先に視線を逸らしたのは桐原さんの方だった。カメラを置いて私に近づくと、足元に置いてあったタオルの中から一番大きいものを取って、無言で私の体に巻きつけてくれた。それから、部屋の奥に引っ込む。そのタオルはバスタオルほどは大きくなくて、ぎりぎりおへそくらいまでしか隠れなかったから、我に返った私は慌てて座り込んだ。
 我ながら、よくこんなことできたな……。
 極度の緊張から解放されて、放心してしまった。ソファにもたれかかって、ぼけっと宙を見つめる。
 そこに桐原さんが、何かを持って戻ってきた。
「俺ので悪いけど」
 手渡されたのは、見覚えのある紺色の無地のシャツ。前に着ていたのを見たことがある。
「ありがとうございます……」
 受け取ると、ちょっと笑ってくれた。電気をつけると、一口も口を付けずに置いてあったカップを持って、また奥に下がっていく。
 一人になった私は慌てて服を身につけた。下着はまあ、仕方ないとして、キャミソールもブラウスもスカートもびしょ濡れで、脱いでしまったらもう一度着る気にはなれなかった。どうしよう、と迷い、とりあえず下着の上から借りたシャツだけを羽織る。太ももくらいまで隠れたのでしばらくはこのままでいいか、と思い、膝の上にタオルを置いてスカート替わりにした。
 落ち着かない気持ちで座っていると、新しく湯気の立つカップを持って桐原さんが戻ってきた。カップを渡してくれたあと、軽く畳んで置いてあった私の服を拾い上げる。
「どこまで乾くかわかんないけど、一応干しとくよ」
「すみません、自分でやります」
 慌てて立ち上がろうとする私を制して、苦笑いを浮かべる。
「その格好で動かれたら、目のやり場に困るから。座ってて」
 自分の格好を思い出して、恥ずかしくなっておとなしく座る。
 少し大きめのマグカップを、両手で包み込む。冷たくなっていた手がゆっくりと温まっていく。口をつけると、熱い液体が体を通り抜けるのがわかった。お腹の中からじわじわと温かさが広がっていく。
 服を干し終わった桐原さんが、自分のカップを持って戻ってきて、今度はソファに座ってくれた。やっぱり、立ったまま見下ろされるより安心する。
「寒くない?」
 声が、いつもの穏やかな桐原さんだった。
「大丈夫です」
「落ち着いたら、送ってくから。怖い思いさせてごめん」
「謝らないでください。私が勝手にやったんだから」
 ここで桐原さんに謝られたら、意味がない。私が自分の意志で、思いを伝えるためにやったんだから。
 彼は、ふ、と優しく笑って、ありがとう、と呟いた。
 また少し、沈黙が降りる。でも、さっきの緊張感はなくて、コーヒーみたいな温かい空気が流れた。
 しばらくして、桐原さんが口を開いた。
「少し、昔話に付き合ってもらっていい?」
 どきっとした。
 ずっと知りたいと思っていた、桐原さんの過去。なくした、大事なものの話。
 それを、教えてくれるってこと?
 無意識に息を潜めた私を、桐原さんが困ったように見た。
「そんな大した話じゃないんだけど」
「聞きたいです」
 姿勢を正した私からゆっくり目線を外して、手の中のカップに向ける。
「俺、昔、結婚してたんだ」
 何気なく言うから、一瞬意味を掴みそこねた。
 え、結婚……?
 驚いてポカンとする私をちらっと見て、苦笑する。
「バツイチ、ってことですか?」
 私の質問に、うーん、と首をひねって考える素振りを見せる。
「離婚した、ってわけじゃないからバツイチっていうのかよくわからないんだけど」
 カップをじっと見つめながら言った。そこに、何か答えが書いてあるかのように。
「死んだんだ、奥さん。結婚してすぐに。……お腹の中の子供と一緒に」
 
 ※

 無事東京に引っ越して、それぞれの生活が始まった。
 俺は新しい環境についていくので必死だった。何もかも分からない事だらけ、仕事は重労働で、時間も不規則。先輩に言われるがまま、あちこち走り回って、家に帰れば死んだように眠る。毎日がそれの繰り返し。
 それでも、新しい知識を覚えていくのは楽しかった。先輩たちも気のいい人ばかりで、沢木さんは何かと気を遣ってくれる。毎日が刺激的で、俺は仕事にのめり込んでいった。
 優衣は優衣で、新しい生活を満喫していた。もともと人懐こいほうだったし、新しい友達もすぐに作って、都会の生活をそれなりに楽しんでいたと思う。
 主に俺に時間も金も無かったせいで、二人で会うのはもっぱらどちらかの家だった。優衣が食事を作って待っていてくれることもあったし、ごくたまに、俺が優衣の学校まで迎えに行くこともあった。
 二人でいろんな話をした。お互い全く違う世界にいて、話題が尽きることはなかったし、尽きたとしても無言が居心地悪くなることはなかった。
 季節が巡って、俺にも少し余裕ができて、優衣も東京での生活に馴染んで。たまに喧嘩をしたり、優衣の周りの学生たちに嫉妬したりもしたけれど、それでもお互いに歩み寄って、ちゃんと解決していった。
 東京に出てきてから二年目、アシスタントも板についてきた俺は、沢木さんについていろんなところを駆け回るようになった。遠方の撮影にもついていくようになったし、アシスタントとしての働きもだんだん認めてもらえて、気が利く、と褒めてもらえることもあった。知識や経験が増えて、自分の写真もますます撮るのが楽しくなっていた。
 
 そんな状況が一変したのは、その年の七月、もう暑い時期のことだった。
 優衣から真剣な声で、電話があった。話さなければいけないことがあるから、どうしても今日会いたい、と言う。その日の仕事は終わりが見えなくて、下手したら日付が変わるかもしれない、と伝えると、それでもいいから待ってる、という返事が来た。
 すごく珍しい、というか、初めてのことだった。俺の仕事で会う約束がキャンセルになることも度々あったけど、そんな時でも仕方ないね、と我慢してくれていた。こんなに強く、会いたい、と言われたことはない。
 なんだか不安になって、仕事が終わるとすぐにスタジオを飛び出した。
 家にたどり着くと、優衣はお気に入りの窓際で、扇風機も付けずに窓を開け放って、外を見ていた。息せき切って走ってきた俺を見て、いつも通りにおかえり、と笑う。なんだか拍子抜けして、走った疲れがどっと襲ってきた。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、一気に流し込みながら優衣の隣に座る。
「なんだよ、話って」
 少し刺のある言い方になってしまったけど、優衣は全く気にする様子がない。
「沢木さんが飯おごってくれるっていうの、断って帰ってきたんだけど」
 貴重なまともな飯だったのに、とぶつぶつ文句を言うのを、優衣は笑って見ている。
 ふふふ、とえらく嬉しそうに笑うので、なんだか怒るのもバカらしくなった。話すのをやめて、優衣の髪を撫でる。こうやってゆっくり会うのは二週間ぶりだし、たまにはこんな日があっても悪くないか。
 優衣が気持ちよさそうに目を閉じた。そのまま抱き寄せて、俺も一緒に目を閉じる。
 窓から風が入り込む。アスファルトの熱を含んで、生ぬるくてあまり心地よくはなかったけど、ないよりはいくらかマシだ。
「ねえ、ガク」
 腕の中の優衣が、少し体を動かして俺を見上げた。
「なに?」
 優衣の髪は何もしなくてもまっすぐでサラサラだった。俺はその人形みたいな感触が好きだった。
「私、妊娠したの」
 あまりにさりげなく言うので、あやうく聞き流しそうになった。
 手が止まる。優衣を見ると、まるでいたずらを仕掛けた子供みたいにきらきらした目で見上げている。
「……嘘?」
 思わずそう聞いてしまった。
「ほんと」
 ぷうっと頬をふくらませて、優衣が怒った顔をしてみせる。
 そんなはずない、と思いかけて、心当たりがあることに気付く。二人とも飲み会から帰ってきた後、無防備に抱き合ったことが一度だけあった。俺は仕事で二日完徹した後の打ち上げで、優衣はアルコールに弱いくせに場の雰囲気で飲みすぎたとかで、お互い理性が飛んでいた。だけどまさか、あの一回だけで。
 うまく現実が飲み込めなかった。どうしていいか分からずに止まったままの俺の手を、優衣が自分の腹部に持って行って、そっと押し当てた。
「ここに、いるの。私たちの家族」
 まだなんの膨らみもない、ぺったんこのお腹。
「……困る?」
 呆然として言葉が出ない俺に向かって、怖々と、優衣が尋ねる。
 正直、言葉の意味を理解して初めに浮かんだのは、怖れだった。確固とした基盤もない、自分を養うだけで精一杯の俺に、守るものができるという恐怖。ただのアシスタントの俺と、学生の優衣に、子供なんて育てられるのか。
 それでも、優衣が言った『家族』という言葉に、じわじわと心の中に温かなものが広がっていく。
 小さい頃に失った、血の繋がった家族。無条件に愛おしいと思えるような存在。
 優衣が体を起こして、俺の頬をそっと両手で包み込む。そのまま額と額をくっつけて、穏やかな声で言った。
「私ね、ずっとあなたに家族を作ってあげたかった。一人ぼっちじゃないんだよ、って言ってあげたかったの。だから、子供ができたってわかった時、すごく嬉しかった」
 もちろん、不安な気持ちもあったよ、と優衣の声が少し曇る。
「ガクに言わずに堕ろそうか、とも正直考えた。でもね、やっぱりできないって思ったの。この子を堕ろして何もなかったように今までの生活を続けたって、私は自分を許せないと思うし、後悔し続けると思う。それより、どんなに苦労したって三人で生きていくほうがずっといい。お金がなくても、自由がなくても、ガクとこの子がいれば、私は絶対に笑っていられる」
 額に彼女の熱を感じながら、とても落ち着いた、優しい気持ちに包まれていた。凪いだ海に浮かんでいるような、心地よい安心感。
「結婚しよう」
 その言葉が、するりと口から滑り出てきた。
 不安だらけで、なんの保証もないけれど。優衣となら、きっと乗り越えられる。
 至近距離で見つめる彼女の目が、みるみる潤んでいく。うん、と大きく頷いて、ふにゃっと緊張の解けた様子で笑った。
「もう、ガクは一人じゃないよ」
 ずっと、そばにいてあげる。
 そのままそっと、彼女の唇に口付けた。
 
 優衣から報告を受けるなり、夏休みに入っていた理恵は東京にすっ飛んできた。たまたま俺も休みだったので、二人で駅まで迎えに行く。改札から出てきた理恵を見た途端、優衣が走り寄って抱きついた。
 久しぶりに会う理恵は、顔こそ優衣と同じだけど、前よりもさらに大人っぽくなって、キリッとした印象になっていた。そんな理恵がほわっとした優衣と抱き合う姿は、なんだか一枚の絵を見ているような、現実感のない光景だった。
 こんなに仲のいい姉妹もいないと思う。涙を浮かべながらおめでとう、という理恵に、こちらも半泣きになりながらありがとう、と笑顔を浮かべる優衣。俺が入る隙なんて全くない。
 いい写真になりそうだな、なんて人ごとのように後ろから見ていた俺に、優衣と離れた理恵がいきなりすごい勢いで向かってきた。え、と思う間もなく、勢いのまま握りこぶしを振りかざす。ガツ、と骨と歯が当たる音がした。さすがに吹っ飛びはしなかったけど、不意をつかれてよろめいてたたらを踏む。
 優衣が驚いて短く悲鳴を上げる。周りの人も、何事かとぎょっとしてこちらを見る。
 思い切り俺をグーで殴った理恵は、痛そうに手を振りながら顔をしかめた。
「いろいろ言いたいことはあったけど、これでチャラにしてあげるわ」
 そして、にっこり笑って言った。
「おめでとう、ガク」
 俺も切れた唇の血を拭いながら、ありがとう、と答えた。
 三人で簡単に食事をしたあと、優衣のアパートに戻る。まずはお父さんたちに話さなきゃね、と切り出したのは理恵だった。優衣と並んで、カーペットの上に座り込んでいる。
「私ももうちょっとで夏休みだし、どうせ実家に帰らなきゃいけないから、帰って直接話そうと思ってるんだけど……まずは私一人で話したほうがいいよね?」
「そうねえ。ガクがいきなり現れて、子供ができました、お嬢さんをください、なんて言ったって会話にならないわね、きっと。一瞬で血の海になるわ」
 東京に進学する時だってあれだけ猛反対されたのに、いきなり妊娠、だなんて話になったら、どんな反応を示すのか、想像がつかない。
 少し離れてベッドの上に片膝をついて座った俺は、二人が話すのをキリキリする胃を抱えて聞いていた。二人の父親について、いろんな話を聞いていたけれど、どれもこれも俺を怖気付かせるものばかりだった。血の海なんておおげさだろ、と笑い飛ばしたかったけど、二人の顔があまりに真剣なので口に出せない。
「許してくれると思う?」
 優衣が理恵を頼りなげに見る。理恵はそんな優衣を安心させるように、ぽんぽん、と頭を撫でた。
「大丈夫。私もついててあげるから。何がなんでも認めさせる、くらいの気持ちでいなさいよ。優衣がしっかりしないでどうするの」
 うん、としっかりと頷いて、きゅっと口を引き結ぶ。一番心強い味方ができて、優衣もさぞかし安心しただろう。
 問題はあんたよ、と理恵が俺を振り仰ぐ。
「覚悟しときなさいよ、さっきの私のパンチなんて目じゃないんだから」
 わかってる、と悲壮な顔をする俺を見て、理恵と優衣が二人してくすくす笑う。
「きっと、ね。わかってくれるわ。ちゃんと優衣が幸せそうにしていればね」 
「それは大丈夫! だって私、今人生で一番幸せだもの」
 とろけそうな笑顔の優衣を見て、理恵もまた、見守るように笑みを浮かべた。

 優衣は試験を終えて夏休みに入るのを待って、理恵と二人で帰省した。俺は二人からの連絡を待って、予定を合わせて改めて挨拶に行くことになった。
 理恵に殴られた傷は思ったより腫れて、会う人会う人みんなに訝しがられた。その度に一から事情を説明するのが面倒で、曖昧にごまかしていると、いつの間にか俺が浮気して優衣に殴られたことになっていた。
 結婚することになりました、と沢木さんに報告して、一連の流れを話したら、豪快に笑われた。
「いい女じゃねえか。ぜひお会いしたいね」
 理恵と沢木さんならさぞ気が合うだろう。いずれ紹介するのもおもしろいな、と思う。
「それはともかく。お前、ちゃんとやってけんのか?」
 沢木さんが真面目な顔になった。
「言っとくが給料の額はあげらんねえし、仕事だって今まで通り変わんねえ。お前が今自分のことでいっぱいいっぱいなのを俺は見て知ってる。その辺を、優衣ちゃんはきちんと理解してんのか?」
 優衣に妊娠を告げられた日から、二人で何度も話し合った。優衣は大学を辞めて働くと言っているけど、妊婦をわざわざ雇ってくれるところなんかないだろうし、しばらくは俺ひとりの給料でやっていくしかないだろう。幸いなことに、叔母が俺の大学進学の資金用に貯めて置いてくれたお金を、上京する時に渡してくれてあった。俺の両親の保険金を少しずつ積み立てておいてくれたらしい。ほぼ使わずに置いてあるので、それがあれば当分はなんとかなる。天国の両親にこれほど感謝したことはない。
「贅沢とかはできないと思いますけど。一緒にいられるだけでいい、って言ってくれてます」
 まだ実感は湧かないけど、これから優衣と子供と俺の三人の暮らしが始まる。忘れかけていた、家族と過ごす、という時間。それを守るためなら、なんでもできる自信がある。
 ふん、と沢木さんが面白くなさそうに鼻を鳴らした。一端の父親の顔しやがって、と俺の肩を叩く。
「まあ、とっとと腕を磨くこったな。早く贅沢させてやれるように頑張れや」
 口は悪いけど、そこに込められた期待と応援してくれる気持ちが確かに伝わってきて、俺は自然と頭を下げていた。

 優衣の父親は、想像以上に手強かった。
 理恵と二人、帰省したその日に話をしたらしい。おじさんの反応は怖いくらいに静かで、話を全て聞くことなく、堕ろしなさい、と一言伝えて席を立ったそうだ。
『あの子今、軽い軟禁状態よ』
 二人が帰省してから数日、優衣からなんの音沙汰もなく、電話しても繋がらない。どうなっているのかとやきもきしていた俺に、連絡をくれたのは理恵だった。
『とにかく堕ろせ、の一点張りで。手術を受ける気になるまではおとなしくしてろ、って、家から一歩も出さないの。お父さんはほとんど話をしないし、お母さんはお父さんの顔色を伺ってばっかりで味方なんてしてくれないし、携帯も取り上げられてるみたいで』
 はあ、と電話の向こうからため息が聞こえる。
『優衣もほとんど食べれてないみたい。ストレスにつわりも重なって、なにか食べちゃあ吐いてるわ』
 これほど反対されると思わなかった、と疲れきった声で言った。
『私は最悪、あの二人に認めてもらえなくたって構わないんじゃないかって思ってる。それよりも優衣の体の方が心配だわ。時間が経って、子供の顔を見れば考えも変わるかもしれないし。……ガクはどうする? 挨拶に来る?』
 何も言葉を発することができずにいる俺に、気遣わしげに聞いた。
『殴られるどころか、会ってももらえなさそうだけど』
 それでもとにかく、行くしかないだろう。会ってもらえるまで粘るしか、方法がない。
「今度の日曜、休み貰って行くよ」
 うん、わかった、と答える理恵の声が、力なく響いた。
 それからまた理恵から連絡が入ったのは、金曜日の夜中だった。眠る支度を整えて布団に入った時、ちょうど携帯が震えた。
『ごめんね、夜遅くに』
「いいけど、どうかした?」
『優衣が倒れたの』
 電話の向こうから聞こえる声に、眠気が吹き飛ぶ。
『流産しかかってたみたい。でも安心して、子供は無事よ。優衣も今眠ってる』
 動転して連絡するのが遅くなっちゃった、という理恵の声からは切迫した空気は感じられなかった。全て処置が終わって、落ち着いてから連絡してくれたらしい。とりあえず、ほっとする。
『なるべく早く顔を見せてあげて。ガクに会うのがきっと、一番の安定剤だと思うから』
 それからは一睡もできなかった。迷惑を承知で夜のうちに沢木さんに電話をして次の日休むことを伝え、早朝に駅に向かう。夜乗るはずだった格安バスをキャンセルし、可能な限り早く着ける電車を取った。それからむこうに着くまで、長く感じられて仕方がない時間をひたすら耐える。
 バスを降りるなりタクシーを捕まえて、眠そうな運転手に理恵が教えてくれた病院の名前を告げる。窓の向こうを流れる景色は、見慣れたはずの街なのにどこかよそよそしく見えた。俺という中途半端な存在が、拒絶されているような気がして……早く、早く優衣の顔が見たい、と思った。
 病院の受付で優衣の名を告げる。案内されたナースステーションの看護師には理恵から話が通っていたのか、眠っていると思うから起こさないように、という言葉とともに部屋の番号を教えてもらった。
 そっと病室の扉を開く。誰か付き添いがいるかもしれないと思ったが、気配をうかがう限りはいないようだった。静かに歩み寄り、カーテンを開いて眠っている優衣の顔を覗き込む。
 少し青ざめてはいたけど眠る顔は穏やかで、規則正しく胸が上下していた。力が抜けた俺は枕元に置いてあった椅子によろよろと座り込んだ。
 布団の上でゆるく組まれていた優衣の手をそっと外し、片方を自分の両手で握り込む。手のぬくもりが伝わって、緊張がゆるゆると溶けていった。
 改めて見た優衣は、少し痩せたようだった。頬の丸みが少し削げて、元の柔らかさを知っている俺から見たらなんだか痛々しい感じがする。まだ、最後に会った時から一週間ちょっとしか経っていないのに、すごく長い間離れ離れだったような気がしてしまう。
 本当にこのまま、子供を産んでもらっていいのだろうか。
 きちんと覚悟を決めたはずだったのに、また揺らぐ。
 俺が沢木さんのように、作品を認められて自分の腕にお金を払ってもらえるような人間だったら、優衣の父親もここまで反対しなかっただろう。優衣がちゃんと大学を卒業して、俺も自分に自信が持てるまで、家族なんて持つべきじゃないんだろうか。何度も自分への問いかけを繰り返して、それでもそうやって迷うたびに、優衣の中にいる命の存在を思い出す。
 もう、いるんだ。小さいけれど、ちゃんと形を持って。
 しっかりしなければ、と彼女のまだ目立たない腹部を見て思う。彼女とこのお腹の中の命を、守る責任が俺にはある。
 知らず知らず手に力がこもってしまって、優衣がかすかに身じろいだ。慌てて力を緩めるけど、そのまま優衣はゆっくりと目を開けた。
「……ガク?」
 俺を見つけて掠れた声で呟く。
「ごめん、起こしちゃったな」
 謝ると、ふるふると首を横に振って、空いている方の手を持ち上げて俺の頬に触れた。
「本物だ」
「え?」
「夢、見てたの。その続きかと思っちゃった」
 そのまま体を起こし、俺の肩にもたれかかった。
「心配させちゃったね。ごめんなさい」
「俺の方こそ、不安な時にそばにいなくてごめんな」
 優衣の負担にならないようにそっと抱きしめると、優衣も俺の背中に手を回した。しばらくそのままお互いの鼓動を聞いていた。
「お父さん、一人じゃ説得できなかった」
「うん。理恵に聞いた。辛かっただろ」
 口ではいろいろ言っているけど、理恵も優衣も両親のことを大事に思っているのはすごく伝わる。大切な家族に理解してもらえないこの状況は、ひどく彼女を傷つけているに違いない。