恵は何も言い返さなかった。
「ちゃんと戻ってきなさいよ」
 ただ一言、出てきた言葉は沢木さんと同じで、ああやっぱりこの二人は気が合いそうだ、と心の中で思った。
 新しく道を示してもらった俺は、一ヶ月で体力を戻せ、まともに動けるようにしろ、と厳命を受けて、なんとか普通のレベルまで食事ができるようになった。無駄なことを考えないように、ひたすら体を動かす。言葉の問題もあったので、できる限りの勉強もした。一か月頑張っただけじゃたかが知れていたけれど、暮らしてれば何とかなるさ、という沢木さんの言葉を信じることにした。
 東京を立つ日は、春を感じさせるような、暖かくてよく晴れた日だった。
 アパートの物は、最低限の衣類や小物以外は、全て処分した。優衣を思い出すようなものは全て、ダンボールに突っ込んで焼却場に置いてきた。
 全ての準備が終わって、夕日が差し込む部屋を見渡す。家具も全部引き取ってもらって、ガランとした部屋の中は、なんだかいつもより広く感じた。
 捨てようと思ったけど、どうしても捨てきれなかったお揃いのマグカップを手に取り、じっと見つめる。一つくらい、形見として取っておこう……そう思ったけど、やっぱり置いていくことにした。優衣の思い出は全部、ここに置いていこう。
 優衣のお気に入りの出窓に、二つ並べて置いてみる。二人で外を眺めながら、肩を寄せ合った窓辺。
 ああ、いないのか、と。改めて思った。
 もう、あの柔らかな眼差しで、俺に微笑みかけてくれることはないのだ、と。
 空気を通すために開け放していた窓から、ふわりと風が入り込んだ。なぜだかそこに優衣がいる気がして、俺はカメラを取り出して、シャッターを切っていた。
 たった一つ、優衣の形見。この写真のほかは、何もいらない。
 感じたぬくもりに背を向けて、俺は部屋を出て行った。

 ◆

 長い長い昔話を終えて、日南子ちゃんを見ると、彼女は声を出さずに涙だけ流していた。
「なんで日南子ちゃんが泣くの?」
「すみません……」
 不思議な子だな、と思った。自分はあれだけのことをされても泣かなかったのに、他人の話でこんなに泣くなんて。
 転がっていたティッシュの箱を渡して、前にもこんなことがあったな、と思い出す。あの写真を見て、ボロボロ泣いていたのもこの場所だった。
「私が見た写真、その時のものだったんですね」
 涙を拭きながら、日南子ちゃんが納得したように言った。
「ホントは外に出す気なんて全然なかったんだけど、新堂さんがえらく気に入って、勝手に持ってっちゃって」
 ずっと現像もせずに置いてあって、時間が経ってようやく整理する決心がついた、優衣が写った写真たち。その中に混ざっていたあの写真を、新堂さんが目ざとく拾い上げた。
「あの時は、人目にさらされるのがすごく嫌だったんだけど。日南子ちゃんの心に響いたんなら、出してよかったのかもな」
 同じような気持ちを抱いてあの写真を見てくれた人がいたなんて、全く知らなかったけど。自分の撮ったものが誰かの救いになったのなら、それはすごく幸せなことだと思う。
 なかなか涙が止まらない日南子ちゃんを見て、なんだか少しおかしくなった。
「よくそんなに涙が出てくるね」
「すみません、止めようと頑張ってはいるんですけど」
「無理に止めなくてもいいよ。なんだか俺の分まで泣いてくれてるみたいだ」
 少し首をかしげて日南子ちゃんが俺を見る。
「結局、優衣が死んでから、一回も泣けなかったんだよ。今でも、どんだけ悲しくても、涙は出ない」
 どこか感情を司る部分が、あの時壊れてしまったんじゃないかと思う。あれ以来、苦しかったり、悲しかったりする時があっても、泣くことができなかった。単純に、それほど心が揺さぶられることがなかったからかもしれないけれど。
「今でも、好きですか? 優衣さんのこと」
 静かな声で、日南子ちゃんが聞いた。ずっと問いかけていた自分の心の中を、改めて見つめ返す。
「……わからない」
 わからない。情けないけど、それが俺が出せた答えだった。
「最近まであんまり考えることもなかったんだ。たまにふっと思い出す程度で。でも、今思うと、考えないように蓋をしてただけかもしれない」
 もう引きずってなんかいないと思っていたけど、結局俺は十年前のままなのかもしれない。あの、全て置いて逃げた時のまま、ただ自分の気持ちから目を背けるのに慣れてしまっていただけなのかも。
「正直、今の今まで、自分の気持ちから逃げようとしてた。何も考えたくなくて、優衣のことも日南子ちゃんのことも、放り投げようとしてた」
 ーー日南子ちゃんが、こんなに真っ直ぐぶつかってきてくれるまでは。
 脱げ、といえば、怯むと思った。泣き出して、そのままここから出て行ってくれればいいと思って、わざと追い詰めるように行動した。傷つけたとしても、それでいいと思った。    
 自分が傷つくのが怖かったから。
 彼女が自分の服に手をかけた時も、きっと最後まで脱ぐことなんてできないだろうと思っていた。写真を撮る、と言ったのは、そう言えば手を止めると思ったから。それでも、彼女は最後まで手を止めなかった。それどころか、顔を上げて真っ直ぐに俺を見た。
 写真なんて、本当は撮る気はなかった。それでもシャッターを押してしまったのは、彼女があまりに綺麗で……凛としていて、形に残したいと思ってしまったからだった。
「もう、逃げんのやめにしないとな」
 独り言のように呟く俺の言葉を、日南子ちゃんは黙って聞いていた。
「私に何か、できることはありますか?」
 真剣な言葉に、思わず笑みがこぼれた。この子はきっと、自分のことを後回しにする癖がある。
「悪いけど、君の気持ちに答えられるかどうかはわからない。それでも、ちゃんと考えるから……俺が答えを出せるまで、待っててくれる?」
 こくん、と大きく頷く彼女の目には、もう涙はなかった。

 ◇

『来週の水曜日、夕方空いてる? 付き合って欲しいところがあるんだけど』
 何気なく手にとった携帯のメールの宛先を二度見して、慌てて開く。文面を何度も読み返して、思わず顔がにやけた。うわ、向こうから連絡があったのって初めてかも。というか、これってもしかして、デートのお誘い? いや、そんな深い意味はなくて、期待したら実は仕事だったりとか……。
「挙動不審。なに一人で百面相してんのよ」
 向こうで数人の男子に囲まれていたはずの愛香が、ビールを片手に戻ってきた。
「あんた全然飲んでないじゃない。すみませーん、ビールもう一杯追加!」
「私ビール苦手……」
「文句言わずに飲め。ていうか、その程度で喜ぶなっての」
 携帯を覗き込んだ愛香がつまらなさそうに言う。
「その程度、って、だって、二人で出かけるのとか初めてだし……はっ、もしかして他にもたくさんいるのかな」
「いや、それはないでしょ」
「でも、向こうから誘ってもらえるなんて夢みたいな話、ありえないというか、浮かれてたらしっぺ返しをくらうかもしれないというか」
「あんたどんだけ後ろ向きなのよ……」
 そこに、さっきまで愛香と話していた男の子のうちの一人がやってきて、テーブルを挟んで向かいに座った。
「なになに、道端さんの彼氏の話?」
 今日はサークルの飲み会だ。よくあるイベントサークルで、愛香に誘われて入ったものの、みんなでワイワイするのが基本的に苦手だと気付いた私は、普段ほとんど活動には参加していない。それでも夏休みに開かれるこの飲み会は、他のサークルも参加する大きなイベントで、ダイニングバーのワンフロアを貸し切って、パーティみたいになっていた。愛香に引きずられて強制参加させられていた私は、大いに楽しんでいる愛香を横目に、隅で無難に飲んでいたのだけれど。
「違う違う、彼氏とかいないから、私」
 なにを恐れ多いことを、と慌てて否定する。
「ふーん。二年になってからなんかキレイになったから、彼氏でもできたんかなあって思ってた」
「いやいや、そんなことないから……」
「絶賛片想い中よ」
「愛香っ」
 横から口を出す愛香が素知らぬ顔で置いてあるナッツをつまんでいる。相当飲んでるはずなのに顔色が全然変わらないのが小憎らしい。
「好きな奴はいるんだ。俺の知ってる奴?」
 興味深そうにするその男の子の、名前が実は全く出てこなかった。見覚えあるし、サークル以外でも顔は合わせてるはずなんだけど。
「もしかしなくても、俺のこと誰だかわかってないでしょ?」
 必死で思い出そうとしているのがバレたのか、その子は整った眉をおかしそうに歪めた。
「ごめん」
「いいっていいって、話すのもほとんど初めてだし。じゃあ改めて、松田(まつだ)潤平(じゅんぺい)です。一応、同じ学科で同じ学年」
「あ、基礎演習一緒だったよね?」
「他にもたくさん一緒の授業とってるんだけどね」
 苦笑いを浮かべるその顔が、記憶の中にはっきりと浮かび上がってくる。くりっとした目のアイドル顔で、綺麗な顔した男の子だなあ、と思ったことがあった。
「いつもぼんやりしすぎなのよね、ヒナは。人の名前とか覚える気ないでしょ?」
「覚える気がないわけじゃないもん。苦手なだけで」
「潤平なんて目立つのに、よく今まで知らないでいれたわね」
 ほんとボケボケなんだから、と呆れる愛香に、知らなかったわけじゃないもん、と心の中で言い訳しながらむくれてみせる。そんな私たちを見ながら、道端さんと愛香ってほんと仲いいよな、と松田くんがくすくす笑った。
「愛香と松田くんも仲いいんだね。名前で呼び合ってるし」
「高校が同じだったんだ。二人とも松田だから、最初っから下の名前で呼ぼうって決めたんだよ。ねえ、俺もヒナって呼んでいい? 俺のことは潤平でいいからさ」
 松田くんがにこっと笑う。
「え、と……」
 いきなり言われて戸惑う私をよそに、松田くんは身を乗り出す。
「初めから馴れ馴れしすぎ? でもさ、俺ヒナと話してみたいなってずっと思ってたんだよね」
 いいとも悪いとも言わないうちに、松田くんが私のことを名前で呼んだ。
「ちょっと潤平、人の話聞いてた? ヒナは絶賛片想い中なの、口説いても無駄よ」
「そうそう、その話。そいつ、うちの学校? この中にいる?」
 あくまでマイペースを崩そうとしない松田くんに、愛香が呆れた声を出す。
「学生じゃないわよ、もっと大人。あんたなんかお呼びじゃないっつの」
「でも片想いなんだろ?」
 じっと顔を見られてたじろぐ。
「う、うん」
「見込みありそう?」
「えーと……」
 見込み、かあ。こうやってお誘いもかかったんだし、なくはない、と思いたい。でも、私の気持ちに答えられるかはわからない、ってはっきり言われてるしなあ。
 はっきりしない私を見て、松田くんがまたにっこり笑った。
「俺も、一年の時からヒナのこと、いいなって思ってたんだ。別に彼氏がいないんだったら、立候補してもいいよな。俺のことも、視野に入れといてよ」
「ばっかじゃないの? あんたは他の頭軽そうな女と付き合ってたらいいでしょ。ヒナには手を出すな。ヒナ、あっち行こ!」
 私の代わりに啖呵を切って、愛香が私の手を掴んでぐいぐい引っ張っていく。戸惑いながら松田くんを見ると、こちらにひらひら手を振って笑っていた。
「あ、愛香? ちょっと待って」
「あいつはダメ。正真正銘の遊び人だから。あんたの手には負えない。……まったく、あんたそんなのにばっか捕まるわね」
 はあー、とため息をつくと、空いている席を見つけて、また店員さんを呼び止めてお酒を注文している。
「松田くんのあれ、冗談だよね?」
「冗談じゃないわよ、あいつ前からあんたのこと狙ってたんだから。私がガードしてあげてたの、わかってないでしょ?」
「そ、そうなの?」
「そうなの。あんた自分で思ってるより目立ってるんだからね。雑誌にも載ったし! ちょっとは気付け!」
 そんなこと言われても、声をかけられたことなんか一度もない。納得いかない顔をしている私を見て、愛香がもう一回、今度はわざとらしくため息をついた。
「あんなの気にしないで、あんたはそのカメラマンのことだけ考えてりゃいいの。水曜日、夕方からバイトでしょ」
 指摘されてはっとして、慌てて手帳を探る。愛香の言う通り、五時からのシフトに入ってしまっていた。
「愛香ぁ」
 泣きつく私に分かってるわよ、と言って、私の頭に手を置いた。
「その日、私は六時上がりのシフトだから、代わってあげる。その代わり」
 面白そうにニヤっと笑う愛香が、なんだか悪魔に見えた。
「何があったか、全部報告してもらうからね?」
 そのあとも隅っこで顔なじみの女の子達と一緒に飲んで、私は一次会で帰ることにした。ほろ酔いで家にたどり着くと時計は十時を指していて、座り込んだ私は携帯を取り出して、桐原さんの番号を表示させる。夜遅くに迷惑かな、と思いつつも、酔った勢いでえいっと通話ボタンをタップした。
『もしもし、日南子ちゃん?』
 三コール目で私を呼ぶ声が聞こえる。低くて穏やかな、ほっとする声。
「夜遅くにすみません。寝てましたか?」
『まだ事務所で仕事してたよ。メール見た?』
「はい、あの、水曜日、六時までバイトなんですけど、それ以降なら大丈夫です」
『バイトってあのファミレス?』
「そうです」
『じゃあ、そのくらいに迎えに行くよ』
 ああよかった、あのメール、私の幻想でも送り間違いでもなかったんだ。他の可能性も潰すべく、質問を重ねる。
「もしかして、仕事関係だったりします?」
『うーんと……実は、俺の方は少しだけ仕事絡みだったりするんだけど。でも、日南子ちゃんには関係ないから、気にしないで楽しんでもらえればいいよ』
「他の方も一緒だったりしますか?」
『俺と日南子ちゃんだけだけど。二人きりじゃイヤだった?』
「そんなことないですっ。全然、その、嫌とかじゃなくて、なんだか、嬉しすぎて嘘みたいっていうか……」
 勢い込んで言って、恥ずかしさに声がフェードアウトしていくと、電話の向こうからククっとくぐもった笑い声が聞こえた。
『ならよかった』
 私は一人で顔を赤くしながら、電話でよかった、と思う。
「どこ行くんですか?」
『それは当日まで内緒。たいしたとこじゃないからあんまり期待しないでね』
「楽しみです」
 二人で行けるのなら、どんなところだって嬉しい。居酒屋でも、それこそファミレスでも、チェーンの牛丼屋だろうとも。
『じゃあ、水曜日に』
 おやすみ、と言って電話を切る桐原さんの声が名残惜しくて、切れたあともしばらく耳を離せない。
 ツー、ツーという電子音を聞きながら、あの日のことを思い返す。
 過去の話を語ってくれた桐原さんは、話している間ずっと、手の中のカップを通り越してどこか遠くを見ていた。時折愛おしそうに目を細めたり、悲しいくらいに空っぽな目をしたり。きっと、優衣さんの姿を追っていたのだと思う。
 話を聞き終わって、私は何を思い上がっていたんだろう、と思った。過去を知ったって、私にできることなんか何もない。彼の心の中は優衣さんで占められていて、きっとまだ、優衣さんへの想いは続いている。出会って半年そこらの私に、一体何ができるというのか。
 でもあの時、桐原さんは、もう逃げるのはやめる、と言った。
 何がきっかけかはわからないけど、自分で悲しい気持ちから抜け出そうとし始めた彼の、少しでも役に立ちたいと思った。できることがあるならなんでもする。待っていて、というのなら、どれだけでも待てる自信がある。いずれははっきり振られるかもしれない、でもそれまでは、許される限り近くにいたい。
 くふふ、と自分でも気持ち悪い笑みがこぼれて、幸せな気分で携帯を抱きしめて寝転んだ。どこ、連れてってくれるのかな。何着て行こう。新しい服、買っちゃおうかな。早く水曜日になって欲しいのに、来てしまうのがもったいない気分……。
 遠足が楽しみな子供みたいに浮かれながら、そのまま幸せな眠りについた。

 やってきた水曜日は、朝からいいお天気で。
 夏休み中で予定といえばバイトしかない私は、いつもはダラダラ過ごすのに、ここ数日はあっという間に過ぎていった。スキンケアをいつもより念入りにして、久しぶりに美容院に行って。容子さんとは、美咲さんの一件のあと電話はもらっていたけど、直接会うのは久しぶりだった。何度も謝る容子さんに、二人で出かけることになったことを話すと、俄然張り切り始める。ああ、当日のヘアメイク、私がしてあげたい、としきりにぼやいて、この秋の新作だ、という私物のアイシャドウを握らされた。今まで使ったことのないブラウンの色味で、私の手持ちの化粧品との組み合わせも考えて、大人っぽくする方法を教えてくれた。
 当日、私は普段の倍の時間をかけてメイクをして、バイトに向かった。髪だけは一つに結ばなければならないので、手間をかける余地がなかった。すぐにできるアレンジ方法も、容子さんに教えてもらっておけばよかったな、とちょっと後悔する。
 五時前になって、愛香が出勤してきた。制服に着替えてニヤニヤ近寄ってくる。
「気合入ってんじゃん。うん、合格合格」
 並んで作業しながら、小さな声でささやく。
「今日、どこの店でご飯?」
「それが、当日まで内緒って言われた」
「なにそれ、なんか怪しー。ヤラしいとこ連れ込まれるんじゃないの?」
「ばかっ、そんなことあるわけないじゃん」
「まあ、ヤラしいとこでもあんた的にはオッケーか。ちゃんと新品の下着つけてきた?」
「だからそんなんあるわけないって」
 といいつつ、万に一つの可能性を考えて、お気に入りの下着をつけてきたことは絶対に秘密だ。
 九月も後半になると、夏休み中の忙しさも大分落ち着く。今日は特に暇で、こうやって愛香と無駄話をしていても、見咎められることは無さそうだった。特に意味もなく店内を歩いて、帰ったテーブルの後片付けをする。一組席を立ったので、レジでお会計をする。
 お客さんを見送りながら、あー暇だなー、と心の中で呟いた。どうせなら三十分早上がりになればいいのに、とぼんやりとガラスのむこうを見やると、一人、背の高い男の人が近づいてくる……ってあれ?
「あ、ちょうどいた」
 自動ドアをくぐってきたのは間違いなく桐原さんで。
「なんでっ?」
 仕事を忘れて素で対応してしまった。
「ちょっと早く着いちゃったから。車で待っててもよかったんだけど、折角だし仕事してるの見てみたいな、と思って」
 いたずらっぽく目を細めて笑う。
「制服姿、なんか新鮮」
 慣れてる格好のはずなのに急に恥ずかしくなって俯くと、笑いをこらえるように口元に拳を当てて、桐原さんが言った。
「席、案内してくれないの?」
「もしかして、からかってます?」
「そんなことないよ」
 しれっと言いながら、いまだに笑いをこらえてる桐原さんを、ふくれっ面のまま席に案内する。コーヒーで、という注文を受けて用意しに行くと、こちらの様子に気付いて待ち構えていた愛香に捕まった。
「私が持ってく」
「え、ヤだよ」
 抵抗する私に、わざとらしい笑顔を向ける。
「ヒ・ナ? 嫌なんていう権利あると思ってんの?」
 そんな愛香に逆らえる訳もなく、すごすご引き下がって後ろ姿を見守った。
 資料らしきものを読んでいた桐原さんに近づくと、愛香が営業スマイルを浮かべてなにか話しかけていた。しばらく話している二人の姿をこっそり横目で見ながら、私は気が気じゃない。愛香、お願いだから変なこと言わないでよ~。