教会の中に戻ると、さっきまで広がっていた機材がほとんどなくなっていた。不思議に思うと、桐原さんが私の疑問を見透かしたように言う。
「いろいろこだわってみたんだけど、なんかイマイチで。最低限の光量だけにしました」
 本当は日光が差してくれると助かるんだけど、とステンドグラス越しに空を仰ぐ。ぱた、ぱた、と雨が当たる音が聞こえ始めていた。どうやら本格的に降り始めたらしい。
 あっという間に音が大きくなる。今まで溜まっていた雨が、一斉に降り出した感じだ。
 あー、降ってきちゃいましたねー、と呟く吉川さんに向かって、桐原さんが言った。
「お前、もうここいいし、外で晴れ乞いでもしてこいよ」
「はあ? 晴れ乞いってどうしたらいいんですか?」
「そんなの知るか、自分で考えろ」
「うわ、そういうのムチャぶりって言うんすよ」
 二人のやり取りに、鈴木さんがごく真面目な顔で口を挟んだ。
「踊ったり歌ったりしてみたらどうですか? 神話の世界ではそうやって太陽を誘い出したそうですよ」
「だってさ。よし、踊れ」
「嫌っすよ」
「一説にはストリップまがいだったそうです」
「じゃあ脱げ」
 本当に服を脱がそうと手を伸ばす桐原さんから吉川さんが必死で逃げる。
「やめてくださいよ、凍え死ぬっ」
「貧相な裸なんて見たくなーい」
「その言い方ひどいっす」
 容子さんの言葉に、桐原さんともみ合いながら吉川さんが情けない声を出す。私が耐え切れずに吹き出すと、今度は私に顔を向ける。
「道端さんまで笑わないでくださいよ」
「すみません。やめましょう、吉川さんがかわいそう」
 笑いながら謝ると、桐原さんの手を振り切った吉川さんが私の後ろに隠れた。
「道端さんだけっすよ、俺の味方してくれんの……」
「女性の影に隠れるなんて情けない人ですね」
「そーだそーだ! ヒナちゃん、そんなやつ庇わなくていいですよ!」
「容子さんこそもう少し俺に優しくても良くないですか?」
 容子さんと鈴木さんに口々に責められて、小さくなる吉川さんには申し訳ないけれど、笑いが止まらない。
「いつもこんな感じなんですか?」
「そうっすよ。ガクさんとか沢木さんとか、いっつも無茶なことばっかり俺に言うんですから」
 なんだか意外。二人とも大人なイメージなのに、そんな子供っぽいこともするんだ。
「あーあ、もったいない。これで雨があがったら、お前の地位も上がったのになあ」
 桐原さんがわざとらしく言って、吉川さんがそんなのムリっす、と小さく呟いた。
 ほんとに仲いいんだなあ。これで沢木さんとか加わったら、もっと面白そう。
 笑い続ける私を見て、容子さんが慌てて言った。
「ヒナちゃん、笑ってもいいけど、ほどほどに! メイクが崩れちゃう」
「わ、すみません!」
 私も慌てて笑いを引っ込めると、しょうがないなあ、と手早く直してくれた。
「ま、よしりんのせいですからね」
「吉川さん? よしりんって呼ばれてるんですか?」
「そうですよ。かわいいでしょ?」
 まずい、また笑いそう。
「そんな呼び方するの、容子さんくらいですよ」
 吉川さんが情けない顔をする。
「じゃあヒナちゃんもそう呼んであげてください」
「……よしりん?」
「だめ! 道端さんはだめ!」
 そんな吉川さんに笑いながら、容子さんが私のコートを脱がせ、またベールをつけてくれた。
 桐原さんもカメラを手に取って言う。
「じゃあそろそろ再開しようか。よしりん、ストロボ持って」
「ガクさんもだめ! 絶対イヤだ!」
 ほとんど絶叫するように吉川さんが必死で拒否している。
 私もさっきの位置に立って、必死で笑いを引っ込めようと頑張るけど、吉川さんが目に入るとどうしても笑ってしまった。
「す、すみません、吉川さんを見ちゃうとっ」
「ヒナちゃん、完全にツボに入っちゃいましたね」
「吉川~。お前透明人間になれ」
「だからムチャぶりやめてくださいってば」
 なんとか落ち着こうと、ステンドグラスを振り仰ぐ。なんだか天使も笑ってる気がした。
 桐原さんは吉川さんとふざけ合いながら、シャッターを切り続けていた。さっきよりも自然に笑えている自分がわかる。……あ、もしかして、わざとふざけてくれたのかな。いつの間にか、肩に力が入っちゃってたみたい。
 ちら、と吉川さんを見ると、不思議そうに見返してくる。
「ありがとうございます」
「え? は? どうも?」
 お礼を言っても、よくわかってないみたいな返事だった。容子さんや鈴木さんも、その様子を見て笑いを噛み殺している。
 桐原さんは、いつも通りの笑顔。
「じゃあ日南子ちゃん、今度はこっち向いて」
「はい!」
 それからしばらく、時折ポーズを指定されたり、場所を変えたりしながら、撮影を続けていった。容子さんが髪を直してくれたり、鈴木さんがベールの端を持ってくれたり。吉川さんが何かを話すたびに、笑いが起こる。
 たまに、桐原さんがベールのズレとか手の位置を直接直してくれて、私はちょっとどきっとしながら、気にしていないフリを装った。彼の手が触れるたびに、そこに小さな明かりが灯るみたいで、その明かりがゆっくりと体中に広がっていって、私を体の中から照らし出す。
 徐々にステンドグラスを叩く雨の音が小さくなっていき、雨が上がる気配がした。そして、突然差し込んでくる光。
 みんなが手を止めて、頭上を仰ぎ見る。分厚い雲が切れて、ステンドグラスをめがけて光の束が降ってきた。
「キレー……」
 容子さんの声が響く。
 ステンドグラスが本来の色彩を取り戻して、太陽の光を受けてやわらかく輝いていた。その光が、祭壇のマリア像と、私の上にも降り注ぐ。
「日南子ちゃん、こっち」
 桐原さんに促されて、マリア像の前に立つ。
「さっきみたいに、膝ついてもらっていい? 左手あげて、顔もあげたままで。吉川、後ろ回って」
 言われるがまま、膝をついてマリア像を見つめる。さっきと同じ表情のはずなのに、なぜかさっきより喜んでいるように見えた。
 ステンドグラスに描かれた、優しい顔の天使たちが、地上の私たちを慈しむように見守っている。そして、すべてを許す微笑みを浮かべた、聖母マリア。
 とても穏やかな気持ちに包まれる。なにか暖かなものに……そう、お母さんの腕の中に包まれているような、そんな感覚。ほっとする。安心する。
「日南子ちゃん。こっち向いて」
 私を呼ぶ声に促されて、視線を向ける。
 好き。大好き。
 愛しい。幸せ。
 伝えたい。
「うん。ありがとう」
 心の声が伝わったとは思えないけど、穏やかにそう言われて、私は何故か、泣きたくなった。
 

 ◆

「天が味方してくれましたね」
 カメラを片付けている俺の隣にやってきて、鈴木さんがそう言って笑う。
「本当に助かりました。天だけじゃなくて、みんなのおかげです」
 特に吉川には感謝していた。彼女のあの笑顔を引き出せたのは完全にあいつのおかげで、本人になんの自覚もないことがおかしかった。そして、ようちゃんと鈴木さんが、場を和ませてくれたおかげ。
 吉川は、先に片付けてあった機材を車に運んでいる。日南子ちゃんとようちゃんは、スマホを握りしめてきゃあきゃあ言いながら写真を取り合っていた。こんなにきれいに太陽が差し込むのは珍しいから、はしゃぎたくなる気持ちもわかる。
「ヘアメイクもアシスタントも、あなたに人選を任せて正解でしたね。羽田さんもよく彼女のことを理解していましたし」
 休憩を入れる前のあの悲壮な空気を、完全に入れ替えてくれた。あの場をようちゃんに任せて正解だったと思う。
 彼女の緊張をほどくつもりで話していたのに、何があんなに日南子ちゃんを追い詰めた空気にしてしまったのだろう。あんな辛そうな顔をさせるつもりは全くなくて、あの時は本気で焦った。
「運が良かったんです。羽田さんは彼女のために、と思ってお願いしましたけど、吉川はたまたまだったし」
「そういう運の良さも、実力ですよ」
 まさかあんなにきれいに光が差し込んでくるとは思わなかった。しかも、彼女が一番リラックスしていた、あの状況で。
 彼女自身がなにか柔らかい光を発しているような、そんな錯覚に囚われた。マリア像と同じような笑みを浮かべて、光に包まれる姿。
 静謐で神聖。そして、何よりも暖かい。
「嶋中さんも、きっと納得するでしょう」
 自信満々に言い切る鈴木さんに、苦笑いを向ける。
「それは、写真を見てから判断してください」
「見なくてもわかりますが。楽しみに待っています」
 そう言って、はしゃぐ二人のもとへ歩いて行った。
 日南子ちゃんたちが先に帰るのを見送った後、俺と吉川は少し残って機材を撤収する。といっても途中であらかた片付けてあったので、作業はあっという間に終了した。
 教会を出る前に、最後にもう一度、マリア像の前に立った。
 自分の心に残る、たくさんの後悔。吐き出したとしたら、このマリアは全て許してくれるだろうか。
 それでも辛さはきっと無くならずに残るんだろう。例え誰かに許してもらっても、自分のなかで整理がつかない限り、その罪は消えない。
 日南子ちゃんは、あの時、何を懺悔したんだろう。
 深く考え込む前に、しびれを切らした吉川が俺を呼ぶ声が聞こえて、考えるのをやめた。
 それからまた長い道のりを運転して、プロダクション会社にたどり着いた頃には、もう日はとっぷり暮れていた。先に戻っていた鈴木さんと簡単にこの後の予定について打ち合わせる。俺の仕事はデータを使える形にして渡すだけで、その写真を広告として加工していくのは鈴木さんたちの仕事だ。
 話を終えて吉川の待つ車に向かう。俺の事務所に寄ってもらって荷物を降ろし、沢木さんから借りたものは車ごと吉川が持ち帰ってくれることになっていた。長い一日だったな、と思いながら歩いていると、玄関に立っている日南子ちゃんの姿が見えた。
 どうしたんだろう。ようちゃんの車で、とっくに帰ったと思っていた。
 近づくと、少し困ったような顔をする。
「どうかした?」
「一緒に帰れたらいいなあ、なんて思ったんですけど。そういえば今日、吉川さんの車なんですよね」
 正確には沢木さんのスタジオの車、だけど。一緒に帰るためにわざわざ待ってたのか。
「俺のスタジオに寄ってもらうから、そこまで乗っていけばいいよ」
 後ろの座席は潰れているけど、短い距離だし、荷物の隙間に乗っててもバレないだろう。
 二人で車に戻ると、助手席でボケっとしていた吉川が、慌てふためく。
「え、なんで道端さんも?」
「家が俺のスタジオの近くだから、乗せてくことになった。お前、運転席と後ろと、どっちがいい?」
 今日だけは優しくしてやってもいいかと、吉川に選ばせる。
「道端さんは助手席ですよね?」
「そう」
「俺が運転でもいいんすか?」
「言っとくけど俺のスタジオまでだぞ?」
「それでもいいです!」
 嬉しそうにする吉川が、なんだか哀れになった。ようちゃんに誰か単純そうな女の子を紹介してもらうべきだろうか。
 いそいそと運転席に座りなおす吉川を見ながら、後部座席の荷物の間に潜り込む。恐縮しながら助手席に乗り込む日南子ちゃんに、全然いいんすよ、と吉川が嬉しそうに声をかけていた。
 ガクさん、動きますよー、という吉川の声に、手を振って答える。そのまま、前の二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
「道端さんは、今いくつ?」
「二十です。大学二年生」
「俺、二十二。近いねー。俺ももっと頭良かったら大学行ったんだけどな~」
「吉川さんは、なんでこの仕事をしようと思ったんですか?」
 吉川のくだらない与太話に日南子ちゃんが真面目に付き合ってあげている。
「理由はね、モテそうだったから」
「え?」
「大学進学する頭もないしさ、就職するってなった時に、特にやりたいこともなくて。どうせならかっこいい仕事がいいなーって思ってたら、たまたま沢木さんのスタジオの案内が学校に来てて」
 あの時は、沢木さんがお祖父さんの代からの写真館を継いで、新しくスタジオに生まれ変わらせた時で、とにかく人が足りなかった。俺も、手伝って欲しい、とニューヨークから呼び戻されたのだ。向こうでの仕事に未練がないわけではなかったけど、恩人の沢木さんの頼みだったから迷うことなく引き受けた。
「そういう軽いノリで入っちゃったらさ、結構厳しいんだよね、この世界。体力仕事だし、疲れるのなんのって」
 初めは、こいつ半年ももたないんじゃないか、と思ったものだ。でも、なんだかんだ言いながら、仕事を任されるようになるまで食らいついてきた。
「写真の面白さ、みたいなものを、沢木さんとガクさんが教えてくれたんだよね。多分俺、相当ウザかったと思うんだけど、いつも嫌がらずに教えてくれて。こういう風に撮れるようになりてえ、って思ってたら、今まで続いちゃった」
 こいつのいい意味での単純さが、今まで続いた理由だと思う。素直で、いいと思った物はこだわりなく受け入れることができる。そういう部分は、日南子ちゃんに似ているかもしれない。
 スタジオにはあっという間に着いて、吉川の手も借りて荷物を降ろす。吉川は名残惜しそうにしながら、沢木さんのスタジオへと帰って行った。
 さて。
「ちょっと寄ってく? なにもないけど」
 わざわざ待っていたんだから、何か話でもあるのかもしれない。所在無さそうに隅っこに立っていた日南子ちゃんに声をかけると、彼女はほっとしたように頷いた。
 遠慮がちにソファの端に座る彼女の前に、ミルク多めのコーヒーを置く。
「今日は一日お疲れさま」
「お疲れさまでした」
 カップを両手でくるんで持つ彼女が、そっと口を付ける。いつも初めはゆっくり飲むので、猫舌なのかもしれない。
 当たり障りのない話をしながら、彼女の様子を窺った。何か考えているのか、いつもよく動いて感情を伝える目が、今はずっと伏せられている。
 もしかして、切り出しにくい話だろうか。俺はその話を、聞き出したほうがいいのか、気づかないフリをしたほうがいいのか。こちらも迷っていると、だんだんと話が途切れがちになる。
 少し沈黙が続いた後で、彼女が躊躇いがちに切り出した。
「私がニューヨークで見た、あの窓辺の写真、もう一度見せてもらえませんか?」
「いいけど」
 言いたかったことってこれか、となんだか拍子抜けしながら、あの写真を探す。写真が見たいだけなんだったら、もっと早く言えば良かったのに。何冊かのブックの中からあの写真を見つけ出して、彼女に渡す。
 彼女はしばらく、じっと写真を見つめていた。俺にとっては痛みを伴う、彼女にとっても何かしらの感慨があるだろう、その写真。実を言えば、俺はまだきちんと直視することができない。
 彼女が写真を見つめながら、おもむろにポツン、と言った。
「私、優衣さんの代わりでもいいですよ?」
「え?」
「もし、まだ優衣さんのことが忘れられなくて、それでなにか躊躇ってるんだったら、私、優衣さんの代わりでいいです」
 目線は写真に向いたまま、小さな声で続ける。
「桐原さんの心のなかに、ほんのちょこっとでも私の居場所があるんなら、その他全部優衣さんで占められててもいいんです」
 無言のままの俺に、ゆっくりと目を向ける。
「ちょっとでも、私のこと、好き、ですか?」
 不安げな光を宿して、一言一言区切るように言った。
 俺の曖昧な態度のせいで、また彼女に言いにくいことを言わせてしまった。ちゃんと答えなければと、心の中を必死で探った。
 優衣が未だに強く心に残っているのは間違いないし、何度も彼女の姿に優衣が重なる。それでも、普段何気なく思い出すのは、日南子ちゃんの笑顔だったり、困った顔だったり、声であって、今俺の心の中を占めているのは優衣じゃない、と思った。
 優衣よりももっと強く、俺の心を支配しているのは、今目の前にいる彼女だ。
「俺が今好きなのは、優衣じゃなくて君だよ」
 優衣の身代わりとしてではなくて、日南子ちゃん自身が、欲しい。
「え……?」
 引き結ばれていた彼女の口元が緩んで、吐息混じりの声が漏れる。瞳の中に揺れていた不安が、徐々に薄くなっていく。一度目を伏せると、意を決したように俺の隣に移動してきた。俯いたままで、ぎゅ、と俺の服を掴む。
 もう、触れてもいいだろうか。
 柔らかな髪を撫でると、彼女はそのまま俺に体を預けてきた。そっと腕の中に抱き込むと、遠慮がちに背中に手を回してくる。
 頬に触れると、ぴく、と体が震えた。少し力を入れて上向かせると、おずおずと目線をあげて俺を見る。そのぎこちなさが、愛おしく思った。
 目が合って、それから彼女はゆるゆると目を閉じた。それを合図に、ゆっくりと顔を近づける。もう少しで唇が重なる、その距離で、どこかから声が聞こえた。
 ――ガク。
 甘い、幸せそうな優衣の声。
 どうしてこんな時にばかり、そんな声で俺を呼ぶ?
 ぴたりと動きを止めてしまった俺に戸惑って、日南子ちゃんが目を開けた。
「桐原さん?」
 また、重なる。優衣の顔が、少し不思議そうに首をかしげて、それから仕方ないなあ、と笑って……。
 ――ガク?
「ごめん」
 顔を背けて、抱きしめていた体を離した。彼女の方を向けなくて、立ち上がって背を向ける。
「あ……」
 一瞬目に入った、日南子ちゃんの泣き出しそうな表情が、俺の心を責め立てる。
 最低だ。期待させるだけさせて、すぐに裏切った。
「わ、私こそ、すみません、その……」
 帰ります、と小さな声で言って、ばたばたと荷物をまとめる音がする。立ち上がって、大慌てで出ていくのを、背中を向けたまま気配だけで感じていた。
 バタン、と扉が閉まるのと同時に、ズルズルとその場に座り込む。
 何をやっているんだろう、俺は……。
 何がこんなに俺を躊躇わせるんだろう。今触れたいと思うのは、日南子ちゃんだけだ。優衣はもういないこともちゃんとわかっていて、今更求めたりなんかしていないのに、なんでいつまでも優衣の姿がちらつく?
 彼女だけは傷つけたくないとあんなに思っていたのに、現実はこのざまだ。戸惑いと、驚きと、悲しみが入り混じった彼女の顔が、脳裏に焼きついて離れない。あんな顔、絶対させたくなかったのに。
 彼女を傷つけたという事実が、その倍の威力を持って俺に跳ね返ってくる。もう、彼女に近づくのが怖い。何もなかったことにして、このまま逃げてしまいたい。
 十年前と、なにも変わっていなかった。変わったのは、その情けなさを隠す狡さと器用さが身に付いただけだった。

 ◇

 その日の夜から、雪が降り始めた。すでに塵のような初雪は何日か前に降っていたけど、今回は長い間降り続いたので、きっと朝には積もるだろう。静かに舞い落ちてくる白の結晶がなんだかすごくキレイに見えて、暖房もつけずに窓を開けて見ていたら、翌朝熱を出してしまった。
 思ったより高熱で、一人じゃ心細くなって実家に電話をしたら、ちょうどお休みだったお父さんがすぐに迎えに来た。そのまま病院に連れて行かれて、その後は実家の私の部屋のベッドに押し込まれる。
「もう雪なんて見飽きてるでしょうに。どうして風邪をひくまで寒いところで我慢したの?」
 呆れ気味に言いながら、麻衣子(まいこ)さんがお粥を乗せたお盆を持って部屋に入ってくる。
 お父さんの再婚相手の麻衣子さんは、お父さんと一回り年が離れていて、お母さんというよりお姉ちゃんという感覚だ。はきはきした美人で、何が良くてお父さんと結婚したんだろう、と常々疑問を抱いている。
 薬のおかげで、だいぶん体は楽になった。卵の餡がかけられたお粥の匂いが鼻をくすぐる。お盆を受け取って、少し口に入れると、優しい塩気が染み渡った。
 しばらく私がお粥を口に運ぶのを黙って見ていた麻衣子さんが、あらかた食べ終わるのを待って、口を開いた。
「なにかあったの? ここに電話をかけてくるなんて」
 今まで、体調を崩したくらいで実家に連絡することは、まずなかった。あとから風邪をひいていたことを知ったお父さんに、叱られたことがあるくらいだ。
「力になれることがあるなら、なんでも言って」
 麻衣子さんはいつも、いい意味で距離を取ってくれて、無理に世話を焼こうとなんてしてこない。今まで悩み事の相談なんてしたこともないし、してくれと言われたこともない。
 今の私は、そんなに弱って見えるんだろうか。
「麻衣子さんは、なんでお父さんと結婚したんですか?」
「そりゃ好きだからよ。なあに、いきなり」
 私の質問の内容に驚いた様子で、だけど麻衣子さんは即答した。
「じゃあ、死んだお母さんに、嫉妬したこととかありますか?」
 この質問には、すぐには答えなかった。考え込むように、目をさまよわせる。
「難しいこと聞くわね」
「ごめんなさい」
 娘の私から見ても、お父さんはお母さんのことが大好きだった。見ていて恥ずかしくなるくらい仲のいい夫婦で、お母さんが死んでからも、お父さんはずっとお母さんのことを大切に思っていたと思う。きっと、今でも。
 麻衣子さんという恋人を紹介された時、だからひどく驚いた。少し、ほんの少しだけ、裏切られたような気持ちになったのも事実だ。
「全く気にならない、と言えば、嘘になるわね。いまだにすごく大切な存在だってことはよく伝わるし……そうね、少し悔しく思ったことはあるわ。なんで先に私と出会ってくれなかったんだろう、って」
 その気持ちは、すごく良くわかる。優衣さんより先に出会うことができていたら、こんな卑屈な思いをすることはなかったのに。
「でも、そんなもしものこと考えたって仕方ないじゃない。先に前の奥様に出会って、日南子ちゃんが産まれて、奥様を失って、そういう出来事を全部経てきた上で、今の彼がいるんだと思うし。その前に出会ってたって、好きにならなかったかもしれないわ」
 いろんな思いを乗り越えてきたからこそ、今の彼がいる。そうかもしれないけど、でも。
 私にはそんなふうに割り切れなかった。好きな人が自分以外の人のことを特別に思っているのは、やっぱり辛い。