真っ白な天井が、ただひたすら延々と広がっているように感じられた。ここは天国なのだろうか。それとも地獄は真っ白な場所だっだろうか。先ほどから耳鳴りがひどい。頭も痛い。張り裂けそうだ。
 右手で頭を抑えながら、俺はゆっくりと上体を起こした。
 「・・・ああ」
 痛さにうめき声が自然と上がる。

 ここは・・・キッチンだ。電気がついている。俺はなぜここに倒れていたんだ?確か・・・何かに頭がぶつかったような。いや、何かが頭にぶつかったんだ。

 ・・・思い出せない。

 そう思って俺は自分の手を見つめた。

 ・・・あれ?全身にインクが付いている。大量だ。しかも赤い。

 ・・・いや、なんか変なにおいがする・・・これはインクじゃない。腐ったトマト缶がこぼれてしまったんだ。でもなんでトマト缶が?

 「・・・それにしても、静かだ」
 ようやく冷静になった俺は、両手で目をこすった。顔にトマトの汁がついてしまうがそんなことはどうでもよかった。靄がかかったような朧げな視界が、突如回復していった。
 ・・・目の前で、誰かが倒れている。すぐ目の前だ。俺の足がそいつに触れている。

 「・・・うっ!?」
 吐き気がした。改めて両手を見つめた。これはトマト汁なんかじゃない!

血だ!血だ!血だ!!!

 「トム!おいトム・・・起きろ!トム!」
 俺は意識のないトムを起こそうと懸命に彼の肩を揺さぶった。しかし、次の瞬間に、どこか冷静でいられた自分が告げてくれた。彼はもう死んでいる、と。
 見れば明らかだった。血が大量に溢れ出した形跡のある、無数の刺し傷を抱えた胸部。そして肉がえぐれ、中の筋が露わにされた首。それと・・・明らかに凶器として使われていた包丁が深々と刺さった、彼の額。
 「うぅ・・・はぐぅぅっ・・・」
 叫びたくても声が出なかった。理解が追い付かない。しかしそれよりも早く悲しみが自分を襲った。なんでトムが死んだ?いつ?何のときにどうやって?そして誰がこんなひどい真似を?
 どうしてこんなひどい仕打ちを彼が受けなければならなかったんだ。俺たちが何をしたって言うんだ。何がそんなに気に食わないんだよ。何もしていないだろ。俺たちはただ、ここに来て父の形見を整理し、休暇を過ごしに来ただけだろ。
 学校にいた時だって、俺たちが何をしたって言うんだよ。俺とトムはほかに友達がいなくて、ただいつも三人でつるんで遊んでいただけなのに。花にはたくさんの友達はいたけど、彼女だってなにもひどいことなんてしたことはない。
 「花・・・はな!」
 突如脳裏に浮かび上がった花の姿に俺ははっとした。すぐに辺りを見回す。まさか花まで死んではいないだろうか?そう思って今までにないほどの速度で、心臓が激烈に跳ねては落ちる。
 顔を上げればすぐに彼女の姿が見えた。動いていなかった。
 「花・・・」
 花も死んだんだ。俺はそう悟った。
 だが予想に反して、彼女は俺に答えるかのように、小さく柔らかな声を出した。彼女は単に眠っていたんだ。胸が密かに上下している。耳を澄ませば寝息を立てているのが分かる。花はまだ死んでいない!
 「んん・・・」
 「花!花起きろ!花!」
 俺はすぐに彼女のそばに行って彼女の肩を揺らした。
 「・・・まだ学校に行く時間じゃないでしょ」
 「何を言っているんだ花!目を覚まして!」
 寝言を言っている花を起こそうと俺は必死になっていた。
 「・・・」
 「花!起きて!」
 そしたら、花がようやく目を細々と開けた。じっと俺の事を見つめている。
 「・・・リアム・・・あれ、なんで私の部屋の中にあんたがいるの?」
 「花、違うんだ。早く目を覚ませ。トムが死んだんだ!」
 「トムもいるの・・・?」
 「違うって!トムが死んだんだ!ここはお前の部屋じゃない!屋敷の中だ!父さんの別荘の中だよ!」
 「別荘・・・・・・はっ!トム!?」
 ようやく気付き始めたようで、彼女は勢いよく体を起こしてトムの方に顔を向けた。
 「――ああああああああああああああああああああああ!」
 彼女の悲鳴に俺は思わず耳を塞いだ。無音な中、彼女がキッチンの床に何かを吐き出したのが見えた。
 「トム!トムトムトム!うそでしょ!ねぇ嘘だと言ってよトム!こんなのないって!なんでそんなことをするのトム!?」
 今度は花がトムの肩を揺らし始めた。俺はただただそれを見つめることしかできなかった。
 「神様・・・」
 床に腕を着かせ、彼女は顔を埋めて泣き声を上げた。
 「花・・・」
 俺は彼女を背後から抱く。何がどうなっているのかわからないし、トムの死体が突然目の前に出てきたことに関して悲しみが押し寄せてきているのは、俺も同じだった。
 「リアム・・・なんでこんなことに」
 「わからない。目が覚めたら、お前が意識を失っていて・・・そして俺のすぐ横で、トムがこうなっていたんだ」
 震える声で、俺はそっと彼女の横でそう言った。彼女の体も震えていた。
 「起きている前のこと、何も覚えていない?」
 「・・・わからない。目の前を歩いていたリアムが誰かに打たれて倒れて、それでトムがこっち側を向いてきたの。多分私の後ろに誰かいたんだわ。それからはもう何も覚えていないの。頭が痛い」
 どうやら花も頭を打たれて気絶させられたようだった。
 記憶がどんどん蘇っていく。そういえばさっき、トムが犯人の一人を撃退してくれたのだった。そいつがキッチンに戻ってきたのか?それとも、ほかにキッチンに潜んでいる奴がいたのか?
 謎はそれだけじゃない。
 なんで犯人はトム一人だけをこれほどにまでむごくしたのに、俺と花は無事だったんだ。犯人に恨まれていたのは花のはずだった。不本意ではあるが、推測どおり行くと、起きた時に見つかる死体は、トムじゃなくてむしろ花の方であるはずだ。なのに一体なぜトムがこんなひどい仕打ちに遭わされたんだ?犯人をガラス棚に押し付けたから?それで怒って先に殺してしまったとか?
 謎が謎を呼んで一向に解決の糸口が見えてこない。知らぬ間に迷宮の深淵に自分が誘われてしまっていたようだった。何かがおかしい。その何かがなんなのか、まったくわからないけど、絶対に一筋縄では解決できないような、当初予想していたよりも何か相当深刻なことに俺たちが絡んでしまっているようだ。そのようなことにここになって初めて、俺は強く自覚した。
 
 ――きゃあああああああああ!

 「今の聞こえたか?」
 はっとした俺たちはすかさずキッチンの出口の方へと顔を向けた。
 「広間の方からよ!ジェイクとクローデットが危ない!」
 そういうなり、花は立ち上がって広間へ通ずる廊下へと走り出た。
 「おい待て花!一人で行動するなっ!」
 俺も慌てて彼女の後ろについていった。彼女が誰かに攻撃されないよう、急いで彼女のすぐ背後まで猛ダッシュで駆け着く。
 長い廊下を移動するのに掛かった時間は一瞬だった。すぐに俺たちは目の前に現れた大きな門を押し開け、視界に広がった広間の光景を目にした。
 テーブルのすぐ横にあったのは、大量の血を流して倒れこんだ、ジェイクの死体だった。
 「助けて!いやっ!」
 クローデットの悲鳴が聞こえる。俺はすぐにその方向へと走っていった。広間の端、またフードパーカーを着た男だ!彼がクローデットを追い詰めていた!
 男の真っ赤に染まった手には、血が滴り落ち続けるナイフがあった。しかし、そんなことに構っていられるほど、俺は考える余裕がなかった。

 すぐに彼の腰へと飛びつき、明後日の方向へと突き飛ばす。先ほどトムがやったように。
 
 そして俺は彼と一緒に床に倒れこんだ。

 彼の方が先に立ち上がった。右手に持ったナイフを高く持ち上げると、仮面から漏れた右目でじっと俺の方を見る。真っ黒な瞳がまっすぐと俺の目を見ていた。さっきの男だった。

 この体勢では避けられない。すぐに自分の周辺に何か落ちていないかを確認する。

 だがこの探している空白の時間が甘かった。男はナイフを下ろし、俺の顔めがけて突き出した・・・が、ナイフが俺の目玉に刺さりかけたその瞬間、動きが止まった。
 「・・・え?」

 「んああっ!」
 花の叫び声とともに、鈍い音が響き、男は勢いよく崩れた。意識を失ったようだ。それを見た花は両手に持った蝋燭台を床に落とし、急いでしゃがんで俺の顔に手を当てた。
 「リアム大丈夫だった!?」
 「あ、ああ・・・助かった」
 花の頭を一撫でして俺はゆっくりと立ち上がった。そしてすぐに後ろに向きを変える。
 「クローデット、大丈夫だった?」
 「クロエ!」
 俺よりも先に花が涙声になりながら彼女の方へと飛びついた。
 「クロエ大丈夫?怪我はない?」
 「私は大丈夫だけどジェイクが・・・」
 落ち着かない声でクローデットはそう言う。
 俺はすぐにジェイクの方へと駆け寄った。だがもう遅かった。彼は喉を横に裂かれ、その上首の動脈まで切断されていた。もう息はしていないし、脈もない。
 急に得体のしれない怒りが込みあがった。なぜかわからないが、トムが死んだとき以上に、俺は怒りを覚えていた。そしてその怒りの矢先は明白だった。言うまでもなく、あの男へだ。
だがなぜかまたすぐ収まった。
 しかたなく、テーブルに掛かっていたクロスを引っ張って、彼の上に掛けた。そうしているうちに、トムにもそうさせてあげねばと今更になって気づいた。だが今ではない。
 少しの間目をつぶって祈りをジェイクに捧げると、俺はすぐに二人の方へと駆け寄った。
 「何か紐みたいなものはある?」
 男が意識を失っている今のうちに縛っておかなければ、また惨劇が繰り返される。俺はすぐに二人と一緒に探すことにした。
 「あ、これなんかどう?」
 そういってクローデットが持ってきたのは、まあまあの長さがある丈夫な鎖だった。そして、彼女は「こっち」と言って別の置物台の方まで俺を連れていき、そこから南京錠とカギを探り出した。
 「整理しているときに見つけたの。まだ覚えていた」
 俺は頷いて感謝し、花と一緒に男を一本の太い柱へと運んだ。花が女子だからということもあったが、何よりも自分たちよりも年上な男性の体を運ぶのに、ものすごく力を要した。そしてそれと同時にクローデットが鎖をあらかじめある程度柱に巻き付けてくれた。
 男を座らせ、背を柱に付かせると、残った鎖を彼に巻き付けた。そして最後に柱の裏で南京錠を止め、俺がカギを持つ。落とさないよう、深々とポケットの中に突っ込んだ。
 そして、花が追加に持ってきたガムテープで入念に彼の足を一本に巻き付け、彼が完全に身動きが取れないようにする。
 一通り終えると、俺たちはふと一息吐く。休みたいは休みたいのだが、ほかの男の仲間がすぐ近くに潜んでいるに違いないと感じた俺は、床に座ろうとした二人にも警戒しろと注意した。またいつどこで奇襲を仕掛けられてもおかしくない。トムやジェイクの二の舞はもう絶対にあってはならない。もう誰も死なせたくなんかない。
 重体の叔父を除けば、ここに残っているのはもう俺と花、そしてクローデットの三人しかいない。
 まだ何も終わってなんかいない。これからが始まりだ。
 嵐もまだ、まったく収まっていないじゃないか。