ふふふー、と笑いながら、ニヤニヤしたリサさんが、ところでさー、と話題を変えた。
「ガクさん、どうだった? 上手だった?」
「何がですか?」
「何が、って、エッチ」
 バッとリサさんの体を引き剥がした。
「なに言ってるんですか、いきなり!」
「えー、だって、リサと初めて会ったとき、そういう話したじゃん」
「私はしてません! リサさんが一人でしてたんです!」
「そうだっけえ? まあいいや、で、どうだった? あの指はキモチ良かった?」
「リサさん、変態!」
 お酒のせいじゃなく顔を真っ赤にする私を哀れに思ったのか、宇野さんが助け舟を出してくれた。
「梨沙、セクハラやめなさい。ヒナちゃんが困ってるでしょ。男性陣もいるのに」
「僕たちはなんにも聞いてないから気にしなくていいよ?」
 しれっと保志さんが言う。
「ほら、ほっしーもああ言ってるしー」
「梨沙!」
「そ、そういうこと、まだなんにもしてないですから!」
 私が勇気を振り絞って言ったのに、リサさんはえー、と不服そうに頬を膨らませる。
「ガクさんちょっと慎重すぎじゃないのー? じゃ、キスは? キスは上手だった?」
「キ、キス、も、まだです……」
 蚊の泣くような声で言うと、その正反対の店内に響き渡りそうな声でリサさんが叫んだ。
「えー? キスもまだ!?」
「ちょ、リサさん声おっきい!」
「だってデートしてるんでしょ? 一緒にご飯食べたりドライブ行ったりしてるんじゃないの?」
「それは、しましたけど」
「そんで一回もそういう雰囲気にならなかったのっ?」
「ぜ、全然ならなかったわけじゃないですけど……っ」
 約束していた紅葉も見に行ったし、何回か食事もした。自然に手も繋げるようになったし、助手席も慣れた。夜は車で送ってくれる。
 そういう雰囲気、になりかけたことは何回かあったのだ。私の頬に手が触れて、じっと視線が注がれる。私はドキドキしたけど全然嫌じゃなかったし、その先、も期待してたし、嫌がる素振りなんて絶対に見せなかった。でも、その手はその先には進まなくて、いつもふっと視線が外されて、ぽんぽん、と頭を撫でられるだけで終わってしまう。
 私だって気にしていた。そういうこと、に消極的な人ではないことは知っている。私の意思はあの夏のことでわかってるはずだし、例えあの時のことはナシにしても、これだけ一緒にいるのにキスすらしてもらえないなんてありえるんだろうか。恋愛経験値が皆無に等しい私には、桐原さんが考えてることがわからない。
 ……聞いてみようか。ここには経験値豊富そうな男の人が三人もいる。もうここまで喋らされたんだから、恥ずかしいこともないだろう。なんせ酔ってるし。
 思い切って、男の子三人が座っている方へ向かって正座する。
「あの。率直な意見をお聞きしたいんですが。女の子と二人でいて、そういう雰囲気になったとして、女の子は嫌がってないのに途中でやめちゃうのって、なんでだと思いますか?」
 最初に答えてくれたのは保志さん。
「よっぽど苦手な子か、破滅的にブサイクな子が相手だった」
「そ、そこまで嫌われてないと思うんですけど」
「じゃあわかんないや。僕だったら即ヤっちゃう」
「亮介の意見は聞いちゃダメよ、ヒナちゃん」
 宇野さんの忠告をありがたく聞き入れて、西さんの方へ向き直る。
「え、俺そんなのわかんないよ、そういうのあんまり詳しくないし」
 西さんが慌てて顔の前で手を振った。意外と初心なタイプらしい。
 最後に潤平くんの方を見ると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「それ、俺に聞く?」
 ……だよね。明らかに無神経だよね。
 しゅん、とする私を見て、しょうがないなあ、というふうにため息をついた。
「よくわかんないけど。大事すぎて逆に手が出せない、ってこともあると思うよ」
 潤平くんの言葉に、隣のリサさんも同意する。
「確かにねー、ガクさんのことだからそういう感じなんだろうけど。でも、ちょっと大事にしすぎじゃない?」
 もうキスくらいいいでしょ、とリサさんが呟く。
「ねね、どうしたら手出したくなると思う?」
「それこそ俺に聞かないでください。俺は今すぐにでも出したいんだから」
「……潤平くんってほんといい子ー」
 潤平くんの頭を撫でるリサさんの手を、西くんがヤメろ、と振り払っていた。
 結局そのままリサさんと小川さんが潰れて、飲み会はお開きになった。西さんと保志さんがそれぞれ送り届けるらしい。宇野さんが、いつものことなのよ、と笑っていた。
 私は家の方向が一緒の愛香と二人、のんびり歩くことにした。そこそこ遠いけど歩けない距離じゃないし、酔い醒ましにちょうどいいや。
 火照った顔に冷たい風が気持ちいい。今年は雪は多いだろうか。
 ねえ、と呼びかけられて生返事をすると、真面目な声で愛香が言った。
「もしなにか悩んでることがあるんなら、ちゃんと言いなさいよ?」
「うん?」
「さっきの話。私はなんにも聞いてなかったけど」
 なんだか恥ずかしくて、愛香にはなにも言ってなかった。今までなんでも愛香にアドバイスしてもらっていたから、こういうのは初めてかも。
「ありがと」
 お礼を言うと、愛香がふん、と鼻を鳴らす。
「あんたが一人で考えてたってだいたい悪い方にばっかり向かうんだから。きちんと吐き出しなさいよね」
「そういう愛香だって、なんか隠してるでしょ? なんで保志さんにあんな冷たいの?」
「あの人、信用できないのよ」
「なんで?」
 初めて会ったときは、普通に接していたはずだ。なのになんで今日、いきなり信用できなくなるんだろう。
 そう尋ねると、愛香がしぶしぶ、という感じで答えた。
「一回寝た」
「えええっ?」
 思わず立ち止まって叫んだ。いつの間にそんなことにっ?
「付き合ってるの?」
「付き合ってるわけないでしょ、あんな男っ」
「じゃあなんで? 保志さんのこと嫌いだけど、そういうことになっちゃったの? まさか無理やり……」
「そういうわけじゃないけど」
 表情を見る限り、言うほど嫌ってるわけじゃなさそうだけど。
「保志さんは愛香のこと好きそうだよ? 問題なくない?」
「あんなの本心じゃないに決まってる。あの男と付き合うとか、ない」
「……よくわかんない」
 正直に言うと、愛香が呆れたように言った。
「人それぞれいろいろあるのよ。あんたはわかんなくていい」
「でも、私にだってちゃんと相談してね?」
 こと恋愛に関しては、私はいつだって愛香に頼りきりだ。私だってちょっとは役に立ちたい。
「わかってるわよ。ありがと」
 愛香がちょっと笑って言った。
 改めて、恋愛って難しいな、と思う。好きな人に好かれて、それでちゃんとうまくいくと思ってたけど、現実はそうでもなかった。いろんなすれ違いとか、思い違いとかがあって、全然思うようになってくれない。相手の気持ちがわかるような魔法の道具があればいいのに、なんて本気で思う。
 でも最近、そうやって悩んだりするのも、人を好きになることの大事な部分なんだろうな、とも思うのだ。
 今は思い切り悩めばいいのかな。
 こうやって恋愛にのめり込めるのも、今だけなのかな、なんて、リサさんたちの就職の話を聞いて思った。今年ももうすぐ終わり、なんだか去年よりも過ぎるのが早かった気がする。来年や再来年はもっとあっという間で、気がついたら卒業になってるのかもしれない。
 愛香がいつの間にか、立ち止まって空を見つめていた。今日は空気が澄んでいるのか、いつもよりたくさんの星が見える。冬の空気って、ほかの時期よりももっと透明な気がする。
 ――今やりたいことやればいい。いつか後悔しないように。
 いつかの桐原さんの言葉が、ふっと脳裏をよぎった。
 

 ◆

 制作を担当するプロダクションのオフィスに呼ばれて、嶋中さんと初めて顔を合わせることになった。
 案内されてミーティングルームに行くと、嶋中さんとプロダクションの担当らしき人が待っていた。互いに自己紹介をして、名刺を交換する。受け取った嶋中さんは、ひっくり返したり顔を近づけたり興味深そうに見ていた。たいして凝ったデザインでもないんだけど。
「ルーチェ、っていい響きだよね。新しいジュエリーの名前に使っていい?」
「はあ、どうぞ」
 飄々とした、というのがぴったりの人だった。こだわりの職人、というイメージから、もうちょっと頑固そうな人を想像していたけど、何度か電話で話しても、至って普通の気のいいおじさん、という印象しか受けなかった。実際に会ってもその印象は変わらない。
 プロダクション側の担当は鈴木(すずき)です、と名乗った。俺と同じくらいの年齢で、しっかりスーツを着込んで、見た感じ少し神経質な印象だ。その分仕事はきっちりしてそう。
「引き受けてくれて助かったよ。あの女の子にも、君から話してくれたんだってね」
「僕もこの仕事、是非やらせてもらいたいと思ったので。彼女に断られないように必死でしたよ」
 俺の答えに、嶋中さんはきょとん、とした。
「なんで?」
「いや、彼女とセットじゃなきゃ依頼を考え直す、って聞いてたので」
「君への依頼も? 俺そんなこと一言も言ってないけど」
 全く心当たりのないような顔で、嶋中さんが言う。
「……は?」
「あの子を使えればベストだ、とは言ったけど、別にダメなら誰でも良かったんだけど。確かにきっかけは君が撮ったあの子の写真だったけど、その他の写真もちゃんと見て、気に入ったから君に依頼したんだし」
 謀られた。嘘くさいな、とは思ったけど、本当に嘘だったか。
「瀬田には相当苦労させられてそうだね」
 うなだれる俺に、嶋中さんが同情するように言った。その横で、瀬田さんのことを知っているんだろう、鈴木さんが苦笑していた。
 仕事の話を始めようか、と嶋中さんが切り出すのを合図に、持参したブックとタブレットを取り出す。今まで撮ったブライダル関連のものと、リングやアクセサリーを撮ったものも入っている。
「電話でも話したけど、イメージとしては聖母マリアなんだよね。静謐で神聖なイメージ。それでいて温かみもあるような」
 クライアントのイメージを正確に汲み取るのも仕事だけど、それがなかなか難しい。言葉で羅列しても食い違うことが多いので、今まで撮ったものに合いそうなものがあれば、それを見せて確認したりする。
 話を聞いて想像したのが、教会でのロケーション撮影だった。スタジオで撮るより雰囲気が出そうだし、ブライダルリングのイメージもつく。
 前に撮ったドレスショップのパンフレットの写真の中からいくつかピックアップして見せてみると、いい反応が返ってきた。
「うん、こんな感じ、いいんじゃない? ……ただもうちょっと、あったかい感じが欲しいよね。荘厳さとか派手さはいらないかな」
 嶋中さんが目を止めたのは、ステンドグラスが有名な教会で撮ったものだった。イギリスだかどこだかの教会から移植したもので、そのステンドグラスの豪華さが人気なのだけど、嶋中さんは逆にそれが少し気に入らないらしい。
「教会で、っていうのはいいね。ステンドグラスから差し込む光、シンプルなドレスとマリアベール、で手元に光るリング」
 嶋中さんの中でイメージが膨らんでいるようだ。目を閉じてそれを言葉にする横で、鈴木さんが熱心にメモを取っている。
 それから細かいことをいろいろ話し合ったけど、方向としては教会のロケに決まった。スケジュールはおいおい組むとして、まずはロケ場所を探しましょう、という結論に達して、その日は解散。
 その足で、ステンドグラスの教会に向かう。あの写真が気にいるんじゃないかと思って、一応見学のアポだけ事前に取ってあった。
 以前撮ったから大体は覚えているけれど、今回は視点が違った。あのステンドグラスを、荘厳に『見せない』ことが求められているのだから。祭壇前の一番大きなステンドグラスではなく、あえて小さなものに目を向ける。
 頭の中で切り取って、想像する。静謐で神聖、それでいて重要なのが、温かみ……。なんだかピンと来なかった。やはり華やかすぎるのだ。
 別に悪くはないんだけど、なんかこう、違うんだよな。
 俺がそう思うのだから、嶋中さんはもっとそう思う気がする。それに、今回は妥協したくない。
 それから暇を見つけては、近くの教会を見て回ったけど、イメージ通りの場所はなかなか見つからなかった。結婚式場の教会も一通り回ったけど、やはり華やかすぎる感が拭えない。かと言って普段礼拝なんかをやっているところは、ただの集会場みたいで使えない。
 やっぱりあのステンドグラスの教会で撮るしかないだろうか、と思い始めていたところに、鈴木さんから連絡が入った。もしかしたらイメージに近いかも、という教会が見つかったらしい。
 鈴木さんの説明によると、もともと地主かなんだかが建てたのを、その家が没落したときに市が買い取ったもので、一般には全く公開されていないらしい。一応ステンドグラスがあって、歴史的に貴重だからと市が管理しているけど、メンテナンスに業者がたまに入るほかはほったらかし。地元の人でもその存在は知られていないそうだ。
「よくそんなもの見つけてきましたね」
 感心して言うと、それが仕事なので、と一言返される。仕事ができそう、と思ったのは間違いじゃないらしい。
「ただ、写真もなにもないので、実際見てみないと何とも言えません。一応撮影の許可は降りるそうです」
 だったら見に行くしかないだろう。
 場所は車で二時間ほどのド田舎。行く前日にでも役場に連絡をくれれば、ご案内します、とのことだった。のどかなものだ。スケジュールを調整して、なんとか三日後に予定がたった。正直、早く決めてしまわないとそろそろやばい。間に合わない。
 鈴木さんも同行できるということで、現地の役場で落ち合うことにする。眠気と戦いながら、田園が広がる風景を横目に車を走らせる。
 鈴木さんは先についていて、役場の人と一緒に玄関で待っていた。どうやら役場の車で一緒に乗せていってくれるらしい。
「あんなところねえ、行きたがる人なんて滅多にいないんですよ。前に大学の先生だかがいらっしゃいましたけどねえ」
 人の良さそうなのんびりした話し声を聞きつつ、窓の外を眺める。見渡す限り、民家と田んぼと山で、しかも随分冬景色になっていて、丸裸になった木々が余計に寒々しい。気温も街中と比べたらひんやりしていて、これで雪でも降ったら相当寒いに違いない。
 車は山に向かってどんどん進んでいく。しばらくしたら民家さえ見えなくなって、本格的に山道に入った。枝が車の下でバキバキ折れる音がする。
 ーーこんなところに教会なんて、ほんとにあんのか、そんなもん。
 あってもボロッボロの廃墟みたいになってるんじゃないだろうか。ちらっと横の鈴木さんを見ると、同じように不安を浮かべて外を見ていた。
 走り始めて三十分くらいだろうか、木の間に、十字架のような形が見え隠れするのがわかった。着きましたよ、と言う声とともに現れたのは、こじんまりとした木造の教会。
 ーーほんとにあった。
 想像していたよりもきちんと保存されている。周りは草が生い茂ったその建物は、よくあるオーソドックスな形で、てっぺんに十字架が飾られていた。いきなり中世ヨーロッパに放り込まれたみたいだ。
 周りは鉄条網で囲まれていて、唯一フェンスになっている入口の鍵は役場で保管しているらしい。フェンスをくぐって入口に近づくと、閂みたいな大きな鍵を役場の人が開けてくれた。
 重い木の扉を押すと、ギギギギ、と年代を感じさせる音がする。
 中に足を踏み入れて、息を飲んだ。
 三人がけのベンチが左右に三つずつ。中央には祭壇があって、マリア像が置かれている。その向こうのステンドグラスは、そこまで大きくはないけれど緻密で、天使が象られていた。
 決して華やかではないけれど、静謐さに満ち溢れている。
「もともとはこの辺に住んでる農民が集まってたらしいんですけどね。牧師なんていないから、勝手に礼拝しとったらしいですわ」
 形にとらわれない、人々の純粋な信仰が集まった場所。聖母マリアと天使に見守られた、暖かな空間。
「ぴったりですね」
 思わず呟くと、隣の鈴木さんも大きく頷いた。
 写真撮っていいですか、と聞くと、どうぞどうぞと鷹揚な返事が返ってくる。
「しっかしおたくら、この寒いのに撮影なんてよくやりますねえ。短い時間ならいいけど、長い時間いる気なら凍えちゃいますよ。暖を取れるものなんかないんだから」
 そうか、そういうことは考えてなかった。暖炉みたいなものは見えるけど、もちろん使えないだろう。
「言っておくけど火気厳禁ですから。ここが燃えて、万が一山が火事になったら困るんでねえ」
「電気は?」
「そんなもん通ってるわけないですよ」
 鈴木さんが思案げな顔で質問している。
「他に持ち込んではいけないものはありますか?」
「特にこれといってないですけど。この前業者が入ったばかりだから、掃除はしなくていいはずです」
 確認事項は鈴木さんに任せて、俺は一人カメラを構える。頭の中で日南子ちゃんを思い浮かべながら、ファインダーを覗き込む。……いける。
 使えそうな場所を何箇所かカメラに収めて、話し込む二人の方を向いた。
「決めましょう。ここ以外は考えられない」
 確信を込めて伝えると、鈴木さんも大きく頷いた。

 少しでも早く、本格的に雪が降らないうちに、ということで、急ピッチで予定が組まれる。
『野外用の発電機を手配しますが、機材はできれば最小限で行きましょう。スタッフも最小限で。羽田(はだ)さんには一度ウチの会社まで来てもらうことになりました。衣装も彼女と決めてしまって大丈夫ですね?』
「全部羽田さんに任せてあります」
 ようちゃんに頼み込んで、ヘアメイクとスタイリストを兼ねてもらった。急な話で厳しいかとも思ったけど、鈴木さんがきちんと会社として美容室のオーナーに依頼してくれたおかげか、わりとすんなり引き受けてくれた。あとは沢木さんのところからアシスタントとして吉川を借りる。
「あとはなるべく晴れてくれるといいんですけど」
『そればっかりは神のみぞ知る、ですね』
 室内の撮影だけど雨が降ると気温が下がる。それに、できれば太陽光がステンドグラスから差し込む様子を押さえたい。天気予報は今のところ晴れだけど、この時期の予報は半分は外れる。
 簡単に確認事項をさらって、電話を切る。窓に近づいて空を見上げた。
 今日は雨だ。
「ほんと、撮影日晴れるといいっスね」
 並べた機材を片付けながら、吉川が言った。
 手持ちにない機材があったので、沢木さんのスタジオに借りに来て、ついでに吉川とも打ち合わせを済ませていた。吉川は俺が独立する直前までアシスタントでついてくれていたので、気心も知れてるしやりやすい。
「まった辺鄙なとこで撮るんだって?」
 珍しくパソコンと向かい合っていた沢木さんが部屋から出てきた。
「鈴木が見つけてきたんだろ? さすがだな」
「鈴木さん、知ってるんですか?」
「あそことは最近よく仕事するんだよ。鈴木は今年になってどっかから引き抜いてきたらしいけど、いっつも仕事が早くて助かる」
 ふわああ、と大きなあくびをしながらコーヒーメーカーに手を伸ばす。時間が経って煮詰まったくらいのコーヒーが沢木さんの大好物だ。俺は昔、一口飲んで、あまりの苦さに吐き出したことがある。
「理恵が会いたがってたぞ。今年いっぱいで産休入るから、その前に一緒に仕事したかったって」
「そういえば、入籍おめでとうございます。理恵のお父さん、手強かったでしょう?」
「まあな。今年中に婚姻届出せないかと思った」
「俺のせいですね」
 カメラマンという職業に先入感があるに違いない。しかも、結婚前に妊娠したとなったらなおさらだ。嫌でも優衣を思い出すだろう。
 すみません、と呟く俺の頭を、沢木さんが結構な強さではたいた。
「いってぇ」
「アホか。あの時のお前と俺様を一緒にするんじゃねえ。自分の甲斐性のなさを人のせいにするほど俺は落ちぶれちゃいねえんだよ」
「すみません」
「まあ手こずったけど、最終的に認めてもらったんだからいいんだよ。子供が生まれりゃ親父さんもなんか変わるだろ」
 ……てことはまだ、わだかまりは残っているんだろうな。
 また謝っても殴られるだけだから、口には出さなかったけど、やっぱり申し訳なく思う。
 優衣が死んで、そろそろ十年が経つ。優衣の家族の心には、どれだけの傷がまだ残っているんだろう。あの理恵だって、妊娠がわかった時、あれだけ苦しんでいた。十年という月日は、長いのか短いのか。
 きっとまだ、優衣のお父さんは、俺を許してはいない。
「またなんか余計なこと考えてるだろ」
 何も口に出さなかったのに、またはたかれた。
「あのー、なんで沢木さんが手こずるのがガクさんのせいになるんすか?」
「お前には関係ないから黙っとけ」
 それまで口を出したくてうずうずしていたらしい吉川が、結局口を開いて沢木さんに叱られて、不満そうにしている。
「お前はあの子のことだけ考えてればいいんだよ」
「……」
 無言で返す俺とは反対にまた吉川が口を出す。
「あの子って誰っすか? ガクさんの彼女?」
「だからお前は黙っとけって」
「じゃあ俺の前で面白そうな話しないでくださいよ。完全にのけものじゃないっすか」
 確かにそうだ。こいつの前でする話じゃなかった。
 用も済んだし、そろそろ行きます、と言うと、沢木さんはおう、と短く返事をした。えーもう行くんすかー、とつまらなさそうな声を上げる吉川に、機材を忘れないよう念を押す。撮影の日、吉川の運転で沢木さんのスタジオの車を貸してくれることになったので、機材の運搬も頼んだのだ。
 外に出ると途端に冷気が体を包む。傘は車に置いてきたので、雨の中を一気に走った。
 最近、日南子ちゃんとの距離の取り方が、わからなくなっていた。
 というか、本当は距離なんて取らなくていいんだろうし、彼女のほうもそれを望んでいるのが手に取るようにわかる。だけど、その望みの通りに近づいていくことがどうしてもできない。
 触れたい、と思うし、俺だって近づきたい。近づきたいのに、近づこうとすると頭の中でストップがかかる。
 優衣の姿が、ちらつくのだ。
 俺を見つめる日南子ちゃんの顔に、優衣の顔が重なる。そうなるとどうしてもそれ以上進めなくて、視線を逸らしてしまう。少し寂しそうにする彼女を、真っ直ぐに見返せない。
 優衣のことはもう、ただの思い出にすぎないと思っていた。今まで目を逸らし続けてきたから、まだこんなにも心の奥に強く残っていたなんて、気づかなかった。
 いつになったら、ただの幸せな思い出にできるんだろうか。どうすれば、過去のことなんて関係ない、今は今だと、強く思うことができるんだろう。あの子のことは傷つけたくない。でも今のままじゃ、きっと傷つけてしまう。
 どうすればいいか、いっそ誰かに教えて欲しい。そんな風に思うほど、袋小路に迷いこんでいた。