◇

 あの後、ボロボロに泣き崩れる私のそばに、潤平くんは落ち着くまで寄り添ってくれた。
 泣き腫らした顔で戻った私を見ても、誰も何も言わなかった。ただいつも通り明るくはしゃいで出迎えてくれた。
 着替えを済ませるとショーの出演者はあらかた帰っていて、静かになった控室で、みんなに改めて謝罪する。
「せっかくの盛り上がった雰囲気、ぶち壊してごめんなさい」
 頭を下げる私に、なに言ってんのー、とリサさんが明るく言う。
「ヒナちゃんが悪いわけじゃないんだし? 謝られても困っちゃうよ」
「悪いの俺です。すみません」
 頭を下げる潤平くんには、困った顔をむける。
「そうだねえ、潤平くんの謝罪は受け取ったほうがいいのかもねえ」
 他の人たちも、ちょっと困り顔。なんとなく事情はわかってて、あえて何も言わない感じ。
「もしかして僕が火をつけちゃったかな?」
 だったらごめん、と笑う保志さんの言葉に、みんなが一斉に声を上げる。
「そうね、亮介がわけわかんないことしだすから」
「ちょっと暴走しすぎだったよ」
「お前のせいだな」
「ほっしーが全部悪いー」
 集中砲火を浴びても、保志さんは涼しい顔。なんだか愛香のほうが困っていた。
 これからリサさんたちは、展示の方の撤収に移るらしい。それが終わったら、学校のみんなで朝まで夜通し騒ぐそうだ。私たちとはここでお別れ。
「このメンバーでの打ち上げは、後で企画して知らせるから。三人とも、絶対来てよね!」
 明るく言うリサさんとみんなに見送られて、三人で会場をあとにする。
 しばらく無言で歩いて会場の敷地内を出たところで、愛香が口を開いた。
「で? 何があったのか、聞いてもいいの?」
 舞台から降りて一目散に駐車場に向かった私と、それを追いかけてくる潤平くんを、愛香が心配そうに見ていたのは知っていた。あえて追いかけてこなかったことも。
 とにかくあの時、桐原さんに誤解だって伝えなきゃ、って、そのことしか頭になかった。舞台上から彼が足早に出口に向かっていく姿が見えて、焦る気持ちばかりが募った。待って、お願い話を聞いて。
 どこに行くのか分からなかったから、とりあえず待ち伏せしようと駐車場に向かった。だから、追いかけてきた潤平くんに構ってる余裕なんてなくて、足止めされることにイラついた。
 でも今は、潤平くんの言う通りにおとなしく戻っておけばよかった、と思う。あんなに興奮した状態じゃなくて、もっと冷静に話をしたかった。あんなふうに一方的に責めるようなこと、言いたくなかったのに。
 俯いて何も言わない私に焦れて、愛香が潤平くんを睨む。
「潤平?」
 潤平くんはその視線を無視して、私に言った。
「突然あんなことしてごめん。ヒナを混乱させたことは謝る。でも俺、やってよかったと思ってるから」
 潤平くんが屈みこんで私の顔を覗いてくる。私は目を合わせたくなくて、横を向いて唇を噛んだ。
「ヒナだって、あの人の気持ち、はっきりわかっただろ?」
 また涙が滲み出す。
 もう待たないで、とはっきり告げる声。
「もうやめなよ、あの人のこと考えるの。ヒナの中で整理がつくの、俺はちゃんと待ってるから」
 それだけ言って、潤平くんは一人足早に去っていいった。
 私は溢れてくる涙を止められなくて、いつの間にかしゃくりあげていた。
 愛香が肩に回してくれた手を握りしめて、そのまま大声を上げて泣いた。

 その日からずっと、私は抜け殻みたいになってしまった。愛香も無理に慰めようとはせずに、私が黙り込む時は一緒に黙ってそばにいてくれて、親友の有り難さが身にしみた。
 潤平くんに言われた通り、もう桐原さんのことを考えるのはやめよう、と思うのだけど、ふとした拍子に彼の声や、笑顔や、手の感触が蘇る。雑誌の隅にクレジットされた彼の名前を無意識に探している自分がいて、その度に、辛さと一緒に恋しい気持ちが湧き上がる。
 その日は、愛香が気晴らしに出掛けようと誘ってくれて、一緒に街に買い物をしていた。あまり気乗りしないまま服を眺めていると、店員さんに話しかけられた。
「あの。もしかして、イノセントの広告の方じゃないですか?」
「そうですけど……」
 大学の友達ならいざ知らず、見知らぬ人にこんなふうに声をかけられたのは初めてだ。戸惑いながら肯定すると、その店員さんはやっぱり、と笑顔を浮かべる。
「あの広告、すっごくキレイでした。私、今度結婚するんですけど、あの広告を見て、結婚指輪をイノセントで作りたいって思ったんです」
 そう語る店員さんの顔は、結婚が決まったという言葉通り、幸せいっぱい、という感じのキラキラしたオーラが漂っていた。今の私には少し眩しい。
「すごく優しい気持ちになれる笑顔で、見てたらなんだか彼に会いたくなったんです。実は少しマリッジブルー入ってたんですけど、結婚するのが楽しみになりました。やっぱりプロのモデルさんはすごいですね」
 これからも頑張ってください、と応援の言葉までもらってしまった。プロのモデルではないと慌てて誤解を解こうとしたけれど、その前に他のお客さんに呼ばれて行ってしまった。
 仕方なく誤解させたまま店を出ると、愛香が真面目な顔で言った。
「私も見たけど、あの広告。あの人が言ってたこと、よくわかる気がする」
 実を言うと、私は出来上がった広告を見てはいなかった。完成してすぐ郵送で送ってきてくれてあったけど、結局見られないまましまってある。あの時の幸せな気持ちが詰まった写真を見るのは、今の私にとっては苦行だった。
「すごくキレイだったよ、あの広告のヒナ。見てないなんてもったいない。まだ、見るの辛い?」
 見てみたい気もする。でも、見たらまた泣いちゃうような気もする。どちらとも言えなくて、曖昧に首を振る私の手を、愛香が掴んだ。
「知ってる? まだオープンしてないけど、店舗の前にあの写真が大きく飾ってあるの。行こう」
 そのまま少し強引に、愛香に手を引っ張られて歩き出す。ここからイノセントの店舗まで、歩いて数分の距離。前を通りたくなくて、いつも選ぶのを避けていた道を、愛香に引きずられるように無言のまま進んでいく。雑貨屋さんや洋服屋さんが並ぶ通りの、一番奥に店舗はあった。建物自体はもう完成していて、開店の準備をしているのか店内から明かりが漏れていた。真っ白な外壁の前に、あの広告が大きく引き伸ばして看板のようにかけられている。
 ステンドグラスの天使から柔らかな光が注いでいて、背後にはわざとピントを外したマリア像が、優しく腕を広げていた。そして、その前で微笑む私は、すごくすごく穏やかで、満ち足りた顔をしていた。
 あの時の気持ちが、洪水のように一気に流れ込んできた。目の前の彼のことが好きで好きで仕方なくて、彼が私を見ていることがすごくすごく幸せで、それをどうしても伝えたくて……。
 また涙が溢れてくる。
 彼に会いたい、会いたくてたまらない。
 例え彼の気持ちが一生私には向かないんだとしても、私が彼を好きだという気持ちは変えられない。
「私、写真のこととかよくわかんないけど、これを見て幸せな気持ちになるのはわかる。それって、ヒナの気持ちだけじゃなくて、撮った人の気持ちも伝わるからじゃないかな」
 手をつないだまま、隣で私と同じように広告を見上げた愛香が言った。
「なんでこんなに大事に思われてるのに、うまくいかないんだろうね」
 愛香の声が、心の奥にゆっくりと響いていく。大事に思われているのは、いったい誰なのか……その答えが、待たないでという言葉なのだとしても。
「好きなの」
「うん」
 愛香が静かに、私の声に頷いてくれる。
「他の人のことなんて、考えられない」
「うん」
 潤平くんが本気で私を大切に思ってくれているのは、痛いほどわかる。それでも、私にはその気持ちを受け入れることができない。
「会いたい……」
 この身を切られるような痛みが、癒える日なんてくるのだろうか。彼のことを思って、悲しみではなく幸せだった記憶を思い出せる日が、いつか。
 泣きながら、ずっと微笑む自分の姿を見ていた。隣に立つ愛香の手に、私を励ますようにぎゅっと力がこもったのが、わかった。


 ◆

 流し続けた涙がようやく止まった後、子供が産まれる前に写真を撮って欲しい、と理恵が言い出した。
「撮ってよ。予定日までまだ二週間あるし、ちょっとくらい時間あるでしょ?」
 正直何を言い出すのかと思った。目の前にカメラマンの旦那がいるのに。
「沢木さんに撮ってもらえばいいだろ」
「嫌よ、恥ずかしいじゃない」
 旦那に撮られるのは恥ずかしいのに、俺に撮られるのは恥ずかしくないのだろうか。こいつの感覚はよくわからない。
「優衣のこと、撮ってあげたの?」
「妊娠してからは撮ってない」
「じゃあ、その代わりよ」
 いいわよね、と理恵が隣の沢木さんを窺うと、好きにしろ、と苦笑いで返している。
「なんなら遼一さんも映る?」
「それだけは勘弁してくれ」
 本気で嫌そうに顔をしかめている。写真を仕事にする人間が、他の同業者、しかもよく知っている人間に撮影されるなんて、拷問以外の何者でもない。
 強引に約束を取り付けられて、一週間後に俺が撮ることになった。当然沢木さんのスタジオで撮るのかと思っていたら、また理恵が突拍子もないことを言い出した。
「ねえ、優衣との思い出の場所とかないの?」
「思い出の場所?」
「そう。よく行った場所とか、写真撮った場所とか」
 思い出の場所、と言われて、真っ先に思い出すのは、初めて話をしたあの川沿いだった。「お前んちの近くの川沿い」
「じゃあそこで撮りましょ」
「はあ?」
 なんで俺と優衣の思い出の場所で、理恵の写真を撮らなければいけないのか。
 不満顔の俺に、理恵がムッとした顔を返した。
「なによ、別にいいじゃない。優衣が見に来てくれるかもしれないし」
 強気な言葉の後で、小さく付け足した言葉が、なんだか胸に突き刺さる。理恵と優衣はすごく仲のいい姉妹だったし、思うところもあるのかもしれない。
「わかったよ」
 あまり気は乗らなかったけど、理恵の頼みなら聞くしかない。いかにも渋々、といった俺の返事に、理恵ではなく沢木さんが、頼んだ、と笑いながら言った。
 理恵と約束した日は、有難いことに朝からきれいに晴れていた。午前中に仕事を終えてすぐに理恵に連絡すると、実家まで迎えに来い、と言う。どうやら前の晩から実家に泊まっていたらしい。
「ご両親は?」
『いないわよ。今日は二人で出かけてて、夜まで戻ってこない』
 理恵の実家、と聞いて思わず怯んだ俺に、当たり前のように理恵が答える。
 あの時、二度と理恵には会うな、と言われていたのに、今では一緒に仕事をしていることを、理恵のお父さんはどう思っているんだろう。ニューヨークから帰って来る時は、理恵が雑誌の編集になっていたなんて知らなかった。
 複雑な思いを抱えながら、理恵の実家へと向かう。近くを通ることはあるけれど、家まで行くのは十年ぶりだった。
 理恵は俺が着く前から外に出て待っていて、俺の車を見つけると手を振った。寄せて止めると、遅い、と文句をつけながら助手席の扉を開ける。
「だったら一人で行ってればいいだろ」
「臨月の妊婦に無理させるわけ? もっと労わりなさいよ」
 無理もなにも、散歩程度の距離しかない。そもそも外で撮ろうと言いだしたのはお前だろうが、と口には出さず心の中で呟いた。
 花見や散歩に来る人のための駐車場があり、そこに車を止めて、理恵と二人で河川敷に降りる。
 短い階段を降りる理恵に手を貸そうと差し出した時、ここで転びそうになっていた日南子ちゃんの姿が重なった。
 彼女に会ってから、もう一年が経つんだな、と改めて思った。あの時は、ただ優衣に雰囲気が似ているだけで、こんなに深く心のなかに入り込んでくるなんて予想もつかなかった。誰かと関わるということは、自分ではコントロールできないことの連続なんだと強く思う。
「転ぶなよ」
「わかってるわよ」
 慎重に階段を降りる理恵を見守ってから、河川敷を見渡した。桜のシーズンには早く、まだ人も少なく閑散としていた。
「どこで撮りたい?」
 理恵に聞くと、反対に聞き返された。
「どこがいいと思う?」
 もう一度周りを見渡しながら、記憶を遡る。あの日、東京で二人で暮らすために優衣を迎えにきて、寄り道した日のことを。
 桜が咲いたら三人で来ようと、ここでキレイに撮ってね、と笑いながら話す優衣の言葉を、叶えてあげることはできなかったけど。
 あの日優衣が立っていた場所に、理恵を導く。おとなしく従った理恵は、楽しそうに言った。
「ここ、どんな思い出があるの?」
 カメラを向けながら理恵の問いに答える。
「二人で東京に戻る時に寄り道したんだ。優衣に写真撮ってって言われたんだけど、カメラを持ってなくて。そしたら、子供と三人でまた来よう、その時に撮って、って」
 膨らんだお腹に手を当てながら、理恵が愛しげに目を細める。
「ふーん。じゃあ、やっぱり優衣の代わりね。私で約束守れたじゃない」
 ゆっくりと歩き出した理恵の姿に、あの頃の優衣が重なる。シャッターを切りながら、記憶の中の優衣が蘇ってくる。
「あの頃、すごくきれいだったわよね、優衣」
 川面に反射する光が、理恵の周りをキラキラ彩る。
「今のお前も、同じような顔してるよ」
「そお? ありがと」
 自分の体の中に愛するものが宿っている感覚は、男の俺には一生わからないけれど、子供を宿した女性はみんな似たような雰囲気を持っていると思う。強さと優しさを兼ね備えた、凛としているのに柔らかな、美しさ。
「私今、すっごく幸せなの」
 歩みを止めた理恵が、俺を振り返って微笑む。
「だから、あの時の優衣が今の私と同じ顔をしてたんだったら、あの子の気持ち、すごく良くわかる」
 微笑んだ顔が少し歪んで、泣くのをこらえるような表情になった。
「優衣もすっごく幸せだったんだと思うわ」
 理恵の目が柔らかな光を宿して、俺を見ていた。
 ーーそれを、伝えたかったのか。
 あの時の優衣と同じ立場だからこそ、わかること。それを俺に伝えるために、強引にこんなところに連れ出したのだと、やっとわかった。
「そうかな」
「そうよ。絶対。幸せじゃなかったら、あんなきれいな笑顔、できっこないわ」
 思い返せば、記憶の中の優衣は最後まで笑っていた。死に顔でさえ穏やかで、今にも微笑みだしそうで。
「あなたといて、幸せだったのよ、優衣は」
 まるで子供に言い聞かせるように、理恵は同じことを繰り返した。心の中にかけられた鍵を、一つずつ外していくかのように。
「ありがとう」
 俺の言葉に、理恵がふわりと微笑んだ。
 それからしばらく優衣の思い出を話しながら写真を撮って、そろそろ帰ろう、と車に戻った時だった。扉を開けようとした理恵が、いきなり止まる。
「どうした?」
 何気なく聞いた俺に理恵が言った。
「破水した? かも」
 一拍置いて言葉の意味を理解した。
「はあああ?」
「とりあえず後ろで寝ていい? あ、タオルか何かある?」
 至って冷静な理恵の言葉に、慌てて後部座席を空ける。ちょうどよく転がっていたタオルケットを見つけて手渡した。
 ありがと、と受け取った理恵がそれを腰に巻いて、一人でさっさと後部座席に寝転ぶ。
「え、どうすればいいわけ?」
「一応病院向かってくれる?」
 どう動けばいいかなんてわかるはずもなく、とにかく理恵に言われるがまま告げられた病院へ向かった。
「こういうのって痛かったりするんじゃないのか?」
 運転しながら後ろの理恵の様子を窺う。出産前ってものすごく痛がってるイメージがあるけれど、理恵は見た感じ普通に寝ているだけだ。
「陣痛の前に破水しちゃうこともあるらしいんだけど。なんか痛くなってきたような気もする……」
「おい、大丈夫なんだよな?」
「うーん、多分?」
 にわかに焦りだす俺とは対照的に、理恵の声はのんびりしていた。
「なんでお前そんな冷静なんだよ?」
「だって焦ったって仕方ないじゃない。そっちこそもっと落ち着きなさいよ」
 妊婦っていうのはこういうものなのか、それとも理恵が異常に冷静なのかよくわからないけど、俺にはこの状況で落ち着いていられるような胆力はない。
「なあ、沢木さんとか、ご両親に連絡しなくていいのか?」
「うーん、そうよねえ」
 呑気にそう言って、理恵がカバンから携帯を取り出してかけ始めた。少しの沈黙があって、理恵が話しだす。
「あ、お母さん? ……うん、なんか、破水したような気がするのよね。……うん。……うん。大丈夫。とりあえず病院行くから。……うん、わかったわよ、じゃあね」
 なにを言ってるかまではわからなかったけど、電話の向こうの声は慌てているようだった。それと対照的に、理恵はあっさりと電話を切ってしまう。それでいいのか?
 当然次に沢木さんに電話するのかと思ったら、理恵はそのまま動こうとしない。
「おい、沢木さんは?」
 俺の催促に、理恵がまたうーん、と唸る。
「ねえ、ガク」
「なに?」
「これって本当に破水なのかしら?」
「俺に聞くなよ」
「だって違ってたら、呼び出したりして申し訳ないじゃない。遼一さん仕事中なのに」
「お前バカか? すぐに産まれたらどうするんだよ?」
「バカじゃないわよ、そんなすぐに産まれないわ」
 もうこいつの落ち着き加減に俺がついて行けなかった。焦って事故にあったりしたら最悪だ、と話すのをやめて運転に集中する。
 もうすぐ病院、という時に、また後ろの理恵が話しかけてきた。
「ねえ、ガク?」
「なんだよ?」
「すっごい痛い気がするんだけど……」
「もうちょっとで病院だから我慢してくれ!」
 とりあえず無事に病院について、理恵が自力で受付に行ってくれて、その先は迎えに来た看護師に託す。
 空いていた待合室の椅子に腰を降ろして、長いため息を吐き出す。なんかすごい疲れた。
 無事に病院までたどり着いたことで若干心に余裕が生まれて、なんとなく周りを見渡すと、先に待合室にいた妊婦とその旦那らしき人が、俺を心配そうに見ていた。産婦人科なんて初めて来たけど、検診に付き添ってくる旦那もいるんだな。優衣の時も、一回くらい一緒に行ってやればよかったかな、と少し後悔する。
 理恵は看護師に連れて行かれたまま、どうやら診察を受けているようだった。これは今から出産する、ってことでいいのか? だったら沢木さんに連絡したほうがいいんじゃ?
 理恵に確認を取ってからの方がいいか一瞬迷ったけど、またよくわからない遠慮をしそうな気がして、俺の独断で連絡することにした。一度外に出て、電話をかける。
 沢木さんはすぐに出てくれて、のんきな声でおう、どうした、と問いかけた。
「理恵が、破水?したみたいで。多分、今からお産、始まります」
『え、マジで!?』
 さすがの沢木さんも慌てた様子で、なるべく早く向かうから、と言ってバタバタと電話を切った。この様子なら、産まれる前には病院に到着してくれるだろう。
 建物の中に戻ると、俺を探していたらしい看護師に呼び止められる。
「ご主人さまですか?」
「いえ、ただの付き添いです。旦那には連絡したのですぐ来ると思います」
「そうですか。もう陣痛もきてるし、順調にいけば今日中に産まれてくれるかもしれませんね」
 さらっと言われたそのセリフに驚いた。病院に来たら即出産、というわけではないらしい。今日中って、まだ昼の三時だぞ?
 陣痛室、と書いた部屋に案内されると、いつの間にか着替えて点滴に繋げられた理恵が寝ていた。ベッドの横の椅子に座ると、見た目には特に痛がっていなさそうな様子で俺を見上げる。
「あら、まだいたの?」
 なんて冷たい言い草だ、と思う。
「お前一人置いて帰れないだろ」
 ふてくされたように言う俺に、ごめんごめん、と理恵が笑った。
「本当は帰りたいんでしょうけど、正直一人は心細かったから、いてくれて助かるわ」
「沢木さんが来るまではいてやるよ」
 俺に気を遣わせないようにと思ったんだろうけど、本音は誰でもいいからいて欲しいんだろう。俺の言葉に、少しほっとしたようだった。
「なんかあんまり痛そうに見えないんだけど」
「ずっと痛いわけじゃなくて、間隔を置いて痛くなるんだけど……あー、また来た」
 理恵が顔を歪めて、低い声で唸る。体を起こそうとするので手を貸すと、ありがと、と素直に体を委ねてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫……じゃない……」
 さっき看護師がしていたように背中をさすってやると、少し楽なのか息を吐いて目を細める。しばらくそうしていると落ち着いたのか、喉が渇いたというので、カバンの中からペットボトルを出して渡してやる。
 それからはずっとそんな感じで、時間を置いて呻き続ける理恵をひたすら励ましていた。どんどん痛みが強くなっていくようで、汗を滲ませて苦しむ理恵を、ただ見ているしかできない。こういう時に男なんて役立たずだと、つくづく思う。
 沢木さんはまだ来ない。理恵が検査に連れて行かれた時に電話してみたけれど、全く繋がらなかった。少し時間を気にし始めた俺に、痛みが落ち着いているらしい理恵が言った。
「もういいわよ、帰って。私なら一人で大丈夫」
「いや、でも」
 こんな状態の理恵を一人残していくなんてできない。さっきよりも苦しそうだし、帰ってからも気になって仕方がないと思う。
 だけど。
「そろそろお母さんたち来ちゃうから」
 理恵が笑ってみせる。俺の考えてることなんてお見通しなんだろう。
 二人で出かけたと言っていたから、きっとお父さんも来るだろう。正直、顔を合わせる勇気はなかった。
 ついていてやりたい気持ちと、この場を立ち去りたい気持ちに挟まれて迷っていると、また理恵が苦しみ出す。
「痛……」
 思い切り眉間に皺を寄せて、浅い呼吸を繰り返す。また痛みが強くなったようで、汗が浮かぶ額を、タオルで拭ってやる。だめだ、やっぱり置いていけない。
 沢木さんはいったい何してるんだ、とイライラしながら、視線がドアに向かう。すると、俺の苛立ちが伝わったのか、ドアが開いて沢木さんの大きな影が見えた。
 やっと来た。
 安心して理恵と顔を見合わせる。理恵もほっとしたように少し笑みを浮かべて、俺に頷いた。遅いと文句の一つでも言ってやろう、と立ち上がりかけると、俺の姿に気づいた沢木さんが、マズイ、と険しい表情をする。
 なんだ……?
 そんな顔をされる理由がわからず不思議に思った瞬間、その理由が沢木さんの影から現れた。
 理恵のお父さんが、沢木さんの後ろに立っていた。