◆

 帰る前に編集部に立ち寄ると、先に戻っていた理恵と、今まで仕事をしていたのか瀬田さんが残っていて、部屋の明かりを一つだけつけて何かを話していた。
「お疲れさまです」
 忘れ物を取りに来ただけで、理恵がいるのはわかっていたけど、瀬田さんまでいるとは思わなかった。実を言うと、この人のことはあまり得意じゃない。仕事ができる人なのはわかるけど、変に鋭くて、心の中を全部見透かされているような気分になる。
「お疲れさま。あなたを待ってたの。カメラは?」
「車に置いてありますけど」
「じゃあ、持ってきて」
 当然のように命令される。
「持ってきてどうするんです? 今日撮った分しか見せられませんけど」
「それが見たいのよ。特にあの子の写真。あなた、また出さないつもりのものも撮ってるでしょ?」
 本当に食えない人だと思う。超能力かなんか使ってるんじゃないのか。
 前の時もそうだった。入稿したのはサロン内で撮った写真だけで、それで十分なはずなのに、なぜか他の写真も出せ、と言ってきた。俺は外に出す気なんかさらさらなかったのに、わざわざ事務所まで訪ねてきてデータを確認していった。
「見てどうするんです?」
「それはまだ決めてないわ。興味があるだけ」
 にっこりと、しかし断ることは許さない、とでもいうように促されて、渋々車まで取りに戻った。雑誌の仕事はありがたいし、契約してもらっている身としてはあまり強くも出られない。特にこの人は、敵に回すと厄介な気がする。
 カメラを手に編集部に戻ると、理恵が無言で、ごめん、と言うように目配せを寄越す。こっちも無言で気にするなと返しながら、どうぞ、と瀬田さんに手渡すと、勝手知ったる顔で、カメラを操作してデータを表示させた。
 最初の方は朝に回って撮った風景や商品の写真なので、特に見もせず送っていった。午後に撮ったぶん、特にあの子が写り始めるようになると、じっくり一枚一枚眺めていく。
 待っている間、なんだかものすごくいたたまれない気分になった。
 別に変なものを撮っているわけではないから、堂々としていればいいはずなんだけど、提出する気がない写真も何枚か混ざっているのは事実で。
 優衣に似ている、と、手が勝手にシャッターを切っていた、数枚の写真。
 他の人が見たって、どの写真も取材のために撮ったものにしか見えないはずだ。理恵が見たって気付くかどうか。それなのに。
「これとこれ、先にそのままデータで送ってもらってもいいかしら? ちょっと見せたい人がいるの」
 滅多な人には見せないから安心して、といって示した写真は、見事にどれも、彼女と優衣を重ねて撮っていたものだった。
 内心驚きながら、嫌だとも言えず、わかりましたと頷く。
「今、理恵ちゃんから話を聞いてたんだけど」
 帰り支度をしながら瀬田さんが面白そうに笑う。
「あの子、次々に周りを味方につけちゃったみたいね。容子ちゃんしかり、理恵ちゃんしかり、リサちゃんしかり。もちろん私もだけど、外堀をどんどん埋められていってるじゃない。あなた、いつまでも躱しきれるかしら?」
「言ってる意味がよくわかりません」
 この人に言葉で挑んだって無駄なことはわかっている。聞きたくないことは理解できないふりをしておいたほうがいい。
「まあ、いいけど。なんだか面白くなりそうね」
 今でも十分楽しんでいそうだけどな。
「私はね、あなたに期待してるのよ? いつまでも地方紙で撮ってるような人じゃないと思ってる。もう一皮むけて欲しいの。あの子がきっかけになるんじゃないかしら」
「ご期待に添えられるかはわかりませんが」
 俺は別に、今のままで満足している。昔は賞でも取って、周りから認められたい、なんて偉そうに考えていた事もあったけど、今はそんな考えはなくなった。目の前にあるものを、クライアントの期待に添えるように撮っていく。それだけで楽しい。
「このままここで撮っていてもらったほうが、私としては助かるけど」
 じゃあ、データよろしくね、と言い置いて瀬田さんは帰っていった。
 姿が見えなくなると、無意識に入っていた力が抜けた。知らず知らず詰めていた息を吐く。
「あの人、なにをどこまで知ってるんだ?」
「私にもわかんない。優衣のことは知らないと思うけど……少なくとも私も遼一(りょういち)さんも言ってないわよ」
 でも、あの人の人脈と情報収集力は半端じゃないから、と理恵がため息をついた。
「どの写真、目を付けられたの?」
 黙って画面に表示させて渡してやると、それを見てなるほどね、と呟いた。
「いい子よね、彼女。素直で一生懸命で。外堀を埋められてる、って言ってたけど、むしろ周りが勝手に外堀に入って埋まっていってるって感じよね。なんだか応援したくなる」
「そうだな」
「そうだな、って、他人ごとみたいな言い方ね。あなた、あの子のことどうするつもりなの?」
 忘れ物のUSBを俺に差し出しながら、理恵が少し怒っているように言う。
「どうするもなにも、別になにか言われたわけでもないし」
「じゃあ、告白されたら付き合うの?」
「告白なんてされないよ。今は新しい世界を覗いて、物珍しさで浮かれてるだけだろ。気分が落ち着けば、相応の男に目が向くよ」
 きっと周りに彼女のことを気にしている男がたくさんいるはずだ。大学生なんて、恋だの愛だのやりたい放題じゃないか。なにもこんなめんどくさい人間にこだわらなくてもいい。
「あなたはそれでいいの?」
「いいもなにも。言ってるだろ、彼女はただのモデルさん、俺はただのカメラマン」
 一緒に仕事をすることはこれからもあるかもしれないけど、それだけだ。それ以上の関わりを持つことなんてない。
「お前も早く帰れよ。沢木さん待ってんだろ」
 じゃあな、と後ろ向きのまま手を振って、そのまま編集部を後にした。
 
 優衣が、あの部屋の窓辺で、風に吹かれて座っている。
 穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見る。
 ――やっと、私たち家族になれるのね
 嬉しい、と笑った。私、ずっと、あなたに家族を作ってあげたかったの。
 ――もう、ガクはひとりじゃないよ
 ずっとそばに、いてあげる。
 俺は彼女を抱きしめようと、手を伸ばした。彼女は幸せそうに目を伏せる。やわらかな頬に、手が触れる、その瞬間。
 世界が暗転して、暗闇に包まれる。すぐになにかがぼうっと白く浮かび上がった。なんだろう、と目を凝らすと、徐々に輪郭がはっきりしてきてーー。
 穏やかに目を閉じた優衣が、真っ白な服を着て横たわっていた。
「……っっ」
 飛び起きて、周りを見渡す。暗闇だけれど、よく見慣れた、今の部屋。
 ーー夢だ。
 真夏でもないのに、体が汗ばんで気持ち悪い。心臓がバクバクと音をたてて、存在を主張している。
 ーーこんな夢、最近見てなかったのに。
 優衣を失ったばかりの頃は、よくうなされて飛び起きていたけれど、ここ数年は全く見ることがなかった夢。なんで今さら。
 ……彼女に、日南子ちゃんに会ってから、昔のことをやたらと思い出す。日々のふとした拍子に、優衣の顔が頭をよぎる。
 最後に見た彼女の姿。穏やかに、まるで眠るように目を閉じていた優衣。呼びかければ目を開けて、どうしたの、と微笑みかけてくれそうな。
 ーーどうかしている。もう彼女が俺に笑いかけてくれることなんて二度とないのに。
 夢の映像を振り払うように一つ頭を振った。早く優衣の姿を消したくて、シャワーを浴びようと浴室に向かった。
 五月が終わり、だんだんと雨が降る日が多くなってきた。この地方特有の湿気を含む異常な蒸し暑さが始まって、まだ六月だというのに冷房が恋しくなる。湿気が体中にまとわりついて、なんだか呼吸までしづらいような気がしてくる。
 あれから一度、事務所のドアに袋がかかっていたことがあった。中にはきれいにチョコレートが並んだ箱と、一枚のメッセージカード。
『お仕事お疲れさまです。よかったら、食べてください。 道端日南子』
 あの時言外に含んだ意味を、彼女が汲み取ってくれたのかどうか。困ったな、と思うのと同時に、それでもこうやって向かってきてくれることを少し嬉しく感じる自分もいた。
 その日は一日スタジオに籠っていた。撮影したデータの編集も溜まっていたし、商品撮影の依頼も入っている。そろそろ取り掛からないと。
 商品撮りは好きだった。同じものを同じカメラで撮っても、光の当て方、対象の置き方一つで全く印象が異なる。この商品がいかに人を惹きつけるか、それは意思を持たない物体が相手なぶん、撮り手の腕にかかっている。
 夜までは別の仕事を片付けようと思っていたけれど、三時過ぎくらいからどんどん空が曇り始め、やがてポツポツと雨が降りだした。そういえば天気予報で、昼過ぎからところにより雨、とか言ってたっけか。空を重たく厚い雲が覆って、外は夜みたいに暗くなっている。そのまま画面に向かっていても気分が鬱々としそうで、早々にパソコン仕事を放り投げることにした。
 入口にブラインドを下ろして外から遮断された空間を作り、ストロボを配置する。商品と、撮影で使う小物類が放り込まれたダンボールを取り出した。今年流行っているらしいアクセサリーの撮影は、小さい記事だから量も少ない。キラキラ輝くピアスはきれいだけれど、一つ数万するのを聞いて、俺だったら落とすのが怖くて外でつけられない、と思った。小さなアクセサリーに大枚を叩ける女の子はすごい。
 それぞれのデザインに合わせて、背景を決めていく。送られてきた小物と手持ちのものを合わせて、その商品が一番美しく見えるように配置していく。後ろになにを置くか、どれだけ写りこませるかだけでも、商品の浮き上がり方やイメージが全然異なってくる。
 白の大小のパールがランダムに並んだピアスを木製のトレーに置く。でもそれだけじゃなんだか締まらなくて、後ろになにか置きたいのだけれど、ちょうどいいものがない。トレーよりも薄い色味の、できればベージュっぽいもの。そういえばこの前使った英字新聞にいい色があった気がする。どこにしまったっけ。
 考えながらデスクの方に移動すると、スタジオの入口の方から、カタン、と音がした。
 誰か来た? でも、こんなところ仕事の関係者しか来ないはず。
 ……もしかして、日南子ちゃん?
 急いでブラインドを開けると、予想通りそこには驚いたような顔の彼女がいた。

 ◇

「日南子ちゃん?」 
 慌てたような桐原さんが、急いでスタジオの扉を開けてくれる。
「うわ、すごい濡れてる。早く中入って」
 バカな私は傘を忘れ、途中から降ってきた雨にやられて濡れ鼠になっていた。床が濡れちゃうのが気になったけど、ぐいぐい中に押し込まれて、急いで靴を脱ぐ。
 彼は一度奥に下がると、すぐにタオルを持ってきてくれた。ありがたく受け取って、拭かせてもらう。うちとは違う柔軟剤の匂いがして、ちょっとドキドキした。とりあえず座って、と言われて、慌てて首を振る。
「いえ、すぐ帰ります。これ、渡しに来ただけなので!」
 勢いよく持っていた袋を差し出すと、彼は驚いたように目を丸くする。
「また何か持ってきてくれたの? この前もチョコレート、置いてってくれたよね?」
「勝手にすみません……」
 やっぱり迷惑だったかな、と謝ると、彼がタオルの上から優しくぽん、と頭に手を置いてくれた。
「謝んなくていいよ、うまかったし。わざわざ持ってきてくれてありがとう」
 そのままわしゃわしゃと髪を拭いてくれた。私は嬉しいけど恥ずかしくて、されるがままになっていた。
 はい、座って、ともう一度促されて、今度はおとなしく従う。
「これ、新しくできた店の袋でしょ? ……あ、うまそう」
 目の前で箱を開けて、嬉しそうに目を細める。それだけで雨に濡れて来た甲斐があったと思う。
 桐原さんはすぐに温かいコーヒーを持ってきてくれた。もちろん、私仕様のミルク多めのお砂糖抜きで。
「お仕事中に、すみません」
「だから謝んなくていいって。日南子ちゃんはすぐに謝るよね」
 桐原さんは苦笑いを浮かべるけど、この前線を引かれたことを考えると、歓迎されてはいないだろう。
「迷惑だったら、ちゃんと言ってください。善処します」
「善処?」
「あんまり来ないように我慢します」
「あんまり?」
「……たまに、も、ダメですか、やっぱり?」
 どんどん弱気になっていく私を見て、彼が吹き出した。なにがおかしいのか、ずっとくすくす笑っている。
「なんで笑うんですか?」
「ごめんごめん。素直だなあ、と思って」
 桐原さんが何かを考える素振りを見せて、おもむろにカバンをごそごそ探ると、名刺とペンを引っ張り出した。
「じゃあ、次からは連絡してから来るように。今日みたいに雨に降られて風邪でもひかれたら困る」
 はい、と差し出された名刺には、手書きで携帯の番号とアドレスが書いてあった。
「ありがとうございます!」
 つい声が浮かれてしまった。折れないようにそっと握りしめて、何度も見返す。そんな私の様子をまたおかしそうに彼が見ていて、恥ずかしくなった私は視線を巡らせる。
「今日はお仕事、ここでしてたんですね。アクセサリーの撮影ですか?」
 スタジオ部分では白いスクリーンを背景まで敷いた机の上に、木のトレーとピアスが置かれていて、照明が当てられている。
「この前持ってたのと違うカメラなんですね。前のより小さい?」 
 彼の傍らに置かれたカメラに目を向ける。何台も持っているのか、これは以前見たものとは違うようだった。じっと見ている私に、彼が無造作にそれを差し出す。
「撮ってみる?」
「いいんですか?」
 差し出されたカメラを、恐る恐る受け取る。うわ、思ってたより重い。
 手招きされて、真っ白な空間についていく。ピアスにレンズを向けると、彼に言われる通りにファインダーを覗き込んで、シャッターを押した。彼がすぐに撮った写真を画面に表示して見せてくれる。……なんだかぼやけてる?
「こいつはね、ちょっと技術がいるんだ」
 そう言って私の手からカメラを取り上げると、彼はピアスに向けて構えた。何かを手元で操作しながらシャッターを押して、また画像を見せてくれた。私が撮ったものと全然違って、背景をわざとぼかした中にピアスがはっきり浮かび上がって、きれいに陰影がついている。
「すごい、全然違う」
「一応これで飯食ってますから」
 二つのデータを何度も切り替えてはしゃぐ私を、彼が笑って見ていた。カメラを返そうと彼の顔を見て、なんだか懐かしそうな顔をしているのに気がついた。目の前の私ではなく、その後ろ、どこか遠くを見ているような。
「なに考えてるんですか?」
「え?」
「なにか、思い出してました?」
 私の言葉に、ハッとしたように笑みを引っ込めた。
「……いや」
 どこか気まずそうな表情を浮かべて、少しの間、沈黙が降りた。その沈黙を破るように、彼の携帯が鳴った。ちょっとごめん、と断ってから電話に出る。奥の方に行ってしまって話の内容はわからないけど、どうやら仕事の電話みたいだ。
 ……昔の恋人のことを、思い出していたんだろうか。
 初めて会った時に、川沿いで見せた表情と、少し似ていた。あの時はわからなかったその表情の理由が、今ならなんとなくわかる。
 少し寂しくなった気持ちをごまかすように、ドアの外を見ると、ちょうど雨もやんできたようだ。電話を終えて戻ってきた桐原さんに帰ります、と告げると、すまなさそうに眉をひそめる。
「ホントは送っていければよかったんだけど、今から打ち合わせ入っちゃって」
 傘は持って行って、と置いてあった傘を渡される。もう降ってないし大丈夫、と断ると、途中で降ってきたら困る、と押し返された。
「じゃあ。また、返しに来ます」
 会いに来る口実がひとつ増えた。雨に感謝だ。とにかく、連絡先も教えて貰えたんだし、私が来ても迷惑ではないってことだよね。
 ドアのところで見送ってくれる桐原さんに頭を下げて、来た時よりも少し軽くなった足取りで、今度は何を持ってこようかと考えながら歩き出した。

 ◆

 ーー話したいことがあるから、三人で会えない?
 どことなく真剣な声で理恵から電話がかかってきたのは、八月に入ったばかりのクソ暑い日だった。梅雨がいつあけたのか曖昧なまま、いつの間にか太陽がガンガン照りつけて街中を炙っている。その日も雲一つない青空で、そんな日に限って外での撮影だった。脳みそが沸騰するんじゃないかと思うような炎天下で、僅かな木陰でさえ愛おしく思える。
 できれば今日にでも、という理恵に、無性にビールが飲みたい、と思っていた俺はすぐに了承した。どうせ飲むなら誰かと一緒の方がいい。
 待ち合わせたのは、よく三人で行く居酒屋だった。沢木さんと理恵が先に着いていて、二人の前には既に飲み物が置いてあった。沢木さんはビール、理恵は珍しく烏龍茶。
 挨拶もそこそこに、俺もビールを頼むと、簡単に乾杯する。干からびた魚みたいになっていた体に、アルコールが染み込んでいくのがわかる。沢木さんと会うのは久しぶりだった。前に回してもらった仕事で会った以来だから、三ヶ月ぶりくらいか。
「相変わらずガテン系にしか見えないですね。さらに黒くなってるし」
「お前だって日焼けしたんじゃねえか? 細いのは相変わらずだけどな」
 沢木さんに比べたら誰だって細いに決まってる。日焼けだって、今日一日で随分焼けたような気がするけど、何日かしたらすぐに元に戻る。昔からそういう体質なのだ。
「鍛えるのもほどほどにしとかないとカメラマンだって信じてもらえなくなりますよ」
 言ってろ、と笑う声が、なんとなくいつもより小さい気がする。そういえば理恵もなんだか元気がないようだ。
「お前体調でも悪いの? 烏龍茶なんか飲んで」
 理恵はザルだ。かぱかぱ水のようにグラスを空ける沢木さんと、平気で同じペースで飲む。
「体調が悪い、ってわけではないんだけど。ううん、ちょっと悪いのかな」
 いつもと違って歯切れが悪い。いつももっと遠慮しろよと言いたくなるくらいはっきり物を言うのに。
「話、ってなんか言いにくい話?」
 半分冗談で言ったのに、二人とも真顔になった。
 理恵が沢木さんの顔をうかがう。沢木さんはグラスを置いて、おもむろに居住まいを正す。なんだろう、こっちまで緊張してくる。
「実はな、まあ、なんだ。籍を入れようと思ってるんだが」
 何を言われるのか身構えていた俺は、拍子抜けして、なんだ、と思わず呟いてしまった。
「その報告ですか?」
「おう」
 身構えて損した。そんなに硬い顔して言うことじゃないだろう。
「おめでとうございます。ようやくその気になってくれたんですね。頑固なこいつをどうやって口説き落としたんです? 土下座でもして泣きついたんですか?」
 理恵もひっくるめてからかってやろう、と思って言っただけだったのに、なんだか二人とも表情がまた硬くなった。理恵なんて、さっきからずっと黙ったままだ。
「二人とも、もうちょっと嬉しそうな顔したらどうなんです? 部外者の俺が一番浮かれてるんですけど」
 なんでこんなに悲壮感が漂ってるんだろう。俺、なんか聞き間違いでもしてるか?
 この場の雰囲気に戸惑う俺に、理恵はなにかを躊躇ったあと、なぜか正座しだした。沢木さんは心配そうにそれを見守る。
「それなんだけど」
「それ?」
「結婚を決めた理由。……私、妊娠したの」
 理恵がきっぱりと言った。
 ――妊娠、したの。
 一瞬、意味を捉えきれずに言葉だけが宙に浮く。それから唐突に頭の中でその言葉が形をなして、すとん、と心の中に落ちてきた。
 妊娠、したの。
 声が、響く。理恵と同じ、でも違う、声が。
 キリキリと心臓を絞るように声が絡みついて、息が止まる。驚いて、嬉しくて、でも怖くて、辛くて、苦しくて……いろんな感情が絡まって暗闇に引きずり込まれそうになる手前で、我に返った。
 俺の顔を、二人がじっと見つめている。
「よかったじゃん。おめでとう」
 絞り出した声は、それでもさっきとは違う、掠れた小さな声だった。
 理恵が泣きそうに顔を歪める。俺と同じように、掠れた声で言った。
「ちゃんと本音を言って欲しいんだけど。私、産んでもいい?」
 真剣な声。そんなこと。
「なんで俺に聞くの?」
 理恵の気持ちは、考えていることは、痛いくらいにわかる。
 でも。
 そんなこと、俺に聞かないでくれ。
「二人で決めたんなら。祝福するよ」
「本音を言って」
「本音だよ」
 理恵が、真剣なあまり睨むように俺を見る。俺も、静かに見返す。
 沈黙が続いた。理恵は何かを言いたそうに口を開きかけ、諦めて閉じ、を繰り返す。俺の方は何も言う気がない。沢木さんは理恵を見守りながら、それでも黙ったままだ。きっとこの場で自分が口を開くべきではない、とでも思ってるんだろう。
 やがて理恵が目を逸らして、お手洗いに行ってくる、と小さく呟いて席を立った。
 沢木さんが息を吐いた。その場の緊張が緩んだ。
「追いかけなくていいんですか」
「今はほっといた方がいいだろ。一人で落ち着きたいだろうし」
 いつの間にかグラスを空にしていた沢木さんが、店員をつかまえて生ビールをもう一杯注文した。お前もいるか、という問いに首を横に振って答える。あんなに飲みたかったビールなのに、もう苦さしか感じなかった。
「あいつなあ、最初は堕ろすって言ったんだ」
 平坦な口調だけれど、いろんな思いが詰まった声で、沢木さんが静かに話す。
「自分に産む資格なんか無いって。堕胎手術をするから同意書にサインして、なんて言うもんだから泡食って止めたんだよ。そしたら今度は、ガクに認めてもらわないと産めない、ってさ」
 俺の意見なんて聞いてどうする。俺に、理恵が子供を産むことを認めたり認めなかったりする権利なんてあるわけない。
「お前が喜べないと、あいつだって喜べないんだろうさ」
「だから祝福するって言ってるじゃないですか」
「そんなシケたツラで言われたって信じられるか」
 さっき俺は、一体どんな顔をしていたんだろう。喜びいっぱいの笑顔じゃなかったことだけは、自分でもわかる。
「本当に、よかったな、って思ってますよ。さっきは驚いただけで」
 冷静になって気持ちが落ち着いた今は、心からおめでとう、と思う。
 理恵のお腹の中に、沢木さんとの新しい命が宿っている。二人に早く幸せになってもらいたい、と思っていた俺にとっても、すごく嬉しいことだ。
「改めて、おめでとうございます」
 置いてあった沢木さんの空のグラスに自分のグラスをカツン、と合わせて、残っていた液体を流し込んだ。苦い上にぬるい。最悪だ。 
 店員を呼んで、今度は日本酒を頼む。少しでも強い酒を飲んで、酔いたかった。
「お前がさ、何を言っても、あいつは心の底から納得はできねえんだよ」
 沢木さんがしんみりした声で言う。