文庫本の活字を斜めに光が横切る。
ふうっと息を吐き、津原しずくは顔を上げた。
東西線はいつの間にか地上に出ていたらしい。肩越しに窓の外を見やる。
スカイツリーと葛西臨海公園の観覧車、かすかに見えるディズニーランド。
そんなに何度も辿った道ではないのに、妙に懐かしい。どんどん、彼に近づいている。
分厚い雲に遮られていてもなお夏の陽射しは眩しい。
――違う夏なのに同じ光だ。
彼に会いに行くのにぴったりだと、しずくはちょっと綺麗な気持ちになる。
――もう戻らない夏なのに、光は繋がってる。
なんだかそう思ったら、嬉しいような切ないような息苦しさが甦ってくる。
――わたしのいちばん眩しかった夏……。
しずくはふたつ瞬いて、手元の文庫本に目を戻した。
真っ白なワイシャツの背中がふたつ、陽炎の中で揺れている。楽しそうなのに、どことなく寂しげな笑い声が重なって。
しずくは、ただ黙って、そのふたりを見ていた。
――眩しくて、眩しくて、あらゆるものが溶けて、焦げてゆくほどに眩しかった夏。
――わたしは確かに、あの夏にいた。
ターミナル駅で乗り込んだバスの乗客は終点に近づくにつれて減っていく。
いま車内にはしずくとあとふたりしかいない。
みな目的は同じだろう。時間的に考えても。
地下鉄の車内からあまり読み進んでいない文庫本を開いたまま、しずくは既に生温くなったペットボトルの緑茶をこくんと飲んだ。
朝ご飯を食べて来なかったことが、いまになって響いていた。バスに乗る前におにぎりでも菓子パンでも買っておけばよかった。
そう長くいるわけではないし、用事が済んでからどこかの店に行けばいいと思っていたけれど、空腹はなかなかにしんどい。
もう緑茶では誤魔化せない。
さっきから、眠りから覚めて母親を探す子犬の鳴き声みたいに、きゅうきゅうとお腹が鳴っている。
――終点の近くにはお店はなにもないんだよなぁ……。
改めて「失敗」を自覚する。
しずくはまた緑茶を飲んだ。滑り落ちていく温い液体がまた空腹を刺激した。きゅうっとお腹の中の子犬が一際大きく鳴いた。
斜め前のシートに座っていた髪の長い女性がちらっとしずくを見た。
お腹の音が聞こえたのだろう。
恥ずかしい。
恥ずかしくて誤魔化そうとするのに、お腹は遠慮なく鳴り続ける。
隙なく丁寧にメイクした女性がくすっと笑う。長い睫毛とラメの入ったブルーのアイシャドウがとても綺麗だ。
しずくは思わず肩を竦めた。
両手でぐうっとお腹を抑えつけて、なだめてみようと思ったけれど、しずくの中の子犬は相当の駄々っ子で、手のひらの強さをすり抜けてきゅううっと鳴く。
――ああ、もうやだな。
しずくはもう一度誤魔化しにもならない緑茶を飲んだ。
「よかったらどうぞ」
「え……っ」
驚いて顔を上げたら、斜め前の女性が細くて白い腕を伸ばして、小さなバウムクーヘンを差し出していた。
「え、え、あの……っ、えっとっ」
しずくはテンパってしまって、バウムクーヘンと髪の長い女性を交互に見比べた。
コンビニでよく売っているありふれたバウムクーヘンなのに、綺麗なひとが持っているとひどくきらきらして見える。美味しそうだと素直に思えるのは、空腹だけのせいではない、と思う。
「もうひとつあるから遠慮しないで。お腹空いてるんでしょう?」
「は、はあ……」
しずくはまた肩を竦め、身体を縮めた。もともと小柄だけれど、より一層小さくなってしまっていることだろう。
予定ぎりぎりまで爆睡していて朝ご飯を抜き、だからといってどこかで食べ物を買ってくることもせず、公共交通機関の中でお腹が鳴って……。
十九歳にもなって計画性がないにもほどがある。
その恥ずかしさと綺麗な女性から憐れまれた惨めさに、顔から火を噴きそうだ。頬が火照るのに、背筋がひやっとしてしまう。
「この暑いのに食べておかないと持たないわよ」
やわらかく微笑み、女性は続けて小分けになった可愛らしい包装のミニチョコレートも取り出した。
「あと、これもどうぞ」
「は、あの……すみ、ません」
女性の好意を拒むのも忍びなくて、しずくはバウムクーヘンとチョコレートを受け取った。
「有森のファンだよね?」
「……え?」
びくっとして、しずくは女性を見つめた。女性の長い睫毛が急に攻撃性を帯びたような気がした。
もちろん、気がしただけだ。
そんなはずはない。
だって、女性はずっと優しく微笑んだままなのだから。
だいたい、前に来てから三ヶ月以上も間があいている。そのときも目立つようなことはしていない。
挨拶して、軽く会話をしただけ。ものの三分程度のものだった。
もっと長々と引き止めていたファンはたくさんいた。あの日のしずくが周囲の誰かに印象づけられたはずがない。
誰も覚えていないと思っていた。
「有森と喋ってたよね?」
女性は微笑みを崩すことなく、しずくに追い打ちをかけてきた。
「そんなにしょっちゅう来てるわけじゃないのに、有森がすぐに気づいて近づいて行ったから……すっごい覚えてるの」
「すっごい」の部分にひどく力を込めて、女性は言った。右の口角だけが引き攣れるみたいに大きくいびつに上がった。ずっと同じ微笑みの形なのに、その瞬間だけ、般若に似ていた。
「それは……」
しずくは口ごもって俯いた。
ほんとうのことを言えばいい。
簡単な話だ。
それできっと納得してくれる。微笑みの隙間に般若が浮かび上がることはない。
――あの夏のわたしみたいに。
――間違った嫉妬なんてしちゃいけない。
そう思うのに、うまく言葉にならない。
――こういうの、いやだな。すごくいやだ。
「あ、あの……そうじゃなくて……」
「有森とあなたのこと邪魔はしないけど、わたし負けないから」
言いかけたしずくを遮って、女性はそれまでとは別人のような冷たい声を発した。
――負けないって……。
しずくはぎょっとして、顔を上げた。
女性の頬に過る般若が一段と濃くなっていた。綺麗なひとだからより怖い。とても醜い。
間違っているから、更に歪んでしまうのだ。
――違うって言わなきゃ。そうじゃないって。
しずくは曖昧に首を振った。やはりうまく言葉にならない。
――アリモリとわたしは、あの夏を共有しただけ。ただの共犯者。恋でもファンでもない。
――だから、わたしはあの夏に会いにいっているだけ。
頭ではいくらでも反論が浮かぶ。
でも、しずくは女性に言い返すことができなかった。