「愛しているよ、俺のお嫁さん」
「ウソですね、旦那さま」

 これは、そんな一筋縄ではいかないウソつき夫婦が、お互いの『本当』を見つけるまでの物語。

  

 人生は選択の連続だというが、人には確実に『間違えた』と思う選択が、過去にひとつやふたつあるのではないか。
 潮玲央奈(うしおれおな)にはある。
 それはまだ中学生の頃の話で、彼女は大人になった今でも、そのときの選択を盛大に後悔している。
 どうして自分はあのとき、肝試しになど行ってしまったのだろうか。

 時は遡ること十年前。

「うう……やっぱり来なきゃよかった……」

 か細く弱々しい呟きは、鬱蒼と茂る木の葉の狭間に吸い込まれて消えていく。玲央奈は湿った土を踏んで、薄暗い山道を懐中電灯だけを頼りに歩いていた。
 時刻は夜の九時。
 ここは玲央奈の通う中学校から、徒歩数分で着く山の中。
 なぜ玲央奈がこんな時間にこんな場所にいるのかといえば、クラスメイトの男子が発した『肝試しやろうぜ!』の一言が原因だった。単純に夏だし楽しそうだし、身近にちょうどいい山があるから、というのが理由だ。
 仲のいいクラスだったため、クラスメイトは全員参加が命じられた。
 だが最初、玲央奈はキッパリと断ったのだ。
 私は行かない、と。
 実は玲央奈には、生まれつき〝人ならざる者〟の存在を認知できる力があった。玲央奈の母親にも同じ力があり、彼女が『それは〝あやかし〟と呼ばれるものよ』と教えてくれたので、玲央奈もそう呼んでいる。
 ただ母の方が力は強く、母はあやかしの姿形もはっきり見えるらしいが、玲央奈はぼんやりとわかる程度。十五年間生きてきて直接的な害を受けたこともない。
 だからといって、好き好んで危ない場所に行きたいとは思わなかった。
 山や森の中は、あやかし連中が蔓延りやすいのだ。
 ……しかし現状、玲央奈がここにいるのは、彼女が極度の負けず嫌いだったことに起因する。

「怖いのかよ?なんてバカな煽りに、なんで乗っちゃったんだろう……」

 怖くないわよ!と勇んで返した自分の方がよほどバカである。
 しかも行きまでは友達と三人で歩いていたはずなのに、大きなスギの木を目印に折り返したところで、気付けばはぐれてひとりになっていた。
 なかなか他の人とも出会えないし、そろそろ泣きそうだ。強がりな玲央奈はけっして泣きはしないけど。

「なんか、音がする……?」

 不意に、バタバタと荒々しい足音が聞こえた。
 近くに誰かいるのだろうか。

「ちょ、ちょっと待って、子供っ!?」

 音のした先を懐中電灯で照らせば、こちらに向かって走ってくる五、六歳くらいの幼い子供がいた。大人もののウィンドブレーカーを、すっぽり被ってまるでワンピースのように着ているが、おそらく男の子だろう。
 格好だけで訳ありなことは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だ。
 案の定、その子はなにかに追われているようだった。

「逃げろ!」
「えっ……」

 どうしてこんな子供が、などと考える暇もない。
 子供が叫ぶと同時に――玲央奈は見た。
 その子の背後で威圧感を放つ、巨大な黒い塊。
 闇の中でうぞうぞと蠢く〝ソレ〟は、あいにくと玲央奈の目にはおぼろ気にしか映らなかったが、とてつもなくヤバいものであることは理解できた。
 ゾクリと、夏なのに冷気を感じて肌が震える。本能的な恐怖が全身を襲った。
 だけど玲央奈は逃げなかった。ずしゃりと、子供が玲央奈の目の前で、前日の雨でぬかるんだ土に足を取られ、派手に転んでしまったから。
 その子供をまるで喰らおうとするように、黒の塊が迫る。

「危ない……!」

 咄嗟の行動だった。
 玲央奈は子供を守ろうと、その小さな体に覆いかぶさっていた。
 驚きに見開かれた子供の目は、脈打つ血をそのまま閉じ込めたような赤色で、夜に負けないその鮮烈さに、玲央奈は場違いにも『綺麗だな』と思った。
 次いでピリッと、黒い塊が触れた首筋に痛みが走る。

「――!」

 子供がなにかを叫んでいたが聞き取れず、ただ彼が無事であることに安堵して、そこで玲央奈は気を失った。

 この出来事こそが、すべての始まり。
 そして平和だった玲央奈の日常は終わりを告げる。
 これを起点に彼女の人生は百八十度、容赦なく真っ逆さまに転落し、苦難の連続へと変わっていってしまうのである。