唖然としてしまった私に中屋さんが苦笑する。
「この人、超甘党なのよ。見た目からは想像できないでしょ?」
大量のお砂糖が溶けたコーヒーを、美味しそうに飲んでいる。容子さんも自分のカップに一つだけ角砂糖を入れながら、呆れたように言った。
「主食がチョコレートですもんね。なんでこんなに糖分摂取してるのに太らないんだろう」
「ちゃんと米も食ってますよ」
さっき容子さんが、『どうせコーヒーの味なんてわからなくなる』って言ってたのはこういうことだったのか。確かに、豆の味なんて甘さに負けてわからなくなりそうだ。
「飲み物とかも甘いのが好きだし、コンビニの買い物見てたら女子高生みたい」
「なに、悪い? 糖分摂取しないと頭回んないんだよ」
「ものには限度があるんですよ」
「ようちゃんだって可愛い女の子が好きとか言って、アイドルの写真集バカ買いしてたでしょ? 女の子が女の子うっとり見てる姿もいき過ぎると引くよ?」
桐原さんの反撃に、容子さんが口を尖らせる。
「あれはメイクとか研究してるんです! 仕事の一環!」
「どうだか。絶対趣味」
「ヒナちゃんの前で変なこと言わないでください!」
あーだこーだと言い合う二人を見て思わず、仲いいんですねえ、と呟くと、中屋さんが笑った。
「なんだか兄妹みたいでしょ。三十路前のおじさんがはしゃいじゃって」
ということは、私と十歳も違うのか。
「正直見た目じゃいくつかわからなかったです。もっと若いかと思ってました」
「こういう仕事してると年齢不詳になるわよね」
そう言う中屋さんだって年齢不詳だ。容子さんよりは上だろうけど、桐原さんと同じくらい?
「俺がおじさんだったら理恵もおばさんだろ、同い年なんだから」
いつの間にか容子さんとの言い合いを終えた桐原さんが話に加わる。
「それに正確に言えば俺はまだ二十八です。理恵の一個下です」
「うるさいわね、あと何日かで二十九でしょ。女の年齢を勝手にばらすんじゃないわよ」
「はいはい、どうもスミマセン」
今度は中屋さんと言い合いながら、カメラを覗き込んでなにか調整している。
いつの間にかみんなのカップは空になっていて、私も急いで中身を飲み干して立ち上がった。
「すみません、撮影再開ですよね」
さっきの場所に戻ろうとした私と反対に、桐原さんが入り口のほうを見た。
「んー、再開なんだけど。ようちゃん、ちょっとだけ彼女外に連れ出してもいい?」
「外ですか? 店内の雰囲気がわかるような写真で、って思ってるんですけど」
「雑誌に使う写真はちゃんと店で撮るから大丈夫。大分緊張もほぐれてきたみたいだし、ギャラリーなしでちょっとカメラ慣れしてもらおうかなって思って。今日珍しくいい天気だし」
「でも、今日の服、春物なんで、外はめちゃめちゃ寒いと思いますよ?」
容子さんが選んでくれた服は春らしいふわっとした素材のワンピースで、足元はパンプス。確かに、二月の風に対抗できるほどの防寒力は無さそうだけど。
「私なら大丈夫です。寒さには強いので」
せっかく私のために言ってくれているのに、寒いからって嫌がるわけにはいかない。
容子さんはいい顔はしなかったけれど、短い時間なら、と渋々了承してくれた。風邪をひく前に戻ってきてくださいよ、と心配顔で見送られて、桐原さんと二人、外に出る。
平日の昼間だけれど、店の前にはちらほら人通りもあった。こんなところで撮影会なんてしだしたら店の中よりも視線が気になりそうだ、と不安に思っていると、桐原さんが歩き始めた。
「ちょっと移動しよう。そこの川沿い、春は人だらけだけど、冬はほとんど無人だから」
お店の裏側、一本道を挟んで入り組んだ道を抜けたところに、大きな川が流れている。両側に桜並木が植えられていて、春になればお花見にたくさんの人が訪れる場所だった。
少し後ろをついていくと、桐原さんがいろいろ話しかけてくれる。
「ずいぶんようちゃんに気に入られてるみたいだね」
「容子さんのアシスタント時代からお世話になってて、カットモデルとかしてたんです。なんだかお姉ちゃんみたいな感じ」
「確かに、可愛い妹がほっとけないって感じだな」
笑うと少し目元にしわが寄って、もともと優しげな顔がもっと親しみやすくなる。さりげなく車道側を歩いてくれているし、歩幅も合わせてくれている。
大人の男の人って、こんな感じなんだな。
今まで年上の男の人なんて、お父さんか学校の先生くらいしか関わったことがなかったから、ちょっとだけ意識してしまう。
「バイトって何してるの?」
「ファミレスのホールです。シフトの都合付きやすいし、いろいろな人が来ておもしろいですよ。毎週決まった時間に来るおじいちゃんとか、ワケ有りそうなカップルとか」
暇つぶしに見ていると細かいことに目がいって、いつの間にか人間観察が趣味になった。バイト仲間に話したら、悪趣味って笑われちゃったけど、それからたまにその日見つけたおもしろい人を報告し合うようになった。
「そういえば、私は見てないんですけど、友達がすんごい甘党の男の人を見つけたって言ってました。フレンチトーストにメープルシロップ全部かけて、その上にガムシロップも追加してたんですって。見てるだけで胸焼け起こしそうだったって」
思わず二度見しちゃったわよ、と友達の愛香が笑っていた。見た目はかっこよかったのに、すごい残念、って。桐原さんといいその人といい、男の人って意外と甘党が多いんだなあ、なんて呑気に考えていたら、桐原さんがいきなり立ち止まってこっちを振り返った。
「もしかして、それ東町のファミレス?」
「そうです」
「多分、それ俺だ。バイトの子に二度見されてちょっと笑われた。その子、身長高めで少しきつめの顔立ちの子じゃない?」
絶対に愛香のことだ。
「別に男が甘いの好きだっていいでしょ。なんでみんな笑うかな」
憮然と呟く姿がなんだか子供みたいだ。
「客として進言させてもらうけど、あのメープルシロップは甘みが足りない。別のメーカーに変えることをおすすめする」
まだぶつぶつ言いながら歩き始めた桐原さんがおかしくて吹きだすと、今度は歩きながら振り返る。
「あ、笑った」
「えっ? 違うんです、甘党がおかしいんじゃなくて、なんだかふてくされた子供みたいって」
「ガキくさいって?」
「いえ、違います、すみません失礼なことを」
慌てる私を楽しむように、桐原さんは笑って言った。
「じゃあ、俺たち前にも会ってたかもね。あそこのファミレス、たまに行くから」
「……そうですね」
多分、一度でも会っていたら私は覚えている気がする。でも、彼の方はたかがファミレスの店員のことなんて、一度会ったくらいではきっと覚えていないだろう。カメラマンという仕事のことはよくわからないけれど、きっときれいなモデルさんなんか見慣れているんだろうし。
なんだかちょっとだけ沈んだ気持ちになった私を不思議そうに見て、桐原さんがおもむろに手を差し出してきた。
「そこ、階段だから気をつけてね?」
「え、……きゃっ」
目の前に階段があるのに気付かずに足を出して、そのまま踏み外しそうになっていた。わわ、と慌てる私の手を桐原さんが掴んでくれなかったら、五段くらいの短い階段を一気にお尻から転げ落ちるところだった。
そのままぐいっと引き起こしてくれる。わ、細身なのに、結構力強いんだ……。
「意外と注意力散漫なタイプ?」
「すみません」
「日南子ちゃんに怪我させたらようちゃんに殺されそう」
転びかけたってだけで恥ずかしいのに、いきなり名前で呼ばれて、自分でもわかるくらいに顔が真っ赤になった。容子さんに巻かれたマフラーが暑くって、外して手で顔を扇ぐ私を見て笑いながら、先に階段を下りた桐原さんがぐるっと周りを見渡した。
「じゃ、落ち着いたら始めようか」
いつの間にか到着していた河川敷は誰もいなくて、とても静かだ。春にはいっぱいに花を咲かせるだろう桜の木も今は丸裸で、いかにも寒々しい。でも、午後になってますます高く昇ったお陽さまのおかげで、気温は思ったより寒くなかった。
私は何をしたらいいのかと問いかけるように見ると、桐原さんすでにカメラを構えていた。
「特別なことはしなくていいよ。適当に歩いて話して。走ったり踊ったりしてもいいけど」
「……歩きます」
よくわからなかったので、川のそばを本当にただ歩いてみた。桐原さんは時折シャッターを切りながら、また話しかけてくる。
「大学ではなんの勉強してるの?」
「外国文学の研究してます。昔から外国の映画とか本が好きで」
「へえ、じゃあ英語得意なんだ」
「得意、ってわけじゃないです。話せないし」
カメラ越しに桐原さんがこっちを見ていると思うと、ドキドキしてしまった。さっき美容室で感じた緊張とは、種類の違うドキドキ。
「外国で一年くらい住んでみたらすぐ話せるようになるよ」
「……もしかして桐原さんは喋れるんですか?」
「日常会話くらいは。昔仕事で少しだけ海外にいたから」
「すごいですね、かっこいい! 写真の修行とかしてきたんですか?」
興奮気味になる私に対して、桐原さんはたいしたことないよ、と苦笑する。
場所変えようか、と言われて、今度は桜の木の下を歩く。手に持ったままだったマフラーを桐原さんが引き取ってくれた。
「じゃあどうして日本に?」
「先輩がスタジオを始めたから、それを手伝いに。今はもう独立したけど」
カメラマンさんなんて普段接することがないから、興味深くていろいろ聞いてしまう。
「お仕事ではどんな写真を撮るんですか?」
「いろいろ撮るよ。こういう雑誌の写真撮ったり、広告の写真撮ったり、結婚式の写真撮ったり」
「結婚式の写真ですか? 楽しそうですね」
「お客さんにとっては一生に一度だし、撮り直しができないから神経遣うけどね。でも、喜んでもらえたっていうのがダイレクトに伝わってくるから、やりがいはあるよ」
話を盛り上げてくれながら、シャッターを切る手は止めない。
「ここでもよく撮影するよ」
「ここ?」
「そう。式とは別に、花嫁衣装を着て、自分の好きなところで撮影するんだ。春になったらここで撮りたいっていうお客さんはいっぱいいる」
確かにここ、桜が満開の時に写真撮ったら綺麗だろうなあ。
目を閉じて想像してみる。一面の桜並木で、青空の下に花嫁姿の自分がいて、旦那さんが私にむかって微笑みかけていてくれて。風が吹いて、桜の花びらが舞って……。
想像にシンクロするように、ざあっと風が吹いた。舞い上がる髪の毛を押さえて、桐原さんのほうに振り向く。
「いつか私のことも、桐原さんに撮ってもらいたいです」
おかしなことを言ったつもりはなかったのに、桐原さんはなぜか驚いたような顔をした。カメラを下ろして、じっと私を見つめている。
ーーううん、なんだか、私じゃなくてもっと遠いところを見ているような。
「私、変なこと言いました?」
図々しかっただろうかと思って聞くと、桐原さんはゆっくりと瞬きをした。
「いや……」
それから一瞬だけ目を伏せた。すぐにまたこちらに向いた表情からは、さっきの動揺は消えていた。
「その時は、ぜひご用命を」
おどけて笑う顔は、何事もなかったように元のままだった。
何だったんだろう、と不思議に思うけど、私の勘違いだったのかもしれない。
「もう戻ろうか。そろそろ寒くなってきたし」
確かに風が吹いてきて、顔が冷たくなっていた。手で頬を温めるように包み込んでいると、桐原さんが腕にかけたままだったマフラーをわざわざ首に巻いてくれた。
「ありがとうございます」
子供みたいで照れくさいけど、大事に扱われているようで嬉しい。
「寒そうにさせて怒られるの俺だから」
行こう、と先に立って歩き出す。今度は気をつけてね、と階段のところで言われて、むくれて見せると桐原さんがおかしそうに笑った。
◆
サロンに戻ってからの撮影は順調だった。撮影という行為自体に慣れたのもあるだろうけど、何より俺という人間に慣れたのが一番大きいだろう。終始リラックスした雰囲気で、自然に笑顔を向けてくれていた。
もともとすごく表情の豊かな子なんだと思う。感情が素直に表面に出てくるから、見ていて明るい気持ちにさせてくれる、人を惹きつけるタイプの子。無事に撮影が終了して、ひとりひとりに頭を下げている姿が、なんだか微笑ましかった。
歩いて帰れるから大丈夫、という彼女をようちゃんが無理やり車に押し込んで、家まで送っていった。店に残って簡単にデータの確認をしていると、横から理恵が画面を覗き込んできた。
「掘り出し物だったわね、彼女。色彩豊か、っていうか人目を引く表情よね。うちの雑誌の読者モデル、頼んじゃおうかしら」
理恵が編集をしている雑誌は、読者モデルが複数所属していて、イベントや特集の撮影といろいろと駆り出されている。学生や他に仕事を持っているような子がほとんどだ。
「それに……なんとなく、似てない?」
誰に、とは言わなかったけど、伝わった。俺もそう思っていたから。
「一緒の顔のお前に言われたくないだろ」
「顔じゃなくて、雰囲気がよ。なんていうか、つい目で追っちゃう感じ」
確かに記憶の中の彼女も、人の目を惹きつける雰囲気を持っていた。冷静な理恵とは正反対で、少し抜けたところがあって、どこか放っておけなくて。俺は目を離せなくて、いつも視線で追っていた。
あの時。舞い上がる髪を押さえて振り向いた道端さんが、遠い昔の記憶に重なった。
――私のこと、ここでキレイに撮ってね、ガク。
いつもは思い出したりしないのに、あの場所だったからか、この時期だったからか。道端さんの仕草や表情が、記憶の中の別の女性とどことなく似ているような気がして、心がざわついた。顔立ちは全く違うので、俺だけがそう感じているのかと思ったけれど、理恵にもそう見えたんならやはり似ているんだろう。
「全然似てないよ」
心の中とは正反対のことを口にして、自分の片付けを始める俺に、理恵は何かを言いたげな視線を向ける。あえてその視線は無視した。今まで散々言われてきたことを、もう聞く気はない。
「……写真、楽しみにしてるわ」
一つため息をつくと、何を言っても無駄だと思ったのか、理恵はそこであっさりと話を終えた。
撮影と言っても、写真を撮ってはい終わり、ではない。データを持ち帰って、使えないものを削除したり色彩を補正したりして、きちんと使えるレベルのものにまで仕上げてから入稿する。複数の案件を抱えることが多いから、打ち合わせをして、撮影をして、データの加工をして……というのを何件も同時に進行しなければならない。独立してからは経理とか備品発注なんかの細々とした仕事も自分でしなければならないので、スタジオ勤めをしていた時よりもはるかに忙しかった。このご時世、仕事があるだけありがたいと思わなければならないのだろうけれど。
スタジオ兼事務所の奥でパソコンと向きあいながら、そろそろ一息つこうかと時計に目をやったとき、ちょうど携帯が鳴り始めた。独立するまで勤めていたスタジオのオーナーで、写真の師匠でもある沢木さんからだった。
『おー、ガク、今ヒマか?』
電話に出るなり大きな声が耳に響く。酒やけかタバコのせいか、少し掠れた感じの声だけど、女の子にしてみたらそれが渋さがにじみ出ていてたまらない、らしい。
「暇じゃないです。沢木さんの暇つぶしなら切りますよ」
『俺だって暇なんかねえよ、仕事の話。お前、四月の第三日曜日って空いてるか?』
確か、第三か第四が空いていたはずだ。手帳を開いてスケジュールを確認すると、第三が空いていた。
「残念ながら、第三日曜日だけ空いてます」
『よっしゃ、そのまま空けといてくれ。内容は後でファックスで送るけど、なんかめんどくさそうなクライアントなんだよ。吉川に行かせようと思ってたんだけど、どうにもあいつじゃ荷が重そうでな』
吉川は沢木さんのスタジオじゃまだ下っ端で、一人で撮り始めてまだ経験が浅いはず。
「なんでそんな仕事取ったんですか」
『依頼自体はそんなややこしくなさそうだったんだけど、上司やらなんやらが途中から首突っ込んできてさ。お前、気に入ってもらえたら今度からその会社の仕事持っていっていいから』
沢木さんのスタジオはこの地域じゃ大手で、いろんな依頼が飛び込んでくる。独立して間もない頃はこちらにも仕事を回してくれて、随分助かったものだ。今でもたまに大きな仕事を持ってきてくれるので、本当に感謝している。自分がやりたくないのを回してきてるだけの時も、たまにあるみたいだけど。
「わかりました。空けときます」
『おう、頼んだ。……話変わるけど、お前、ちゃんと休んでるんだろうな? 仕事頼んだ俺が言える義理じゃねえけど』
少しだけ、口調が真剣なものに変わった。多分こっちがメインの用事だったんだろう。
ぼんやりと開いたままの手帳を見やる。三月に入って、季節はようやく冬を終えようとしていた。毎年、この季節になると沢木さんから食事や気晴らしの誘いが多くなる。俺が無理やり仕事を詰めようとするからだ。
『理恵が心配してたんだけど……その、なんだ、おもしろい子を撮ったんだって?』
理恵と沢木さんは恋人同士だ。そして二人しておせっかいだから、いちいち俺の世話を焼こうとする。二人とも昔の俺を知っていて、だから心配してくれるのはとてもありがたいけれど、他人の心配ばかりしていないで自分たちのことをもっと考えればいいのに、と思う。
おもしろい子、とはあの子のことだろう。
道端日南子。
後でもらった資料を眺めていた時に、名前を見つけた。漢字は知らなかったけれど、ひだまりみたいな子だったから、ぴったりだな、と思った。
「大丈夫ですよ、ちょっと似てる子だったってだけで、特にそれから関わることもないし。きちんと休みもとってます。そもそもあれから何年経ったと思ってるんですか」
『そうなんだけど。季節も季節だし、そのモデルの子の年齢も引っかかって』
年齢。今十九歳で、今度二十になるんだったか。
あの頃の俺たちと、同じ年齢。
『まあ、理恵も別にそこまで気にしてないんだろうけどさ。お前も仕事置いといて、今度三人でぱーっと飲みにでも行こうや』
「沢木さんのおごりですよね」
『理恵の分は出すけどお前の分は出さん』
むしろお前がおごれ、という沢木さんに笑いながら、電話を切った。
どうせ理恵が過剰に心配して、沢木さんに話したんだろう。高校からの付き合いの理恵は、昔の出来事に対してたまに俺に見せる負い目みたいなものがあって、それが彼女をまだ縛り付けているような気がする。沢木さんともとっとと結婚すればいいのに、いまだに踏み切れなくて、沢木さんも事情を知っているから急かしたりしない。俺から見れば昔のことに囚われているのは理恵の方だ、と思うけど、きっと落ち込むから本人に言ったことはない。
俺のことなんか放っておけばいいんだ。今は自分のやりたい仕事をやらせてもらっていて、少し忙しいという贅沢な悩みくらいしかないし、そこそこ自由に楽しく暮らせている。別に他に望むことなんてない。
たまに、本当にごくたまに、彼女の面影を小さなことで感じて胸が痛むことはあるけれど。ただ、それだけだ。
◇
三月の終わりに発売された雑誌『パトリ』の、巻頭特集の見開きにどーんと私の写真が使われてから、にわかに学部内に友達が増えた。正確に言うなら、名前だけ知ってる同級生、だ。容子さんのサロンのページはもちろん、特集の最初のタイトルページにまで私の写真が使われていて、周りの人達にはすぐに気付かれた。
「『新しいワタシ発見! 恋する春髪』ねえ。あんた、やっぱり元がいいんだし、普段からもっと気合入れなよ」
お昼休み、混んでいる学食は避けて空き教室でごはんを食べながら、親友の松田愛香が雑誌を広げている。愛香は私が載っているページと目の前の私を交互に見比べて、あーもったいない、とため息をついた。
容子さんのおかげか桐原さんのおかげか、写真になって笑いかけている私は、自分でいうのはナルシストみたいだけど、すごく可愛かった。光の加減で優しい印象に見えて、ふんわりした雰囲気が春っぽくて。雑誌を見た友達は口々に褒めてくれたし、いつもは辛口の愛香でさえ、こうやって可愛いと言ってくれる。
愛香はもともとはっきりした顔立ちで、本人もそれをわかっていて、いかにキツく見えないか日々メイクの研究をしている。今日も授業とバイトしかないはずなのに、きちんとメイクして髪も軽く巻いていた。それに比べて私は、唇の乾燥が気になるから薬用のリップを塗っただけ。偶然学部もバイトも同じだった愛香とは、知り合ってすぐに仲良くなっていつも一緒に行動してるけど、オシャレに気を遣え、と口うるさく言うのだけはちょっとめんどくさい。
「いいの、私は。その写真はプロによる魔法がかかってるだけなんだから」
「あのね、そのままじゃ、例の甘党の残念イケメンに忘れ去られちゃうよ?」
投げやりな返事をする私に、愛香が呆れた目を向けた。
撮影が終わってすぐ、愛香に撮影の様子を話した。もちろん、愛香が目撃した甘党の男性がカメラマンだった、というのも話すと、すぐに興味がそちらに移る。問われるがまま桐原さんの話をする私を見て、愛香は言った。
「ヒナ、その男に惚れたね?」
ヒナも恋バナできるくらい成長したか、とうんうん頷きだして、慌てて否定する。ただ一日一緒に仕事をしただけで、彼のことなど何も知らない。惚れたなんて、そんな大げさな話じゃない。
「かっこいいな、って思ったのは事実だけど、好きとかそんなんじゃないから」
「なに言ってんの、あんたの話し方、まんま恋する乙女じゃない。鈍いしぼんやりしてるし、全然男に興味を示さないあんたが、かっこいいな、なんて思った時点でもう恋なのよ」
強引で、さりげなく失礼なことをきっぱり言い放って、ニヤニヤしている。
「連絡先とか聞かなかったの?」
「聞けるわけないじゃんそんなの」