「全て洗い流すことができる国」とやらに旅立って以来、彼は行方知れずになった。
ある日、彼の親から婚約は解消の方向で考えて欲しいと電話が入った。
「とんでもないです」
わたしは泣きながら答えた。
うちの両親も、「他にも相手はいる」と言った。叔母さんが見合い写真を持って来た。
絶対に嫌よ。親の言葉も見合いも、徹底的に拒否した。
彼は件の国で今も生きているかもしれない。最悪、命を落としているのかもしれないが、それならば遺体を見なくては現実を受け入れることができない。
彼の両親は泣きながら、どうかもう息子は諦めてくれと言っている。
うちの親も泣きながら、頼むから他の相手を探してくれと言っている。
叔母さんはどんどこどんどこ見合い写真を持ってくる。
ついにわたしは、件の国に行ってみることにした。
遠い国で、飛行機を五回乗り継いでから、バスで丸一日かけて走ったところにあった。
非常に貧しい国らしい。砂っぽい道には、ろくな店もない。日に焼けた痩せた人たちが、清々しい表情で元気よく歩いている。町のあちこちに、ごみの山が出来ていた。
「コニチハー」
と、みんな溌剌と通り過ぎてゆく。その中に彼の姿がないか目を凝らしたが、どの顔も真っ黒に日焼けして、みんな同じに見えた。
「なにが、『全て洗い流すことができる国』よ」
汚い町の有様に、わたしは悪態をついた。
町の中央に大きな川が流れている。その川は人々の生活を支えていると言う。
「人探しなら、川辺に行ってみたら」と、通行人に言われたので、川まで行ってみた。非常に臭かった。流れる水の色も汚い。
だけど人々は喜々として、川で水浴びをしたり、水を汲んで家に持ち帰ったりしている。
汚いのは見た目だけかと思っていたら、どんぶらこと何か流れてきた。よく見たら、口をぱっかんと開いた婆様が、ぷかりぷかりと流れている。
「ぎゃっ」
わたしはたまげた。この川には死体が浮いている。
空腹だ。食べ物屋を探していると、笑顔の人たちがワラワラ寄ってきた。構える間もなく、四方八方から手が伸びて来た。ぎゃーと叫んだら「ダイジョブデース」と言われた。
ワラワラ体をまさぐられて、やっとみんなどこかに行ってくれたと思ったら、持ち物がゴッソリなくなっている。
集団スリだ。
パニックになって歩いていると、ゴミ山に行きあたった。あちこちに似たようなゴミ山が出来ているが、一体何だろう。
見てみると、ブランド物のバッグやら、時計やらが捨てられている。その中に見覚えのあるカバンが見えた。わたしのバッグが捨てられている。
慌てて開いてみたら、財布の中身もビザも無事だった。
このゴミ山の品は、集団スリが旅行者を襲って奪った品だろうか。でも捨てるなんて。わたしは首を傾げた。
すぐ側に小さな食堂があった。
良い匂いだ。空腹に耐えきれず、わたしは店に入った。黒い顔の女性が、「ヨウコソ」と言った。テーブルに着くと、料理が運ばれる。美味しそうだ。
「いただきます」
箸を伸ばした側から、ワラワラ手が伸びてきた。
いつの間にか、笑顔の人々に囲まれている。しかもみんな、食べようとしている料理を片っ端から掴んで床に捨てるのだ。べちゃ。びちゃ。素晴らしい料理がみんなゴミ扱いだ。
「やめてよ」
みんな笑顔で容赦がない。最後に、フォークまで取り上げられて窓の外に放られた。
「ちょっと」
わたしは一人の胸倉を掴んだ。その瞬間、人々は笑顔のまま、わたしに襲い掛かって来た。見る間にわたしは赤裸の無一文にされてしまった。
せっかく取り戻したバッグもない。服も取られた。
どいつもこいつも、まるで良いことをしたかのように笑顔で店を出て行く。きっと今取ったわたしの持ち物を、どこかのゴミ山に捨てるんだろう。
追いかけたかったが、丸裸ではそれもできない。怒りで泣きじゃくっていると、店の女性が近づいてきて、背中に布をかけてくれた。
「ダイジョブデース」
女性は真っ黒い顔で、歯が白くて、目が澄んでいる。ふいに、女性の顔に彼の顔が重なった。
「まだ、取り戻したいですか」
女性は言った。
わたしはその顔を見上げる。なにもかも捨てられて、一瞬前まで混乱していたのに、今はどうだろう。
女性はそっと手を伸ばすと、わたしの胸からゴミを摘まみ取るような仕草をした。摘まみ取った何かを、女性はポイっと窓の外に投げた。
一体何だったのかは分からない。
ただ、目に映る景色が急に鮮やかで美しく、清浄なものになった。
窓から入る風は、川の臭いがしたけれど、それすら愛おしいものに思えた。
「コニチハ」
「ヨウコソ」
店に人々が入ってくる。みんな日焼けして痩せて、同じだ。そしてみんな笑顔だ。
わたしは合掌して、頭を下げる。そして、店の女性を振り向き、もう何も取り戻さないで良いですと答えた。