状況が一変した中、叔父の提案によって皆一度広間に集まることにした。広間の電気をつけ、そして広いテーブルの一辺に、皆座ることにした。
あまり眠れず頭が若干クラクラするが、それよりも橋が崩れてしまったことに衝撃を覚え、眠気がすっかりと消えた。俺は寝間着から普段の服に着替えると、寝室から出て急いで広間に向かった。
その時、皆はもうすでにそこにいて、大人しく座って何かを待っていたようだった。
「どうかしたの?」
俺は階段を下りながらそうみんなに尋ねた。声が広間で響き渡る。すると、花が顔を上げてこちらを見てきた。
「おじさんがついさっき外に出たの。橋を見に行くって。私たちは危ないからここで待っていなさいだってさ」
「そっか」
テーブルまで着くと、椅子をガラッと引いて静かに腰を下ろした。
トムと花が話をしている中、クローデットはずっと俯いていて、ジェイクは頭を抱え込んで深刻そうになっていた。よく聞いたら何かをつぶやいている。
「やばいよ・・・やばいよ・・・」
「ああもううるさいなっ。橋が嵐で崩れただけでしょ。嵐が過ぎるのを待てばすぐになんとかなるって」
クローデットが煩わしそうにジェイクを叱った。
「いやな予感がするんだ。みんなに分かるかどうか知らないけど、この屋敷・・・昼と全然空気が違う」
「ふん・・・え、なに。ジェイクってそういうキャラだっけ?」
横耳を立てていた花が幽霊を装ったポーズをわざとらしくしてジェイクをからかう。しかしジェイクは笑ったりも、怒ったりもしなかった。いたって真面目に、そして自分の身を両腕で抱え込むように、静かに座って小刻みに体を震わせていた。
「何か見えるの?」
俺は気になってそうジェイクに恐る恐る尋ねてみた。
「ちょっと待って、リアムってそういうの信じてるの?」
「いや・・・でもジェイク見てると嘘をついているようには見えない」
「映画の見過ぎだって。探偵さんになった気分でいるでしょ」
相変わらず能天気な花はそうからかうことしかしなかった。だが俺はジェイクの気持ちが少しは理解することができた。あの時、屋敷のドアをトムが閉じたあの時から、なんとなくではあるが何か嫌なものを感じてはいた。
「幽霊は存在しているんじゃないか?」
トムがいたって真面目にそう花に言う。
「はいはい」
花はトムの言葉を適当に流した。
そして突然、広間に大きく響き渡る音がして、全員が屋敷のドアの方へと目線を向けた。叔父が外から帰ってきたのだ。レインコートを着ていったはずなのに体全身がびしょ濡れになっていて、まるで川に落ちた鶏のようだった。髪の毛から絶え間なくしずくが滴り落ちて、彼はタオルを持ってきてくれと頼んできた。トムがあらかじめ準備したのを彼に渡すと、彼は頭を拭きながらテーブルの方へと近づいてくる。
そして両手をテーブルに着かせ、深刻な表情をした。みんなにもっと近寄ってと目で合図を送ると、ゆっくりと口を開ける。
「いいか。よく聞け」
「どうしたの?」
「さっき橋を調べてきた。渡った時はあまり気にしていなかったから、よく観察していなかったけど、どうやらあれは端をいくつもの鎖で繋げていたようなものだったらしい」
「それがどうかしたのですか?」
叔父の言葉にクローデットが眉を顰める。叔父はじっと彼女の目を見つめ、そっと言った。
「その鎖が何者かによって切られた形跡がある」
叔父がそう言い終えた後、しばらくの間沈黙が続いた。いつも一番に口を開く花でさえこの時ばかりは不審がって顔を歪め、この不気味な状況を整理しようと黙っていた。
「それ・・・嘘じゃないよね?」
「俺は嘘をつかない男だ」
俺の質問に叔父は真剣なまなざしで返した。
「それってつまり・・・この屋敷にいるのが私たちだけじゃないってこと?」
口に親指の付け根をつけてクローデットはそう叔父に尋ねた。
「・・・かもしれない。もしくは、この中の誰かがやったのか」
「でもそれはあり得ない。だって橋が崩れたあの時、音が鳴った後みんなすぐに部屋から出てきたもん。唯一出るのが遅かった花でも、あんな短時間で橋の場所から部屋に戻って、でそれで着替えるっていうことができるはずがないよ。二階の部屋に戻るのに階段を上って廊下を通らなきゃいけないし、そうだとしたらバレバレだから」
推理を開示した後、クローデットは自分で言ったことに寒気を感じて身を縮こめた。
「でも、そうだとして、いったい誰がこの屋敷の中にいるって言うの?」
花がいっそう苦々しい表情を浮かべながらそう尋ねる。
「少なくとも泥棒だったり、俺たちが来る前までここで居候していたかもしれない空き巣野郎でもないな。でなきゃ橋を切る必要なんてない。ただの自殺行為だ」
叔父が少し考えてからそう答える。
「だとしたら俺たちを狙っているってこと?その誰かっていう人は」
トムがそう言ったことによって、また急に寒気が体に押し寄せてきた。
金品を盗む目的でも、強盗をする目的でもない。なのだとしたら、橋を切る唯一の目的はほかでもない、この俺たちを狙っているのだ。でも誰が、どういった目的に俺たちに用があるのか。
しかも橋を切るということは、俺たちが逃げないようにルートを遮断したということだ。嵐のせいで流れが急なあの広い川を泳いで渡ることはできず、だからといって西側に進みたくても、森林が果てしなく広がっているだけで嵐の中だと遭難しかねない。俺たちは今、間接的に閉じ込められたようなものだ。この広い屋敷の中に。
その誰かは相当俺たちに執念が深いようだった。
「終わりだよ。やっぱりおかしかったんだ。ここに来るべきじゃなかった・・・」
ジェイクが弱々しい声を出して両手で耳を塞いだ。みんなが沈黙して考えている中、彼だけはもうパニックに陥って何もかも考えられなくなっているようだった。
「この屋敷は呪われている・・・あの町の人たちが噂していた通りなんだ!来るべきじゃなかった。本当に来るべきじゃなかった・・・」
「そんなこと今更後悔したって仕方ないでしょ!」
ジェイクの弱音にうんざりして花がきつい口調で責めた。
「じゃあどうしろって言うのさ!このまま帰れないじゃないか!嵐が去る前にみんな死ぬんだ!」
そこまで言うと、叔父がいきなり人差し指を唇の前に立てて慎重になった。目玉を上に向け、何かをじっと伺っている。
「今度は何?」
あきれた花は面倒くさそうにそう尋ねる。
「今さっき物音がした・・・」
そう言われて皆が静かになると、突然
――コトンッ
「はっ」
クローデットが思わず息を吸う。確かに、今何かに静かにぶつかった音がした。この広間の上の方からだった。真上の部屋は二階用の応接間のようなところになっていて、そこもここよりかは狭いが、結構スペースがある。
「ちょっと見に行ってくる。お前らはここで待っていろ」
そういって叔父は立ち上がった。
「俺も行きます」
それを見てトムも立ち上がったが、すぐに叔父に止められた。
「危険すぎるから駄目だ。お前らはここで待っていなさい。絶対にこの広間から出ちゃだめだ。わかったな」
テーブルに手を当てると、叔父は立ち上がって階段を上っていった。
再び静かになった広間、少しの間、誰もしゃべろうとはしなかった。携帯を除いて圏外であることを再確認する奴もいれば、椅子の背にもたれこんで全身を脱力させていた奴もいる。
突然左手に何かが触れた気がして、左を向いたら花がこちら側を見ていた。
「どうかしたのか?」
花がものすごく心配そうな表情をしている。
「おじさん、本当に一人で大丈夫なの?やっぱり誰か一緒に行ってあげた方がよかったんじゃないかな」
「安全かどうかはわからないよ。でも大丈夫。確か叔父は拳銃を持っていたはずだから。多分寝室に取りに行ったと思う」
「でももし館に侵入した人が一人じゃなかったら?」
花の顔がみるみるうちに青ざめていく。俺は彼女の背中を軽く叩いて落ち着かせようとした。
「きっと大丈夫さ」
――バンッ!
「ああっ!」
くぐもった一鳴りの銃声とともに、場に居合わせたみんながそれぞれ軽く悲鳴を上げた。
しかしそれだけじゃあ終わらなかった。
今までずっと部屋を照らしてくれていたシャンデリアの光が突然消え失せ、部屋全体が真っ暗に。「キューーーン」と徐々に音のトーンが下がるような電子音がし、屋敷の電源が下げられたことに気づいた。あたりはたちまち真っ暗な状態へと化してしまった。不幸中の幸いというべきか。真っ暗ではあったが部屋全体の姿を確認できないほどではなく、みんなの姿もしっかりと確認することができた。ただテーブルを通り越した奥の廊下、そして階段の上へと続く二階の方までは、もう何もかもが闇に溶け込んでいた。
そして数秒間の静寂。
・・・
・・・
・・・
お互いに顔を見合わせ、極端に目を大きく見開かせる。心臓がドクドクし始めた。体が寒い。そして脈が尋常じゃないほど速い。みんな緊張している。俺もそうだ。
「今のって・・・」
怖気づいた顔でクローデットがためらうように口を開く。
「銃声だ」
トムが天井を見てそう続けた。
「もう無理!もう無理だよ。ここから逃げないと!奴がここに来るのも時間の問題だって!」
突如ジェイクが荒々しい声を上げ立ち上がった。
「落ち着いて、まだ何もわかっていない。きっと今の銃声はおじさんが誰かを倒したんだよ」
慌ててクローデットがジェイクを落ち着かせようとするが、ジェイクはもう気が気でなかった。ネズミのように呼吸を全身で表して二階の方をずっと見上げ続け、そしてサッとテーブルの向こうの廊下に向かって走り出した。
「おいジェイク!」
「どこに行くの!?」
みんなが呼び止めようとする中彼は誰にも反応せずそのまま奥の方へと姿を消してしまった。それを追ってトムも急いで彼の後を追っていった。
俺を含めた残る三人はじっと身を固めたままそれを見つめることしかできなかった。
「やばいよこのままだとジェイクも死んじゃう!」
「ジェイクもってどういうことよ?」
「そんな些細な間違いを訂正している余裕があるの?」
花とクローデットが論争を始めようとしたため、俺が慌てて間に入った。
「待って、今は仲間割れしている場合じゃない。落ち着け、落ち着くんだ。いったん状況を整理するんだ」
俺は二人を見ながら話をつづけた。
「さっき俺たちもトムについていくべきだったんだ。みんなで固まった方が絶対に安心できたのに。これだといずれはみんな散りばめられて相手の思うつぼになってしまう」
そう言ってあたりを見回す。そしたら、テーブルの上に蝋燭台があることに気づいた。その上にまだ少ししか使われていない蝋燭が刺されているのが分かる。
「・・・とりあえず明かりをつけよう。誰かライター持っている?」
俺がそう聞くが、
「持っているわけないでしょ・・・」
花が力なくそう答えた。クローデットを見ても、彼女は頭を横に振る。仕方なく部屋の端に置かれている置物台を適当に漁っていった。そして引き出しを開けた時に、かろうじてまだ燃料が残っているライターを発見して、急いでそれを使って蝋燭を一本灯した。そしてその蝋燭を使ってほかの蝋燭にも火をつけ、光った蝋燭台を合計四個くらいそれぞれテーブルに均等よく置いた。
「私たちはどうすればいいの?」
一通り終えて花が俺にそう訊いてきた。
「わからない。叔父とトム、あとジェイクが帰ってくるのを待つしかないと思う。明かりをつけたから、これでちょっとは周りが確認しやすくなったと思う。いいか、俺たち三人は絶対に離れちゃだめだ。この屋敷はもう一人で行動できるほど安全じゃない。何かあっても絶対に誰かと一緒にいよう」
俺の言葉に二人は頷いた。
それから数十分が経った。居ても立っても居られない状況であるというのに、何もできることがなくて、俺たちは焦りに焦っていた。そしてちょうどその時、二階の方からいそいそとした足音がした。重なって聞こえたので、おそらく二人くらいが近づいてきていると考えられる。
警戒していた俺たちだが、階段から降りてきたのはトムとジェイクだった。ものすごく深刻そうな表情をしているトムとは対照的に、ジェイクはもう放心し切ったようで、むしろ少々さわやかとも捉えられるような表情をしていた。
「リアム、やばい」
会って早々トムはそう口にした。さきほどのジェイクとまではいかないものの、今度は彼が荒い息を立ててものすごく緊張しているようだった。
「おじさんが・・・お前のおじさんが」
トムがそう言いかけ、まだしゃべり終わっていないというのに、俺はすぐになにが起こったのかを悟った。彼の肩に手を乗せて「早く連れて行ってくれ!」と叫んだ。
はぐれてしまうことを心配して、俺たち五人はみんなで叔父のところに行くことにした。場所は二階の北側外廊下、広場からずいぶんと離れたところに位置する場所だった。トムとクローデットが蝋燭台を持って、辺りを照らしながら進んでいった。
そして到着したすぐ、俺たちの目に飛び込んだのは床で横になっている叔父だった。持っていたはずの拳銃は彼を襲った者に取られてしまったのか。彼の周囲のどこを見ても出てこない。血に滲んだ服からは鉄の匂いやほかの匂いが混じって少し嗅いだだけでも吐き気を催した。血のにじみ方を見た感じだと、お腹に一刺し、そして右胸に一刺し、何か鋭い刃物でやられたようである。
俺たちは最初、ただポカンと口を開けてその惨劇を見ることしかできなかった。しかし、恐る恐る近づくと、まだ彼が虫の息をしていることがわかり、やけに全身から安心感が伝わってきた。まだ死んでいない、と。
「とりあえず広場まで運ぼう。そこにいた方が安全だよ。リアム、ジェイク、手伝ってくれ。花はこれをもってくれ」
トムが最初に動き始めた。何か担架替わりになるものがないかと探していたが、何も見つからなかったため仕方なく三人の手で叔父の体を支えることにした。体は思ったより重く、三人でやったとしても力を抜くことは許されなかった。明かりを持った二人はそれぞれ、花が先頭を歩き、クローデットは後ろの方を歩く。
叔父を二階から降りて広場のテーブルまで乗せた時には、全身が熱くなって、背中の方が汗でびっしょりしてしまった。ここに来て、俺は初めて今は夏の季節だったということに改めて気づかされた。今までずっと寒気しかしてこず、まったく暑いと思えなかったのだ。
叔父に意識はなかった。体もピクリとも動かないが、わずかながら息をしている。しかし、助けを呼ぶことも、これから外に出て病院に駆けつけることもできない。
困った俺は頭を抱えて悩み果てるしかなかった。
蝋燭の火が訳もなく揺らめく。風も吹いていないのに、今の惨劇に動揺しているようなそぶりを見せているのか、左へ右へと絶え間なくその身を動かしていた。
「なぁトム。叔父を発見した時、お前は犯人を見たのか?」
止血をする目的で、叔父の刺された箇所を布で軽く押さえ付けながら、俺はトムを見ずにそう尋ねた。
「見ていたら俺もおじさんと同じ様になっていた」
「・・・そっか」
そう言われて愚問を口にしたのだということにはじめて気づく。
花とトムは広間のどこかに消毒液があるかどうかを探していた。あるわけもないとは思うが、このまま何も手当てしないと叔父の傷がさらに早いスピードで悪化していく。そしてジェイクはずっと椅子に深々と座りこんだままで、クローデットは何かを考えていた。
「ねぇ。思ったんだけど、やっぱり犯人って、一人だけじゃないんだと思うの」
ふとクローデットがそうつぶやいた。その言葉にジェイク以外のほかの二人が一斉に彼女の方を向く。
「なんでそう思ったの?」
花がすかさずそう尋ねる。
「だって、タイミング的に一人じゃありえないの」
「どういうことだ?」
「ほら、だって銃声がしたあの時、あの後すぐに屋敷の電源が落とされたでしょ。でもさ、よくよく考えてみれば、おじさんが倒れていたあの場所と、この屋敷の電源装置がある場所って、お互いに全然近くないじゃん。電源装置はこの屋敷にいくつもあるけど、おじさんが倒れたあの場所からものすごいスピードでどの場所に走っていったとしても、限界はあると思うの」
「確かに」
俺は思わずそう口にした。自然と目が見開き、さらに寒気が襲う。
「つまり、叔父を殺そうとした犯人と、電源を下ろした犯人の少なくとも二人がいるというわけだ」
そう俺が付け足すと、不意にジェイクがつぶやいた。
「僕見たんだ。トムが倒れていたおじさんを見下ろしていたところを」
「――待って、それどういうこと?トムが犯人とでも言いたいの?」
その言葉に花が一番に食いついた。トムも一瞬手元を止めてテーブルにいる俺たち三人の方に顔を向けた。トムが犯人なわけがない。そう花は思っているのだろう。それには俺も同感だ。トムが犯人なわけがない。
「さっき屋敷の中で迷っちゃったんだ。それであの北廊下の方まで知らない間に行っちゃって、でそこでトムがおじさんの横に立っていたのを見たんだ」
腕を枕代わりにして、ジェイクは顔を埋めながらくぐもった声でそう付け足す。
「え?トムがジェイクを見つけて、そのあとに二人でおじさんが倒れているのを見つけたんじゃないの?」
想像していた事実と違って、予想外な言葉にクローデットがジェイクにそう確認した。ジェイクはわかりづらく頷いた。
「そうなのか?トム?」
そう俺が尋ねると、トムは「ああ」と簡単に応答する。
「だとしたら・・・わからないかもしれない」
恐る恐るクローデットはそう言った。前で手を組んで口を隠し、目を横に泳がせる。こちら側を見る勇気がなかったようだ。
「トムがそんなことするわけがないだろ」
信じられないという感じに一笑いして、俺はそうジェイクとクローデットに軽く叫んだ。トムが人を殺すわけがない。小さいころから一緒にいた俺だからわかる。あいつは冷酷無情な奴とは真反対で、むしろ人を進んで助けるような人間だ。さっきだって、ジェイクが走り去った時、一番に追いかけていったのはトムじゃないか。
「あくまでも可能性の話だよ。おじさんがこんな状態になったんだから。誰だって正常に判断なんかできたりはしない」
クローデットがさらに付け足す。
「いや、トムは違う」
俺は断固そう言い張った。
「考えてみろよ。俺たちはみんなまだ子供だぞ。それが一人の成人男性を、しかも拳銃を持っている奴を力まかせに倒せると思うか?」
「そうよ」
花が俺の肩を持つ。
「でも、トムならいけるかもしれない。ものすごく強そうだし、拳銃を持っていたとしても、後ろから奇襲をかけたのなら、無理な話でもない」
尻すぼみになりながらも、クローデットはそうしっかりと発言した。トムはさっきからずっと黙ったままで、身動き一つ取ろうとしなかった。
「どうしてそうトムを殺人犯に仕立て上げたいの?」
衝動に駆られて花は立ち上がってクローデットの方に向かって叫んだ。少し声が震えていた。
「落ち着いてって。だからあくまでも可能性の話だから」
「可能性の話って・・・トムを信じていないからでしょ!」
「こんな状況下で誰を信用すればいいって言うの?」
クローデットの言葉に花は一瞬言葉を詰まらせる。
「・・・だとしても、トムは絶対にやっていない!っていうかそんなことより、あなたたち二人もそこでずっと座っているんじゃなくて、少しは役に立とうとしたら?」
「そっちこそそんなに怒らないでよ。あなたたちがどれほど友情深いだろうとトムに疑いがかかってしまう状況になっているのは客観的に見て当たり前でしょ!」
ずっと我慢していたクローデットもついには叫び口調になってしまった。またクローデットと花が喧嘩を始めようとする。俺はまた慌てて立ち上がった。
その時。
「バンッ」と響のいい音がして、みんなが固まった。音を出したのはトムだった。彼は先ほどと同じように荒く呼吸をしながら、みんなを交互に見つめた。そしてゆっくりと口を開いて声を出す。
「俺、犯人を捜してくるよ。おじさんの仇を取りたい。それに自分が無実だってことも証明したいから」
トムの言葉に俺はすぐに乗った。
「それなら俺も一緒に行く。協力する」
「危ないよ・・・ここで待っていた方がいいって」
さっきとは反対に花はそう留まった。しかし、いくら言っても揺るがなさそうな俺とトムを見て、花も渋々手を挙げて「私も行く」と一言言った。
「僕は絶対に行かない。絶対に!」
聞いてもいないのにジェイクはそう主張した。そして俺たちは残ったクローデットに目を当てた。
「・・・私もパス。こんな殺人犯が徘徊している屋敷をうろつくのは自殺行為だし、それにおじさんだって誰か見守ってあげる必要がある。広間が安全だとは思わないけど、少なくとも誰かに追われそうになったらすぐにでもこの屋敷から出られるから」
そういって彼女は玄関の方に顔を向けた。
不本意ながらも、また俺たちは二つのグループに別れてしまった。さきほど言ったようにあまり散ってはいけないのだが、トムに疑いが掛けられてしまっては元も子もない。
こんな屋敷の中をぶらつくのは正気でないことは十も承知しているが、花とトムの二人と一緒に行動できるのであれば、少し安心できそうもあった。なんとなく胸が高鳴り、俺たちは武器になりそうな鈍器をそれぞれ持って、広間から廊下に出た。
暗い廊下の中をひたすら歩き続け、そして部屋を順に一つ一つ調べつぶしていくことにした。いつどこでどのような感じで不意打ちをされてしまうのかが予想できないため、俺たちは前後左右を手分けして絶え間なく見続けながら歩き、屋敷の中を探索しなければならなかった。
俺たちの主要な目標は犯人を捜すに他ならない。自分たちの身を守るため、そしてその犯人により良いダメージを与えるために、道中で見つけた殺傷力の高いもの、例えばカッターナイフだったり、果物用ナイフだったりにもともと持っていた鈍器を取り換え、そしてさらに屋敷の奥深くまで足を踏み入れた。
しかし、それ以外にも二つやることがあった。
一つ目はまず電源を入れることだった。
電気がつけられるだけで、視野の広さが全く違くなるし、もしかしたら犯人も見つけやすくなるかもしれない。なにより、みんなが落ち着ける。人間は暗闇を怖がる。一寸先が闇であると、どうしても慌ててパニックを起こしやすくなるのだ。だから喧嘩も起こりやすい。今の状態で仲間割れがこれ以上起ころうとしたら、それこそ全員が死ぬ最悪の事態になりかねない。
また、犯人を見つける可能性がより高くなるためにも、俺たちはまず電源装置がある場所を目指して歩くことにした。
そしてもう一つの目標は、叔父の傷を癒すための医療道具を取るためだった。アルコール、ガーゼ、ハサミ、その他もろもろ。広間をトムと花がずっと探してくれたが、さすがに見つかるわけもなく、仕方なく叔父にはもう少し耐えてもらうことにした。おそらく、目当てのものは全部一階のキッチンにある。しかし、キッチンは一階の一番奥に位置しているため、最後に向かうことにした。奥の方でも上下をつなぐ階段がある。その時に道順としてそこへたどり着けるのだ。クローデットの料理の手伝いをみんなでしていたから、そこら周辺の間取りはなんとなく覚えている。
「えっと・・・地図によると、ここをまっすぐ行って・・・ああ、廊下の突き当りだ。そこを右に曲がってさらに歩いていけば、真ん中あたりに引き戸があって、その部屋の中にあるらしい」
叔父の胸ポケットから取り出した地図を広げながら俺はそういう。地図を見るときは歩かず、いったんみんなで止まって、確認ができてから歩くことにした。これで不意打ちに合う確率も下がる。
「電源装置はすぐそこだ。早く行こう」
そう言って、俺たちはまたゆっくりと歩き始めた。
「イッテ・・・」
後ろにいた花が突然そう言った。そのため俺とトムは突然立ち止まって彼女の方に顔を向ける。花は前を見ておらず危うく俺にぶつかるところだった。
「どうした?」
「いや・・・ナイフで指をちょっと切っちゃっただけ」
俺の質問に彼女は目をそらしてそう答えた。
「びっくりさせんなよ」
ため息を一つ付いて俺はまた前の方を向いた。一刻を争うようなこの時にいちいち止まってはいられないのだ。
「・・・ごめん」
そう花が小さな声で言うと、
「まあ、花は前から傷を作りやすい奴だからな」
サポートに回るようにトムがそう言った。
「ま確かにな」
俺も応ずる。
「女の子にしてはちょっぴり元気が良すぎだ。学校の階段を半階分一気に飛び降りたり・・・それに俺たちの学校の中で走るスピードが三番目に速いし。男子を混ぜてだぞ?」
「女の子が元気じゃおかしいって言うのは性差別でしょ」
「別に俺はいけないとは言っていない。ただお前、俺たちがいなかったら当初、独りぼっちだったじゃないか。女子の輪にも入れそうになかったし」
トムがそういうと、俺は改めてあの時の花を思い出した。あの時まだ英語もろくに話せなかった彼女は、そういった言葉の壁もあってなかなか誰かに話しかけることができなかった。
日本人はみんな控えめだってことは聞いたことあるけど、まさかあそこまで陰キャ気質なやつらだとは想像できなかったし、なによりあいつが学校に来て誰にも話しかけなかったことに驚いた。ずっと俯いて机を見つめたまま座っているだけで微動だにしないし、誰かが声をかけても頷くばかりで、自分の意見を一向に言おうとはしない。まるで銅像のようだった。
「そんなこと言っているけど、今こうして三人でいるのもだって結局のところあなたたちが私のことを気になったからでしょ?」
花はおそらく、俺たちと花が一緒に遊ぶようになったのは俺たちが彼女に積極的に近づいていったからと言いたいのだろう。
「やまあ、それも否めないけどな」
トムがやや照れ臭そうに笑っている。前を向いているから、彼がどんな表情をしているかはわからなかったが、明らかに声が柔らかくなっていた。
「でも、お前さ。あんなに静かだったのに、一緒に遊ぶってなったとたんに元気が出たじゃないか。俺けっこう気に入っていたんだぞ。あの頃のお前が。なんていうか、ほら、よく言うジャパニーズ・レディ、ってやつ。おしとやかで、陰から男を支えるような・・・とにかく独特な柔らかいっていうか、そんな感じのオーラが漂っていた」
言葉を何となく濁しながら俺はそう口にした。
「それただ花が好きなだけだろ」
トムが笑ってそう俺を茶化す。
「んなこたあねぇよ」
「いや、俺は覚えている。花と会って間もない時・・・まだ完全に俺たちとコイツが一緒になじめていない時だよ。あんときさ、お前興奮して俺にこう言ったじゃないか。『あいつは俺の隣に引っ越してきたやつだ!』って。覚えているか?」
トムがそう言うと、脳内に顔を赤く染めた当時の自分の顔がだらしなく映った。
「覚えてねぇよ。ってかお前ちゃんと後ろの方見てんのか?」
そう言うがトムは無視して続ける。
「あんときのお前の顔まだ覚えている。興奮しすぎて鼻息をふんって勢いよく出してたぜ。機関車リアムだな。チューチュー!」
「ふんっ・・・かわいいじゃんリアム」
花がさらに追い打ちをかける。鼻で笑ったところがなんともムカつく。
「うっせぇな!」
「チューチュー!チューチュー!」
ずっと前を向いていたが我慢しきれなくなって俺は慌てて後ろの方を向いてトムに睨みの利いた視線を当てた。しかし、今この一瞬で後ろの方に向き直ったのか、それともずっと後ろの方を向いていたのか。彼は俺に背を向けるだけで特にこちら側を気にしていない素振りを見せた。
「ちょっとリアム、あなたこそちゃんと前の方を向きなさいよ」
そこへ花が前の方を向いて、からかいながらそう注意する。
「え?リアム前向いていないの?おい頼むよこれだとみんな死ぬだろ。ちゃんと前を向け!」
「・・・お前ら後で待っていろよ。一人ずつしばいてやる。特にトム、お前は許さない」
「うっわ、こっえ」
仕方なく俺は前を向き直った。
「あそういうや、花」
またトムがしゃべりだした。
「ん?」
「お前、もう薬は飲んでいないのか?ほら、昨日一緒にこの別荘に来てからお前が薬を飲むところ、まだ一回も見ていなかったから」
トムが言っている薬は、花のうつ病の向精神薬のことだ。花はなぜか知らないが、九年生から十年生にかけての頃、原因不明のうつ病にかかっていたらしい。精神病院に行ってもその原因がわからなく、なんとなく処方を出されていた。
「は!?あなたさあ、まじでなんなの?薬のことといい、私が日本から来たんだってことも知らなかったことといい」
花がいきなり声を荒げる。
「は?俺またなんか悪いことでも言ったのか?」
トムはまだわかっていないようだった。花のうつ病は十年生になって間もない頃にもうすでに治っていたのだ。結局原因はわからないままだったらしい。しかし治った花は今の通り、昔と変わらず元気になっていたから、俺とトムはその時結構安心して喜んだのを覚えている。神様の脛にキスをしてもいいくらいの勢いで。
「その薬、もう一年半以上もずっと飲んでいないんですけど?」
「あそうだったの・・・」
夕食のころと同じように、トムは花にそう怒られて黙った。
「よしついた・・・この引き戸だな」
そうこうしているうちに、俺たちは電源装置までたどり着き、そこの電源を入れた。「キューーーン」とトーンがだんだん高くなっていくような電子音がしばらく鳴り続けると、「ガチャ」という音が鳴り響いた。これでスイッチを入れればどこの電気もつく。
念のために、俺は電源装置にパスワードを設定した。電源装置の操作部分はモニター式になっていて、この屋敷にあるすべての装置は連動している。パスワードの設定機能があったが、設定されていなかったため、また電源をオフにされることがないように、少々の手間をかけて長めのパスワードを入れておいた。
「よし、これで電源が落ちることはもうない。本格的に犯人を捜そう」
そう言うと、残った二人も頷いてくれた。
今のところ犯人には会っていないが、いずれどこかで遭遇してもおかしくない。いや、もしかしたらもう俺たちの存在に気づき、ずっとどこかに潜んで隙を伺っているのかもしれない。
俺たちは決してお互いに離れぬよう、慎重に進みながら、とにかく屋敷の電気を一つまた一つとつけていき、辺りを明るくしていった。これで襲われる心配も格段と下がっていった。まあ最も、襲われるということは、つまり犯人に会えるということなのだが、暗闇に慣れているだろう相手に比べたらこちら側が不利になってしまうため、安全策を取るのが一番だ。
この屋敷は全部で四階ある。四階のフロアはほかの階に比べて面積がその三分の二ほどしかないが、それでも立派に広かった。途中で天井がガラス張りになっている屋上農園チックな幻想的な場所を目にして、一瞬ここで心地よく眠ってみたいという願望が浮かび上がってきたが、今の状況を考えろとすぐに俺は平和ボケた自分を心の中で叱った。それに、外は嵐だったから、寝るにしても眠れない。
そして四階を倉庫、各寝室、小広間や屋上プール・・・と探っていき、そしてさらに三階の奥側、手前側、二階の奥側、手前側・・・と探っていったが、犯人を見つけるどころか、その尻尾の毛一本すら掴み取ることができなかった。
そして俺たちはとうとう二階まで屋敷を調べつぶした。途中で自分たち以外の誰かが発した音も聞いていなく、まったくと言っていいほど手掛かりがなかった。このままでは戦利品がグレードアップしていった武器と、叔父のための医療品だけになって、肝心なトムの潔白は証明できなかったことになってしまう。これではまずい。そう思って俺たちは焦った。一番焦ったのは言うまでもなく、犯人容疑を掛けられたトム本人である。
奥側の階段を使って一階に降りると、俺たちは左右両面についているアルミ製の押し扉を目にした。中が見える丸い窓がついた、よく映画とかでも見る厨房の扉である。電気をつけて、中に入ると、俺の家のキッチンの五倍ほどの広さがあるのではないかというくらいのだだっ広いキッチンが広がっていた。各種の調理用具が飾られどれも新品でピカピカであった。クローデットが先ほど使っていた奴が申し訳程度に部屋の隅に置かれている。
「さっきも入って思ったんだけどさ。こんな広いキッチン、いるかよ。別荘にしては大きすぎる気がするんだよな。キッチンだけじゃなくて、すべてが。俺の父さん、別にそれほどたくさんの友達がいたわけじゃないし、そもそもこんなところでパーティーを催すなら一緒に暮らしている俺にも言っていたはずなんだが」
「一人じゃなかったんじゃないのかな?」
俺がため息を漏らすと、花が流し台の下の戸棚を漁りながらそう口にした。
「あなたのお父さんって、どれくらいのペースでここに来ていたのよ?」
そう花に聞かれて俺はしばらく記憶を探ってみた。
「んー、別荘にいくって告げられたことはないけど、確か前は月に一度くらいのペースで三日ほど家を空けることはあったな・・・で?それがどうしたの?」
「いや・・・別に私が言わずともわかるでしょ」
そう花は言うのをためらって、トムの方を向いて「ねぇ、トム」とバトンを渡そうとした。しかしトムは「ん?どうかした?」と振り向いてくる。どうやら話を聞いていなかったらしい。
「あなたって本当に使えないのね」
訳もなくまた怒られてトムは理解しがたいという風に目を大きく開けて俺の方を見、肩をすくめた。
「女って難しい生き物だな」
「いや多分お前が鈍感なだけだよ」
「あなたもよ」
いきなり不意打ちを食らって俺はトムと同じように彼を見ながら肩をすくめる。
「だからさ。リアム」
戸棚を調べ終わったようで、彼女は立ち上がって俺の方を見る。
「つまり、あなたのお父さんに新しい愛人ができてたのよ」
「まさか、あの老けた爺さんが。だって俺を生んだ時、父さんはもう四十五くらいだったんだぜ。母さんが不妊だったからって二人悲しんでいたけど晩年になってようやく生まれたのが俺だ」
「知ってる。でもそんなのは関係ないでしょ。愛に年齢も見た目も関係ないのよ」
「花にもそういうロマンチックなところがあるんだ、驚いたよ。活火山にバラ畑が申し訳程度に広がっているような情景を彷彿させられる」
ほかの戸棚を調べていたトムが場違いなコメントを差し入れる。
「あんたは黙ってなさい」
「いやいや、だとしたらなんで愛人ができたって俺に報告しもしないんだよ」
「それはだって、あんたが傷つくのを心配したからでしょ」
当たり前だという風に花はそっけなく答えた。
「母さんが死んだんだから別に愛人ができたくらいで悲しんだりも怒ったりもしないし、むしろずっと秘密にされた方がまずいでしょ。なにも隠すことはない。俺はそんな器の小さい男じゃないよ」
壁側に付いたテーブルの上側にある戸棚を開いて、そこで瓶に入ったアルコールを見つけた俺は二人に「あった」と言って見せた。
母さんは俺が七歳くらいの頃に交通事故で亡くなってしまった。その時俺はまだトムとも知り合っていなかった。父さんからは母さんのことについてよく話してくれたんだが、なぜか肝心な交通事故に関してはあまり明言しなかったのだ。別に疑っているわけではなかったのだが、なぜいつも黙っているのか不思議がっていた時期もあった。あの時は母さんが突然いなくなったせいでいつもさみしくて泣いていたのを思い出す。
「あ、ガーゼ発見したぞ」
奥の方からトムの声がして、振り返ってみると彼がニッと歯を見せて笑いながら手に持ったガーゼをこちらに見せてきた。
「ハサミもさっき見つけたわよ」
そう花が言うと、とりあえず集めるべきものは集まったことで俺は安心した。
――その時だった。
「うわっ!」
トムの声だ。
「どうかしたの!?トム!」
花の声を傍らに俺は急いで彼の方を見た。するとそこにはグレーのズボンに、真っ黒なフード付きパーカーを着た、フードを深々と被っている一人の男が立っていた。そのすぐ横でトムが座り込んでいて、自分の顔を両手で押さえている。おそらく男に顔を殴られたのだろう。
「犯人だ!」
俺は急いでそいつの方へと駆け寄った。自分の体に持っていたナイフを手に隠すと、すぐに近づいていく。
男は俺の方に向いてきた。仮面をかぶっている。右上が欠けている仮面だ。そこから男の真っ暗な瞳が見える。
戦い方も知らない俺だったが、あの時はとにかく攻撃することしか考えられなかった。正体不明の敵が目前にいることに対する恐怖よりも、それ以上にコイツを倒すことへの執念が強かった。
両手で持ったナイフを彼に突きつける。しかし彼は全く動じない。ナイフがちょうど彼に当たりそうになったところを、シュッと躱され、気づいたら背中に強烈な痛みを覚えた。
それと同時に花がナイフを持って彼の方へと走っていく。しかし男は彼女をものともせず、彼女の手首をつかむと勢いよく上にひねる。
「痛い!離して!」
キッチンに花の悲鳴が響き渡った。
その瞬間。
いつの間にか立ち上がっていたトムが勢いよく男の背中にしがみつき、渾身の力を込めて彼を押し進めた。不意にそうされた男はよろめいて花の手を離してしまい、そのままトムの力によって強制的に後ずさる。
「うわあああああ!」
トムが咆哮し、立ち上がって助けに行こうと思った俺だが、目の前の光景に目を見開かせた。
なんとトムが男を僅かの高さではあるが抱き上げていたのだ。そのまま彼は男を後ろのガラス棚のところにアタックし、男はガラスの割れる音とともに地面に倒れこんだ。
俺と花は急いでトムのもとへと駆け寄った。トムは目の前でぐったりと倒れている男を見下ろしながらものすごい荒い息を吐いていた。
「すげぇなトム!」
俺は思わず歓声を上げた。
しかしそうするにはまだ早かった。男はすぐさま朦朧とした意識を覚ませ、背を後ろの棚に預けたまま俺たちをじっと見つめた。
左から順に俺、トム、花と見つめていく。
そして花の方を見ると、仮面に隠れ右目しか見えない彼はその目を大きくした。じっと花の方を睨み、ゆっくりと左手を上げる。何かするのかと備えていたが、彼がしたのは簡単なことだった。
中指を立てたのだ。
「・・・なに?」
花は数歩後ずさって苦々しい表情をした。男はずっと彼女の方を見つめ、真っ暗な瞳をさらに大きく開かせる。まるでブラックホールのように奥行きがあるように感じられ、ずっと見ていると吸い込まれそうだった。
「犯人はお前だけか。ほかの奴はどこだ!」
トムはそんな彼をお構いなしに足で一蹴りして問い責めた。俺はナイフを強く手に握り、彼が動こうものならいつでも切りつけられるよう、トムとは違ってやや後ろに下がって様子を伺っていた。男はどうやら武器を持っていないようである。見る限り、ポケットも膨らんでいないから、叔父を殺そうとした犯人でもないようだった。なぜなら彼は拳銃を持っていない。
トムの再三の詰問に屈せず彼はずっと花の方を見ていた。瞼がないのではないかというほどに目を見開かせて、そしてじっと彼女の方に顔を向ける。不気味なその顔に俺たちは見るに堪えなかった。
ついに我慢しきれなくなったトムは身を低くして彼の仮面を外そうと手を伸ばす。
しかし、トムの足が宙を浮いた。
男が見えない速さでトムの足を蹴って彼の足を掬ったのだ。そのままトムはバタリと背中から床に着き、男はすぐに立ち上がる。襲い掛かるのではないかと思って俺はナイフを突きつけ倒れたトムの前に立ったのだが、予想外に彼は仕掛けてくるのではなく、再び花の方に中指を一回立てつけると、そのままキッチンから出て姿を消してしまった。
俺はすぐにそのあとを追おうとした。しかし、トムに呼び止められる。
「だめだリアム。追っていったらどこかで仕掛けられて殺されちゃう。まだ犯人が彼一人かわからない」
「知っているよ。でも追いかけないと。それに犯人は絶対に彼一人だけじゃない。彼は拳銃を持っていなかった」
俺がそういうと、トムは背中の痛みに顔を顰めながら話す。
「拳銃は捨てたのかもしれない」
「どうして?」
それに花が突っかかった。
「あいつ、めちゃくちゃ喧嘩が強そうだった。さっき戦った時も、俺たちはみんな武器を持っていたのに、あいつは手だけで俺たちに立ち向かおうとしていた。多分、武器はあまり使いたくないんだよ。なんでかはわからないけど。おじさんが刃物で刺されたのは、おじさんが拳銃を持っていたから、さすがに素手で立ち向かうにはリスクが高すぎるって思ったんだ」
ものすごい痛そうな声で彼はそう答えた。
「じゃあ、なんで彼は逃げたの?そのまま私たちみんなをやっつければよかったんじゃないの?」
恐怖に震え、花もまともに声を出して話すことができていなかった。
「・・・それはわからない」
少し考えてから、トムは頭を横に振った。そしてゆっくりと立ち上がり、俺は彼の腕を首に回してサポートした。
「イテテテテ・・・」
あまりにもの痛さにトムは歯と歯の間から空気を吸うような音を発する。
「大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。っていうか、さっきの犯人、なぜかずっと花のことを睨んでいたな」
そうトムに言われて、俺は改めてそのことにはっとした。花も同じくまた苦い顔をした。
「それに中指を立てていた・・・犯人は花に何か因縁でもあるのか?」
「まさか、誰かに復讐なんてされるようなことを私がすると思う?」
花が慌ててそう訊き返す。
「・・・いや、ない」
「・・・うん、ない」
俺とトムはそろって否定した。
これは俺たちの絆からそう彼女を信じていたからというわけではなくて、事実そうなのだ。彼女は確かにたまに人の痛い急所を突くような口をするときはあるが、誰かをいじめたり、ケガさせたりするようなことは今まで一緒にいて一度もやったことがない。いつも明るく元気で、出会った当初とは違って今やものすごく友達が多く、学校でも顔が広い。そもそも今回一緒に別荘に来たジェイクとクローデットだって、もともとは俺とトムの知り合いではなかったのに、彼女のつてでここにいることになったのだ。
「日本にいた時に何かしたとかは?」
トムがそう聞くが、
「日本からわざわざこっちに飛んできてまで復讐するって相当なことだよ?六年生以下だった私が、しかも年上相手にそれほどの仇事をすることができると思う?あの男、見た目からして絶対に私たちよりも年上だった!」
感情的になった花ははきはきとそう言う。俺たちはそれを聞いて確かにそれはないと悩んだ。そもそも花が復讐される相手だなんて、あまりにも柄に合わない。そういう問題ではないが。
「とりあえず、いったん広間に戻ろう。だいぶ空けちゃったからジェイクとクローデットの方も心配だ」
少しの間考えた後、俺はそう言った。
「犯人は捕まえられなかったけど。もしトムが犯人の一人なら、さっきの男とここまで戦わないだろうし、そう言えばさすがの彼らも信じてくれるとは思うから、これでいいと思う。もうここは危険だ」
「そうだね。さっきの男みたいなやつがもしほかにいたら、今度はもう立ち迎えられるとは思えないよ・・・」
トムがそう弱音を吐いた。ガタイのいい彼でさえそうなるのだから、ほかの俺たちはもっと叶わない。実際そうだったし。
「・・・怖いよ。リアム」
涙目になりながら花は俺の方を見た。俺は彼女に歩み寄り、彼女の頭を胸に抱え込んで慰めてやる。
「大丈夫だ。俺とトムが守ってやるから。絶対に死なせたりなんかしない・・・絶対に」
震えそうになる声を必死に落ち着かせながら、俺はつとめて彼女が安心できるような優しい声で言った。
「・・・なぁトム」
「ああ!なんか知んねーけど体がまたピンピンし出したわ!姫は俺が守ってやるよ!」
さっきまで痛がっていたトムが無理して元気よさそうに何回か飛び跳ねた。それを見た花は小さな涙を頬に垂らしながらもぎこちなく笑う。
「・・・二人ともありがとう」
「よし!じゃあ早く行こうぜ!」
「ああ、そうだな――」
バンッ! ――――――――――――キーーーーーーーーーーーーーーン
頭に強烈な痛みを覚えて、体がバランスを失い、世界が反転した。
そのあとは、真っ暗な闇。
真っ白な天井が、ただひたすら延々と広がっているように感じられた。ここは天国なのだろうか。それとも地獄は真っ白な場所だっだろうか。先ほどから耳鳴りがひどい。頭も痛い。張り裂けそうだ。
右手で頭を抑えながら、俺はゆっくりと上体を起こした。
「・・・ああ」
痛さにうめき声が自然と上がる。
ここは・・・キッチンだ。電気がついている。俺はなぜここに倒れていたんだ?確か・・・何かに頭がぶつかったような。いや、何かが頭にぶつかったんだ。
・・・思い出せない。
そう思って俺は自分の手を見つめた。
・・・あれ?全身にインクが付いている。大量だ。しかも赤い。
・・・いや、なんか変なにおいがする・・・これはインクじゃない。腐ったトマト缶がこぼれてしまったんだ。でもなんでトマト缶が?
「・・・それにしても、静かだ」
ようやく冷静になった俺は、両手で目をこすった。顔にトマトの汁がついてしまうがそんなことはどうでもよかった。靄がかかったような朧げな視界が、突如回復していった。
・・・目の前で、誰かが倒れている。すぐ目の前だ。俺の足がそいつに触れている。
「・・・うっ!?」
吐き気がした。改めて両手を見つめた。これはトマト汁なんかじゃない!
血だ!血だ!血だ!!!
「トム!おいトム・・・起きろ!トム!」
俺は意識のないトムを起こそうと懸命に彼の肩を揺さぶった。しかし、次の瞬間に、どこか冷静でいられた自分が告げてくれた。彼はもう死んでいる、と。
見れば明らかだった。血が大量に溢れ出した形跡のある、無数の刺し傷を抱えた胸部。そして肉がえぐれ、中の筋が露わにされた首。それと・・・明らかに凶器として使われていた包丁が深々と刺さった、彼の額。
「うぅ・・・はぐぅぅっ・・・」
叫びたくても声が出なかった。理解が追い付かない。しかしそれよりも早く悲しみが自分を襲った。なんでトムが死んだ?いつ?何のときにどうやって?そして誰がこんなひどい真似を?
どうしてこんなひどい仕打ちを彼が受けなければならなかったんだ。俺たちが何をしたって言うんだ。何がそんなに気に食わないんだよ。何もしていないだろ。俺たちはただ、ここに来て父の形見を整理し、休暇を過ごしに来ただけだろ。
学校にいた時だって、俺たちが何をしたって言うんだよ。俺とトムはほかに友達がいなくて、ただいつも三人でつるんで遊んでいただけなのに。花にはたくさんの友達はいたけど、彼女だってなにもひどいことなんてしたことはない。
「花・・・はな!」
突如脳裏に浮かび上がった花の姿に俺ははっとした。すぐに辺りを見回す。まさか花まで死んではいないだろうか?そう思って今までにないほどの速度で、心臓が激烈に跳ねては落ちる。
顔を上げればすぐに彼女の姿が見えた。動いていなかった。
「花・・・」
花も死んだんだ。俺はそう悟った。
だが予想に反して、彼女は俺に答えるかのように、小さく柔らかな声を出した。彼女は単に眠っていたんだ。胸が密かに上下している。耳を澄ませば寝息を立てているのが分かる。花はまだ死んでいない!
「んん・・・」
「花!花起きろ!花!」
俺はすぐに彼女のそばに行って彼女の肩を揺らした。
「・・・まだ学校に行く時間じゃないでしょ」
「何を言っているんだ花!目を覚まして!」
寝言を言っている花を起こそうと俺は必死になっていた。
「・・・」
「花!起きて!」
そしたら、花がようやく目を細々と開けた。じっと俺の事を見つめている。
「・・・リアム・・・あれ、なんで私の部屋の中にあんたがいるの?」
「花、違うんだ。早く目を覚ませ。トムが死んだんだ!」
「トムもいるの・・・?」
「違うって!トムが死んだんだ!ここはお前の部屋じゃない!屋敷の中だ!父さんの別荘の中だよ!」
「別荘・・・・・・はっ!トム!?」
ようやく気付き始めたようで、彼女は勢いよく体を起こしてトムの方に顔を向けた。
「――ああああああああああああああああああああああ!」
彼女の悲鳴に俺は思わず耳を塞いだ。無音な中、彼女がキッチンの床に何かを吐き出したのが見えた。
「トム!トムトムトム!うそでしょ!ねぇ嘘だと言ってよトム!こんなのないって!なんでそんなことをするのトム!?」
今度は花がトムの肩を揺らし始めた。俺はただただそれを見つめることしかできなかった。
「神様・・・」
床に腕を着かせ、彼女は顔を埋めて泣き声を上げた。
「花・・・」
俺は彼女を背後から抱く。何がどうなっているのかわからないし、トムの死体が突然目の前に出てきたことに関して悲しみが押し寄せてきているのは、俺も同じだった。
「リアム・・・なんでこんなことに」
「わからない。目が覚めたら、お前が意識を失っていて・・・そして俺のすぐ横で、トムがこうなっていたんだ」
震える声で、俺はそっと彼女の横でそう言った。彼女の体も震えていた。
「起きている前のこと、何も覚えていない?」
「・・・わからない。目の前を歩いていたリアムが誰かに打たれて倒れて、それでトムがこっち側を向いてきたの。多分私の後ろに誰かいたんだわ。それからはもう何も覚えていないの。頭が痛い」
どうやら花も頭を打たれて気絶させられたようだった。
記憶がどんどん蘇っていく。そういえばさっき、トムが犯人の一人を撃退してくれたのだった。そいつがキッチンに戻ってきたのか?それとも、ほかにキッチンに潜んでいる奴がいたのか?
謎はそれだけじゃない。
なんで犯人はトム一人だけをこれほどにまでむごくしたのに、俺と花は無事だったんだ。犯人に恨まれていたのは花のはずだった。不本意ではあるが、推測どおり行くと、起きた時に見つかる死体は、トムじゃなくてむしろ花の方であるはずだ。なのに一体なぜトムがこんなひどい仕打ちに遭わされたんだ?犯人をガラス棚に押し付けたから?それで怒って先に殺してしまったとか?
謎が謎を呼んで一向に解決の糸口が見えてこない。知らぬ間に迷宮の深淵に自分が誘われてしまっていたようだった。何かがおかしい。その何かがなんなのか、まったくわからないけど、絶対に一筋縄では解決できないような、当初予想していたよりも何か相当深刻なことに俺たちが絡んでしまっているようだ。そのようなことにここになって初めて、俺は強く自覚した。
――きゃあああああああああ!
「今の聞こえたか?」
はっとした俺たちはすかさずキッチンの出口の方へと顔を向けた。
「広間の方からよ!ジェイクとクローデットが危ない!」
そういうなり、花は立ち上がって広間へ通ずる廊下へと走り出た。
「おい待て花!一人で行動するなっ!」
俺も慌てて彼女の後ろについていった。彼女が誰かに攻撃されないよう、急いで彼女のすぐ背後まで猛ダッシュで駆け着く。
長い廊下を移動するのに掛かった時間は一瞬だった。すぐに俺たちは目の前に現れた大きな門を押し開け、視界に広がった広間の光景を目にした。
テーブルのすぐ横にあったのは、大量の血を流して倒れこんだ、ジェイクの死体だった。
「助けて!いやっ!」
クローデットの悲鳴が聞こえる。俺はすぐにその方向へと走っていった。広間の端、またフードパーカーを着た男だ!彼がクローデットを追い詰めていた!
男の真っ赤に染まった手には、血が滴り落ち続けるナイフがあった。しかし、そんなことに構っていられるほど、俺は考える余裕がなかった。
すぐに彼の腰へと飛びつき、明後日の方向へと突き飛ばす。先ほどトムがやったように。
そして俺は彼と一緒に床に倒れこんだ。
彼の方が先に立ち上がった。右手に持ったナイフを高く持ち上げると、仮面から漏れた右目でじっと俺の方を見る。真っ黒な瞳がまっすぐと俺の目を見ていた。さっきの男だった。
この体勢では避けられない。すぐに自分の周辺に何か落ちていないかを確認する。
だがこの探している空白の時間が甘かった。男はナイフを下ろし、俺の顔めがけて突き出した・・・が、ナイフが俺の目玉に刺さりかけたその瞬間、動きが止まった。
「・・・え?」
「んああっ!」
花の叫び声とともに、鈍い音が響き、男は勢いよく崩れた。意識を失ったようだ。それを見た花は両手に持った蝋燭台を床に落とし、急いでしゃがんで俺の顔に手を当てた。
「リアム大丈夫だった!?」
「あ、ああ・・・助かった」
花の頭を一撫でして俺はゆっくりと立ち上がった。そしてすぐに後ろに向きを変える。
「クローデット、大丈夫だった?」
「クロエ!」
俺よりも先に花が涙声になりながら彼女の方へと飛びついた。
「クロエ大丈夫?怪我はない?」
「私は大丈夫だけどジェイクが・・・」
落ち着かない声でクローデットはそう言う。
俺はすぐにジェイクの方へと駆け寄った。だがもう遅かった。彼は喉を横に裂かれ、その上首の動脈まで切断されていた。もう息はしていないし、脈もない。
急に得体のしれない怒りが込みあがった。なぜかわからないが、トムが死んだとき以上に、俺は怒りを覚えていた。そしてその怒りの矢先は明白だった。言うまでもなく、あの男へだ。
だがなぜかまたすぐ収まった。
しかたなく、テーブルに掛かっていたクロスを引っ張って、彼の上に掛けた。そうしているうちに、トムにもそうさせてあげねばと今更になって気づいた。だが今ではない。
少しの間目をつぶって祈りをジェイクに捧げると、俺はすぐに二人の方へと駆け寄った。
「何か紐みたいなものはある?」
男が意識を失っている今のうちに縛っておかなければ、また惨劇が繰り返される。俺はすぐに二人と一緒に探すことにした。
「あ、これなんかどう?」
そういってクローデットが持ってきたのは、まあまあの長さがある丈夫な鎖だった。そして、彼女は「こっち」と言って別の置物台の方まで俺を連れていき、そこから南京錠とカギを探り出した。
「整理しているときに見つけたの。まだ覚えていた」
俺は頷いて感謝し、花と一緒に男を一本の太い柱へと運んだ。花が女子だからということもあったが、何よりも自分たちよりも年上な男性の体を運ぶのに、ものすごく力を要した。そしてそれと同時にクローデットが鎖をあらかじめある程度柱に巻き付けてくれた。
男を座らせ、背を柱に付かせると、残った鎖を彼に巻き付けた。そして最後に柱の裏で南京錠を止め、俺がカギを持つ。落とさないよう、深々とポケットの中に突っ込んだ。
そして、花が追加に持ってきたガムテープで入念に彼の足を一本に巻き付け、彼が完全に身動きが取れないようにする。
一通り終えると、俺たちはふと一息吐く。休みたいは休みたいのだが、ほかの男の仲間がすぐ近くに潜んでいるに違いないと感じた俺は、床に座ろうとした二人にも警戒しろと注意した。またいつどこで奇襲を仕掛けられてもおかしくない。トムやジェイクの二の舞はもう絶対にあってはならない。もう誰も死なせたくなんかない。
重体の叔父を除けば、ここに残っているのはもう俺と花、そしてクローデットの三人しかいない。
まだ何も終わってなんかいない。これからが始まりだ。
嵐もまだ、まったく収まっていないじゃないか。
「ジェイク・・・なんでこんなことに」
さきほどトムを見た時と同じように、花はジェイクのそばでショックを受けて泣き崩れていた。
それから数分間の間を空けると、俺たちに頼まれて花は持ってきた医療品を使い、叔父の傷部の手当を行った。襲われないように念のため俺とクローデットは彼女のそばから離れなかった。今は三人で固まって行動しなければならない。
「なんでかわからないけど、暗かった広間の電気が突然ついて、それからものすごく安心しちゃったんだ。それで警戒を怠ってしまって、ずっと寝ていなかったから眠くて寝ちゃったの。ジェイクは私よりも先に眠ってしまっていた。それでドアが開くような音がして、私が最初に目を覚ました。そしたら階段から誰かが下りてくる音がしたの。最初はあなたたちだと思ったんだけど、足音がどうやら一人だけのものらしくって、さすがのあなたたちでも一人くらいしか生き残れないのはおかしいって不審に思って、それでジェイクを起こして急いで逃げようとしたんだけど、もう遅かった」
「寝るなんて自殺行為に等しいじゃないか」
俺とクローデットは背中合わせでお互いに自分の向いている方向を逐一確認しながら状況の教え合いを始めた。
「ごめんなさい。私が油断しちゃっていた。本当に取り返しのつかないことをしちゃったよ・・・」
そうクローデットは言って、徐々にまた声が震え始めていた。俺はそれを聞いてすぐに慰めを入れた。
「もう過ぎたことは仕方ないし、ジェイクの死はお前のせいじゃないよ」
「そうだとはわかっていても・・・」
「それにお前が起きていたって、あの男相手に勝てるわけがない。トムでさえてこずった相手なんだ。ジェイクが起きていたって勝てない」
そう言いながら俺は念のために柱に縛り付けられた男の方に目をやった。男はまだ目を覚ましていなかった。
「おじさんがもしこの時元気だったら行けたかもしれない・・・」
「そんなことを今言ってもどうしようもいないよ」
「分かっているよ。でもだからって私たち三人だけでできることなんて何もありはしないでしょ。相手は人を殺すのに迷いを見せないサイコパス組なのよ?」
クローデットは怖気づき、その小さな背中を心なしか俺の方へと寄せた。俺は改めてこの三人の中で自分が一番前に出て犯人と立ち向かわなければならない存在なんだってことに気づいた。さっきしたみたいに、もし目の前に殺人犯が現れたとしても、俺が一番にそいつと対面しなければならない。クローデットは賢いが、格闘となったらその賢さもあまり役には立たない。なにより体が相手の技量に追い付けるはずがない。それは俺も同じだ。だが俺は少なくとも二人よりは力がある。
「・・・とにかく、俺たちはもうここでひたすら救助が来るのを待つしかないのかもしれない」
「嵐が落ち着いても外には出ないの?」
俺の方に振り向いたのか、彼女の声が近くで発せられたように感じた。
「・・・みんなで出ることはできない。少なくとも俺は・・・叔父がまだ生きているだろ」
「そうだけど・・・」
「ものすごく遠い未来の話のように感じるけど・・・いいかクローデット。もし嵐が止んだら、川の流れもだいぶ落ち着くはずだ。お前は花を連れて二人で川を泳ぐんだ。お前泳げるよな?」
なるべく小さな声で、俺はクローデットの耳に口を近づけてそう囁いた。近くに潜んでいる男の仲間に聞かれたらそれこそ終わりだからだ。
「泳げる・・・」
「・・・花も泳げる。そしたら二人で俺たちが来た時に寄ったあの町まで走っていけ、そこで救助を呼ぶんだ」
「あなた一人残すことなんてできないよ。それに車で一時間以上もするような距離を走りで行くなんて・・・そんな長い間耐えられるの?さっきだって花が助けてくれなかったあなた死んでいたのかもしれないんだよ?」
クローデットの口調が激しくなっていく。おそらく急所に立たされて興奮してしまっているのだ。俺は唇に人差し指を立てて静かにするよう指示した。
「それのことなんだが、実は・・・さっきあそこで寝そべっている奴、俺を殺そうとはしなかったんだ。やつらは俺を殺せないようだ」
「どういうこと?」
「俺もよくわからない。ただ、俺をナイフで刺せたのに、そうしなかった。刺さる直前で動きを止めたんだ」
「あの男が?」
「そうなんだ」
クローデットが目を大きくして俺の方を見た。俺は素直に頷く。
「・・・なんで?」
「それがわからないんだよ」
そう答えると、クローデットは唇に親指の付け根をつけながら考え込んだ。どうやらこれは彼女が思考するときについやってしまう癖のようである。
「可能性としては二つ。一つ目は、あなたが男の仲間だってこと」
「おいおい。それまじで言っているのか?じゃあ今まで俺はなんのために身を張っていたんだよ」
信じられないクローデットの言葉に俺は思わず笑ってしまった。
「可能性の話だよ。あなたがやってきたことは全部演技だったのかもしれない」
「・・・お前それ本気で思っているのか?」
俺は声を低くしてそう彼女に尋ねた。少しばかりの怒りが込みあがる。
「だとしたらあなたとこうして背中合わせでいられないでしょ」
ということは一応俺のことを信じてくれているようだ。しかし、彼女のその当たり前のような言い草に少し腹が立った。だったら最初から言うなって心の中で思う。
「二つ目は、犯人があなたを生け捕りにしたいのかもしれない」
「俺を?またなんで?」
「わからない。でもそれくらいしか考えられない」
彼女にそう言われて、俺は改めて自分が過去で誰かに何かをしてしまったことはないか、真剣に考えてみた。
「よし・・・リアム、クロエ、手当てはできた」
考え込んでいた俺とクローデットを、花の声が覚ました。
そこではじめて、自分たちが今まで考えることに必死で警備を怠っていたことに気づき、また警戒心を強めた。
「あ・・・クローデットに言った?」
花が叔父の服を手こずりながらも羽織らせると、俺の方を向いて悲しそうな顔をした。
「なにを?」
「トムの事よ」
そう花が言うと、クローデットは速攻で「なんとなく予測ついていたよ」と答えた。
「だって帰ってきていないんだもん。こんな長い間・・・ジェイクと同じことになったんでしょう。お気の毒に・・・ごめんね、祈れなくて。それに、私トムのこと疑っていたし」
彼女はそう言って、残念な表情を浮かべながら俺に謝ってきた。
「仕方ない。状況も状況だよ。誰にでも間違えはあるし、俺たちの中でもお前が一番賢そうだから、頼もしいよ」
「そう思ってくれるのならありがとう・・・私って、いつも目の前のことを客観的に分析して、考えたままに言っちゃうから、よく人に嫌われちゃうんだよね」
苦笑いを一つ浮かべながらクローデットはそう言った。彼女の顔を見ていたことに自覚を持った俺はまた「いけない」と言って、自分の背後の方の警戒に当たった。クローデットも慌てて後ろを向く。
「そんなことないよ。クロエは確かに真面目なんだけど、結構優しくて、実は気弱なところもあるんだから」
柱に縛り付けられた男の方をずっと見張るように頼まれた花は、俺とクローデットの輪に加わってそう口にした。
「今こうして二人のことを信用できているのも、あくまで自分が状況を分析していって大丈夫だって安心したからできたことなのよね・・・」
ばつが悪そうに彼女はそう言う。
「どういう分析なの?」
花が興味津々にそう尋ねた。
「まず、トムが帰ってこないから死んでしまったんだってところは容易に想像できた。そして、その後まず私が考えたのは、あなたたち以外の誰かに殺されたんじゃないかってこと。このケースが一番可能性としては高くて、疑う余地もないからいったん選択肢としてそこに置いておいたの。それで第二に、実はあなたたち二人とも犯人の仲間で、トムを殺したんじゃないかって、そう考えたの・・・ごめんね」
クローデットが謝ってきたので、花がしばらく黙り込んでから「いいよ」と一言言った。
「でもすぐにその考えは消えたよ。だって、さっき私を殺そうとしたあの男を見た時、リアムがまっすぐに私のところまで駆けつけてきてくれて、それであの男と面と面を向かって立ち向かってくれたじゃん?あれは普通、相手のことをある程度知っていなきゃできない行為だと思うの」
「どういうこと?」
「人間って、正体不明なものには恐れて立ち向かうことを拒むことが多いんだけど、一回そのものに関する手がかりを少しでも掴めば、結構恐怖心が下がるのね」
クローデットの言葉を聞いて、俺は確かに、とさっきのシチュエーションを思い出した。トムが襲われた最初の時も、俺は確かにクローデットを守ろうとした時と同じようにまっすぐ犯人に向かって突っ走っていけたのだが、あの時は尋常じゃないほどの恐怖を感じていた。だがそれ以上にあの男を倒したいという執念に駆られていた。だから、あの時はすぐに立ち向かえた。
だがさっきクローデットの前にいたあの男に走っていったとき、俺は別に何かを考えていたわけでもなく、ましてや恐怖などこれっぽちも感じず、ただただあの男と対峙しようという考えだけが頭の中にあった。ほかに感じたことは何もなかったのだ。
「なるほど。つまり、その時にクロエは私たちが一回あの男とどこかで遭ったことがあるって推測したわけね」
花が手のひらを打ってそう口にした。
「そういうこと。だから、あの男に遭ったってことは、多分その時にトムが殺されたんじゃないかって、そう確信したの。だからトムは絶対に犯人じゃないし、二人も違う。なぜなら二人はトムをあれほど擁護していたし、もしそれが演技だったとしても、トムがいくら強いとは言えわざわざあの男が加わってまでしないと、あなたたち二人で勝てないわけじゃないと思ったから」
「・・・確かに」
俺はクローデットの推理に感心した。そしてまた妙に胸が高鳴る。クローデットに対する好感度がアップしたのだろうか。そんなことはどうでもいいが。
「お前って頭がいいんだな」
「クロエの成績表はほとんどAだからね」
俺が感嘆するとそれに付け加えて花がそう言った。
「・・・それは言わなくていいよ」
少し間を開けてから、クローデットはそう口にした。
「あそうだ」
突然、花がやや大き目の声でそういう。
「どうかした?」
俺はすかさずそう尋ねた。
「いや・・・まだクローデットに言っていなかったことがあって」
「なに?」
「なんか、犯人が私の命を狙っているみたいなんだけど・・・」
花は尻すぼみにそう言っていく。
「どういうこと?」
花の言葉に理解が追い付けないとクローデットは声を高めてそう訊いた。俺も最初は花が何を言おうとしていたのかが分からなかったのだが、少しして彼女が言っていたことは、あの柱に縛り付けられた男がさきほど自分に中指を立てていたことなのだということに気づいた。
俺はそのことについてクローデットに説明してやった。その最中も、もちろん俺たちはお互いに背中を向けて周囲の警戒を怠らなかった。
「でも犯人が狙っていたのって、リアムじゃなかったの?」
クローデットがそう尋ねると、
「え?それどういうこと?リアムが危険なの!?」
さっきの話を聞いていなかった花が逆に突っかかって問い返した。面倒くさかったのだが、また俺が一から彼女に教え、彼女はまたみるみるうちに目を赤くしていった。
「泣くな、泣き虫・・・ほらちゃんとあの男を見張って」
俺はそう言って彼女に背を向けた。
「だって・・・」
「まあ、つまるところ、あなたたち二人とも狙われているってことだよね」
そう言いながら、クローデットは自分に言ったことに納得がいかなかったのか。言い終えたすぐ後に「ん?」と疑問の声を出した。
「・・・ごめん、私もさすがにこの謎は分からない」
「怖いなぁ」
花はそう能天気に言った。それから一つため息をし、突然また「あ!」と声を出す。
「今度はなんだ」
「あの男が目を覚ました!」
彼女がそう言うなり俺はすぐにそっちの方を向いた。
柱に縛り付けられた男は花の言う通り、軽くうめき声を上げたあと、ゆっくりとその仮面をつけた顔を上げ、こちら側をじっと伺った。
俺たち三人は一緒に柱の方までたどり着く。そして見張りを二人に頼んで、俺は彼へ詰問することにした。その瞬間、心の奥底からふつふつと怒りが沸き起こってきた。トムやジェイク、そして重症の叔父に代わって復讐してやりたいと、俺は自分のポケットの中に締まったナイフを握り締める。だが殺してしまっては元も子もないと、俺はいったん自分を落ち着かせた。
「ふんっ」
男は俺をしばらく見て鼻で笑った。
俺は思いっきり奴の顔面にこぶしを入れた。鈍く響のいい音がして、奴の仮面がそっぽへ飛んでいき、顔が露わとなった。ジンジンと痛み出す自分の拳を下ろしながら、俺は睨みの利いた目線でじっと彼の目を見つめた。それと同じように、彼もまた、何の感情もあらわにしない顔で、じっと俺を見つめた。
仮面の下に隠れていたのは、肌の白い清潔感のある男の顔だった。思ったよりも若く、見た目的に二十代前半といったところで正直驚いた。
しかしそれよりも俺に引っかかったのは、彼の顔全体に対する印象だった。なぜかどこかで見たことがあるように思える。不思議と彼の欠片が記憶のどこかで蘇りそうな、そんなじれったい感覚だ。
俺は彼の目線に合わせてしゃがみ、そして口を開けた。
「質問に答えろ」
彼は笑うだけで何も反応を見せてくれなかった。
「お前は誰だ」
俺はそう尋ねる。しかし、いくら待っても彼は答えようとしない。ただひたすら爽やかな笑みを浮かべて俺を見つめるだけだった。真っ黒な瞳がゆらゆらとしてまるで俺を嘲笑っているようだった。
「・・・なんでこんなことをしている」
今度はもっと大きな声でそう訊いた。脅迫するような口調で、俺は必死だった。
しかし彼はやはり笑っているだけで何も言おうとしなかった。それを見て右手がうずうずし、気づいたら俺は彼のことを殴っていた。
「プッ・・・」
唇が切れて血が流れ出たのだが、それでも彼は横を向いて少量の血を飛ばすと、また笑って俺の方を見た。俺は彼が笑っているのを見て間髪入れずにまた殴った。それを見ていたのか、花とクローデットが心配そうに声を掛けた。
「まずいよそれは」
「そうだよリアム、いったん落ち着いて」
「――二人はちゃんと周囲を警戒していろって言っただろ!」
ほぼ叫ぶような感じで俺は二人に顔を向けずそう叱り飛ばした。自分でもわからないほど、今の俺は怒りと興奮に満ちていたようだ。トムとジェイクをあんな目に遭わせたというのに、こいつはまだこうして笑っていられるのか。
「・・・もう一度言う。お前は誰だ。なんでこんなことをする。ほかに仲間はいるのか」
口調を強め、彼にもはっきりと聞こえるよう俺は唾を飛ばす勢いでゆっくりと言った。だが依然として彼は笑うだけだった。それを見て俺も口角を上げて笑い返した。そして殴る。また彼は血交じりの涎を横に噴き捨てた。そしてまた俺の方を見て笑う。また殴る。
とうとう我慢できなくなった俺は、ポケットの中からナイフを出した。
「・・・いいじゃねぇか。てめぇがそのつもりならそうしよう。今夜は一晩中ネバーエンディングストーリーのメインテーマを一緒に歌うぞ」
狂気に満ちた声で、俺はそう言い放った。
尋問が開始してから一時間が過ぎようとしていた。しかし男は何かを俺たちに告げるどころか、自分の名前すらまだ一度も吐いていない。相当意志の固いやつだった。
殴り過ぎて俺の右こぶしの皮は剥け、彼の頬も膨れ上がっていた。口からは大量の血を垂らし、それでもなお彼は笑っていられる。狂ってやがる。なぜこのようなやつと、俺たちは絡まってしまったのだろうか。
「ねぇ・・・」
背後から花の声がして俺は振り返った。花がやや奇妙な表情をしながらその男の顔を眺めていたのだ。男は花の方を見る。真っ暗な瞳を、さきほど俺を見つめていた時とはまた別な形で、彼女に見せた。
花は男のことを見てはいるが、どうやら意識の方向は俺に向いているようだった。じっと男を見つめながらも、俺の方に向かって口を開ける。
「この男・・・私どっかで見たことがあるかも・・・」
「え?そうなの?」
クローデットが驚いて花の方を見る。俺もそれを聞いて驚嘆した。
「・・・実は俺もだ」
「そうなんだ・・・」
「私は知らない。こんな男はじめて見た」
そう言ってクローデットはまた親指の付け根を唇に押し当てた。
「どこで会ったか思い出せるか?」
俺は花の顔をじっと見つめながらそう尋ねた。男からはまだまだ情報が搾取できそうにないため、自分たちで考えるしかなかった。花はしばらく考えた後、顔を顰めて俺の方に向き、首を振った。
俺はまた男の方に顔を向けた。男は目をこちらに向ける。
考えても考えても、どうしてもコイツが誰なのかさっぱり思い出せない。喉のあたりまで詰まっているのに、そこでしこりができたかのように、それから先まではいけないようになっている。
だめだ。わからない。何も思い出せない。考えれば考えるほど脳がやられそうだ。
頭が徐々に熱くなっていった。それにエスカレートを掛けるかのように、男は笑って俺のことをじっと見つめる。両手が震える。前が霞むようになった。地に足がついている感覚もない。呼吸が早まる。
「・・・何笑いやがってんだこの野郎!」
俺はまた渾身の力を入れて彼の殴った。
そしたら、
「・・・あなたがどれほど愚かなのかと思いまして」
男は開口一番にそう言った。
それを聞いた俺は爽やかな笑みを浮かべて間髪入れずに殴った。男はまた血を吐き、そして俺の方に向き直る。
「なんて愚かなんでしょう。ここまで来てまだ何もわかっていないなんて、本当にあなたは愚かです。どうしようもない――うっ!」
「いいかよく聞け。もう曲もしまいに近づいた。今すぐにてめぇの知っていることを洗いざらいすべて吐き出さなかったら、頭に赤い花を咲かすことになるぞ」
彼の耳たぶが唇に触れてしまうのではないかというほど近くまで口を近づけ、俺は彼にそう囁いた。そうすると彼は俺の方を見て瞳孔を開かせた。明らかに恐怖を感じたというよりも、俺のその行為に関して感心していたように見える。
「そうです。そうでなくちゃ・・・ほら、もっと怒ってください。それでこそ私の・・・」
そこまで言いかけて彼は口を噤んだ。
「私の、何だ?」
彼の襟をつかみながら俺は問い詰めた。
「私の!何だ!」
だが彼はずっと笑っているだけで答えない。もう我慢の限界だった。
「・・・ふんっ。そうか。お前が選んだんだからな。くたばりやがれ」
そう言うと、俺はナイフを高く上げ、迷わず振り下ろそうとした。もう気が気じゃなかった。
その瞬間、
「ネェェイィミィィィィィィィィィィィ!!!」
突然男は喉の奥から渾身の力を込めた大声を出した。
突如頭に痛みが走り、また視界が一瞬にしてぼやけた。
「・・・また、かよ」
俺はそのまま眠りについた。
・・・
・・・
・・・
真っ暗な闇の中で何かが見えた。まるでゲームの演出に出てきそうな、深紫色をした巨大なエネルギーの塊だ。その塊の奥に行けば行くほど色が濃くなっていき、中心が黒く、そして夥しい量の殺気を感じる。
これがなんなのかはわからない。
ただただ訳もなく空恐ろしいように感じられ、そしてどこか懐かしかった。
いや、懐かしいというより、むしろ今でも近くに感じる。まるでずっと一緒にいたようだった。今まで生きてきた中で、一度も手放したことのないような存在、そんなもののように感じる。
だが、自分から進んで手放さなかったのではなく、むしろいつも自分は嫌がっていた。だがいくら離そうとしても離れなく、それは影のように付き纏って来る。だけど、もしそれがなくなったらそれはそれで困ってしまう。人間が影を失っては困るのと同じことだ。本当はいてほしくないのに、付いてくる。そして、それがついてこなくなると、それはそれで困ってしまう。
その塊の背後に無数の背景が重なり合っていた。俺が知らないような、未知の世界だった。だけど俺はその世界を確認するよう気もなく、ただずっとその塊と距離を置き、ずっと警戒していた。少しでも油断すれば、自分はそのままその塊に取り込まれ、そして失われるような気がした。何か証拠があるわけではないが、そう直感することができた。この塊は大きくなる。この塊はもっと色が濃くなる。この塊はこの空間全体に広まりたいと思っている。
塊と俺は、ずっとにらみ合い、一歩も譲ろうとしない。
だがすぐに状況は一変した。
そいつがとうとうこの膠着状態に我慢しきれなくなったのか、その姿を大きく増幅させ、全方向へ一斉に拡散していった。深紫色の光が徐々に周りへと伸縮し、すべてを食い尽くそうとする。
俺の方へも尋常じゃないスピードで走ってきた。
俺は逃げようと試みた。
だが逃げられるわけがなかった。たちまち体が深紫色の一色に染められ、目の前がぼやけてきた。だがまだ完全に飲み込まれたわけではなかった。俺が抵抗の意志を見せる限り、その塊はいくら増幅しようと、俺を避けるように横を通り過ぎた。
しかしそれでも塊はあきらめようとしなかった。それはまたさらに勢いを増し、そして絶え間なく周囲に深紫色のオーラをまき散らした。それに伴って俺ももっともっと抵抗しようと努めた。そしてこの状態が少しの間続き、気づいたら、塊はあきらめたように増幅するのをやめた。
だが油断はできなかった。なぜなら、それはあきらめたのではなく、いったん退散し、様子を伺おうとしているのだと俺は知っていたからだ。それの考えがなぜか読めた。だが正体がわからない。だから自分から攻撃を仕掛けることもできない。俺たちは一歩も互いに譲ろうとはしなかった。
そしてまた意識を失った・・・
気づいたら、俺は広間にいた。
さきほどと同じように痛む頭を抑え、ゆっくりとした動作で立ち上がる。トムの血で真っ赤に染まってしまった服を再度見てみた。もう血は乾いていて、そしてその塊がこびりついて服を固くしていた。俺はなぜかのんきにその塊を取る気になっていた。
そしたら急に花の啜り泣き声が聞こえて、俺はそこでようやく我に返った。はっとして俺は声の方向を向く。
「花!」
そういって俺は彼女の方へと駆けつけた。彼女はなぜか一階の階段口のところで泣き崩れていた。いったい何があったのだ。俺はようやくそう疑問に思った。さきほどの記憶が蘇り、本来なら自分は男の拷問していたはずだったことを思い出す。
「・・・クローデット、クローデットはどうした?」
そう尋ねた俺に花は顔を上げず、ただただ腕をまっすぐに上げてある方向を指さした。
そこにあったのは、頭の一部が凹んだ、見るに堪えない姿へと化したクローデットの死体だった。なにか鈍器で殴り殺されたのか、頭蓋骨が陥没しており、中身が外へはみ出していた。殺されてからまだ時間が経っていないようで、その鮮やかなピンク色のそれはテカテカに光っている。中から外へ脳汁があふれ出ている。吐き気が催し俺はその場で吐いてしまった。そしてまた顔を上げ周囲を見回した。だが誰もいない。体が自由に動けるのは、俺と花の二人だけだった。
「おい嘘だろ・・・これはお前がやったのか・・・?」
現場に犯人はいない。それにもし花以外の誰かがやったのだとしたら、あの時俺が殴り倒される前に二人は気づいて通知してくれたはずだ。あの時唯一俺を失神させクローデットを殺せたのは花しかいない。
「違う!」
彼女はゆらゆらと立ち上がって後ずさった。俺の方を見ながら、何度も何度も首を振る。
「頼む・・・正直に言ってくれ。花、お願いだから・・・」
なぜかわからない。俺は涙を流して彼女に懇願していた。もし、もしこの惨事の真犯人が花なのだとしたら・・・もし彼女が自白してくれたのだとしたら、俺は許してしまうかもしれない。だって花だから。
まだナイフを握っていた右手が震える。自分でも今自分が何を考えているのかがわからない。ただただ悲しかった。花がこんなことをするはずがないのに・・・でも花以外に誰が殺せた?男は依然として柱に縛り付けられたままなのだ。
「違うの。違うのリアム、私の話を聞いて・・・お願い、お願いだから・・・」
花は自然と後ずさり、俺はそれをゆっくりと彼女との距離を詰めた。気づけば二階の方へと足を掛けていた。知らぬ間に上っていたらしい。俺たちはお互いに相手の目を見て離さなかった。
「違うって言うなら・・・やったのは誰なんだよ」
大粒の涙を止めることなく流し続ける花の顔を見て俺も自然と涙が止まらなくなった。
「よく聞いてリアム、絶対に信じて。私はあなたに嘘なんかつかない・・・トムとクローデットを殺したのはあなたなのよ」
「そんなわけがないでしょ!」
「違うの!本当にそうなの!本当にそうなのよ・・・これを見て!信じて!私は本当のことを言っている。自分でもなぜこんなことになっているかわからない。でもそうなの・・・そういうことなの」
そう言って彼女は俺の方に何かを投げた。俺はそれを拾う。
ハンコ入れだった。偽の宝石が飾られたきれいなハンコ入れ。
「その中にあなたのお父さんがあなた宛てに書いた遺書があるわ。私読んだ。今さっき読んだ。私たちは嵌められていたのよ!誰も気づかなかったの!気づけなかったの!」
そう花が言うなり、下にいた男がまた咆哮しはじめた。
「ネイミー!何をやっているんですかぁぁぁ!しくじったらどうなるかわかっているんですよねぇぇぇぇ!??!!」
そういうと、花に突然異変が起こり始めた。彼女は表情を豹変させ今まで俺が見たことのないような鋭い目つきで叫んだ。
「分かっているわよ!少し間黙ってろこのくそイルマーがっ!この・・・やめろっ!花!」
「・・・どういうことなんだよ花、説明してくれよ!」
彼女は頭を抱えて苦しみ始めた。何が起こっているのかさっぱりわからない。
「リアム助けて!お願い目を覚まして!もうこれ以上人を殺しちゃダメよ!ダメ!ここから出て行って・・・まだ遅くない。まだ遅くないから!」
俺はただただ彼女を見つめることしかできなかった。彼女は必死に頭を抱えながら、ひとりでに狼狽え、そして覚束ない足取りで階段のところをさまよっていた。
バキッ
「――はぁっ!」
バランスを崩した彼女は体を老朽化していた柵に思いっきりぶつけ、運悪くその柵が崩れた。彼女はそのまま一階まで落下し、俺はそれを見ると同時に瞳孔を開かせた。
「は、はな!」
急いで一階を見下ろす。テーブルの横で、頭から血の海を作りながら、天井を静かに見ている花の姿があった。よく見たら彼女のすぐ横に、真っ赤な血が滴り落ちているテーブルの角があった。そこに頭をぶつけてしまったようだ。
すぐさま下りて彼女のもとに向かった。長く黒い彼女の髪が真っ赤に染まり、白色のワンピース、そしてその上に羽織ったパーカーをも浸食した。
「花・・・ああなんてことに・・・花、生きていてくれ、嘘だと言ってくれ・・・」
彼女を見つめた。
彼女はゆっくりと瞳をこちら側に向けると、震えた右手を俺の頬に触れさせた。彼女の血が俺の頬につく。なぜかわからないがその時俺は彼女がどれほど愛おしい存在であったかを感じられた。彼女には死んでほしくない。もっとそばにいてほしい。
「ほら、花・・・俺の顔を見て。大丈夫。今すぐ助けるから。包帯を持ってきてあげる。だから我慢してくれ」
俺が立ち上がろうとすると、彼女は力強く俺の腕を引っ張った。まるでこれが最後の力であるかのように、一瞬だけ入れ、そして抜いた。
彼女の目尻から透明な涙が滴り落ちる。
「・・・リアム・・・目を・・・覚まし、て」
・・・
・・・
・・・
手が落ちた。瞳に光がない。
それっきりだった。
彼女はもう動いていない。
「花・・・花花花花花・・・はな・・・」
俺は彼女に縋って嗚咽した。柔らかい彼女の肉体を嫌というほど強く抱き締め、悲しみに暮れた。泣きたい欲望がおのずと外へ出ていく。もう怒るエネルギーも存在しない。
もう、どうでもよくなった・・・
そんなとき、俺は右手に何かがあるのを感じた。見ると、それは先ほど花がくれた紙だった。彼女が言うに、それは父が俺宛てに書いた遺書らしい。血に染まって見えづらくはあったが、読めないほどでもなかった。俺は花の遺体をゆっくりと下ろすと、彼女の開いた瞼に掌を当て、閉じさせた。
そして、彼女の隣で横になりながら、その手紙を読み始めた。
『 親愛なる我が息子へ
あなたがこの手紙を見ているということは、自分が今最悪な事態にあるのだということです。そのことについて自覚を持ってください。私は、これとは別に、もう一通の、本来ならばそちらがあなたに届くはずの遺書を自宅に置いたつもりでした。でもどうやらこの遺書を読んでいるということは、何かあってその遺書を読むことができなかったのだということですね。でも決してあきらめないでください。今から私が伝えることを、何一つ忘れることなく、しっかりと心に銘じること。頼みました。もうこれ以上、自分の家族が悲しい目に遭うのを、私は耐えられません。
あなたに話すべきことが多すぎて、どれから話せばいいのか、正直迷ってしまいそうです。
まずはあなたに「デミアン」の存在を教えましょう。デミアンという名前に、あなたはどこかピンとくるところがあるかもしれません。あなたのお母さんは十年前の頃に亡くなりました。でもあれは、本当のところ、まったく事故などが原因ではなかったのです。
あの日の夜は、本当に私たち一家にとって、とんでもなく不運な夜と言えましょう。私はその夜、会社の会議が長引いてしまい、いつもよりも帰るのが遅かったのです。しかしあなたとお母さんはいつものように、自宅で過ごしていましたよね。そしたら、急に包丁を持った、不気味な笑みを浮かべる男が家に押しかけたのです。それにいち早く気づいたあなたのお母さんは、あなたと一緒に二階の、もう今は無くなってしまったタンスの中に隠れました。あの時、その男はあなたたちの存在に気づいていなかったようで、本当ならそのまま隠れきれたはずだったのです。しかしそこをあなたが怖さのあまりに泣き出してしまったがために、二人は居場所がバレてしまい、その男に見つけられてしまいました。母親はあなたを匿うがばかりにその男に立ち向かい、そして殺されたのです。そして隣人が騒ぎに気づき駆け寄ってくれたことが、幸運にもあなたが死ななかった原因でした。私が自宅に駆けつけた時、家はもう赤と青の光に囲まれていました。警察の調べが続く中、母を殺した犯人はいまだ見つからず、私は途方に暮れました。
そしてあなたはその夜から、一部のことに関して記憶喪失になってしまったのです。医者は、おそらくそれはあなたが精神的ショックからなる自己防衛を働かせたのだと言っていました。あなたは母の死が自分のせいだと思い込んでいるがために、その苦痛から自分を守ろうと、それに関する記憶を抹消したのです。そしていつしかその苦痛を肩代わりしてくれるもう一人の存在を自身に作り上げてしまった。
その子の名前が「デミアン」だったのです。
あなたはデミアンの存在に気づきませんでした。はじめの頃、私はデミアンと出会ったときに、それはてっきりあなたの何か子供じみた演技なのではないかと思って深刻には思わなかったのです。しかしある日、あなたは私の前に信じられない代物を持ってきたのでした。それは腹を切り裂かれ中身をえぐり取られた一匹の猫の死骸でした。あなたはそれを私に突きつけながら薄気味悪く笑い、その猫を嬲っていた時の興奮を私に語り掛けたのです。それなのに、少し時間が経てば、あなたは猫を殺したことについて、まるで人が変わったかのように、一切の記憶を持ち合わせていなかったのです。その時に確信したのです。あなたにはもう一人の人格がやはりいたのだと。そして、そのデミアンという子はとんでもない反社会的パーソナリティー障害を持った、ねじ曲がった性格の持ち主であるのだと。
デミアンは隙あらばあなたから身体を奪い、殺戮行為を行うようになっていました。そしてとうとう人間を傷つけるようになったのです。それを見て私は、いずれ彼が人を殺してしまうのではないかと恐れ、病院に相談しました。病院からはカウンセリングなどの心の治療を私に勧め、あなたは私に連れられてそこで何日も何日も治療を受けましたが、一向に治る気配はしなかったです。それで焦った私は、一縷の望みをかけてあなたを教会に連れて行きました。そうしたら、神父の方がこれは呪いだと言ってくださったのです。デミアンは重度の心的障害から昇華し、呪いとなったのだと私に告げました。私は急いで彼に尋ねたのです。治る見込みはないのか、と。そしたら親切な彼はあの手この手を使って、私に協力し、ついにはデミアンを封印することに成功したのです。
しかし、デミアンはまだ永遠に封印されていなかったのです。デミアンが完全に封印され、そしてあなたの身体から離れ切るには、十年もの長い月日がかかるとのことでした。ええ、あともう少しのことでした。
そしてその間にも、私は多くのことを守らなければならなかったのです。もしそのどれかを破ってしまえば、デミアンは再び蘇り、そしてあなたのとりつき、今度はあなたのすべてを食い尽くすと、神父は言っていました。
一つ目に、デミアンを封印するために、特別大きな屋敷を作る必要があったのです。しかもその屋敷は人気から離れた、誰の手にも届かないようなところにないといけないのです。そうすれば、デミアンは彼にある僅かな善良な意志によって浄化され、永遠に消えるのです。
そして、その屋敷というのが、今あなたが踏み入れているであろうその屋敷のことです。
二つ目に、あなたをその屋敷に入れてはならならない、ということでした。デミアンがいるこの屋敷の中にあなたを入れるのは当然ただの自殺行為です。デミアンはあなたの体に入り、そして絶え間なくあなたを貪るようになってしまうのです。
そして三つ目に、あなたは何があってもこれからの人生で、三人以上の人間を殺してはならないとのことでした。あなたからデミアンは離れ封印されたのですが、それでもあなたが三人以上の人間を殺せば、あなたのうちに眠る悪意が目覚め、デミアンを誘ってしまうのです。そうなってしまうと、デミアンはいとも簡単に封印から解かれ、あなたの身体にとりついてしまうのです。
そして以上の三つのルールを守り切れれば、あなたは本当の意味で、デミアンの呪いから解放されたということになるのでした。私は屋敷の封印を守るために、一か月に一度、定期的にそこへ通っていたのです。そこでの掃除や手入れ、その他もろもろのことを、同伴した召使いたちとともに大々的にやっていました。誰もいないはずの屋敷の中は、私が訪れるたびに、荒れていて、それがデミアンの仕業であるということを私は分かっていたのです。
でもそれももう遅いです。なぜならあなたがこの手紙を読んでいるということは、もうすでに屋敷の中にいるということにほかならないのですから。私は急に病で臥してしまい、屋敷を守る後継者として誰かを選ぶのにも時間が足らなかった。だから私はあなたをこの屋敷から、できるだけ遠ざける一心でいました。
ですが、だからといってあなたはまだあきらめてはいけません。決してあきらめないで。館に入ってしまったからと言って・・・最悪のケースとして一人、二人と人間を殺してしまったとして、それでも、まだデミアンはあなたの体を侵食しきることはできていないはずです。もし、正気を保っているあなた・・・リアム、まさにあなたがまだいて、この手紙を読んでいるのなら、心のうちにいるデミアンと戦い、そして屋敷からできる限り離れてください。これが最後の忠告になります。もうあなたに残された道はない。今すぐ、ここから出てください。そして二度とここへは戻らないと誓ってください。
もし・・・もし二人以上の人間をあなたが殺めてしまったその時、あなたの体のほぼ半分以上はもうすでにデミアンに侵食されていることでしょう。そして屋敷の中はデミアンの呪いが蔓延っています。このままではあなたは直に三人目の人間を殺してしまう。そうしてしまう前に、すぐにここから出てってください。早く!
あなたのことを愛しています。
愛するあなたの父より』
「ああ・・・ああああああ!」
頭が疼く。死ぬ。割れそうだ。
破裂、
炸裂。
爆発!
目の前が見えない。暗い。真っ暗だ。色がない。失われている。俺はどこにいる?誰だ?あれ?ん?あ?え?
――君はデミアンだよ
キーンと頭の中で鳴り響く音に交じってその邪悪な声がはっきりと横から聞こえてきた。俺ははっとしてすぐに彼から遠ざかった。全身が紫色のオーラでまとわれて、人型をしているが何も見えない。ただのエネルギーの塊だった。だがはっきりと彼がこちらを見ているのが感じ取れた。彼は笑っている。サイコパスじみたイカレタ笑みだ。
――なぁ、デミアン
「違う!俺はリアムだ!」
微かに残る自分の記憶をぶつけた。先ほどの取り乱れを盛り返した。デミアンが目の前にいることで、自分がデミアンでないことを知る。自分でも何を言っているのかわからない。だがそういうことだ。
――どっちだっていい・・・それにしても、君はすごいよ。本当にすごい。
彼はゆっくりと俺の方へと歩み寄ってくる。俺はすかさず後退していった。触れてはいけない。そう直感した。
――君のせいで死んだ人がたくさんいるんだ。君は自覚しているか?僕がすごいって言っているのは君のその面の皮の厚さだよ。あれだけの人を死に追い込んでなおそう平然としていられる。
両手の平を上に向かせながら彼はどうしようもないという風なポーズを取った。俺は警戒してそれをただただ見つめた。
――君に見せてあげるよ・・・君が今までしてきたことを
そう彼が言うと、意識が遠ざかるような感じがし、俺はまた視界を奪われた。
気づいたら目の前に見知らぬ女性がいた。目が怯えている。息を殺していた。俺のことを抱きしめていた。これは誰だ?いや、ちょっと待て、ここは・・・どうやらタンスの中にいるようだ。
「マ・・・ママ?」
そう言うと彼女は俺の頭をさすった。
「大丈夫大丈夫・・・パパがもうじき帰ってくるから、きっと私があなたを守る。だから静かに、お願い・・・」
そう彼女は俺に懇願した。
そしてそれと同時に泣き声がした。
「お願い・・・いい子だから泣かないで、ね?いい子・・・いい子・・・」
彼女は必死にそう言うが、俺は泣いてしまった。
違う・・・
これは俺が泣こうと思って泣いたんじゃない・・・体が勝手に・・・
その次の瞬間、タンスのドアが開く。外から真っ暗な服を羽織った男が姿を現した。母を外へ引きずると、ナイフで刺そうと高く手を挙げる。俺は構わず母の体にしがみ付いた。しかし母は俺を引き剥がす。そして俺をドアの方へと突き飛ばした。
母は立ち上がってあがいた。
「リアム!逃げて!逃げるのよ!」
そう叫びながら必死に男の動きを止めようと頑張った。しかしそれもすぐに終わってしまった。男は巧みに腕をくねらせ母の手を躱し、そして彼女の胸にナイフを刺した。母はたちまち声を失い、地に倒れる。
俺はそれをただただ見つめて、立ち尽くすことしかできなかった。腰が抜けて立ち上がることすらできない。そして窓から差し込む月の光が男の顔を照らした。
俺はその男の顔を見た。
知った顔だ。
――その男はイルマーだった。
イルマーはエクスタシーを味わいそして興奮した目つきで俺を見た。ゆっくりと歩み寄り、銀色に光る鮮血のナイフをちらつかせた。
しかし一階から男の声がした。それと同時にイルマーは舌打ちをし、どこかへと消えていった。
――君の母は君のせいで死んだ。君が泣かなかったらイルマーは君と彼女を見つけることができなかった。
気づいたら俺はまた暗闇の中に葬られていた。目の前にデミアン。
――君が少しでも我慢出来たら、君の母は死ななかったし、父がそれゆえ悲しむこともなかった。君が家族をバラバラにした。
そう言ってデミアンの隣に父と母が現れた。鬼の様相でこちらを眺め、そしてずっと「お前のせいだ」と口にした。なぜかわからないが涙は流れなかった。その代わりに足の力が抜けた。
俺はそのまま跪いてしまった。デミアンが近づいてくる。だがどうにもできそうにない。
しかしそんなとき急に脳裏にイルマーの顔が映った。
「・・・そうだ。すべてはあいつが悪い。イルマーが・・・イルマーさえいなければ、あいつさえいなければ母さんが殺されることはなかった!」
そう思うと足に力が入った。
――ちっ
デミアンの舌打ちが聞こえた。それと同時に父と母の虚像も雲散した。
「俺のせいじゃない俺は悪くない俺は負けない!」
自分の顔を力強く叩いて、デミアンを睨みつけた。そしてまた後ずさり、彼を伺う。今の俺にできることはそれしかない。外界の景色がたまにちらつくが、どうしてもまだこの暗闇から抜け出すことができない。戦いはまだしばらく続きそうだった。
そして気づいたら俺はトムと、そして花と一緒に、屋敷のキッチンにいた。俺は後ろから殴られそして倒れた。だがすぐに目が覚めた。俺の目の前に、一人の少女が佇んでいた。彼女はまぎれもなく、花だった。
彼女は倒れた俺の方を向き、そして包丁を渡してきた。自然と俺は口を開けた。
「よくやった。ネイミー」
そういうと、花は俺の胸に頭を擦り付けた。俺は彼女を軽く押し退けると、昏睡状態に陥ったトムを迷いもなく何度も刺し、そして肉をえぐった。トムはあっけなく死に絶えた。血が飛び散り、そして筋が跳ね、昔のトムはどこかへと消えていった。
そして今度は広間に移動された。また眠りから覚めたところから始まった。相変わらず目の前には花が立っていた。さっきと同じように、今度はガラス製の細い花瓶を手に渡してきた。
俺は彼女を褒めようと頭を撫でてやった。そして彼女は俺の方を向きながら口を開けた。横にいるイルマーのことなど存在しないも同然にしかとしていた。
「デミアン。ほらあっちみて、あそこにクローデットって言うおいしそうなのがいるよ。あれが欲しいんでしょ?」
「そうだよネイミー」
そう言って俺は高々と笑い声を上げながらクローデットに迫った。彼女は死期を悟ったのか抵抗することをあきらめた。その代わりに俺の顔をじっと眺めながらこう言った。
「あなたはリアムじゃない」
その言葉に俺は引っかかった。
そうだ!俺はリアムだ!だけどトムとクローデットを殺したのは俺じゃない。デミアンだ!そしてあれは花じゃない・・・ネイミーだ!
分かったようでわかっていない俺は、それでもそう信じ続けた。やがて視界はまた真っ黒になり、気づいたらまた目の前にデミアンが現れた。
――次はこれだ。
口角を不気味に上げながら彼はまた俺に何かを見せようとした。
次に俺が現れたのは・・・俺の自宅の部屋だった。だが俺一人じゃなかった。目の前に誰か立っていた。
「・・・花」
花が笑いながら俺の方を見ていた。手にはピカピカと光った宝石が飾られた手鏡。彼女が俺に「宝物」を見せに来たのだ。いつもの俺だったら、そこで適当に受け流し、きれいだとか言って終わらせるのだが、なぜか今回は違かった。
俺は邪気にまみれた笑みを一つ彼女に向けると、すかさず彼女の頬に向かって平手打ちした。
不意に食らいベッドに倒れた花は目を大きく見開かせながら俺の方を見つめた。
「え?リアム・・・なに?どうしたの?」
俺はそんな上から彼女を押し倒すと、顔を近づけて囁いた。
「いいか、俺はリアムじゃない。そしてお前は・・・花じゃない」
「どういうこと?何を言っているの?」
そう彼女が説明を求めると、俺はまた彼女の頬を打った。彼女は仰向けになりながらじっと俺のことを見つめ、赤く染まった柔らかそうな頬を手で押さえた。
「十回言え、私は・・・そうだな、ネイミーと」
「リアム、おかしいよ。今日のリアムおかしいよ!」
そう彼女が言うと俺はすかさずまた打った。
「早く言え!」
「・・・私はネイミー」
「――声が小さい!」
「私はネイ・・・ミー・・・私はネイミー、私はネイミー」
そしてフィルムが流れるようにして場面が変わった。
気づいたら先ほどと同じように、部屋に俺は現れ、そして目の前に元気のない、衰弱し切った花が立っていた。さきほどと服装が違う。
俺は笑って口を開いた。
「俺はだれだ?」
「・・・デミアン」
「お前は誰だ?」
「・・・私はネイミー」
彼女は俯きながらそう言った。
「いつもの俺は誰だ?」
「リアム・・・リアム!リアム!」
俺は花の頬を打った。すると彼女はまた静まり返る。
「いつものお前は誰だ?」
「・・・は、な」
「どっちがどっちより偉い?」
「・・・ネイミーの方が、花よりも・・・偉い」
彼女は俺の質問に一つ一つ答えた。そして答えに正解すると、俺は満足そうに笑い、そして間違えれば打った。
「スカートとパンツを脱いで、ケツを出せ」
そう言うと、彼女は素直にそうして、艶やかな臀部をさらけ出した。そして俺も迷わずズボンを下げる。
「さぁ・・・十回言え、お前は誰だ?」
花は苦しそうに喘ぎながら白い息を吐く。
「ああぁ・・・わ、わた・・あ・・・わたしはねいみぃひぃ・・・わたひぃは・・・ねい、み・・・いぃぃ・・・わ・・・」
気づいたら俺はまた崩れていた。体全体に力が入らない。
・・・これは夢なのか?現実?まさか。
自分は今まで気づかずずっと花をおかしていたというのか?いや、違う。これはデミアンの仕業だ。俺じゃない・・・!俺じゃない!
――封印し切られていなかった俺の欠片が君を操ったのさ。まあ、やったのがお前じゃなくても、お前は間近にいたあいつを助けることができなかったじゃないか。俺におかされた時も、そして彼女が階段から落ちそうになっていた時も。お前は無力だ。たった一人の女の子すら助けることができない。それなのに、自分を守ってくれた者までを殺してしまった。違うか?違うのか?いや、そうなんだろう?
「うるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!うるせぇ・・・」
嗚咽が止まらない。自分は今まで何をしていたんだ。なんで何も気づかなかった。花が苦しんでいたのにも気づかなかった。トムも殺された。クローデットも。ジェイクだって守れなかった。叔父も!
なんでこの屋敷に入ってしまった。なんで何も知らなかった。なぜあの遺書を読むことすらできなかった。
――遺書は俺の命令に従ってネイミーが破った。
俺の心の声が聞こえたのか、デミアンはそう告げた。そして彼は俺の方へと歩み寄り、そして俺の耳に顔を近づけた。もう避ける気力も、戦う勇気も俺にはなかった。
――なぁいいかリアム。例え今まで見せたこれらすべてがお前のせいじゃなかったとしても、お前は母が殺されたあの事件に立ち向かうことを拒んだ。そして俺を生み、俺に苦痛を押し付け、お前は逃げた。もしお前が勇気をもってあの事件に立ち向かえていれば、俺はここにいなかったし、花もトムもクローデットも・・・ほかの誰も死ぬことはなかったんだよ。結局全部お前のせいじゃないか。そうだろ?
「うぅう・・・俺は・・・俺は・・・」
そこまで来て、まるで場違いな花の姿が俺の脳裏に映った。
健気な笑みを顔に飾り、そして両手を後ろに組んで俺の方を見る。
ああ・・・なんてかわいいんだろう。花・・・お前のことがずっと好きだった。好きだったんだ・・・
何も見えなくなった。真っ暗だったはずの周囲が白く光り、花畑が広がっていった
最後に聞いたのは横で響くデミアンの笑い声。そしていつしかそれが花の笑い声へと変わっていった。
それっきり、暗闇はどこかへと消えていった。花が、花が俺を連れてどこか遠くへ、俺をこの闇の中から救い出してくれた・・・
くれた・・・
くれたんだ・・・
真っ暗な屋敷の中、一人の少年がゆっくりと立ち上がった。少し遠い所に、柱に縛り付けられていた誰かが話しかけてくる。
「・・・ついにやり遂げたんですね!デミアン!」
その男は少年に向かってそう言った。
「まだだ。まだ一人殺していない。リアムは消えかけた。だがあいつはまだ存在している。少しは骨のあるやつだとは思ったが、とんだ赤ん坊だった」
そう言って少年は男の元まで歩み寄り、高くナイフを上げた。男はそれを見て驚く。
「何をしているんです?」
少年は男を見て不気味にほほ笑んだ。
「何って、もう一人殺すんだよ。じゃないと完全に身体を奪うことはできない。お前にも教えただろ?」
その言葉を聞いて男は悟った。自分はもう死ぬのだと。
「お前が悪いんだよイルマー。あの少年も、あの男も、本来なら俺が殺すべきだったんだ。なのにお前は一人を殺し、もう一人を重体にさせ不幸にもそいつも死んじまった。そしてこの館に残っているのは俺とお前だけだ。違うか?」
「・・・ネイミー。ネイミーが私の言うことを聞かないばかりに」
男はそう言ってテーブルの横で静かに横たわる少女の死体を睨みつけた。少年はそれに合わせて後ろを向き、その美しいとまで言える体をじっと眺めた。
「・・・ネイミーはかわいいやつだった。あいつは俺の言うことしか聞かない」
「ええ。そのせいで彼女も私も死ぬ羽目になりましたね」
そう彼は皮肉ると、目を瞑って静かになった。
もう死ぬ覚悟はできたようだ。
その時だった。少年は後ろのテーブルから、誰かの声がするのに気づいた。
「リ・・・リアム。逃げろ・・・逃げるんだ」
声の主は、ナイフで刺され重傷を負ったあの男だった。時間が経ちもう死んでしまったのかと少年は思ったのだが、かろうじて意識を取り戻し、そして最後に力を振り絞ってそう口にした。
少年はポケットから小さなカギを出すと、それで目の前の男を縛り付けていた鎖を解き、口を広げて笑って言った。
「お前はラッキーだったな」