数日後、陣内法律事務所に一つの封書が届いた。中には「魔眼について」 という小さなプリンターの文字だけが書かれたコピー用紙が一枚入っていた。
それを受け、チェンは一橋に連絡をして事務所へと呼び出した。
「心当たりは?」
一橋の問いにチェンは首を左右に振る。
「情報が少なすぎるヨ。これしか書いていないんだもノ。心当たりはあると言えばあるけど、たくさんありすぎて絞り込めないネ」
一橋は送りつけられたコピー用紙をテーブルの上に放り投げると、冷淡な声で呟く。
「ま、タイミング的に一番怪しいのはあいつだな」
その言葉にチェンは眉をしかめ、少し考えた末に残念そうに認めた。
「まあ確かニ。タイミング的には秋帆ちゃんから情報が漏れたっていう可能性が一番高いネ。そうであってほしくはないけれド」
「だから言ったんだ。甘いって」
「まだ決まったわけじゃないでショ」
いつも通りの笑顔ではあるが、チェンも平常心ではない。
「この手紙の差し出し主が誰かっていう問題とは別にしてもな、あの件については『overwrite』を使っておいたほうが確実だったって話だよ」
「知ってるでショ。『overwrite』は一人に一回しか使えなイ。しかも書き換えられるのは僕が知っている範囲の記憶だけだから、秋帆ちゃんの中の自分の魔眼に関する記憶は消せなイ。どうせ自分の魔眼の記憶は消せないんだから、中途半端に『overwrite』使ってしまうと失敗したときに取り返しがつかないヨ」
「そんなのはどうにでもやりようがあるだろうが。俺らの記憶をすっぱり消して魔眼についての恐ろしい記憶でも植え付けて、ひたすらに魔眼については隠して生きようって思わせておくとか」
チェンも内心では『overwrite』を使ったほうが確実だということが分かっていた。だが、自分たちと魔眼に対して逆の考え方を持つ秋帆が母親と同じように魔眼を役立てるかもしれない、という希望がその選択をチェンにさせなかった。もしそうなれば、自分たちの魔眼への考え方も変わるかもしれない、という願望もあった。それを甘いと言われれば、そのとおりなのだけれど。
「ま、今となってはしょうがないでショ。大事なのはこれが送られてきたのをうけてこれからどうするのかヨ」
そう言った瞬間、一橋は口の前に人差し指を立てる。静かに、のポーズだ。
「誰か来るぞ」
耳を澄ますと、少しずつ歩く音と振動が近づいてくるのが聞こえてくる。二人の警戒心が一気に上がった。チェンは急いでテーブルの上のコピー用紙をポケットに入れる。
足音は事務所の前で止まると、事務所のガラス戸がゆっくりと開いた。
「すいません、失礼します」
落ち着いた動作で顔を見せたのは、岳彦だった。
「陣内先生はいらっしゃいますか?」
二人は先ほどまで秋帆の話をしていたため、似た雰囲気を持つこの男が秋帆の肉親であろうことはすぐに察しがついた。一橋はやっぱりな、と心の中で苦々しく思い、チェンは心底残念がって内心でため息をつく。岳彦がここに来たということは、秋帆が岳彦に自分たちのことを話したということだ。そして十中八九、あの封書の先出人は岳彦だ。
「はいはい、私ですが」
チェンすぐに心を切り替えいつもの笑顔で応じる。いつもの語尾を封印し、ビジネス用の自然な日本語に切り替える。
「わたくし、四家岳彦と申します。先日娘の秋帆がお世話になったかと思うのですが」
そう言って岳彦は名刺を差し出した。
「これはどうもどうも。陣内法律事務所所長の陣内龍介と申します。そうですね。娘さんとは数日前に少しだけお話をさせていただきました」
そう言って二人が名刺を交換する間に一橋は自分の座っていたソファから立ち上がり、岳彦にそこに座るようにすすめた。
「どうぞこちらへおかけになってください」
「はい。御親切にありがとうございます」
「私は助手の一橋と申します。助手になって間もないものですからまだ名刺がないのでご挨拶だけで失礼します」
そう嘘をつく。岳彦にも一橋の恰好や佇まいなどからそれが嘘であることは察しがついたが、特に問題にしなかった。お互いの関心ごとは、一橋の肩書きではない。
一応は自分が助手で所長がチェンだという体を守って、一橋が飲み物を準備しに給湯室へ向かった。チェンは岳彦の向かい側に座る。
「わざわざこんなところまでご足労ありがとうございます。本日はどうなされましたか?」
チェンはわざとあいまいな質問をする。初対面の相手には誘導尋問をするよりも、できるだけ多くを語らせることが情報を引き出すのに有効だと知っているからだ。
「この場で眼についてのことを、お話させていただいてもよろしいですか?」
岳彦はいきなり核心に入る。その言葉だけで、岳彦が二人が魔眼の知識を有していると秋帆から聞いたことが確定した。問題は、どこまで聞いたかだ。
「ええ。構いませんよ。ちなみに、どのように娘さんから聞いておられますか?」
岳彦は落ち着いて淡々とした表情のままだ。その様子から、岳彦がただの医者ではなく、相当弁の立つ人物のようだとチェンは推し量る。だが、その点においては負けまいという自信があった。
「実は、お二人については私は娘からほとんど聞いておりません。娘から聞いたのは、自分と同じような特殊な眼を持つ二人組に会って、眼の力を使うのは控えたほうがいいと言われた、ということだけです。その二人も自分たちと同様に眼について他人に知られたくないと思っていたからと言って、それが誰かは教えてくれませんでしたが、私の推測が正しければ、陣内さんと一橋さんがその二人なのではないかと思うのですが」
そう岳彦が答えると、一橋が飲み物を作ってグラスとコースターを差し出した。ミルクを添えただけのただのアイスコーヒーだ。岳彦は礼を言ったが、口をつけようとはしない。まだ警戒しているのだろう。
「それじゃあ関係者ということで、私も失礼してよろしいですか?」
一橋がそう言って岳彦の顔を見る。その質問が岳彦の質問への答えになっていた。チェンも眼について認めることは同じ判断だ。ここで下手に否定してしまえば、岳彦は勘違いだったと言ってそそくさと立ち去ってしまうだろう。それよりは、認めてしまって岳彦の真意を聞いたほうが良い。
「ええ。ぜひ」
そう言って岳彦が一橋の眼を見た瞬間に、一橋は『ban』をかけた。禁止する意思は「嘘をつく」という意思。チェンの弁舌についての自信は、この加勢が見込めるから、という部分が大きい。
「ご推察のとおり、私たち二人は四家さんが仰るとおりの特殊な眼の持ち主です。失礼ですが、娘さんから直接聞かなかったとしたらどのような理由で私たちが魔眼の持ち主だとわかったのでしょうか?」
チェンはゆさぶりに入る。一橋の『ban』が効いている状態なら、何かを取り繕った発言をしようとすれば必ず言葉が出なくなる瞬間が生まれる。
「先日、たまたま私が私用で家に帰った時、つい気になって娘の部屋に入りました。最初はあなた方についての情報を探すつもりはありませんでした。自分たちと同じような眼を持つ人たちと会ったというのは多感な娘に与える影響は大きいだろうと思い、親として少しでも変化の兆しがあれば見逃したくないという思いからです。普段は私が家にいる時間帯は娘も家にいますから、滅多にない機会だと思ったのです」
すらすらと言葉が流れる。
「と言っても、年頃になってからは私が娘の部屋に入ったことはなかったので、中を見ても普段とどう違うのかはよく分かりませんでした。ただ、本棚にあった昔のアルバムが目に止まりました。実は少し前に妻が亡くなったものですから、私も見たくなったのです」
「奥様のこと、娘さんから聞きました。心中お察しいたします」
「すると、中から真新しい名刺が出てきました」
「私の、ですね」
岳彦はこくりと頷いた。
「つい最近高校生になったばかりの娘が名刺をもらうというのは通常ないことです。しかも隠すように本の間にあるということは、私から知られたくないと思っている人物だということです。多分この人だろうな、と思いました」
「一橋がもう一人だと思った理由は?」
「大変失礼なことをしましたが、一通、こちらにおかしな郵便が届いたと思います」
チェンは、ああ、と納得してポケットからコピー用紙を取り出す。
「これのことですか?」
「ええ。お伺いした時に二人ともいらっしゃったほうが良いと思い、少し小細工をしました。これを見れば、不審に思ったもう一人に声をかけてこの用紙を見せるだろうと。そして昨日発送したのでこの時間なら着いているはずだと思って時間を見計らってお伺いしたわけです。大変申し訳ありません」
チェンは岳彦の策にのってまんまと一橋を呼び出したことを少しだけ悔しく思ったが、ここまでの話し方に不自然な点は一切ない。一橋は相変わらずじっと岳彦のことを見ていた。『ban』が発動し続けているということだ。
「なるほど。それで、なぜ我々二人に会おうと思ったんですか?」
「一つは、お礼を申し上げたかったからです。」
「お礼、ですか」
「はい。正直言って娘はまだ子どもです。私も眼のことについては心配していたんです。ちょっとしたことで周囲にばれてしまうんじゃないかと。お二人から眼については秘密にしたほうが良いと言っていただいたおかげで、ずいぶん顔つきが変わりました。自分の眼について、改めて覚悟ができたんでしょう。感謝しています」
いえいえ、と言ってチェンは頭を下げる。一橋は『ban』を継続するために視線は逸らさず両手を目の前で振ることで対応した。
「そしてもう一つは、お願いです。お二人なら十分お分かりかと思いますが、娘の眼のことについては、なんとしても秘密でお願いしたいのです。今まで私の知る限りでは誰にも知られることなくきました。だが、それが知られたとなると、いくら娘が大丈夫だと言っても親としては心配になってしまうのです。馬鹿な親だと思われるかもしれませんが、もしかしたらこの人かもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなりこうしてお伺いしたというわけです」
岳彦の言い分のおかしさには二人ともすぐに気づいた。岳彦がここに来て改めて二人に会ってみたところで、秘密の保持が確かになるという保証はまったくない。むしろ、危険性のほうが高いくらいだろう。
だが、その一方で親としての心情についても理解する。娘の眼の秘密を知る人間が家族以外にもできた。そうなれば、理屈としては間違っていても自分でも何かしなければと思ったとしてもおかしくはない。
何より、一橋の『ban』の効いているのだ、本心であることは間違いがなかった。一橋を横目でちらりと見やったが、こくりと頷いた。嘘は言っていない。
「そうですか。大丈夫です、僕らも四家さんの立場だったら同じことをしていたかもしれません。安心してください。僕らも自分たちの眼については世間に知られてほしくないと思っている人間です。娘さんに関する情報は絶対に漏らしませんよ」
チェンがそう言うのを聞いて、岳彦はほっとした表情を見せた。
「ありがとうございます。直接その言葉を聞けて安心しました。もちろん、わたくしどももあなた方お二人のことは決して口外いたしません。お約束します」
そう言って岳彦はぺこりと頭を下げる。話は以上のようだ。
今回岳彦が来た理由についてチェンが頭の中でまとめる。特に重要な用件はない。安心したかった、という心理的な部分が一番大きいだろう。であれば、二人のことを覚えてもらっても利はない。
チェンの太ももを一橋が軽く叩いた。すでに「嘘を吐く」ことを禁止する『ban』は解いている。今度こそやるぞ、という合図らしい。それをうけて、チェンは仕上げに取り掛かる。
「では、ここにいる三人……いえ、娘さんを含めて四人が秘密を保持する同盟ということになりますね。最後に、その同盟の固い結束を誓い合って終わりにしましょう」
岳彦は納得したように頷いた。同盟を締結するための友好の合図としてチェンが握手を求める手を差し出すと、一瞬躊躇したようだが少し笑って岳彦も手を出した。
「あ、こっちからのほうがいいですかね」
チェンはそう言って先に一橋を握手をするように求める。一橋が手を差し出し、お互いを見ながらしっかりと握手をする。そうしてから次に、チェンがあらためて岳彦と握手をする。
「これで、同盟成立ですね。ですが、その前に……」
そう言ってチェンは岳彦の眼を除きこんだ。岳彦が不思議に思ってチェンの眼を見つめ返す。
「ちょっと、記憶をいじらせてもらいますネ」
チェンは『overwrite』を発動する。いきなりの信じられない申し出に、岳彦の脳は反射的にチェンの申し出を拒否しようとする。だが、一橋が先ほど眼を合わせた時に『ban』を発動していたことで、拒否の意思は禁じられた。それによってチェンは『overwrite』の発動条件を満たす。
時間が止まったかと錯覚するほどの深いしじまが光のごとく通り過ぎていった。二人の仕上げは終わっていた。
「それじゃあ、今回の件に関しては以上ということで」
いつもより一層目を細めた満面の笑顔でチェンが声をかける。その言葉で岳彦はすぐ我に帰った。
「ああ、どうもありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
岳彦はそう言って席を立ち、事務所を後にした。
出入り口の扉が閉まり気配が遠ざかっていったのを確認してチェンがため息をつく。
「ふう、やっぱりあんまりいい気はしないネ。この能力ハ」
「今回はどういう風に記憶を書き換えたんだ?」
「まず秋帆ちゃんから僕らの話を聞いたことや今日ここで話したことは当然忘れてもらったヨ。そして、過去に四家医院で治療を受けた患者が死亡し、その原因が四家医院の治療ミスに遡るとして提訴する考えでいるというストーリーに書き換えたネ。それから訴訟の代理人として僕を立てたけど、今日遺族から死亡した病院の医療ミスが発覚したから四家医院への提訴はしないことになったと連絡があったので、この件についてはお騒がせしたけどこれでお終イ。そんなとコ」
「それ、娘と会話になったら辻褄が合わなくならねえか?」
「母親を失ってまだ日が浅い状態の娘に、そういう自分の仕事の問題を話して余計な心配をさせる親ではないでショ。単純な相手側の勘違いだったということが分かっているから、少し時間が経てば忘れてくれるだろうしネ」
「なるほど」
そう説明すると、岳彦が手をつけなかったアイスコーヒーをチェンが飲む。
「うん、おいしイ」
「冷蔵庫に会ったパックから注いだだけだぞ」
「いいや、イッチャンに注いでもらったから格別ヨ。なんていうノ。思いが詰まった味、とでも言えばいいかナ」
「ああ、そうか。最初からお前が飲むと分かっていれば呪いを込めて注げたのにな」
悪態をついでに、帰るぞ、と言おうとした瞬間に、気配が再び近づいてくるを感じた。
「おい、また来るぞ」
「誰だろ?」
「足音のリズムや音量がさっきと同じだ。戻ってきたんだな。どういうことだ。『overwrite』で余計な記憶を入れちまったんじゃねえだろうな」
「いや、それはないヨ。確かに僕は言ったとおりの上書きをしタ」
気配が近づいてくる。二人の緊張感が高鳴る。
だが、ガラス戸を開いたのは、申し訳なさそうな顔をした岳彦だった。
「すいません、こちらに財布など忘れたりはしていないでしょうか。階段を下りている途中でポケットにないことに気づいたのですが、どこに置いたかわからなくなってしまって。もしかしたらこちらに忘れたものかと思ったのですが」
それを聞いて二人は安心した。『overwrite』を使う際には念入りに記憶を書き換えるので、時々消そうとしたこと以外の記憶も一緒に消してしまうことがある。今回の場合、不運にも自分で置いた財布の場所を忘れさせてしまったのだろう。少し申し訳ないなと思いながらも、自分たちの魔眼が失敗したわけではないことに胸を撫で下ろした。
「ここでは椅子に座っただけなので、あるとしたらこのあたりなのですが」
と岳彦が言うので、一橋は先ほど岳彦が座っていた椅子のあたりを覗き込む。
「なさそうですね」
「申し訳ないのですが、椅子の下も確認していただけますか?」
確かに、事務所で使っているソファの下には小さな物なら入り込んでしまうくらいのスペースはある。万が一と思い、一橋はソファを持ち上げ、チェンが本当にないかを確認するために先ほどまでソファがあった場所を覗き込む。
その瞬間だった。
「―ッ!!!」
バチリという音とともに、持ち上げられていたソファが床に落ちる。一橋は声を発する間もなく倒れこんだ。
チェンが慌てて視線を上げると、火花を散らす黒い物体が襲ってくるのが目に入った。咄嗟に体をかわす。
そのままの勢いで後ずさりそし、岳彦を見る。スタンガン手に持ってこちらをにらんでいる岳彦の姿があった。
「どうしテ?」
状況が飲み込めずにチェンが叫ぶ。岳彦はにやりと笑った。
「約束はしたがね。今日初めて会った相手だ。完全に信用しきれたわけじゃない。君たちには申し訳ないが、娘の秘密のためだ。消えてもらおう」
その回答は、自ずともう一つの事実をチェンにつきつける。
「効いていなイ?」
確かに魔眼の能力は相手の意思に作用するものなので、自分では相手に効いたかどうかの感覚はない。だが、確実に自分は『overwrite』を使ったはずだ。チェンは納得がいかない。一橋が魔眼を発動させなかったとも思えない。
「眼の情報を知る人間は君たちだけではないということだよ」
そう言って岳彦が襲いかかる。スタンガンは体の大きな一橋を一撃で行動不能にしてしまうほどのものだ。市販のものではない。食らえばひとたまりもない。
チェンは後ろ手に掴んだものを手あたり次第岳彦に投げつけながら距離を取る。幸いにして事務所内は本で溢れているので、投げるものが不足することはない。ダメージは与えられないが、飛び道具に岳彦が一瞬怯む。
チェンはそのまま事務所の奥にある自分の部屋へと逃げ込んだ。慎重になっているのだろう、岳彦はすぐには追ってこない。
武器が必要だった。体格などから一橋を優先して行動不能にした岳彦の選択は正しい。チェンは戦闘については素人。何か対抗できるものがなければ、武器を持った人間を相手には闘えない。
包丁のある給湯室に逃げるべきだったかと思うが、今更そんなことは言っていられない。かろうじて手に取ったのは、机の上にあったボールペン。武器としては心もとない。
岳彦が部屋に入ってきた。チェンは様々な策を考える。頭の中を超高速働かせ、あらゆる可能性を探す。ダメでもともとと思いながらも、魔眼を発動できないかと思い眼を睨みつけてみる。岳彦と眼が合ったのは一瞬だった。岳彦は万が一を警戒し、すぐにチェンを直視しないようにする。
一瞬だけ合った岳彦の眼が、少しだけ秋帆の眼と重なる。そのことで、秋帆と出会った時のことを思い出した。そういえばあの時、秋帆はカラーコンタクトをしていないかと聞いてきた。あれは確か、秋帆が『console』を使う前のことだ。
「コンタクトレンズ!」
チェンは解に辿り着いた。
「ご名答」
岳彦は春奈から聞いていたのだ。眼鏡越しでは眼の効果が弱まり、それは色付きのものであればより一層弱くなることを。そして事務所へ来るにあたって眼の情報を知る二人がそのまま魔眼の保持者である可能性が高いと思い、特殊なコンタクトレンズをはめてきた。
「ここまでうまくいくとは思わなかったよ。最初に訪れた時は、君たちは警戒していて僕から目を話すことはなかった。だが、僕と目を合わせて記憶をいじらせてくれと言った後、君たちは明らかに警戒心を緩めた。最初は浅かった呼吸が深くなっていったので分かりやすかったよ。後は少し作戦を練ってから再訪し、隙をつくだけ」
じりじりと確実に岳彦はチェンに迫ってくる。
追い詰められたチェンは意を決し、岳彦へと向かっていく。胴体部分は的が大きいが、手にしたボールペンで即座に相手を行動不能に陥らせる急所をつくのは難しい。懐へと潜る動きを見せながらも、右手に握ったボールペンを岳彦の喉へとめがけて突き刺す。
しかし、岳彦は両手でしっかりとボールペンの攻撃を受け止める。読まれていた。
それでもまだチェンにとってそれは想定の範囲内だった。即座に目標を切り替える。両手で自身の右腕を抑えた分、今度こそ腹部ががら空きになる。次の目標は腹部でもっとも相手を悶絶させられる可能性が高いみぞおち。
チェンの左アッパーが岳彦のみぞおちへと突き刺さる。
「ぐあっ!」
だが、悲鳴を上げたのは岳彦ではなくチェンの左手首だった。人間の腹ではなく、何か固いものを叩いた感触。
「ボディアーマー……カ」
しかし、岳彦も少しよろめいた。
「もう少し厚手のものにしてもよかったかな。シャツの下でも不自然でないようにと思ったが……」
そう言ってから少し呼吸を整え、いよいよ武器のなくなったチェンに電撃を与えようとする。チェンは再度自分にできることを探すが、何も思い浮かばない。
さすがに万策尽きたかと思った瞬間、岳彦の背後に人影が見えた。
「そこまで、だ」
部屋の入り口から小さく声がした。岳彦がその声に驚いて攻撃を中止し振り返る。
「馬鹿な!立てるはずが!」
立っていたのは一橋だった。明らかにダメージを受けているが、しっかりと戦闘の構えをとる。左手を開いて前に突き出し、右手は握って喉元に置くオリジナルの構え。
「思い通りにとまではいかねえがな。スタンガンを持った医者をとっちめる程度ならわけねえ」
そこからは一橋には簡単な闘いだった。わざと相手の射程に入り、攻撃を誘発する。武器を持っている素人は必ずそれで攻撃をしてくる。スタンガンのみに注意を払いバックステップで交わすと、前に突き出した左手を使い、掌底で的確に岳彦の顎を打ち抜いた。
岳彦は糸の切れた人形のようにどさりと崩れ落ちる。
「お父……さん?」
秋帆の声が響いた。
それを受け、チェンは一橋に連絡をして事務所へと呼び出した。
「心当たりは?」
一橋の問いにチェンは首を左右に振る。
「情報が少なすぎるヨ。これしか書いていないんだもノ。心当たりはあると言えばあるけど、たくさんありすぎて絞り込めないネ」
一橋は送りつけられたコピー用紙をテーブルの上に放り投げると、冷淡な声で呟く。
「ま、タイミング的に一番怪しいのはあいつだな」
その言葉にチェンは眉をしかめ、少し考えた末に残念そうに認めた。
「まあ確かニ。タイミング的には秋帆ちゃんから情報が漏れたっていう可能性が一番高いネ。そうであってほしくはないけれド」
「だから言ったんだ。甘いって」
「まだ決まったわけじゃないでショ」
いつも通りの笑顔ではあるが、チェンも平常心ではない。
「この手紙の差し出し主が誰かっていう問題とは別にしてもな、あの件については『overwrite』を使っておいたほうが確実だったって話だよ」
「知ってるでショ。『overwrite』は一人に一回しか使えなイ。しかも書き換えられるのは僕が知っている範囲の記憶だけだから、秋帆ちゃんの中の自分の魔眼に関する記憶は消せなイ。どうせ自分の魔眼の記憶は消せないんだから、中途半端に『overwrite』使ってしまうと失敗したときに取り返しがつかないヨ」
「そんなのはどうにでもやりようがあるだろうが。俺らの記憶をすっぱり消して魔眼についての恐ろしい記憶でも植え付けて、ひたすらに魔眼については隠して生きようって思わせておくとか」
チェンも内心では『overwrite』を使ったほうが確実だということが分かっていた。だが、自分たちと魔眼に対して逆の考え方を持つ秋帆が母親と同じように魔眼を役立てるかもしれない、という希望がその選択をチェンにさせなかった。もしそうなれば、自分たちの魔眼への考え方も変わるかもしれない、という願望もあった。それを甘いと言われれば、そのとおりなのだけれど。
「ま、今となってはしょうがないでショ。大事なのはこれが送られてきたのをうけてこれからどうするのかヨ」
そう言った瞬間、一橋は口の前に人差し指を立てる。静かに、のポーズだ。
「誰か来るぞ」
耳を澄ますと、少しずつ歩く音と振動が近づいてくるのが聞こえてくる。二人の警戒心が一気に上がった。チェンは急いでテーブルの上のコピー用紙をポケットに入れる。
足音は事務所の前で止まると、事務所のガラス戸がゆっくりと開いた。
「すいません、失礼します」
落ち着いた動作で顔を見せたのは、岳彦だった。
「陣内先生はいらっしゃいますか?」
二人は先ほどまで秋帆の話をしていたため、似た雰囲気を持つこの男が秋帆の肉親であろうことはすぐに察しがついた。一橋はやっぱりな、と心の中で苦々しく思い、チェンは心底残念がって内心でため息をつく。岳彦がここに来たということは、秋帆が岳彦に自分たちのことを話したということだ。そして十中八九、あの封書の先出人は岳彦だ。
「はいはい、私ですが」
チェンすぐに心を切り替えいつもの笑顔で応じる。いつもの語尾を封印し、ビジネス用の自然な日本語に切り替える。
「わたくし、四家岳彦と申します。先日娘の秋帆がお世話になったかと思うのですが」
そう言って岳彦は名刺を差し出した。
「これはどうもどうも。陣内法律事務所所長の陣内龍介と申します。そうですね。娘さんとは数日前に少しだけお話をさせていただきました」
そう言って二人が名刺を交換する間に一橋は自分の座っていたソファから立ち上がり、岳彦にそこに座るようにすすめた。
「どうぞこちらへおかけになってください」
「はい。御親切にありがとうございます」
「私は助手の一橋と申します。助手になって間もないものですからまだ名刺がないのでご挨拶だけで失礼します」
そう嘘をつく。岳彦にも一橋の恰好や佇まいなどからそれが嘘であることは察しがついたが、特に問題にしなかった。お互いの関心ごとは、一橋の肩書きではない。
一応は自分が助手で所長がチェンだという体を守って、一橋が飲み物を準備しに給湯室へ向かった。チェンは岳彦の向かい側に座る。
「わざわざこんなところまでご足労ありがとうございます。本日はどうなされましたか?」
チェンはわざとあいまいな質問をする。初対面の相手には誘導尋問をするよりも、できるだけ多くを語らせることが情報を引き出すのに有効だと知っているからだ。
「この場で眼についてのことを、お話させていただいてもよろしいですか?」
岳彦はいきなり核心に入る。その言葉だけで、岳彦が二人が魔眼の知識を有していると秋帆から聞いたことが確定した。問題は、どこまで聞いたかだ。
「ええ。構いませんよ。ちなみに、どのように娘さんから聞いておられますか?」
岳彦は落ち着いて淡々とした表情のままだ。その様子から、岳彦がただの医者ではなく、相当弁の立つ人物のようだとチェンは推し量る。だが、その点においては負けまいという自信があった。
「実は、お二人については私は娘からほとんど聞いておりません。娘から聞いたのは、自分と同じような特殊な眼を持つ二人組に会って、眼の力を使うのは控えたほうがいいと言われた、ということだけです。その二人も自分たちと同様に眼について他人に知られたくないと思っていたからと言って、それが誰かは教えてくれませんでしたが、私の推測が正しければ、陣内さんと一橋さんがその二人なのではないかと思うのですが」
そう岳彦が答えると、一橋が飲み物を作ってグラスとコースターを差し出した。ミルクを添えただけのただのアイスコーヒーだ。岳彦は礼を言ったが、口をつけようとはしない。まだ警戒しているのだろう。
「それじゃあ関係者ということで、私も失礼してよろしいですか?」
一橋がそう言って岳彦の顔を見る。その質問が岳彦の質問への答えになっていた。チェンも眼について認めることは同じ判断だ。ここで下手に否定してしまえば、岳彦は勘違いだったと言ってそそくさと立ち去ってしまうだろう。それよりは、認めてしまって岳彦の真意を聞いたほうが良い。
「ええ。ぜひ」
そう言って岳彦が一橋の眼を見た瞬間に、一橋は『ban』をかけた。禁止する意思は「嘘をつく」という意思。チェンの弁舌についての自信は、この加勢が見込めるから、という部分が大きい。
「ご推察のとおり、私たち二人は四家さんが仰るとおりの特殊な眼の持ち主です。失礼ですが、娘さんから直接聞かなかったとしたらどのような理由で私たちが魔眼の持ち主だとわかったのでしょうか?」
チェンはゆさぶりに入る。一橋の『ban』が効いている状態なら、何かを取り繕った発言をしようとすれば必ず言葉が出なくなる瞬間が生まれる。
「先日、たまたま私が私用で家に帰った時、つい気になって娘の部屋に入りました。最初はあなた方についての情報を探すつもりはありませんでした。自分たちと同じような眼を持つ人たちと会ったというのは多感な娘に与える影響は大きいだろうと思い、親として少しでも変化の兆しがあれば見逃したくないという思いからです。普段は私が家にいる時間帯は娘も家にいますから、滅多にない機会だと思ったのです」
すらすらと言葉が流れる。
「と言っても、年頃になってからは私が娘の部屋に入ったことはなかったので、中を見ても普段とどう違うのかはよく分かりませんでした。ただ、本棚にあった昔のアルバムが目に止まりました。実は少し前に妻が亡くなったものですから、私も見たくなったのです」
「奥様のこと、娘さんから聞きました。心中お察しいたします」
「すると、中から真新しい名刺が出てきました」
「私の、ですね」
岳彦はこくりと頷いた。
「つい最近高校生になったばかりの娘が名刺をもらうというのは通常ないことです。しかも隠すように本の間にあるということは、私から知られたくないと思っている人物だということです。多分この人だろうな、と思いました」
「一橋がもう一人だと思った理由は?」
「大変失礼なことをしましたが、一通、こちらにおかしな郵便が届いたと思います」
チェンは、ああ、と納得してポケットからコピー用紙を取り出す。
「これのことですか?」
「ええ。お伺いした時に二人ともいらっしゃったほうが良いと思い、少し小細工をしました。これを見れば、不審に思ったもう一人に声をかけてこの用紙を見せるだろうと。そして昨日発送したのでこの時間なら着いているはずだと思って時間を見計らってお伺いしたわけです。大変申し訳ありません」
チェンは岳彦の策にのってまんまと一橋を呼び出したことを少しだけ悔しく思ったが、ここまでの話し方に不自然な点は一切ない。一橋は相変わらずじっと岳彦のことを見ていた。『ban』が発動し続けているということだ。
「なるほど。それで、なぜ我々二人に会おうと思ったんですか?」
「一つは、お礼を申し上げたかったからです。」
「お礼、ですか」
「はい。正直言って娘はまだ子どもです。私も眼のことについては心配していたんです。ちょっとしたことで周囲にばれてしまうんじゃないかと。お二人から眼については秘密にしたほうが良いと言っていただいたおかげで、ずいぶん顔つきが変わりました。自分の眼について、改めて覚悟ができたんでしょう。感謝しています」
いえいえ、と言ってチェンは頭を下げる。一橋は『ban』を継続するために視線は逸らさず両手を目の前で振ることで対応した。
「そしてもう一つは、お願いです。お二人なら十分お分かりかと思いますが、娘の眼のことについては、なんとしても秘密でお願いしたいのです。今まで私の知る限りでは誰にも知られることなくきました。だが、それが知られたとなると、いくら娘が大丈夫だと言っても親としては心配になってしまうのです。馬鹿な親だと思われるかもしれませんが、もしかしたらこの人かもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなりこうしてお伺いしたというわけです」
岳彦の言い分のおかしさには二人ともすぐに気づいた。岳彦がここに来て改めて二人に会ってみたところで、秘密の保持が確かになるという保証はまったくない。むしろ、危険性のほうが高いくらいだろう。
だが、その一方で親としての心情についても理解する。娘の眼の秘密を知る人間が家族以外にもできた。そうなれば、理屈としては間違っていても自分でも何かしなければと思ったとしてもおかしくはない。
何より、一橋の『ban』の効いているのだ、本心であることは間違いがなかった。一橋を横目でちらりと見やったが、こくりと頷いた。嘘は言っていない。
「そうですか。大丈夫です、僕らも四家さんの立場だったら同じことをしていたかもしれません。安心してください。僕らも自分たちの眼については世間に知られてほしくないと思っている人間です。娘さんに関する情報は絶対に漏らしませんよ」
チェンがそう言うのを聞いて、岳彦はほっとした表情を見せた。
「ありがとうございます。直接その言葉を聞けて安心しました。もちろん、わたくしどももあなた方お二人のことは決して口外いたしません。お約束します」
そう言って岳彦はぺこりと頭を下げる。話は以上のようだ。
今回岳彦が来た理由についてチェンが頭の中でまとめる。特に重要な用件はない。安心したかった、という心理的な部分が一番大きいだろう。であれば、二人のことを覚えてもらっても利はない。
チェンの太ももを一橋が軽く叩いた。すでに「嘘を吐く」ことを禁止する『ban』は解いている。今度こそやるぞ、という合図らしい。それをうけて、チェンは仕上げに取り掛かる。
「では、ここにいる三人……いえ、娘さんを含めて四人が秘密を保持する同盟ということになりますね。最後に、その同盟の固い結束を誓い合って終わりにしましょう」
岳彦は納得したように頷いた。同盟を締結するための友好の合図としてチェンが握手を求める手を差し出すと、一瞬躊躇したようだが少し笑って岳彦も手を出した。
「あ、こっちからのほうがいいですかね」
チェンはそう言って先に一橋を握手をするように求める。一橋が手を差し出し、お互いを見ながらしっかりと握手をする。そうしてから次に、チェンがあらためて岳彦と握手をする。
「これで、同盟成立ですね。ですが、その前に……」
そう言ってチェンは岳彦の眼を除きこんだ。岳彦が不思議に思ってチェンの眼を見つめ返す。
「ちょっと、記憶をいじらせてもらいますネ」
チェンは『overwrite』を発動する。いきなりの信じられない申し出に、岳彦の脳は反射的にチェンの申し出を拒否しようとする。だが、一橋が先ほど眼を合わせた時に『ban』を発動していたことで、拒否の意思は禁じられた。それによってチェンは『overwrite』の発動条件を満たす。
時間が止まったかと錯覚するほどの深いしじまが光のごとく通り過ぎていった。二人の仕上げは終わっていた。
「それじゃあ、今回の件に関しては以上ということで」
いつもより一層目を細めた満面の笑顔でチェンが声をかける。その言葉で岳彦はすぐ我に帰った。
「ああ、どうもありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
岳彦はそう言って席を立ち、事務所を後にした。
出入り口の扉が閉まり気配が遠ざかっていったのを確認してチェンがため息をつく。
「ふう、やっぱりあんまりいい気はしないネ。この能力ハ」
「今回はどういう風に記憶を書き換えたんだ?」
「まず秋帆ちゃんから僕らの話を聞いたことや今日ここで話したことは当然忘れてもらったヨ。そして、過去に四家医院で治療を受けた患者が死亡し、その原因が四家医院の治療ミスに遡るとして提訴する考えでいるというストーリーに書き換えたネ。それから訴訟の代理人として僕を立てたけど、今日遺族から死亡した病院の医療ミスが発覚したから四家医院への提訴はしないことになったと連絡があったので、この件についてはお騒がせしたけどこれでお終イ。そんなとコ」
「それ、娘と会話になったら辻褄が合わなくならねえか?」
「母親を失ってまだ日が浅い状態の娘に、そういう自分の仕事の問題を話して余計な心配をさせる親ではないでショ。単純な相手側の勘違いだったということが分かっているから、少し時間が経てば忘れてくれるだろうしネ」
「なるほど」
そう説明すると、岳彦が手をつけなかったアイスコーヒーをチェンが飲む。
「うん、おいしイ」
「冷蔵庫に会ったパックから注いだだけだぞ」
「いいや、イッチャンに注いでもらったから格別ヨ。なんていうノ。思いが詰まった味、とでも言えばいいかナ」
「ああ、そうか。最初からお前が飲むと分かっていれば呪いを込めて注げたのにな」
悪態をついでに、帰るぞ、と言おうとした瞬間に、気配が再び近づいてくるを感じた。
「おい、また来るぞ」
「誰だろ?」
「足音のリズムや音量がさっきと同じだ。戻ってきたんだな。どういうことだ。『overwrite』で余計な記憶を入れちまったんじゃねえだろうな」
「いや、それはないヨ。確かに僕は言ったとおりの上書きをしタ」
気配が近づいてくる。二人の緊張感が高鳴る。
だが、ガラス戸を開いたのは、申し訳なさそうな顔をした岳彦だった。
「すいません、こちらに財布など忘れたりはしていないでしょうか。階段を下りている途中でポケットにないことに気づいたのですが、どこに置いたかわからなくなってしまって。もしかしたらこちらに忘れたものかと思ったのですが」
それを聞いて二人は安心した。『overwrite』を使う際には念入りに記憶を書き換えるので、時々消そうとしたこと以外の記憶も一緒に消してしまうことがある。今回の場合、不運にも自分で置いた財布の場所を忘れさせてしまったのだろう。少し申し訳ないなと思いながらも、自分たちの魔眼が失敗したわけではないことに胸を撫で下ろした。
「ここでは椅子に座っただけなので、あるとしたらこのあたりなのですが」
と岳彦が言うので、一橋は先ほど岳彦が座っていた椅子のあたりを覗き込む。
「なさそうですね」
「申し訳ないのですが、椅子の下も確認していただけますか?」
確かに、事務所で使っているソファの下には小さな物なら入り込んでしまうくらいのスペースはある。万が一と思い、一橋はソファを持ち上げ、チェンが本当にないかを確認するために先ほどまでソファがあった場所を覗き込む。
その瞬間だった。
「―ッ!!!」
バチリという音とともに、持ち上げられていたソファが床に落ちる。一橋は声を発する間もなく倒れこんだ。
チェンが慌てて視線を上げると、火花を散らす黒い物体が襲ってくるのが目に入った。咄嗟に体をかわす。
そのままの勢いで後ずさりそし、岳彦を見る。スタンガン手に持ってこちらをにらんでいる岳彦の姿があった。
「どうしテ?」
状況が飲み込めずにチェンが叫ぶ。岳彦はにやりと笑った。
「約束はしたがね。今日初めて会った相手だ。完全に信用しきれたわけじゃない。君たちには申し訳ないが、娘の秘密のためだ。消えてもらおう」
その回答は、自ずともう一つの事実をチェンにつきつける。
「効いていなイ?」
確かに魔眼の能力は相手の意思に作用するものなので、自分では相手に効いたかどうかの感覚はない。だが、確実に自分は『overwrite』を使ったはずだ。チェンは納得がいかない。一橋が魔眼を発動させなかったとも思えない。
「眼の情報を知る人間は君たちだけではないということだよ」
そう言って岳彦が襲いかかる。スタンガンは体の大きな一橋を一撃で行動不能にしてしまうほどのものだ。市販のものではない。食らえばひとたまりもない。
チェンは後ろ手に掴んだものを手あたり次第岳彦に投げつけながら距離を取る。幸いにして事務所内は本で溢れているので、投げるものが不足することはない。ダメージは与えられないが、飛び道具に岳彦が一瞬怯む。
チェンはそのまま事務所の奥にある自分の部屋へと逃げ込んだ。慎重になっているのだろう、岳彦はすぐには追ってこない。
武器が必要だった。体格などから一橋を優先して行動不能にした岳彦の選択は正しい。チェンは戦闘については素人。何か対抗できるものがなければ、武器を持った人間を相手には闘えない。
包丁のある給湯室に逃げるべきだったかと思うが、今更そんなことは言っていられない。かろうじて手に取ったのは、机の上にあったボールペン。武器としては心もとない。
岳彦が部屋に入ってきた。チェンは様々な策を考える。頭の中を超高速働かせ、あらゆる可能性を探す。ダメでもともとと思いながらも、魔眼を発動できないかと思い眼を睨みつけてみる。岳彦と眼が合ったのは一瞬だった。岳彦は万が一を警戒し、すぐにチェンを直視しないようにする。
一瞬だけ合った岳彦の眼が、少しだけ秋帆の眼と重なる。そのことで、秋帆と出会った時のことを思い出した。そういえばあの時、秋帆はカラーコンタクトをしていないかと聞いてきた。あれは確か、秋帆が『console』を使う前のことだ。
「コンタクトレンズ!」
チェンは解に辿り着いた。
「ご名答」
岳彦は春奈から聞いていたのだ。眼鏡越しでは眼の効果が弱まり、それは色付きのものであればより一層弱くなることを。そして事務所へ来るにあたって眼の情報を知る二人がそのまま魔眼の保持者である可能性が高いと思い、特殊なコンタクトレンズをはめてきた。
「ここまでうまくいくとは思わなかったよ。最初に訪れた時は、君たちは警戒していて僕から目を話すことはなかった。だが、僕と目を合わせて記憶をいじらせてくれと言った後、君たちは明らかに警戒心を緩めた。最初は浅かった呼吸が深くなっていったので分かりやすかったよ。後は少し作戦を練ってから再訪し、隙をつくだけ」
じりじりと確実に岳彦はチェンに迫ってくる。
追い詰められたチェンは意を決し、岳彦へと向かっていく。胴体部分は的が大きいが、手にしたボールペンで即座に相手を行動不能に陥らせる急所をつくのは難しい。懐へと潜る動きを見せながらも、右手に握ったボールペンを岳彦の喉へとめがけて突き刺す。
しかし、岳彦は両手でしっかりとボールペンの攻撃を受け止める。読まれていた。
それでもまだチェンにとってそれは想定の範囲内だった。即座に目標を切り替える。両手で自身の右腕を抑えた分、今度こそ腹部ががら空きになる。次の目標は腹部でもっとも相手を悶絶させられる可能性が高いみぞおち。
チェンの左アッパーが岳彦のみぞおちへと突き刺さる。
「ぐあっ!」
だが、悲鳴を上げたのは岳彦ではなくチェンの左手首だった。人間の腹ではなく、何か固いものを叩いた感触。
「ボディアーマー……カ」
しかし、岳彦も少しよろめいた。
「もう少し厚手のものにしてもよかったかな。シャツの下でも不自然でないようにと思ったが……」
そう言ってから少し呼吸を整え、いよいよ武器のなくなったチェンに電撃を与えようとする。チェンは再度自分にできることを探すが、何も思い浮かばない。
さすがに万策尽きたかと思った瞬間、岳彦の背後に人影が見えた。
「そこまで、だ」
部屋の入り口から小さく声がした。岳彦がその声に驚いて攻撃を中止し振り返る。
「馬鹿な!立てるはずが!」
立っていたのは一橋だった。明らかにダメージを受けているが、しっかりと戦闘の構えをとる。左手を開いて前に突き出し、右手は握って喉元に置くオリジナルの構え。
「思い通りにとまではいかねえがな。スタンガンを持った医者をとっちめる程度ならわけねえ」
そこからは一橋には簡単な闘いだった。わざと相手の射程に入り、攻撃を誘発する。武器を持っている素人は必ずそれで攻撃をしてくる。スタンガンのみに注意を払いバックステップで交わすと、前に突き出した左手を使い、掌底で的確に岳彦の顎を打ち抜いた。
岳彦は糸の切れた人形のようにどさりと崩れ落ちる。
「お父……さん?」
秋帆の声が響いた。