一人になってどれくらい時間が経ったのか、ぼんやり座り込んでいた俺のところへ、よう、と沢木さんがやってきて、隣に並んだ。
「もうそろそろ産まれそうだって、理恵が分娩室に入ってったぞ」
「立会いするんじゃないんですか」
もう産まれるというそのタイミングで、旦那がこんなところに来ていていいのだろうか。
「俺はそのつもりだったんだけど、理恵が絶対入って来るなって。同僚で立会いしたやつの話を聞いたら、壮絶すぎてそれ以降奥さんを女として見れなくなっちまったんだと。そんなのは嫌だって言われた」
「あいつ、意外と沢木さんに惚れてますよね」
意外ってなんだ、意外って、と沢木さんが笑った。
「お前、分娩室の前にいたことあるか」
「あるわけないです」
「中の声、すげえ聞こえるぞ。中で立ち会わなくても十分壮絶。てことで付き合え」
俺とおじさんが何を話していたのかなんて、沢木さんは何も聞かなかった。きっと情けない顔をしているだろう、その理由も、何も。
早く来い、と腕を引っ張られて、分娩室の前に連れてこられる。おばさんは中で立ち会っているそうで、おじさんはどこにもいない。沢木さんに尋ねると、落ち着かないから産まれたら連絡しろ、と言って出て行ってしまったらしい。
分娩中のランプがついていて、本当に中の声が結構聞こえる。看護師の声に混ざって、うーだのあーだの、普段の理恵から想像できないうめき声が聞こえてきた。あいつは絶対、そういう姿を見られたくないタイプだと思う。
男二人で並んで、特に何ができるわけでもなくじっと座っていた。声を聞きながら、手元に視線を落として祈る。……どうか無事に、産まれてきますように。「女ってすげえよな」
沢木さんがポツリと言った。
「男よりもずっと強い」
確かにな、と思った。俺が知っている女性はみんな強い。理恵も、リサちゃんも、ようちゃんも美咲ちゃんも、きちんと自分の道を見つめて歩いていて、いつまでもグズグズ立ち止まっている俺とは大違いだった。自分の命を懸けて新たな命を繋ぐ、そんな大事業をちゃんとやり抜けるように、もともと強く作られているのかもしれない。
真っ直ぐな強さを、思い浮かべる。柔らかでいて、決してブレることのない、どこまでも真っ直ぐな強さを。
もうすぐ産まれそうだ、と言っていた割には時間がかかっていて、不安が募っていく。沢木さんも珍しく眉間にシワを寄せて、じっと目を閉じていた。
大丈夫なんだろうかと、嫌な予感に駆られた時、扉の向こうがにわかに騒がしくなった。沢木さんと同時に顔を上げて、扉の方をすがるように見る。その瞬間、赤ん坊の泣き声がこちらにもわかるくらい大きく響き渡った。
見ていてわかるくらいはっきりと、沢木さんの肩から力が抜けた。俺も知らないうちに手を握りこんでいて、開くとじっとりと汗をかいていた。
はあー、と長く息を吐いて、沢木さんが背もたれに倒れこむ。
「おめでとうございます」
「おー。長かったな、おい」
気が抜けたように呟いたその顔がなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。沢木さんもつられるように笑い出して、役立たずの男二人で、理恵の健闘を称え合う。
看護師が出てきて、しばらくしたら理恵と子供にも会えると教えてくれた。俺は子供が無事産まれたらすぐ帰ろうと思っていたけれど、沢木さんに引き止められた。
「お前、ここまでいてまさか理恵に会わずに帰る気じゃねえだろうな?」
「でも俺、家族でもなんでもないですし」
病院の規則的にもどうなのかと思ったけど、沢木さんは頓着しない。
「理恵が家族だって言ったら家族なんだよ。ちゃんと赤ん坊の顔を見てけ」
そう言って沢木さんがおじさんに電話を掛けに行き、しばらく一人で取り残される。
さっきの沢木さんと同じように脱力して椅子にもたれかかり、しばらくそのままでぼんやり宙を見つめた。
理恵の子供か、と思う。遺伝子的には優衣の子供と変わらない。どんな風に成長していくのだろうか、とふと思って、気が早すぎるかと笑う。
ーーあの時失った子供とは、全く違う子だ。
沢木さんが戻ってくるのにちょうど合わせるように、看護師が呼びに来た。中に入っていく沢木さんの後ろで、やはり部外者の俺は、本当に入っていっていいのだろうかと迷う。
部屋の前で立ち止まった俺を、看護師が不思議そうに見る。
「入らないんですか?」
「いや、やっぱり俺は……」
遠慮しときます、と言って離れようとする俺の手を、中から呆れ顔で戻ってきた沢木さんに掴まれた。
「往生際が悪いぞお前。理恵が呼んでる」
そのまま部屋の中に引っ張り込まれる。中には赤ん坊と並んで横たわっている理恵と、その後ろでその顔を覗き込んでいるおばさんの姿があった。
俺の手を離して理恵に近づいた沢木さんが、見たこともない優しい顔で、理恵の頭をそっと撫でた。
「よく頑張ったな」
理恵はふふ、と心から幸せそうな笑みを浮かべた。
優衣と同じ顔をした理恵が、赤ん坊を見て笑っている。その隣に立って穏やかに見守っているのは、当然だけど俺じゃなくて。
十年前、広がっているはずだった光景が、そこにはあった。でも、実現しなかった、優衣とともに失われた光景。
ああ、優衣はいないんだ、と何故だか唐突に納得した。十年前に、もうとっくの昔に、優衣も子供もいなくなったのだと。今まで何度も理解したと思い込んでいたことを、今になってちゃんと納得できた気がする。
優衣の笑顔が、声が、ぬくもりが、蘇る。一緒に過ごした時間が、些細な出来事が、その時の愛おしい感情とともに溢れ出すのに、同時にそれが、もう二度と触れられないものだと実感する。
そして、俺は初めて、悲しい、と思った。
……十年経ってやっと。
これが、悼む、ということだろうか。
いつの間にか、涙がこぼれ落ちていた。ずっと忘れていた温かさが、次々と頬を伝っていく。
何かを失ったぽっかりとした空白感なら、ずっと味わってきた。でもそれはどちらかというと、肉体的な痛みに似た感情で、今感じている、優衣を想って、二人で過ごした時間を惜しみ、悲しむと思う気持ちじゃなかった。
悼む、という行為自体を、自分自身で禁じていたような気がする。嘆いて、悲しむことなんて、自分には許されない、許してはいけないと、無意識に。
それが今やっと、許されたい、と思った。自分で自分を、許したい、と思えた。
勝手に流れ続ける涙の粒は、自分の意思とは無関係に、どうしても止まってくれなかった。どうしようもなくて、ただひたすらに手の甲で拭い続ける。
いつの間にか、三人が俺を見ていた。驚きも哀れみもなく、ただ優しさだけを浮かべて。
理恵が慈愛に満ちた表情で言った。
「ねえ、今、一番誰に会いたい?」
理恵の言葉に、咄嗟に浮かんだのはあの真っ直ぐな目で。
彼女の想いに、まだちゃんと向き合っていない。自分の想いを、まだちゃんと伝えていない。
悲しむことができて、初めて前に進めるのだと、ようやくわかった。
今なら、彼女の真っ直ぐな目を、見返すことができる気がする。
日南子ちゃんに、会いたい。
「行ってくる」
三人に見守られながら、踵を返して勢いよく走り出す。部屋を出るとちょうど戻ってきたおじさんにぶつかりそうになった。たたらを踏んでぎりぎりで止まると、驚いたおじさんが言った。
「帰るのか」
「はい」
「今度家に遊びに来なさい。優衣が待ってる」
優衣が死んでから一度も、手を合わせに行っていないことに後ろめたい思いがあった。それでも今までどうしても足を運ぶことができなかった。
でもきっと、これからは大丈夫。
「……はい」
深々と一礼してまた走り出す。おじさんが、笑って見送ってくれている気がした。
◇
打ち上げやるよ、とリサさんから連絡が来た。金曜日の七時集合、朝まで騒ぐからそのつもりで、と絵文字たっぷりのメールが来て、リサさんの浮かれぶりがよく伝わる。
了解の返事を、私には珍しくこちらも絵文字付きで返して、もう一通、今度は別の人に当てたメールを打つ。
『金曜日、打ち上げの前に、少し話せないかな?』
潤平くんに、きちんと気持ちを伝えなきゃ。彼のあの優しい目は、私ではなくてほかの子に向けられるべきだと思うから。
潤平くんからの返事はすぐに来た。
『六時に、バス停の前のコーヒーショップで待ってる』
当日、少し早目に店に着いた私は、入口からすぐ目に着く場所に席を取った。ガラスの向こうに行き交う人の波を見ながら、ぼんやりとコーヒーを啜る。
もうすぐ春だな、と思った。まだまだ風は冷たいけど、だんだん日が長くなってきている。歩いている人の服装も、明るい色が増えて、なんだかみんな足取りが軽くなっている気がする。
新しい生活が始まる季節だ。そして、いろんなものに終わりを告げる季節。
この一年、いろいろあったな、としみじみ思う。違う世界を覗くことができて、そこでいろんな人に出会って、きっと前の自分より強くなった。
私を変えてくれた人のことを、思い浮かべる。想いの形は変わっても、きっとずっと、大切な人であり続けるんだろう。この恋がどんな決着を迎えようと、私を強くしてくれた事実は変わらないから。
潤平くんが窓の外を歩いてくる姿が見えた。私に気付いたので手を振ると、小さく振り返してくれる。店内に入ってきて、自分の分の飲み物を買って、私の前に座った。
「元気にしてた?」
「うん。潤平くんは?」
「俺も相変わらずだよ。バイトと家の往復」
そう笑って言うと、少し顔を引き締めた。
「話したいことって、なに?」
いつもと変わらない余裕の中に、少しだけ緊張感が滲んでいる。
私はどう切り出そうか、ちょっとだけ迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
「あれからいっぱい考えたんだ、自分がどうしたいのか。初めは考えないように、って意識してたんだけど、私には無理だったから。じゃあ逆にとことん考えよう、って思って、考えて考えて、やっぱりわかった。私は桐原さんのことが好き。この気持ちは、簡単には消えないって」
潤平くんは私を見つめながら黙って聞いている。
「もしかしたらいつか、その気持ちも薄らいで、また違う人を好きになるのかもしれないけど。そんなのいつになるかわからないし」
「ちゃんと待つ、って言ったよ? 俺」
私の言葉を遮って、潤平くんが強い口調で言った。
「ヒナが違う人のこと考えようと思えるまで、いつまでも待つよ」
「本当にいつになるかわからないんだよ?」
「それでもいいよ」
きっぱりとした言い方に、一瞬心が揺れた。でも私は、そうやって違う人を見ている人を想い続けることが、どんなに辛いか知っている。
私も最初は、どれだけでも待てるって思ったはずだったのにな。今はこんなにも苦しい。
「私が嫌なんだよ」
自分が言われて辛かった言葉を、今自分が言おうとしている。
「もう、待たないで欲しい」
どうか私とは違う子と、幸せになって。
あの時そう言った桐原さんも、同じように思っていたのだろうか。だとしたら彼も苦しかったのかもしれないと、今ようやくわかった。
「俺が待ってたら、ヒナは辛い?」
「少し辛い、かな」
「そっか」
わかった、と小さく呟いた。
「じゃあ、頑張って忘れるようにする」
そう答える潤平くんの声のほうがよほど辛そうで、途端に彼を傷つけてしまった後悔に襲われる。
「別に、無理やり気持ちを曲げようとしなくてもいいと思うんだよ。でも、私に囚われたりはしないで欲しい。時間が経って、他の人のことも見えてきて、それで自然に別の誰かを好きになれたら、それが一番なんじゃないかなって」
途中から自分に言い聞かせるみたいになってきて、我に返る。潤平くんを見ると、少しおかしそうに笑っていた。
「似てるな、俺たち」
一方通行の想いを、同じように抱えている。それを今、同じように変えようとしているわけで。
潤平くんがくすくす笑っていて、私もなんだかおかしくなって、二人で一緒に声を出して笑った。
「じゃあ、競争しよう。俺が別の誰かを好きなるのが早いか、ヒナが俺を好きになるのが早いか」
「私の相手は潤平くん一択なの?」
「当たり前じゃん。俺以上にいい男なかなかいないって」
「何その自信」
でも本当にそう思う。こんないい人、そうそういない。
いつかもし、自然と潤平くんに気持ちが傾くなら、それもありだと思う。その時に潤平くんが違う人を好きになっていたら、またそれも仕方ない。何にも縛られずに、心が感じるままに誰かを想うことができれば、それで十分幸せだ。
いつか桐原さんも、優衣さん以外の誰かを、そんな風に自由に愛せることができたらいいな。潤平くんと笑い合いながら、心の中でそんなことを思った。
七時少し前に待ち合わせ場所に着くと、リサさんと西さん以外の四人が既に集まっていた。
潤平くんと二人で現れた私を見て、愛香が意外そうに目を見張る。それでもなにも言わず、代わりに隣の保志さんがおもしろそうに口を開いた。
「もしかして、そういうことになった?」
潤平くんが笑って否定した。
「違いますよ。同盟組んだんです。片思い同盟」
「なにそれ?」
「お互い違う相手を好きになれるように、応援し合おうって」
それを聞いて、保志さんが器用に片眉を上げて見せる。
「潤平くんがヒナちゃんを忘れられるように、ヒナちゃんが応援するの?」
「そうです」
「うんまあ、よくわかんないけど、二人ともすっきりした顔してるからよかった」
保志さんがにっこり笑った。僕のお姫様のご機嫌もこれで落ち着くかな、と愛香を見て、照れた愛香に叩かれている。周りのみんなも笑っていて、あの日気まずかった雰囲気は、もう残っていなかった。
信号の向こうにリサさんと西さんの姿が見えて、みんなで手を振る。信号が青に変わって、リサさんが元気に走ってきた。
「お疲れ~! ってみんな、なんか楽しそーだね!」
なになにー、とはしゃぐリサさんに、潤平くんが聞いた。
「俺たちよりリサさんの方が楽しそうですよ。なんかあったんですか?」
「あ、あのねえ、今圭太と手伝ってきたんだけど……」
言いながら腕時計を見る。
「あと十秒……五、四、三、二、一!」
リサさんの掛け声に合わせるように、信号の向こうの公園が一斉にライトアップされた。
「わあ、光った」
「なんかイベントですか?」
そうなんだよ、とリサさんの後ろからゆっくり歩いてきた西さんが言う。
「ショーの時に映像を作ってくれた工大生がライトアップのイベントするっていうから、設営だけ手伝ってきたんだ。梨沙はほとんど喋ってただけだけど」
横目でリサさんを睨む西さんの視線は気にならないようで、リサさんが元気に言った。
「じゃあみんな揃ったことだし。れっつごー!」
またもや宇野さん行きつけのこじんまりとしたカフェバーで、私たちは思い切り食べて、飲んだ。みんないつもよりピッチが早くて、いつも以上にはしゃいでいた。早々にハイテンションになっていたリサさんは、全員に抱きつきまくって西さんと宇野さんに止められて、今は保志さんに絡んで、愛香とのことを根掘り葉掘り聞いている。
「ねえねえ、どーやって愛香ちゃん落としたのぉ?」
「誠心誠意気持ちをお伝えしたまでです」
「えー、ほっしーに誠意なんてあるわけないじゃーん」
相当酔っていそうだけど、愛香には絡んでこない辺り、一定の理性は保ってるんだろう。
愛香は見て見ぬふりをして、小川さんと関係のない話を続けている。そんな愛香に、意地悪な声で聞いたのは潤平くん。
「なあ、ショーで抱き寄せられた時に、保志さんになに言われたの?」
そういえば、保志さんがなにか耳元で囁いてたっけ。
「言えません」
「言えないようなことなんだ?」
「違うわよっ」
愛香をからかうように質問を重ね始めた。潤平くんも今日はいつもより飲んでるみたい。
小川さんは前みたいにとろんとした目になっていて、西さんと宇野さんはリサさんの様子を横目で見ながら、二人でデザインについての真面目な話をしていて。
大勢でワイワイするのはあんまり得意じゃなかったけど、ここにいるみんなと騒ぐのは楽しかった。知り合ってからたった半年、しかも数回しかみんなで集まることはなかったけど、会えてよかったとしみじみ思う。もうお別れなんだな、と思うと、すごく寂しくなる。
「どしたの、ヒナちゃん?」
なんだかしんみりしてしまった私に気付いて、リサさんが近づいてきた。
もうリサさんともほとんど会えなくなるんだな。元気で明るくて、いつもさりげなく私を気遣ってくれたリサさん。もっとたくさん話したかったし、出かけたりもしたかった。
読者モデルとしての最初の撮影が、リサさんと一緒で本当によかった。
「ありがとうございます、リサさん。私に出会ってくれて」
突然感謝を伝えたくなって、酔いに任せて言ってみた。リサさんが急にきゅっと鼻に皺を寄せて、むずかる子供みたいな顔をする。
「もー、そういうこと言わないのー。酔ってると涙もろくなっちゃうんだからー」
そう言って抱きついてくるリサさんはもうすでに涙声だった。いつの間にかみんなも私たちの様子に気付いて、笑いながら見ている。
「リサさんのおかげで、みんなにも会えたし。いろんな体験させてもらいました」
「リサもヒナちゃん大好き。こっちこそ出会ってくれてありがと!」
あーもう可愛いなあ、とぎゅうぎゅう抱きしめられて、ちょっと苦しい。
「なんでこんなに可愛いのに、それがわかんない男がいるんだろう」
声色が少し怒ったものに変わった。
「やっぱりリサ、ヒナちゃんにはハッピーになってほしい」
抱きつく腕に力を込めながら、駄々をこねるような口調でリサさんが言った。
「詳しい事情、わかんないけど、ガクさんとラブラブにならなきゃやだ」
「でも私、きっぱりふられちゃったんです」
最初からずっと応援してくれていたリサさんには感謝している。けど結局、私は優衣さんの代わりにはなれなかった。優衣さんを失ったあとの悲しい気持ちを、癒してあげることはできなかったから。
「もう、二人で会うことはないと思います」
困った顔しかできない私の目を、リサさんが覗き込む。
「でもまだ好きなんでしょ? それでいいの?」
「桐原さんの負担にはなりたくないから」
待たないで欲しい、と言われたのだから、待たない。ゆっくり時間をかけて、自然に好きな気持ちが消えていくのを待とう。そう決めた。
「もう、会いません」
読者モデルも辞めようと思っている。理恵さんはきっとわかってくれるだろう。接点をなくして、ずっと会わずにいれば、いつかきっと、悲しい思い出ではなく、楽しかった思い出として思い返せる日が来る。
大丈夫、と笑って見せると、またリサさんが顔をくしゃくしゃにして抱きついてきた。
「ほんといい子なんだからー、もう、ヒナちゃんのばかー」
私の代わりに泣き出したリサさんの頭を撫でながら、私もちょっと涙目になってしまった。でもここで泣いたら止められなくなりそうだから、泣かないように密かに歯を食いしばる。
「ほら、飲むぞ。今日は朝まで騒ぐんだろ」
西さんがそう言って、体を起こしたリサさんにビールの入ったグラスを渡した。
「ヒナも、ほら。潰れたら送っていってあげるから、安心して飲みなさい」
私は愛香に、カクテルのグラスを握らされる。
涙を拭ったリサさんが、よおし、とグラスを高々と掲げた。
「ヒナちゃんの幸せを祈って、本日二度目のかんぱーい!」
かんぱーい、とみんなの声が重なって、改めて、このあたたかな人たちに出会えてよかったと思った。
そのあと、店長さんからの卒業祝い、と大きなホールケーキが出てきて、女子全員で歓声をあげた。みんなで崩して食べて、最後に上に乗ったプレートチョコを誰が食べるかで争奪戦をする。じゃんけん勝ち抜き戦で勝った保志さんが愛香に食べさせようとして、愛香が逃げ回ったせいで粉々に割れて、結局みんなで分け合って食べた。くだらないことで大笑いして、騒ぎ倒す。
「あー、そろそろ野乃花がやばいかも」
西さんの声で小川さんの方を見ると、すでにすうすう寝息を立てていた。
「二次会、ほっしーの家でいいんだよねー?」
朝までとことん飲み明かす、という時は、たいてい保志さんの家になだれ込むらしい。一番広くて立地がいいのだそうだ。
「梨沙、今日は暴れるなよ」
「もう物壊すの勘弁ね」
釘を刺すように言われて、リサさんが頬をふくらませている。過去に一体なにを壊したんだろうか。
一旦お開きのムードになって、各々帰り支度を始める。もう席なんて途中からぐちゃぐちゃになっていて、荷物も適当に置きっぱなし。私もお財布を出そうとカバンの中を探って、携帯がないことに気が付いた。途中まで持ってたはずだけど、どこに置いたっけ?
きょろきょろ見渡すと、リサさんの前に放置されているのが見えた。
「あ、携帯ヒナちゃんのー? さっき長いこと鳴ってたよ」
電話なんか滅多にかかってこないのに、誰からだろう。はい、とリサさんに渡されて、その場で確認する。着信アリ、一件。
履歴を表示して、固まってしまった。
「ん? どしたの?」
画面を見たまま動かなくなった私を、訝しげにリサさんが見る。ひょい、と画面を覗き込んで、叫んだ。
「ガクさんじゃん!」
表示された桐原さんの文字。
時間を見ると、本当についさっきだ。
「かけ直しなよ。早く!」
リサさんに急かされるけど、私は困惑して手が動かせない。
「だって、なんで?」
もう待たないでと言われて以来、一ヶ月近くなんの連絡もなかったのに、今更何の用事だろう。改めて謝罪でもされるんだろうか。桐原さんならあり得る気がする。